着替えて食堂に行っても、司は精神の暗闇から戻ってこない。僕たちは無言でご飯と塩鮭を食べた。
「あっ」
「ん?」
司が顔を上げる。
「今朝見た夢、思い出した。すべっていくんだ。つつーって」
「ああ、スキーをやったせいだね」
「スキーとは進み方が違ってたな。司と反対の方向に等速直線運動」
僕が後ろを指差しながらそう言うと、司はようやく笑った。僕はどうしてか分からないけど、すごく寂しくなった。
「もしこの世界に摩擦がなくて、何もかもツルツルしてたら、僕たちどこにも行けないんだね」
「どこにでもすべって行けて便利なんじゃないの。スキーみたいに」
「摩擦がなかったら歩けないよ。ずっと右足と左足を交互に出すだけになるはず」
「誰かに背中を押してもらえば?」
「その人とは二度と会えない」
朝食に付いていたヤクルトを飲み始めて、すぐにお茶碗に吐いた。
「翼、どうしたの? 大丈夫?」
「ヤクルトって、炭酸入ってたっけ?」
司は自分のヤクルトのフタを開けて臭いを嗅いだ。
「発酵が悪い方向に進んだらしい」
「腐ってるって言いなよ、素直に」
「ここに着いた日、暑かったからさ、うっかり日の当たる場所に置いておいてダメにしちゃったのかもね」
「ウェアもボロボロだし、雑な宿だなぁ」
「次に旅行する時はもっと高級なホテルに泊まろう」
そんな所へ行っても、司とやれないんじゃなー やることばっかり考えている自分が可哀想だった。
朝から降り続いていた雪は止むどころかひどくなり、真っ白く吹雪いて数メートル先も見えない。
「今日はスキー無理だね」
「ホレおばさん頑張り過ぎ」
司は窓の外をじっと見た。
「宿のおばさん? こんな雪の中で働いてるの?」
「違うよ。グリム童話の」
そこまで言ってさっと血の気が引いた。司は物語が嫌いなのに。しかもグリム童話は子供向けとは思えないほど残酷なのだ。
「ごめん。うそ。ホレおばさん頑張ってない」
司は肩を震わせて笑った。
「良いよ。翼が話す物語は平気だから。教えて」
「ドイツでは雪が降ると『ホレおばさんが布団を振っている』って言うんだよ。中の綿が飛び出るのが雪みたいでしょ」
「ホレおばさんって誰」
「魔女の一種じゃないかなー」
グリム童話では、ホレおばさんは怠け者の娘にタールをかける。司が心を痛めたら大変なので、そんな話はしない。やり過ぎだろ、って僕も思うし。
「ドイツにはいっぱい魔女の話があるんだよ。ブロッケン山のヴァルプルギスの夜とか」
「嬉しそうだね」
「魔女、悪魔、妖怪。そういうの大好きなんだ! 司が怖がると思って話さないけど」
「ごめんね、話聞けなくて」
「いいよ。他の人にもあんまりしないし」
「天使の話なら聞けると思うけど」
パッと光一の顔が思い浮かび、再び犯そうとしている罪を突き付けられた気がした。自分がどれだけ酷い人間で、それをいかに必死で隠して司と接しているか。
全部懺悔してしまいたい。ダメだ。今の司には優しい友達が必要なんだ。「本当に」優しい友達でなくたっていい。
「どうしたの、固まって」
「ふ、古傷がうずいて」
「前の彼氏に『エンジェル』って呼ばれてたとか?」
「うわ、寒ぅ〜! それはないよ! ひぃ〜!」
二人でお腹が痛くなるほど大笑いして、あれ、司と話せることが前より増えたかも、と気付いた。旅行に来て親しくなったせいなのか、司が回復してきているからなのか、分からないけど。
「今日一日、何しよう」
「この雪じゃ、外出ると遭難するね」
「ゲームでもやろうか。鹿のくん製のそばにあった気がする」
受付の横、普通のホテルなら「ロビー」と呼ばれるであろう場所には、暇つぶしのためのおもちゃが散乱している。ゲーム機、トランプ、麻雀、将棋、オセロ、タンバリン等々。すでに先客がいて、たぶん僕より歳下の女の子たちが、人生ゲームをしながら酒盛りをしている。
「あっ、ピアノ!」
壁際に国産のアップライトピアノが置いてあった。どうせ調律もされずとんでもない音程になっているのだろう。悪口を言うためにショパンのエチュードを弾いたら、一つのキーも狂ってない。安っぽい、軽やかな音がする。グランドピアノの重厚な響きより、僕はこういう音色の方が好きだ。作品十の一番を最後まで弾き終える。
「すごいよ、司! この宿には、ピアノに対する意識の高い人がいるんだ。ヤクルトへの意識はあんなに低いのに」
椅子に座ったまま振り向くと、司は目を見開いて僕を見ていた。
「翼…… 何者?」
「え?」
「音大、じゃなかったよね?」
「うん。理工学部だよ」
司は真剣な眼差しで僕を見つめ続ける。ドキドキしてしまって、せっかく友達でいられたのにと悔しくなりながら、視線をそらした。
「趣味でピアノやるの、そんなに変?」
「いや、趣味の域じゃなくない?」
「これくらい弾ける人、いっぱいいるよ」
「もっと聴きたい」
「良いよ」
トランプをやっているヒゲ面の男が、
「革命!」
と叫んだので、僕はショパンの「革命」を弾いた。
「ブラボー!」
酒盛りをしていた女の子のうちの一人が叫び、周りの子たちは、
「もうバカ、酔っ払い! 恥ずかしい!」
と笑いながら拍手してくれた。
ポニーテールのブラボー女子はこちらに近付いてきて、
「リストのラ・カンパネラ、弾ける?」
と目を輝かせた。
「もちろん」
僕はこの曲の切迫した雰囲気を完全に消して、ダンス音楽のように明るく楽しく弾いた。その方が彼女に似合う気がしたから。
弾き終えると、いつの間にか真後ろに立っていた茶髪のお姉さんが、
「普通の曲は弾けないの?」
と聞いてきた。
「普通……?」
「BUMPが好きなんだけど」
ああ、この人にとってはポップスが普通の曲なんだ。僕は派手な装飾をたっぷり付けて「天体観測」を弾いてみせた。
「きゃりーぱみゅぱみゅ!」
「となりのトトロ!」
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲!」
「津軽海峡冬景色!」
僕は次々とリクエストに応えてゆき、最後に、司と一緒にいると必ず心の中で鳴り響く、あの曲を弾いた。言葉にさえしなければ、いくらでも愛を表現して良い。そのことに救われる。よどんだ感情がメロディに変換されて体の外に出てゆき、僕は一時的に空っぽになった。
「お腹空いたからおしま〜い!」
そう言って立ち上がると、ピアノの周りにはいつもと同じように人がぎっしり集まっていて、鳴り止まない拍手を聞きながら、僕は司を引っぱり部屋に戻った。
2020年03月03日
翼交わして濡るる夜は(その19)
posted by 柳屋文芸堂 at 10:31| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は
|
翼交わして濡るる夜は(その20)
「お昼、何食べよっか」
「いやいや昼飯どころじゃないよ! さっきの何? あれ」
僕のお腹がギュゥ〜っと鳴る。
「今は食べることしか考えられない!」
司が宿のおじさんにおすすめの店を聞いてくれて、僕たちは宿から徒歩五分ほどの所にある定食屋さんに行くことになった。スキーウェアを着て、新しい雪にずぶずぶと足を踏み入れ、大変な行軍だった。わーとかキャーとか叫んで楽しかったけど。
僕は豚の味噌焼き定食、司はコロッケ定食を頼んだ。
「あぁ〜 肉が! 胃に沁み入る!」
「お米も宿のより美味しい気がする」
「ほんとあそこ、ピアノの音が合ってる以外、良いとこないよ」
「ピアノの音が合ってるのって、そんなにすごいことなの?」
「調律師を呼ばないと出来ないから。お金もかかるし。もしかしたら宿泊客に調律師がいて、暇つぶしに音を合わせたのかもしれないね」
そう考えなければ納得いかないくらいの、見事な狂いのなさだった。僕はちょっと甘みのある豚肉を噛みしめながら、さっきの気持ち良い演奏を思い出した。
「最後に弾いた曲の名前を教えて」
「えっ」
司のテーマ、という何のひねりもない単語が浮かび、言うわけにいかないなと苦笑する。
「動画サイトで検索したら聴けるよね?」
「聴けないよ」
「CDならある?」
「ない。あれ僕が勝手に弾いてるだけだから」
「勝手に?」
「心の中で鳴ってるメロディに、適当に音を付けるんだ」
「翼が作曲したということ?」
「そんな大袈裟なものじゃないと思う。譜面に書いたりしてないし」
「すごく良かったよ。音楽に感動するってこういうことなんだね。うまく言えないけど、生まれて初めて、自分のための音楽を聴いた気がした」
僕は思わずお茶を吹きそうになった。そりゃそうだよ。あれは司が作り出している音楽なんだから。
「何々っていうバンドが好きだとか、誰々っていう歌手のファンだとか、みんな当たり前みたいに言うじゃん? 俺、ああいうの全然分からなくてさ。俺には音楽を理解する才能がないんだと思ってた。でも違う。俺は今まで本当に素晴らしい音楽に出会ってなかったんだ」
司は熱のこもった瞳で僕を見つめて言った。
「俺、翼のファンになる!」
今度こそお茶吹いた。
「いやいや昼飯どころじゃないよ! さっきの何? あれ」
僕のお腹がギュゥ〜っと鳴る。
「今は食べることしか考えられない!」
司が宿のおじさんにおすすめの店を聞いてくれて、僕たちは宿から徒歩五分ほどの所にある定食屋さんに行くことになった。スキーウェアを着て、新しい雪にずぶずぶと足を踏み入れ、大変な行軍だった。わーとかキャーとか叫んで楽しかったけど。
僕は豚の味噌焼き定食、司はコロッケ定食を頼んだ。
「あぁ〜 肉が! 胃に沁み入る!」
「お米も宿のより美味しい気がする」
「ほんとあそこ、ピアノの音が合ってる以外、良いとこないよ」
「ピアノの音が合ってるのって、そんなにすごいことなの?」
「調律師を呼ばないと出来ないから。お金もかかるし。もしかしたら宿泊客に調律師がいて、暇つぶしに音を合わせたのかもしれないね」
そう考えなければ納得いかないくらいの、見事な狂いのなさだった。僕はちょっと甘みのある豚肉を噛みしめながら、さっきの気持ち良い演奏を思い出した。
「最後に弾いた曲の名前を教えて」
「えっ」
司のテーマ、という何のひねりもない単語が浮かび、言うわけにいかないなと苦笑する。
「動画サイトで検索したら聴けるよね?」
「聴けないよ」
「CDならある?」
「ない。あれ僕が勝手に弾いてるだけだから」
「勝手に?」
「心の中で鳴ってるメロディに、適当に音を付けるんだ」
「翼が作曲したということ?」
「そんな大袈裟なものじゃないと思う。譜面に書いたりしてないし」
「すごく良かったよ。音楽に感動するってこういうことなんだね。うまく言えないけど、生まれて初めて、自分のための音楽を聴いた気がした」
僕は思わずお茶を吹きそうになった。そりゃそうだよ。あれは司が作り出している音楽なんだから。
「何々っていうバンドが好きだとか、誰々っていう歌手のファンだとか、みんな当たり前みたいに言うじゃん? 俺、ああいうの全然分からなくてさ。俺には音楽を理解する才能がないんだと思ってた。でも違う。俺は今まで本当に素晴らしい音楽に出会ってなかったんだ」
司は熱のこもった瞳で僕を見つめて言った。
「俺、翼のファンになる!」
今度こそお茶吹いた。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:30| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は
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翼交わして濡るる夜は(その21)
次の日は晴れて、僕たちは最後のスキーを楽しんだ。その次の日、朝のうちに宿を出て、新幹線で東京に帰った。
「ずっと一緒にいたから、翼と離れるの寂しいな」
「またうちにおいでよ。泊まったって良いし」
「翼の家、サービス良過ぎて申し訳ないからなー 今度から宿泊費取って」
「考えとく」
笑って手を振って別れたのに、自分の部屋に帰るとすぐ、僕は布団にもぐり込んで泣いた。僕たちの関係はもう行き止まりだ。これ以上進みようがない。司は僕のことを必要としてくれているし、ファンになるとまで言ってくれた。これで満足すべきなんだ。どうして「やりたい」なんて思っちゃうんだろう。
生きているのだから食欲や性欲を感じるのは当然のことだし、男が好きなのも、少数派の方に入っちゃったんだなと思うだけで他の人ほど悩んだりしない。でも司を前にすると、自分の欲望が汚い、余計なものであるような気がしてくる。そんな気持ちになるのが嫌だった。
それは結局、司が僕の性欲を必要としていないせいだ。僕は司が求めるものだけを差し出したい。性欲はどこかに捨ててこなければ。
床の上で携帯電話が震えている。拾い上げると、司からのメールだった。
翼が隣にいないと寂しい。
僕も。
まるで恋人同士みたいだ。もしかしたらもう、プラトニックな恋人なのかもしれない。そしてそんなものでは、僕の心と体は全然満たされないのだ。
「ずっと一緒にいたから、翼と離れるの寂しいな」
「またうちにおいでよ。泊まったって良いし」
「翼の家、サービス良過ぎて申し訳ないからなー 今度から宿泊費取って」
「考えとく」
笑って手を振って別れたのに、自分の部屋に帰るとすぐ、僕は布団にもぐり込んで泣いた。僕たちの関係はもう行き止まりだ。これ以上進みようがない。司は僕のことを必要としてくれているし、ファンになるとまで言ってくれた。これで満足すべきなんだ。どうして「やりたい」なんて思っちゃうんだろう。
生きているのだから食欲や性欲を感じるのは当然のことだし、男が好きなのも、少数派の方に入っちゃったんだなと思うだけで他の人ほど悩んだりしない。でも司を前にすると、自分の欲望が汚い、余計なものであるような気がしてくる。そんな気持ちになるのが嫌だった。
それは結局、司が僕の性欲を必要としていないせいだ。僕は司が求めるものだけを差し出したい。性欲はどこかに捨ててこなければ。
床の上で携帯電話が震えている。拾い上げると、司からのメールだった。
翼が隣にいないと寂しい。
僕も。
まるで恋人同士みたいだ。もしかしたらもう、プラトニックな恋人なのかもしれない。そしてそんなものでは、僕の心と体は全然満たされないのだ。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:29| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は
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翼交わして濡るる夜は(その22)
アキラに司を盗られたゲイバーには二度と行きたくなかったので、他に良い店がないかネットで探してみた。一つ、飛び抜けて料理の美味しそうな店があった。トップページに載っている「かえるくんの芽キャベツパスタ」がまず目を引いた。つやつやした黄緑色の芽キャベツに、てっぺんに載っている赤い唐辛子。サンドイッチやドーナツ、パイにもいくつか種類があって、全部食べてみたい。けれども価格設定が高めで、僕にはちょっと贅沢だ。
お店のブログを見てみると、店長と料理人の写真があった。優しそうな眼鏡のおじさんと、女装している若い男の人で、頭をくっつけて寄り添っている様子から、説明がなくても二人が愛し合っているのが分かる。
文学青年が集まるゲイバーにしたかったのに、メグの料理が美味し過ぎて美食クラブみたいになっています。本好きな人はもちろん、メグの料理を食べてみたい人はぜひ新宿三丁目の春樹カフェへ!
文学青年ということは、光一のようなタイプがけっこう来るのかもしれない。水曜日は学生証を見せると料理が三割引きになるらしい。その日はきっと、学生目当てのおじさんも多いのではないか。そこに狙いを定めれば、やれる……!
そこまで考えて、司以外とは誰ともやりたくない自分に気付く。もう何でも良い。やれるやれないに関係なく、メグさんの料理を食べてみたくて仕方がなかった。
「メグさんに会いに来ました」
「キャーッ! いきなり口説かれたーっ」
春樹カフェは想像していたより落ち着いた雰囲気の店だった。壁や床には年季の入った焦げ茶色の木材が多く使われており、暖色の光が物静かなお客たちをほのかに照らしている。その中で、調理場だけがステージのように明るいのが面白い。そこで立ち働く料理人のメグさんも、その光に負けないくらい明るかった。
「ネットで料理の写真を見たんです。どれもすごく美味しそうだったから」
「あれ全部、周平が撮影したんだよ。カメラのことなんて全然知らなかったのに、専門書を何冊も買って、料理を美味しく撮る方法を研究して」
「周平さんっていうのは、あの眼鏡の店長のことですか?」
「そう! 努力家なの。すごいよね!」
のろけだ…… メグさんは幸せそうに微笑みを浮かべたまま、手際良く牡蠣を揚げたりパスタを茹でたりレタスを千切ったりする。顔は綺麗な女の人なのに、メグさんの腕の皮膚の下では職人仕事で鍛えられた筋肉がうねっていて、ドキッとするほど男らしい。
「僕の宝物なんだ」
周平さんはメグさんを見つめて目を細め、僕の方を向いてニコッと笑った。
「口説いても良いけど、口説き落としちゃダメだよ」
「大丈夫です。僕、うんと年上の人が好きだから。店長みたいな」
周平さんは目をむいて、福々としたほっぺたを少し赤くした。
「僕も君のこと、初恋の人に似てるな、って」
「こらそこ、口説き落とされてるんじゃない!」
メグさんは眉をつり上げて店長に包丁を向けた。
「可愛い男の子に口説かれたことないもんで、つい」
「あたしはっ! 可愛い男の子ですっ」
夫婦ゲンカを見上げていたら、肩をぽんぽんと叩かれた。振り向くと、さっきまで誰も座っていなかった隣の席に、おじさんがウィスキーを持って移動しているところだった。
「君は純真そうな見た目に似合わず恐ろしい男のようだね」
僕は遠慮せずにおじさんの品定めをする。ざっくりと伸ばしたヒゲはうっすら白く、たぶん三十代後半くらい。襟のないシャツにジャケットという格好で、会社勤めをしている人には見えない。でもだらしない感じはしなかった。
「迷惑なら元の席に戻るけど」
「いえっ そんなことないです」
「良かった」
口説きに来たのかな? アキラみたいに馴れ馴れしく体に触ってきたりすることはなく、氷をカラカラ鳴らして琥珀色のお酒を飲んでいる。
「大学生?」
「はい」
「理系?」
「そう見えますか?」
「アサガオの観察するような目で俺を見るから」
「すみませんっ!」
おじさんは肩を震わせて笑った。僕がおじさんを点検するように見たのは理系だからではなく、ここがゲイバーで、相手が自分の好みに合うかあからさまに判定しても構わないと思ったからだ。もしかしたらこの春樹カフェは、そういう場所ではないのかもしれない。
文学青年が集まる店にしたかった、というネットの紹介文を思い出す。ここにいる客はみんな、光一やうちの父親のような人間なのだろうか。現実の世界におびえ、何かあるとすぐ言葉の森に逃げ込んでしまう人たち。
「君はどんな本が好きなの?」
おじさんは僕の目を優しく見つめて言った。
「僕、小説はあんまり好きじゃなくて……」
「そう」
おじさんは僕に気を遣って表情を変えなかったけど、失望したのが伝わってきた。僕はちょっとムキになってこう続けた。
「でも漫画は好きで、水木しげるの本はだいたい全部持ってます」
「水木しげるか。俺も戦争の話はあらかた読んだよ。ラバウルのエビ」
おじさんが僕を試すようににやりと笑うから、僕は早口で返した。
「噛みしめても水しか出てこない」
「そう。あれは忘れられないな。戦争と命の虚しさをあれほど端的に表した場面を俺は他に知らない」
おじさんはつげ義春とますむらひろしと吾妻ひでおの話をし、僕が全部読んでいるのを知って目を丸くした。
「渋いね。もしかして俺より年上だったりする?」
「古本屋で買えますから。文庫にもなってるし」
僕に話を合わせてくれたからだと思うけど、おじさんとのおしゃべりは楽しかった。二人で声を立てて何度も笑った。
「物語って、こうやって人と話すネタにするために存在するんですかね?」
「いや、今日はたまたま二人とも知っている漫画があったから出来ただけで、世の中の人全てが『不条理日記』を読んでいる訳じゃない」
吾妻ひでおの馬鹿馬鹿しいギャグを思い出し、また一緒に笑う。
「僕の好きな人、物語を読めなくなっちゃったんです。漫画も小説も昔話も、全部怖いって」
司は僕の好きな人、なのか。もちろん分かっていたけれど、改めて言葉にしてみると、出口のない空間に追い詰められた気分だった。
「好きな人がいるんだね」
おじさんの声が低く小さくなってハッとした。
「もしかして、僕のこと狙ってました?」
「気にしなくて良い。好きな人は俺もいるから。絶望的な相手だけど」
「ノンケの人?」
「いや、オネエ」
「へー」
「オネエなんだが、奥さんがいる」
スパゲティを食べている最中だったから、思わずむせた。
「オネエで異性愛者という人もいるんですね」
「男しか好きになったことがないと言っていた。それなのに、俺のことは好きになってくれなかった」
僕はおじさんの容姿を改めて確かめた。美男子ではないけれど、醜男でもないし、きっとこれまでに沢山の物事を考えてきたのだろうと思わせる、静かな目元が魅力的だった。
「その人の理想のタイプはオスカルなんだ」
「オスカルは女じゃないですか」
「さすが漫画オタク、話が早い」
おじさんはコップに残っているお酒を一気に飲み干した。
「で、現れちゃったんだな、オスカル様が」
頬杖ついてこちらを向いたおじさんの目は、酔いで潤み、座っている。
「君の好きな子は、こんなくだらない俺の話も怖がるのかね?」
「最もダメだと思いますよ。悲しい恋の話なんて」
「幸せなんだけどな、俺」
僕はおじさんにシナモンドーナツを分けてあげて、二人で同じポットのお茶を飲んだ。紅茶を頼んだはずなのに、ほうじ茶みたいな和風の味がした。
おじさんは別れる時に名刺をくれた。
「中嶋さん」
「そう」
名前の他にはメールアドレスしか書いてない。
「お仕事は何をされてるんですか?」
「文化的雪かき」
僕が首を傾げると、中嶋さんは満足そうに微笑んだ。
司の話さえしなければ、中嶋さんとやれたのかもしれない。かなり好みだと感じたし、向こうも僕を気に入ってくれたと思う。何より中嶋さんは寂しそうで、僕も寂しくて、慰め合うのにぴったりだった。
でもきっと僕は抱き合っている間ずっと司のことを考えてしまうし、おそらく中嶋さんもオネエとオスカルが頭から離れないだろう。
オネエとオスカル。中嶋さんには悪いけど、楽しそうなカップルだ。想像すると笑みが浮かんでしまって、真剣に同情出来ない。
中嶋さんは幸せだと言っていた。オネエに片思いして、オスカルにやきもちを焼いて。確かに幸せかもしれない。
僕は司に「会おうよ」とメールした。やれなくても、オスカルの話を聞かせられなくても、会いたい人に会うことしか僕には出来ない。
お店のブログを見てみると、店長と料理人の写真があった。優しそうな眼鏡のおじさんと、女装している若い男の人で、頭をくっつけて寄り添っている様子から、説明がなくても二人が愛し合っているのが分かる。
文学青年が集まるゲイバーにしたかったのに、メグの料理が美味し過ぎて美食クラブみたいになっています。本好きな人はもちろん、メグの料理を食べてみたい人はぜひ新宿三丁目の春樹カフェへ!
文学青年ということは、光一のようなタイプがけっこう来るのかもしれない。水曜日は学生証を見せると料理が三割引きになるらしい。その日はきっと、学生目当てのおじさんも多いのではないか。そこに狙いを定めれば、やれる……!
そこまで考えて、司以外とは誰ともやりたくない自分に気付く。もう何でも良い。やれるやれないに関係なく、メグさんの料理を食べてみたくて仕方がなかった。
「メグさんに会いに来ました」
「キャーッ! いきなり口説かれたーっ」
春樹カフェは想像していたより落ち着いた雰囲気の店だった。壁や床には年季の入った焦げ茶色の木材が多く使われており、暖色の光が物静かなお客たちをほのかに照らしている。その中で、調理場だけがステージのように明るいのが面白い。そこで立ち働く料理人のメグさんも、その光に負けないくらい明るかった。
「ネットで料理の写真を見たんです。どれもすごく美味しそうだったから」
「あれ全部、周平が撮影したんだよ。カメラのことなんて全然知らなかったのに、専門書を何冊も買って、料理を美味しく撮る方法を研究して」
「周平さんっていうのは、あの眼鏡の店長のことですか?」
「そう! 努力家なの。すごいよね!」
のろけだ…… メグさんは幸せそうに微笑みを浮かべたまま、手際良く牡蠣を揚げたりパスタを茹でたりレタスを千切ったりする。顔は綺麗な女の人なのに、メグさんの腕の皮膚の下では職人仕事で鍛えられた筋肉がうねっていて、ドキッとするほど男らしい。
「僕の宝物なんだ」
周平さんはメグさんを見つめて目を細め、僕の方を向いてニコッと笑った。
「口説いても良いけど、口説き落としちゃダメだよ」
「大丈夫です。僕、うんと年上の人が好きだから。店長みたいな」
周平さんは目をむいて、福々としたほっぺたを少し赤くした。
「僕も君のこと、初恋の人に似てるな、って」
「こらそこ、口説き落とされてるんじゃない!」
メグさんは眉をつり上げて店長に包丁を向けた。
「可愛い男の子に口説かれたことないもんで、つい」
「あたしはっ! 可愛い男の子ですっ」
夫婦ゲンカを見上げていたら、肩をぽんぽんと叩かれた。振り向くと、さっきまで誰も座っていなかった隣の席に、おじさんがウィスキーを持って移動しているところだった。
「君は純真そうな見た目に似合わず恐ろしい男のようだね」
僕は遠慮せずにおじさんの品定めをする。ざっくりと伸ばしたヒゲはうっすら白く、たぶん三十代後半くらい。襟のないシャツにジャケットという格好で、会社勤めをしている人には見えない。でもだらしない感じはしなかった。
「迷惑なら元の席に戻るけど」
「いえっ そんなことないです」
「良かった」
口説きに来たのかな? アキラみたいに馴れ馴れしく体に触ってきたりすることはなく、氷をカラカラ鳴らして琥珀色のお酒を飲んでいる。
「大学生?」
「はい」
「理系?」
「そう見えますか?」
「アサガオの観察するような目で俺を見るから」
「すみませんっ!」
おじさんは肩を震わせて笑った。僕がおじさんを点検するように見たのは理系だからではなく、ここがゲイバーで、相手が自分の好みに合うかあからさまに判定しても構わないと思ったからだ。もしかしたらこの春樹カフェは、そういう場所ではないのかもしれない。
文学青年が集まる店にしたかった、というネットの紹介文を思い出す。ここにいる客はみんな、光一やうちの父親のような人間なのだろうか。現実の世界におびえ、何かあるとすぐ言葉の森に逃げ込んでしまう人たち。
「君はどんな本が好きなの?」
おじさんは僕の目を優しく見つめて言った。
「僕、小説はあんまり好きじゃなくて……」
「そう」
おじさんは僕に気を遣って表情を変えなかったけど、失望したのが伝わってきた。僕はちょっとムキになってこう続けた。
「でも漫画は好きで、水木しげるの本はだいたい全部持ってます」
「水木しげるか。俺も戦争の話はあらかた読んだよ。ラバウルのエビ」
おじさんが僕を試すようににやりと笑うから、僕は早口で返した。
「噛みしめても水しか出てこない」
「そう。あれは忘れられないな。戦争と命の虚しさをあれほど端的に表した場面を俺は他に知らない」
おじさんはつげ義春とますむらひろしと吾妻ひでおの話をし、僕が全部読んでいるのを知って目を丸くした。
「渋いね。もしかして俺より年上だったりする?」
「古本屋で買えますから。文庫にもなってるし」
僕に話を合わせてくれたからだと思うけど、おじさんとのおしゃべりは楽しかった。二人で声を立てて何度も笑った。
「物語って、こうやって人と話すネタにするために存在するんですかね?」
「いや、今日はたまたま二人とも知っている漫画があったから出来ただけで、世の中の人全てが『不条理日記』を読んでいる訳じゃない」
吾妻ひでおの馬鹿馬鹿しいギャグを思い出し、また一緒に笑う。
「僕の好きな人、物語を読めなくなっちゃったんです。漫画も小説も昔話も、全部怖いって」
司は僕の好きな人、なのか。もちろん分かっていたけれど、改めて言葉にしてみると、出口のない空間に追い詰められた気分だった。
「好きな人がいるんだね」
おじさんの声が低く小さくなってハッとした。
「もしかして、僕のこと狙ってました?」
「気にしなくて良い。好きな人は俺もいるから。絶望的な相手だけど」
「ノンケの人?」
「いや、オネエ」
「へー」
「オネエなんだが、奥さんがいる」
スパゲティを食べている最中だったから、思わずむせた。
「オネエで異性愛者という人もいるんですね」
「男しか好きになったことがないと言っていた。それなのに、俺のことは好きになってくれなかった」
僕はおじさんの容姿を改めて確かめた。美男子ではないけれど、醜男でもないし、きっとこれまでに沢山の物事を考えてきたのだろうと思わせる、静かな目元が魅力的だった。
「その人の理想のタイプはオスカルなんだ」
「オスカルは女じゃないですか」
「さすが漫画オタク、話が早い」
おじさんはコップに残っているお酒を一気に飲み干した。
「で、現れちゃったんだな、オスカル様が」
頬杖ついてこちらを向いたおじさんの目は、酔いで潤み、座っている。
「君の好きな子は、こんなくだらない俺の話も怖がるのかね?」
「最もダメだと思いますよ。悲しい恋の話なんて」
「幸せなんだけどな、俺」
僕はおじさんにシナモンドーナツを分けてあげて、二人で同じポットのお茶を飲んだ。紅茶を頼んだはずなのに、ほうじ茶みたいな和風の味がした。
おじさんは別れる時に名刺をくれた。
「中嶋さん」
「そう」
名前の他にはメールアドレスしか書いてない。
「お仕事は何をされてるんですか?」
「文化的雪かき」
僕が首を傾げると、中嶋さんは満足そうに微笑んだ。
司の話さえしなければ、中嶋さんとやれたのかもしれない。かなり好みだと感じたし、向こうも僕を気に入ってくれたと思う。何より中嶋さんは寂しそうで、僕も寂しくて、慰め合うのにぴったりだった。
でもきっと僕は抱き合っている間ずっと司のことを考えてしまうし、おそらく中嶋さんもオネエとオスカルが頭から離れないだろう。
オネエとオスカル。中嶋さんには悪いけど、楽しそうなカップルだ。想像すると笑みが浮かんでしまって、真剣に同情出来ない。
中嶋さんは幸せだと言っていた。オネエに片思いして、オスカルにやきもちを焼いて。確かに幸せかもしれない。
僕は司に「会おうよ」とメールした。やれなくても、オスカルの話を聞かせられなくても、会いたい人に会うことしか僕には出来ない。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:28| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は
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翼交わして濡るる夜は(その23)
「普通の手なのに……」
司は僕の手を両手で優しく包んでしげしげと眺めた後、自分の右手を開いて僕のてのひらにくっつけて、指の長さを比べた。
「俺の方が大きいくらいだ」
やらしい想像をしちゃうよ、どうしても。もしあれを比べるとしたら、司はどっちが大きいとか小さいとか言わないと思うけど。まず僕たちがそんな状況になることなんてないのだろうけど。
「どうして音大に進まなかったの?」
近所迷惑にならないよう音量を調節して、僕の部屋にある電子ピアノで演奏を聴かせた後だった。
「サラリーマンになりたいから」
司は僕を見つめて三秒ほど固まった。
「ネクタイ姿のおじさんを求めて……?」
「確かにスーツの似合う人って格好良いな〜って思う」
「翼は年上が好きなんだもんね」
司は嬉しそうで、僕は複雑な気持ちで、でも「翼はおじさんマニア」ということにしておいた方が、司は安心出来るのかもしれない。
「もったいないな。ピアニストになれば良いのに」
「司さ、ピアノが弾ければピアニストになれると思ってない?」
「ただ弾ければ良いって訳じゃないことくらい分かるよ。翼みたいにピアノで人を感動させられたら、ピアニストになれると思う」
僕は首を振った。
「ピアニストになるには、ピアノで戦って勝たなきゃいけないんだよ。色んなコンクールに出てさ」
「出れば良いじゃん」
「ピアノで戦いたくないんだ。音楽って、勝ったり負けたりするものじゃないと思う」
「格好良い、翼」
「格好つけてるんじゃなくて、そういう性格なんだよ。闘争心が足りないんだ」
お姉ちゃんはピアノの腕前を競うことに一ミリの疑問も抱いていなかった。というより勝つことが全てだった。ピアノが上手いという上級生の家に乗り込んでいって自分の方が難しい曲を弾けるのを見せつけたり、ピアノ教室で「一番」になってしまうと「もっと良い先生のところに行きたい」と親にせがんで、またそこで一番を目指した。
コンクールでは意外と賞を取れなくて、それでもやさぐれることなく帰宅後すぐに次の戦いのための準備(練習や音楽の勉強)を再開した。
そういうスポ根漫画みたいなピアノの弾き方を見ていると、僕も同じように戦いたいとはとても思えなかった。お姉ちゃんは努力すればするほど、音楽の本質から離れていく気がした。
「まあピアニストにならなくたって、俺はいつでも翼の演奏を聴けるんだから」
「そうだよ」
「もっと弾いて」
胸が痛くなるような笑顔で司は言う。
「良いよ」
僕は心で鳴り響いているメロディをそのままピアノで追いかける。司は激しい曲より甘く悲しい音楽の方が好きみたいだから(聴いている時の表情を見れば分かる)なるべく司が喜ぶように、ためらいの間を含ませてアルペジオを展開する。うつむいてじっとしたまま耳を澄ましている司、その瞳が、かすかに細く、とろけるようになるのを僕は見逃さない。司は今、気持ち良くなっている。耳たぶ、首すじ、鎖骨、胸、わき腹、太もも、膝小僧と、司の感じる場所を探っていく僕のてのひら。僕はちゃんと見つける。この旋律だね? 司は小さく眉根を寄せて、でもそれは嫌だからじゃない。皮膚に歯を立てるようにとびきり不安定な和音を紛れ込ませ、もちろん本当に痛くはしない。すぐに分厚い長調の和音で包み込む。僕だって気持ち良くなりたい。司の好みは考えずに、指の動きにまかせて僕は……
司が急に顔を上げた。視線がばちっと合って、心臓が止まりそうなほどびっくりした。
「な、何?」
「翼、鍵盤見なくてもピアノ弾けるの?」
「う、うん」
「へえ〜 すごいね」
「いちいち目で確認してたらピアノなんて弾けないよ」
「そうなんだ。翼の視線を感じて、あれ? って思ってさ」
ピアノを弾いている時、僕はどんな表情をしているんだろう。今まで考えたこともなかった。エッチの最中みたいだったら恥ずかしいな。どっちの顔も自分では見たことないけど。
「弾いてくれてありがとう。俺、翼のピアノ、本当に好きだ」
僕はつくづくピアノしか取り柄がないんだと思い知る。子供の頃から飽きるほど褒められていて、正直何とも思わない。司にはピアノではなく僕自身を好きになってもらいたい。……僕自身って何だろう? 僕の体? 心? 脳みそ?
「アキラと会わなくなってから、ずっと苦しいんだ。胸のあたりがもやもやして、時々発作みたいに全身が痛くなるし」
「それってさ、病院……」
司は激しく首を横に振った。
「翼のピアノを聴くと治るんだ。だから家でも聴けるようにCDが欲しい」
「作ったことないよ」
「そのピアノ、音のデータ取れるんじゃないの?」
「さあ……」
「理系なのに機械に弱い」
司が笑うので、僕はふくれた。
「必要ないから使ってないだけ! ねえ司、録音するの面倒だし、僕の演奏を聴きたくなったらうちに来なよ」
「翼にも会えるし」
「ご飯も食べられる」
「翼、優し過ぎるよ」
だって、司のことが好きだから。僕はしばらくふくれたままで、司は僕を見つめて微笑んでいた。
司は僕の手を両手で優しく包んでしげしげと眺めた後、自分の右手を開いて僕のてのひらにくっつけて、指の長さを比べた。
「俺の方が大きいくらいだ」
やらしい想像をしちゃうよ、どうしても。もしあれを比べるとしたら、司はどっちが大きいとか小さいとか言わないと思うけど。まず僕たちがそんな状況になることなんてないのだろうけど。
「どうして音大に進まなかったの?」
近所迷惑にならないよう音量を調節して、僕の部屋にある電子ピアノで演奏を聴かせた後だった。
「サラリーマンになりたいから」
司は僕を見つめて三秒ほど固まった。
「ネクタイ姿のおじさんを求めて……?」
「確かにスーツの似合う人って格好良いな〜って思う」
「翼は年上が好きなんだもんね」
司は嬉しそうで、僕は複雑な気持ちで、でも「翼はおじさんマニア」ということにしておいた方が、司は安心出来るのかもしれない。
「もったいないな。ピアニストになれば良いのに」
「司さ、ピアノが弾ければピアニストになれると思ってない?」
「ただ弾ければ良いって訳じゃないことくらい分かるよ。翼みたいにピアノで人を感動させられたら、ピアニストになれると思う」
僕は首を振った。
「ピアニストになるには、ピアノで戦って勝たなきゃいけないんだよ。色んなコンクールに出てさ」
「出れば良いじゃん」
「ピアノで戦いたくないんだ。音楽って、勝ったり負けたりするものじゃないと思う」
「格好良い、翼」
「格好つけてるんじゃなくて、そういう性格なんだよ。闘争心が足りないんだ」
お姉ちゃんはピアノの腕前を競うことに一ミリの疑問も抱いていなかった。というより勝つことが全てだった。ピアノが上手いという上級生の家に乗り込んでいって自分の方が難しい曲を弾けるのを見せつけたり、ピアノ教室で「一番」になってしまうと「もっと良い先生のところに行きたい」と親にせがんで、またそこで一番を目指した。
コンクールでは意外と賞を取れなくて、それでもやさぐれることなく帰宅後すぐに次の戦いのための準備(練習や音楽の勉強)を再開した。
そういうスポ根漫画みたいなピアノの弾き方を見ていると、僕も同じように戦いたいとはとても思えなかった。お姉ちゃんは努力すればするほど、音楽の本質から離れていく気がした。
「まあピアニストにならなくたって、俺はいつでも翼の演奏を聴けるんだから」
「そうだよ」
「もっと弾いて」
胸が痛くなるような笑顔で司は言う。
「良いよ」
僕は心で鳴り響いているメロディをそのままピアノで追いかける。司は激しい曲より甘く悲しい音楽の方が好きみたいだから(聴いている時の表情を見れば分かる)なるべく司が喜ぶように、ためらいの間を含ませてアルペジオを展開する。うつむいてじっとしたまま耳を澄ましている司、その瞳が、かすかに細く、とろけるようになるのを僕は見逃さない。司は今、気持ち良くなっている。耳たぶ、首すじ、鎖骨、胸、わき腹、太もも、膝小僧と、司の感じる場所を探っていく僕のてのひら。僕はちゃんと見つける。この旋律だね? 司は小さく眉根を寄せて、でもそれは嫌だからじゃない。皮膚に歯を立てるようにとびきり不安定な和音を紛れ込ませ、もちろん本当に痛くはしない。すぐに分厚い長調の和音で包み込む。僕だって気持ち良くなりたい。司の好みは考えずに、指の動きにまかせて僕は……
司が急に顔を上げた。視線がばちっと合って、心臓が止まりそうなほどびっくりした。
「な、何?」
「翼、鍵盤見なくてもピアノ弾けるの?」
「う、うん」
「へえ〜 すごいね」
「いちいち目で確認してたらピアノなんて弾けないよ」
「そうなんだ。翼の視線を感じて、あれ? って思ってさ」
ピアノを弾いている時、僕はどんな表情をしているんだろう。今まで考えたこともなかった。エッチの最中みたいだったら恥ずかしいな。どっちの顔も自分では見たことないけど。
「弾いてくれてありがとう。俺、翼のピアノ、本当に好きだ」
僕はつくづくピアノしか取り柄がないんだと思い知る。子供の頃から飽きるほど褒められていて、正直何とも思わない。司にはピアノではなく僕自身を好きになってもらいたい。……僕自身って何だろう? 僕の体? 心? 脳みそ?
「アキラと会わなくなってから、ずっと苦しいんだ。胸のあたりがもやもやして、時々発作みたいに全身が痛くなるし」
「それってさ、病院……」
司は激しく首を横に振った。
「翼のピアノを聴くと治るんだ。だから家でも聴けるようにCDが欲しい」
「作ったことないよ」
「そのピアノ、音のデータ取れるんじゃないの?」
「さあ……」
「理系なのに機械に弱い」
司が笑うので、僕はふくれた。
「必要ないから使ってないだけ! ねえ司、録音するの面倒だし、僕の演奏を聴きたくなったらうちに来なよ」
「翼にも会えるし」
「ご飯も食べられる」
「翼、優し過ぎるよ」
だって、司のことが好きだから。僕はしばらくふくれたままで、司は僕を見つめて微笑んでいた。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:26| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は
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