2015年12月19日

贋オカマと他人の恋愛(その13)

 その日から、克巳に電話して食生活をチェックするのが日課になった。
「今日は何か食べたか?」
「何も食べてない」
「おかゆは」
「飽きた」
「わがまま言うな! そうだな…… 母親にりんごをすってもらえ」
「すりおろしりんご?」
「うちでは風邪をひくと必ず作ってくれる」
「美味しそうだね」
 電話をかけるたび、菓子パン、きしめん、じゃがいものみそ汁と、食べられるものが増えていった。ひと月ほどのち、家族と同じ食事を取れるようになったと聞いて、克巳の家の最寄り駅まで会いにいった。
「七瀬くん!」
 克巳は俺を見つけると笑顔で手を振った。まだガリガリではあったが、病的な雰囲気は減った気がする。照りつける七月の太陽を避けて古い喫茶店に入る。クラシックのピアノ曲が小さな音でかかっていた。
「おれウィンナーコーヒー」
「生クリームなんて大丈夫か?」
「お腹壊したらトイレ行けば良いだけじゃん」
「まあな…… じゃあウィンナーコーヒー二つで」
 克巳は前回会った時とも、周平と付き合っていた頃とも違う顔をしていた。何故こいつはこんなに定まらないのか。変化の激しさに戸惑いを覚える。
「七瀬くん、ごめんね」
「あ? ああ、お前の家の近くまで来たことか。元気な方が移動するのは当然だろう」
「それもそうだけど、そうじゃなくて。大学でさ、いっぱい酷いこと言ったじゃん」
「今さら謝られてもな」
「もう間に合わない?」
 克巳は潤んだ目で俺を見上げる。背中がゾワッとするような、奇妙な気持ちだった。サッちゃんに媚びる時の俺も、こんな表情をしていたのかもしれない。そう考えると無性に恥ずかしかった。
「別に何とも思ってないよ」
「そう? それなら良いんだけど」
 これまで一度も見たことのない克巳のやわらかい笑顔を見て、あっ、と気付いた。克巳は本物のオカマなんだ。店の「女の子」たちと同じ空気をまとっている。「男」が好きな周平のために、隠していたのか。あいつが言った言葉を思い出す。
「あれで男らしくしてるつもりなんだよ」
 そしてもう、その必要はなくなった。
「七瀬くんを最初に見た日のこと、昨日起きたみたいにはっきり覚えてるよ」
 克巳は首を傾げてふふふと笑った。
「身も心も溶けそうなくらい大好きな人がさ、ファッション雑誌のモデル並みに格好良い男の人と歩いているのを目撃したら、おかしくなってもしょうがないよね」
「俺はそんな風に見えたか」
「しかも周平、おれといる時より楽しそうで…… 周平はあの人のことを好きになっちゃったんだと思って…… その場で倒れそうになった」
「大袈裟な」
「本当だよ。『目の前が暗くなる』って言うけど、視界がザーッとして見えなくなって、吐き気がした」
「勘違いさせて悪かったよ」
 俺のせいじゃないが。
「どれだけ激しく嫉妬してたか、七瀬くんは一生理解出来ないと思う。七瀬くんみたいに欠点の無い人は、誰かを妬んだりしないんだろうね」
 俺は何も答えなかった。
「劣等感を消す魔法があれば良いのに」
「人よりダメなところばかりでもないだろ 。背が低いのはどうしようもないが」
 俺が笑っても、克巳は怒らなかった。それが逆にショックだった。
「周平と七瀬くんは友達だったんだね」
「それ以外に何がある」
「友達と恋人の違いがよく分からなかったんだ。周平に訊いたら『エッチするかしないかかなぁ』って答えて、大げんかになった。性欲解消するためにおれと付き合ってるのかよ! って」
「アホだ……」
「別れてやっと理解した。友達と恋人は全然違うんだね」
「当たり前だろ」
「周平と七瀬くんはいつか必ず仲直りして、友達に戻れる。でもおれは周平の恋人に戻れない。友達にもなれない」
 克巳はぽろっと落ちた涙を袖でぬぐう。
「おれは周平と、二度と会えない」
 喫茶店の横の細い道で、克巳は俺に抱きついてきた。背中に腕をまわして強くしがみつく。俺は克巳の小さな頭を撫でた。気性の荒い動物が、苦労と忍耐の末に懐いてくれたような満足感があった。茶色い細い毛が指にからむ。
「たまには文学部の方にも遊びに来い」
「大学院なんて辞めたよ」
「え?」
「とっくの昔だよ」
 克巳は腕をほどき、底の無い井戸に似た真っ黒い目をこちらに向ける。
「勉強なんてしても意味ないじゃん」
 強い語気で、確信に満ちていた。克巳の言う通り全部無駄なのかもしれない。何も答えられずにいると、克巳は再び抱きつき直した。
「七瀬くんは優しいね」
 どうだろう。

 克巳の性別がはっきりしなかったのはその日だけで、次に会った時には(不完全な部分はあるにしろ)昔と同じ「男」に戻っていた。抱きついてくることも二度となかった。
 克巳が女の子に見えたあの日のうちに、俺たちは恋に落ちるべきだったのかもしれない。そうすればあいつはあんなに早く死なずに済んだのかもしれない。克巳がいなくなった後、そのことを何度も考えた。
 でもたぶん、俺には克巳の運命を変える力が無かっただろう。それが出来るのは周平だけだ。にもかかわらず、あいつは克巳のお守りを俺に任せ、満員電車に揺られて大企業様に通って貯金通帳の残高をコツコツ増やしている。
 くそったれ。
 夏が終わり、ハロウィンのお化けかぼちゃが街にあふれる季節に、克巳から就職が決まったと連絡があった。小さな会社のプログラマーで、最初はバイトで入り、その後正社員になったという。
「ゲーム会社か?」
「違うよ。もしかしてプログラムを使うのはゲームだけとか思ってる?」
「いや、そもそもプログラマーがどんな仕事か分からない」
 克巳は電話の向こうで楽しそうに笑う。
「おれたち同じ学校に通ってたのに、全然違うこと勉強してたんだね」
 電話を切るのと同時に、記憶の中の周平が話しかけてきた。
「克くんは自分でゲームを作れるんだよ」
 ほっぺたを紅潮させてニコニコしている。
「すごいよねぇ。手に職ついてるから、僕みたいに就職で困ったりしないよ」
 そういう時の周平は、恋人自慢というより可愛い孫の話をしているように見えた。大学時代の二人を思い出すと泣きそうになる。何で俺が泣かねばならんのだ。まあいい。克巳は順調に回復している。若い頃にしていた予想と違っていても、物事は収まるべきところに収まるだろう。
 その時はそう感じたのだ。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:55| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その14)

「俺、ハロウィンもクリスマスも大っ嫌いなんですよね」
「どうして? 恋人がいないから?」
「違いますよ」
 壁から魔女やコウモリの飾りを外してゆめこさんに渡し、代わりに受け取ったサンタやトナカイのぬいぐるみを貼り付けてゆく。
「クリスチャンじゃないのにキリスト教のお祭りで騒ぐのはおかしいと思ってる?」
「それもありますけど。問題は期間の長さです。今日は十月三十一日ですよ」
 正確には日付が変わって十一月一日。営業時間の後、居残って店の模様替えをしているのだ。
「これから二ヶ月近くクリスマス気分でやっていくのはどう考えても無理があります。ハロウィンもひと月続くし、本家のアメリカだってそんなにダラダラやらないんじゃないですか」
「商売人の願かけなんだからしょうがないじゃない。イルミネーションやツリーには『お客の財布のひもが少しでも緩みますように!』という念がこもってるのよ」
「ゆめこさんのカツラにも?」
「もっちろん!」
 この一ヶ月、ゆめこさんは全身かぼちゃ色だった。赤鬼がオレンジ鬼になった訳だ。蛍光ペンに似ている。
「効果あるんですかね?」
「効果があろうが無かろうが、祈らずにはいられないのよ。それが人間というものでしょう」
 サッちゃんが幸せに暮らしていますように。
 周平と克巳が仲直りしますように。
 俺の研究が…… いや、それは祈るものではない。ただ愚直に積み重ねてゆくだけだ。
 長い金髪のカツラをかぶり、赤いコートとミニスカートを身に付けて、俺は誰よりも美しい女サンタになった。文句を言っていたくせに、クリスマスパーティーラッシュで一番はしゃぎ、最も多く稼いだのは俺だった。
 どんなに店内が浮かれていても、ゆめこさんのもとには暗い顔をしたおばさんが通い詰め、二時間も三時間も部屋から出て来ない。とめどなくあふれる愚痴を聞き続けるのだ。よく精神的に参らないなと感心する。ゆめこさんの派手な服には、魔除けの効果があるのかもしれない。
 年が明けて元日、母親が俺宛に来た年賀状を分けて渡してくれた。喪中の知らせかと思うほど事務的で地味な社長の年賀状と、クリスマスカードみたいにキラキラしたゆめこさんの年賀状の間に、周平の年賀状があった。
 市販のイラスト入りの葉書で、子どもっぽいファンシーな蛇の絵の横に、手書きで、
「今年もよろしくお願いします。」
 とある。
 今年「も」って、去年のお前は全然よろしくなかったじゃねえか! 俺は部屋を飛び出て周平の携帯に電話をかけた。呼び出し音が鳴る。つながった!
「おいっ」
「七瀬?」
「そうだよ」
「…………」
「…………」
「あけましておめでとうございます」
「おう、あけましておめでとう」
「…………」
「…………」
 勢い込んでかけたものの、何を話すか決めてなかった。言いたいことは山ほどあるんだ。えー あー
「……元気?」
「風邪もひかない。そうだ、今すぐ新宿の紀伊國屋へ来い」
「実家にいるんだけど」
「お前の実家、埼玉だろ?」
「埼玉の奥地」
「奥地から出て来いっ 待ってるから!」
 紀伊國屋は元日も営業している。上の階から下の階まで何周かした後、外国文学の棚の前で周平を見つけた。大学時代と同じ紺色のダッフルコートを着ており、体型も変わらない。俺に気付くと、眩しいものを前にしたように目を細めた。
「七瀬はまだ携帯持ってないの?」
「持ってない」
 周平は笑顔になった。
「相変わらずだね」
 近くのファミリーレストランへ行くと、思ったより混んでいた。二人とも和風ハンバーグを注文し、ドリンクバーで飲み物を取ってくる。その間、克巳の話をしようかどうか迷っていた。名前を聞いた途端に、まただんまりを決め込むかもしれない。しかし克巳の話以外に、特にしたい話は無いのだ。
「大学の頃、僕このチェーンで働いてたんだよね。割引券持ってるはず……」
 周平は財布を探り、小さな紙片を取り出した。
「残念。有効期限切れてる」
「別に割引かなくたって高くないだろ。何ならおごるよ、俺が呼び出したんだし」
「羽振りが良いね。もうお金には困ってないの?」
「まあどうにかな。オカマは天職だった」
 周平は飲んでいたジュースを吹いた。
「まだあそこのオカマバーで働いてるの?」
「あら、やっだぁ〜 ホームページ見てくれてないのぉ〜?」
 店が作ってくれた名刺を周平に渡す。
「『吉本なな』」
「吉本ばななさんが大好きなんですぅ〜」
「大嘘つき……」
「このセリフを言うために一応全部読んだけどな」
「プロだねぇ」
 周平は名刺を裏返した。
「そこに店のホームページアドレスも載ってるだろ。あたしの可愛い写真がばーんと出て来るから見てちょうだい」
「歌舞伎の研究はどうなったの?」
「ちゃんと続けてる。もうじき修士論文提出だ。だいたい仕上がってる」
 周平は最初驚いて、それから誇らしげに笑った。
「君は変わらないね。本当に変わらない」
 その後、周平は仕事の話をした。ほぼ毎日残業があり、気力体力を全部持っていかれると言う。
「休みの日も、眠れるだけ眠って家のことをやったら終わっちゃうんだ。とても人に会おうなんて気分にはならない」
「それなのに悪かったな、呼び出して」
「大丈夫だよ。正月は一応長く休めるから」
 周平は頬杖をついて窓の外をぼんやり眺めた。赤い振袖の女と、黒い革ジャンの男が店の前を通り過ぎる。
「昔より切実な気持ちで本を読むようになったよ。通勤時間だけだから量は減ったけど」
「のほほんとしてたもんな、お前は」
「読書の時間がどれほど貴重か、気付いてなかったんだ、当たり前過ぎて。今僕は、本に没頭している時だけ生きている気がする。……他の時間は死んでいるような気がする」
 周平は克巳と違って痩せたりはしなかった(痩せた後もう一度太ったという可能性もあるが。何しろ二年近く会っていなかったのだ)仕事や恋愛に苦しめられた痕跡を、外側から見ることは出来ない。
 けれどももしかしたら周平も、崖っぷちに立って暗い谷底を覗いたまま暮らしているのかもしれない。突然泣き出す克巳と同じように。
「鏡の中の自分と目が合うと、いつも酷い顔をしていて呆れるよ」
「うちの店に来るサラリーマンが本当にどうしようもなくてさ、女の子たちの体をむやみに触ったり、答えに困るような嫌らしい質問をしてきたり。でもそれだけストレス溜まってるならしょうがないな」
「女の子って、みんな男でしょ」
「俺にとっては女の子だよ」
「そうなんだ。あと僕をそういうダメなサラリーマンと一緒にしないで欲しい……」
「あら、お店に来てくれたっていいのよ? あたしのおっぱい触り放題!」
「絶対行かない」
 会計しようとすると、レジの前に列が出来ていた。新人の店員らしく手間取って、青ざめたまま他の店員の所へ相談しに行ったりする。当然ちっとも進まない。
「懐かしいなぁ。手伝ってあげたくなっちゃう」
「お前今、誰かと付き合ってるのか?」
 俺が周平にそんな質問をするのはどう考えても不自然だった。俺は周平の恋愛事情になんて何の興味もない。そのことは周平だって十分承知のはずだ。
 周平の情報を入手し、克巳に知らせたい。俺の頭にあったのはそれだけだった。
「僕はもう一生、誰とも恋愛しないと思う」
 周平の方を見て、ああこれが死んだ顔か、と思った。怒りも悲しみも何もない、平板な表情。同時に俺は、自分を殴りたくなるほど後悔した。周平は深く傷ついているのだ。信じ切っていた克巳に裏切られて。それなのに、俺はいつの間にか克巳の味方になっていた。何があろうと周平の側につくべきだったのに。
 あいつがぎゃんぎゃん泣くからいけないんだ、全く。
「誰のことも好きにならなければ、ゲイかどうかなんて問題にならないしね」
 気の利いた冗談でも言ったような顔で微笑み、黙り込んだ。店を出て甲州街道を歩いている時も、周平は上の空で、いくら話しかけても会話が成り立たなかった。
 これで周平とは終わりかもしれないな。せっかく連絡が取れたのに。俺は本当にバカだ。
 新宿駅南口、JRの改札の前で、周平はこちらを振り向いた。
「またこうやって会えないかな。研究の話も聞きたいし」
 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
「お互い忙しいだろうから、たまにで良いんだ。今日、七瀬と話して、自分がずいぶん鬱いでいるのに気付いたよ。仕事と関係ない人と会って心に風を通さないと、きっといつか潰れてしまう」
「じゃあ次は、藤の花が咲く頃に会うか」
 俺を見上げた周平の目が優しく輝く。そこには命が戻っていた。
「風流だね。藤の花っていつ咲くの?」
「ゴールデンウィーク」
「ちょうど良い。ありがとう」
 周平は手を振り、山手線のホームに降りていった。
 帰宅後、コートも脱がずに克巳に電話をかける。
「七瀬くん? あけま……」
「周平に会ったぞ!」
「えっ」
 俺は息を大きく吸って呼吸を整える。
「恋人はいないそうだ」
「そんなこと訊いたの? 最低!」
「何でだよ! 俺はお前が知りたいだろうと思ってわざわざ」
「ボクだってまだ、恋愛のことなんて尋ねられたくない。もーっ オカマ心が分からないんだから。にせオカマ!」
「うるせぇ! 分かるものかっ」
「それよりさ、周平は元気にしてた?」
 克巳の声音がとろりと甘くなる。
「まあまあってとこだな。仕事で疲れてる様子だったが、体型は昔のまんまだ」
「ほっぺた福々してた?」
「ああ。憎たらしいくらいに」
「ふふふ」
「お前も電話してみたらどうだ」
 克巳は無言になる。
「俺の着信拒否も解除したようだし、今ならつながるんじゃないか?」
「おれは…… 無理だよ。周平がこの世界のどこかで元気にしてるって分かれば…… それだけで」
 しゃくり上げ、鼻をすする。また泣かせてしまった。
「周平のこと、教えてくれてありがとう」
「差し出がましい真似をしてすまん」
「慣れてるから平気だよ。じゃあね」
 慣れてる?
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:54| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その15)

 それから俺と周平は、長い休みのたびに会うようになった。意識して話題を文学の方に持ってゆき、仕事の話にならないよう気をつけた。まるで客の相手をしている気分だったが、弱っている周平に対し、それくらいする義務が自分にはあると思った。
「今は何を読んでるの?」
「歌劇『オルフェオ』の台本」
「珍しい。七瀬が外国の作品なんて」
「うちのゼミにオペラと歌舞伎の比較研究してる学生がいてさ、発表の時に映像を見せられて興味を持った。ギリシャ神話の話だが、何故か内容は古事記のイザナギ、イザナミの話に似ててな」
「へぇ」
「イタリア語はやたらに脚韻を踏むんだ。リズムの良さは河竹黙阿弥を思わせる」
「七瀬はいつも古典文学や伝統芸能と比較しながら物語を読むよね」
「自分の網はそれしかないからな」
「網?」
「物語を捕まえる網だ。そこで表現されているものを理解するためのとっかかりとでも言えばいいか。本を読んだり劇を見たりすることで、その網は大きく、網目は細かくなる。その網を使ってまた本を読んだり劇を見たりする」
「じゃあ七瀬はその網を強化するために研究をしてるの?」
「網は目的を達成するための道具でしかない」
 青臭い「目的」を言うのは気が引けたが、幸い周平は説明を求めなかった。
「僕は自分の心と比べながら読むことしか出来ないな。共感したり、反発したり」
「それだと読書の範囲が狭くならないか?」
「知っての通りだよ。古典が苦手なのも、古語辞典を引くのが面倒臭いだけじゃなく、価値観が今と違い過ぎて面白いと思えないんだ。つい現代作家ばかり選んでしまう」
「もったいないな」
「仕事を始めてからいよいよ難しいものは読めなくなったよ。長編小説より短編小説、小説よりエッセイ」
「まあお前は会社で十分無理してるんだから、余暇にまで苦労する必要はない。読むべき本じゃなく読みたい本を読め」
「七瀬の仕事は大変じゃないの?」
「別の人格が働いてる感じだから俺は疲れないな。『吉本なな』は今頃グーグー眠って英気を養っているんだろう」
「ふぅん…… 二重人格」
「周平くんのために出て来ちゃいましたぁ〜」
 体をクネクネさせて投げキッスをする。
「いいよ、寝かせておいて」
 どんなに俺が努力しても、周平は昔みたいにほがらかに笑わなかった。口が曲がる訳じゃないのだが、笑顔に歪みのようなものを感じる。それが大人の男の笑い方なのかもしれない。俺がまともに成長出来ていないだけなのかもしれない。
 それでも、二人の間の溝が深く広くなってゆくようで、寂しかった。
「楽しかったよ。ありがとう」
 文学カウンセリング終了。別れる時、周平は必ずすっきりした顔になっていた。俺のやり方は間違ってない、と思いたい。
「自分ばっかりしゃべっていたように見えたけど? 本来カウンセリングは相手の話を聞くものよ。まあ、ナナにしてはよくやったわ」
 脳内にいるゆめこさんがアドバイスしてくる。わざわざ架空のゆめこさんと話さなくても、職場に行けばいつだって実物に相談出来るのだが。

 周平と克巳が別れて二年ほど経った頃、二丁目でばったり克巳と会った。声をかけようとして、向こうが男連れなのに気付く。一瞬目が合い、克巳はそのまま俺を無視して男に微笑みかけた。
 そうか、新しい恋人を作ったのか。ここはゲイの街だ。出会いのための店もある。克巳が男といちゃついていても、何ら不思議はない。言うなればあいつの方が先住民で、俺は入植者…… そんなことを考えながら、相手の男の顔を見た。
 お前の趣味はどうなってるんだーっ!
 最上級の不細工な上、全身が不潔っぽい。床に落ちている服を適当に集めて着ているようで、美意識の欠片も感じられない。周平に首ったけだったのもどうかと思ったが、比べるのも可哀想なほどこいつは酷い。
 何故俺は、克巳の彼氏の悪口を並べ立てているのだろう。誰と付き合おうと勝手じゃないか。難癖つける権利など俺にはない。嫉妬? いや違う、心配しているんだ。あの明らかに雑な男が、神経の細い克巳を大切に出来るのか。乱暴に扱われて泣かされたりするんじゃないか。
 人間は見た目じゃない、という言葉に俺はすがりつく。克巳の彼氏が醜い賢者であればいい。俺が無価値な絶世の美女であるように。
 その次の日、大学の研究室でパソコンを立ち上げると、克巳からメールが来ていた。アドレスを教えただろうかと訝り、研究室のホームページに名前と連絡先が掲載されているのを思い出した。自宅に電話してくれば良いものを、回りくどいことしやがって。
 会いたいと書いてあったので、前にも行ったことのある克巳の家のそばの喫茶店で待ち合わせた。
「ウィンナーコーヒーで良い?」
「いや、ただのコーヒーで」
「こういう昔からある喫茶店って落ち着くよね。おれスタバが大嫌いなんだ、うるさいんだもん。『トールキャラメルマキアート〜』馬っ鹿みたい」
 文句を言っているのに克巳の声は明るく甲高く、はしゃいでいるように聞こえた。
「残念ながら俺はスタバに行ったことがない」
「残念ながら!」
 きゃらきゃらと愛らしい笑い声。
「七瀬くんの話し方って面白いよね。久々に聞いて安心した」
「そうか」
 ウィンナーコーヒーが運ばれてくると、克巳はカップを両手で包み、温かさを慈しんで口を付けた。
「何でわざわざ研究室にメールしたんだ」
「迷惑だった?」
「いや、私用が禁止されている訳じゃない」
「じゃあ、いいじゃん」
「アドレスを教えてなかったから驚いただけだ」
「七瀬くん、携帯持ってないんだもん。おうちに電話して『耕一くんいますか?』なんて面倒でやりたくないよ」
「前はやってたじゃないか」
「世界は変わっちゃったんだよ。七瀬くんの知らないうちに」
 克巳は目を瞑ってウィンナーコーヒーを飲み干した。カップに残った生クリームをスプーンですくって舐め、空っぽの底を名残惜しげに見つめ続ける。
「新しい恋人は」
「やっぱり勘違いしてる」
「勘違い?」
「ものすごい顔でこっちを睨むからさ。怖かった」
「俺の方なんて見てなかっただろ」
「自分がどれだけ派手な顔してるか分かってないの? 視界の端に入るだけで感情が伝わってくるよ。舞台俳優みたいに」
 ふふふと笑って、上目遣いで俺を見た。
「おれと七瀬くんは恋人同士で、浮気してるところを発見されてやきもち焼かれてるんだ」
「は?」
「空想だよ」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
 克巳はいきなりぼたぼた涙をこぼして泣き始めた。
「いいじゃん…… 現実が滅茶苦茶なんだから、想像の中でだけ自惚れたって……」
 どうしてこいつは俺と話すたびに泣くんだ。予想はしていたので、用意しておいた手ぬぐいを克巳の前に出した。
「何、これ……」
 克巳は鼻水垂らしたまま目を丸くする。
「まずそれで顔を拭け」
「そんな…… もったいなくて出来ないよ」
 肩かけカバンからティッシュを出して鼻をかんだ。
「『KOUICHI』って染め抜いてある」
「昔、母親が作った手ぬぐいだ」
「これ、七瀬くんの似顔絵だね? テレホンカードといい、どうしてこういう馬鹿げたものを沢山持ってるの」
「お前が泣いた時に、これを出せば笑うんじゃないかと思ったんだ」
 克巳はびしょびしょの目で俺をまっすぐ見て、すぐに手ぬぐいを顔にあてた。
「あの男は友達か」
「違うよ。あの日セックスしただけ」
 セックスという言葉を聞いて、体に力が入らなくなるような、嫌な気持ちになった。
「おれ、最初から競争率低いのを狙うんだ。そういう奴に限って自意識強いからさ、関心がある振りしておだてれば簡単に落ちる」
「そんなことをして何になるんだ」
「だから、一回セックス出来る」
「そんなにしたいものか」
「相手に困らない人に言われるとムカつく」
「困るも何も、したことがない」
 克巳はパッと顔を上げた。
「七瀬くん、いまだに童貞なの?」
「何でその話題になると大声になるんだっ」
「だって、えーっ、何なの? 宗教?」
「自分以外に信じているものはない」
「どうして全部断っちゃうの?」
「は?」
「七瀬くんみたいに格好良かったらさ、ゲタ箱を開けるとラブレターがどばーって」
「どこのゲタ箱だ……」
 恋人はもちろん友達さえいなかった小中高を思い出し、ため息をつく。
「モテないんだよ、単純に」
「ウソだぁ!」
「大学時代はお前たちと一緒にいたせいでゲイだと思われてたしな」
 克巳は眉をハの字にした。
「ボクのせいだね。ごめん」
「オカマバーに勤めてからは、しょっちゅうオネエ言葉で叫んでいたし」
「それボク関係ないよ」
 くだらない男遊びはやめろと説得したかった。しかし失恋後に虚しいセックスを繰り返すのは、恋愛の世界の伝統芸能のようなものなのかもしれない。昔、周平に借りた恋愛小説を思い出す。そこでは物事全てが、俺の知らないルールで動くのだ。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:52| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その16)

「請け出された?」
「そういう古風な言い方したらナナが喜ぶと思って」
 そう話す社長も目を優しく細め、嬉しそうだ。
「請け出すったって、社長に借金してた訳じゃないでしょう」
「それが貸してたのよ、大した額じゃないけど。何しろあの子、高校出てすぐ家出して来ちゃったでしょう。当面の生活費を最初に渡したの。あの男、倍払うって言って来たわよ」
「それはまさしく、身請けですねぇ……」
 半年ほど前から店で働いているミユキの話だ。親が経営する会社を継ぐのが嫌で、東京にいる姉を頼って逃げてきた。仙台近くの海辺の街の出身だという。すらりとスタイルが良く色白だが、いかんせん顔が骨っぽい。化粧で工夫しても美女に仕立てるのは難しかった。
 それ以上に問題だったのは性格だ。
「媚びを売る」
 ということが一切出来ない。もともと口数が少ないのに、客がちょっとでも失礼な態度を取ると、ムッとして完全に無口になってしまう。客が帰った後は自分を責めて暗ーくなるので始末に負えない。
 媚びや嘘なんてタダで湧いてくるものなのだから、どんどん大安売りすりゃ良いのに。と俺は思うが、どうしてもやれない奴もいるのだろう。ミユキは男の体と女の心を持ってはいても、職業としての「オカマ」には全く不向きだった。本人もそのことは十分承知していた。
「お金を貯めて、美大を目指そうと思ってるんです」
「あら、あたしは昼間、大学院に通ってるのよ」
「本当ですか? すごい!」
 尊敬の眼差しを向けられて、苦笑したくなるような、決まり悪い思いをした。金のことだけ考えるなら、大学院などすぱっと辞めて店に出る日を増やした方が良い。学問を続けることに価値があるのか、自分でも確信が持てなかった。わざわざ苦労して余分な知識を増やし、結局誰も救えない役立たずの俺。
「予備校に通うお金は無いから、一人で受験勉強してるんです」
「家庭教師しようか。無料で」
 ミユキは目を輝かせ、しかしすぐに首を振った。
「そんな、悪いですよ」
「あたし勉強が大好きなの。特に受験の問題は答えが決まってて、クイズみたいに楽しめるじゃない。久々にやりたいわ」
 それから週に一度、ミユキが身を寄せているワンルームマンションに勉強を教えに行った。お姉さんが迷惑がるのではと心配したが、
「うわぁ、国宝級の色男だねぇ〜」
 と酔いしれてくれたので助かった。たいていの女は俺に優しい。
 ミユキの得意、不得意を見極め、それに合った問題集をそろえた頃、あの男が店にやって来た。職場の同僚に連れて来られたらしく、オカマには何の興味もない、と言うより、嫌っているようにも見えた。部屋のすみの暗がりに浮かぶ、不機嫌な顔。そこに何故かミユキがすーっと吸い寄せられた。
「どんなお仕事をされてるんですか?」
「土建屋」
「ビルを建てたりするんですか?」
「いや、道路」
「あたし、図書館で建築の写真集を見るのが好きなんです。フランク・ロイド・ライトとか」
「知らない」
 話が噛み合ってねぇぞ! 俺は土木職人たちをエロネタでゲラゲラ笑わせつつ、ミユキから目を離さなかった。相手をキレさせるんじゃないかと気が気じゃなかった。
 男はうつむいてウイスキーのグラスを眺めていたが、急にミユキの方を向いて言った。
「宮城の出か」
「えっ、どうして分かるの?」
「話し方が」
「ええっ あたし訛ってる? 気をつけてるつもりなのに」
「俺も若い頃、仙台にいた。生まれは秋田だ」
 そして先程とは別人みたいな温かい笑顔を、ミユキだけに見せた。日に赤く焼けた頬がぷっくり膨らむ。二人の視線が空中で重なって一筋になり、次の瞬間、世界は二人だけのものになった。
 仕事しろ、ミユキ〜 残り五人の相手を俺一人でやるのは不公平じゃないか。まあ最初から期待はしていなかったが……
 しかしある意味、ミユキは俺より良い仕事をしたのかもしれない。秋田の男はそれから何度も店にやって来て、ミユキ一人を指名した。
「あんたたち、店でやらないでよね」
「やるって何をですか?」
「……」
 からかわれてもキョトンとしているので清い恋愛なのかと思いきや、個室を覗きに行くとあられもなく抱き合ってキスしていたりする。ミユキはもう仕事をしていなかった。自分のいる場所が見えなくなるほど完璧に、男と愛し合っていた。
 男が社長に会いに来たのは、そのすぐ後だ。結婚は出来なくても、養子縁組など法的に関係を結ぶことまで考えていると、真剣に語ったという。
「ここが遊廓じゃなくて本当に良かったですね」
「遊女を請け出すとなったら、身上潰したり心中したり、大変な騒ぎよね」
「あの男、ゲイには見えませんでしたけど」
「さあ。男か女かより、東北出身かどうかの方が重要だったんじゃないの。とにかくあんな不器用な子、のし付けてプレゼントよ」
 退職の日が近付くとミユキは明るくなったが、俺にだけは申し訳なさそうな顔をした。
「美大は諦めて、デザインの専門学校へ行くことになりました」
「あら、素敵じゃない」
「せっかく勉強を教えてくれたのに、すみません」
「ミユキが納得してるなら、それで良いと思うわよ」
 独学で美大を目指すのは厳しいのではないかと、心配していたのだ。
「ホームページを作る講座もあるって社長に話したら、この店のもあなたに任せるからしっかり学んで来なさいって言われました」
「社長はケチだから、安く使われないようにね」
 ミユキは笑いながら、大学ノート程の大きさの紙を差し出した。
「お金が無くて、こんなお礼しか出来なくてすみません」
 クリーム色の紙に鉛筆で「吉本なな」が描かれていた。黒くはっきりした線に迷いは無く、画面のオカマは獅子か女王のように堂々としていた。
 俺の外側はこんな風に見えるのか。
「ナナさんは本当に綺麗ですよね。特に目の光。どれだけ高い山に登っても、どれだけ深い海にもぐっても、ナナさんの瞳より美しいものは見つけられないと思います」
「そんな歯が浮くようなお世辞を言えるなら、お客にも愛想良くしてよ!」
「絶対に嘘はつけません。心にちゃんと浮かんで来た言葉しか口に出せないんです」
 ミユキの目の奥にかたくなな炎が見えた。親に与えられた人生を拒否し、自分の選んだ道を進む人間の激しさだった。
「お返しにキスをしたら、あの熊男に怒られるかしら?」
 ミユキは耳まで真っ赤になり、頬に両手を当てて叫んだ。
「キャーッ! ダ、ダメです! あたしはもう、あたしのものじゃないんで。もったいない気もするけど……」
 可愛い子は、いつも他人のものだ。俺は感謝の気持ちを示すために、自分の絵に口づけしてみせた。
 それにしても、あの男は何故ミユキの故郷が宮城だと分かったのだろう。多少おっとりしたしゃべり方ではあったが、俺には標準語にしか聞こえなかった。東北の人間だけが聞き分けられる、県ごとのイントネーションの違いがあるのだろうか。
 とにかくその不思議な能力と、そこから生じたミユキの恋愛が、ミユキのお姉さんの運命を変えてしまった。当時はまだ誰も、想像さえしていなかったけれど。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:51| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その17)

「……ということがあった」
「つくづく君は世話好きだねぇ」
「は?」
 俺と周平は駅ビルの定食屋で昼飯を食べていた。最近何か面白いことはあった? と周平が尋ねたので、ミユキの恋の顛末を語って聞かせたのだ。
「週一回家庭教師しに行ってただけじゃねえか」
「タダで、でしょ? 先輩風がびゅうびゅう吹いてる」
「家出少女から金なんぞ取れるか」
 俺としては、同郷の者を見分け、ゲイでもないのにミユキをめとった秋田男の奇っ怪さを説明したつもりなのだが、周平は特に興味を引かれないようだった。
「勇気を出して田舎から出て来て良かったね、ミユキさん。そのままだったら女の人と結婚させられてたと思うよ」
「女とは、無理だろう」
「無理でも何でも、跡継ぎ作れって周囲からプレッシャーをかけられるんだと思うな」
「んな無体な会社、とっとと潰しちまえばいいんだ」
「そう簡単にいかないよ。うちは父親がうるさくないから助かってるけど」
 食べ途中の鶏のきじ焼きから顔を上げると、一瞬だけ周平と目が合った。しかしすぐに視線をそらされた。
「お前の家も自営業か」
「一応」
「何屋だ」
 数秒の沈黙。
「内緒」
 周平はこの話題から離れたいらしく、不自然に関係ない話を振ってきたので、素直に従った。
 今さら隠しごとか。癪に障るな。
 帰宅後、克巳の携帯に電話をかけて訊いた。
「周平の実家の仕事を知ってるか」
「和紙の工房だよ。お父さんが和紙をすく職人さんだから」
「和紙職人?」
 あいつはそんな渋い家で育ったのか。
「俺には教えてくれなかった」
「家業を継ぐよう言われるのが嫌なんだと思うよ。七瀬くん、そういう日本の伝統大好きじゃん」
「他人のことに口を出したりしない」
 克巳は何故か電話の向こうで爆笑した。ひーひーとしばらく会話不能になった後、急に真面目な声で言った。
「周平を女の子とくっつけたりしたら許さないからね!」
「はぁっ? する訳ないだろ!」
「あ、でも、男なら良い。おれみたいにわがままじゃなくて、優しくて、真剣に恋愛するタイプの可愛い男がいたら、紹介してあげて」
「何で俺がお見合いおばさんにならにゃならんのだ」
「周平みたいな人が一人でいるのはもったいないよ。幸せになるべきだし、相手も幸せに出来るはずだもん」
 それじゃね、と一方的に通話は切れた。周平より、克巳の恋愛の方が心配なのだが。

 大学院を修了したからといって急に教授や助教授になれる訳ではない。教員の数は多く、学生は少子化で減る一方だ。非常勤講師の口さえなかった。
 ある時、担当教授の授業に呼ばれ、舞踊の振りを実演してみせた。化粧も衣装もなくただ浴衣で踊っただけなのに、大喝采だった。次からは歌舞伎舞踊の講義も任せてもらえた。日舞はやはり、俺の武器なのだ。
 長く稽古に通わず、自己流になってしまっているかもしれない。子どもの頃に習っていた華慧先生の門を、再び叩くことにした。空いている日時を確認するために電話をかけると、
「まあ懐かしい! すぐにでもいらっしゃい」
 と明るい声が返ってきて、緊張が解けた。
 十年前には真っ黒だった先生の髪は、真っ白になっていた。
「染めるのをやめたの。鏡獅子みたいで綺麗でしょう」
 皺が増えても色気のある顔で微笑んで、俺の後ろに目をやった。
「お母様は?」
「おかげさまで、元気に働いています」
「今日はご一緒じゃないの?」
「もう母親と出歩いたりしませんよ」
「昔はべったりだったじゃないの。私が何を言ってもお母様のことばかり気にして」
「そんなでしたっけ……」
 自立が遅かった自覚はあるので気恥ずかしい。
「楽しく踊れば良いのよと言っても『楽しい』というのがどういうことなのか分からないみたいだった。いつも痛々しいくらい必死で、親の期待に応えるために無理しているんじゃないかと気が気じゃなかった」
 ごまかしを全て見抜く厳しい目が、うっすら濡れて光った。
「戻って来てくれたということは、踊りを憎んでいた訳じゃないのね?」
「憎むなんて、考えたこともありませんよ! ただ……」
 自分の不甲斐なさに耐えられず下を向く。
「お稽古に通うだけで、発表会には出演出来ません。何百万も出せるほど稼ぎが無いんです」
 華慧先生は高く声立てて笑った。
「今はもう、あんな派手な催しやってないわよ。私も歳を取ったし、お座敷を借りて内輪の会を開くだけ。あれはあなたのためにやっていたんだから。お母様が費用のほとんどを負担してね」
「そうなんですか……」
 ホッとしたのと、改めて母親に呆れたのとで、力が抜ける。
「あの頃は景気が良くて、つまらないことに大金つぎ込む人が大勢いたけど、お母様は誰より賢明だったわね」
「最も愚かなような気がしますが」
「そんなことない。愛する人を見せびらかすのは何より楽しい道楽よ。それより心ときめくものなんてこの世にあるかしら?」
「はぁ……」
 それにしたって、全財産使い切るのはやり過ぎだろう。
「お母様の愛は重たかった?」
「いえ、親というのはああいうものなのかと。他に母を知らないので」
「そうね、誰でもみんな」
 うちが貧乏になったことも、俺がオカマとして働いていることも知らないはずの先生が、全て諒解した様子で、俺を見つめる。
「あなたがまっすぐ育ってくれて、本当に良かった」
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:50| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする