2015年12月19日

贋オカマと他人の恋愛(その23)

「おー 七瀬! 聞いた?」
 周平の声は妙に浮かれて高かった。
「何が」
「結局付き合うことになっちゃってさ〜」
「その話は百ぺん聞いたからもう良いっ」
 俺は地の底にいる気分なのに、何でこいつの頭はお花畑なんだ。無性に腹が立つ。
「今どこにいる」
「新宿三丁目。借りる場所が決まってさ、どうやって改装するか二人で相談してるところ」
「少し話したいんだが、出て来られないか?」
「七瀬がこっちに来れば良い」
「克巳のことで相談があるんだ」
 周平は一瞬無言になり、大声を出した。
「まだ克くんと連絡取ってたの?」
「お前が見捨てたんだろ! それで俺は仕方なく、あいつの面倒を見る羽目に」
「君の世話好きは、呆れるほどだね」
 七瀬から電話で、ちょっと会って来ても良いかな、とくぐもった声が聞こえる。
「周平とナナさん、仲良過ぎっ」
 と怒るメグの声も。

 駅のそばのドトールに入ると、周平はカップを置いて手を振った。
「懐かしい名前を聞いて驚いたよ」
 屈託のない笑顔を見て、克巳は周平にとって完全に過去の人間なのだと思い知る。
「あいつ、病気になったんだ」
「エイズ?」
 全身が凍りつく。周平は何でもないように店のクッキーを口に入れた。
「お前……」
「七瀬は僕たちの恋愛を、どこまで知っているの?」
 見た目も中身も平凡の極みで、セックスもワンパターンで、それにもかかわらず克巳の人生をすっかり狂わせてしまった男の顔を、俺はまじまじと見た。
「僕に暴力を振るっていた話は聞いた?」
「え……?」
 周平は肩を揺らしてクスクス笑う。
「まあ、相手は克くんだからね。もし彼が筋肉ムキムキの大男だったら、僕は殺されていたと思うよ」
 俺はこれまで克巳から、何を聞かされていたんだ?
「大きなケガはしなかったけど、心は傷ついた。たぶん一生消えない」
 何も言えなかった。相談するための土台をいきなり崩されたのだ。
「克くんはゲイじゃなくて、性同一性障害だったんだと思う。でもそれをどう解決したら良いのか分からなかった。男でいるのも女になるのも苦しかった。それで僕に性別の決定を押し付けたんだ。『周平は男が好きで、周平はおれが好きなんだから、おれは男だ』というように」
「素直に女装すりゃ良かったのに」
「僕だってそう思ってた。僕は性別なんて関係なく、克くんそのものが好きだったんだ。正確に言うと、どこにもたどり着けない不安な魂を愛していた。一緒に解決策を見つけて、幸せにしてあげたかった。でも現実には、僕は彼の苦しみの原因だった。僕がいるから男でいなければいけないんだ。自分でそう決めちゃったんだ。僕はそんなこと望んでた訳じゃないのに!」
 周平がテーブルをこぶしでドンと叩き、周りの客数人が振り向いた。俺の派手な顔のせいで、別れ話をしているゲイカップルに見られそうだと、ふと可笑しくなった。
「ごめん。もう冷静に話せると思ったのに」
「いや、古傷に触れてしまって悪かった」
 何だかもう克巳のことを考えるのが嫌になっていた。あいつは色んな意味で嘘つきなのだ。隠していることがまだ沢山あるとしたら、無駄に疲れるだけだ。
「そう言えばお前、翻訳家になりたかったんだってな」
 周平の顔がトマト並みに真っ赤になって、ばっと下を向いた。
「酷いよ克くん! 七瀬にだけは知られたくなかったのに」
 何だこの過剰反応は。
「お前、英語得意だったじゃん。別に恥ずかしがるような夢でもないと思うぞ」
「違うよ、僕は、村上春樹になりたかったんだ」
 周平はハンカチを出して額の汗を拭いた。
「……アホだなー」
「小説家になろうと思ったけどうまく書けなくて、翻訳なら元になる文章があるからやれるんじゃないかと」
「やれば良いだろ。今からだって」
「翻訳家に必要なのは英語力より国語力だよ。僕にはそれが足りなかった」
「足りなければ身につければ良い」
「君らしい。でもみんながみんなやりたいことに向かって突っ走れるとは限らない」
「よく分からないな」
「だろうね。僕は七瀬のそういうところが好きだ」
 周平はにこっといつもの微笑みを浮かべた。
「村上春樹が昔ジャズバーを経営していたのは知ってる?」
「ああ」
 実を言うと、ある時うっかり「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでしまい、村上春樹の作品は小説、エッセイともにほぼ全て読破してしまっていた。しかしそれは一生秘密にする。
「小説家としての村上春樹、翻訳家としての村上春樹は無理でも、バーの経営者としての村上春樹にならなれるかもしれない」
「それが今準備してる店か」
「そう」
「アホもそこまでやれば壮大だな」
「研究費を稼ぐためにオカマになった奴に言われたくない」
「全くだ」
 時々臨時で講師を務めることはあるが、俺はまだ研究で食えてはいない。実際に店を出して商売を始める周平の方が、よほどしっかり夢をかなえている。
「村上春樹のことだけじゃなく、場所を作りたいという気持ちもずっとあったんだ。若い頃の僕や克くんみたいに悩んでいる子たちが、話し合える場所。自分の心を直接説明出来なくても、文学について話すうちに間接的に語れるかもしれない。自分の中の大事な何かについて」
「お前たちはそんなに悩んでいたのか」
「見た目よりは」
 いつもイチャイチャして笑い合って、二人だけ幸福の国に住んでいるように思っていた。
「伝統文化オタクのことは誰が救ってくれるんだろうな」
「伝統文化カフェでも開けば?」
「能フレンドでも作るか。能を一緒に見に行ってくれる男の恋人」
「趣味の合いそうなお客さんが来たら紹介しよう」
 克巳を能に誘ったら、断られるだろうか。いつもただ会って話すだけで、どこかへ遊びに行こうなどと考えたことがなかった。
「頭では、克巳なんて勝手に死ねば良いと思ってるんだ」
「とてもそうは見えない」
「だってそうだろう、暴力振るって浮気して、男とやりまくって病気になって」
「あれは浮気じゃない」
 周平の表情から、何も知らないくせに口を出してきて、と迷惑がっているのがありありと分かる。
「付き合っていた頃に話を戻すよ。克くんは最初、ヒステリーを起こして暴れていただけだった。大学を卒業した後、暴力に方向性が生まれた。確実に僕の体を傷つけようとし始めた。同棲しようという誘いを断ったのがきっかけだった」
「どうして断ったんだ?」
 あんなに仲が良かったのに。そう見えたのに。
「一緒に住むのは精神的に無理だと思ったから。僕は嘘をついていた。克くんがどんなわがままを言っても平気な顔をして、余裕のある振りをしていた。その実、克くんの態度に疲れ切っていた。いつもギリギリだった。七瀬がいなかったらもっと早くに別れていたかもしれない」
「何で俺が関係あるんだ」
 周平は曖昧に唇を歪めただけで、それには答えなかった。
「克くんは殴る蹴るより効果的な方法をすぐに思いついた。どうするか分かる?」
 周平は今までで一番意地の悪い笑い方をした。
「お前、怖いこと言うんだろ」
「本を破るんだよ。大切なものから順番に」
「ひっでーなぁぁ!」
 そんなことをされるなら殴られた方がマシだ。というより一冊目をやられる前にボコボコにしてやる。
「止めなかったのかよ」
「うん。ただただ悲しくて…… 村上春樹と江國香織は後で全部買い直した」
「大学の時に俺が借りた本もやられたか」
「『ホリー・ガーデン』だね。ハードカバーなんて真っ先だよ。まあ焚書にされてたらアパートごと燃えていただろうし、ラッキーだったのかも」
「何がラッキーだ」
 周平は思い出を話すのが楽しくなってきたようだ。山頂から地上を眺めるように優しく目を細める。
「克くんは本に嫉妬していたんだよ。遠い出来事になってみると可愛いね。僕はどうにか落ち着かせようと『本より克くんの方が好きだ』と言ったんだ。そうしたら克くんは自分を傷つけ始めた。彼の痛みは僕の痛みだ。知らない男に犯されることは僕への攻撃になる。誰に何をされても、あの子は僕のことだけ考えていたはずだよ。それを浮気と呼べるかな」
「すごい自信だな」
「自惚れているんじゃない。克くんはそういう人間なんだ。可哀想なくらい変われない。病気にまでなって、使者を立てて僕に知らせようとするんだから」
 周平はおそらく冷めてぬるくなっているであろうコーヒーをくいっと一気に飲んだ。
「使者って、俺か!」
「そうだよ。克くんに利用されてるの、気付いてないの?」
 俺は腕を組んで堂々と答えた。
「うむ。改めて思い返すと、利用されっぱなしだ」
「君は本当に人が好いんだねぇ……」
「お前にも利用されたしな」
「そう言えばそうだった」
 周平は大学の頃のように、ほがらかに笑った。
「エイズはもう死ぬ病気じゃないだろ? それなのにあのバカ、治療しないって言ってる」
「徹底してるね。僕はもう別の人を愛してしまったのに、克くんは愛も憎しみも衰えてないんだ」
「どうしたもんかな」
「僕には何も出来ないよ。とうに逃げ出した身だもの」
「逃げて当然だ。お前は正しい」
 それでもやはり、克巳には生きてもらいたかった。どれだけ酷い話を聞かされても、それも含めて克巳は克巳だった。
 
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贋オカマと他人の恋愛(その24)

 周平の店のオープニングパーティーの日に大学の用事が入ってしまい、行けないと伝えると、いつでも良いから開店前に来て欲しいと言う。仕事の予定がない早春の昼下がり、新宿三丁目に向かった。
「うわーっ 男のナナさんだっ」
「店でも行きと帰りは男だったろうが」
「まともに見たことなかったんで。は〜 男でも女でも俳優みたいなんですね」
 メグはジーパンの上に臙脂色のエプロンをかけ、薄く化粧している。角刈りだった初対面の時とも、派手に着飾って愛嬌を振りまいていた頃とも様子が違う。メグはもう、男であることも女であることも隠していなかった。
「食べてみてよ。『ねじまき鳥のスパゲティ』」
 周平は福々とした頬をいっそうふっくらさせて、俺の前に皿を置いた。フォークでソーセージを刺し、スパゲティをからめて口に入れる。トマトソースとバジルの味に、肉汁とスパイスの香りが重なる。
「どう?」
「俺はソーセージにはちょっとうるさいんだ」
「ソーセージにまでうるさいのか、君は」
「これは美味い! 昔、母親に連れていかれたイタリア料理屋の味に似てる。こんなの仕入れて高かっただろう」
 余計なお世話と知りながら、つい俺は、二人の商売を心配してしまう。
「全部あたしの手作りですよ〜 肉を刻むところから」
「ナツメグとセージを混ぜて腸に詰めていくんだ。家でもやっていたらしくて、すごく上手なんだよ」
「お前の家、日本料理屋じゃなかったか……?」
「市販のものは不味くて食べられないんです。それで仕方なく何もかも自分で作るようになりました」
「舌が肥えるのも考えものだな」
 村上春樹も飲んでいるという国産の紅茶に、ドーナツと蜂蜜パイ。ドーナツはシナモンが効いていて甘過ぎず、パイはサクサクして質が良い。どれも申し分なかった。
「ナナさんはあたしたちのキューピッドなんだから、いつ来ても無料にしようって言ったんですけど、周平がダメだって」
「タダだとかえって来にくくなる。仕事がある日は必ず夕飯を食べに寄るよ」
「わー 嬉しい! ナナさんだけスパゲティ増量しちゃう」
「俺と周平の仲を険悪にする気か」
「なるほど、その手があったか」
 周平はこちらに背を向けて洗い物をしている。
「引っ越しの時に、周平の荷物から着物が出てきてびっくりしましたよ。ナナさんに作ってもらったっていう大島紬」
 むせ返り、口からパイの破片が飛び出た。
「あんな高価なプレゼントをしておいて恋人じゃなかったとか、もうごまかすのはやめましょう! ナナさんと姉妹ならいっそ誇らしいです」
 俺が嫌だよ。周平とやったと思われたままでいるのは。しかし克巳の話を出すのも悪い気がするし、かと言ってこれ以上釈明するのも面倒だった。
「勝手にしろ」
「悔しいからあの大島、春物のコートに仕立て直しちゃおうかな。渋くて素敵な柄だったし」
「十年経てば似合うようになるだろう」
 メグは包丁を振り上げふくれて見せる。
「どうせ子どもっぽいですよ〜っ!」
 オカマバーで働いている時も手際が良いと思ったが、厨房の中のメグの動きはその比ではなかった。とにかく止まらない。さて次は、と逡巡する瞬間が全くないのだ。作り出すべきもののためにどういう順番で何をすれば良いのか、考える前に自然に体が動くのだろう。あまりにも無駄がなくなめらかで、調理をテーマにした即興の舞踊のようだ。
「綺麗だろう」
 周平は俺の隣に座って自慢げに言う。
「デカい魚なんぞさばいて、寿司でも握る気か」
「あれはスモークサーモンを作る準備をしているんだよ。オープニングパーティーで出すサンドイッチに入れるんだ」
「美味そうだな。行けなくて残念だ」
「開店後に来てくれたらいつでも食べられる」
 しばらくぼんやりとメグの舞を鑑賞した。どれだけ眺めても見飽きない美しさだった。周平の方を向くと、恍惚の表情を浮かべている。気持ちは分かるが働かなくて良いのか、店長。
「歌舞伎座に行った時の着物が見つかったらしいな」
「うん、懐かしかった」
「俺のだと勘違いしてるぞ」
 周平が首を傾げるので、俺はカバンからノートを取り出し、
 克巳のだろ
 と書いた。
「違う違う。僕のだよ」
 交換したんだろ
 周平は胸ポケットからボールペンを出し、俺の字の下に続けた。
 別れるような気がしていたから、隙を見て交換し直したんだ。僕は職人の息子だから、手織りの布を無駄にするのは忍びなかった。
 あの後、着たのかよ
 着てないけど。
 克巳はお前の着物だと信じて抱き締めて寝てるらしいぞ
 周平はちらりとこちらに視線を寄越し、すぐうつむいて文章を継いだ。
 克くんも気付いていると思うよ。だってサイズが全然違うもの。
「おっさん二人が顔くっつけて何をこちょこちょ書いてるんですかっ! 愛を語らいたければ堂々とやればいいでしょっ」
 メグはけっこう本気で怒っていた。
「いやいやいや……」
 周平は厨房に入っていって、メグの唇にキスした。相変わらず、照れもためらいもなく人前でそういうことが出来るんだなと感心する。
「今、愛しているのはメグだけだよ」
「メグ?」
 この呼び名を聞いたのはそれが初めてだった。
「新しい名前をつけて欲しいって言うから、最初『五反田くん』を提案したんだけど」
「野暮ったいから断って」
「シナモンとナツメグはどうかと言って」
「最終的に『メグ』に決まりました」
 五反田くんも、シナモンとナツメグも、村上春樹の作品に出てくる登場人物の名前だ。
「あたし、周平に出会うまで、男か女のどちらかにならなければいけないと思っていたんです」
「まあ、その方が、社会に受け入れられやすいからな」
「あたしは男でも女でもない『メグ』という生き物になるつもりです。周平がそれで良い、その方が良いって言ってくれたから」
 メグの表情は自信と希望に満ちていて、俺は不安になった。この光。周平に愛されていた頃の克巳の輝き。
 若者は俺の複雑な心境など想像もつかないらしく、
「ナナさんに負けたりしませんからね!」
 と、眉をつり上げ鼻膨らませ、お門違いの闘志を燃やしていた。

 俺はこれまで、克巳と会えば克巳の味方をし、周平と会えば周平の味方をしがちだった。話を聞くと一も二もなく同情してしまうのだ。しかしそもそも、あの二人はどれだけ分かり合えていたのだろう。
 別れないと思っていた克巳。
 別れる気がしていた周平。
 浮気されないと信じ切っている周平。
 浮気した克巳。
 あれだけ長期間ベタベタ一緒にいて、何故、相手を理解しないのか。どうして理解してもいないのに、愛し合うのか。
 分からないことだらけだが、一つはっきりしていることがある。俺は「犬も食わないもの」を食い尽くしてしまったのだ。何も出来ないくせに他人事に首を突っ込み振り回されて、間抜けにも程がある。
 十八歳の俺が今の俺を見たら、呆れ返るな。何、余分なことに時間を使ってんだ。お前のやるべきことは他にあるだろ! そう言うがな、そもそもお前が高校まで友達も作らず寂しい暮らしをしてたのがいけねぇんじゃねーか! ……いや、十八の俺とケンカしても仕方ない。不毛だ。
 俺を必要とする他人が一人もいなくても、俺には友達が必要なんだ。立ち止まり、携帯のボタンを押し始める。
「七瀬くん?」
 新宿を行き交う人々と車が立てる轟音に、克巳の甲高い、舌足らずな声が重なる。
「こっちの声は聞こえるか?」
「外にいるんだね。聞こえてるよ」
「俺は、お前に、生きて欲しい」
 数秒の間があった後、克巳は爆発するように笑った。
「おれ、一生に一度のモテ期かも〜」
「は?」
「この間、パンチパーマの男に追いかけられちゃってさ」
「ヤクザか」
「ううん、練馬区役所の職員」
 いったいどういう状況なんだ。
「HIVの勉強会の帰りで」
「お前、治す気ないとか言って、勉強会には行くのかよ!」
「何事も仕組みを理解しないと落ち着かないの! おれ理系でも医学の知識はないからさ、免疫についての専門書買って読んじゃった。生物学に出てくる化学式は分子が大きいから面倒だよね。面白かったけど」
「……パンチパーマはどうなったんだ?」
「あーそうそう、その人ね、やっぱり患者なんだけど、おれと違って毎回予防にすっごく気をつけていたんだって。どうして感染しちゃったんだろ。超流動でも起きたのかな?」
「何だその超流動ってのは」
「高校で習わなかった? 超電導みたいなものだよ」
「横道にそれてばかりいないで本題を話せ! 切るぞ」
「いいじゃん、好きに話させてよ! その人……アキラっていうんだ……めちゃめちゃ遊び人でさ、四十七都道府県全ての男とやるのが人生の目標で」
「そりゃ感染するだろ! アホか!」
「アホだよね〜 でまあ、そういう人だから、病気になったのがものすごいショックだったみたい。勉強会でおれを見かけて、自分と正反対の余裕しゃくしゃくな態度に心打たれて、わざわざ追っかけて声かけて来たってわけ」
「ようやく元の話に戻ったな」
「その後も何回か会って、それでね」
 克巳はふふふ、と南天の実を転がすような愛らしい声で笑った。
「一緒に生きて欲しい、って懇願されたんだ」
「お前、嬉しそうにしてるけどな、相手はパンチパーマの遊び人なんだろ?」
「あ、パーマは天然でね、顔をうずめるとフカフカして気持ち良いんだよ」
 こりゃダメだ。台風が発生したんだ。俺を巻き込み、俺には決して止められない、甘い台風。
「相手はどれくらい本気なんだ」
「知らないよ、そんなの」
「東京都代表にさせられてるんじゃないだろうな」
「東京はとっくに埋まってるよ。岐阜県出身とかだったら良かったのに」
「浮気されて辛い思いをするんじゃないか」
「病気のこともあるし、浮気はしないと思うよ」
「信用ならないな。今度そのパンチパーマに会わせろ。三者面談だ」
「もーっ やきもち焼かないでよ」
「焼いてねーよ! 心配してるんだろ!」
「大丈夫、心の一番大事な場所は、いつだって七瀬くんのために取って置いてあるから」
 克巳はクスクス笑って俺をからかい続ける。
「死ぬ日が近いと思うと人生は薔薇色になるね」
「エイズは治療すれば死なない。パンチパーマにも頼まれたんだろうが」
「医学が発達して、どんな病気も完治するようになったら、物語の作者は登場人物をどうやって殺すんだろ?」
「心中なら病気と関係ないな」
「自殺と言わないところが七瀬くんらしい。ロマンチック〜」
 克巳は「幸せいっぱい」と言わんばかりに浮かれている。
「おれが死ぬの、楽しみだね。七瀬くん、きっと泣くよ。じゃあ、アキラに予定聞いとくから。またね〜」
「なあ、ちゃんと治せよ!」
 通話はすでに切れていた。

 何だ。何なんだよ。耳を傾けてももらえなかった。俺の意見や思いは、そんなにも論ずるに足りないか。
 世界を変える気でいた十八の俺に教えてやりたい。お前は三十になっても、友達一人の気持ちさえ変えられないんだ。そして自分ばかりが世界に合わせて変質してゆく。
 もしかしたら一生、本当の意味では他人と関わることなんて出来ないのかもしれない。こちらが求めても、求めなくても、みな俺の前を素通りしてしまう。下を向いて本を読み続けた高校時代と同じように。
 まあ良い。勝手にしろ。俺に迷惑をかけるな。俺にはやるべきことがわんさとあるのだから。
 カバンの中で携帯電話が震えているのに気が付く。克巳かと思って画面を確認すると、社長からだった。
「今すぐ来て!」
「どうしたんですか」
「外国人の団体客が予約なしで来ちゃって、断りたかったんだけど、言葉が通じないもんだから曖昧な笑顔を浮かべているうちに、全員店に入っちゃったのよう」
「何、絵に描いたような日本人的対応をしてるんですか」
「あんた大学院まで出てるんだから英語くらい出来るでしょ! 助けに来て!」
 冷や汗が出る。英語はいまだに苦手なのだ。
「やっだぁ〜 外国人のはおっきいから口が痛くなっちゃ〜う」
 俺の突然の大声に、びくりとして振り向いたサラリーマンがいたので、ウィンクと投げキッスをしてやった。
「そんな仕事させたことないでしょ! うちは安全・安心がモットーの観光用のオカマバーなんだからねっ」
「俺が行っても、あんまり役に立たないですよ?」
「ゴチャゴチャ言ってないで来て! あんたのいかにもオカマらしいパーッと華やかな姿を見たら、中国人のおばちゃんたちもきっと満足するから」
「何だ、中国人ですか」
 それなら漢文で多少は意思疎通が可能かもしれない。
「今どこにいるの」
「新宿三丁目です」
「すぐ来られるじゃない。休みの日まで職場の近くに来ちゃうなんて寂しい女ね」
「社長に言われたくないですよ。友達の店に行っただけです、ほら、板前が嫁いだ」
「美味しかったでしょう」
「食ったことないくらいに」
「だと思った。生まれながらの料理人って感じだったもの。高い食材買い過ぎて店を潰さないと良いけど。それが嫌で、あたしはあの子をフロアに回したの。ああもう、今日はあの子も呼び出しちゃいたい!」
「辞めた人間まで集めないでください。すぐ行きますから」
「よっ 立女形! 日本一!」
 何が立女形だ。今日は母親と一緒に天ぷらを作る予定だったのに。材料買っちゃったわよ、と残念がる様子を思い浮かべると胸が痛んだ。
 仕方ない。俺を必要としているのは母親だけだが、オカマとしての俺を必要としている人間は大勢いるのだ。そして他人に必要とされない限り、金は稼げない。
 世知辛いな。俺は母親に詫びるメールを送り、店に向かって歩き始めた。

(終)
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:39| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

2014年11月16日

福岡ポエイチと柳川旅行記

 主婦の一人旅は大変だ。自分がいない間、家族が困らないように家の中を整えておかなければいけない。私には子どもがおらずダンナ(Dちゃん)のことだけ考えれば良いのだけど、それでも前日は大忙しだった。
 とりあえず二日分の食事を用意しようと、メニューをシュークルットに決めた。これは発酵したキャベツを肉と一緒に煮込む料理で、パンと茹で野菜とサラダを添えればバランスも良いし、量も十分だ。

 ところが。
「口内炎が出来ちゃった」
 とDちゃん。
「エーッ! シュークルットもサラダも酸っぱくてしみるじゃん。メニュー変更」

 Dちゃんはそのままで良いと言ってくれたが、留守番の上に痛い思いまでさせたら可哀想だ。しかしシュークルット用の塩漬け肉は用意してしまった。さてどうしよう。酸っぱくない、辛くない、刺激の少ない、二日食べても飽きない料理。ウンウンうなった末、

☆パン
☆ポトフ
☆シチュー
☆塩もみきゅうり

 に決定。スープ二つかよ! と自分でも突っ込んだ。ちなみにきゅうりは口をさっぱりさせるために用意した。ポトフもシチューもちょっとぼんやりした味だからね。口内炎しばりがあるから仕方ないのだけど。

 食卓に並べてみたら、
「スープストックっぽい!」
 ポトフもシチューも塩漬け肉から味がしみ出て美味い。意外と悪くない組み合わせだった。
 料理の他に、荷造りしたり掃除をしたり洗濯物をたたんだり、結局寝たのは午前二時。

2014年6月7日(土)
 起床は午前五時。三時間しか寝ていない。食器を洗ってゴミ捨てして、うわーっ 乗る予定だった急行の出発時間過ぎてる! 顔も洗わず家を飛び出る。皿を洗っても自分の顔は洗えない。それが主婦(時間のやりくりが上手い主婦はそんなことになりません)

 数日前に梅雨入りし、外はじゃんじゃかの雨だ。今回の福岡行きの目的である福岡ポエイチの主催者は「夏野雨」さんだしね。この雨も予定の内なのだろう。
 電車は順調に進み(よく止まる線なので毎回ドキドキ)どうにか飛行機に間に合いそうな時刻に浜松町に着いてホッ。大荷物で東京モノレールに乗ると文学フリマ気分だ。今日は流通センターではなく、もっと先まで。

 私はモノレールの車窓から見える風景が好きだ。団地。倉庫。橋。どれも巨大な人工物ばかりで、自分が模型の中の小さな人形になったような気分になる。自分の小ささを感じた時、絶望したり悲しくなったりする人もいるかもしれない。私は何故か、安心する。こんなに小さくて取るに足りないのだから、好きなだけ自由に生きちゃおう、という気持ちになる。

 飛行機の出発時刻の三十分前に羽田に着いたので「よゆ〜」と思ったらそうでもなかった。手荷物カウンターや保安検査場が混んでいて、トイレにも行けず、弁当も買えず、すぐに機内へ。私の席は窓際で、手前の二人はもう座っている。

「すみません!」
 顔を上げた通路側の男性と目が合った。あれ? この人は文学フリマによく参加している牟礼鯨さんでは? 間違いだと恥ずかしいので尋ねられない。すみません、すみません、と謝りながら二人に立ってもらって自分の席に入った。

 雨の中離陸すると、窓に付いた雨粒がほろほろ同じ方向に流れて平行線を描く。暗い視界などものともせず、空へ。文明の勝利。霧の間から海が見える。大型船から伸びる白い波の筋。
「当機は梅雨前線に突入します」
 なんてアナウンスはなかったけど、やはり揺れると言われた。窓の外は真っ白で飛行機の翼しか見えない。しかし高度が上がると雲を抜け、青空が。

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 下はずっと雲海、と思いきや時々雲が切れて海が見えたりする。こちらが下を見られるということは、向こうにいる人も空が見えるんだ。六月の青空。

 途中「お飲み物は」と乗務員さんが回ってきたのでシークァーサージュースを頼んだ。隣の席の人がショスタコーヴィッチの楽譜を読んでいるのが気になる。
「良いですよね! ショスタコーヴィッチ」
 と話しかけたいのを我慢。ショスタコーヴィッチはロシアの作曲家で、私も演奏したことがある。

 福岡へは定刻通りに到着。それほど揺れなかった。降下する飛行機から見た福岡は東京そっくり。マンションや団地がいっぱい。空港が市街地に近いため高層ビルが無いと聞いていたけど、十階建てのマンションくらいなら平気なのね。
 空港のビルには「FUKUOKA」の表示。福岡空港は「福岡めんたいこ空港」とかに変えないのだろうか。

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 飛行機から降りた後、荷物が出て来るまで時間があるだろうと思い、トイレで歯みがき・洗顔をした(家でやって来い)トイレから出ると、ガランとした広い空間に係員が一人立っている。他の客はいない。係員はこちらを見て近付いて来た。手には私の荷物。ぎゃーっ 待たせてごめんなさい。

 福岡ポエイチの会場である「リノベーションミュージアム冷泉荘」はちょっと奥まった分かりにくい場所にある。福岡市地下鉄の中洲川端駅で降り、昭和の雰囲気を残す商店街を抜けて…… チラシの地図に添えられた説明が丁寧だったので迷わずたどり着くことが出来た。

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↑この白い建物が冷泉荘
 
 途中、ラーメン屋さんの裏口だったろうか、魚醤のような濃い香りがした。それは私が暮らす埼玉や東京では嗅ぐことのない匂いだったから、遠い、知らない街に来たのだなぁと、ようやく実感した。

 会場に入ったら、さっきの飛行機で隣の隣だった人が。やっぱり牟礼鯨さんだった。彼とは文学フリマで一回だけ話したことがあり、向こうも、
「あのバンダナ(=私)、絶対見たことある気がする」
 と思っていたらしい。何故私がバンダナかというと、いつも派手な柄のを頭に巻いているから。
「あの一列だけ妙に濃かったね……」
 と言い合う。間にいたのはショスタコーヴィッチ男だしな。

 牟礼鯨さんはブログなどネット上の文章だけ見ると非常にキツい人のような印象を受けるが、実際に会うとひょうきんで、優しい雰囲気の人だ。ただ、彼の本を買うと、腕を高く上げコウモリのような格好をして、
「それでは、眠れない夜を」
 と言われる。その瞬間だけ「ああ、あの文章を書いた人だ」と感じた。

 説明が後になってしまったが、福岡ポエイチは「文学系同人誌の展示即売会および交流会」である(パンフレットからそのまま引用)実行委員会のみなさんが詩人なので詩がメインだが、私のような小説書きも出展出来る。短歌のサークルも多かった。

 ちなみに前出の文学フリマも文学系即売会。年二回、東京の流通センターで開催されている。去年から「文学フリマ大阪」も始まった。
 福岡ポエイチで私の隣に配置されたのがこの文学フリマ大阪を主催する大坂文庫さんで、初対面なのにいっぱい話しかけてしまった。

「即売会に食べ物のお店が出てると嬉しいよねー」
「大阪の会場はそんなに広くないから難しいですね……」
「いや、一般的な感想を言っただけで、要望って訳じゃないから!」

 どうしてこんな話をしたかというと、福岡ポエイチにはパン屋さんが出店しているのだ(「ぱん屋のぺったん」さん)
 朝から何も食べていなかった私はこのパンに(カロリー的にも精神的にも)ずいぶん助けられた。かえるの形をしたチーズとレーズンの入ったパンが特に美味で、二回目に行った時には売り切れていた。

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 隣の隣は自由律俳句の雲庵さん。
「短歌よりクール。定型よりロック。それが自由律俳句!」
 となかなかイカした宣伝文句を来る人来る人に向かって叫んでいる。けれども新刊を落としたらしく、そのことを平謝りに謝っていた。雲庵さんとは檀一雄の話などでも盛り上がり、大変楽しかった。

 今回私は全ての本を無料にし、
「現在、作者(=売り子)はフラフラと出歩いています。
 冊子はご自由にお持ちください。」
 という紙を立ててあちこち買い物に行った。戻ってくるとお客さんが待っていて、
「あっ 本人帰ってきた! このやり方、すごい新しいですね」
 と褒められた(呆れられた?)

 本を無料にすると大切に読んでもらえるかが心配なところ。でも沢山の人の手に渡っていったし、おつりを用意しなくても良いし、買い物にも行きやすいし、便利だった。きっと読んでくれるはずだと参加者さんを信じて、またやりたい。

 名前のことを考えるのが好き、というお客さんと小説の登場人物の名付けについて話したのも面白かった。小説を書くと、主人公から端役まで名前が必要になる(名前を付けずに進める方法もあるが、区別しにくくなり難易度が上がる)
 普通の人が名付けをするのは子どもが生まれた時くらいだろうから、語り合えるほど名付けの経験を積めるのは、小説書きだけの特権なのかもしれない。

 小説の中でしか許されないような、変わった名前も付けることが出来る。
「『鶯(うぐいす)』と『小鷺(こさぎ)』という名前の親子を出したことがあって」
 と話したらお客さんのツボだったらしく、私の本を全品もらっていってくれた。お金にならなくても嬉しいものだ。
(ちなみに鶯と小鷺が出て来るのは「鳥のいる場所」という中編小説。柳屋文芸堂のホームページで読むことが出来ます)

 私はいつも言葉を探している。私の心を動かす言葉。私を動かした言葉をたっぷり集めて材料にしないと、人の心を動かす文章は書けないと思うから。

 同人誌即売会に参加すると、私は詩のサークルを中心に回る。同じ「言葉」を使っていても、小説の中では「物語を語るための言葉」、詩の中では「言葉のための言葉」になるように感じる。言葉そのものの力が強い。
 福岡ポエイチは規模が小さいが(二日間開催で初日の今日の参加サークルは二十六)詩の本が多いので充実感がある。

 主催の夏野さんは一つ一つのサークルにあいさつに来てくれるし(感動!)お客さんもみな気軽に話しかけてくれる。会場が時折ぎゅむぎゅむするほどの賑わい。

 パフォーマンスも行われた。今日のゲストは歌人の黒瀬珂瀾さん。池袋が舞台の作品でびっくり。巣鴨プリズンとサンシャインの話。今朝通って来たよ、池袋。九州でそんな地元について聞くことになるとは。

 高森純一郎さんと歴史の話をしたのも興味深かった(と言っても八割方、私がひたすら「歴史が苦手で」と嘆いていたのだが……)高森さんの口からヒットラーとスターリンによって虐殺された人数がパッと出て来て、学者ってスゲー! と思った。

 文武蘭(もんぶらん)というサークルでは山口県長門市の観光パンフレットをもらった。何でも、地元密着型の文芸活動を行っているらしい。海が美しく、麻羅観音という怪しい名所もあり、行ってみたくなった。長門市は金子みすゞの故郷でもある。

 書肆神保堂さんではおみくじを引いた。恐ろしいことに「凶」で、
「願いが己を苦しめる」
 なんて書いてある。うーむ。けっこう当たっている。

 今回買ったものの中で最も面白かったのは価格未定さんの「高橋とエロ本」という短歌の本。

 上流にエロ本流す人がいる 下流に拾う高橋がいる

 このように(おそらく童貞の)高橋とエロ本の関係がつづられてゆく。

 エロ本を隠す岩陰 巷ではここは「高橋塚」と呼ばれる

 短歌のすぐ横に、岩のイラストが添えられている。その数ページ後、

 「エロ本を隠す岩場」というよりは「岩場を隠すエロ本」となる

 イラストは、エロ本でいっぱいになった先ほどの岩……
「高橋ぃ〜!」
 と叫びながらゲラゲラ笑って最後のページまでたどり着くと、読者は驚愕の事実を知ることになる。この作者の価格未定さんは女性で、イラストを描いているのはその旦那さまなのだ!
 何か、新しい愛の形を見せつけられた気がする。

 途中、お茶を買うために外へ出たら、浴衣地で仕立てたハッピのような、独特の着物を着たおじさんが大勢歩いていて「?」となった。お風呂の帰り……?

 そんなこんなで午後五時に福岡ポエイチ終了。さあこれから打ち上げー!

 スタッフが作業を終えるのを待っている間、価格未定さんと短歌についておしゃべり。大阪在住の歌人であるじゃこさんの話をしたら、知っていると言う。

「じゃこさんの短歌も忘れられないけど、『高橋とエロ本』も最高でした」
「じゃこさんと並べて語られるのは、何だか申し訳ない」
「いやいや、じゃこさんと価格未定さんは全く違う方向に突っ走ってて、どちらも素晴らしいですから!」

 じゃこさんの歌は、たとえばこんな。

 もうこの際男やったらあんたでもあんたんとこのポチでもええわ

 打ち上げの会場は「やぶれ居酒屋まさかど本店」
 私は渡辺玄英さんの隣だった。他の人の話によると、偉い先生らしい。何故そんな席に、と恐縮したが、どこかで聞いたことのある名前だと気付いた。

「もしかして、前にポエケット(東京の詩専門即売会)のゲストで出演されました?」
「ええ」
「いつ頃でしょう」
「震災のあった年ですね」
「あーっ!」

 私は玄英さんがその時にした発言をはっきり覚えていたので、そのまま伝えた。
「そうそう。あの時期は何を言うのも難しくてね……」
 とにっこり。

 テーブルを挟んで前の女性は初対面で、品の良い美人だ。名前を尋ねると、
「吉田群青です」
「えーっ! 本持ってます!」

 言葉の力でつながってゆく人と人。即売会に参加し続けるだけで(たとえ本が売れなくても)自然に輪が広がっていくんだ、と実感した。
 玄英さんも群青さんも気さくで感じの良い方で、お話出来て嬉しかった。

 近くに座った九州の方々に地元の話を聞く。
「福岡では『好きです』を『好いとる』って言うんですよね?」
 と尋ねると、
「私は大分だから『好いちょん』」
「『好いちょん』! めちゃくちゃ可愛いですね〜!」

 今でも大分の女子高生はバレンタインデーに体育館の裏でうつむいたまま、
「好いちょん……」
 とか言ってるのだろうか。キャーッ!

 長崎の話になり、
「長崎ちゃんぽんって、硬い麺の上に野菜の入ったあんがかけてあるやつですよね?」
 と言ったら、
「それは皿うどんです! 確かにどっちも長崎の麺類ですけど……」
「ごめん。完全に混ざってる」

 逆に言われたのは、
「関東のおでんには『ちくわぶ』が入っているよね。こっちには無いから旅行した時に食べた」
 おでん汁の染みたちくわぶの角の美味しさを説明してみる。まあ、特別自慢するほどの食品でもないんだが。関東でも地味な存在。

 おしゃべりしながら食べたのは福岡名物「もつ鍋」

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↑加熱前
↓加熱後
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 スープがあっさり味で、でもにんにくが入っている。関東のもつ料理は濃いめの味付けが多いので、珍しい〜 九州っぽい〜 と感激。最後にちゃんぽん用の麺を投入。ラーメンのようでラーメンでない、不思議な麺。

 「好いちょん」という素敵な言葉を教えてくれたのは、詩人の咲夜三恵さん。別れ際、名刺代わりに新刊の小説を渡したら「ねちょ〜ん」というラブリーな猫写真本をいただいた。

 打ち上げの幹事はポエイチ実行委員のとうどうせいらさん。いつもささやくような可憐な声で話すので、みんなで耳を澄ました。打ち上げ後このとうどうさんと、やはり実行委員の平地さんに、ホテルまで送ってもらった。本当にお世話になった。

 平地さんはこのホテルへの道で「山笠(博多祇園山笠)」というお祭りについて教えてくれた。
「この季節になると『山のぼせ』のおじさんたちがハッピ着て街を歩くようになるんですよ」
「冷泉荘の周りでも見かけた! 何だろうと思ってたの」

 この「山笠」というのは山車(だし)のことで、「流(ながれ)」という自治組織ごとに一台用意し、博多の街でそれを引いてタイムを競うという。
「うちの近所の祭りにも山車は出るけど、ただ引くだけで競わないよ!」

 二週間の祭りの間(七月初旬)参加する男たちは山笠のことしか考えられなくなり、家庭生活や仕事は完全にお留守になる。そういう人たちのことを「山のぼせ」と呼ぶらしい。
 小説を書いているさなかの私みたい……

 博多の夜の名物である屋台には、そんなおじさんたちがそろいのハッピを着て並び、仲良さそうにお酒を飲んでいる。中洲川端駅が最寄りの冷泉荘の近くでは「中洲」という文字をデザイン風にした柄のハッピを着ていた。そういうことだったのか。

 予約しておいたホテルエクレールの前でとうどうさん、平地さんとお別れし(ありがとうございました!)チェックインして部屋へ。

 いつもホテルの備え付けの洗剤を使うと肌が荒れて痛くなるので、今回は手にも体にも使える液体石けんを持ってきた。やはり大正解。手洗いもシャワーも気持ち良く済ませ、Dちゃんにおやすみのメッセージを送って十時ちょい過ぎに就寝。楽しかったけど疲れた〜 ねむー
 すやすや……

6月8日(日)
 牟礼鯨さんの呪いが効いたのか少し眠りが浅かったが、眠れないというほどではなかった。六時に携帯のアラームで起床。布団をはいでしまっていた。足が冷たい。ヨガをして土踏まずをもむ。
 荷物を整えテレビのニュースを見ると、東日本は雨雲に覆われているが西日本は何ともない。三年前に他界した伯母(小)が日本の半分の大きさまで巨大化し、私を雨から守っている。伯母(小)はもう全然小さくなんかないのだ。

 朝食は七時からなので一階へ。和食も洋食もアイリッシュパブで出るので驚く。

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↑場所と合ってない
   
 納豆のたれが透明だった。九州の納豆はどれもこうなのかな? めんたいこが嬉しい。ご飯が進んでおかわりしちゃった。青汁は思ったよりあっさりしていた。

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 ホテルの朝食にしては珍しく、ここはセルフサービスではない。おかわりも店員さんが持ってきてくれる。落ち着いて食べられて良かった。
 荷物を取りに戻ってチェックアウト。西鉄福岡(天神)駅まで歩いたら想像したより遠く、ギリギリになってしまった。

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↑博多大橋からの眺め

 どうにか計画通り八時半発の天神大牟田線特急・大牟田行きに乗り込む。間に合って良かった。
 西鉄柳川駅までは四十八分。檀一雄の本やガイドブックを読んで柳川の行動予定を立てた。

 西鉄柳川駅に着き改札を出ると、すぐにお堀めぐりの案内の人が。その人にロッカーの場所を尋ねて荷物を預ける。悪徳業者だったらどうしよう、と不安になりつつ言われるままチケット購入。舟の乗り場まで行くというミニバスに、指示通り乗り込む。
 バスを降り、ぎっしり並ぶ舟を見てホッとした。

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↑笠を借りることも出来る

 ちゃんとした会社だったようだ。待たされることもなくそのまま舟へ。少し揺れたが怖いほどではなかった。
 舟に乗ったのは十人ほど。細い堀を小さな舟でゆったりめぐる。ここからの写真は舟から撮ったもの。

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↑ゆずすこ。おそらくゆず味のタバスコ。

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↑右の細い水路を進む

 船頭さんがバスガイドのように柳川の説明をしてくれる。標準語なのが残念。まあ分かりやすいけど。
「注意しとってください」
 というのが博多弁かなぁ。低い橋が多いので、くぐるたびにみんなで頭を下げるのが醍醐味の一つ。釣りをする男の子とおじいちゃんに出くわし、手を振ってもらったりするのも楽しい。
 堀沿いには何軒かドライブスルー的な店があり、ビールやおつまみを買う人もいた。

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↑ちょうど紫陽花の季節

 トンボやモンシロチョウがふわふわ飛んでいて、のんびりした雰囲気。あちこちで亀が甲羅を干している。時々ニワトリの声も聞こえた。

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↑びわだ!

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↑柳川がカッパの里だなんて聞いてない。

 空っぽの舟とすれ違い、おや、と思う。舟は一方通行なので、手で漕いで出発地に戻すようだ。

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 二艘一緒に。なかなか大変な仕事だ。

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 船頭さんは北原白秋の話ばかりしているが、私は檀一雄への憧れからこの街に来た。小説家の檀一雄は幼年期を柳川で過ごし、「美味放浪記」などのエッセイの中で柳川の風物を愛情込めて描いている。しかし白秋より知名度が低いらしく、船頭さんの話にはほとんど出て来ない。寂しいなぁ。

 古い街並みを残す沖端町が舟の終点。降りてすぐ、鰻屋の若松屋へ。開店十分前だが、すでに入り口には列が出来ている。人気あるのね。
 「美味放浪記」から若松屋についての文章を引用してみよう。

 若松屋は、沖端の柳の濠端に、私の幼年の昔から立っている鰻屋だ。
 私の幼少年の日に、親戚の珍客でもあると、
「二人前鰻メシを取って来ライ」
 と祖父や祖母から命令されて、ダダ走り(韋駄天走り)でこの若松屋まで駆け込んでいったものである。そうして、その鰻メシの余りを、お皿一杯だけ貰って舌なめずりしながら喰べた。
 勿論のこと私の皿の中には鰻はなく、鰻の移り香とミリンの味だけであった。


 さてさて、そのお味は……

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 甘〜い! 鰻なんて日本全国そんなに変わらない食べ方をしていると思っていたけど、上に錦糸卵が載っているし、テーブルに山椒がない。何よりタレが甘い。
 確かにこれは子どもが喜びそうな味だ。「美味放浪記」を読み直してみたら、

 酒飲みの私にとっては、いささか甘過ぎる。

 とちゃんと書いてあった。私にも甘過ぎます、檀先生。まあでも、檀一雄の思い出の味を体験出来て幸せだった。数が減っているのに食べちゃってごめんね、鰻…… 今後はなるべく我慢するから許しておくれ。

 店を出ると、どこからか太鼓と笛の音色が聞こえてきた。音の元に向かうと、沖端水天宮の裏手にある建物の中で、子どもたちが神楽の練習をしていた。平たい大太鼓を長いバチで器用に打っている。地元のお祭りが近いのだろうか。
 私は子どもの頃、和太鼓を習っていたので、胸がきゅんとした。私も一緒に打たせて、と言いたくなるような気持ち。しかし私はよそ者で、なおかつおばさんなのだった。おかしいな、いつの間に……?

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 北原白秋の生家がすぐそばにあるので、とりあえず行ってみることにした。檀一雄のエッセイには、彼が暮らした家と白秋の家が同じであるかのような記述が何度も出てくる。白秋の酒倉が焼失した際、そこを買い取ったのが一雄の祖父であるらしいのだ。

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↑生家の隣の店。川越っぽい。

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↑これが北原白秋生家。資料館になっている。

 受付で檀一雄に関するものがあるか尋ねたところ、柳川には文学碑以外何も残っていない、との答え。ここは北原白秋の家の母屋で、檀一雄の祖父が所有していた酒倉の跡地には、特に何の印も立て札も無いという。

「死んじゃってから四十年近く経つし、読む人減ってるのかなー 私はあの人の文章が大好きなんですけど」
「そうですね…… 記念館の方に、生誕百周年の時に作っ本があります」
「それください!」

 記念館は生家の裏にある別の建物だ。受付の女性は私のためにわざわざ本を取りに行ってくれた。
「わぁ〜!」
 そして渡してくれたのは、檀一雄の写真が表紙になっている大きな本。ファンにはたまらない。おそらくここでしか手に入らないのではないか。嬉しい〜
「ありがとうございます!」
 福岡ポエイチに続き、どこへ行っても本を買う私であった。

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 上の写真は生家と記念館の間にある堀。雨が降っている訳でもないのに水紋が出来ていて「?」と思い、よく見たら、アメンボだった。

 堀沿いの道をてくてく歩き、柳川藩主だった立花家のお屋敷へ。一部をレストランやカフェに改造し一般に公開しているのだが、派手な案内板が並び、いかにも観光施設という感じになっていて、少々興を削がれた。古い建築や建具が好きなので、写真を撮るのは楽しかった。

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 私はいつも旅先で、その土地の方言を聞くのを楽しみにしている。しかし福岡ポエイチの会場でも柳川でも、耳に届く言葉の九割以上が標準語だった。街全体でイントネーションががらりと変わる関西とはずいぶん違う。
 九州らしい話し方が恋しく、宝石を集めるみたいに道行く人のおしゃべりをメモしてしまった。

 若松屋が開店するのを待っている時、おばあさんがおじいさんに向かって言った、
「日の照らんとこね」
 立花邸に来ていた男性の、
「踊っとんだが」
 道ですれ違った女性の、
「ご飯ば食べよー」

 「好いとる」「帰るとですか」「知っとーと?」等々ともっともっと「と」が聞きたかった……

 そろそろ駅に戻ることを考えなければいけない。地図を見ると、今いる場所から駅まで約二キロ。よし、歩いてみよう。
 この決断が正しかったのかは分からない。白秋生家や立花邸の周辺は言わば旧市街で、そこを抜けた途端、柳川はただの郊外になってしまう。整備された大きな車道に、個性のないアパートや一戸建て。突然埼玉にワープしちゃったような。日本の郊外はどこもそっくりになりつつある。

 時間ギリギリまで旧市街を堪能し、バスかタクシーで駅に戻るのが賢い観光の仕方だったのかもしれない。けれども私はこの「どこにでもある街としての柳川」も、充分楽しんだ。

 車道横の歩道を進むと、左手に学校が見えてきた。それは柳城中学校で、その敷地内に柳川城跡がある。城跡にたどり着くためには学校の中を通る小道を行くしかない。どうしようか迷ったが、せっかくなので立ち寄ることにした。

 不審者に間違えられて、
「こんなところで何してるんですかっ 関係者以外立ち入り禁止ですよ!」
 と怒鳴られたらどうしよう、とびくびく。幸い、誰にも会わなかった。

 石段を登ると……

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 私は城跡が持つ、重たい静けさが好きだ。野原や雑木林になっていても、他の場所とは異なる特別な空気を感じる。ここは歴史が埋葬されている墓地なのだ。
 霊感が強い人は幽霊を見たりするのかもしれない。鈍感な人間で本当に良かった。

 柳城中学校の隣は柳川高校で、二つの学校を隔てる道を進むと、大勢の野球部員に出くわした。
「ちーす!」
 彼らはなんと、訳の分からない闖入者である私に、そろってあいさつしてくれた。
「あなたたち、礼儀正しいのねぇ」
 とおばさん丸出しで返す私。観光地で育った子どもたちの心がけを見せてもらい、清々しい気持ちになった。

 そのまま行くと周囲は住宅地になり、どこからかピアノの音が聞こえる。おや、この曲は……「千本桜」だ! ボーカロイドの人気曲。ボカロ好きはどこにでもいるのねぇ、と微笑む。

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↑堀沿いの道も歩いた。我々もこんな風に見られていたのか。

 地図を見た時には遠くないと思ったのに、なかなか駅に着かない。正直、歩いていてそれほど面白い道でもないし。
 疲れた。暑い。何か飲みたい……

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 味気ない車道沿いに、奇跡のように可愛いカフェを発見。名前は「ムトー商店」迷わず入ってアイスのカフェラテを頼んだ。
「立花邸のあたりから歩いてきて、ヘトヘトだったので助かりました」
「間に何もないですもんね」

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 許可を取って店内の写真を撮らせてもらった。こういう店主の趣味がはっきり出ているお店、大好き! 近くなら毎日通いたい。
 私の他に二人の女性客がいた。親しい間柄らしくプライベートな話題を熱く語り合っている。彼女たちの話し方が完全に九州イントネーションで、あっと気付いた。

 九州の人たちは、地元の人同士でないと方言で話さないのではないか。相手が他の地域の人間である場合、気を使って標準語になるのかもしれない。
 誰彼構わず自分の話し方を押し通す関東人や関西人は言語上の強者で、知らず図々しく振る舞っているのだろうなと、反省した。

 休んで元気を取り戻し、西鉄柳川駅へ。そこからは割にすぐだった。無事、西鉄福岡(天神)駅行きの特急に乗る。座席に座って白秋生家で手に入れた檀一雄生誕百年記念本「檀一雄の柳川」を開いた。

 少年の私が、入船の潮川のあたりをうろついていると、
「オロー、一雄坊チ。寄って行かんカン。オリ家(ゲ)に(オレの家に)……」
 と声をかけられる。
 通路から見える、板の間に、フンドシ一貫、スッ裸の漁師どもが、胡座を組み(土地ではイタマグリという)、車座になっていて、そのまん中の大皿の上には、芝エビだの、シャコだの、ワタリガニだのを、真赤にゆであげ、手摑みで喰いながら、豪快に焼酎を飲んでいるという有様であった。


 これこそ「私が行きたかった柳川」だ。
 お堀めぐりも街歩きも楽しかった。しかし自分が本当に望む場所へ行くためには、言葉という舟に乗らなければいけないのかもしれない。

 西鉄福岡(天神)駅に着き、福岡市地下鉄の天神駅へ。西鉄福岡(天神)駅と天神駅はほぼ同じ場所にあり、徒歩で乗り換えられる。明治神宮前〈原宿〉駅と原宿駅みたいなもの、と言えば多くの人に伝わるだろうか。ちなみに「西鉄福岡(天神)駅」と「明治神宮前〈原宿〉駅」は共に正式名称である。カッコを使うなんてややこしい……

 天神駅から福岡空港まで約十分。空港が街の中心部に近くて本当に便利だ。お土産屋さんでお菓子を買い、荷物を預け、飛行機の中へ。

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 窓の外を見ていると、整備士の人がこちらに向かってきちっと礼をした後、手を振ってくれた。私も手を振り返してみたけど、見えたかな?
 羽田まで二時間弱。この旅行記を書くためのメモをまとめていたら、あっという間だった。言葉と遊んでいると時間は飛ぶように過ぎてゆく。

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 着陸のために梅雨前線に突入。光を受けた翼が雲にぶつかり、虹が立った。
 ただいま、東京。
 めでたし、めでたし。

 ……になるはずが、ならなかった!
 いやまあ、飛行機は問題なく羽田に着いたのです。その後、ちょっとしたトラブルが。

 預けたキャリーバッグを受け取ろうと、荷物を載せてガタゴト動くベルトコンベアーのところで待っていた。おお、私の、と思い引っぱり下ろし、確認のために小物入れのポケットを開けた。
 え?
 見たことのないボールペンが入っている。うわっ、間違えてよその人のを取っちゃった! 驚いたことに、同じメーカーの、同じ型の、まるっきり同じキャリーバッグだ。

 嫌な予感がした。ベルトコンベアー上の荷物はかなり減っており、二周目を見ても私のバッグは出て来ない。
 このボールペンの持ち主が、私のを持っていっちゃったんだ! バッグは数字で開けるタイプの鍵がかけられる仕組みになっている。これを壊されたら、と考えて青ざめた。私の使用済みパンツを見られるのは構わない。バッグを買ってくれたのはDちゃんで、まだ新品なのだ。

 あの使いやすいバッグがダメになったら、がっかりだよ〜 うわ〜ん。半泣きで立ち尽くす私。

 いくら待ってもやはり自分のは出て来ないので、相談するために係員のところへ。すると、人の流れに逆らい男の人が戻ってきた。彼が引くバッグを見て、あっ! 急いでかけ寄りポケットを開ける。
 そこには檀一雄の「美味放浪記」が。
「私のです!」
 その人には平謝りされたけど、そのまま家に帰ってしまわなくて本当に良かった。気付いてくれてありがとう。

 次は必ず、バッグに目立つ印を付けよう、と決意してこの旅は終了です。
 お疲れ様でした。

(終わり)

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2014年10月11日

邯鄲(その1)

【邯鄲の夢(かんたんのゆめ)】
 官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱(こうりょう)がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事(広辞苑より)



 とにかく勉強が好きだった。高校時代の担任(津田塾出身の、留学経験もある女性教師)は四年制大学へ行くよう強く勧めてくれた。しかし私は悩んだ末、短大に進学することに決めた。これ以上父に心配をかけたくない、というのが一番の理由だった。
 十六歳の誕生日、父は厳かにこう告げた。
「お前は結婚の時に差別されるかもしれないから、覚悟しておきなさい」
「なぜ?」
「母親がいないからだよ」
 母は私が小学生の頃に病気で亡くなり、家族の面倒は叔母の静子さんが見てくれていた。
「お母さんが亡くなったのは、私にはどうにも出来ないことじゃないの」
 私がわがままを言い過ぎて死んでしまったならともかく、早く治ってと毎日祈りながら病室に通っていたのに。泣き出したいのをこらえて微笑みを絶やさぬよう気をつけていたのに。
「本人にどうにも出来ないことでも、差別する人はするんだよ。特に就職や結婚のような人生の重大な場面でね」
 私は美人ではないし、女にしては背も高い。さらに学歴までつけてしまったら、ほとんどの男の人が私を敬遠するようになるだろう。ウーマン・リブに興味はない。なるたけ早く家庭に入って、父を安心させたかった。
 もし男に生まれていたら、私はきっと学者になっていたはずだ。一日中、そして一生、学問のことだけを考える暮らし。私に与えられた学問の時間は、たった二年。どんな人でも欲しいものを全て手に入れられる訳じゃない。自分に許された範囲で、全力を尽くそう。
 夢中になって課題の英文を訳す毎日が過ぎ、一年後期の試験が終わった頃、父の書斎に呼ばれた。
「お見合いの話が来たんだ。無理にじゃない。春子が嫌なら断っても良い」
「断るって、まず話の内容を聞かないと」
「ははは、それもそうだ」
 父はそわそわと落ち着かない様子で、机の上の書類を無駄にかき回した。
「相手は正太さんのところで働いている職人だ。井田治くん。聞いたことあるかね」
「いいえ」
 正太さんの工房では、昔ながらの手作業で和紙をすいている。若い男の人が何人かいるのは知っているけれど、誰とも話したことがない。
「手先が器用なうえに研究熱心で、相当筋が良いらしい」
「ふぅん……」
 研究熱心という言葉に、ちょっと興味がわく。
「ただ中学しか出ていない。春子ちゃんは物足りなく感じるんじゃないかと、正太さんは心配していた」
「中卒なのは構わないけど、物足りないと思う人を薦めてくるのは失礼じゃない?」
 父は目を細め、何か企むような、懐かしむような、曰く言い難い笑みを浮かべた。
「正太さんが持ってきた話じゃないんだ」
「え、じゃあ静子さん?」
「違う。本人が頼みに来た。わざわざ工場まで来て『社長さんに会わせてください』ってね」
「私と結婚したら工場を継げると勘違いしているのかしら」
 私には兄がおり、関西の大学で経営学を学んでいる。このまま気持ちが変わらなければ、兄はいずれ次の社長になるだろう。
「その説明は先にしておいた。治くんは機械ですいた紙には関心がないそうだ」
「何か、変な話だなぁ……」
 兄を毒殺してまんまと後釜に、なんて推理小説みたいな展開を考えてしまう。兄を殺されるのも困るし、利用されるのも悲しい。
「お父さんはどう思ってるの。断った方が良い?」
「いや。正太さんによると、治くんは周囲があきれるほどの堅物らしくてね。娘の結婚相手としてそう悪くないような気がしている」
 年齢から言って、お見合いの話が来るのは分かっていた。しかしいざその立場になると、心がすくんでしまう。進学先を決めるのとは微妙に違う不安だった。
「一度会ってしまったら、断りにくくなるかしら」
「そんなことはない。まずは自分の目で見てみると良い」
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邯鄲(その2)

 三月の薄曇りの日に、私は治さんと初めて顔を合わせた。桜の花が描かれている淡い色の振袖を着て、静子さんがお化粧もしてくれた。少しは美人になれるかと思ったのに、唇だけが赤く浮き、鏡の中の私はおかめにそっくりだった。
 あいさつをした後すぐに二人きりにされてしまい、何を話せば良いのか、向こうが話しかけてくるまで待つべきか、緊張と迷いで頭がぐるぐるした。
 治さんは下を向いたまま押し黙っている。こちらを全く見ないのをいいことに、不躾に観察した。痩せ型で顔と肩幅が小さく、耳が横に開いている。絵本に出てくるネズミに似ているな、と思った。
 私より一つ下で十八歳。隣の県の農家の三男。中学を出て正太さんの工房に入り、住み込みで働いている。私が教えてもらった情報はそれだけ。
 沈黙に耐え切れず、話しかけてしまうことにした。
「あの、ご趣味は」
 治さんはガバッと顔を上げた。
「えっ、しゅ、しゅみ?」
 顔は真っ赤で、涙目になっている。
「ええ」
「しゅみ?」
「治さんのご趣味は」
 宿題をやって来なかった子どものような顔で私を見つめる。あなたをいじめるつもりで言ってるんじゃないのよ?
「私は本を読むのが大好きなの」
「知ってる」
「え?」
 お父さんが話したのかしら。治さんは再びうつむいてしまった。
「治さんはどんなことがお好きなの?」
「和紙をすくこと」
 堅物という言葉を思い出して微笑む。仕事人間で、他のことには頓着しないのかもしれない。
「仕事以外の時間はどんな風に過ごすのかしら。お酒を飲みに行ったりする?」
「酒は飲まない。煙草も吸わない」
 未成年であることなど気にせずに酔っ払って騒ぐ職人を父の工場で大勢見てきたから、治さんの道徳心に感心した。しかし本当に堅物過ぎて取り付く島もない。
「朝から晩まで和紙のことばかり考えているの? 他に何か、やっていると楽しく感じることは?」
「ある」
 思いのほかきっぱりとした答えだった。
「それを教えて欲しいのだけど」
 治さんはびくりと肩を揺らした。
「い、言えない!」
 言えない趣味? 賭け事。女遊び。職人が好む、あまり褒められない趣味は色々ある。いくら堅いと評判でも、正太さんや父に内緒にしている道楽があるのかもしれない。
 だんだん着物の帯が苦しくなり、目の前がチカチカした。治さんのことをまるで理解出来ないまま、今日はお開きにして欲しいと、こちらからお願いしてしまった。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:51| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする