2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その16)

 その日は疲れてすぐに寝てしまった。
 次の日もまた二人で初心者用コースに行き、僕は馬鹿みたいに「ハの字で蛇行」を繰り返した。
「上手くなったね。全然転ばないし」
 ケガしないことを第一に考えてやっているのだから当然だ。
「司、僕に付き合ってここにいてもつまらなくない? 上級者向けのコースに行ったら?」
 司は首を振る。
「翼見てると面白いよ。おもちゃみたいで」
「おもちゃ?」
「体まっすぐ伸ばして真剣な顔で降りて来るからさ。おもちゃの兵隊がスキーしてるみたい」
 変な色のダサくてボロいウェアを着て、みっともないスキー姿をさらし続けるって何の罰ゲームなの…… でもスキー場に来てから、司は今まで見たことないほど楽しそうにしている。体を張って司を元気にしていると思えば。僕はこういうことがやりたかったのかなぁ。うーん……
 白い地べたにサインかコサインのグラフを描きながら、僕はゆるやかに落下する。行き着く先には必ず司の笑顔が待っていた。
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翼交わして濡るる夜は(その17)

 お風呂ではなるべく司の裸を見ないようにした。着替えさせたこともあるし、そんなに意識する訳ではないのだけど、自分の体の醜さを思い知るのが嫌だった。痩せていて肌は白く、筋肉なんてどこにもない。司が僕ではなくアキラを選んだのも仕方ないなと思う。僕みたいな体に興奮するのは少年好きのおじさんだけだ。
 宿の名前がプリントされた浴衣を着て(司とおそろいでいられるのが嬉しかった)布団に入る。スキーの疲れと温泉のお湯のせいで全身がいつもと違う。重たいような、心地好いような。
「翼と旅行するの楽しい」
 司はこちらを向いて微笑みながら言った。
「そう?」
「うん。どっちかが急にインフルエンザにかかったりして行けなくなったらどうしようって、ずっと心配してたから、来られて本当に良かった」
「流行ってるもんねー、インフルエンザ」
 僕は布団の中でうつ伏せのまま伸びをした。
「翼。俺もう誰も好きにならないようにして、翼に迷惑かけないようにするから。だから、ずっと仲良くして欲しいんだ」
 ん? 今なんか絶望的なこと言わなかった? ずっと仲良くして欲しい。そう言ってもらえるのは幸せなことだし僕もそうしたいけど、その前。もう誰も好きにならないようにするって、どういう意味? 僕だけが好きで、他の誰も好きにならないということ? 違う。司は僕に恋してない。それくらい分かる。
 僕が何も答えずにいたら司は不安になったようで、少し上ずった、いつもと違う声で畳みかけるように話し始めた。
「俺みたいな奴と一緒にいても何も良いことないし、翼は優しいから俺に冷たく出来ないのを利用して、翼から与えてもらうばっかりで何も返せない、自分がどうしようもない奴だって知ってるけど、でも翼を失ったら俺、何もないんだ。何も」
 しまった。司、おかしくなりかけてる。僕は慌てて布団を出て、司の頭を撫でた。
「司と一緒にいるの、僕も好きだよ。『与える』とか『返す』とか考える必要ないって。友達なんだから」
 友達。声として発せられて明確になったその言葉は、僕の心をざっくりと切り裂く。
「もし気になるなら、僕が困った時に助けてくれれば良いんじゃないかな」
「翼も恋愛で悩んだりすることあるの?」
 現在、その真っただ中ですが! しかしその手の質問には慣れているので驚かない。司に言われるとさすがにため息が出るけど。
「『悩み無いでしょ』ってよく言われる。のんきそうに見えるからさー 顔と心は関係ないのに」
「そうじゃなくて…… 翼も誰かを好きになることあるの?」
 え? 頭の中が真っ白になる。この人、何言ってるんだろう。
「僕たちがどこで知り合ったか覚えてる?」
「ゲイバー」
「恋愛したくなかったら、そんな所に行く訳ないじゃん!」
 もっと正直に言うなら、セックスしてくれる相手が欲しくて、新宿の薄暗い階段を上ったのだ。すごく怖かったけど、一人でし続ける物悲しさに、耐えられなかったし耐える必要もないと思った。
 こんな大きな寂しさを押し付けられるなんて思ってなかった。
「怒った? ごめん。悪い意味じゃなくて、翼って何か、そういうドロドロした感情持って無さそうだから……」
 司はおびえて、潤んだ目で僕を見上げる。ダメだ。司には優しくしなくちゃ。
「子供っぽく見られるけど! 性欲と食欲にはちょっと自信あるよ!」
 司は仰向けになって大笑いした。
「食欲はいつも見てるから知ってる。翼の性欲って想像つかないな」
「いいよ、想像しないで。恥ずかしい」
 司は一瞬真面目な顔になって、僕を見た。
「色んな奴とやったりするの?」
「そんなことしないよ! 高校の時に年上の人と付き合ってて、その人としただけ」
 性欲に自信あり、と宣言した割には経験が貧弱だなと情けなくなる。司は目を細めて心臓のあたりに手を置いた。
「良かった。翼が遊びまくってなくて」
 何で安心するの。やきもち焼いてくれる訳でもないのに。
「その人、恋人だったんだよね?」
「たぶん」
「どんな人?」
「普通のおじさん。福岡県の大牟田ってとこに住んでて、でも出身はこっちだよ。帰省するといつもお土産に鳩サブレーをくれた」
「翼にぴったりって感じする」
「美味しいよね。サクサクして」
「嫌なら話さなくて良いけど…… 別れちゃったの?」
「別れるっていうか、自然消滅っていうのかな。東京の大学に行くことが決まって、今までありがとう、体に気を付けてね。みたいな」
「遠距離恋愛は難しいって?」
「……うん」
 本当は違う。問題は距離よりも「僕が高校生ではなくなってしまうこと」だった。光一は僕ではなく「男子高校生」と付き合っていたのだ。すごく嫌な思いをしながら。遠く離れた場所にいる、高校生ではない僕と付き合い続ける意味なんてない。
 最後にした日の、湿った肌の記憶がよみがえる。光一は窒息するんじゃないかと思うほどきつく僕を抱き締めて、
「東京なんて全然良い所じゃない」
 と言った。
「辛かっただろうな、その人」
 司の声で現実に引き戻されてハッとする。
「翼と離れるのってさ、他の奴と別れるのと感じがまるっきり違う気がする」
「違うって?」
「全ての運に見放されて地獄行き、のイメージ」
「何それ」
「幸福の象徴なんだよ、翼は」
 ただ単に、顔が気楽そうってだけじゃん。僕の心はちっとも楽なんかじゃない。
「翼さ、大学卒業したら熊本帰るの?」
「こっちで就職するつもり」
「良かった」
 司は僕を必要としてくれている。でもそれは僕が望む形じゃない。
「俺、性欲ってよく分からないんだ」
 司は天井を見上げたまま言う。これを尋ねたら傷付けてしまうだろうか。でもやっぱり聞かない訳にはいかない。
「アキラとしたんでしょ?」
「うん」
「無理やりされた?」
「ううん」
 ならばそこには司の性欲があったのでは。司は天井を見つめてしばらく何も言わなかった。
「性欲のことは分からないけど、殺人犯の気持ちは理解出来るようになった」
 殺人、という強い言葉にどきりとする。
「前はさ、殺人事件のニュースを見ても『逮捕されるのに何でそんなことするんだろ、馬鹿だな』って思うだけだった。でもアキラとのことがあってから、俺もやってたかもしれないな、って」
「アキラを殺したかったの?」
 司は首を振る。
「先に自分を殺したと思う。アキラのことは好きだから」
 過去形じゃない。司はアキラだけが好きで、他の誰も好きにならない。最初から分かり切っていたこと。
「誰を殺すにしても、殺している間、殺人者は正気じゃないんだと思う。翼の家に押しかけて泣いた時の俺みたいに」
「あの時、びっくりしたけど、司が僕を頼ってくれて嬉しかったよ」
「俺は死ぬほど後悔してる。翼に迷惑かけたこと」
 君とはあんな風に関わるつもりはなかった。そう言われているみたいに聞こえる。
「だからもう誰も好きにならないようにして、なるべく冷静でいられるようにして、翼を大事にしたいんだ」
posted by 柳屋文芸堂 at 10:36| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その18)

 司が泣いている。隣の布団の中からしゃくり上げる声と、全身の震えが伝わってくる。
「アキラに会いたい」
 祈るように、呪うように、何度も同じ言葉が繰り返される。アキラに会いたい。アキラに会いたい。アキラに会いたい!
 どうして誘われた時に気付かなかったのだろう。司はアキラとスキーに来たかったのだ。二人で上級コースを気持ち良くすべって、夜は浴衣なんて早々に脱ぎ捨てて、いつもと違う環境に興奮しながら痛くなるまで粘膜を刺激し合って、発情し完全に動物になった司のいやらしい叫びが和室の薄い壁を越えて宿じゅうに響き渡る。司はもう他人のことなど考えられない。頭の中も体の中もアキラで満たされて、僕がこの世に存在することにさえ気付かない。
 司の背中にのしかかって激しく腰を打ちつけるアキラを引き剥がしたいのに、体が固められたように動かない。その人は、僕の! 怒鳴りたいのに声も出ない。その人は、僕の。その人は、僕の……
 泣くことだけは何故か出来て、あたたかい涙が皮膚の上を流れてゆくのを感じる。アキラ。司から離れて。司が欲しくてたまらないんだ。理解ある優しい友達のふりなんてもうしたくない。司の敏感な場所を指と舌で支配して、僕のことが好きだと絞り出すような声で言わせたい。
 司の手首をつかんで布団に押し付ける。司は子供みたいに顔をグシャグシャにして泣きながら、
「したくない」
 と言った。
「殺して。こんなに悲しくて苦しいなら死にたい」
 僕の体は司が寝ているのとは反対の方向にすべっていく。楕円軌道を描く惑星のように静かに、確実に、僕は司から離れてゆく。嫌だ。司と一緒にいたい。僕の体と唇は固まったままだ。僕と司の間の距離はぐんぐん開いていく。司! 手を伸ばそうと限界まで腕に力を入れる。どんなに頑張っても僕の体は動かず、見えないベルトコンベアーは僕を運び続ける。司から遠い場所へ。決して声にならない声で僕は泣きながら呼びかける。司、司、司!

 目を覚ますと、まず見慣れない天井に混乱した。ここ、どこ? ああ、司とスキーに来たんだっけ。隣を見ると、司は先に起きていたらしく、布団の上で正座している。
「おはよう、司」
「ごめん、起こした?」
「自然に目が覚めたんだと思うけど…… 今、何時?」
「六時半。朝食は七時からだから、まだ寝ていて大丈夫だよ」
 睡眠時間は充分取れたはずなのに、頭が妙に疲れている。何だろう、これ。夢を見た気がする。ひと続きのまとまった話ではなく、細切れの場面をたくさん詰め込んだような。内容はぼんやりとして思い出せない。
「すごい嫌な夢を見たんだ」
 司はうつむいたまま言った。僕は司のひざの所まで匍匐前進し、ころんと転がって司の顔を見上げた。新しい朝が来たとは思えないほど、瞳がどんより暗い。
「アキラの夢?」
「うん。よく分かるね」
「何となく」
 下着汚した? とはさすがに可哀想なので聞かない。ちょっといじめたい気分ではあるけれど。
「俺、病気なのかな」
「熱っぽいの? 風邪引いた?」
「そうじゃなくて。アキラのことが頭から離れないんだ。もう何ヶ月も会ってないのに」
「仕方ないじゃん。好きなんだから」
「俺の頭の中にいるのは、もう本当のアキラじゃない気がする」
 下から眺める司の涙は、僕に向かって降る雨みたいだ。
「アキラは悪くないのに、俺が色んなこと考え過ぎたせいで、アキラは心の中で化け物になっちゃったんだ」
「悪いのはアキラだって! 傷付けられたこと自覚しなよ!」
 司は頭を抱えて首を振った。
「怖い…… 翼ごめん。ごめんなさい……」
posted by 柳屋文芸堂 at 10:33| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その19)

 着替えて食堂に行っても、司は精神の暗闇から戻ってこない。僕たちは無言でご飯と塩鮭を食べた。
「あっ」
「ん?」
 司が顔を上げる。
「今朝見た夢、思い出した。すべっていくんだ。つつーって」
「ああ、スキーをやったせいだね」
「スキーとは進み方が違ってたな。司と反対の方向に等速直線運動」
 僕が後ろを指差しながらそう言うと、司はようやく笑った。僕はどうしてか分からないけど、すごく寂しくなった。
「もしこの世界に摩擦がなくて、何もかもツルツルしてたら、僕たちどこにも行けないんだね」
「どこにでもすべって行けて便利なんじゃないの。スキーみたいに」
「摩擦がなかったら歩けないよ。ずっと右足と左足を交互に出すだけになるはず」
「誰かに背中を押してもらえば?」
「その人とは二度と会えない」
 朝食に付いていたヤクルトを飲み始めて、すぐにお茶碗に吐いた。
「翼、どうしたの? 大丈夫?」
「ヤクルトって、炭酸入ってたっけ?」
 司は自分のヤクルトのフタを開けて臭いを嗅いだ。
「発酵が悪い方向に進んだらしい」
「腐ってるって言いなよ、素直に」
「ここに着いた日、暑かったからさ、うっかり日の当たる場所に置いておいてダメにしちゃったのかもね」
「ウェアもボロボロだし、雑な宿だなぁ」
「次に旅行する時はもっと高級なホテルに泊まろう」
 そんな所へ行っても、司とやれないんじゃなー やることばっかり考えている自分が可哀想だった。
 朝から降り続いていた雪は止むどころかひどくなり、真っ白く吹雪いて数メートル先も見えない。
「今日はスキー無理だね」
「ホレおばさん頑張り過ぎ」
 司は窓の外をじっと見た。
「宿のおばさん? こんな雪の中で働いてるの?」
「違うよ。グリム童話の」
 そこまで言ってさっと血の気が引いた。司は物語が嫌いなのに。しかもグリム童話は子供向けとは思えないほど残酷なのだ。
「ごめん。うそ。ホレおばさん頑張ってない」
 司は肩を震わせて笑った。
「良いよ。翼が話す物語は平気だから。教えて」
「ドイツでは雪が降ると『ホレおばさんが布団を振っている』って言うんだよ。中の綿が飛び出るのが雪みたいでしょ」
「ホレおばさんって誰」
「魔女の一種じゃないかなー」
 グリム童話では、ホレおばさんは怠け者の娘にタールをかける。司が心を痛めたら大変なので、そんな話はしない。やり過ぎだろ、って僕も思うし。
「ドイツにはいっぱい魔女の話があるんだよ。ブロッケン山のヴァルプルギスの夜とか」
「嬉しそうだね」
「魔女、悪魔、妖怪。そういうの大好きなんだ! 司が怖がると思って話さないけど」
「ごめんね、話聞けなくて」
「いいよ。他の人にもあんまりしないし」
「天使の話なら聞けると思うけど」
 パッと光一の顔が思い浮かび、再び犯そうとしている罪を突き付けられた気がした。自分がどれだけ酷い人間で、それをいかに必死で隠して司と接しているか。
 全部懺悔してしまいたい。ダメだ。今の司には優しい友達が必要なんだ。「本当に」優しい友達でなくたっていい。
「どうしたの、固まって」
「ふ、古傷がうずいて」
「前の彼氏に『エンジェル』って呼ばれてたとか?」
「うわ、寒ぅ〜! それはないよ! ひぃ〜!」
 二人でお腹が痛くなるほど大笑いして、あれ、司と話せることが前より増えたかも、と気付いた。旅行に来て親しくなったせいなのか、司が回復してきているからなのか、分からないけど。
「今日一日、何しよう」
「この雪じゃ、外出ると遭難するね」
「ゲームでもやろうか。鹿のくん製のそばにあった気がする」
 受付の横、普通のホテルなら「ロビー」と呼ばれるであろう場所には、暇つぶしのためのおもちゃが散乱している。ゲーム機、トランプ、麻雀、将棋、オセロ、タンバリン等々。すでに先客がいて、たぶん僕より歳下の女の子たちが、人生ゲームをしながら酒盛りをしている。
「あっ、ピアノ!」
 壁際に国産のアップライトピアノが置いてあった。どうせ調律もされずとんでもない音程になっているのだろう。悪口を言うためにショパンのエチュードを弾いたら、一つのキーも狂ってない。安っぽい、軽やかな音がする。グランドピアノの重厚な響きより、僕はこういう音色の方が好きだ。作品十の一番を最後まで弾き終える。
「すごいよ、司! この宿には、ピアノに対する意識の高い人がいるんだ。ヤクルトへの意識はあんなに低いのに」
 椅子に座ったまま振り向くと、司は目を見開いて僕を見ていた。
「翼…… 何者?」
「え?」
「音大、じゃなかったよね?」
「うん。理工学部だよ」
 司は真剣な眼差しで僕を見つめ続ける。ドキドキしてしまって、せっかく友達でいられたのにと悔しくなりながら、視線をそらした。
「趣味でピアノやるの、そんなに変?」
「いや、趣味の域じゃなくない?」
「これくらい弾ける人、いっぱいいるよ」
「もっと聴きたい」
「良いよ」
 トランプをやっているヒゲ面の男が、
「革命!」
 と叫んだので、僕はショパンの「革命」を弾いた。
「ブラボー!」
 酒盛りをしていた女の子のうちの一人が叫び、周りの子たちは、
「もうバカ、酔っ払い! 恥ずかしい!」
 と笑いながら拍手してくれた。
 ポニーテールのブラボー女子はこちらに近付いてきて、
「リストのラ・カンパネラ、弾ける?」
 と目を輝かせた。
「もちろん」
 僕はこの曲の切迫した雰囲気を完全に消して、ダンス音楽のように明るく楽しく弾いた。その方が彼女に似合う気がしたから。
 弾き終えると、いつの間にか真後ろに立っていた茶髪のお姉さんが、
「普通の曲は弾けないの?」
 と聞いてきた。
「普通……?」
「BUMPが好きなんだけど」
 ああ、この人にとってはポップスが普通の曲なんだ。僕は派手な装飾をたっぷり付けて「天体観測」を弾いてみせた。
「きゃりーぱみゅぱみゅ!」
「となりのトトロ!」
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲!」
「津軽海峡冬景色!」
 僕は次々とリクエストに応えてゆき、最後に、司と一緒にいると必ず心の中で鳴り響く、あの曲を弾いた。言葉にさえしなければ、いくらでも愛を表現して良い。そのことに救われる。よどんだ感情がメロディに変換されて体の外に出てゆき、僕は一時的に空っぽになった。
「お腹空いたからおしま〜い!」
 そう言って立ち上がると、ピアノの周りにはいつもと同じように人がぎっしり集まっていて、鳴り止まない拍手を聞きながら、僕は司を引っぱり部屋に戻った。
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翼交わして濡るる夜は(その20)

「お昼、何食べよっか」
「いやいや昼飯どころじゃないよ! さっきの何? あれ」
 僕のお腹がギュゥ〜っと鳴る。
「今は食べることしか考えられない!」
 司が宿のおじさんにおすすめの店を聞いてくれて、僕たちは宿から徒歩五分ほどの所にある定食屋さんに行くことになった。スキーウェアを着て、新しい雪にずぶずぶと足を踏み入れ、大変な行軍だった。わーとかキャーとか叫んで楽しかったけど。
 僕は豚の味噌焼き定食、司はコロッケ定食を頼んだ。
「あぁ〜 肉が! 胃に沁み入る!」
「お米も宿のより美味しい気がする」
「ほんとあそこ、ピアノの音が合ってる以外、良いとこないよ」
「ピアノの音が合ってるのって、そんなにすごいことなの?」
「調律師を呼ばないと出来ないから。お金もかかるし。もしかしたら宿泊客に調律師がいて、暇つぶしに音を合わせたのかもしれないね」
 そう考えなければ納得いかないくらいの、見事な狂いのなさだった。僕はちょっと甘みのある豚肉を噛みしめながら、さっきの気持ち良い演奏を思い出した。
「最後に弾いた曲の名前を教えて」
「えっ」
 司のテーマ、という何のひねりもない単語が浮かび、言うわけにいかないなと苦笑する。
「動画サイトで検索したら聴けるよね?」
「聴けないよ」
「CDならある?」
「ない。あれ僕が勝手に弾いてるだけだから」
「勝手に?」
「心の中で鳴ってるメロディに、適当に音を付けるんだ」
「翼が作曲したということ?」
「そんな大袈裟なものじゃないと思う。譜面に書いたりしてないし」
「すごく良かったよ。音楽に感動するってこういうことなんだね。うまく言えないけど、生まれて初めて、自分のための音楽を聴いた気がした」
 僕は思わずお茶を吹きそうになった。そりゃそうだよ。あれは司が作り出している音楽なんだから。
「何々っていうバンドが好きだとか、誰々っていう歌手のファンだとか、みんな当たり前みたいに言うじゃん? 俺、ああいうの全然分からなくてさ。俺には音楽を理解する才能がないんだと思ってた。でも違う。俺は今まで本当に素晴らしい音楽に出会ってなかったんだ」
 司は熱のこもった瞳で僕を見つめて言った。
「俺、翼のファンになる!」
 今度こそお茶吹いた。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:30| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする