2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その21)

 次の日は晴れて、僕たちは最後のスキーを楽しんだ。その次の日、朝のうちに宿を出て、新幹線で東京に帰った。
「ずっと一緒にいたから、翼と離れるの寂しいな」
「またうちにおいでよ。泊まったって良いし」
「翼の家、サービス良過ぎて申し訳ないからなー 今度から宿泊費取って」
「考えとく」
 笑って手を振って別れたのに、自分の部屋に帰るとすぐ、僕は布団にもぐり込んで泣いた。僕たちの関係はもう行き止まりだ。これ以上進みようがない。司は僕のことを必要としてくれているし、ファンになるとまで言ってくれた。これで満足すべきなんだ。どうして「やりたい」なんて思っちゃうんだろう。
 生きているのだから食欲や性欲を感じるのは当然のことだし、男が好きなのも、少数派の方に入っちゃったんだなと思うだけで他の人ほど悩んだりしない。でも司を前にすると、自分の欲望が汚い、余計なものであるような気がしてくる。そんな気持ちになるのが嫌だった。
 それは結局、司が僕の性欲を必要としていないせいだ。僕は司が求めるものだけを差し出したい。性欲はどこかに捨ててこなければ。
 床の上で携帯電話が震えている。拾い上げると、司からのメールだった。

 翼が隣にいないと寂しい。

 僕も。

 まるで恋人同士みたいだ。もしかしたらもう、プラトニックな恋人なのかもしれない。そしてそんなものでは、僕の心と体は全然満たされないのだ。
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翼交わして濡るる夜は(その22)

 アキラに司を盗られたゲイバーには二度と行きたくなかったので、他に良い店がないかネットで探してみた。一つ、飛び抜けて料理の美味しそうな店があった。トップページに載っている「かえるくんの芽キャベツパスタ」がまず目を引いた。つやつやした黄緑色の芽キャベツに、てっぺんに載っている赤い唐辛子。サンドイッチやドーナツ、パイにもいくつか種類があって、全部食べてみたい。けれども価格設定が高めで、僕にはちょっと贅沢だ。
 お店のブログを見てみると、店長と料理人の写真があった。優しそうな眼鏡のおじさんと、女装している若い男の人で、頭をくっつけて寄り添っている様子から、説明がなくても二人が愛し合っているのが分かる。

 文学青年が集まるゲイバーにしたかったのに、メグの料理が美味し過ぎて美食クラブみたいになっています。本好きな人はもちろん、メグの料理を食べてみたい人はぜひ新宿三丁目の春樹カフェへ!

 文学青年ということは、光一のようなタイプがけっこう来るのかもしれない。水曜日は学生証を見せると料理が三割引きになるらしい。その日はきっと、学生目当てのおじさんも多いのではないか。そこに狙いを定めれば、やれる……!
 そこまで考えて、司以外とは誰ともやりたくない自分に気付く。もう何でも良い。やれるやれないに関係なく、メグさんの料理を食べてみたくて仕方がなかった。

「メグさんに会いに来ました」
「キャーッ! いきなり口説かれたーっ」
 春樹カフェは想像していたより落ち着いた雰囲気の店だった。壁や床には年季の入った焦げ茶色の木材が多く使われており、暖色の光が物静かなお客たちをほのかに照らしている。その中で、調理場だけがステージのように明るいのが面白い。そこで立ち働く料理人のメグさんも、その光に負けないくらい明るかった。
「ネットで料理の写真を見たんです。どれもすごく美味しそうだったから」
「あれ全部、周平が撮影したんだよ。カメラのことなんて全然知らなかったのに、専門書を何冊も買って、料理を美味しく撮る方法を研究して」
「周平さんっていうのは、あの眼鏡の店長のことですか?」
「そう! 努力家なの。すごいよね!」
 のろけだ…… メグさんは幸せそうに微笑みを浮かべたまま、手際良く牡蠣を揚げたりパスタを茹でたりレタスを千切ったりする。顔は綺麗な女の人なのに、メグさんの腕の皮膚の下では職人仕事で鍛えられた筋肉がうねっていて、ドキッとするほど男らしい。
「僕の宝物なんだ」
 周平さんはメグさんを見つめて目を細め、僕の方を向いてニコッと笑った。
「口説いても良いけど、口説き落としちゃダメだよ」
「大丈夫です。僕、うんと年上の人が好きだから。店長みたいな」
 周平さんは目をむいて、福々としたほっぺたを少し赤くした。
「僕も君のこと、初恋の人に似てるな、って」
「こらそこ、口説き落とされてるんじゃない!」
 メグさんは眉をつり上げて店長に包丁を向けた。
「可愛い男の子に口説かれたことないもんで、つい」
「あたしはっ! 可愛い男の子ですっ」
 夫婦ゲンカを見上げていたら、肩をぽんぽんと叩かれた。振り向くと、さっきまで誰も座っていなかった隣の席に、おじさんがウィスキーを持って移動しているところだった。
「君は純真そうな見た目に似合わず恐ろしい男のようだね」
 僕は遠慮せずにおじさんの品定めをする。ざっくりと伸ばしたヒゲはうっすら白く、たぶん三十代後半くらい。襟のないシャツにジャケットという格好で、会社勤めをしている人には見えない。でもだらしない感じはしなかった。
「迷惑なら元の席に戻るけど」
「いえっ そんなことないです」
「良かった」
 口説きに来たのかな? アキラみたいに馴れ馴れしく体に触ってきたりすることはなく、氷をカラカラ鳴らして琥珀色のお酒を飲んでいる。
「大学生?」
「はい」
「理系?」
「そう見えますか?」
「アサガオの観察するような目で俺を見るから」
「すみませんっ!」
 おじさんは肩を震わせて笑った。僕がおじさんを点検するように見たのは理系だからではなく、ここがゲイバーで、相手が自分の好みに合うかあからさまに判定しても構わないと思ったからだ。もしかしたらこの春樹カフェは、そういう場所ではないのかもしれない。
 文学青年が集まる店にしたかった、というネットの紹介文を思い出す。ここにいる客はみんな、光一やうちの父親のような人間なのだろうか。現実の世界におびえ、何かあるとすぐ言葉の森に逃げ込んでしまう人たち。
「君はどんな本が好きなの?」
 おじさんは僕の目を優しく見つめて言った。
「僕、小説はあんまり好きじゃなくて……」
「そう」
 おじさんは僕に気を遣って表情を変えなかったけど、失望したのが伝わってきた。僕はちょっとムキになってこう続けた。
「でも漫画は好きで、水木しげるの本はだいたい全部持ってます」
「水木しげるか。俺も戦争の話はあらかた読んだよ。ラバウルのエビ」
 おじさんが僕を試すようににやりと笑うから、僕は早口で返した。
「噛みしめても水しか出てこない」
「そう。あれは忘れられないな。戦争と命の虚しさをあれほど端的に表した場面を俺は他に知らない」
 おじさんはつげ義春とますむらひろしと吾妻ひでおの話をし、僕が全部読んでいるのを知って目を丸くした。
「渋いね。もしかして俺より年上だったりする?」
「古本屋で買えますから。文庫にもなってるし」
 僕に話を合わせてくれたからだと思うけど、おじさんとのおしゃべりは楽しかった。二人で声を立てて何度も笑った。
「物語って、こうやって人と話すネタにするために存在するんですかね?」
「いや、今日はたまたま二人とも知っている漫画があったから出来ただけで、世の中の人全てが『不条理日記』を読んでいる訳じゃない」
 吾妻ひでおの馬鹿馬鹿しいギャグを思い出し、また一緒に笑う。
「僕の好きな人、物語を読めなくなっちゃったんです。漫画も小説も昔話も、全部怖いって」
 司は僕の好きな人、なのか。もちろん分かっていたけれど、改めて言葉にしてみると、出口のない空間に追い詰められた気分だった。
「好きな人がいるんだね」
 おじさんの声が低く小さくなってハッとした。
「もしかして、僕のこと狙ってました?」
「気にしなくて良い。好きな人は俺もいるから。絶望的な相手だけど」
「ノンケの人?」
「いや、オネエ」
「へー」
「オネエなんだが、奥さんがいる」
 スパゲティを食べている最中だったから、思わずむせた。
「オネエで異性愛者という人もいるんですね」
「男しか好きになったことがないと言っていた。それなのに、俺のことは好きになってくれなかった」
 僕はおじさんの容姿を改めて確かめた。美男子ではないけれど、醜男でもないし、きっとこれまでに沢山の物事を考えてきたのだろうと思わせる、静かな目元が魅力的だった。
「その人の理想のタイプはオスカルなんだ」
「オスカルは女じゃないですか」
「さすが漫画オタク、話が早い」
 おじさんはコップに残っているお酒を一気に飲み干した。
「で、現れちゃったんだな、オスカル様が」
 頬杖ついてこちらを向いたおじさんの目は、酔いで潤み、座っている。
「君の好きな子は、こんなくだらない俺の話も怖がるのかね?」
「最もダメだと思いますよ。悲しい恋の話なんて」
「幸せなんだけどな、俺」
 僕はおじさんにシナモンドーナツを分けてあげて、二人で同じポットのお茶を飲んだ。紅茶を頼んだはずなのに、ほうじ茶みたいな和風の味がした。
 おじさんは別れる時に名刺をくれた。
「中嶋さん」
「そう」
 名前の他にはメールアドレスしか書いてない。
「お仕事は何をされてるんですか?」
「文化的雪かき」
 僕が首を傾げると、中嶋さんは満足そうに微笑んだ。

 司の話さえしなければ、中嶋さんとやれたのかもしれない。かなり好みだと感じたし、向こうも僕を気に入ってくれたと思う。何より中嶋さんは寂しそうで、僕も寂しくて、慰め合うのにぴったりだった。
 でもきっと僕は抱き合っている間ずっと司のことを考えてしまうし、おそらく中嶋さんもオネエとオスカルが頭から離れないだろう。
 オネエとオスカル。中嶋さんには悪いけど、楽しそうなカップルだ。想像すると笑みが浮かんでしまって、真剣に同情出来ない。
 中嶋さんは幸せだと言っていた。オネエに片思いして、オスカルにやきもちを焼いて。確かに幸せかもしれない。
 僕は司に「会おうよ」とメールした。やれなくても、オスカルの話を聞かせられなくても、会いたい人に会うことしか僕には出来ない。
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翼交わして濡るる夜は(その23)

「普通の手なのに……」
 司は僕の手を両手で優しく包んでしげしげと眺めた後、自分の右手を開いて僕のてのひらにくっつけて、指の長さを比べた。
「俺の方が大きいくらいだ」
 やらしい想像をしちゃうよ、どうしても。もしあれを比べるとしたら、司はどっちが大きいとか小さいとか言わないと思うけど。まず僕たちがそんな状況になることなんてないのだろうけど。
「どうして音大に進まなかったの?」
 近所迷惑にならないよう音量を調節して、僕の部屋にある電子ピアノで演奏を聴かせた後だった。
「サラリーマンになりたいから」
 司は僕を見つめて三秒ほど固まった。
「ネクタイ姿のおじさんを求めて……?」
「確かにスーツの似合う人って格好良いな〜って思う」
「翼は年上が好きなんだもんね」
 司は嬉しそうで、僕は複雑な気持ちで、でも「翼はおじさんマニア」ということにしておいた方が、司は安心出来るのかもしれない。
「もったいないな。ピアニストになれば良いのに」
「司さ、ピアノが弾ければピアニストになれると思ってない?」
「ただ弾ければ良いって訳じゃないことくらい分かるよ。翼みたいにピアノで人を感動させられたら、ピアニストになれると思う」
 僕は首を振った。
「ピアニストになるには、ピアノで戦って勝たなきゃいけないんだよ。色んなコンクールに出てさ」
「出れば良いじゃん」
「ピアノで戦いたくないんだ。音楽って、勝ったり負けたりするものじゃないと思う」
「格好良い、翼」
「格好つけてるんじゃなくて、そういう性格なんだよ。闘争心が足りないんだ」
 お姉ちゃんはピアノの腕前を競うことに一ミリの疑問も抱いていなかった。というより勝つことが全てだった。ピアノが上手いという上級生の家に乗り込んでいって自分の方が難しい曲を弾けるのを見せつけたり、ピアノ教室で「一番」になってしまうと「もっと良い先生のところに行きたい」と親にせがんで、またそこで一番を目指した。
 コンクールでは意外と賞を取れなくて、それでもやさぐれることなく帰宅後すぐに次の戦いのための準備(練習や音楽の勉強)を再開した。
 そういうスポ根漫画みたいなピアノの弾き方を見ていると、僕も同じように戦いたいとはとても思えなかった。お姉ちゃんは努力すればするほど、音楽の本質から離れていく気がした。
「まあピアニストにならなくたって、俺はいつでも翼の演奏を聴けるんだから」
「そうだよ」
「もっと弾いて」
 胸が痛くなるような笑顔で司は言う。
「良いよ」
 僕は心で鳴り響いているメロディをそのままピアノで追いかける。司は激しい曲より甘く悲しい音楽の方が好きみたいだから(聴いている時の表情を見れば分かる)なるべく司が喜ぶように、ためらいの間を含ませてアルペジオを展開する。うつむいてじっとしたまま耳を澄ましている司、その瞳が、かすかに細く、とろけるようになるのを僕は見逃さない。司は今、気持ち良くなっている。耳たぶ、首すじ、鎖骨、胸、わき腹、太もも、膝小僧と、司の感じる場所を探っていく僕のてのひら。僕はちゃんと見つける。この旋律だね? 司は小さく眉根を寄せて、でもそれは嫌だからじゃない。皮膚に歯を立てるようにとびきり不安定な和音を紛れ込ませ、もちろん本当に痛くはしない。すぐに分厚い長調の和音で包み込む。僕だって気持ち良くなりたい。司の好みは考えずに、指の動きにまかせて僕は……
 司が急に顔を上げた。視線がばちっと合って、心臓が止まりそうなほどびっくりした。
「な、何?」
「翼、鍵盤見なくてもピアノ弾けるの?」
「う、うん」
「へえ〜 すごいね」
「いちいち目で確認してたらピアノなんて弾けないよ」
「そうなんだ。翼の視線を感じて、あれ? って思ってさ」
 ピアノを弾いている時、僕はどんな表情をしているんだろう。今まで考えたこともなかった。エッチの最中みたいだったら恥ずかしいな。どっちの顔も自分では見たことないけど。
「弾いてくれてありがとう。俺、翼のピアノ、本当に好きだ」
 僕はつくづくピアノしか取り柄がないんだと思い知る。子供の頃から飽きるほど褒められていて、正直何とも思わない。司にはピアノではなく僕自身を好きになってもらいたい。……僕自身って何だろう? 僕の体? 心? 脳みそ?
「アキラと会わなくなってから、ずっと苦しいんだ。胸のあたりがもやもやして、時々発作みたいに全身が痛くなるし」
「それってさ、病院……」
 司は激しく首を横に振った。
「翼のピアノを聴くと治るんだ。だから家でも聴けるようにCDが欲しい」
「作ったことないよ」
「そのピアノ、音のデータ取れるんじゃないの?」
「さあ……」
「理系なのに機械に弱い」
 司が笑うので、僕はふくれた。
「必要ないから使ってないだけ! ねえ司、録音するの面倒だし、僕の演奏を聴きたくなったらうちに来なよ」
「翼にも会えるし」
「ご飯も食べられる」
「翼、優し過ぎるよ」
 だって、司のことが好きだから。僕はしばらくふくれたままで、司は僕を見つめて微笑んでいた。
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翼交わして濡るる夜は(その24)

 大学からの帰り、駅前のコンビニで買い物をしていたら、
「おい!」
 と声をかけられた。
 振り向くと、スーツ姿のアキラがいた。背が高い上にアフロだからインパクトがすごくて、でも限りなく黒に近い灰色のスーツは意外と似合っており、普通の人に見えなくもなかった。
「目を見開いて固まるなよ。妖怪に襲われた村人その一みたいだぞ」
「村人にもなるよ!」
 近所に住んでいるのにこれまでばったり会わなかったことの方がおかしいのかもしれない。しかしいざアキラの顔を見ると、色んな感情がぐちゃぐちゃになって、逆に頭が真っ白になってしまう。
 僕は奇妙な違和感を感じた。アキラの雰囲気が、ゲイバーで最後に見た時とずいぶん違う気がしたのだ。髪型と体型は変わっていない。スーツのせいでもないと思う。何だろう、アキラはもっとギラギラしていたはずなのに。
「お前、まだ司と連絡取ってる?」
 僕は黙ってうなずいた。アキラは周囲を気にするようにキョロキョロと左右を確認した。
「悪い。五分ばかり付き合ってくれないか。相談がある」
 コンビニを出て、アキラの早歩きを小走りで追いかけた。
「駅前にひと気のない場所というのはなかなかないもんだな」
「アキラとひと気のない所になんて行きたくないんだけど」
「もうおかしなことをしたりしないよ。俺の家に来るのも」
「イヤです!」
「だよなぁ」
 アキラは歩みを止めてアフロヘアの後ろをぽりぽり掻き、こちらに振り向いた。
「内緒話がしたいんだ」
「通行人は誰も僕たちの話なんて聞いてない」
「それもそうだな」
 アキラはうつむいて、逡巡するように何度もまばたきしてから、僕を見た。
「俺、病気になったんだ」
 悪い予感がした。地べたがぐらりと揺れる。
「エイズ」
 その単語を聞いた瞬間、僕はアキラの胸ぐらをつかんでいた。突き飛ばしてやりたかったのに、アキラの体は頑強でびくともせず、悔しさに顔が歪んだ。
「司も感染させたのかよ!」
「いや…… それより後だと思うんだ。でも一応検査するよう伝えたくて。あいつ、俺のメール着信拒否してるみたいだから」
 司の心を壊しておいて、アキラは平気で他の男と遊んでいたんだ。そんなの分かりきっている。この人にとっては当たり前のこと。それでも体の中心が煮え繰り返って爆発しそうだった。
「殺してやる」
 僕を見下ろすアキラの顔は寂しそうで、無力なくせにいきがっている僕をあわれんでいるようにも見えて、本当に今すぐアキラを殺したくなった。
「人が人を殺すのは腕力だけじゃない。……プルトニウムを飲ませてやる」
 冥王の名を持つ放射性物質。物理学科だからといってそんなもの自由に扱える訳がないのだけど、どうにかアキラをおびえさせたかった。痛みさえ感じる憎しみを、何がなんでもぶつけてやりたかった。
「体の中からお前をズタズタにするんだ」
「イヤな死に方だな、それ」
 アキラは怖がっていなかった。寂しげな顔が、悲しみの色に染まっただけだった。
「こんなくだらない男を殺して警察に捕まるのも馬鹿馬鹿しいだろ」
 僕はアキラの服を放した。悔しかった。二十歳を過ぎても僕は子供で、力でも心でもアキラには勝てなくて、僕がどんなにみっともなく優しいふりをして見せても、司はアキラに恋い焦がれて泣いている。
「治療さえすればエイズはもう死ぬ病気じゃないって、司に伝えてもらいたいんだ。たぶん大丈夫だと思うし、悩まないで検査して欲しい」
「勝手だよ。悩むに決まってる」
「お前も一緒に検査したらどうだ」
 良いこと思いついた! とでも言うように、アキラはニコニコして僕を見た。
「司が感染してたらお前だって危ないだろ?」
 ケンカに負けた犬そのままに、僕はその場から走って逃げた。アキラは僕と司がやっていると思い込んでいる。ゲイが二人いたらセックスするのが当然と……いや違う。僕が司を好きなのがバレバレなんだ。好きなんだったらやるだろ? しかも相手はあんなに落とすのが簡単な司だよ? アキラの声と僕の声が混ざり合って僕を責める。
 助けて。僕は家に帰って布団にもぐり込んだ。誰か助けて。東京に、僕を助けてくれる人なんていない。司に検査の話をしなければ。でも司に会いたくない。司は僕を苦しめるばかりで、僕を助けてはくれない。友達なんかじゃない。
 少し泣いて、少し眠った後で、春樹カフェのメグさんの顔が思い浮かんだ。メグさんが茹でた、オリーブオイルでつやつや輝くアルデンテのスパゲティが食べたかった。僕もパスタはよく作るけど、食材の切り方や加熱時間が雑で、やっぱりプロとは全然違う。メグさんはブロッコリー一つに対しても微笑みを向けて調理する。包丁を動かす親指や、鍋を持ち上げる二の腕にも無駄がない。
 あの人は芸術家なんだ。客の口の中に消えてしまう儚い存在のために、持てる技術と情熱をありったけ注ぎ込める人。
「お腹空いた〜!」
 アキラと司の問題はとりあえず脳内から消去して(この決意をするの、二度目だ)夕飯を食べに春樹カフェへ行くことにした。
 まだ日が落ちる前で、お店には夜の営業の準備をするメグさんと周平さんしかいなかった。
「料理頼んでも良いですか?」
「もっちろん!」
 僕は調理の様子が一番よく見えるカウンター席を選び、厨房の中を楽しそうに飛び回るメグさんを眺めた。周平さんが運んできてくれた紅茶のカップと受け皿には、可愛い羊のイラストが描かれている。
 唇がカップに触れたところで、肩をポンと叩かれた気がした。振り向いても誰もいない。何だろう。あっ!
 それは店内に流れている音楽の、ピアノの音だった。メロディとメロディの隙間に合いの手のように入る不協和音。楽しげな曲なのに、ピアノだけが奇妙で不可解な、クラシックではあり得ない音の選び方をしていた。ジャズだと思うけど、現代音楽かもしれない。どちらにしろ僕には馴染みのないジャンルだ。
「今かかっている音楽は何ですか?」
 周平さんはCDのケースを持ってきてくれた。
「セロニアス・モンク」
 ぼんやりと物思いに耽る、黒人のおじさんのモノクロ写真。つまずくような、ぎこちないピアノソロ。いや違う。複雑なステップを完璧に踏んでみせたんだ。これが彼にとっても曲にとっても正解なんだと気付いて、自分の知らない音楽の扉が開くのを感じた。
「この曲のピアノ、すごいですね!」
 周平さんは瞳だけを天井に向けて、しばらくセロニアス・モンクの音楽を聴いていた。そしてCDのケースを開けて解説が書いてある冊子を開いた。
「このピアノを弾いているのが、セロニアス・モンクなんだよね?」
「僕に聞かれても困りますけど」
「うん、そうだ。ここにも書いてある。この人こんなに下手で、よくクビにならなかったね」
「下手というのとはちょっと違う気が……」
 確かに滑らかな弾き方じゃない。クラシックのコンクールだったら一小節弾き終えないうちに会場から追い出されるだろう。けれどもただ楽譜通りに音を出しているだけの演奏に比べたら、こっちの方が断然「音楽」だ。そういう「棒読み」の演奏は世の中に不思議なほどあふれていて、街の騒音の一つだと思っている。音楽もどきの音の連打は僕の耳を通過してゆき、心に何も残さない。
「お待たせ〜」
 メグさんは枝豆がたっぷり載ったパスタの皿をことりと置いた。
「メグさんはどう思います?」
「えっ 何が? 枝豆について?」
「このピアノ」
 僕が上を指差すと、メグさんは周平さんとそっくりの表情で音楽に集中した、と思ったらすぐに僕をにらんだ。
「早く食べて! 伸びちゃう!」
「は、はい」
 バジルソースと枝豆が意外に合っていて美味しい。僕が勢いよく食べ始めるとメグさんは安心したらしく、目を細めてしばらく無言になった。
「これは、シャンツァイみたいなものなんじゃないかしら」
「えっ、バジルじゃないんですか?」
 思わず口から枝豆を飛ばしそうになる。
「それはバジル。落ち着いて食べて」
 メグさんはクスクス笑って人差し指で天井を指した。
「シャンツァイはこのピアノのこと。たとえば白いご飯にシャンツァイだけかけて食べろって言われたら」
「不味そう」
「ご飯への冒涜だよ」
 周平さんはよっぽど嫌だったらしく、眉根を寄せて首を振った。
「でもお米の粉で作った麺に、鶏肉とナンプラー味のスープをかけて、ライムをしぼってシャンツァイを添えたら」
「美味しいですよね、フォー」
 春樹カフェではなくベトナム料理屋に行くべきだったかと一瞬思ってしまった。
「要はバランスなのよ。ご飯にシャンツァイだけだと青臭さが強く出ちゃう。フォーの中ならシャンツァイはうまみとつり合って目立ち過ぎない。全体で見たら丸く収まる」
「枝豆とバジルも美味しいです」
「美味しく作ってるもの。この曲だって音楽のことをよく分かってる人が上手い組み合わせを考えて演奏してるんでしょ」
「そうだと思います」
「ピアノだけ聴くとちょっと変な気もするけど、他の音と混ざるとけっこう心地好い気がするんだ」
 周平さんは腕組みして言う。
「メグが音楽を語れるなんて全然知らなかった」
「あたしも店でこんな曲がかかってるなんて全然知らなかった」
「えっ」
 僕と周平さんは同時にメグさんの顔を見た。
「料理と接客で音楽に耳を傾ける余裕なんてないわよ!」
「ごめん」
「すみません」
 僕たちは、家事で忙しいお母さんにわがままを言ってしまった子供みたいに縮こまった。
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翼交わして濡るる夜は(その25)

 会計の後で、周平さんはセロニアス・モンクのCDを何枚か貸してくれた。
「良いんですか?」
「これを返すためにまたお店に来てくれたら僕たちは得するんだから」
 家に帰るとすぐベッドに横たわり、部屋を真っ暗にしてセロニアス・モンクの音楽を聴いた。
「世界は不可解なことで満ちている」
 ピアノを弾く人間だけに通じる言葉でセロニアスおじさんは言う。
「世界は不可解で美しいことで満ちている」
 おじさんは言葉を和音にして追加する。
「そうかなぁ」
 僕はシーツの上で鍵盤を叩いて答える。
「世界は不可解で美しく悲しいことで満ちている」
「そこで僕はどうしたら良いの?」
 訥々とした、優しいピアノソロが始まる。
「世界は愛情で満ちている」
「たとえそうだとしても、誰も僕には愛情をくれない」
「もらえないなら、与える側になれば良い」
 僕の言葉に答えたのは、僕の右手だった。
「でも、それだけじゃ苦しい」
「本当に?」
 セロニアスおじさんのピアノの音はいつの間にか遠くなり、僕の右手と左手の会話が脳内に鳴り響く。いつもの曲よりしっとりと濡れていて、主旋律は収束のあてなく変奏され、気が付けば全く知らない和音を生み出している。
 好きだよ、司。
 夢の中で泣いたのか、実際に涙が流れたのか、覚えていない。

「ありがとう、翼」
 家で使う通信機器を買い換えたいという司に付き合って、新宿にある大きな電気屋さんに行った。
「僕、あんまり役に立たなかったし」
 理系らしいところを見せなくちゃと思って、同じ学科のコンピュータに詳しい人(理工学部には掃いて捨てるほどいる)に相談したり、自分でもネットで検索したり、色々準備して行ったのに、司は買うものをだいたい決めていたので僕の努力はおおむねムダになった。
「買い物は、単に誘う理由が欲しかっただけだよ。翼に会いたかったんだ。最近連絡ないからどうしてるのかと思って」
 そんなに僕が好きなら、やろう! 今すぐ! と心の中で叫ぶ。こういう恋愛じゃない愛の告白に対して僕はどう返事をしたら良いのか。
 答えが浮かばなかったから、何も言わずに電子ピアノのコーナーへ行って適当に弾いた。
「翼、怒ってる?」
「怒ってないよ」
「それなら良いんだけど。何か曲の感じがいつもと違うから」
 僕はピアノを弾くのをやめた。
「いつもと違う? どんな風に?」
「よく分からないけど、音が濁ったというか…… 悪くなったんじゃなくて、籠められている感情が、前と違うのかなぁと思って」
 ここのところセロニアス・モンクのCDばかり聴いていたから、影響を受けたのだろう。僕はちょっとしたイタズラを思い付いた。
「好きな人が出来たんだよ」
「えっ」
 司が少しでも傷付けばと思ったのに、全く表情が変わらず僕の方が傷付いた。
「すごく優しい人で、いつも僕を慰めてくれるんだ」
「ふーん…… おめでとう。付き合い始めたってことだよね?」
「ううん、片思い。相手、奥さんいるし」
「えっ、ダメだよ、そんなの」
「まあ仕方ないよねぇ〜 好きになっちゃったんだから」
「おじさんが好きな人って、大変だね……」
 司が暗い顔して深刻に言うから、僕はとうとう吹き出した。
「僕の家においでよ。好きな人の写真見せてあげる」
 駅ビルで九州物産展をやっていたので「いきなり団子」を買って帰った。
「これが僕の好きな人」
 いきなり団子と緑茶をテーブルに用意してから、セロニアス・モンクのCDを司に見せた。
「外国人なんだ……」
 司はCDを両手でつかんで真面目な顔で言う。
「まだ、だまされてるの?」
「えっ?」
「オレオレ詐欺とかに気をつけてね、司……」
 俺だよ俺、アキラだよ。二百万円振り込んでくれない? 司は何の迷いもなく振り込んじゃうんだろうな。勝手に想像しただけなのに心が疲れた。
 司はCDケースを開けて解説冊子を開いた。
「昔の人?」
「モーツァルトほどじゃないけど、もうずいぶん前に亡くなってる」
「これ空だけど、CDは?」
「プレーヤーに入ったまま。かけるね」
 司は頬杖ついて音楽に集中した。少しまぶたを落としてアンニュイな顔でいると、司は本当に格好良い。単純バカになんて全然見えない。僕はいきなり団子を頬張りながら司に見とれた。
「薄暗いバーでかかってそう」
「確かに最初に聴いたのはそういうお店だった。店員は明るいんだけど」
「俺、翼のいつもの演奏の方が好きだ」
 司は再び解説冊子に目をやった。
「この人、何か悩みがあるんじゃないかな。黒人に対する差別も今より激しかっただろうし、色々つらい思いをしてさ。だから音楽もちょっと歪んでるんだと思う。翼とは全然違うよ」
 僕はセロニアス・モンクに励まされてばかりいたから「悩みがある」という司の指摘は意外だった。セロニアスおじさんに悩みを打ち明けられた覚えはない。けれどももしかしたら、司は彼の音楽から別のメッセージを受け取ったのかもしれない。
「悩み」
「うん。翼みたいに幸せな人じゃないよ、きっと」
 司が僕を悩みも苦しみもない人間だと思いたがっているのは知っている。しかし僕の本当の姿を見てくれないことに、さすがに腹が立ってきた。……もう言ってしまおう。
「僕だって悩みくらいあるよ」
「えっ」
 司は真剣な目で僕の顔を覗き込んだ。
「どんな悩み?」
 僕は大きく息を吸い込んで、言った。
「駅前のコンビニで、アキラに会ったんだ」
 司は数秒固まってから、ふだん僕の前では絶対にしない、アキラに肩を抱かれた時だけ見せたとろける笑顔で、
「アキラ、元気にしてた?」
 と聞いてきた。
「アキラがそんなに気になるなら、着信拒否なんてしなきゃいいじゃん!」
 僕の言葉が司の心をすぱっと切った感触があった。再起不能になるまで司を切り刻んでやりたい。欲望が火柱みたいに立ちのぼる。
「司、エイズになってるかもしれない」
「え?」
「アキラが! エイズだったんだって! だから司も」
「それはないよ。俺、検査したから」
 髪を振り乱して怒鳴り散らす僕に対し、司は冷静に言った。
「アキラと会わなくなって三ヶ月後くらいに病院行った。他にも一度ヤバそうなことがあったから」
 他? 全身の血が変な風に巡るのを感じる。
「アキラと別れた後に、誰かとやったの?」
「アキラの前。その後はない。もう一生ないから心配する必要ないよ」
 僕を安心させるように笑って見せた司を、僕はどう思えば良いのか。うまく立っていられなくなり、気付いた時には膝をついて大声出して泣いていた。
「司は僕を、頭からっぽの人間みたいに思ってるけど!」
「からっぽなんて思ってない」
「ずっと、言わなきゃと思って……僕が教えなかったら、司、病気のこと知らないまま、死んじゃうって……」
 セロニアスおじさんの確信に満ちた和音が、僕の背中をぽん、と叩く。
「翼を悩ませていたのは俺だったんだね」
「アキラだよ! 司をこんなに傷付けて、病気の心配までさせて」
「アキラ、一人で大丈夫かな」
 僕が顔を上げると、司は遠くを見ていた。
「医学が進歩して前ほど怖い病気じゃなくなったみたいだけど、それでも不安だろうなって」
「アキラを気遣う余裕なんかない!」
「アキラが病気で苦しんでいると思うと、俺、何か、うまく呼吸が出来なくなる」
 こちらを向いた司と視線が合う。司は「僕用の」微笑みを浮かべた。
「俺、やっぱりまだアキラのことが好きなんだね。認めたくなくて、必死に頭から追い払おうとしてきたけど、どうしようもないんだ」
「知ってるよ、そんなの。今さらって感じ」
「こんなに好きなのにさ、アキラが困ってる時に助けられないなんて、馬鹿みたいだ」
「助けに行けば良いじゃん」
「出来ないよ。俺、絶対アキラに迷惑かける」
 司は自分のカバンからタオルを出して両目にぎゅっと押し当て、しばらく動かなかった。僕は手持ち無沙汰だったから、食べかけのいきなり団子を頬張った。司は震える声で、
「そのいきなり団子って、ヘルシーで美味しいね」
「ヘルシー」
「団子の概念が関東とは少し違うみたいだけど」
「概念」
 司は瞳を潤ませたまま、いきなり団子をもう一個食べた。僕たちはアキラの話なんて一切しなかった振りをして、その後の時間を過ごした。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:22| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする