2010年11月29日

大賢者大森賢五郎(その1)

一、不吉な予感だけが頼り

 塚沢冷機工業が倒産した。仕方がないので川口駅からそごうに向かって伸びる橋の上で占いを始めた。
 街灯と花壇にはさまれた薄明るい空間に店とも言えない店を広げ、冷たくなり始めた風に吹かれてお客を待ち続けるのは辛かったが、この夏、塚沢冷機の社員全員に降りかかった災難に比べれば、秋風なんて大した事ではなかった。

「四月いっぱいで全員解雇」
 合併でも吸収でもなく綺麗さっぱりつぶされる、と確定した三月初旬、経営者から社員に向けて、こんな発表があった。
 おかしい。倒産決定から解雇まで二ヶ月弱。そんなに早く残務処理を終えられる訳がない。私はぴんと来た。
 これは長引く。
 何てったって私の場合、企業の倒産に付き合うのは三度目なのだ。でもまあ多分経営者は経営の知識はあっても、倒産の経験は少ないのだろうから(何度も倒産すればすっかり懲り懲りし、会社経営なんて危ない仕事に二度と手を出さないだろう。そうでもない人もいるか。)何が起きても大目に見てやろう。
 会社に対してそんな寛大な態度を取ったのは、私だけだった。
 当たり前の話だが、社員、特に女房子供を抱えた中年男性社員にとって、「つぶれゆく会社」などより「自分の今後」の方がずっとずっと大切である。その論理で多くの社員が最後の仕事をほっぽらかし、再就職先を探し始めた。そしてさらにその当然の結果として、
「次の仕事は失業保険を全額もらった後考えれば良いや」
 というようなのん気な若手社員、及び経営者に個人的な義理や恩のある少数の古株社員が、清算業務に忙殺されるという事態になってしまった。
 三度の倒産の度思ったのだけれど、
「倒産でーす! 今日で全員解散!」
 と倒産が決まったその日の内に仕事から解放されるなら、どれだけ楽だろう。残務処理くらいやり甲斐のない、馬鹿馬鹿しい仕事もない。債権債務処理。塚沢冷機が設置した設備の保守管理を依頼した会社への引き継ぎ。全て発展のしようのない、単なる後始末に過ぎない。先の見えない、空しいばかりの過密労働のせいで、職場の雰囲気はどんどん悪くなっていった。
「失業したら、みんなで遊ぼうね。」
 最初はにこにこしてそんな風に誘い合っていた同僚の女の子達も、日増しに口数が減っていき、仕舞には、不平不満、愚痴、悪口以外の言葉は、口から出なくなってしまった。
 みんな不安なのだなあ。私は事務室や倉庫の中を眺めまわし、のんびり思った。穴の開いた船の底に少しずつ水が溜まっていくみたいに、「ぼんやりとした不幸」が床一面に広がり、くるぶし、ひざ、腰の順に、みんなの体を沈めていく。
 実を言うと私は、そんな状況が嫌いではなかった。いや、好きと言っても良いくらいだ。「正露丸を飲んでも治らないひどい下痢が三日三晩続く」とか「歯医者さんで歯を沢山削られる」というような「はっきりした不幸」は人並み以上に御免こうむりたいタチなのだが、日没前の暗さに似た、何とも言えないもやもやとした空気の中にいると、ついつい浮き浮きしてしまい、不謹慎な笑みをそっと隠したりしなければならなかった。
 私の予想通り、完全な解散日は五月、六月と先延ばしになっていった。その間、再就職先の決まった人は次々と辞めてゆき、行く先が決まらなくても塚沢冷機でやるべき事のなくなった人は、順々に職場を去っていった。私は彼らが職安に持っていく書類を作る係になってしまい、計算機片手に髪振り乱して働いた。
 七月に入り、私を含めた若い(今年二十七になるが、この十年新卒を入れていない塚沢冷機においては、まだまだ「小娘」の内である)女性社員に、更なる災いが襲いかかった。
 冷房である。夏になれば毎年どの会社でも、室内温度を巡って熱い闘いが繰り広げられるのだろうが、今年はストレスの海に浸かったイライラ人間同士の争いである。当然、激しく醜くなるというものだ。
「そんなに暑いなら、素っ裸で働きゃ良いのよっ!」
 その叫び声を皮切りに、女子トイレにたむろしていた事務員達は、一斉に経理部長の陰口を叩き始めた。五十過ぎの経理部長は、仕事の腕が立つ分だけ他人にも厳しく、もともとあまり評判の良い女性ではなかったのだが、この夏は特別憎まれた。何故かと言うと、彼女はこの数ヶ月間の過労のせいで更年期障害を悪化させ、体温調節が出来なくなっていたようなのだ。そのため社内の冷房をことごとくきつくしてしまい、しかも誰かが抗議すると、
「そんな涼しい格好をしているからいけないのよ。短いスカートはやめて、分厚い靴下を履いていらっしゃい。」
 と逆に叱り付けるのだ。みんなが怒り狂うのも無理はない。
 私はどうしていたかと言うと、陰口に参加する元気もない程、冷え切っていた。席がちょうど「冷房暴風域」に当たっていたせいもあり、骨と皮しかない痩せっぽちの私は、まさに「骨の髄まで」熱を奪われた。経理部長に叱られずとも、厚着、許されるならモモヒキをはいて事務をしたいくらいだったが、行き帰りに暑い思いをするのが嫌で実行せずにいた。
 八月。「冷え性」がどんなものなのか、我が身をもって、知った。去年までの夏は、朝、アパートの窓から聞こえるやかましい蝉の声と、暑さによって起こされた。それはなかなか快適な起床方法で、夏の楽しみの一つだったのだが、なんと今年は、毎朝足の冷たさで目が覚めた。寒い寒い寒い寒いとつぶやきながら布団の中で暴れている自分を見つけ、私は起きた。凍える意識が目覚し時計代わり。夏なのに。
 痩せこけてから最初に過ごす夏だと、ふと気付いた。去年の私の体には身を守るための肉があり、今より多少、幸福だった。

 最終的に全員が解雇されたのは、八月の末だった。「八月無休、九月無給」という救いようのないダジャレを誰かに聞かせる暇もないまま、「失業者沼田きみ子」は会社の外側、世間の荒波の波間、不景気風の吹き荒れる川口の街中に、放り出された。
(もう少しあったかい格好してくれば良かったなあ。)
 占い師らしい服装がどんなものなのかよく分からなかったので、近所のリサイクルショップで怪しい服を買い集めた。どん帳よりも厚ぼったくてごわごわした黒いロングスカート。薔薇の柄の入った赤いブラウスに、紫のショール。このショールはマチコ巻きにし、百円ショップで買った黄色いサングラスを上からかけたのだが、これだと風に肩をさらすようになってしまう。
(こんな透け透けブラウス買うんじゃなかったよ。ショールも薄いから肩にかけても意味ないし、もう一枚、カーディガンか何かが必要だなあ。スカートはあまりの重たさに初めは悩んだけど、これで正解だったな。)
 折りたたみ式の小さな机と椅子(これもリサイクルショップで買った。ちゃちな作りで、とても安かった)に、私自身。それがこの店の全部だ。水晶玉とか、ラーメン屋の箸立てみたいな棒の束があれば、もっとそれらしくなるのだろうけれど、そういう道具の使い方を全く知らなかった。
 机の前には、道行く人にも読めるよう太い大きな字で、
「お代は見てのお帰り」
 と書いた紙(カレンダーの裏)を貼ってある。
「料金は占いの後、お客さんが納得のいく額だけ払って下さい。納得いかなければお代は要りません。」
 という意思表示をしているつもりなのだが、何となく意味が間違っているような気がしないでもない。でもまあこの紙を見て、お金の心配などせずにここに足を向けてくれる人がいたら嬉しいなあ、と思う。
 机にほおづえを突いて、目の前を足早に通り過ぎる人々を眺めていると、頭がぼうっとして来る。夜の駅前にいる人間のほとんどは帰路を急いでいるので、自分の家の方角をキッとにらみ、わき目も振らずただすたすたと行ってしまう。その流れをせき止めるように、数人の男女がたたずんでいる。
「手相の勉強をしているので、見せてもらえませんか?」
 彼らはそう言って誰彼構わず呼び止めようとするが、大抵はすげなく無視される。それでもめげずにサラリーマンなりおばあさんなり目標を定めては、相手の歩調に合わせ移動しながら声をかける。見上げた根性だ。
 川口駅周辺には数年前まで、
「祈らせて下さい。」
 と言って寄って来るお姉さんが沢山いたのだが、最近は見かけない。どこに行ってしまったのだろう。今は別の遠い場所で、祈りを捧げているのだろうか。
 そう、「祈り」で思い出したのだけれど、随分前、ちょうど私が今占いをしているこの辺りに、足付きの黒板を立て、その横で聖書を読み上げるお兄さんがいた。

『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』
 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。

 黒板には白い字で「マタイによる福音書」と書いてあった。お兄さんは緊張しているのか小刻みに震えて、やけっぱちの大声を出していた。
 私はその姿から、二番目に付き合った彼氏と一緒に見たアニメ映画を思い出し、感激したのだ。
 「二番目の彼氏」は漫画やアニメやテレビゲームに熱狂的な愛を注ぐ、いわゆる「オタク」の男の子だった。それでデートと言えば家の中でそういった作品の鑑賞会ばかりしていたのだが、一つ、とても美しい映画があった。それは宇宙飛行士と宗教家の恋物語で、街角に立ち人類の罪を説くヒロインを見て、主人公は恋に落ちるのだ。そして彼女の無垢さにほだされ、怠惰な生活を捨て宇宙に行こうと決意する。
 お互いを全く理解していないにも関わらず共にいようとする主人公とヒロインが、まるで私達みたいだと思い、胸がキュンとした。そして映画を見終わった後その感想を言おうとしたのだけれど、彼氏はロケット発射シーンの映像の緻密さについて得々と語り続けるので、私は何も伝えられなかった。
 その後聖書のお兄さんを見かけた事は一度もない。ついでに言うと「二番目の彼氏」ともとっくの昔に別れてしまった。さらに言うと、その次に付き合った「三番目の彼氏」もいたのだが、その人とも別れてしまった。
 整理しよう。私には「最初の彼氏」「二番目の彼氏」「三番目の彼氏」がいて、「最初の会社」「二番目の会社」「三番目の会社(塚沢冷機工業)」に勤めていた。それぞれの会社に一人ずつ彼氏がいた訳ではなく、恋愛も仕事もバラバラに始まったり終わったりしたのだ。
 私はいつも「ぼんやりとした不幸」の匂いを頼りにして、全ての行いをして来たような気がする。誰かを好きになる時も、
「この人といると幸せになりそうだな。」
 と思ったためしが無い。
「この人といると幸せになれないのだろうな。でも仕方がない。」
 毎度毎度そんな風に、ずるずる愛していく。
 ひどいのは仕事の決め方だ。職安で求人票をめくったり、新聞の求人広告を眺めたりしていると、ふっと紙面に影が差す時がある。
「あ、この会社、もうすぐつぶれちゃうんだ。」
 そう思うともういけない。その会社の事業内容や職種に関係なく、ついつい履歴書を持っていってしまうのだ。
 おそらく普通の人はそういう影の事を「不吉な予感」と呼ぶのだろう。そしてそんな予感のするものは、なるたけ避けるよう心掛ける。しかし私は駄目だ。磁石にくっつく砂鉄のように、そちらの方に引っ張られていってしまう。
 今回、私なりに前向きな決心をして、占いの店を出したのだが、もしかしたらまた単に「不吉な予感」に連れ出されただけなのかもしれない。何故ならこのそごうに向かう橋の上にも、「ぼんやりとした不幸」が満ち満ちているのを感じるのだ。倒産前の塚沢冷機を穴の開いた船にたとえるなら、ここは堤防が決壊してしまった後の川べりの街に似ている。もう雨はやんでいるのに、水はけが悪いせいで、いつまでも黒い泥水が人々の足を濡らし続ける。
 川口駅前はバブルの頃の再開発でこそばゆい程綺麗になった。地下街をつぶし、そごうを誘致し、改札を出てそのまま入店出来るよう、駅から入り口に向かう橋までかけた。そしてその長い橋の上には、地元の植木屋さんが木を植えて、花壇は色とりどりの花に飾られた。
 よく頑張った川口市!
 そうかけ声をかけてやりたいのは山々なのだが、明るくしようと努めれば努めるだけ増えていくこの闇は何なのだろう。ほら、今もこうやって目をつむり耳を澄ませば、道に溜まった不幸の水を跳ね上げて歩く人々の、シャボリ、シャボリという足音がはっきり聞こえて来るようだ。
(悲しい音も聞こえるし、不安の匂いもかげるし、ぼうっとしていても怒られないし、占い師って良い仕事だなあ。)
 仕事? ここに店を出すようになってから一週間経つのだけれど、実はまだ一度もお金を稼いでいない。お客は一人来た。顔を真っ赤にした酔っ払いのおっちゃんで、
「まあったく、今の日本はどうなってんだ、え? 政治家も官僚もろくな奴がいねえし、大きな会社の社長は嘘ばっかついちゃ謝って、ほんと、ろくなもんじゃねえ。日本人はすーっかりダメになりやがった。」
 とひとしきりからんだ後、笑いながら手を振って帰っていった。政治家や官僚や社長の事はよく知らないけど、おっちゃんだって相当ダメなんじゃないだろうか、と思いつつ、私もにこにこ笑って手を振った。もちろんおっちゃんは一銭もくれなかった。
 儲けも出さずにぼんやり座っているだけでは、とても仕事とは呼べない。声をかけながら移動するうち店の近くまで来た「手相の人」が、軽蔑するような目でこちらをちらりと見る。商売敵の私を邪魔に感じているのだろうか。それとも、手相の知識すらないくせに占いで御足を貰おうと企んでいる私の浅はかさを見破って、馬鹿にしているのだろうか。
(やっぱり占いの勉強をした方が良いのかなあ。)
 花占いなんてのがあったな、花びらを散らして、好き、嫌い、好き……意味もなくしばしうっとりしていたが、ふと、駅の方が気になり始めた。
(何だろう。誰か知り合いが来るのかな?)
 数メートル置きに植えてある木や街灯のせいで、ここから改札口は見えない。それは分かっているのだけれど、むずむずと何かせずにはいられない気持ちになり、座ったまま体を伸ばしたり縮めたりして、駅からこちらに向かっている誰か、を見てやろうとやっきになった。
 大分時間が経った後、その娘は現れた。淡いピンクのスカートの上にクリーム色のセーターを着て、早歩きと小走りを交互に繰り返す度、軽くウエーブのかかった栗色の髪がふわふわと優しく揺れた。途中「手相の人」に捕まりそうになり、あからさまにびくっと驚いて、その後は私の店に一直線に走って来た。
 彼女は私の前に立つと、餅菓子みたいな頬をほんのり赤くし、とろんとした大きな目をこちらに向けた。
 それは、全然知らない人だった。
「あの、占い師さん、ですか?」
「そうです、そうです! はいはい、何でしょう!」
 興奮のあまりつい声が裏返る。
「良かった! どこにも占いって書いてないから、声かけようか迷っていたの。」
「えっ……」
 私は机の前の紙を見た。確かに「お代は見てのお帰り」と書いてあるだけでは、何が何だか分からない。看板の出し方を間違っていたなんて、ちっとも気が付かなかった。これでは客の来るはずが無い。
「ごめんなさいっ。でもでも、何についてでも占います。お金の事は気にせずに、どうぞ用件をおっしゃってみて下さい。」
 お客さんが来てくれた喜びと、看板の失敗で気が動転し、顔が熱くなった。それとは反対にお客さんの顔からは赤みが消え、大きな瞳いっぱいに悲しみの色が広がった。
「いなくなってしまった猫の居場所を、教えて欲しいの。」
 彼女の全身から、かぐわしい不幸の香りが立ち上ぼり、私はいつもの癖でそれを思い切り吸い込んだ。
 ああ、やっぱり運命なんて変えられない。
 私はこれを頼りに生きていくしかないのだ。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:14| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする

大賢者大森賢五郎(その2)

二、祝福されているから大丈夫

「ありがとうございます。」
 シャケおにぎりと缶コーヒーを買った背広のおじさんを送り出してしまうと、コンビニには店員二人の他誰もいなくなった。客が途絶えた所を見計らい、女の店員はレジの下に置いてある小さな金庫を開け、百円玉が五十枚重なっている棒を取り出した。
「優子さん、猫は見つかった?」
「んー、まだだよ。」
「そう。早く見つかると良いね。」
 背の高い男の店員は、優子がレジを開け、百円玉の棒を崩し入れるのを見ていたが、すぐに自分の仕事を思い出し、ビニールの手提げ袋の束を、レジ近くのひもにくくり付けた。
「昨日、ともなりさんに言われた通り占い師さんの所に行ってみたんだよ。」
「あ、行ってみたんだ。どうだった?」
「本当に占い師だったからびっくりしちゃったよ。前、ママに買い物頼まれて、そごうの地下に行く途中見かけた事はあったんだけど、何しろすっごい怪しいからさ、ともなりさんに言われなければ絶対声なんてかけなかったよ。」
 優子は占い師の風貌を思い出し、けらけらと笑った。ともなりもつられて笑顔を作った。
「それで、何て言われた?」
「それがね……」
 その時、スーツの女性が店に入って来た。彼女は「CHANEL PARIS」と白抜きで書かれた黒い紙袋を左肩にかけ、飲み物の詰まった冷蔵棚の方に大股で進んで行った。優子とともなりは「だるまさんがころんだ」の要領で押し黙り、女性の様子をちらりとうかがった。彼女はほとんど悩まずにミネラルウオーターを選び出し、素早くレジを済ませて立ち去った。
「ありがとうございます。」
 ともなりがそう言い終らない内に、優子は大声を上げた。
「ねえ、見た? 今の人の持ってたシャネルの紙袋! 大きかったねえ。」
「そう? よく見てなかった。」
「もうっ! ともなりさんでもシャネルは知っているよね?」
 ともなりはブランドや有名人について疎く、優子にしょっちゅうこんな質問をされては、この分野への無知をさらしていた。この間も「NIKE」を「ニケ」、「アニエス ベー」を「アゲイン エッチ」と読み間違えて、優子に呆れられたばかりだ。
「ああ、知ってる、知ってる。マリー・アントワネットが使ってて有名になった奴でしょ?」
 優子の頭は一瞬真っ白になった。
「……ひょっとして、マリリン・モンローの事を言いたいの?」
「ああ、なんかその人だったかも。」
「もー、ともなりさんはあ〜」
 優子が眉間にしわを寄せるのを楽しむように、ともなりは笑った。
「あんなに大きい紙袋を持ってるって事は、シャネルで大きな買い物をしたって事だよ! カバンかなあ、スーツかなあ。あ、もしかしたら今のスーツ、シャネルのだったのかも。マーク見えなかったけど。」
「分からないよ。シャネルのお店で紙袋だけ買ったのかもしれない。」
「えっ? 紙袋だけ売ってるの?」
「そんなの僕が知るわけない。でもまあ百五十円とかで紙袋売ってたら便利だよね。」
「そんなのあるかなあ。でも分からないよね。私だってシャネルのお店なんて行った事ないもの。」
 ブランドの話をする度、優子は悲しそうな顔をする。悲しくなるのならそんなもの気にしなければ良いのに、姑が嫁の欠点を指摘するみたいに目ざとく、お客が身に付けているブランド品を見つけてしまう。
「もっとお金持ちになりたいなあ。一年に十億とか稼げなくても良いから、せめて普通のOLくらいのお給料が欲しい。」
「もうすぐ働けるようになるよ。優子さん、前よりずっと元気になったじゃない。最近はトイレに駆け込む事もなくなったし。」
「嫌だなあ、ともなりさん。恥ずかしいよ。」
 優子は小声でそう言い、顔を赤くした。色白なため、気持ちが全部顔色に出てしまう。
「せっかくこんな元気になれたのに、あと一歩って所なのに、ジルベールがいなくなっちゃうんだもの。気位の高い子だから、なつくとか、仲良しとか、そんなんじゃなかったけど、子供の頃から一緒に暮らして来たんだもの。いるといないじゃ大違いよ。」
 少しだけ下唇を突き出し、小さく震える優子を見ていると可哀相で、ともなりは栗色のやわらかな髪を撫でた。優子は可愛い。去年死んだおばあさんの次くらいに可愛い。おばあさんがいなくなった後、ともなりは体の半分が失われてしまったような、激しい虚脱感に襲われた。猫がいなくなって、優子も同じような気持ちでいるのだろう。本当に可哀相だ。
「猫は何歳になるの?」
「今年で十五歳。もう寿命かもねって、ママは言うんだけど、今まで一度も外に出た事がないのに、急にいなくなっちゃうなんておかしいよ。冷たい水も飲めないのに、生きていけるのかなあ。」
「冷たい水を飲まずに、何飲んでたの?」
「ぬるま湯と、温めたミルク。」
「優子さんに負けない箱入りなんだ。」
 ともなりは優子の頭のてっぺんを、ぽんぽんと軽くたたいた。目じりをそっと人差し指でぬぐいながら、優子は微笑んだ。
「ともなりさんは優しいね。背も高いし、顔だってかっこいいんだから、おしゃれすればきっともてるよ。」
「僕もおしゃれするお金なんてないし。」
 優子は真面目な顔になって、ため息をついた。猫とお金の悩みを吐き出すために。
「それでさっきの話の続きだけど、占い師は何て言ってたの?」
「そうそう、それが。」
 優子はすぐさま、あっと声を上げた。そして店に入って来た女性を指差した。ジーパンの上に白い長袖Tシャツというこざっぱりした格好のその客は、優子と目を合わせにっこり笑った。優子はちょこんと会釈した後、ともなりに耳打ちした。
「あの人だよ、昨日の占い師。」
 占い師はまず雑誌コーナーに向かい、週刊文春を手に取った。目次を開き目当てのページを見つけると、長い時間をかけてそこの文章を読んだ。そして肩を震わせてクツクツ笑ってから、満足顔でページを閉じ、元の場所に戻した。
「随分堂々とした立ち読みだね。」
「さすがは占い師。」
「関係ないよ、ともなりさん。」
 しめ縄並にがぶっとい、一本に結ったおさげ髪を揺らしながら、占い師は冷凍棚の前に移動した。棚のガラスに指を突き、全てのアイスを眺め回して散々迷った挙句にハーゲンダッツの抹茶味を取り出し、じっと見つめ、元の場所に戻した。
「買わないのか。」
「優柔不断だねえ。」
 という二人の声が聞こえたのか、占い師はくるっと身をひるがえすと、今度は最初から決まっていたような素早さで、カニパンと牛乳パック(給食サイズ)を手に持った。この二つは元の場所に戻さずに、右手にカニパン、左手に牛乳を握り締めて、占い師は店内をぐるぐる歩き始めた。
「何か探しているのかな?」
「あ、止まった。」
 占い師がぴたりと立ち止まったのは、コンドームの棚の前だった。それから彼女は身じろぎ一つせずに、コンドームの箱を凝視した。穴が開く程強い視線で。
「買うのかなあ。」
「顔見知りがいる店で買わないでしょう、普通。」
「でも私、一回しゃべっただけだし、気にしないのかも。」
 しばらくの間占い師はその形のまま固まっていたが、魂がどこかから帰って来たみたいに、ふっと意識を取り戻し、視線を生理用品の棚に移した。そしてその中から適当な物を選ぶと、レジに持って来た。
 占い師は優子に笑いかけながら言った。
「昨日はごめんね、曖昧な事しか教えられなくて。これから探しに行って来るから、安心して仕事をしてね。」
「ううん、良いの。それより……」
 優子はともなりに聞こえないよう占い師の耳に口を寄せた。
「生理で辛いんだったら、今日探しに行かなくても良いよ。」
「え? あ、これの事?」
 占い師はともなりがいる事を全く気にしない様子で、生理用品を高くかかげた。
「立ち読みしちゃったし、パンと牛乳だけじゃ申し訳ないから買っただけ。今は生理じゃないの。ついコンドームを買っちゃいそうになったんだけどさ、次いつ使うか分からないからねえ。」
 かっかっかっか、と大きな笑い声を上げ、占い師は指に引っかけたビニール袋をくるりくるりと二回転させた。
「じゃ、行って来ます! お二人ともお仕事頑張って下さい。」
 占い師が深々とお辞儀をするので、優子とともなりもつられて頭を下げた。二人が顔を上げた時、占い師の姿はもう見えなかった。
「あの人、地味な洋服着ていても怪しいんだね。」
「でも良い人そうだったじゃない。必要ない物まで買ってくれたし。」
「見ず知らずの私がちょっと猫の相談しただけなのに、探しに行ってくれるんだものね。」
「あれ? 占いの結果はどうだったの? 歩いて探すのだったら占う必要なんてないじゃないか。」
「それが、本当にあやふやな事しか言わないの。」
 コンビニの店名がプリントされた、オレンジ色のエプロンの肩ひもを指でもてあそびながら、優子は続けた。
「『小さなボロっちい家が見える。平屋建てで、周りは木や伸び放題の雑草に囲まれているから、緑のもやの上に水色の三角屋根が乗っかっている感じ。家にも草木にも不釣り合いな白いパラボラアンテナが目印。赤い花がいっぱい咲いてる。とても綺麗。』」
「その家に猫がいるの?」
「ううん、そうじゃないんだって。そこは猫を見つけるきっかけになる場所で、今行ってみても空っぽだろう、って。」
「それじゃあ今猫はどうしているの?」
「それは分からない。分からないんだけど、って言った後の占い師さんの言葉がおかしいの。
『あなたは祝福されているから、あなたのペルシャ猫もきっと大丈夫だ。』
って。」
「祝福、ねえ。」
「私、祝福されているなんて感じた事ないのに。むしろその反対なんじゃないかって、毎日思っているのに。でもね、私、ジルベールがペルシャ猫だなんて一言も言わなかったんだよ。」
「へえ、じゃあ占い師として少しは見込みがあるんだ。」
 優子はこくんとうなずいた。
「だからちょっと信じてあげたいと思ったの。その後、はっきり居場所を教えられないから、お金はいらない、本当にごめんって、何度も謝られちゃってさ、逆に悪い事しちゃったみたい。」
 二人は占い師が店内をうろうろしていた時の様子を思い出し、微笑み合った。
「そう言えばさ」
 ともなりは優子の方は見ずに、店内を眺めながら言った。占い師の次の客は、まだ来ない。川口駅東口のコンビニに比べて、西口のこの店はいつも空いているのだ。
「優子さんが今日ここにいるって、占い師に教えたの?」
 優子は顔から笑みを消し、首を横に振った。
「教えてない。店の名前も、レジに立つ時間や曜日も、大体がコンビニで働いている事すら言わなかった。」
 ともなりは客が置いていったレシートを拾い集めてから、何か大いなる力に感心するように、腕を組んだ。
「意外にすごい人なんじゃない?」
「意外に、ね。」
 昼飯を買う人々でごった返す、一日一回だけのラッシュが、もうすぐ始まろうとしていた。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:08| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする

大賢者大森賢五郎(その3)

三、カラマーゾフの兄弟

「ない……やっぱり、ない。」
 川口駅西口周辺はマンションばかりがニョキニョキと高くそびえて、店は少なく、昼間だというのに人影もまばらだ。そごう、丸井、大型書店などが建ち並び、それなりに開けている東口とは対照的な風景が、どこまでも続いている。
 私はコンビニに行って昨日の女の子に会った後、駅から真っ直ぐに伸びている大通りを自転車で走ってみた。大きな鉄工所の先にひときわ目立つ高層マンションがあり、その隣にはそこだけ三十年前のままみたいな古い木造の家があったけれど、二階建てで、私が思い浮かべた家とは「ボロい」という共通点しかなかった。
 一通り道沿いのマンションを見上げてから、川口駅の方に戻り、今度は右寄りの道路を行ってみた。そこは狭い二車線で、歩道も車道も自転車が走るには窮屈なのだが、交通量、特にバスやトラックのような大型車の行き交う量が思いの他多くて、意味もなく何度か危険な目に遭ってしまった。この道に高層マンションはなく、自動車を展示・販売している店や、地味な料理店、あとは古くも新しくもない一戸建てとアパートが、みしみしと隙間なく詰まっている。途中、右に向かう太い道があったので曲がってみると、京浜東北線の線路に突き当たり、上り・下り電車のすれ違う轟音とそばにあったお菓子工場の甘ったるい香りにくらくらした。
 目的の家がないようなので、来た道をたどり再び川口駅に戻った。次は線路沿いを調べてみようと、ひっきりなしに通る電車を金網越しに眺めながら、西川口駅の方に向かって進んでいった。
「あっ、行き止まりなんだ。」
 てっきり川口駅から西川口駅まで線路沿いの道が途切れず続いているとばかり思っていたのだが、薄っぺらい形の不思議なマンションが道をさえぎっていた。仕方がないのでマンション前の細い道を走っていくと、商店街、いや、「かつて商店街だった場所」が現れた。
 和菓子屋、金物屋、洋品店……どの店も、昔、多分川口が「キューポラのある街」に描かれていたような鋳物の工場街だった頃、栄えていたのだろう。今でも他の街に比べれば工場は多いし、市の広報も川口市を「鋳物と植木の街」として宣伝しているけれど、本当の事を言えば、ここは「新興住宅とギャンブルと風俗の街」だ。景気の良い時は、工場の職人達が稼いだお金でレースに興じ、勝った儲けをソープに使う、という「川口経済の流れ」があったらしい。今はそんな職人も少なくなったから、ギャンブルや風俗好きな人々が、市外からもやって来るのだろう。
 工場をつぶして作った住宅地に押し寄せた新しい住人達は、オートレース場やソープランドの放つ卑俗な雰囲気に驚く。驚いたからといって引っ越す訳にはいかないし、都内へ出るのに便利なのは確かだから、住み続ける。そしてじきに慣れてしまう。この街を形作る暗い連鎖になんて気付かずに、シャボリ、シャボリと不幸の水を蹴り上げて。
 ここの商店街に不幸の水は感じられない。どこもかしこもすっかり寂れて、光も闇も枯れ果てた、といった風情だ。看板だけでシャッターを下ろした店が七割、残りの三割はきちんと営業しているようなのだが、客の姿がまるで見えない。街灯にぶら下がるやけに新しい赤い旗が、さらにわびしさを強調している。
「甘いなあ〜、もう」
 先程突き当たったお菓子工場に再び着いた。濃い水色の四角い箱のような建物で、バターと砂糖を混ぜて焦がしたような香りが、そこら一帯に充満している。私は女にしては珍しく甘い物が苦手なので、逃げるように先を急いだ。
 少し行くと、小さなお稲荷さんがあった。土地は狭いのだが、何重にもなっている鳥居と石の狐がぎゅっと一所にまとまっていて、ほこらからはなかなかに強い力が感じられた。私は狐や神様に嫌われたりしないよう、そっと全体を見つめてから、てのひらを合わせてしばらく拝んだ。
 ここがまだ商店街として機能していた時代、客や店の人間の多くが日常の中で、こんな風にお稲荷さんを頼りにしていたのだろう。鋳物工場は火を使うから、その安全を祈る人々もいたに違いない。人でも神様でも「頼りにされる」というのは素晴らしい事だ。私もいつかそんな占い師になれれば良いのだけれど、このままではからっきし駄目だ。ようやくつかんだ最初の仕事だというのに、いまだ家一軒、猫一匹見つけられずにいる。
 お稲荷さんにお辞儀をし、自転車を漕ぎ始めると、錆びたトタン板に覆われた鋳物工場が左手に見えた。初めて来たのに何故か懐かしく感じながら通り過ぎると、次に銭湯の煙突が青空に突き出ているのが目に入った。夕方になれば、そこから黒い煙がゆっくりのぼるのだろう。
「ここは昭和三十年代かっ?」
 駄菓子屋の木枠の入り口の横を通過しながら、そう突っ込みたい衝動に駆られた。しかし街相手ではこちらも無力なので、大人しく走っていくと、Y字路に出た。右へ進めば西川口のソープランド街に行ってしまうのは分かっていたから、左を選んだ。
「へえ、こんな所に図書館があるんだ。」
 川口市立横曽根図書館。私は普段、市役所の近くにある中央図書館を利用するのだが、本を借り出すための券は市内共通なのでここでも使える。ちょうど帰りに本屋か図書館に寄りたいと考えていた所だったから、初めて見るその建物の中に入ってみた。
 まず二階に上がり占いの本のコーナーで「手相入門」「タロット占い」の二冊を手に取った。手相の方は駅前にいる「手相の勉強をしている人々」に馬鹿にされないため、タロット占いは出来れば何となく格好良さそうだから、読んでみようと思った。机と椅子だけというのも潔くてなかなか気に入っているのだけれど、あそこにぼんやり座っているだけでは、塚沢冷機工業に勤めているのとあまり変わらないような気がする。今にも、
「また沼田さんぼーっとしてる! 起きてる? 生きてる?」
 という元同僚の女の子達の声が聞こえてきそうだ。
 そんな私でも、タロット占いの神秘的な絵柄のカードをしゃらしゃらかき混ぜたりしていれば、きっとどこかから、
「よっ、占い師! 沼田屋!」
 というかけ声がかかるに違いない。
 私は「素敵な西洋風占い師」になった自分を想像し、ちょっぴりニヤニヤしながら一階に下りた。そして新着図書コーナーでお気に入り作家の新作を運良く見つけ、文芸コーナーでは予約をしなければ絶対読めないような人気作家の作品を偶然発見した。どちらも恋愛小説だ。
(これ、リクエスト用紙を出そうか迷っていたんだよね〜 こんなに早く借りられるなんて嬉しいなあ。)
貸し出しカウンターに行く途中、岩波少年文庫が本棚丸々一本分並んでいたので、魔法使いの出て来るお話を一冊選んだ。「占い」二冊、「恋愛」二冊、「魔法」一冊、計五冊。職員のお兄さんは、ピ、ピ、ピ、と赤い光を当てて本に振られた番号を読み取っていく。
「ありがとうございます。」
 これだけで二週間、これらの本が自分の物になる! 私は図書館が大好きだ。
(大人の文庫は二階にあったな。)
 私は用もないのに二階の文庫コーナーへ向かった。いや、用があると言えばあるのだ。図書館に来たら必ずする、儀式のようなもの。
(あった、あった。)
 外国文学の文庫の中から「カラマーゾフの兄弟」を見つけ、そっとその背を撫でた。

 「三番目の彼氏」は今時珍しいバリバリの文学青年だった。一人暮らしをしている小さな部屋の壁一面にびっしりと文庫本が並んでいて、さらに驚く事には、一冊文庫本を抜き出すと、奥にもう一冊文庫本が見える。つまり全ての本棚が二重構造になっているから、蔵書は表に出ている本の倍あるのだ。
「これでも随分実家に置いて来たんだけどね。ここにあるのは本当に気に入った本だけだよ。」
 読み返す回数の多い本を表の取り出しやすい位置に、その頻度の低い本は取りにくい位置や奥にと、彼なりの所蔵方法が厳しく決まっているようだった。
 夏目漱石、太宰治、三島由紀夫……名前を知っている作家はそれくらいだったけれど、どれも普段の私なら決して読まないような暗い、難しそうな小説である点が共通していた。ある時、彼の気持ちを理解するためにはこういう本も読まなくっちゃと、なるべく薄い本を選び――それは「ヴィヨンの妻」という短編集だった――借りて帰った。
 読んでみてびっくりした。
「何なんだ、このダメ男はっ!」
 これでもか、これでもかと、全編にダメ男が出て来る。そのダメぶりにも呆れたが、真面目でおとなしいサラリーマンとして、社会で平凡に暮らしている彼の内部に、こんなキザな性格破綻者が住んでいるのかと思うと、何とも言えない気持ちになった。
 彼はぱっと見キザでも性格破綻者でもなかった。でも確かにもうそろそろ世間擦れしても良い年齢だと言うのに、文学青年特有の暗さと青さが一向に抜けなかった。こんな本ばかり読んでいるからそうなったのか、それとももともとそういう性格だからこんな本ばかり読んでいるのか、どっちが先なのかは分からない。分からないけれど、彼の向こう側にはいつも同じ風景が見えた。
 濃いスミレ色の空には、星も、月さえもない。地平線の彼方まで続く平らな砂地にはもちろん植物の姿などなくて、ただ彼だけが独り湖のほとりに立っている。かすかに銀色の光を放つ砂を踏みしめて、墨より黒い湖水を、音もなく打ち寄せるその波を、ただじっと、見ている。
 ここには夜しかない。
 夕焼けの赤に染まった事がかつてあったのか、日の出の輝きに満たされる事がいつかあるのか、誰も知らない。私が知っているのは、あれが虚無の湖だという事だけだ。
 私は虚無について詳しい事は知らない。ただたまに虚無を感じる事はある。例えば歯医者さんで歯を削られた時、そのぽっかりと空いた歯の穴に、虚無が入り込む。別に歯医者さんが意地悪して薬品と一緒に虚無を入れてしまうわけではない。体の一部が永久に損なわれ、もう二度と元には戻らないという感覚が、死に向かって毎日壊れていくしかない自分という存在をはっきり意識させ、虚無を連れて来る。
 私は痛いのも嫌だし、削る音も嫌いだけど、虚無を知る修行だと思って歯医者に通う。
 私の虚無は、歯に詰め物をして治療が終わりさえすれば、それがどんなものだったかも忘れてしまうような、ちっぽけなものだ。だから彼の向こう側に何であんな巨大な虚無の湖が生まれてしまったのか、私には分からなかった。彼が今までの人生の中で味わい続けて来た苦痛や悲しみを全て調べ上げれば、何かしらの原因を突き止められるのかもしれない。強く言って聞き出したり、私の「得意技」を使って全部見てしまうのも、やろうと思えば出来る。でも私はしなかった。たとえ鍵が付いていなくても人の日記を勝手に読んだりしてはいけない。誰かと「共にある」ためには、それが一番大事だと思っていたから。
 私は彼の心の中を盗み見る代わりに、虚無の湖を見つめる彼の背中に向かって何度も呼びかけた。けれど、彼は振り向いてくれなかった。現実の世界では私の他愛ない冗談に、さも楽しげな笑顔を作って見せたりするくせに、あの虚無の湖のある世界において、私は無力だった。 

 彼の一番のお気に入りはロシア文学で、中でもドストエフスキーの小説には特別の愛着があるようだった。上・下巻やら上・中・下巻だのに分けてもまだ分厚い文庫本が、ご飯を食べながらでも手が届く位置にずらりと並んでいた。カバーが擦り切れる程読み込まれたそれらの本には、きっと彼の精神を理解するために重要な何かが描かれているのだろう。いつか読まなければ、読まなければと強迫されるように思っていたのだが、結局読み始める事すら出来なかった。長くて難しそうだというのも敬遠する一因ではあったけれど、何よりも読む気を失せさせたのは、
「苦悩する青年が沢山出て来るのだろうなあ。」
 という予感だった。苦悩や絶望に囚われた男達なんて、現実だけでお腹いっぱいだったのだ。「三番目の彼氏」だけでなく「一番目の彼氏」も「二番目の彼氏」だって、この点では似たようなものだったから。
 大体何で「苦悩する青年」は「苦悩する青年」の物語を読みたがるのだろう。「苦悩する青年」は「苦悩を解決する青年」の物語を読むべきではないのか。そんな物語なんてどこにもないのかもしれないけど。
 彼の家にあったドストエフスキーの文庫、特に長い「カラマーゾフの兄弟」を眺めながら、いつもそんな事を考えていた。彼は自分の心を理解してもらうのを最初から諦めているみたいに、小説を読むよう勧めもせず、悲しそうな瞳を細めて微笑んだ。
 私はドストエフスキーの本を一冊も読まないままに彼と別れてしまったのを、相当後悔しているのだろう。図書館や本屋に行く度、足が勝手に外国文学の文庫の場所に向かってしまう。そうして必ず「カラマーゾフの兄弟」を見つけ、読みもしないのに、その背を撫でる。それが彼の体か精神の一部であるかのように、あの湖の世界の砂に似た、銀と藍を混ぜたような背表紙を、人差し指と中指で、優しく……
「占い師さん。」
 突然何の前触れもなく男のささやき声が耳のすぐそばで聞こえたものだから、私は叫び声を前歯の裏っかわ辺りでどうにか押し殺し、振り向いた。
「あ、あ、さっきの……」
 そのやわらかな声の主は、昨日の女の子と一緒にコンビニで働いていたお兄ちゃんだった。こんな所で私を見つけたのが嬉しかったのか、にこにこと笑みを浮かべて満足そうに立っている。私の方はと言えば、驚いたのと、何か恥ずかしい淫らな光景を見られたようなばつの悪さから、ぐんぐんと勢い良く頭に血が上っていくのが分かった。
「大丈夫? 顔が赤いよ。」
 コンビニのお兄ちゃんは私が「カラマーゾフの兄弟」の背表紙を撫でていた事なんて気にしていないし、もちろん私がその時何を思っていたかなんて知りっこないのだから、こんなに動揺したら「勘ぐってくれ」と自分で言っているようなものだ。何か聞かれたりしたらどうしよう、とますます顔と頭を熱くしていると、お兄ちゃんは何も言わずに私の腕を軽くつかみ、私を図書館の外まで連れて行った。そして植え込みを囲っているコンクリートに私を座らせ、
「ここなら風がある。」
 と言いながら私の額に手を当てた。
「熱はないみたいだ。図書館の中はちょっと暑かったから、のぼせたんだね。」
 涼しい場所で私を落ち着かせ、都合の良い誤解をしてみせる。お兄ちゃんの対応は「全部お見通しなんじゃないのか?」とこっちが逆に勘ぐりたくなる程の、完璧なものだった。これくらい出来なければコンビニの店員なんて務まらないのだろうか。
「……牛乳飲んでも良いかしら。ほら、頭も冷やしたいし。」
「お昼まだなんだね。僕もまだなんだ。」
 私が牛乳とカニパンを取り出すのを見て、お兄ちゃんは自分の手にあるコンビニの店名がプリントされたビニール袋を揺らしてみせた。
(うまく誤魔化せたのかな?)
 私の不安になんて全く気付かないような様子で、お兄ちゃんは私の横に座ってピーナツバターの挟まったパンを食べ始めた。
「猫、見つかった?」
「まだ。いや、見つからないのは分かっていたんだけど、一応下見だけでもしておこうと思って。」
「家を探しているの?」
「あの子から聞いたのね。そうなの、ボロ家。花の綺麗な。」
「猫がいてもいなくても、行ってみたいな、その家。」
「私も。」
 ふと、この人は占い師というものをどう思っているのか心配になった。あるのかないのか分からないような家の話を聞いて、「寝言は寝てから言えよ」と言いたいのをぐっと我慢しているんじゃないだろうか。もしかしたら頭のおかしい女だと哀れに感じて信じている振りをしてくれているのかもしれない。馬鹿にされるならともかく、哀れまれるのは嫌だな、何となく。
 でも何をされたって文句は言えない。猫も家も見つからない限り、私はただのインチキ占い師と変わらないのだから。
「家はこの近所なの?」
「うん、多分ここのそばなんだけど……」
「そうじゃなくて、占い師さんの家。」
「ああ私のね。私は市役所の方に住んでるの。だからこの図書館に来るのは初めて。あなたは?」
「僕の家も東口側だよ。でもどの図書館も遠くてね。ここの図書館は仕事帰りに寄りやすいからたまに来る。占い師さんは本借りた?」
 お兄ちゃんの目が「見せて、見せて」の色に光ったものだから、仕方なしに私は借りた本を全部出した。すると一番見られたくなかった「手相入門」「タロット占い」の二冊をお兄ちゃんは情け容赦無く引っ張り上げた。
「占いの本だ! 研究熱心なんだね。」
「えっと、それ……実は私、占い師になったばっかりなのよ。だからちょっと勉強しようと借りてみたんだあ。」
 無理に笑ってみても、顔が引きつる。こんなに格好悪い事ってあるだろうか。医者が「家庭の医学」を頼りに診察や手術をしているのを見とがめられるようなものだ。
「この小さい本は?」
「魔法使いの出て来るお話で、児童書なんだけど、面白そうかなと思って借りたの。ファンタジーブームになる前から好きだったんだ、剣と魔法の世界。」
「可愛い趣味だね。」
 こんなインチキ臭さ大爆発で、この猫探しの仕事を続けさせてもらえるのだろうか。疑いなど一つも抱いていないようなお兄ちゃんの穏やかな微笑みがますます気がかりで、私は再び頭を熱くしないために牛乳をストローでちゅるちゅる飲んだ。
「残りの二つは小説かな?」
「そう。」
「表紙が凝ってるね、色使いも繊細で。」
「どっちも女性向けの恋愛小説だからじゃないかな。私、難しい小説が読めないのよ。本は好きだけど、いつも子供向けと恋愛ものと、あとはエッセイくらいしか読まない。」
「コンビニで文春を読んでいたよね。」
「ああ、あれもエッセイ。毎週どこかで立ち読みするの。」
「たまには買ってね。」
 お兄ちゃんがわざと困ったような顔を作った時、誰のものか分からない強い感情か何かが、私の心をかすめていった。ラジオに一瞬入る雑音みたいなものだから、正体は全くつかめない。でも知ってる。何だっけ? 昔の男に関係する事。「最初の彼氏」? 「二番目の彼氏」? 「三番目の彼氏」? 三人全て? それとも……
「僕はこれを借りたんだ。」
 ぼーっとしている私の前にお兄ちゃんは新書を五冊突き出した。三冊が仏教、一冊が神道、もう一冊は宗教学の本だった。その表紙の寺や仏像や神社の写真を眺めて、私はつい叫んでしまった。
「難しそう!」
「そんな事ないよ。専門知識のない人に分かりやすく解説するのが新書の目的なんだから。難しかったら僕も読めない。」
「宗教が好きなの?」
「最近仏教にはまっててね。ねえ知ってる? ブッダはミルク粥を食べて悟りを開いたんだよ。」
「ブッダって、仏様?」
「そうそう、仏教を始めた人。彼は苦行しているうちにはらぺこになっちゃってね、こんな事ではいかん、と考えを改めた所にスジャータっていう女の子がミルク粥を差し入れしたんだ。それですっかり元気になって悟りを開いたらしいよ。」
「へえ、スジャータってそういう意味なの。」
「僕は仏教思想よりこのミルク粥が気になってね。二千五百年前のインド料理だよ。どんな味だったんだろう、まずければ悟る気力も萎えただろうから、大層美味しいものだったんじゃなかろうか、なんて考えながら仏教の本を読む。僕も勉強し始めたばかりだから、こんなものだよ。」
「神道と宗教学の本は?」
「仏教を知る参考のために借りてみた。占い師さんは難しくない本が好きみたいだけど、僕は説明的な文章が好きなんだ。」
「物語っぽいのは読まないの?」
「ほとんど。あ、でも一つ特別好きな小説がある。」
 そう言ってお兄ちゃんは自分のリュックサックからボロボロの文庫本を取り出した。
「志賀直哉の短編集。高校の課題図書でね、最初はいやいや読み進めたけど、この中の『城の崎にて』が気に入って、いまだに持ち歩いている。」
 お兄ちゃんの開いたページを覗き込むと、漢字をたっぷり使った改行の少ない文章に目がチカチカした。
「私は無理だわ、これ。」
 私の情けない感想にお兄ちゃんは笑った。
「そんな事ない。とっても短い話だよ。志賀直哉は若い頃電車に跳ねられて大怪我するんだ。その療養のために行った城崎温泉で、蜂の死骸と、死にかけているネズミを見た後、悪気もなく投げた石でイモリを殺してしまう。」
「それから?」
「それでおしまい。」
「それだけなの?」
「あらすじはね。最後に偶然死んだ動物達と偶然死ななかった自分を重ね合わせて、

『生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。』

 なんて事を言って終わる。でね、僕が驚いたのはここ。」
 お兄ちゃんは文庫本の終わりの辺りにある、志賀直哉の年譜を開いて指差した。
「『死に対する親しみが起っていた。』なんて書いておきながら、八十八歳まで生きているんだよ。随分図々しいと思わない?」
 文庫本を借りてぱらぱらとページをめくると、解説に「戦後、直哉の評価は低落するが、直哉自身は文壇的な毀誉褒貶に動じることなく、家族・友人・多くの信奉者に囲まれて、円満で穏やかな晩年を送った。」とあった。
「いい人生ね。」
「僕は苦悩や絶望に耐え切れず自殺してしまうような人より、こういうしたたかな人間が好きだ。」
 「苦悩」「絶望」という言葉にはっとしてお兄ちゃんを見上げると、私の方は見ずに遠くへ目をやって、自分に言い聞かせるみたいに軽くうなずいていた。
「一緒に住んでいたおばあさんが去年死んだんだけど、試しに呼んでみた坊さんが一目でヤブだと分かったから、すぐに追い返して僕がお経の代わりに『城の崎にて』を朗読したんだ。」
「ヤブ? ヤブ医者じゃなくて『ヤブ坊主』?」
「そう、仏教を真面目に学んだ事のない、あったとしても必要に迫られて表面的に知識をさらっただけの、エセ仏教徒だよ。『お金をもらうためだけに来ました』と顔に書いてあった。ヤブ医者程の実害がないから世間は『ヤブ坊主』を野放しにしているけど、一人っきりで僕を育ててくれた大切なおばあさんのなきがらの前にそんな奴を座らせるのは、僕が許さない。」
「お葬式に来た人達はびっくりしていたでしょう。」
「葬式と言っても、弔問客なんて誰もいなかったから。二人だけで暮らしていたんだ。子供の頃から、ずっと。」
 そんな密接な間柄の人を亡くすのは、どんな気持ちなのか。私も彼氏と別れる時は毎回つらかったけれど、相手が死んでしまったわけではないし、それとはちょっと違う悲しみだろう。親と兄弟と恋人と友達がいっぺんに死んでしまうようなものか。
 私は「偶然死んだおばあさん」の前で「偶然死ななかったお兄ちゃん」が一人声を張り上げている所を想像した。死がおばあさんを他者にしてしまうのを認められず、むしろその死に親しみを感じている、その表情を。
 お兄ちゃんは我慢しているのか、今現在、あまり強い感情は感じられない。時間や仏教の本や志賀直哉が、お兄ちゃんを助けてくれたのだろうか。
「そんな事があったせいもあって、占い師さんには猫探しを頑張って欲しいんだ。猫がいなくなって、あの子も僕と同じように苦しい毎日を送っていると思うと可哀相でね。」
 私は話に夢中になっていて猫を探さなければいけないのを、すっかり忘れていた。エセ占い師め、と追い返されたくはなかったので、自信があるような笑顔を作って、背筋をぴんと伸ばしてみせた。
「ねえ、一つ聞いて良い? 何であの子、あんなに不幸なの?」
「すごい質問だね。」
「だって不思議なんだもの。裕福なお家で優しいパパとママに甘やかされてすくすく育って、確かに一回、闇に足をつかまれるような嫌な病気をしているけど、それももう治っているはずよ。あの子祝福されている。」
「何に?」
「『普通教』の神様に。顔も、性格も、能力も、健康状態も、経済状況も『普通よりやや上』、偏差値で言うなら六十くらいを保っている。それって恵まれているんじゃないかしら。なのに自分が幸福だという実感をほとんど持っていない。猫がいなくなったせいだけじゃないよ。」
「『普通』という価値観で生きる人達も大変なんじゃないかな。いつも自分と誰かを比べていなければならないからね。幸・不幸の判断だって簡単には出来ない。」
 そう言ってお兄ちゃんは、信用するに足る人物か確かめるみたいに私の瞳をじっと見すえた。私にやましい事なんて……ちょっとしかない。それだって「日がな一日昔の男を思い出してぼんやり暮らしている」というような、他人にとってはどうでも良いくだらない後ろ暗さだ。
 覗き込んで、全部見ればいい。本当の意味で恥ずかしい事など、私の中に何一つない。
 お兄ちゃんはふっと顔の緊張を解いて言った。
「あなたになら、教えてしまって構わないだろうな。あの子、短大を出てすぐにお父さんのコネで有名な大企業に就職したんだけど、ストレスで体を壊して辞めてしまったんだ。ひどい下痢がずっと続いて、半年間家を出られなかったらしい。コンビニでバイトを始めたのは病状が少し落ち着いてからだけど、それでも最初のうちはしょっちゅうトイレに駆け込んでいたよ。」
「その病気はもう治っている。」
 私は彼女が通っていた病院、病名、その病気の原因と重さも全て見えていた。それがとっくの昔に完治していて、あとは彼女が自分で生み出している不安を取り除けば問題ない、という事も。
「体が元通りになっても、一度感じてしまった不安はなかなか消えない。急に具合が悪くなるんじゃないかと怖くて、いまだに一人では川口駅周辺から離れられないんだよ。」
「『アルプスの少女ハイジ』のクララだわね。」
「え?」
「何でもない。えっと、あの子は……優子さん、あなたはともなりさん、で良いのよね?」
 お兄ちゃん、いや「ともなりさん」は目を見開いて、私をまじまじと見た。
「そうやって近眼の人が遠くを見る時みたいに目を細めると、全部見えちゃうんだ。」
「今そんな事してた?」
 名前を聞き忘れていたので適当に読み取ってしまったのだが、面倒でも言葉で聞けば良かった。名前はもちろん過去も未来も現在考えている事も、見ようと思えば全部見えてしまう、という事がばれたら、インチキと思われるより余程悪い。そんな危険な「個人情報漏洩女」と仲良くなる馬鹿はいないだろう。
 私は顔の皮を両手で縦横に引っ張ってみせて、必死に誤魔化した。
「良いよ、そんな変な顔してはぐらかそうとしなくても。ねえ、僕がコンビニで働き始める前にしていた仕事、当てられる?」
「そりゃあ……」
 次の瞬間、生まれて初めての経験が私を襲った。ともなりさんと私の間にある物理的・現実的距離が奇妙な力で引き伸ばされて、あるはずのない七つの扉がガシャン、ガシャンと音立てて閉じていく感覚。こんなにそばにいるのに、七枚の分厚い鉄の板が私達を隔てている。
 読めない。どんなに強く見てやろうと思っても、無が、単なる真っ暗闇が、私に押し付けられる。
 ともなりさんを見上げた私の顔は、軽く青ざめていたと思う。ちょっと意地悪そうな彼の笑みに、その色が映っていたから。
「結婚詐欺師、かなっ?」
 険悪な雰囲気になるのは避けたかった。冗談っぽく、にっこり微笑みながらそう言ってみた。それでもまるっきりでたらめという訳ではなかった。全力を尽くしてつかまえた、ともなりさんの過去のしっぽ。
「近い!」
 私の気持ちを察したように、彼も明るく答えた。
「そうだ忘れてた、これ。」
 ともなりさんはコンビニのビニール袋からハーゲンダッツの抹茶味アイスクリームを取り出した。
「食べたそうだったから、買っておいたよ。」
「えっ……」
 この意味分かるよね? と言うように首を傾げながら、アイスを私に手渡した。
「それから言っておくけど、世の中の人みんながあなたみたいに、愛欲中心に生きている訳じゃないんだよ。占い師さん、いや、沼田きみ子さん。」

 私は不安になった。
 この人と仲良くなれないんじゃないか、というんじゃなくて。
 その全く反対の心配。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:03| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする

大賢者大森賢五郎(その4)

四、ダメ男との愛欲の日々

『食べたそうだったから、買っておいたよ。』
 それはどういう意味なんだろう? 冷蔵庫に入れて再び冷やし固めたハーゲンダッツの抹茶味アイスクリームを食べながら考えた。
 あの日、ともなりさんは偶然私を見つけたのだとばかり思っていた。しかしアイスのようなすぐに溶けてしまう物を『買っておいた』という事は、最初から私と会うつもりだったのだ。何のため? 私の力や人となりを調べたかったのか。本当に優子さんの猫を探し当てられるのかどうかを。
 大体何で私が図書館にいると分かったのだろう。名前もいつの間にか読み取られていた。私と同じような能力を持っていれば簡単だが、もしそうなら自分で猫を探し出せば良いのに。前の仕事をわざとらしく隠したりして、ともなりさんの行動はいかにも不可解だ。
 もう一つ大きな疑問がある。私の甘いもの嫌いまでは見抜けなかったのか、それとも知っていて故意にアイスを買って来たのか。前者ならば未熟者、後者だったら根性の悪い奴、という事になる。
「う〜っ、甘いっ! どっちにしても迷惑だ〜」
 コンビニでアイスを眺めていたのは自分で食べたかったからではない。私の愛した男達が、三人そろって甘党だったのだ。レストランでは「チョコレートパフェ」やら「特大ショートケーキ」だの見るだけでめまいのしそうなデザートを、パクパクと嬉しそうに食べていた。そしてスーパーやコンビニに寄ると、必ずアイスを買って帰った。もちろん私は甘いものなんて見るのも嫌なのだが、
「きみ子ちゃん、アーンして」
 などと言われるとつい口を開けてしまい、放り込まれた甘く冷たいかたまりを溶かしながら、色々な意味で後悔したものだ。食べたくもない甘いものを口にしてしまったという事だけでなく、男に要求されると何でも受け入れてしまう自分のだらしない性格についても。
 今住んでいるこのアパートだって「最初の彼氏」の
「街に出ても食ってヤッて寝るだけなのに、レストランやホテルは金がかかり過ぎる。どうにかしろ。」
 という勝手な望みを叶えるため、鉄工所を経営している伯父さんに頼んで従業員用の部屋を格安で貸してもらったのだ。
 「最初の彼氏」は実に困った男だった。何故我慢して付き合っていたのか自分でも理解に苦しむ。私も彼も十八歳、若かったと言えばそれまでだ。しかし何にでも当たり散らすあの性格は、きっと二十七歳になった今でも変わっていないはずだ。この数年連絡を取っていないから確認出来ないけれど、あの頃は大学受験の失敗で粉々になったプライドをどうにか保つため、会う度に私を蔑み馬鹿にした。彼にとっては「難解なもの」だけが素晴らしく、それ以外には全く価値を感じていなかった。だから子供っぽい本ばかり読み、大学に行きたいなんてこれっぽっちも考えなかった私のような人間は、慰み者として使うのにちょうど良かったのだろう。
 私が勉強嫌いだったのには理由がある。
「見えるはずのないものを見、聞こえるはずのないものを聞く」この能力は、物心つく前から私に備わっていた。今は必要な時だけ使うようにしているけれど、子供の頃は力の加減が分からずに、こちらの意図と関係なくあらゆる物事を見たり聞いたりしてしまった。いつもニコニコ笑っている親戚のおばさんの本当の気持ち。元気そうに歩いている近所のおじさんが一週間後に死んでしまう事……
 勉強に関してもそうだった。算数は計算方法を覚えなくても自然に答えが出て来てしまうし、漢字テストでは書き取り練習をサボっても、回答欄に正しい文字が浮き上がって見えてしまう。最初のうちはみんな私と同じような力を持っていると信じていたから、何故テストで×印をもらう人がいるのか、ちっとも解せなかった。
 次第に満点ばかり取り続けると担任の教師が不審がると分かり始め、同時に周りの生徒は自分と全く違うやり方でテストに臨んでいるのだと知った。それでも「テスト問題を普通に解く方法」が上手くつかめなかったので、出来の悪い男子の汚い答案を透視し「正しい間違え方」を研究したりして、程好い点数を取るよう努力するようになった。
「目立たないように」
 幼い私はそれを何より大事にしていた。善きに付け悪しきに付け「普通」から少しでも外れたものに対する人々の憎悪たるやただ事ではない。きっとみんな「自分と違う人間」が怖いのだ。他人の心を読めない人達は、自分と他人がどれだけ違い、どれだけ同じなのか確かめられない。だから、
「確認出来ないけれど、同じように感じ、考え、判断しているのだろう」
 と信じる事でどうにか心穏やかに暮らしていける。その基準を掻き乱すような事件に出くわすと、「普通」の側の人間達は結託して異端をもみ消そうとする。
 優等生や劣等生を嘲笑う級友達の心を毎日聞かされていた私は、悲しくなるくらいそれらの事情を心得ていた。隠れるように生きなければ危険にさらされる。学校とは、社会とは恐ろしい所だと、いつもビクビクしていた。
 そんな風に奇っ怪な天賦の才を持て余す私が、唯一許されるような気持ちになれたのは、物語の中に描かれる「剣と魔法の世界」においてだけだった。そこでは魔女でさえ、正義のために戦う主人公の敵役として、圧倒的な風格を持って存在している。
 私は生まれる場所を誤ったのだ。ここではないどこか、魔法や超能力が当たり前のように使われる異世界なら、もっと堂々と日々を過ごせるはずだ。ファンタジー小説を読む度そう思いながらも、人間の裏表を知り尽くしてしまったせいでひどく大人びていた私は、全てを諦め、覚悟していた。

 他のどこでもない、ここ。
 地球の、ことさら排他的な文化を持つ日本という国の、埼玉県川口市で。
 他の誰でもない、自分。
 おかしな才能を持っているにも関わらず、何もかも不器用にしか行えない私、として。
 
 死んでしまうその日までの長いような短いような時間を、どうにかやりくりしていかなければならないのだ。
 力の制御を覚え、普通にテストを受けられるようになったのは、高校二年の終わり近くだった。と言っても今さらまともに勉強する気になんてなれなかったから、学力の足りない分を「得意技」で補うようにして、程々の点数を取り続けた。多少の罪悪感はあったけれど、「平均よりやや上」を狙う事ばかりに心を砕いて来た私には、勉強にどんな意味や価値があり、将来何の役に立つのか、まるで分からなかったのだ。だからここでちょこっと「いかさま」を働いたって、どこに影響が出るでなし、別に構わないや、と思っていた。
 それでもさすがに大学受験や就職試験にこの能力を使うのはためらわれた。やろうと思えば東大の医学部にトップで入学する事も可能だけれど、それはあまりに不自然だし、そうまでして高校卒業後も学校に通いたいとは思わなかった。
「公務員になりなさい。一生安泰だよ。市役所に勤めている○○さんちの奥さんを見てごらん。いっつも綺麗にお化粧して、悩みなんて一つもないような顔しているじゃないの。仕事やお金に困らないから、ああしていられるんだよ。」
 小さな工場の経営者の妻として苦労していた母親は、何度か私にそう言い聞かせた。その気持ちは痛い程理解出来ても、公務員試験で「ずる」をしたりしたら逮捕されそうで怖かったし、長期間同じ職場に縛られて、うちの母親のような人達にねたまれるのも面倒だった。
 大学入試も公務員試験も受けずに、近所の、それも入社試験のないような小さな会社に就職しよう。私は単純にそう決めた。この世で生活していくためには、どんな仕事に就くにせよ働くのが当然だと思っていたから。
 高校生の私が「お金を稼ぐ」意味を正しく把握していたか定かではない。ただ、闇雲に「勉強しろ」という教師の小言より、「働かざる者食うべからず」という格言の方が飲み込みやすかったのだ。私が勉強をほっぽり出した理由は、本当にそれだけだった。
 「最初の彼氏」と付き合い始めたのは高校三年、ちょうど最終的な進路決定の時期だった。ほとんど消去法のようなやり方で簡単に進むべき道を選んだ私と違い、彼は巨大な苦悩の渦にはまり込んでいた。大して成績が良い訳でもないのに、大学進学を目指していたのがその原因だ。何故潔く断念して就職組に入らないのか奇妙に感じ、つい全部見てしまったのだが、学歴信仰を持つ両親に育てられた彼にとって、大学に行かない、という選択肢は許されなかったのだ。
 有名大学を出なければ人にあらず、というような思想を恥ずかしげもなく振りかざすお父さんとお母さんは、大層御立派なのかと思いきや、どちらも高校すらまともに出てはいなかった。おそらく、自分達が味わい続けた苦しみを息子には経験させまいという愛情が、彼の自由を奪ったのだ。
 思春期前までは親の言う通り勉強していたので、彼はなかなか優秀な生徒だった。しかし高校受験の頃に迷いが生じた。
「学校の勉強は本当の学問じゃない。受験なんてくだらないイベントだ。」
 そう思った途端見る見る成績が落ち、進学校ではない私の母校に入学するはめになった。廊下ですれ違う彼の心からは、
「俺はこんなレベルの低い高校にいるべきじゃない。周りの馬鹿な連中とは違う人間なんだ。」
 という呪いのような声が絶えず聞こえて来た。親の狭い考えに反抗し、学校の勉強や受験は否定しても、その中で得られた過去の栄光を忘れられはしなかったのだ。
 自分が受けた屈辱を子供に晴らさせようとする親はよくいるし、公務員になれと勧める私の母親にも似た所があるだろう。しかし大概の親は娘や息子が聞く耳持たないのを知っているから、それ程真剣に子供を束縛したりしない。
 幼い頃から集団の中で勝つ事を求められ、他人を見下さなければ自分の存在意義を見出せない彼の苦悩は根深かった。
「大学に合格したいなら、素直に努力すれば良いのに。」
 私は何度かそう言いそうになって慌ててやめた。彼も私と同様に勉強の意味や価値が分からなかったのだ。将来特にやりたい職業もなく、大学受験の目的は常に漠然としており、しかも胸中に去来するあらゆる思いが受験勉強への集中を妨げた。そうして実力もないのに自尊心ばかりが強くなっていく。
 彼を束縛しているのは最早両親ではなく、彼自身だったのだ。
 思春期や青春時代などというものは闇深きものと決まっているが、大抵は夜明け前の空のようなもので、明るい未来や希望につながっている。けれど彼の闇からは一生を台無しにしそうな予感がプンプンと香り立ち、十代の暗さに飽き足りない私は激しく引き付けられた。予知能力を存分に発揮して偶然を装えば、孤独な男と親しくなるのはさして難しくない。
 彼に向けた私の愛情はよこしまだったろうか。でも、単なる同情とは違っていたし、
「へっへっへ、不幸な男め。どんどん不幸になってしまえ〜」
 と加虐的な喜びに浸っていたのでもない。私も一応彼の幸せを願っていた。己の中身を空っぽであると認め、こんがらがった精神の糸がほぐれますように。そしていつの日か、自分や他人や世界へのいら立ちや不満が消え去りますように、と。
 最善を尽くそう。たとえそんな日が絶対に来ないと知っていても。
 浪人中彼は予想通り私をはけ口にし、その度私は大声で泣いた。悲しいばかりでちっとも楽しくなかった上に、優子さんと同じく心労から体調まで崩したが、自ら進んで離れたいとは思わなかった。どうしようもない執着心に身を任せ、愛憎渦巻く泥沼の中へ二人一緒に沈み込んでいくのが、恋愛の醍醐味なのかと勘違いしていたのだ。
 先にギブアップしたのは彼の方だった。彼は女々しくシクシクと泣きながら、別れよう、と言った。それから私を傷付けてしまうのがどれだけ辛かったかを述べ、最後に、
「きみ子ちゃんにはもっと良い人が見つかるよ。」
 と付け加えた。
 そんなの百も承知だ。私はあんたが良い人だから付き合ったんじゃない。あんたがダメ男だから惚れたんだ。
 ……と言ったらまた殴られそうだったので、何も言わずに私も泣いた。泣き納めよろしく、豪快に。

(どうにかして幸せにしてあげられなかったのかなあ。)
 慰み者やはけ口でも構わない。「そばにいる」というその事が少しでも救いになればと望んでいた。しかし彼は蔑み傷付けなければ他者と交われない自分を誰より憎んでいたから、私が何度「愛している」と伝えても信じようとしなかった。私の存在は彼の苦しみを増やしはしても、決して癒しはしなかったのだ。
 悔しい思いも色々したし、彼には何も与えられなかったけれど、私にとっては学ぶ所の多い経験だった。まず、世界に違和感を抱きながら不器用に生きる人は、私以外にも沢山いると気付いた。彼の中に埋め込まれた根拠のない信念は、私に生まれつき備わっている変な力と似ている気がした。それを持つ本人を生きにくくさせる、という意味で。
 もう一つ、自分が愛欲に溺れがちな人間であると分かったのも重要だ。勉強や仕事には一切熱を入れられないのに、色恋沙汰に関しては、蹴られ、卑しめられて病気になろうと、どこまででもついて行こうとしてしまう。悲劇的な結末が見えていても夢中になれるのは恋愛だけなのだろう。
 ともかく彼のおかげで自分が特別な人間などではなく、恋に没頭出来さえすれば満足する単純な女でしかないと知った。そうしてようやく「他人に自分を合わせなければ」という強迫観念から解放されたのだ。
「へえ、バッハの曲をやるんだ。でも『主よ、人の望みの喜びよ』はやらないのね。」
 掻き混ぜてドロドロにしたアイスクリームをすすりながら市の広報をめくると、今日の六時半から川口駅西口の音楽ホールで、パイプオルガンの無料演奏会があるという知らせが目に入った。詳細は書かれていなかったけれど、「リリア・プロムナード・コンサート」という小さい文字から、演奏曲がさらさらと流れ出て見えた。
 彼はクラシックを愛していた。いや、本当に好きだったのか分からない。ポップスは馬鹿が聴く音楽だと決め付けていたし、
「インテリたるものこういう難解な音楽に親しまなければ。」
 という妙な偏見に駆り立てられて、無理に聴いていただけかもしれない。彼の部屋に遊びに行くと、暗くて重くて長ったらしい交響曲が必ずかかっていた。私があからさまに眉間にしわを寄せると、彼は軽蔑し切った顔で、ふん、と笑うのだ。私はいつも彼の隙を見て教会音楽のCDに換えてしまった。
(神様、私も彼もクリスチャンではないですが、どうか川口までやって来て、この愚かな男をお助け下さい。遠路はるばる異教徒の家まで行ってられるか、とお怒りになるのも当然です。でも、神様と呼ばれているんでしょ? それくらいしたって良いじゃない!)
 彼の家で聴ける音楽の中では、バッハが一番好きだった。無神論者の彼の許にも神の御加護がありそうだから。
「『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』……」
 何だろう? 誰の声だろう。私の愛した男達が、こちらにおいでと呼んでいるのだろうか。アイスのカップをゴミ箱に放り込み、見えない糸に引っ張られるようにして、取るものも取りあえず私は家を出た。
 自転車を飛ばし京浜東北線の陸橋を越え、音楽ホール「リリア」に着くと、そこで待っていたのは昔の彼氏などではなかった。
「占い師さん!」
 モスグリーンのワンピースに純白モヘアのカーディガン、という姿の優子さんが、ふわふわと栗色の髪を揺らして手を振った。
(あの曲名は昔の男の妄想から目を覚まして、ちったあ占いの事も考えろ、って意味だったのね。)

 昔の男の思い出にふける余り、猫の事なんて頭の片隅にすら上らなかったのを申し訳なく感じて平謝りに謝ると、優子さんは、気にしないで、と微笑んでくれた。
「私は猫探しを頼んだんじゃなくて、猫がどこにいるか占ってもらいたかっただけなんだから。」
「そっか。何が何でも探し出さなきゃ、って思ってたわ。」
「占いはちゃんとしてくれたじゃない。『大丈夫だ』って。」
 演奏会が終わった後、私達はリリアのそばにあるスパゲッティ屋に入った。内装がオシャレな分、値段もちょっと高めなため、川口市民には馴染みにくくお客は少なめ、というような店だ。
「アーリョ・オーリョ・ペペロンチーノにしようっと。」
「私はカルボナーラ。ペペロンチーノだと、ニンニク臭くなって占いの仕事に差し支えない?」 
「全然考えなかった。まあ良いや。明日は悪臭に耐えられる我慢強い人だけ占うよ。」
 優子さんは小さな白い手を口許に寄せて、クスクスと笑った。それ程落ち込んではいないみたいで安心した。
「占い師さんもクラシックのコンサートにはよく行くの?」
「ううん。高校の行事で行ったのが最後だよ。一人で来るのは今日が初めて。優子さんは?」
「リリアで開かれるコンサートはほとんど行ってる。前は東京へも聴きに行かれたんだけど、今は無理だから。」
「私と違って玄人だ。今までCDの録音でしか聞いた事なかったけど、パイプオルガンというのは随分足癖の悪いものだね。」
「足癖? ああ、演奏に足も使うものね。」
「あと、テレビゲームの戦闘シーンみたいだった。」
「テレビゲーム?」
 私自身はゲーム機を持っていないのだが、「二番目の彼氏」の家で対戦型ゲームやRPGをよくやったものだ。
 「二番目の彼氏」は二面性を持っていた。体が病弱だったから、おそらく体調と共に精神も安定しなかったのだろう。ささいなきっかけで機嫌が良くなったり悪くなったりし、散々私は振り回された。その態度の差たるやまるで別人のように大きく、ちょうど「一番目の彼氏」と「三番目の彼氏」が交互に現れる感じだ。そんな人を相手にゲームをするのは当然難しい。私が対戦に勝ってしまえば口を利かなくなるし、かと言ってわざと手を抜くとすぐに見破られてしまう。
 ゲームとはいえもともと勝ち負けのあるものは苦手だし、彼氏の扱いにも困るので、対戦型ゲームに参加するより彼氏がRPGを進めていくのをぼんやり眺める方が好きだった。しかしそれとて油断は出来ない。魔物と戦う戦闘シーンで精霊を呼び出す派手な魔法を使ったのに見ていなかったと言って、大喧嘩になった事があるのだ。
 そんな風にはた迷惑な人ではあったけれど、私は彼にわがままを言われるのが嫌いではなかった。不完全な体に閉じ込められ、感情を制御する自由さえ奪われている彼が、私に対してなら気兼ねなく安心して身勝手に振る舞えるのだと思うと嬉しかった。
 これが彼の甘え方なのだ。だから私はいつも子供をあやすみたいに……
「占い師さん?」
「……え? あ!」
「具合は大丈夫? ぼうっとしていたけど。」
「ごめんなさい。私、たまにこうやって意識が飛んじゃうの。自分を現実に上手くつなぎ留められなくてね、しっかりしがみ付いていないと離れちゃう。」
「コンビニで買い物している時も何度か立ち止まっていたよね。」
 昔の男を思い出させる物を見つけるともう駄目なのだ。ゲームやアイスやコンドームとか。
「そう言えば、ともなりさんに聞いたよ。私やともなりさんの名前を当てたんだって? すごいね!」
「うーん、それくらいなら、どうにか。」
 ともなりさんにその手の能力があるのかないのか、優子さんは知っているのだろうか。私の「名前当て」にこれだけ感動するという事は、多分知らないのだろう。
「ねえねえ、他にも何か当てられる?」
「そうだねえ、例えば……」
 無邪気にはしゃぐ優子さんの気分を損ねないか心配だったが、覚悟を決めて私は言った。
「あなたが今日持って来たその淡い空色のバッグには、『くまのプーさん』の絵の付いたプラスチックケースが入っている。その中には病院で処方された三種類の薬。あなたは出掛ける前、そのケースを忘れていないか必ず三回は確認する。薬なしには一時間と無事ではいられない、といつも考えているけど、実は今年の六月、梅雨特有の蒸し暑い夜に、睡眠薬の代わりとして一錠飲んだのを最後に、この数ヶ月はずっと薬なしで元気に暮らしている。」
 息つぎなしで一気にそうまくし立てると、優子さんは表情を失くし、一瞬顔面を蒼白にしたが、すぐに顔を真っ赤にして目をキラキラと輝かせた。
「すっごーい! そんな事まで分かっちゃうの?」
 本当は薬の種類だけでなく、錠剤の色や形や効能まで全て見えたのだが、あまり詳しく説明して気持ち悪がられるのは嫌だった。と言っても十分失礼な占いであるのに変わりないけど。
「ごめんね。人の秘密をあばくようなまねして。」
「確かにちょっと怖いくらいだね。でもやっぱりすごいよ。ねえ、同じように未来とかも当てられるの?」
「まあ、一応。」
 だからこそ占いを始めたのだが。
「その能力、占いの他にも使えないかなあ。値上がりする株や大穴馬券を当てて大儲けするとか。」
「えっ。いきなりらしくない事言うね。」
 優子さんの上品な風貌に株や馬券はふさわしくない気がしたが、大層乗り気なようだ。
「株なんて面倒だよ。買い方知らないし。」
「大丈夫! 私、そういうの案外得意なの。それにパパは証券マンよ。」
「あと馬券は難しくないだろうけど、ギャンブルはちょっと……」
 私は子供の頃からギャンブルの恐ろしさをくどくどしく説かれて育ったのだ。私の叔父が競馬、競輪、ボートにオートと、金が無くてもギャンブルなら何でもやる、という人で、顔を合わせれば説教する伯父を避け、しょっちゅう父の所へ金をせびりに来ていた。断り下手な父は渋々ながらもついついお金を渡してしまい、その度叔父に言えなかった小言を私や妹に向けてつぶやいた。
 ギャンブルは金を擦るから怖いんじゃない。金の感覚を狂わせるから怖いんだ、と。
「でも、絶対勝てるとしたら、大金持ちになれるんだよ。」
「大金持ちになってどうするの?」
「洋服もバッグも好きなだけ買えるよ! 占い師さん、お金持ちになりたくないの?」
「そりゃあ暮らしていくためのお金は必要だけど、それくらいなら事務仕事のお給料で十分間に合っていたからなあ……。洋服もバッグもごくたまにしか買わないし。それも安いやつ。」
「海外旅行に行く!」
「えー、別に行きたい場所なんてないもん。」
「マンション買うとか。」
「引っ越すのめんどくさい。」
 優子さんはイラ立ちを隠さずに言った。
「占い師さんは一体何が欲しいの。」
「ダメ男との愛欲の日々。」
 一つの迷いもなく即座にそう答えたのには、自分でも驚いた。
「ダ、ダメ男ぉ? その能力を使って『ダメじゃない男』を見つければ良いのに。」
「いつもそれと反対の事ばかりしてる。この力でダメ男を見つけ出すの。」
「何で?」
「うーん、でもさ、たとえ優秀な人を好きになるとしても、その人の素晴らしい部分じゃなくて、ダメな部分に魅力を感じたりするじゃない。」
「そういうものなのかな……。男の人と付き合った経験がないから分からない。」
 優子さんはテーブルにほおづえを突き、視線だけそっぽに向けた。
「短大までずっと女子校だったから、恋愛どころか知り合いになる機会も全くなかったの。だから男の人と一緒に働いたりしたらすぐ好きになっちゃうんじゃないか、って心配していたのね。でも、前に勤めていた会社の変なオジサン達はともかくとして、かっこいい上に優しくて親切で気が利いて頭の回転も速いともなりさんに対しても、恋愛感情が湧かなかったのよ。」
 それはそうだろう。私にはその理由が分かる気がした。
「コンビニでバイトを始めた頃、まだ私の体は完全でなくて、仕事中何度もトイレに行ったり、急に早退したり休んだりしていたのね。これじゃあクビになってもおかしくないなと思っていたんだけど、私の勤務状況の悪さに店長が気付かないよう、ともなりさんが上手く計らってくれたおかげで辞めずに済んだの。」
「へーえ。かけがえのない恩人だわね。」
「あと、私は仕事の妨げになる程生理痛がひどくて、前の会社では上司がオジサンだったものだから、なかなか生理休暇の申請を出せなかったんだ。それで生理中も無理して働いたのが、体を壊す一番の原因だったみたい。今回もまた同じようになったらどうしようってすごく不安だったんだけど、ともなりさんは私が生理痛で辛くなるとすぐに気付いて、仕事の負担が極力少なくなるよう努力してくれたの。そのうちともなりさんになら恥ずかしがらずに生理が来る日を言えるようになって、仕事の予定もその日を避けて組んでもらえるようになったんだ。こんなに色々してもらったのに、」
「続きを言ってあげようか?
『ともなりさんとの間に、埋めようのない距離のようなものを感じてしまう』」
「そう、そうなの。どうしてなのかな? 男なのにフリーターだから? 自分もフリーターのくせして、無意識に差別しているのかしら。」
 その答えは近いが正しくない。ともなりさんはああ見えて『普通教』の人間ではなくこちら側、つまり『ダメ男』に属する人間なのだ。そのダメさというのは正社員にならずにアルバイトをしているとか、そういう表面的な問題ではない。
 ともなりさんには過去がある。それも「わざとらしく」隠さずにはいられないような。何故そんな事をするかといえば、過去を公には出来ないけれど誰かしらには聞いて欲しい、という意思表示なのだ。そういう一見込み入った(実は単純な)やり方で人を惹き付けようとするのは、ダメ男によく見られる特徴だ。
 きっと私にあばいてもらいたいに違いない。
 そのダメさにホイホイ応じてしまう私が一番ダメなのだろうが、これが私の生き方だ。愚痴、後悔、懺悔、救済、何でも来い!
「男の人と付き合うのはそんなに良いのかな。愛欲って、エッチするのが楽しいって事?」
「まあそういうのもあるけど、それだけじゃあ、ないわねえ……」
 実際の所、私は性的関係においてはそれ程恵まれていなかったと思う。若い男なんてものは毎日そんな事ばかり考えて暮らしているのだと思っていたが、私の過去の男達は違っていた。彼らにとっては自分が抱えている苦悩が何より大事で、その次が勉強や趣味や仕事。そして優先順位のかなり低い場所に私はいて、性的なものはさらにそのおまけだった。多分、生きていく力の弱い男に、本当の意味での性欲なんてないのだろう。
 そんな風であったから、性的欲求を解消し、肌を合わせて安心するだけでは、どの彼氏も満足しなかった。性の中に性以上のものを、私の中に人間以上のものを求めるのだ。口づけや愛撫はおざなりに、息が苦しくなる程胸のあたりをきつく抱いて、泣き出しそうな懇願を心の中でする。私にはそれが全て聞こえてしまう。

 僕をここから出して。
 僕を、ここではないどこかに連れて行って。


「ごちそうさまでした」
 店を出ると空はすっかり紺色に変わっており、乏しいながらもぽつりぽつりと、小さな星も見え始めていた。
「ねえ占い師さん。」
「なあに?」
「ああいう薬を飲んでいる人の事、軽蔑する?」
「え? 下痢止め?」
「そっちじゃなくて……」
「ああ、心が弱った時に飲む方ね。」
「さっき『プーさん』のケースの事を当てられた時には何とも思わなかったんだけど、だんだん心配になって来たの。たまにいるでしょ? 
『ストレスで体を壊すなんて根性がないからだ。みんなだって大変なんだから甘ったれるな。』
というような考えの人。」
「うん、いるかもしれない。でも私は違うから安心して。心が傷付いた時、体も損なわれるのは当然だもの。私も会社を辞める程ではなかったけど、何度も体を壊したよ。」
「そうだったの。」
 「最初の彼氏」と付き合っている時は、原因不明の微熱が続いた。「二番目の彼氏」の時は、やっぱり原因不明の咳と軽い失語症。「三番目の彼氏」と別れる前の数ヶ月は、拒食症で見る見るうちに痩せていった。それでも病院に行かなかったのは、私の場合薬では治らないと知っていたからだ。
「軽蔑なんてしないし、第一優子さんの病気は完治しているよ。」
「そうなのかな。」
「色々当てて見せたでしょ? 信じなさい!」
 そう、優子さんは大丈夫だ。私のバカは一生治らないけれど。
 西口で一番大きなマンションに、優子さんは帰っていった。私は優子さんが途中で振り返っても不安を感じたりしないように、部屋の中に入ったのを感知するまで手を振り続けた。
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大賢者大森賢五郎(その5)

五、沼田歯車製作所

 失業保険をもらいに職安へ行った。川口市の職安は市役所の横の道を奥に入った所にあるので、私の家からもそう遠くない。初めて失業した頃は失業保険の仕組みを知らなかったから、
「失業しましたよ。」
 と一回報告に行きさえすれば、再就職するまで勝手にお金が入って来るのだとばかり思っていた。実際は四週間に一度指定された日時に職安へ書類を出しに行き、失業認定というものを受けなければならなくて、今日がその日だったのだ。現金を渡される訳ではなく、数日後銀行口座に振り込まれる形なのだから「失業保険をもらいに」という言い方はおかしいのかもしれない。けれどあの手続き順番待ちの、どこかわびしい「恵んでもらう」ような感覚に、「失業認定日」というお堅い言葉は似合わない気がするのだ。
 失業三度目、勝手知ったる職安通い、と言いたい所だが、回を重ねる度に増える失業保険受給者の波に、毎回クラクラしてしまう。隣で職員に名を呼ばれるのをじっと待つ、暗い顔したおじさんが、お風呂にしばらく入っていない香りをほのかに漂わせたりすると、さすがの私も闇の重さに押しつぶされそうになる。同じ失業者とはいえ私は求人の年齢制限に引っかかる事はまだないし、簿記とパソコンが出来るから、条件にこだわりさえしなければどこかしら雇ってくれる会社はあるだろう。何より身軽で気楽な独身女、たとえ給料が安くても食べるだけならどうにでもなる。けれど隣のおじさんは違うのだ。年齢、経験、家族に縛られ、身動き取れない苦しみ、痛みが、ヒリヒリと感じられる。
 失業認定を済ませると、川口一のにぎわいを見せる職安の人波をかき分けかき分け、求人票の置いてある一階に降りていく。当分占い一本では暮らしていかれないと分かっていたので、仕事を見つける気ではいるのだが、今まで通りの方法で会社を選ぶべきか悩んでいた。求人票をめくれば、その紙面に差す影、影、影の多い事。こんなご時世、近々つぶれる「私好み」の職場はいくらでもある。しかしそういう就職先の決め方が、会社や社会、さらには自分自身に対しても、いかに無責任で無益であるか、最近ようやく理解するようになったのだ。
 この間倒産した塚沢冷機工業で直属の上司だった経理部長は、非常に有能な女性だった。「冷房の乱」を起こしそうになった事でも分かるように、性格はキツく、ヒステリックな所も多分にあったが、正真正銘の経理のプロとして恥ずかしくない腕を持ち、それを存分に発揮していた。悪口めいた噂によると、彼女は離婚したのをきっかけにこの仕事を始めたのだという。そんな就職理由を聞いたため、また常にイライラしているその態度から、私はてっきり彼女も仕方なく嫌々働いているのだとばかり思っていた。
 彼女「も」というのはつまり、私や彼女を含めたほとんど全ての人々が、暮らしていくためのお金を得るため、仕方なく嫌々ながらも労働に従事している、と考えていたという事だ。けれどあの倒産騒ぎのドタバタの中で、彼女の働く理由はそれだけでないと知った。
 塚沢冷機は大きな会社ではなかったから、労務も庶務も経理部が担当していた。それゆえ他人に仕事を任せられず、何でも一人で背負い込んでしまう経理部長は、会計士さんはもちろん労務士さんなど様々な外部の人との面会を繰り返し、さらにしっちゃかめっちゃかになりつつあった社内の統制にも力を抜かなかった。
 体の調子がどんどん悪くなっているにも関わらず、じきにつぶれる会社のために、何故それ程頑張るのだろう。最初私は不思議に思った。しかも他の社員の背中からは、
「面倒だな。早く終わってくれないかな。」
 というような単純な愚痴っぽい感情しか聞こえないのに、経理部長の内部には愛憎をない交ぜにしたような複雑な思いが渦巻いている。これは一体何なのだろう?
「悔しい……悔しい……チキショウ!」
(え?)
「私の場所、私の仕事、私の、私の、大切な……」
(ええっ?)
 経理部長の心を毎日聞いて、ようやく私も分かり始めた。彼女も就職し立ての頃は、嫌々働いていたのかもしれない。しかし必死の努力が認められ、重要な仕事を任されるようになると、彼女の中に責任感と誇りが生まれた。そして塚沢冷機が「小企業」から「やや大きな小企業」に成長するのを見守るうち、会社に「情」が移ったらしく、それは人間に対して抱くより強い、揺るぎないものになっていた。
 今まさに消え去ろうとしているこの場所で、彼女の心に満ちているのは、給料を得られなくなるという不安や不満では全くなくて、かけがえのないものを失う深い悲しみなのだった。
(男ではなく、会社を愛するなんて!)
 私の人生の中心はあくまで「ダメ男との愛欲の日々」であり、仕事はその「日々」を支えるための、ちょっと手間のかかる付属物でしかない。だから経理部長の生き方にびっくりしたのだが、よく考えてみれば裏切る事にかけて男も会社も同じようなものだ。そして裏切られると知りながら、信じ、愛し、努めるその姿は、愚かであると同時に美しい。
 私はふと、こういう生き方、働き方をしているのは経理部長だけでなく、案外沢山いるのかもしれないと思い始めた。
 例えば歯医者さんは、
「まあいいや、俺の歯じゃないんだし、適当に済ましちゃおう。」
 という気持ちで歯を削ったりはしないだろう。もちろん中にはそういういいかげんなヤブもいるが、おそらくほとんどの歯医者は自分の技術の範囲内で最善を尽くしているのではないか。
 例えば救急車の運転手は、
「まあいいや、手遅れになっても。俺が死ぬ訳じゃないし。」
 と思いながらピーポーピーポー走ってはいないだろう。一分、一秒でも早く病院に着けるよう、端に寄ってくれない自家用車を心底憎みながら、ハンドルを握っているに違いない。
 この二つは確かに人間の肉体や生死に直接関係し、真剣になって当然と言えなくもないが、果たしてこれは特別な例なのだろうか。学校の教師や菓子職人、喫茶店店主に紙切り芸人などは、人々の心を豊かにするために存在する。大工にとび、タクシーやバスの運転手は、人々の暮らしを豊かにするために危険とお近付きになる。もちろん仕事はお金を得るための手段だし、それだけの人もいるだろう。しかし己れの職業に責任と誇りを持ち、その使命の中に喜びを見出す人間こそが、この世界の骨格を担っているのではないか。そしてそんな人々が多ければ多い程、社会は正しくなる気がする。
 そう考えるようになってから、自分の生き方がひどく恥ずかしいものに思えて来た。もちろん昔の男達を愛した事を後悔してはいないけれど、体を壊すくらい一生懸命だった割に、誰一人救えはしなかった。そして事務仕事はあの通り。このままでは近所のクリーニング屋のおやじにさえ顔向け出来やしない。
 もっと真摯に取り組める仕事をしよう。今までも勤務態度は悪くなかったが、ただ惰性で通勤していただけで、経理部長と心構えが根本的に違っていた。自分や周りにとっても有意義であるような、私にしかやれない職業を選ばなければ。
 そして辿り着いた結論が、「占い師」だった。
(これからは占い中心の生活を送るのだから、やっぱりあんまり忙しくない方が良いわね。でも今時完全週休二日で残業のない正社員なんて贅沢な求人はないのだろうな……パートで働くより他ないのかな。)
 条件の合う会社が見つからなかったので、私は求人票のファイルを元に戻し、職安を後にした。
 そのまま一人暮らしをしている部屋には帰らず、実家に向けて自転車をこぎ始めた。特に用事もないのだが、何とはなしに手みやげ持って、ふらりと立ち寄ってみたい気分だったのだ。
 私の生まれ育った家は駅と反対の方角へ自転車で二十分程の所にある。一階が「沼田歯車製作所」という小さな工場になっていて、二階に父と母が住んでいる。
(おみやげは亮平も食べられる物にしなくちゃな……)
 妹は数年前に結婚して、私と同じように川口市内のアパートを借りた。しかし子供が生まれてからは、息子を連れて毎日実家に入り浸っている。亮平というのはその子、つまり私の甥っ子の名前だ。
(自分で産んだのでもないのに、ついつい中心に考えてしまうな。全くガキの力は恐ろしい。)
 朝日町で買い求めたパンを抱え、父が歯車を削る音を右手に聞きながら階段を上ると、ちょうど妹がちゃぶ台でお茶を入れている所だった。
「あ、お姉ちゃん。どうしたの、急に。」
「今日、職安の日だったからさ、何となく寄ってみたの。はい、これ『デイジィ』のパン。」
「お、気が利くね。ありがとう。でも寄るったって、職安から遠いじゃん。今日もチャリでしょ?」
「おう、もちろん。」
「すごいよね、どこまでもどこまでもチャリンコ。高校生みたい。」
 馬鹿にするようにけらけら笑われたって、車も免許も持っていないのだから自転車を使うより他ない。たまに教習所に通うよう勧められたりするのだが、
「一日に三人までひき殺して良いんだったら行くけど。」
 と言えば大抵二度とその話題は出なくなる。こんな薄らぼんやりした女に車なんて運転させたら、それこそ動く凶器だ。
 妹は私と違って運動神経・判断力ともに十分なので、親も安心して高校卒業前に免許を取らせた。今では旦那のワゴンにチャイルドシートをくっつけて乗り回している。
 妹も男好きな点では私と変わらない。しかし私が特定の男との深く重たい関係を好んだのに対し、妹は不特定多数と軽く遊ぶように付き合うのを楽しんだ。そして二十歳を過ぎた頃、相手を生真面目な機械工の男の子一人に絞り、
「男はおとなしいのが一番。」
 などとぬかしてさっさと籍を入れてしまった。
「あっ、亮平ウンチしたでしょっ!」
 妹は素早く豆ちびのおむつを脱がせおしりを拭いた。するとちびはおちんちんを見せたまま、きゃらきゃら笑って走り出す。
「お姉ちゃん、お湯気を付けて!」
「はいよ。」
 私が急須と湯呑みをちゃぶ台の真ん中に寄せる間に、妹はちびを捕らえて新しいおむつに着替えさせた。その動きは昔、妹がバスケット部の選手としてボールを追っかけていた頃を思い出させ、可笑しかった。
「亮平ってば最近ご飯食べてくれなくてさ。でもお姉ちゃんが持って来た物は食べるんだよね。」
「犬も赤ん坊もまずい物は食べないんだよ。」
「ひっどーい! 犬と一緒にした上にまずいって決めないでくれる?」
 妹は私の予知能力を知らない。知る機会はいくらでもあったはずだが、他人の細かな言動を一々気にする女じゃないのだ。だからもう私の軽口など忘れ、一等やわらかなパンを選んで二つに割り、亮平の手に握らせている。
 私が甘い物嫌いだったから、人並み以上に食いしん坊の妹は、おやつに関して一人っ子状態だった。戸棚の中の美味しい物を誰より先に見つけては、家族のために少し残しておこうなんてこれっぽっちも考えず全て平らげる。そんな妹が子供を産み、自分の食事を後回しにして亮平に食べさせようとするのを初めて見た時、ちょっぴり感動してしまった。
「あんたも偉いよね。」
「何が?」
「ちゃんと母親になったんだなあ、って思って。」
「そりゃあ自分で作ったんだもの。育てなきゃ。」
 妹の単純明快な思考の前で、感慨は無力だ。
「あら来てたの。」
 下の工場の片付けを一段落させて茶を飲みに来た母親は、姉さんかむりにしていた手ぬぐいを前掛けのポッケに突っ込み、自分の湯呑み前の座布団に正座した。
「職安の帰りなんだ。」
「どこか良さげな会社は見つかった?」
「近所で事務の正社員、となると難しそう。四トントラックドライバーの求人はいっぱい見るんだけど。」
「お姉ちゃん、人殺しになるのだけはよして。」
「私だって嫌だよ。でも今さら都内に出たくないしなあ……」
「三回も勤め先がつぶれるなんて、きみ子は本当に運が悪いよ。」
 その後は何も言わずに熱い番茶をすすり始めたけれど、母親の丸っこい背中から、
「淳ちゃんにそっくりだわ。」
 という心の声が聞こえて来た。
 淳ちゃんというのはギャンブル好きの叔父の呼び名だ。叔父はいわゆる「住所不定無職」というやつで、金が無くなるとふらりと現れ、どこか他に当てが出来ると、またふらりといなくなる。私の記憶の始まりにいる叔父は、すでにそんな風だった。
 「淳ちゃん」も若い時分はサラリーマンをしていて、職人の父や伯父より羽振りの良い時期もあったらしい。しかし勤め先の出版社がつぶれ、自分で事業を起こしてから、叔父の人生は狂い、歪んだ。素人商売は簡単に行き詰まり、赤字が膨らむ前に放り出したおかげで借金こそ残らなかったが、あの時叔父はお金より大事なものを失ってしまったのだ。
 叔父は私の家に来る度本を買って来てくれた。中でも「ナルニア国ものがたり」のシリーズを全巻そろえてもらったのは、二つの意味で画期的だった。まず子供の小遣いでも買える上、質が高く種類も豊富な「岩波少年文庫」という物語群の存在を知った事。もう一つは、ファンタジーに描かれる空想の世界で心を遊ばせ、生まれて来てしまった不幸を慰める方法を覚えた事。
 叔父は本をくれる時、必ずその物語にまつわる話をしてくれた。例えば「ナルニア国ものがたり」なら、重要な役柄で登場する神的ライオン「アスラン」は、作者C・S・ルイスの思い付きで何もない所から突如生まれた訳でなく、背景にキリスト教やヨーロッパの伝説があり、私がもう少し大きくなったらトールキンの「指輪物語」も読んでみて、どこが同じでどこが違うか比べてみると面白い、というような。
 もちろん叔父は幼い私と対等に文学談義する気はさらさらなく、単にファンタジーについて語り聞かせて自己満足していたのだろう。妹はまだ小さかったし、本の話をする暇があったらお日様の下で駆け回りたい、という至極まっとうな子供であったから、いつも逃げるごとく外に行ってしまった。だから私は一人熱心に耳を傾けた。いや、見つめていた。
 叔父の話以上に私が魅せられていたのは、叔父の背後に広がる深い闇の方だった。
 叔父は無職と言っても人に頼まれればバイトの形で働いたりもしていた。ビニール工場の繁忙期にはよく呼ばれ、現物支給されたレジ用手提げ袋の束が、未使用のまま台所にごっそり積み上げられているのに驚いた事が何度かあった。遅刻もせず、残業を断りもしない一見真面目そうな叔父は、工場の人に気に入られていたのだろう。しかし叔父は工場での労働に価値を見出せなかった。その証拠に稼いだお金をまるで「無かった事」にするかのように、丸々ギャンブルで消してしまった。ビニール袋を作るのだって真剣にやればどこかしらに面白みがあるのだろうが、叔父にはそれが出来なかった。おそらく別の何かを求めるあまり。
 叔父には常にべったりと虚無が張り付いていた。ビニール工場はもちろん、オートレース場にいる時でさえも。父に金をせびる背中に開いた穴の、闇の色の濃さ。
 叔父が虚無から解放され全身を輝かせるのは、私に向かって、と言うより自分自身に対して本の話をしている間だけ。それだけが唯一、叔父を「生ける者」にしていた。
 もしかしたら叔父は、私なんかよりずっと強く、ファンタジーの中の異世界に行ってしまいたかったのではないか。フォーンや巨人やビーバー夫婦が招待され、ごちそうとぶどう酒溢れる「ナルニア国」の大宴会。「指輪物語」の舞台中つ国の、危険な目に遭ったらトム・ボンバディルが助けに来てくれる古い古い森の奥へ。
 まだ寒さの残る三月のある日、叔父は縁もゆかりもない遠い土地で事故死した。前触れのない訪問と同じようにその知らせもひどく唐突で、親戚一同大騒ぎになった。しかし私は罪悪感を感じながらも、ほんの少しほっとしていた。いつもの予知で長生きしないのを知っていたせいもあるけれど、ちょうどその頃思春期だった私は、叔父が家にやって来るのが疎ましくてたまらなくなっていたのだ。父は叔父と違って薄らぼんやりしているし、仕事以外には無関心だから私の体や心の変化に何一つ気が付きはしないだろう。でも生理痛や覚え初めたばかりの恋の苦しさを、叔父なら全部見抜く気がした。死ぬ日時まで盗み見ておいて勝手だが、私のそういう女として生々しい部分を大人の男である叔父にさとられるのは耐え難かった。
 母はいつの間にか叔父に保険を掛けており、事故で死んだためたかられた総額を遥かに上回る保険金が下りた。子供に内緒で手続きを済ましても、当然私の目は誤魔化せない。人の死を元手にご飯を食べるような感じが気持ち悪くて、その後しばらく食欲がなくなった記憶がある。
「お姉ちゃん、パン食べないとなくなっちゃうよ?」
「え? ちょっと、一個しか残ってないじゃない! あんたと亮平で全部食べちゃったの?」
「違うよ。お母さんが一個食べて、お父さんとタケさんのために二個工場へ持って行った。あと一個は仏様。」
「それであんたは最後の一つを食べようか食べまいか迷って、一応私に声をかけた、と。」
「お姉ちゃんは仏様のを食べれば?」
「仏様に乗っかってるのはシナモンロールじゃないのっ。あんな甘いパン私が食べられる訳ないでしょ! 私はこのチーズが中に入ってるのを食べます。」
「なーんだ、ボーっとしていても全部見てたんだ。」
 私の座っている位置から仏様、つまり仏壇に供えられたパンの種類は判別出来ない。妹が大雑把な性格で良かった。ここなら気兼ねなくぞんざいに力を使える。
「お姉ちゃんは食べる事に対して真剣みが足りないのよ。今だって私が慈悲深く聞いてあげなかったら、食べられるパンは一つ残らずなくなってたんだからね。」
「恩着せがましいなあ。大体私が身銭を切って買って来たおみやげじゃないの。気を遣って当然でしょう。失業者の懐には冬の到来を告げる冷たい北風がピューピュー吹いていると言うのに。」
「そんな時にのうのうと遊びに来ちゃうのも問題なの。大飢饉になって死んじゃっても知らないんだから。」
 大飢饉になったら少食も食いしん坊も関係なく飢えるんじゃないか? と思ったが、妹なりに失業続きの姉を心配しているのが分かったので、矛盾を指摘したりせず、
「私は意外にしたたかだから大丈夫だよ。貯金もあるし。」
 とだけ答えた。
 母や妹が不安がるのも無理はない。仕事一辺倒の両親に育てられたのに、私の生き方にはそこはかとなく不埒な所がある。一見真面目そうに見えるから他人はあまり気付かないけれど、さすがに家族はお見通しなのだろう。叔父の「情操教育」に大きな影響を受けているのは間違いない。ダメ男ばかり好きになるのなんて絶対に、「ファザコン」ならぬ「叔父コン」のせいだ。しかし両親や叔父以上に私の人格形成を決定付けたのは、幼稚園に上がるまで私を毎日預かっていた父方の祖母の存在だと思う。
 祖母は沼田歯車製作所から車で十分程の小さな山の上に住んでいた。山のふもとの畑にはおたまじゃくしの泳ぐ小川が流れ、崩れかけのばーちゃんの家は密林と言っても過言ではない鬱蒼とした雑木林に囲まれており、よく蛇の出没する曲がりくねった細い道を登っていかないと辿り着けない。途中で疲れたら太い切り株に座って、蟻んこの観察をしながら休む。そこは植木の町として知られる「あんぎょう」に近いせいか、東京まで目と鼻の先とも思えない、やけに田舎じみた風景の広がる不思議な場所だった。
 ばーちゃんは体裁というものを一切気にせず、夏はヨレヨレのシミーズとグンゼのパンツで庭仕事をし、冬は有りったけの服を体に巻き付け買い物に行く。自給自足こそしていなかったが、世捨て人の雰囲気を強く漂わせていた。そんな人が孫とはいえども子供相手に愛想を振りまいたりするはずもなく、私は大概暗い家の中にほったらかしにされた。
 泣きもしないで耳を澄ますと、いつも風が何かを鳴らしていた。竹や木々の葉が擦れ合う波のような音。戸や窓が揺れる度起こる恐ろしい音。立て付けの悪いトタン板の雨戸は、ガタリガタリと自らを木枠に打ちつけ、茶っぽく煤けたガラス窓はビリリビリリと響き呼応する。時折早鐘みたいにやかましい、一年中出しっぱなしの風鈴。遠くでは鳥の声が聞こえた。夏は蝉、秋は虫の音。
 私はばーちゃんの家での暮らしが気に入っていた。ここにいれば子供の相手も大人の相手もしなくて良い。私はあの能力のせいもあってか、厭世的で人間嫌いの小癪な幼児だった。脳みそが入っているのか疑わしい、乱暴な男の子は嫌いだったし、可愛い服にこだわりお気に入りのポシェットを肩にかけるような、おしゃまな女の子はもっと嫌いだった。甘ったるい声で人を小馬鹿にする大人達は最も不愉快だ。
 ばーちゃんは優しくも怖くもなかった。そして私を子供扱いしなかった。それは何より私の居心地を良くしたけれど、ばーちゃんちの便所だけは最後まで一人で行かれなかった。床板の木にある目の形をした節に睨まれ、「ぼっとん」に落ちるのを想像してはゾッとした。
 ばーちゃんは病気を治すまじないや薬草を色々知っていて、私は定期検診や予防注射以外で病院に行く必要がなかった。「ものもらい」は物をもらえば治ると言い、私はまぶたを腫らせたまま外に出され、窓からばーちゃんの作ってくれた大きな味噌むすびを受け取った。
「全部食べ終わるまで家に入っちゃいけないよ。」
 風に吹かれ立ちんぼで食べる、味噌でベトベトした丸いおむすびは格別美味しかったのを覚えている。
 足の裏に「魚の目」が出来た時には、ゴニョゴニョ呪文を唱えながら噴火口に似た凹みの部分に火の点いたお線香を近付けた。
「このまじないをする日の朝は、魚を食べちゃいけないんだよ。」
 畳の上に寝そべって、小さいながらも痛くて気になるこの変な物が早く取れますようにと祈ると、白檀の甘い煙がやわらかく鼻腔を突いた。
 怪我をしたら家の脇に生える濃緑色の草を一本抜いて火であぶる。葉っぱがふにゃふにゃして来たら、空気中で冷まして傷の上に乗せる。包帯で押さえれば完成。
 足や腰など体の一部が痛くなったら、ムニャムニャ唱えて手を合わせ、仏様の絵柄の付いた小指の先程の小さいお札をゴクリと飲み込む。これはもっぱらばーちゃんが自分自身のために行ったまじないだ。
 思い出していくとキリがない。効果がどれだけあったのかはっきりしないが、悪化させもせず困りもしなかったから、多分あらかた治ったのだろう。二人ともそれだけ頑丈だったと言えばそれまでかもしれないけど。
「きみ子、あの鳥の声を聞いてごらん。」
「なあに?」
「ほら、雨降りぽっぽが鳴いてる。もうじき雨が降るよ。」
 雑木林の奥ではくぐもった声で、山鳩が鳴いていた。
「覚えておいで。カラスがあーや、あーやと悲しげな声で鳴いたら、それは人が死ぬという知らせだよ。」

「雨。」
「え?」
「もうじき雨が降るよ。洗濯物取り込みな。」
「うそだあ。天気予報で雨なんて言ってなかったもん。」
「信じないなら見てごらんなさいよ。」
 妹が窓を開けると、空はどんよりと鈍色に変化していた。
「わー、マジで真っ暗だよ。」
 私も手伝いベランダの角ハンガーを全て部屋に入れ終えた所で、工場前のアスファルトの道に小さい染みが目立ち始め、それらはあっという間に雨水の黒光りに転じた。
「危なかったあ。お姉ちゃんよく気付いたね。」
「雨降りぽっぽが鳴いたのよ。」
「何それ。」
「雨の前に山鳩が鳴くの。デーデデ、ポポーって。ここじゃ聞こえないけどね。」
「天気を当てるなんて、年寄りのおばあさんみたい。よく雨の前は腰が痛くなるとか言うじゃん。」
 妹は笑いながら父親の作業着が乾いているのを確認し、いつも通り荒っぽく畳んだ。
 私が小学校に上がる前にばーちゃんは死んだ。その頃妹は今の亮平くらいだったから、ばーちゃんの姿を直接知らない。死の前日、私はカラスがあーや、あーやと鳴くのを聞こうと、一生懸命耳をそばだてた。しかし工業団地の端に位置する沼田歯車製作所の付近に鳥なんて飛んでいない。鳩はもちろんカラスでさえ、鳴き声を聞くのは不可能なのだ。
 私は死ぬ日を予知していたし、ばーちゃん自身も知っていたような気がする。毎日孫の世話をしながら、「向こう側」に行く準備をしていたのではないか。部屋の中は薄暗かったけれど、あの家に満ちていたのは虚無ではなかった。この世の美しさ、醜さ、喜び、苦しみ、そういった雑多な感覚を離れた、しんと静かな何か。もしかしたらあの家は半分「向こう側」に入っていたのかもしれない。
 ばーちゃんの死は悲しくなかった。それは私に力を与えた。風の立てる音や鳥の声を心に染み渡らせるのと同じように、人間、他者や自分という存在を心に受け入れていくための。
 一つ、奇妙な事があった。ばーちゃんは莫大、とまでは行かないが、庶民らしからぬ遺産を残した。あの貧乏ったらしい生活からは想像の付かない金額に、親戚一同驚いたのだが、その出所を知る者は誰一人としていなかった。
(ともなりさんの過去を読めなかった時、こんなの生まれて初めて、って思ったけど、そういやばーちゃんの過去も分からずじまいなんだよね。「魚の目取り」で稼いでいたのかなあ?)
 沼田三兄弟はその変なお金を仲良く三等分して、伯父は鉄工所の事業拡大、父は生活費と貯金、叔父は放り出した商売の清算とギャンブルに使った。叔父はこの貯金を当てにして父の所にせびりに来ていたのだ。父は元々当人を目の前にすると何も言えなくなるタチだし、何かに付け兄貴風を吹かせる伯父を内心煙たく思っていたから、伯父でなく自分を頼って来るのが少し嬉しかったのだろう。母に内緒で、当然後でバレて叱られるのを覚悟して、お金を出した。でもその貯金も無駄に取って置いた訳じゃない。うちの工場は規模が小さく、借金が出にくい代わりに儲けも少ない。それゆえ私をばーちゃんに預け、夫婦で馬車馬のごとく働かなければならなかった。遺産のおかげで妹は母親の手で普通に育てられた。つまりその貯金は私と妹を一人前にするための大切な資金だったのだ。叔父はそれを減らし、後に増やした。
 こんなのらくら女の私の生は、二つの死の上に成り立っている。いや、焼き魚とか豚汁も数に入れれば、それはもうおびただしい死、死、死の上に。
「ねえ、下の工場で働くのはどうかな?」
「誰が?」
「私が。」
「なーに馬鹿言ってるの! お姉ちゃん超不器用じゃん。歯車削れっこないよ。」
 そうだった。私は生きるのも不器用、手先はさらに不器用、なのだった。
「削れても歯車回らなさそー。」
「確かに。すっかり忘れてたよ。」
「それにうちも経営大変みたいだよ。タケさんのお給金だけでキュウキュウ、ってお母さんたまに愚痴こぼすもん。」
 タケさんは沼田歯車製作所設立当時からいる職人さんだ。伯父と異なり経営に対してからきし能のない父は、タケさん以外に従業員を増やさなかった。叔父に帳簿付けを手伝わせる事はあっても、歯車には触れさせまいと決めていた。仕事は頑固、ダメ男にはだらしない……そうか、遺伝だったのか。
「雨止むまで帰れないから、風呂にでも入るかな。」
「実家を銭湯代わりに使っちゃ駄目だよ。」
「あんただって保育園代わりにしてるくせに。」
「まあね。」
「一人暮らしだとお風呂沸かすの面倒でさ、ついシャワーで済ませちゃう。」
「ねえ、お姉ちゃん。」
「ん?」
「実家が近所で良かったよね、お互い。」
「そうだねえ。お父さんとお母さんがどう思ってるか知らないけどね。」
 本当は知ってる。でも大丈夫。お母さんは愚痴る割に三歩歩いたら忘れるし、お父さんは当人を目の前にすると何も言えないのだから。
 歯車を削るキーンという高い金属音、ここで暮らしていた頃には全く気にもしなかったその響きが、不規則に落ちるやわらかな雨垂れと混ざり合い、私と妹と昼寝中の亮平を包んでいた。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:00| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする

2010年11月28日

大賢者大森賢五郎(その6)

六、大賢者大森賢五郎

 雨も上がったので暇乞いをしアパートに帰って来た。郵便受けが空っぽなのは分かっていたのだが、部屋へ入る前に何となくいつもの癖でふたを開けた。
「えっ?」
 そこには一通の白い封筒があった。寒気が背骨を伝って頭蓋に抜けていく。湯冷めのせいではない。私はそのままの姿勢で動けなくなった。
 空っぽのはず、なのに。
 私は封筒を取らないでそっとふたを元に戻した。やっぱりおかしい。封筒の気配が読み取れない。こんな事今まで一度もなかった。
(ともなりさんの過去も読めなかったし、まさか力が弱まっているんじゃ……「魔女の宅急便」かよ〜!)
 おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。いや、そんな事はどうでも良い。私は再び勢いよくふたを開け、その封筒を手に取った。表書きは無い。裏をめくると封緘されておらず、粘着テープのハクリ紙がペラペラしている。そして差出人の所に、

 大賢者大森賢五郎

 と印が押してあった。くっきりとした太目の黒字で。
(これ、シャチハタ印だ。)
 大急ぎで部屋に入って封筒の口を覗き、白い便箋二枚を引っ張り出した。
(手紙?)
 そこには味も素っ気もないワープロの文字で、こう書かれていた。


   沼田きみ子様

 秋雨の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
 さて突然ですが、今日はあなたに忠告したいことがあってお手紙を差し上げました。と書いても何のことだかピンと来ないでしょう。
 占いのお仕事のことです。

 あなたはこの秋、川口駅から伸びる橋の上で占いを始めましたね。三度の失恋・三度の失業にくじけたり、いじけたりすることなく、
「自分や周りにとっても有意義であるような職業」
 を捜し求め、前向きに努力するあなたの姿は、まったくもって立派です。

 けれどあなたはご存知でしょうか。
「雇用保険の失業等給付 受給資格者のしおり」の三十三ページを開いてみて下さい。
 そこには「不正受給」つまり、
「本来は、失業等給付の支給を受けることができないにもかかわらず、不正な手段により失業等給付の支給を受けようとすること」
 の例がいくつか示されています。その三番目に、
「自分で営業(自営業)を始めた場合や、会社の役員に就任した(している)場合に、その事実を隠したり、偽って申告する。」
 と書かれてあるのを。

 不正受給が発覚すればただちに失業給付の支給は停止され、全額返還が命じられるなど厳しい処分を受けます。また詐欺罪などにより処罰されることもあるのです。

 確かにあなたの占いの仕事が「自営業」と言えるのかどうか、意見の分かれるところでしょう。店と呼ぶにはあまりにみすぼらしいですし、何より開業以来まだ一銭も稼いでいない。だからあなたは今日も「失業認定申告書」の、
「就職もしくは自営した人又はその予定のある人が記入してください。」
 の欄を何の迷いもなく空欄にしたまま提出しましたね。

 おそらくあなたが不正受給者として罰せられることはないでしょう。川口のハローワーク(あなたは簡単に職安、職安と呼びますが、気持ちだけでも明るくしようとモダンな愛称があるのです)は見ての通りの大忙し。「自営業」とは何か、「職に就く」とはどういうことか、というような哲学的でさえある問いに答えを与えている暇はないのです。どこからどう見ても明らかな不正行為を追いかけるのが精一杯であるに違いありません。

 しかしここで言いたいのは、あなたがそういった危険性に対してあまりに無自覚であるということなのです。あなたは「雇用保険の失業等給付 受給資格者のしおり」等のハローワークで配布された書類をほとんどまともに読んでいませんね。胸をキュンとさせる恋愛小説や、心躍らせる冒険ファンタジーならいくらでも読めるくせに、ちょっとでもお堅い事務的文書になると、
「うわー、めんどくさーい。漢字ばっかり〜」
 なんて言いながら三行で投げ出してしまう。

 あなたには自信があるのですよ。
 どんなに生き方や手先が不器用でも、苦手な分野への根気が皆無だろうと、最後には必ず「あの能力」が自分を守ってくれると無邪気に信じている。あなたは想像したことがありますか? 自分と同程度、あるいはそれ以上の「能力」を持つ者が気配を消してあなたの背中のすぐ後ろまで迫る可能性を。
 今まで無防備でいられたからといって、これからもそれで済むという保証はどこにもないのです。

 差し出がましいとは思いましたが、あなたの心身の安全を考え、あえて苦言を申し上げました。出過ぎた振る舞いをお許し下さい。

 くれぐれも、おのれの力を過信せぬように。

 大賢者大森賢五郎


 最後の「大賢者大森賢五郎」はワープロではなく、封筒の裏と同じシャチハタ印だ。
「な、何これ……」
 全身から力が抜けてゆき、小刻みな震えが止まらない。ばーちゃんちの「ぼっとん便所」の床板、人間の目そっくりに並んだ二つの節目を思い出した。そちらを見てはいけない。でも、つい目を合わせてしまったら。
「ばーちゃーん!」
「床の目なんてどうって事ない。生きてる人間のがよっぽど怖いよ。」
 などとぶつくさ言いながら、便所の戸の前で待っていてくれたっけ。
 泣きべそかいて大声出しても、もうばーちゃんは助けに来てくれない。
(落ち着こう。とりあえず落ち着こう。慌てても落ち着いても結果は同じだ。)
 私は国語の読解力試験を解く時のように、手紙を一行目から丁寧に読み直した。
(最初はよくある時候のあいさつとして、そこから先はまるで、
『お前の情報は丸見えだぞ』
 って誇示するみたいな文章だ。)
 私は大森賢五郎とやらの言う通り、職安でもらった「雇用保険の失業等給付 受給資格者のしおり」の三十三ページを開いてみた。
「あっ、本当だ。」
 そこには不正受給の例が列挙されていた。しかし占いが自営業かどうかという点を除けば、私が引っかかる部分はない。「失業認定申告書」というのは職安で失業認定を受ける時に出す書類の名前なのだが、確かに私は毎回何も考えず適当に書いている。何か問題があれば「あの能力」がちゃんと発動するはずだから。配布された書類を読んでいないのも同じ理由だ。
(うーん、言われてみると、無意識のうちに頼っちゃっているんだなあ。)
「自分と同程度、あるいはそれ以上の『能力』を持つ者」ですぐ私はともなりさんを思い浮かべた。図書館での行動や優子さんの話から考えていくと、予知能力を「気を利かせる」という形で使っている感じがするし、私が「カラマーゾフの兄弟」の背表紙を撫でてボーっとしていた時、「気配を消して」「背中のすぐ後ろまで迫」って来ていた。
(ともなりさんなら、背中の後ろまで近付かれても構わないなあ。むしろ大歓迎。)
 いやいや、いかん。相手がともなりさんだという確証などないのだ。そしてたとえともなりさんを指していたとしても、彼が危険じゃないと言い切れる?
(ダメ男だという時点で、ある意味私にとっては危険だよね。)
 ともなりさんの事を考えていたら、何だかワクワクして来た。「ダメ男のテーマソング」(作詞・作曲沼田きみ子)を歌い出したくなるような。
(ともなりさんがダメ男って決め付けちゃって良いのかなあ。まあ、追い追い解明していきましょう。)
 さて、最大の疑問。それはこの「大賢者大森賢五郎」が何者か、という事だ。私は試しに国語辞典で「賢者」を引いてみた。
「世の移り変りに盲従したり政治の表面に出たりせず、宇宙の哲理を見抜いて静かに暮らす人。」
 そうなのか。私が考えていたのと少し違う。ファンタジー好きな人なら誰でも「賢者」といえば「思慮深い大魔法使い」を思い浮かべるのではないか。「ゲド戦記」のオジオンや、「指輪物語」のガンダルフみたいな。強い魔法の力を持ち、常に遠い未来や世界の真理を見つめ、目先の事にとらわれがちな人々を導いていく。大賢者大森賢五郎もこういう魔法使いの一人?
(私の情報をこれだけ読み取っているのだから、何らかの力は使えるのだろうな。)
 はっと気付いて数日前に郵便受けに入っていたダイレクトメールを座布団の下に隠してみた。封を切らずに捨てるつもりでいた、雑貨やアクセサリーの通信販売の広告だ。
「左下にピアスの六点セット。パール、アクアマリン、アメジスト、ガーネット、ムーンストーン、ブルートパーズ。」
 封筒を破ってちらしを広げると、私が言った通りの順番で若い娘向けの小洒落たピアスが並んでいる。
(やっぱり。私の力が弱まっている訳じゃない。)
 次に大賢者大森賢五郎からの手紙を封筒に戻し座布団の下に置いた。自分で「無い無い」しておいて失くすはずもないのだけれど、自分と手紙の関係がぷっつり切れたような変な感じがする。座布団を持ち上げると、当然封筒はそのまま。
「そうよね、あるわよね。あたり前田のクラッカー。」
 今度はさっきのちらしを大賢者大森賢五郎の白い封筒に入れ、座布団下にはさむ。
 何も、見えない。広告の写真も文章も読めない。私に与えられるのは真っ暗闇。
 無だ。
(この封筒、魔法がかかってる。)
 そこまで真剣に考えて、ふっと可笑しくなってしまった。一人で何やってるんだ私。魔法使い? ファンタジー小説じゃあるまいし、そんなものが身近に現れるはずないじゃないか。
「あはははははははははははは」
 ちょっと待て。今まで考えた事もなかったが、私の持っている力だって常識から考えれば十分変ちくりんなのだ。魔法使いを笑える立場ではない。果たして超能力者というのは世の中にどれだけいるのだろうか。これまでに私が出会った「それっぽい人」は、うちのばーちゃんとともなりさんくらいなものだ。だから漠然と「そう沢山はいないだろう」程度に思っていた。しかし平凡な職人の娘にポコッと生じてしまう力が特別であるいわれはない。他の超能力者達が心理的防壁を築いて天賦の才をひた隠しにしているとしたら……
(実は魔法使いや超能力者なんてウジャウジャいるのか? ひー、商売上がったりだよ!)
 私は自分の能力を見せびらかしもしなければ、厳密に隠しもしないでこれまでやって来た。学校でも会社でも、
「ぼんやりしがちでちょっと変、でも地味で気のいい沼田きみ子さん」
 としてすぐ受け入れられ、それ以上のものを求められたり暴かれたりする事はなかったから。それとてただ単に運が良かっただけかもしれない。異端者を憎しみ込めて攻撃する「普通の人々」がどれ程怖いか、子供の頃の経験で知っている。超能力者は自分の身を守るために何らかの対策を講じる、と考えた方が自然だ。
 そして私は超能力者と超能力者が出会った場合の対処法を知らない。
(まだ遭遇していないだけで、意地悪な超能力者もきっといるよね。嫌だなあ。)
 占いをし、「能力」を人目にさらすのには、あらゆる危険がともなうのだ。
(大賢者から妙な手紙も来ちゃうしね。色々反省出来て良かったけどさ。大森賢五郎……この人が商売を始めるとしたら、「オーケン商会」だな。)
 それにしても、何故シャチハタ印なんだろう? こういう手紙をしょっちゅう出しているのだろうか。そもそも「大賢者」というのはその人を称えて他人が呼ぶ時の言い方であって、自称するものではない。それをわざわざ自分の名前にくっつけてシャチハタ印まで作ってしまうとは、一体どういう了見なんだ。
(余程自信があるか、おちゃめさんかどちらかね。)
 事務員をしていた頃、私はシャチハタ印を心底愛していた。事務仕事にはんこ押しは付き物だが、救いようのないぶきっちょである私は、スタンプ台や朱肉を使う普通のはんこを綺麗に押せたためしがなかった。端が欠けたりインクの付け過ぎで文字がつぶれたり、上司も同僚も、
(どうしてこの人がやるとこうなるんだ。)
 と口に出さずに呆れつつ、私の作った書類を茫然と眺めたものだ。
 シャチハタ印は私でもしっかりくっきりはっきり押せる。美しい印影をまるで自分の手柄のようにうっとりと見つめ、
(会社中のはんこを一つ残らずシャチハタにしてくれたら良いのに。)
 と夢見ながら毎度倒産を待っていた。
 こんな私にも得意な事務がある。それは電卓を使ったちょっとした計算だ。「あの能力」を使えば検算の必要がないし、急ぎの時は電卓を打っている振りをして全部「力」のみで算出したりした。
「はんこは押せないが、計算は速くて正確。」
 これがなければどの会社も、倒産前にクビにされていたかもしれない。
(あの能力がなかったら、ほーんと、ただのダメ人間ね、私。)
 大賢者からの手紙やちらしを片付けたら、これからの行動についてもう一度考えてみよう。
 少ない脳みそカラカラ振って。

 その日の夜も占いをしに駅前へ出た。大賢者大森賢五郎の言葉を思い出すと少しドキドキしたけれど、私にしては珍しいくらい「明るい予感」があったので、そちらを信じる事にした。街灯と花壇の間に折りたたみ式の机を広げ、失業保険の不正受給疑惑を払拭するために作った新しい看板(包装紙の裏)を貼る。
「趣味で占ってます」
 これでどうだ。趣味なら文句あるまい。私はあくまでプロの占い師になるつもりだから、「趣味」という単語を使うのは本当を言うと嫌だった。しかしそれは心意気として大切にすれば良いのであって、失業保険を放棄してまでこだわる程の事でもない気がした。それによくよく考えてみれば、大した経験も積まず「プロの占い師」を自称するのも随分おこがましい話だ。
 駅周辺では夜になると、沢山の路上ミュージシャンが歌を歌い始める。彼らの心中も、
「趣味半分、プロを目指す気持ち半分」
 といった所ではないだろうか。私も彼らと同じく趣味という形で修行しているのだと思えば、デビューの夢を果たすため地方から上京して来たアマチュアバンドの一員になったみたいな素敵な気分だ。
 ビッグになるぜ、俺は!
 故郷へ錦を飾ってやるぜ、ベイビー。
(私の場合、ビッグも錦もどうでも良いんだけどね。実情はドリーマーというより単なる失業者だし。)
 商売上の打算もあった。「趣味」という言葉には素人臭い、不完全、といった悪い印象もあるが、同時に気軽で親しみやすい雰囲気も持っている。占いというのはその存在自体も怪しい上、仕入れ原価があるでなし、適正価格も分かりづらい。だから初めて訪れる人は、ぼったくられたらどうしよう、などと要らぬ心配をして二の足を踏むかもしれない。そんな時、下手に真剣みを出してしゃちほこ張るよりも、
「趣味ですよ。遊びの一つなんですよ。」
 と軽いノリでいた方がお客さんは足を運びやすいのではないか。
 信用に足る占い師として広く認知されるまで、この路線で行こうと決めた。
(まずは私を知ってもらうのが大切だもんね。悪徳占い師なんかじゃないぞ、って。)
 服装もマチコ巻きやサングラスはやめにして、胸当てズボンととっくりのセーターで素朴さを表現してみた。まあこれはただ単に前の格好が寒過ぎたから変えただけ、というのもあるが。
(開店早々リニューアルオープンね。)
 今夜も橋の上の人間達は河の水のように流れていく。改札口からめいめいの家に向かって。その流れの中にカラオケ屋と居酒屋のチラシ配りがたたずんでいる。今日は「手相の人」を一人も見かけない。駅前で何らかの活動をする人は種々いるけれど、毎晩というのはまれで、大抵は不定期だ。夜はポップスバンド系の路上ミュージシャンが最も目に付く。数年前の流行歌やオリジナルソングを歌う若者達が、街灯の光にぼんやりと照らされている。聴衆が数人集まっている所もあれば、ギターとヴォーカルが二人きり空に向かって音を発散させている事も多い。
 前に花壇の脇でやっていた津軽三味線の路上ライブは素晴らしかった。ごつごつした体つきのお兄ちゃんの腕前は絶品で、辺り一帯が黒山の人だかりになっていた。酔っ払いのおっちゃんにワンカップを勧められ苦笑いをしながら、小さなかけ声と共に太い三味線の胴を打つ。紡がれる旋律は力強いのにどこか物悲しい。
 全国を回っていると言っていたから、今ごろは別の空の下であの音を響かせているのだろうか。
 アクセサリー売りもたまに見る。しかし物売りの姿が一番多いのは夕方だ。帰宅ラッシュの人々の財布を目当てに、八百屋や花屋が大声上げる。その派手さをよそに、韓国のおばちゃんが一等地にちょこんと座ってキムチを売っている。
 昼間店を出すのは古本屋。ござの上に雑誌や文庫を広げ、売れるのか売れないのか、茫漠とした表情のおじさんが椅子に座って番をしている。
 竹とんぼ売りなんて珍しいものもある。
「手づくり・よく飛びます」
 と自信たっぷりに赤い文字の看板を出しているのだが、そんな立派な竹とんぼを買って、その後どう活用すれば良いのだろう。
 ここには本当に色々な人がいる。
 配る人、受け取る人、受け取らない人。
 歌う人、演奏する人、聴く人、拍手する人。
 売る人、買う人、ひたすら通り過ぎるだけの人。
 外国人を沢山含んでいるのも川口の特徴だ。日本語でも英語でもない耳慣れぬ言葉にふと目を向けると、東南アジアか南米か、エキゾチックな瞳のお姉さん達が感情たっぷりにおしゃべりしている。ただでさえ大変な異国暮らし、その上こんな不景気で仕事の苦労も少なくなかろうに、彼女達はどの日本人より精力的に見える。
 民族衣装に身を包んだ黒人の集団も二度目撃した。ちっちゃな赤ん坊を抱っこして歩くでっぷりとした女性。彼女を隣で優しく見守る旦那さんらしき男性。何か面白い出来事でもあったのか、楽しそうに大声で笑い合う二、三十人程の人々。みんな美しく装って、橋の上をゆっくり移動してゆく。その様子は幻想の国のお祭りのように蠱惑的だった。
(この町で、私を必要としてくれる人は見つかるかな?)
 ほおづえを突いてぼんやりしていると、そごうの紙袋をぶら下げたおばちゃんが私の目の前でピタッと立ち止まった。地下の食品売り場で買った物でも詰め込んだのか、紙袋はパンパンに膨らんでいる。ニヤニヤしながらどう話しかけようか迷っているみたいだったから、私は心の中で、
「こんばんは。初めまして。」
 とつぶやきつつ笑顔で会釈した。
「ねえ、占いって、何でも占うの?」
 訛りというには大袈裟だけど、ちょっと田舎っぽいのん気な抑揚でおばちゃんは言った。
「はいはい、大きな事から小さな事まで、何でも!」
「じゃあさあ……コレについて聞きたいんだあ。」
 「コレ」の所でおばちゃんは、何かをつかむ形にした右手を腰の辺りに持っていき、手首を使って数回回してみせた。最初私は何だか分からなかったのだが、おばちゃんの心を盗み見てようやく理解した。
「パチンコですね。」
「そう、そう。」
 私は反射的に父の小言を思い出し、「パチンコなんてやめた方が良いですよう。」と言いそうになるのをぐっと我慢して、お客さんの話をちゃんと聞こうと決めた。
「今日は三万勝ったよ。だからこれ、そごうで買い物しちゃった。へへ。」
「それはおめでとうございます。」
「でもよ、この間なんて、十万も負けたよ!」
「駄目ですよ! パチンコでそんなに使っちゃ。」
 しまった。パチンコをするのはお客さんの自由なのに、つい駄目なんて言っちゃった。私が後悔するのも構わず、えへへへ、という感じに笑ったおばちゃんの口から、ギラリと光る銀歯の列が覗いた。
「それしか楽しみないから。」
 私がうなずいて良いものか困っていると、おばちゃんは続けた。
「他に贅沢もしないし、大丈夫よ。でもさあ、ほら、やっぱり勝った方が嬉しいからね。いっぱい出る日とか、出る台とか教えて欲しいのよ。」
「そうですねえ。じゃあ、明日は絶対やらないで下さい。で、明後日は……あの、最近大きいパチンコ屋さんに通ってませんか?」
「よく分かるねえ。そうだよ。開店したばっかりの、天井の高い綺麗な所だよ。」
「そっちじゃなくて、前に通っていた古い小さいパチンコ屋さんに行ってみて下さい。」
「あっちかあ。急に顔出さなくなっちゃってそのままだから、ちょっと行きにくいなあ。」
「久しぶりでも何でも、お客さんが来てくれたら喜びますよ、店員は。そういうのも『げん』が良い感じするでしょ?」
「うん、試しにお嬢ちゃんの言う通りにしてみるよ。ありがとう。で、占いのお代は?」
「お金はいりません。趣味、ですから!」
「ええー、そうなの。何だか悪いねえ。」
 それからおばちゃんは紙袋を持つ手を替え、あまりの荷物の重たさに赤くなったてのひらをしばらく眺めた後、ちらっとこっちを見て照れるように笑んでから、駅の方に消えていった。
 人通りがまばらになった頃、私は店を畳んで家路に就いた。パチンコおばちゃんに続くお客さんは来なかったが、私の気持ちはそこはかとなく高揚していた。
(今日の明るい予感はこれだったのね。)
 優子さんの時より具体的に占いの結果を述べられた。お金を稼がずとも、その達成感が何より私の心を満たしていた。

 その日の夜中の事だ。
 寝床に入って目をつむっても、いつものように眠りの世界にすっと吸い込まれていかなかった。普段は寝付きの良い性質なのだけれど、職安、実家、大賢者、占いと一日慌ただしかったせいで神経が高ぶっているのだろう。無駄に寝返りばかり打ってしまう。
 快い疲れが安眠を誘ってくれますように。
 そう願っても、それが実現しない予感が次第次第に強まってゆく。ああ、嫌だ、やめて。思い出させないで。このひと月、痛みを伴なう追想はせずに済んでいたのに。少し疲れただけで、もう。
 落ちてゆく。いまだ癒えない傷の中に。
 顔のない闇色のお化けが背中をドンと突いたから?
 それとも真っ暗な谷底に自ら望んで飛び込んでいったから?
 覚えているのは、裸足で踏んだ崖の土の感触だけ。

 一番辛かったのは別れの瞬間ではなかった。「最後の電話」を待ち続けた数ヶ月間、その声を何度も何度も心の耳が聞いた。告げられる言葉も、その意味も、日付も、時間も、ベルの回数も、全部知っていた。なのにそれを回避する方法は知らなかった。決定権は全て彼の側にあった。
 それまでべったりくっつき合っていたものが離れてしまうのだ。恋人と別れるのは悲しいに決まっている。「最初の彼氏」「二番目の彼氏」と別れた時だって、そりゃあ苦しみ抜いた。しかし彼らとの終わり方は「愛と憎しみと喧嘩の果て」だったから自分でも納得がいったし、試合終了のゴングが鳴った後のようにスカッと清々しい気分すら味わった。けれど「三番目の彼氏」との関係の破綻は、私達の愛情とは直接関わりのない、変な場所からもたらされた。
「今度うちの会社、××製薬と合併するんだ。」
「ふうん。」
 「三番目の彼氏」は医薬品メーカーで営業の仕事をしていた。この青臭い文学青年が数字を競い合うえげつない世界でどう働いているのか不思議だったが、医者や薬剤師に対する薬の説明が丁寧であるらしく、それなりに信頼されているようだった。
「医療業界も最近厳しくなっててね。」
「今はどの業種も色々大変みたいじゃない。小さい会社にいるとよく分からないけどさ。」
 「業界再編」という単語は知っていた。でもそれは雑誌の見出しに並ぶ流行語の一つとしてであって、具体的に何が行われているのかまるで分かっちゃいなかった。それにその時点で二回倒産を経験していた私は、つぶれる訳でもないのにガタガタ騒いで大企業はのん気なもんだ、くらいに思っていた。
「ねえ、リストラされたりはしないんでしょ?」
「四十代以上の人はされるかもしれない。管理職なんかは特に。でも僕らは大丈夫じゃないかな。いわば最前線に配属されている兵隊だからね。直接企業の業績に響くし、そう簡単に減らせないよ。」
 本当に考えた事もなかった。
 会社の合併が、社会の下っ端にいる私や彼氏にどんな影響を与えるか、なんて。
 「三番目の彼氏」との恋愛は、元々デートや電話の回数が少ない不活発なものだった。それは二人が淡白だったからというのではなくて、単に彼が忙しくて時間を取れなかったのだ。平日は早朝から終電まで働き、休日出勤も度々。その挙句営業は残業代が付かない、と聞いて、
「私だったら三日で辞めちゃうわ。」
 と感嘆を込めて言ったら、
「きみ子ちゃんなら三時間持たないと思うな。」
 と軽く訂正された。
 つまりは時間的・空間的に、細々とした小さいともし火のように危うい関係だった。でも私は気にしていなかった。それは愛情さえしっかりしていれば乗り越えられるものだと信じていたから。
 確かに妙ではあった。「三番目の彼氏」と付き合い始めた時も、「最初の彼氏」「二番目の彼氏」と一緒にいた頃以上に、
「この人といると幸せになれないのだろうな。」
 という予感が強くした。このおとなしい男が一体どんな風に私を不幸にするのだろう、酒乱か? 浮気か? と一応覚悟を決めていたのだが、一向に何も起こらない。彼は優しかった。まるで「愛している」みたいに。
 もしかして、予感が外れて幸せになってしまうんじゃないか。
 もちろん私は彼の心の中に広がる「虚無の湖」の存在を一瞬たりとも忘れはしなかったけど。
 合併の話が出てすぐ、彼と連絡が付かなくなった。それまでは携帯電話の留守電に伝言を残しておけば、数日以内に電話がかかって来た。それがひと月待っても来ない。その時になって気付いた。彼ともう二度と会えない事。あと三回しか電話で話せない事。
 留守電の二ヵ月後、最後から三番目の電話がかかって来た。連絡を取れなかった詫びと、合併後の社内の混乱が一方的に語られ、ただちに切れた。すでに声の感じが微妙に変わっている。ああ、やっぱりもう手遅れだ。またもや相手も自分も幸福に出来なかった事実を知り、私は愕然とした。他に女が出来たのを隠している、そういう嘘の声ならいっそ健康的で良かったのに。
 虚無の湖。いや違う、墨より黒い湖水は、銀色の光を放つ砂を吸い、彼の体を飲み込んで、虚無の海に成長していた。もはや地平線の彼方まで虚無しかない。ああ、水かさが上がっていく。濃いスミレ色の空も、いずれ消える。 
 虚無に包まれてしまえば、喜びを失う分、苦しみも感じなくなる。合併後の仕事はそんなに辛かったのか。辛かったら何故逃げなかったのだろう。とにかく彼は仕事を辞めるという選択肢を選ぶ代わりに、心を閉ざす道を選んだ。ずっと優等生として生きてきた彼の頭に「退職」なんて単語はなかったのか。おそらく彼が「あたかも普通の人であるかのように」生きるために、「サラリーマン」という肩書きは重要であったのだろう。ここで役を降りてしまったら、もう二度と元に戻れなくなってしまう。本当のダメ男になってしまう。そんな恐怖の中、優先順位の下の方にいる私はいつの間にかあっさりと、切り捨てられた。
「きみ子ちゃんを幸せにする自信がないんだ。」
 数ヶ月間の悲しみと拒食の日々の果て、最後の電話がこう告げた。幸せにして欲しかったんじゃないのに。ただたまに会って、手をつないでくれたりしたら、それで良かったのに。言いたい言葉があふれそうになって唇が震えた。歯がカチカチ鳴った。でも何も言わなかった。
 電話の相手は「彼氏」でなく「虚無」なのだ。言葉も感情も暗闇に捨てるだけの。
 私が何度も思い出すのは、この「最後の電話」でなく「最後から二番目の電話」だ。それは深夜と早朝の間くらいのとにかく非常識な時間に、突然かかって来た。私はきっちり五秒前に目を覚まし、一つ目のベルが鳴り終わる前に受話器を取った。
「はい、沼田です。」
「きみ子ちゃん? きみ子ちゃん? 本当にきみ子ちゃん?」
 予想通り彼は錯乱していたが、声は虚無にさらわれる前のままだった。
「は? 寝ぼけてんの?」
 神様が与えてくれた最後のチャンスなのかな、とぼんやり思いながら、こんな受け答えしか出来なかった。
「手がヌルヌルするんだ。しっかり握ろうとするんだけど、重くてすべる……僕は上手くやったのかな。斧なんて生まれて初めて持ったから、どう使ったら良いのかよく分からなくて……」
「何? 木こりにでもなったの?」
 うふふふふ。ねえ、笑って。笑ってよ。何であなたの前には血まみれの私がいるの。早く柄を伝って滴り落ちる赤い液体を拭かなくちゃ。斧を足の上に落としたりしたら危ないよ?
「きみ子ちゃんは、元気、なのかな。」
「元気よ、私は元気、とっても! 頭なんて痛くないし、貧血も起こしてないし、ほら、血なんて毎月いっぱい出してるからさ、このくらいじゃ平気! なーんて事ない。」
 本当は拒食症で牛乳と野菜ジュース以外口に入らなくなっていた。そのせいで生理も遅れ気味になっていたけど、嘘も方便、というやつだ。
「だから大丈夫。」
「……」
「もしもし?」
 それからしばらく沈黙が続いた。電話は通じている。その場を離れた様子もないし、再び眠ってしまったのか。
「おーい。電話が切れてませんよ〜」
「……あ、きみ子ちゃん、どうしたの。」
 どうしたもこうしたも。勝手な男め。
「でも良かった。なんか変な夢見ちゃって。あれ、どんなのだっけ……。そうだそうだ、思い出した。怒らないで聞いてね。」
「うん。怒らないよ。」
 あなたが何をしたって、私は怒らない。
「きみ子ちゃんがね、死んじゃう夢を見たんだ。」

「それ、あんたが長生きするって証拠よ。」
 低い見知らぬ声が坊さんのお経みたいに部屋中に響いて、私は飛び起きた。
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大賢者大森賢五郎(その7)

七、大賢者大森賢五郎(フルカラー)

 声の主はパチンコ屋の新装開店の時並べられる花輪に似た派手な背もたれ付きの椅子に座ってこちらを見ていた。紫の毛皮を肩に掛け、レモンイエローの透け透けスカートから赤い網タイツの足が覗き、その先にはラメ入りの黒い厚底サンダルがキラキラ光っている。頭のてっぺんには黄緑のトサカみたいな大きな羽根飾り。
 格好は一応女だ。しかし声と顔と体付きは、どう見ても、男。
「あなた、もしかして大賢者大森賢五郎?」
「そうよ。こんな姿で出て来るつもりはなかったのだけど。」
 きつくつり上がった瞳は水色のアイシャドウで彩られ、艶めかしいワインレッドの唇は魔物じみている。そして貴金属ジャラジャラの腕の中、「?」マークの形に曲がった金色の爪が撫でているのは……
「それ、優子さんの!」
 エメラルドグリーンの目をした白いペルシャ猫「ジルベール」だ。
「よく気付いたわね。」
「事情がいまいち飲み込めない……ええっと、何か言うべき事があったはず……そうだ! 人の事不正受給だ何だって言っておいて、そっちこそ不法侵入じゃないの。こんな夜中に突然!」
「周りをよく見てごらんなさい。」
「え……ああーっ!」
 さっきまで自分の部屋で寝ていたはずなのに。そこは見知らぬ古い和室だった。
「あなたが私をここに連れて来たの?」
「違うわよ。勝手に誘拐犯扱いしないで頂戴。」
「じゃあ……」
「さすがの私も驚いたわ。瞬間移動まですると思わなかったから。」
「ここ、優子さんの占いで見た『猫を見つけるきっかけになる場所』よね。」
 斧で脳天かち割られたりして混乱していたが、ようやく色々分かり始めた。初めて優子さんに会った夜、私は猫の居場所をはっきり突き止められなかった。しかし「時期が来れば絶対に見つかる」という確信だけは強くあったので、「祝福されているから大丈夫」なんて曖昧な言葉でどうにか安心させようとした。あの時感じた「時期」というのが今なのだ。この日が来るまで大賢者大森賢五郎が猫を隠していた、と考えればつじつまが合う。
「沼田きみ子さん」
「はい。」
「自分がとても危険な状態にあるって事、分かってる?」
「そりゃあこんな変な人と二人っきりというのは不安だけど、先に手紙も来ていたし、何か起こりそうな予感はしていたからねえ。」
「私の事は関係ないの。あんたの能力について言ってるの。その力、どんどん強力になってるわよ。」
「えっ、そうなの? 昼間なんててっきり弱まってるんじゃないかって勘違いしたのに。」
「そうでなければ瞬間移動するはずないでしょう。今までにそういう経験は?」
 確かに予知や透視と違って意識的にやったためしはない。ただぼーっとしている間に全然知らない場所に来ていた、というのは何度かあった気がする。あれは超能力だったのか、それとも単なるボケ徘徊か。
「よく分からない。でもこれってうまく使えば『どこでもドア』だよね。すごいなあ。交通費浮かせられるよ。」
「あんたはどうしてそんなにのん気なのっ!」
 大賢者大森賢五郎はカッと目を見開いて怒鳴った。その顔はぼっとん便所の床板の百倍くらい恐ろしい。その上おばさんみたいなおじさんの声は低いのによく響くのだ。
「大体ねえ、その力の源を知っているの?」
「えー……牛乳とか?」
「全っ然、違います。あんたは『このあたり』に見えない袋が付いているのよ。」
 「このあたり」の所で大賢者大森賢五郎は自分の後頭部を指差し、「?」マークの形に曲がった爪をクルクル回してみせた。
「その袋はね、普通頭の中に収まっているべきものなの。それが大きくなり過ぎて頭からはみ出ちゃってる。何故そうなったのかは知らないわ。まあ体質みたいなものでしょう。こむらがえりになりやすいとか、扁桃腺がすぐ腫れるとか、誰にだってあるものね。あんたはその袋を膨らませやすい性質を持って生まれて来たのよ。」
「はあ……。」
 血が出たり袋が出たり、随分型破りな頭だ。そのうち花が咲くかもしれない。
「その袋の役目を教えてあげましょう。袋の中はね、死者の魂や失われたはずの愛情を生き返らせるための空間になっているの。あんたいつも昔の事しか考えてないでしょう。死んだ人や別れた男の思い出ばかり。」
 それは認めざるを得ない。私はうなだれるようにうなずいた。
「もともと袋が大きいから、ついその中に詰まっている過去に意識が行ってしまう。そうしてそこで過去の人間の記憶を何度も何度もなぞれば、当然また袋は膨らむ。それの繰り返し。国の借金とか、不況の原因と同じような理屈ね。」
 「三番目の彼氏」の性格と文学の関係にも似ている。人を落とし入れるものの構造なんてみな同じなのかもしれない。
「まあ袋が際限なく肥大しているのは分かったわ。でもその袋と超能力と何の関係があるの。」
「言ったでしょう、その袋は頭の外に出ていちゃいけないものなのよ。袋自体は珍しくも何ともなくて、誰もが失われたものを慈しみ悼み葬り去るために使っている。夢見がちな人が空想を広げる場所でもあるわ。」
 私はふと叔父を思った。ファンタジー小説の異世界に憧れ、ギャンブルで大金を手にする日をいつも夢想していた。叔父もおそらく「袋肥大症」だったのだ。
「その袋が本人一人の身体の枠を超えて外気に触れると、全く関係のない人間の過去や未来や心の闇を吸い寄せてしまうの。子供の頃は巧く制御出来ずに何もかも見たり聞いたりしてしまったでしょう。」
「でも今はちゃんと欲しい情報以外には近付かないように心掛けているよ。」
「確かに能力を使う事に関しては大分意識的になったわね。私の手紙でも反省してくれたようだし。でもまだ無意識のうちに袋を膨らませるのがどんなに恐ろしいか理解していない。」
「この能力が強まり過ぎると困るの?」
「まずは悪用される恐れがあるわね。優子さんからの誘いを断ったのは立派だったわ。株で派手に儲けたりしたらどうなるか。大企業やヤクザからあっという間に目を付けられて、のんびりした日常はズタズタに壊される。」
「それくらいの危険性は予知出来るから……まあ三文ドラマ的展開として予想付くよね、『能力』が無くても。」
「本当に怖いのはそんな事じゃあない。あんた、これ以上あの袋に意識を飛ばし過ぎると、こちら側に戻って来られなくなるわよ。」
「こちら側?」
「袋、袋と言っても胃袋や玉袋と訳が違うの。本来なら人の体の中に収まっているものだけれど、そこは一種の異世界になっていてね、持ち運び可能な「向こう側」とでも言えば良いかしら。」
「今日の瞬間移動もそこを経由したのかな。」
 大賢者大森賢五郎は頭のてっぺんのトサカと一緒に重々しく首を縦に振った。
「私達は混沌から生まれ、死の力で再び混沌に帰っていく。それゆえあたかも整然と秩序立っているかのように見えるこの世界で暮らしていても、混沌を入れる袋をぶら下げていなければ生きていかれない。」
「そうしてその袋にかかずらわって夢中になると……」
「永遠に混沌の世界の住人になってしまう。」
「そうなったらそうなったで別に構わないけど。」
「もおおおっ! あんたがそういう風にいっつもフワフワしているから心配して来てやったんでしょう。ちったあ感謝して考えを改めなさい。」
 何でこのオカメインコのお化けみたいなおばさん(おじさん?)にこんな偉そうに説教されなければならないのか。
「オカメインコ、ですって?」
「ちょっと、勝手に心の中読み取らないでよう。」
「ほら、そうやっていつもスキだらけ! 私は無能な人間に説教垂れたりしません。その才能を有効に使って欲しいからこそうるさく言うのです。あんただって『自分や周りにとっても有意義であるような職業』に就きたい、なんて殊勝な決意をしていたじゃないの。立派な人間になりたいんでしょう?」
「それはまあ、もちろん。」
 今まで誰も救えなかったから。自分も、愛した人さえも。
「だったら私の言う事を素直に聞きなさい。まずこれ以上過去に囚われないよう気を付ける。自分の力を意識的に見つめれば必ず出来るはずよ。」
 この私が昔の男の記憶に頼らず生きていかれるのだろうか。例えば心が弱った時、私は知らず知らずのうちに「二番目の彼氏」の匂いを思い出してしまう。彼は体が病弱なせいか男性的魅力とは無縁で、その代わり妖艶な中性的雰囲気があった。二の腕も太ももも細っこくて生っ白くて、私は暇さえあればその滑らかな肌を撫でた。そうして胸に顔を埋め思う存分息を吸う。すると男になりたくてなり切れなかったような悲しい香りが胸いっぱいに……
「だあああっ! 言ってるそばから意識を飛ばすなあっ。」
「あっ。つ、つい。」
「とにかく、過去を思い出す回数が多過ぎます。甘い感傷を全て捨て去れっていうんじゃないの。現実と対峙する時は、袋の中に逃げない。能力に頼り過ぎない。油断しない。そうして安全を確保したら、袋の中身を眺めてもよろしい。ただし宝物を扱うように大切に。分かった?」
「はい、以後気を付けます。」
「普通の人間はね、『今』に夢中なの。あんたは予知能力があるくせに『過去』に夢中。でも本当に正しい人間になりたいのなら、袋に振り回されたりしないで、『過去』も『今』も『未来』も『現実』も『空想』も平等に真っ直ぐ見つめなければ。」
 大賢者大森賢五郎。確かにあなたは大賢者にふさわしい偉大な考えの持ち主だわ。だけど……
「何で女装しているのかって?」
「わあー。また読まれてるし。」
「私だってこんな姿で現れるつもりじゃなかったわよ! この体と服装はね、あんたの袋の中から借りたの。」
「つまり私の袋に残っていた記憶の中にそういう変な格好をした人がいた、と。うーん、覚えてないなあ……。」
「選ぶの大変だったわ。だって昔の男の格好で出て来たら何されるか分からないものね。貞操の危機ってやつかしら。そうそう言い忘れた。『私は私であって私でない。大賢者大森賢五郎だけれど大賢者大森賢五郎は別にいる。』」
「はあ?」
 なぞなぞは苦手、そう言おうとする私を無視し、おじさんなのかおばさんなのか大賢者大森賢五郎なのかさえ分からなくなって来たその人は、優子さんの飼い猫「ジルベール」を私に差し出した。
「ほら、受け取りなさいよ。探していたんでしょう?」
「い、いや、犬は好きなんだけどね、猫はどう持てば良いのか。首根っこつかむの?」
「馬鹿たれ。普通に抱っこすれば良いの。」
 ジルベールは「一瞥くれてやる」という感じにちらりとこちらを見て、すぐに大賢者大森賢五郎の方に向きを戻し目をつむってしまった。
「猫も赤ん坊も怪しい人間には近付かないのよ。」
「赤い網タイツはいてるおじさんに言われたくないな。」
 おっかなびっくり手を出しても、なかなかジルベールは素直に抱っこされてくれない。大賢者大森賢五郎はその様子を見て楽しそうにフフフフと笑った。
「あら、もうそろそろ時間だわ。」
 黄緑の大きな羽根飾りを揺らして遠くを眺め、軽くうなずいた。あれ、この光景はどこかで見た気がする。その心を読んだのか、大賢者大森賢五郎は私の瞳をじっと見すえた。
「ねえ。私達、よく似ていると思わない?」

「……師さん。………み子さん。」
 遠くで男の人の声がする。何だろう、良い気持ちだな。ああ、ばーちゃんちにいるんだっけ。雑木林から色々聞こえて来る。
 ざざん、ざざん。
 あれは竹の葉の立てる音。
 ききい、きい。
 甲高い声で知らない鳥が鳴く。
 ねえ、お願い。名前を教えて。
「占い師さん。沼田きみ子さん。」
「はっ、しまった。今、ふ、袋。袋の中に行っちゃったわよ。」
「どうしたの? そんな急に起き上がったら貧血起こすよ。」
「ああーそうだったー。」
 真っ暗。拒食症で痩せこけてから立ちくらみを起こしやすくなっていたのをすっかり忘れていた。目が見えない。耳も膜が張ったよう。脳の中にあかりがともったのか、思考だけがはっきりして来る。このすぐそばにいる男の人は、ともなりさん?
「大丈夫? もうしばらく寝ていた方が良いよ。」
 ようやく正常に戻って来た私の視界を、ともなりさんの整った顔が大きく占める。
(味気ないくらい綺麗な顔だなあ。肌にニキビ痕一つないのも憎らしいわねえ。)
「こういう時『僕の顔に何か付いてる?』って聞かなきゃいけないのかなあ。」
「私は『口の周りにアンコがいっぱいくっついてるわ。』って答えるの?」
「えっ、本当に? アンコなんて食べなかったよ。」
「自分でボケといて本気にしないでよ。」
 ともなりさんは不思議そうに私を眺めた。こんな状況で不思議がられたって。
「ここ、どこ?」
「川口駅の西口にある家の中。そう、前に本を借りた横曽根図書館の近くだよ。」
「じゃあ……」
「駄目だよ。まだ動かない方が良いって。」
 ともなりさんに制されて寝転がったまま辺りを見回すと、そこは大賢者大森賢五郎と会ったあの和室だった。
「猫はどうなったのかしら。」
「ああ、ジルベールだね。ほら、いるよ。おいで。」
 ともなりさんが呼びかける方向に目を向けると、白いペルシャ猫が軽い足取りで走り寄って来て、抱かれるのが当然であるみたいにともなりさんの腕の中にすっと収まった。
「それにしても驚いたな。ようやく家を見つけた、と思って戸の隙間から覗いてみたら、占い師さんが寝ているんだもの。」
「……どういう事?」
「図書館で話を聞いてから気になってね、このところ家探しをバイトに行く前の日課にしていたんだ。」
 偶然にしては「理由」が出来過ぎなんじゃないの、と思ったが、あまりの目まぐるしさに深く追求する元気もない。
 そんな事より、ともなりさんとのんびり話せるのが嬉しかった。たとえその存在が大賢者大森賢五郎と同じくらい不可解でも。
(男の人と二人っきりになるなんて何ヶ月振りだろう。彼氏じゃないって分かっていても、何となく幸せになるものだな。)
 独りぼっちで平気なような顔をして暮らして来たけれど、本当は心細かったのかもしれない。自覚もままならない程、寂しさは私の日常に馴染んでしまっている。
(これで「きみ子ちゃん」って呼んでくれたら最高なんだけどなあ。)
 私は呼び捨てよりもこの甘ったるい呼び方が好きで、三人の昔の男達にも強要して来た。しかしいくら何でも数回おしゃべりしただけの人にお願いするのは恥ずかしい。
 今度は急に血が下がらないよう気を付けて、私はゆっくり身を起こした。
「もう平気なの? 占い師さん。」
「ねえ、ともなりさん。『占い師さん』って呼び方はさ、ほら、ねえ、アレだから。」
「アレだから?」
 アレって何だよ。自分に自分でツッコミを入れて私はうつむいた。顔がほてる。ともなりさんは察しが良いからすぐに気付いてしまう、と思うと首から上がぐんぐん熱くなる。
「……沼田さんって呼んで欲しいの。」
「そっか、そうだよね。みんな一人一人に違う名前が付いているんだものね。うん、名前は大切にしよう。」
 ともなりさんにもあの能力があるとしたら、心の中を全部見られているのだ。そうだとしたら、決まり悪いような、安心するような。ともなりさんは私の気持ちを知ってか知らずか「もっともだ、もっともだ」と言わんばかりに何度も首を縦に振った。
「さーて、家に帰らなくっちゃね。」
「さっそくだけど、沼田さん。自分が今どんな格好をしているか、知ってる?」
「え……ああっ。」
 当然と言えば当然なのだが、昨日の夜自分の部屋で布団に入った時のまま、中学校の家庭科の授業で作ったねまきを着ていた。白と黒の牛柄で、手先の不器用な私が縫った上に長い年月にさらされて、どこもかしこもヨレヨレしている。さらにはボタン穴もユルユルなため、上二つと下二つが外れヘソ出し半裸、おっぱいがデカけりゃ見えている所だ。
「ど、どうしよう。このままじゃ帰れないよう。」
「そういう事もあろうかと、ちゃんと用意して来たよ!」
 ともなりさんはジルベールをそっと畳の上に下ろし、大層嬉しそうに淡いピンクのツーピースを広げてみせた。

「子供の手を引いて幼稚園の入園式に向かうママ、って感じね。」
 ともなりさんが持って来てくれた洋服に着替えてみると、肩も腹も腰もぴったりだった。ただおっぱいが限りなく「無」に近いせいでプカプカ浮いてしまう胸辺りの布が多少気になった。
「これ、僕のおばあさんのスーツなんだ。」
「へー、こんな明るい色を選ぶなんて随分モダンな人だね。」
 胸元には服と同じ生地で作った花飾りまで付いている。
「うちのばーちゃんと大違い。」
「沼田さんのおばあさんはどんな人?」
「『剣と魔法の世界』の登場人物にたとえるなら、人里離れた山奥に暮らす偏屈な魔女、だわね。私が子供の頃死んじゃったけど。ともなりさんのおばあさんも魚の目取りのまじないをしたりした?」
「僕のおばあさんはそんなに怪しくなかったな。」
「ひとんちのばーさんを怪しいって言うなよ。」
 ともなりさんはジルベール、私は脱いだねまきを抱えて外に出ると、占いで見えたそのままの風景が目の前に開けた。
「白いパラボラアンテナに、赤い花。」
「これはつる薔薇だね。ちょうど盛りだ。」
「しかし悔しいなあ。何でこの間は見つけられなかったんだろう。」
 大賢者大森賢五郎の陰謀、と言えばそれまでだが。
「沼田さん。ここの正確な位置、分かる?」
「この道には来なかったな……ああっ、この香り!」
 私は不意に吸い込んでしまった甘ったるい空気に耐え切れず、顔をしかめた。
「そう。お菓子工場のすぐそばだよ。少し奥まっているけどね。」
 甘い香りで私の力をかき乱すとは、敵も然る者、味なもの。
「そう言えば、図書館で借りた本は読み終わった?」
「いや、それが。」
「僕はもう全部読んで返しちゃったよ。」
「私も恋愛小説と岩波少年文庫はとっくに。でも占いの本がねー」
 また大賢者大森賢五郎に叱られそうだが、占いの説明を読んでいるとどうしても眠くなってしまうのだ。
「沼田さんは占いの本なんて読まなくても良いんじゃないかな。手相もタロットも未来予想の手掛かりでしかないと思うんだよね。何もしなくてもいきなり全部見えちゃうんでしょ?」
「うん。体質的なものらしい。」
「そういう人は占いの技術より、自分を制御する方法を覚えた方が良いよ。例えば、座禅を組んでみるとか。」
「ええっ! 木の板でバシバシ叩かれるの嫌だ〜。」
「肩こりが治りそう。」
「私の場合、何をしたって雑念を捨て去ったり出来ないよ。でもこのまま能力が強くなると、そのうち額からビームが出ちゃうかもね。」
「夜道を一人で歩く時便利そう。」
 くだらない話をしながら寂れた商店街を駅に向かって歩いてゆき、十分程で優子さんの住むマンションにたどり着いた。
「うわー、オートロックだ。私これ苦手なんだよね。みんなどうやって開けているの?」
「インターホンで優子さんに頼んでも良いし、誰か出て来て開いた所をすっと入り込む人もいるよ。泥棒みたいだけど。」
「住人の頭の中から暗証番号を読み取れば簡単よね。でもそんなやり方普通の人はしないだろうしなあ、って毎回悩んじゃう。」
「何やらせても不器用なんだねえ、沼田さんは。」
 ともなりさんが優子さんに連絡してくれて、私達はジルベールを無事帰宅させる事が出来た。二人そろっての突然の訪問に優子さんはびっくりしていたけれど、真っ白いペルシャ猫との再会を果たすと私達の姿は目に入らなくなってしまった。だから私達はジルベール発見の経緯や大賢者大森賢五郎の話を一切せずに、マンションを後にした。
「優子さん泣いていたね。」
「めでたし、めでたし、だ。」
 川口駅構内を抜け東口に出ても「それじゃあ、またね」の一言がなかなか言えなかった。ともなりさんも帰りたい素振りを全く見せなかったので、私達はそごうに向かって伸びる橋の上で立ち尽くした。
 さすがにちょっと気まずいくらいの沈黙が続いた後、ともなりさんは独り言みたいに小さくつぶやいた。
「これで安心して……」
「え?」
「何でもない。」
 思わせぶりな態度なんて私には効果なしなんだから。額からビームを出す程の強い力で、何もかも、見えてしまう。
 近い将来二人の間に起こるであろう出来事から目をそむけるように、橋の下に広がる薄ぼけた街並をじっと眺めた。
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大賢者大森賢五郎(その8)

八、百八つの煩悩

 大賢者大森賢五郎の一件で疲れ果てたので、しばらくの間家でゴロゴロしていた。
 ようやく元気を取り戻し占いを再開すると、橋の上を通り過ぎる風が強く鋭くなったのを感じた。数日休んだだけなのに、季節は着実に冬へと近付いているらしい。
(浮浪者のおじさん達はどうしているんだろう。)
 川口駅周辺では沢山の人々が野外生活を送っている。特に夏の間は、上半身裸で街を闊歩したり、色とりどりの花の咲く花壇の中でお昼寝したりするものだから、よく目に付いた。その様子は真夏の太陽を満喫する自由に満ちていて、ちょっとうらやましいくらいだったが、そういう姿ももう見ない。こんな薄ら寒い中、屋根無し・壁無しで暮らすと思うと、さすがに心配になる。
 塚沢冷機工業の倒産が決まった時、パートのおばちゃん達は、
「『一寸先は闇』って言うけど、本当にそうねえ。」
なんてしみじみ話していた。
 しかし私はむしろ、浮浪者のおじさん達とすれ違う度に思い浮かべる、
「明日は我が身」
 という言葉の方が自分に合っている気がした。このまま仕事に就けず貯金も尽きて、親や親戚も頼れなくなったら、私も寒空の下に放り出されるのだ。
(その前に西川口で水商売か。でも気が利かない上に性的魅力は皆無だし、売れっ子になれないだろうな。)
 大金持ちになりたいなんて一度たりとも考えたためしは無いが、やはり先行き不安になるとお金の大切さが身に染みる。雨、風を防ぎ、食って寝て生きてゆくためには、
「お代は一銭もいただきません。」
 とばかり言ってもいられない。
(無闇に強欲になるのは馬鹿馬鹿しいけど、お金の問題を甘く見たら絶対痛い目に遭うと思うんだよね。貯金が底をつく前に何とか手を打たなければ。)
 私には物欲が全く無い。別に無理して欲を捨てた訳でなく、単純に「形ある物」を欲しいと思わないのだ。だから生活必需品以外に金を使う事はほとんど無い。それゆえ特に貯めようと努力してもいないのに、銀行口座の残高が無意味に増えていた。
(食欲も旺盛じゃないし、名誉欲や権力欲なんてどんなものか想像も出来ない。その分恋愛に対する欲が異常に強いんだよねえ。)
 人間には百八つの煩悩があると言う。私の場合そのうち百五個くらいまでが愛欲に関わるものだろう。
 お客の来る気配もなかったから、折りたたみ式の小さな机にほおづえを突いて、今現在自分が何を欲しているのか考えてみた。

 みつあみをほどいて髪を指ですいて欲しい
 ほっぺたや背中を撫でて欲しい
 まぶたに口づけして欲しい
 首筋を唇でなぞって欲しい
 耳たぶを噛んで欲しい
 あるのか無いのか分からないちっちゃなおっぱいを揉んで欲しい
 嘘でも良いから、
「きみ子ちゃんは可愛いね」
 とか、
「大好きだよ」
 とささやいて欲しい
 ……

(我ながら、アホだな。)
 大体私は誰に対してこれらの望みを抱いているのだろう。ともなりさん、という答えが反射的に心に浮かんで、顔を熱くしながらすぐに否定する。だって、あの人は。
(あ〜! 私の中に愛欲と関係のない煩悩はないのか?)

 牛乳が飲みたい

 そう、最近そごうの地下で売っている牛乳に凝っているのだ。小さい瓶で一本二百五十円と失業者には贅沢な品物だが、飲み終えた後、
「プハァー」
 と息を吐いた時に、「牛乳飲んだぞ〜」という香りが体中に充満する感覚がたまらなくて、つい買ってしまう。
(あれを覚えたら他の牛乳はただの『白い水』にしか思えない。優子さんとともなりさんのいるコンビニで買えば安いし、喜んでもらえるのにね。)
 自分では欲の少ない方だと思っていたけれど、
「より美味しい牛乳」
 を求めてしまうという事は、やっぱり人並に貪欲なのだ。
 人間は完全に満足したりしない。何かを手に入れれば、さらに上をゆく何か、を得たいと願ってしまう。きっと真面目な仏教徒なら、
「煩悩があるから人間は救われないんだ。修行を積んで欲深い心を正さなければ。」
 と考えて、座禅を組めだの、托鉢をしろだの、お経を読めだのとうるさく言うだろう。
 でも本当に欲さえ捨てれば幸せになれるのか。例えば私が「百八つの煩悩」から解放されたとしたら、夜中に突然昔の男との悲しい会話を思い出し、のどが痛くなる程大泣きして目を腫らす事もなくなる。それは確かに私を楽にするに違いない。
(うーん、私にとっては「楽」が必ず「楽しい」って訳じゃないもんなあ。苦しみこそ恋愛の最大の醍醐味かもしれないし。自虐的過ぎるかしら。)
 愛欲を失い、牛乳すら飲みたがらない私。そんなの悟りの境地から程遠い、単なる無気力女じゃないか。
(そうなると「虚無」に近付いちゃうんだわ。)
 「欲」だけでなく「無欲」も人間を不幸にするとしたら、救いなんてどこにも無い気がして来る。実際私は昔の男を誰一人幸せに出来なかった。
(私は不幸なのかな?)
 失業している。失恋して散々傷付いた。大勢人を集めて決を採れば、
「沼田きみ子は不幸である。」
 という意見が賛成多数で可決されよう。けれども強がりでなく本心から、私は自分の人生に満足している。
(美人でもないのに三回も恋愛出来たもんね。もしかしたら三回とも私の片思いだったのかもしれないけどさ。)
 あらゆる女性的な魅力を欠いているにも関わらず、三回も真剣に男と愛し合えた。「愛し合う」という表現が的確でないとしたら、

 傷付くのを恐れずに対峙した。
 目をそらさず真っ直ぐに見つめた。
 どうにか相手を幸福にしたくて、無い知恵を絞った。
 心の底から祈った。

 予知能力などより、
「悪い結果しか出ないと知りながらも、臆病風を吹かせたりせず立ち向かう力」
 を授かった事に、私は感謝する。
 誰が何と言おうと、私は幸福だ。
(まあこれだけ好きなように生きてりゃ幸せだよな。)
 今日も橋の上を歩く人々は、不幸の水をシャボリ、シャボリと跳ね上げている。この長く溜まった闇のせいで、川口駅周辺はそこはかとなく暗い。「剣と魔法の世界」の勇者なら、悪を倒し、明るい世界を取り戻そうと、冒険の旅に出る決意をしてしまうくらいに。
「悪はどこにいる!」
 勇者は切符を買うのももどかしく、改札口で剣を抜く。
「駅構内に危険な男がいます。すぐ来て下さい!」
 東口のエスカレーターを降りた所の交番からおまわりさんが駆け付けて、勇者はあっけなくしょっぴかれる。
(そうして川口は誰の目から見ても、垢抜けない街になりました。めでたし、めでたし……なのかあ?)
 何故こんな闇が溜まってしまったのか。この闇は取り除くべきものなのか。
 悪を持たない人間なんていないから、少しずつ垂れ流された闇が積もり積もって不幸の水になる。幸と不幸を簡単に切り離せないのと同じように、善と悪が程好く混じり合ったものが人の魂だ。本気で悪を根絶しようとするならば、人類を滅亡させなければならなくなってしまう。
 闇は人の暮らす所ならどこにでもある。幼い頃から人の心を覗き続けて、私はその闇をすっかり好きになった。でもだからと言って、
「へっへっへ、闇深き人間どもめ。どんどん不幸になってしまえ〜」
 と人々の苦しみに喜びを見出す訳ではない。例えば、浮浪者のおじさん達は今頃、地下道に並べたダンボールの中で重たい空気を吸っている。さぞ息苦しかろうに、その様子を楽しんだり出来るものか。
 しかしながら、私は彼らを助けられない。ここで世知辛い世の中を憎み、自分の無力さを嘆くのは簡単だ。そうする代わりに、私は小さな一歩を踏み出そうと考える。
 まず自分を幸福にする。それから隣の人を幸福にしようと努力する。そして橋の上を歩く人々の迷いを占いで解決する。
 偽善と言われれば吹き飛んでしまうような情けない行いだけれど、めぐりめぐって浮浪者のおじさん達にも恵みがもたらされるかもしれない。
 闇を愛そう。闇を持つ人々の幸福を願おう。
「あ〜、いた、いた。お嬢ちゃん!」
「こんばんはー。寒くなりましたねえ。」
「もう二度と会えないかと思ったよ。」
 声をかけてくれたのはこの間のパチンコおばちゃんだった。今日はそごうの紙袋ではなく、スーパーのビニール袋をいくつもぶら下げている。
「もしかして何度かここに来ました?」
「買い物のついでだけどね、『いるかなー?』って毎日見てたよ。」
「それはすみませんでした。しばらく休んでいたんですよ。」
「いやあ、別に急な用事じゃないし。」
 おばちゃんは銀歯を光らせて笑った。
「そうそう、パチンコはどうでした?」
「それがさあ〜」
 おばちゃんは嬉しいのか恥ずかしいのか、ニヤニヤしてなかなか語を継がない。私は少々緊張しながら、冷たい風で赤みを帯びたおばちゃんのほっぺたを眺めて、次の言葉を待った。
「絶対やるな、って言われた日によ、我慢し切れなくてパチンコ屋に行っちゃったんだ。」
「あれまあ。」
「そしたらお嬢ちゃんとの約束破ったバチが当たって三万円取られちゃったよ。」
 そうなるのは予想済みだったので、私は苦笑いしてうなずいた。
「だから次の日は、お嬢ちゃんの言った通り小さい方のパチンコ屋に行ってみたんだ。」
「どうでした?」
「うん、三万ちょっと勝ったよ。でね……」
 おばちゃんは突如私の右手をつかみ、何やら冷たいものを私に握らせた。おばちゃんの指は古い松の枝みたいに堅くざらざらしていて、その感触にびっくりしてしまった。
「これを渡そうと思って、探していたんだ。」
 ゆっくりてのひらを開くと、金色の五百円硬貨が街灯の光を受け、やわらかく輝いていた。
「えっ、お金は受け取れません!」
「お嬢ちゃんのおかげでちいっと得したもんね。本当は勝った分全部あげたいんだけど、夕御飯のおかず買ったりしなきゃいけないから、ごめんねえ。」
「最初にお代はいりません、って言いましたし。」
 私が五百円硬貨を無理に返そうとしても、おばちゃんは激しく首を振る。
「でも……」
「じゃあ、こうしよう。このお金は、お嬢ちゃんじゃなくて、お嬢ちゃんの後ろにいる人へのおさい銭だ。」
「後ろ?」
 ここは橋の端っこだ。振り返っても頑丈な柵とビルしか見えない。変なの、と思いながら元の向きに体を戻すと、おばちゃんは背筋をピンと伸ばして目をつむり、合掌していた。
 駅前に集まる車の騒音、家路を急ぐ人々の足音、路上ミュージシャンの奏でる音楽。そういった全ての音がどこかに吸い込まれ、おばちゃんの周りにだけ、しんと静かな空気が漂う。私の口も声の出し方を忘れたように動かなくなった。
 おばちゃんは手を合わせたままゆるゆるとお辞儀した。私も座ったまま深々と頭を下げた。
(仏様?)
 街の雑多な物音がようやく耳に戻って来た時、おばちゃんはすでに私のそばを離れ、遠くからこちらを見ていた。
「ありがとうございます!」
 五百円硬貨を高くかかげ心の中でそう叫ぶと、おばちゃんはもう一度あのニヤニヤ笑いを浮かべてから、駅の方に消えていった。
(稼いじゃった、稼いじゃったぞ!)
 占いで稼いだ初めてのお金を指でつまみ、わざと街灯の光を反射させた。気分的なものも手伝って、妙にまぶしく感じられる。
(どうしよう、これも失業認定日に報告しなきゃいけないのかなあ。)
 怖いのは職安でなく大賢者大森賢五郎だ。そう度々あんなのに出て来られちゃたまったもんじゃない。私はふと、図書館で文春の話をした際、ともなりさんに、
「たまには買ってね。」
 と言われたのを思い出した。
(決ーめた! コンビニで証拠隠滅だ。)
 私はそそくさと店を畳んでコンビニに向かった。この時間、レジに立っているのはともなりさんのはずだ。
(とっもなりさん! とっもなりさん! とっもなり……)
 心の中の歌声はコンビニに着いた途端、消え去った。ガラスを透かして店内を覗くと、優子さんが泣きそうな顔で店番をしていたから。
 あそこでレジを打つのは、ともなりさんのはず、なのに。
 気配が操作されている。もっと簡単に言えば、
「魔法がかかってる」
 大賢者大森賢五郎の手紙と一緒だ。
「優子さん!」
「占い師さん……」
 私の姿を見て気が緩んだのか、優子さんの大きな瞳いっぱいに涙がたまった。
「ともなりさんは?」
 優子さんは唇を震わせて、首をふるふると横に振った。
「こんな暗くなっても働いているなんておかしいじゃない。昼間だけって約束で始めたんでしょう?」
「そうなんだけど……断れなくて。もうじき店長が来るの。そうしたら上がれると思うから、ねえ占い師さん、この間のお店で待ってて。話を聞いて欲しいの。」
「一体何がどうしたの。」
 優子さんと同じくらい、いや、それ以上に、私も混乱していた。事情が全く分からない。見ようとすればする程見えなくなる。与えられるのは、無。
 優子さんはその場の高ぶった空気を鎮めるように、大きく息をして、言った。
「ともなりさんが、いなくなっちゃったの。」

 ああ、まだ何もしてないよ。
 強く、強く、予感していたのに。

 こんなに早くこの日が来てしまうとは。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:49| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする

大賢者大森賢五郎(その9)

九、探しものは私の街で川口で

 言われた通りこの間のスパゲッティ屋に入って待っていたが、優子さんはなかなか現れなかった。氷入りの冷たい水をがぶ飲みしながらあれこれ考えてみても、ともなりさんの消息にかけられた魔法は強力で何も見えず、ただ不安が増すばかりだった。
(予知能力のない普通の人はいっつもこんな風に暗闇の中にいるのか。みんなよく耐えているなあ。偉いなあ。)
 結局、洗い方を間違えた洋服のようにヨレヨレになった優子さんが店に入って来たのは、時間をつぶすために頼んだイカ墨のスパゲッティを全て食べ終わった後だった。
「つ、疲れた……。ちょっと占い師さん、こんな一大事だというのに、何、のん気に口を黒くしているの!」
「ごめん。でも何も注文しない訳にいかなかったから。」
 優子さんは疲労と空腹でイライラしていた。触らぬ神にたたりなし、と、優子さんの食事が終わるまで事件の核心に迫るような会話は一切避けた。
(余裕がなくなると随分きつくなるんだな。完全にささくれ立っているよ。)
「ごちそうさま。」
 ナプキンで口をぬぐうと、優子さんはすっかり落ち着いたらしく、目をとろんとさせた。何も聞けないうちに眠られては困るので、慌てて尋ねた。
「で、ともなりさんの事なんだけど。」
「ああっ、忘れてた。」
 人の事は怒鳴っておいて忘れないでよ、と思いつつ、優子さんの持っている情報は全て手に入れたかったから、表情を変えないで静かにうなずいた。
「おとといの夜にね、私のケータイにともなりさんが電話をかけて来たの。
『しばらく店を休みたい。店長にはうまく言っておいて欲しい。』
って。」
「うん、それで?」
「それだけ。」
「……。」
 私は優子さんの大きな瞳をじっと見つめた。優子さんはまた泣き出しそうな顔になって、私を見た。
「それって、単にコンビニを休みたかっただけなんじゃないの?『いなくなった』と言い切る根拠が分からないな。」
 違う、違う! と言うようにぶんぶん首を横に振って、優子さんは続けた。
「だってともなりさん、今まで一度も仕事を休んだりしなかったんだよ!」
「誰にだって『初めて』はあるでしょう。」
「休む理由を言わなかったし。」
「言いづらい理由なのかもしれないじゃない。」
「店長に直接連絡しなかった。」
「自分だって店長に直接物を言うの嫌いなくせに。」
「……。」
 優子さんはしばし無言になり、つんと横を向いた。と同時に、
「もうテメエには頼まねーよ、ボケ!」
 という恐ろしい心の声が聞こえて来た。
「ご、ごめん。確かに私もちょっと奇妙に感じているのよ。」
 単に休みたいだけなら、こんな強力な魔法で私の目をくらませる必要はない。
「ただそのケータイへの電話一本で失踪と決め付けて良いものかと思ってね。」
 ちらり、とこちらに向けられた優子さんの目が、
「そう簡単には許さないわよ。」
 と言うように冷たく光った。
「勘が鋭いのは占い師さんだけじゃないんだからねっ。私もピンと来たの!」
 そんな怖い顔で言い切られちゃ、取り付く島もない。ただ黙っているのも気詰まりだったから、冷たい水でそっとぶくぶくうがいをした。
(イカ墨取れたかしら。……何でこんなに叱られているんだろ。)
 優子さんはしばらくの間、警戒する猫のような雰囲気を醸し出していたが、急にぷつんと糸が切れたように、大粒の涙を流した。
「ともなりさんがいなくなっちゃったら私、なんにも出来ない。」
 震える声でそう叫ぶと、恋人に捨てられる直前の女(もしくは男)のように、しゃくり上げて泣き始めた。
(ともなりさんが心配なんじゃなくて、要は自分が困っているからどうにかしろって言いたいのね。)
 実の所、たとえともなりさんが本当に失踪したとしても、私に探す権利なんてない気がしていた。独りぼっちの人間は、寂しさに耐える義務を負う代わりに、勝手にいなくなる自由を与えられるのではなかろうか。きっと何かしらの理由があって、それを行動に移したのだろう。恋人でもなく、孤独を癒す自信もない私に、止める資格はない。
 けれども優子さんに依頼された仕事だと考えれば、かえってやりやすくなる。
 そう、これは「商売」なのだ。
 未練たらしい女が無様にあとを追うのではなく。
「優子さん、川口市の地図を用意出来るかしら。なるたけ新しくて詳しいのが良いな。」
「この辺りの地図? 家にあったかもしれない。取って来るね!」
 優子さんを待っている間、一つの風景が心に浮かんで離れなかった。うそ臭い鮮やかな空色を背景にし、独りぼっちで立っている巨大な建物。新宿駅西口の高層ビルを一本だけ引き抜いて、住宅地に植え替えたような違和感。
(人が住んでる。ええっ、これがマンション?)
 そうだ、エルザタワーだ。数年前、川口駅東口からバスで十分程の所に建設された、五十五階建ての高層マンション。薄紫色に淡くかすんだてっぺんが、遠くからでもよく見える。不動産好きの伯父が、特に必要でもないのに一部屋欲しいと言い出して、夫婦喧嘩になったのを思い出した。
(何だろう。ともなりさんがここにいるのかしら。)
「持って来たよ!」
「ありがとう。」
 優子さんに手渡された地図には、細かい町名だけでなく、町会の名前まで載っていた。
「ねえ、ともなりさんの住んでいる場所、知ってる?」
「詳しくは分からないけど、エルザタワーのそばだって言ってたよ。」
 やっぱり。では単にともなりさんは仕事をサボり家で休んでいるのか。
「電話番号は?」
「ともなりさんち、電話無いんだって。ケータイも持ってないし、変わってるよねえ。」
 二人っきりのひっそりとした暮らしに、電話なんていらなかったのだ、きっと。
 地図の裏に印刷されている川口駅周辺の航空写真や市長の顔を眺めた後、エルザタワーの位置を確認した。
(あった、エルザタワーの自治会。その隣の町会は元郷二丁目、元郷四丁目……うーん、ともなりさんの暮らしている気配は感じないなあ。)
「ねえ、ともなりさんは今、どこにいるの? 家?」
「なんか違う気がするんだよねー。」
 その時、心の奥の方で音が聞こえた。何? 波の音? ばーちゃんちの竹の葉の音?
 ああ、そうじゃない。向こうに水が流れている。これは川べりに生える雑草を揺らす風の音だ。大きな川……川口と東京を隔てている荒川か。ともなりさんの家はこの近く……
「あれ?」
 おかしい。エルザタワーから荒川を見たとしたら、川口駅の気配を右手に感じるはずだ。
「ねえ、本当にともなりさんは元郷の辺りに住んでいるの?」
 優子さんは首を傾げて、寂しそうに微笑んだ。
「正確な住所は教えてもらえなかったんだ。」
「そうなんだ……。前に私にも東口側に住んでいるって話をしていたけど、どうも西口側のような気がするのよ。」
「何で?」
「なーんかこう、荒川を目の前にすると、駅が左にあるなー、って感じだから。」
「……。」
「相変わらず感覚的過ぎて心配だ、って今思ったでしょ。」
 優子さんは心を読まれた事を怒りもせず、呆れ顔でうなずいた。
 私は地図上のエルザタワーを指でつついた後、西口側の荒川沿いを指でなぞった。
(横曽根図書館の近くだ。ともなりさん、何で嘘なんかついたんだろ。)
「さーて、探しに行ってみる?」
「ごめん、私は……。」
 やっぱりね。猫が見つかったとはいえ、まだ気軽に出掛けられる精神状態ではない。しかも今は夜だ。要望を出すだけ出して「後はよろしく」なんて、お客さんというのは良い身分だよなあ、とちょっぴり思いもしたが、すぐに打ち消してにっこり笑ってみせた。
「任しておいて。きっとともなりさんを見つけ出してみせるわ。」
「頑張ってね、占い師さん。」
 私は深くうなずいた。
(見つけ出すだけならね。その後は保証出来ないや。)

 折りたたみ式とはいえ机と椅子を持って冒険の旅に出るのは嫌だったから、一度自分のアパートに帰って来た。
(悪者が現れると困るもんね、しっかり武装しなくっちゃ!)
 まず座布団代わりに使っていた防災ずきんのほこりを払い、頭にかぶった。
(ケホ。ちょっとカビ臭いけど身を守るには十分ね。これ、小学生の頃に使っていた奴だよ! 物持ち良いんだなあ、私って。)
 次に押し入れの奥から綿入れ半てんを出して羽織った。そして胸元に、昔の男がくれた三通の手紙を忍ばせた。
(みんな一通ずつしかくれなかったんだよね。)
 「最初の彼氏」の手紙には、傷付けても傷付けても再びそばに戻って来る私を見ているのがどれだけ辛いかが語られている。
 「二番目の彼氏」の手紙は、彼の機嫌が非常に良い時に書かれたらしく、
「マイ スイート ハニー きみ子ちゃんへ」
 で始まっている。
 「三番目の彼氏」の手紙には文学青年らしい人間や世界への苦悩がにじむ。
「あなたさえ幸福になってくれれば、僕はどうなっても構わないんだ。」
 全部、私の宝物だ。どんな強力なお守りより、私の心を支えてくれる。
 さあ行こう。剣も鉄砲も持たずに。
 私の武器はこのちっぽけで奇妙な力だけ。

 私は自転車に飛び乗り、夜の川口をひた走った。京浜東北線の陸橋を越え、川口駅西口から線路沿いを西川口方向に向かって行く。薄っぺらいマンションを右手に見て寂れた商店街に入ると、街灯にぶら下がる赤い旗が光に照らされぼんやりと浮き上がり、熱いはずの体がゾクリと冷えた。
(あー、良かった。夜だから動いてないのね。)
 甘い香りのしないお菓子工場は難なく通過。その先のお稲荷さんも素早く通り過ぎるつもりでいたが、気が変わって自転車を急停止させた。
(さっきの五百円、ここで使おう!)
 昼間ですら異界の雰囲気を漂わせる強い力を持ったお稲荷さんであるから、夜ともなるとさらに近寄りがたくなる。けれども嫌悪や恐怖とは全く違う、おごそかで温かな何か、があるのも確かだった。ちょうどこの世とあの世のはざまを感じさせる、ばーちゃんの寝顔みたいな。
 石の狐の間にあるさい銭箱に五百円玉を投げ入れ手を合わせる。
(ともなりさんが見つかりますように。)
 いや、見つかる事は分かっている。でもその後どうするのか。全てを見てしまわないように心を閉じようとすると、胸の辺りがもやもやして眉間にしわが寄る。
(とにかく進まなくっちゃ。)
 鋳物工場、銭湯、駄菓子屋。それぞれが昭和三十年代の闇をまとったまま、私を見送ってくれる。何故だろう、こんなに真っ暗なのに、ちっとも怖くない。誰かが私の背中を押している。ばーちゃん? お稲荷さん? 神様? 仏様?
 それとも昔の男達?
(横曽根図書館……本早く返さなきゃなー。督促状来ちゃうよ。)
 すっかり活動を停止して、すやすや眠っているみたいなコンクリートの建物を前に、私は再び決意する。
 ここから、荒川に向かっていこう。
 頭の中を大量の水が流れていく。聞こえるはずのない草のざわざわ、パイプオルガン、笛、太鼓。耳が音に支配されて。
(あれ?)
 こんな道、前来た時にあったっけ? 右側にはエルザタワーを思わせる超高層マンション。左側にはこれまた巨大な鉄工所。
(瞬間移動しちゃったかな。しかもこの世じゃない場所に。)
 限りなく続くかに見える真っ直ぐな道。見上げればマンションの壁も夜空に向かって果てがない。昔の男達からの手紙の入った胸元をぎゅっと押さえて心細さを払い、自転車を漕ぐ。鉄工所の青い柵越しに、鉄パイプがごろごろと転がっているのが見える。何に使うのかやたらに太くて、直径が私の身長程もある。
 鉄パイプも道もマンションもしんと静かなのに、私の頭の中の音はいよいよ大きく響く。見えるもの、聞こえるもの、全て幻なのか。それともこちらが本物なのか。
「家だ……。」
 鉄工所を囲っている高い塀の向こうに、小さな木造の平屋が建っていた。大賢者大森賢五郎と会った場所に似ていたが、赤いつる薔薇の代わりに白い木蓮の花に包まれている。
(この花、春に咲くんじゃなかったっけ。)
 なめらかで大きな花びらが、はらり、はらりと目の前を落ちていった。
 夢だろうと現だろうと構わない。私は木蓮の門をくぐり、ちゃちな作りの戸を開けた。
「えっ。」
 そこは、まぎれもない、私の住むアパートの部屋だった。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:47| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする

大賢者大森賢五郎(その10)

十、大予言者沼田きみ子

「何で自分の家に戻っちゃうわけ?」
 その時、電話が鳴った。私は他人の家に勝手に上がるような奇妙な感覚を味わいながら、見慣れた受話器を手に取った。
「あははははははは!」
 とっさに耳を離す程の大声。
「名を名乗れ!」
 そう叫んでも、相手はまだ笑っている。仕方がないので、笑いが収まるまで口を利かずに待った。
「僕が誰だか、分かってるくせに。」
「電話をかける時は自分から名前を言うもんでしょ。」
「だって沼田さん、何でそんな格好しているの? 防災ずきんなんて大袈裟だよ! 空襲警報でも鳴った?」
 それだけ言うと、先程よりも大きな声で再び笑い始めた。
(確かに恐ろしい目に遭わないって予知していたんだから、普通の服でも良かったのよね。でも何事も形が大事だし。それに……)
「大賢者大森賢五郎に油断するなって忠告されたから、私なりに武装したんだけど。」
「そっか、そうだよね。ごめん。」
「別に謝らなくても良いよ。」
「夜道を一人で歩かせちゃったね。僕みたいな人間を探しに来てくれてありがとう。」
 その瞬間、図書館で借りた本を見せ合った時に感じた強い雑音のようなものが、頭の中に響いた。そして今度はその意味が、はっきりと理解出来た。

 僕の心の中を覗いて。
 僕の心に入って来て。

 そこは小さな事務所だった。白い大きなテーブルを挟んでスーツ姿の男性二人が、静かに話し合っている。
 この部屋の調度品はどれも、良く言えばシンプル、悪く言えば全く特徴がない。ここから出て行った途端に、そこがどんな場所であったかすっかり忘れてしまうくらいに。けれども決して、それらが安っぽい品だという訳ではない。部屋の隅々まで均質な光で照らす照明器具を始め、一切の乱れなくファイルの並ぶ書棚なども、専門業者から仕入れた高級品である事が一目で分かる。
 落ち着いた色のカーペットは真新しく毛が起きていて、足元がフワフワする。私はテーブルでの話し合いに差し障りのないよう、小声で電話をかける。私が着ているのは淡いピンクのツーピース。胸元には服と同じ生地で作った花飾り……
「もしもし?」
「『もしもし』をビジネスシーンで使っちゃいけないよ、沼田さん。『大変お待たせいたしました。』とかさ、もっと丁寧な対応を心がけなきゃ。」
「どうせ私はダメ事務員だったわよ。それより何なの、これは。」
「話し合っている二人をよく見てごらん。」
 片方は恰幅の良い中年男性で、毎日お肉を食べてます、と言わんばかりに浅黒い顔がテカテカしている。
「ねえ、あれ、塚沢冷機工業の社長じゃないの。」
「もう一人は?」
 書類を広げて社長に何やら説明している、背の高い若い男。顔も服装も非の打ち所なく整っていて、この部屋に似た印象を持つ。
「わーっ! ともなりさんだっ。スーツ着ると一段とすてきになるわねえ。」
「ありがとう。そう率直に誉められると照れちゃうな。でも、あの姿も商売道具だったからね。」
「何をしているの?」
「見ての通り、仕事をしているんだよ。」
「じゃあここは。」
「そう、僕の過去。」
 私にあばいてもらいたいに違いない、なんて考えたのを思い出して、おでことほっぺたが熱くなった。
「分かりやすい仕事じゃないみたいね。そば屋とか魚屋なら過去に来るだけで判断付くのに。」
「得意技を使いなよ。」
「社長の頭の中には……右肩上がりのグラフが見える。」
「僕の方は?」
「えーっと、なーんにも見えない。随分強固な壁を築くんだね。」
「たとえ相手に超能力が無くても、少しでもスキを見せれば勘付かれるものだよ。疑いを持たれたらおしまいだ。」
「つまり、本心を知られてはいけない職業。」
 社長はともなりさんを信じ切って、甘い夢を見ている様子。穏やかな口調で説明を続けるともなりさんはあくまでさわやかだ。
「おじさん専門の結婚詐欺師だったら嫌だなあ。」
「結婚詐欺師からどうしても離れられないんだね。言ったでしょ、世の中を動かしているのは愛欲だけじゃないって。」
「うーん、そりゃあいつも人の心の中を覗いているから、他にも色んな種類の欲があるのは知っているよ。他人をけなして自分を上に見せたい欲、あとは愛と関係ない純粋な性欲とかさ。でも実感が伴なわないから、知識としてしか理解出来ないんだもん。」
「沼田さんには無理かな。」
「うん! お手上げ。」
「諦めの良過ぎる人だ……。まあ仕方ない。僕の仕事はね、自分の置かれた状況に不満を抱いている人を探す所から始まるんだ。」
 俺はこんな所にいるべき人間じゃない。もっと別の、自分に相応しい場所があるはずだ。叔父や最初の彼氏、その他にも沢山の人の心から、そんな言葉を聞いた気がする。
「塚沢冷機工業の社長も、会社の経営をしているだけでは満足出来なかったのかしら。」
「経営者である事は誇りにしていたよ。ただ、ちょっぴり客観性に欠けていたのかな。」
「きゃっかん?」
「十の実力しかないのに、百の仕事が出来ると信じている人。百万円しか持っていないのに、一千万円使えるような気になっている人。そういう人達はどこにでもいる。そして彼も、その中の一人だったんだよ。」
「あっ、社長が帰っていく。何、ニヤニヤしているのかしら。もうじき会社がつぶれるっていうのに……。」
 ようやく、ひらめいた。
 いや、もしかしたら、私の鈍さにうんざりしたともなりさんが、正しい答えを頭の中に送り込んだのかもしれない。
「あなたが、塚沢冷機工業をつぶしたの? 何で、どうやって。」
 応答が無い。電話の向こう側の気配が消えた。と同時に、塚沢冷機工業の社長への別れのあいさつを終えたスーツ姿のともなりさんが、すっと振り返り私の顔を真っ直ぐ見つめた。
「仕事というのはそういうものだと思い込んでいたんだよ。欲深い人間を見つけ出し、虎の皮をかぶせて、もう一人の欲深い人間と出会わせる。つぶすのが目的だった訳じゃない。必然的につぶれてしまうだけだ。」
 私は今まで、塚沢冷機工業が倒産した理由なんて考えてもみなかった。社長の独断で始めた新規事業が、儲けも出さずに立ち行かなくなって、本業を圧迫しているという噂は聞いた。けれど下っぱ事務員にとって真実は闇の中だったし、能力を使って追究するのも無駄な気がした。会社なんてつぶれてしまえば皆一緒だと思っていたから。
「ともなりさんが社長をそそのかしたんだ。変な仕事に手を出すように。」
「僕が直接仕事を教えた訳じゃないよ。僕は紹介しただけ。十の実力しかない人に、十の実力しかない人をね。お互いに百の実力があると思い込ませるため、いかに上辺を取りつくろうかが僕の腕の見せ所。借金や過去の失敗を隠したり、今までの実績を大袈裟に伝えたり、まあ簡単に言えば、」
「詐欺師ね。」
「そう。みんな相手を平気でだましておきながら、自分がだまされている事には気付かないんだ。面白いくらいに。」
 カラカラと乾いた笑い声。誰を笑っているのか。
「その仕事、儲かるの?」
「新しい商売を始める時は気が大きくなるからね。紹介料をはずんでくれる。」
「はずんでくれなかったら脅迫するんでしょう。『本当の事をばらすぞ』って。」
 沼田さんらしいなあ、と言いながらともなりさんはクスクス笑った。
「僕はもっと婉曲な表現を使って品良くやるよ。」
「余計に悪徳!」
 笑ってくれるかと思ったら、ともなりさんは瞳をしんと静かに暗くして、唇を閉じた。
「ご、ごめん。責めるつもりなんて無かったの。塚沢冷機工業の社長なんて大して好きじゃなかったしさ、強欲な人間が損をするのは自業自得だもん。確かに倒産でつらい思いをした人は沢山いたけど、きっと今頃は新天地で楽しくやってるよ。私は最初から知ってて入社……。」
「悪い仕事だなんて、一度も思わなかったんだ。むしろ良い行いをしているつもりだった。こうやって罰を与える事で、人間から欲という欲が消え去れば、素晴らしい世の中になる。そう信じてた。」
 足元に、墨色の水が溜まっていく。天を仰げば、いつか見た濃いスミレ色の空。
 大丈夫、今度こそ虚無に負けたりしない。
「それに、お金も必要な気がしていたんだ。僕はいつもおばあさんが心配でね、もしも寝たきりになったり、痴呆になったとしても、みじめな思いをさせたくなかった。だから入金の度、半分はおばあさんに渡して、残りは全額貯金していた。無駄使いなんてしなかったよ。欲しい物なんて無かったから。」
 この人も私と同じように、物欲が無いんだ。初めておしゃべりした時すぐに親しみを感じたのは、欲に関して似た所があったせいかもしれない。けれど私みたいにアホらしい程の愛欲があるとも思えないし、一体何を楽しみにして生きているのか。
「おばあさんだよ。」
「えっ。」
 あっさりと心を読み取られた事よりも、一つの迷いもなく即座にそう答えた事に驚いた。
「おばあさんさえ幸せでいてくれたら、それで良かった。」
「でもおばあさんは死んじゃったんでしょう?」
「そうだ。長患いもせず、まるで最初からいなかったかのごとく静かに、向こう側へ行ってしまったよ。僕はおばあさんに何も与えられなかった。」
「お給料の半分渡していたのだって偉いよ。私も妹もいまだに親の世話になるけど、お金なんて一銭も出してないもん。せいぜいパンをみやげにするくらいでさ。」
 スーツ姿のともなりさんは、声を立てずにぼんやり笑った。
「納骨が済んだ後、おばあさんの引出しを整理していたら、僕名義の銀行通帳が見つかったんだ。」
 私には見えた。「お預り金額」の欄に綺麗に並ぶ数字の列。爆発的に増えていく残高。「お支払金額」の欄に数字が記入される事は決してない。
「全部使わずに貯金しておいてくれたの。優しいおばあさんだね。」
「優しい? 確かに優しい人だったよ。でも僕は悲しかった。」
「どうして。」
「僕なんて必要なかったと気付いたから。」
「そんな訳無いじゃない! 人が人を頼るのって、経済的な面だけじゃないでしょう。立派な孫がそばにいてくれて、心強かったはずだよ。」
「立派? 詐欺師が?」
「ま、まあ……。職業に貴賎は無いわよ、多分。」
「おばあさんはつましい年金暮らしの中で充足していた。僕はあの時、責められたような気がしたんだ。
『お前がやって来たのは、通帳に数字を並べる終わりのないゲームでしかないんだよ。』
ってね。」
 水かさを増した「虚無の湖」はくるぶしを飲み込んで、ぴしゃり、ぴしゃりとすねを舐める。
 何か言ってあげたいのに、言葉が出て来ない。
「それからしばらく、生きているのか死んでいるのか分からない暮らしをしていた。息をしている、というだけ。紹介の仕事を再開する気なんてさらさら起きなかった。」
「コンビニのバイトは何で始めたの?」
「特に理由はないよ。偶然求人を見かけて、深い考えも無く応募した。ただ、『このままではいけない』という気持ちが膨らんでいたのはのは確かだ。」
 小さな希望のようなもの。おそらく優子さんも同じ思いで働き始めたのではないか。
「時給の安さには驚いたけど、僕はコンビニで沢山の事を学んだよ。お客さんは急に入り用になった品物や、食べたい物を買いに来る。」
「当たり前じゃない。コンビニエンスなストアなんだから。」
「もちろんコンビニがどんな場所かは僕だって知っていたよ。僕が見失いつつあったのは……沼田さんには想像出来ないかもしれないな。生活必需品を買う以外のお金の使いみちなんて。」
「男に貢ぐ。デート代。」
 やっぱり、という風にともなりさんは苦笑した。
「僕の手管に引っかかる連中が欲しているのは、見栄を張るための金、威張るための金、競争相手に勝つための金。そんなものばかり扱っていたせいで、僕のお金に対する感覚はいつの間にか狂っていた。必要な物を必要な時に買う『当たり前』なお金の使い方、つまりお金の本来の姿を、僕はコンビニで働いてようやく思い出したんだ。」
「ふうん。」
「気の無い返事だなあ。」
「だってよく理解出来ないんだもん。」
「そこに沼田さんの存在価値があるんだけどね。」
 ふふふと笑うともなりさんは、誉めているのか、けなしているのか。ちょっぴり悔しかったので、振りしぼるように考えてみた。愛すべきダメ男達を頭に思い浮かべながら。
「本当の自分と、理想的な自分の間に空いた隙間を、そのお金で埋めようとするのかしら。」
「うん、きっとそうだ。僕はいつもそういう人間の愚かしさを軽蔑して、利用して来た。利用しているつもりだった。けれど虚しさの果てに思い至ったよ。間違っているのは僕の方なんじゃないだろうか、って。」
「誰が正しくて、誰が間違ってるかなんて、誰にも決められない。神様も仏様も。」
「そうなのかな。」
 何でも良いからともなりさんを励ましたかった。虚無に飲み込まれるのを食い止められるもの、それだけが、私にとっての善だった。だから私は大声で。
「愚かしくて、悲しくて、可愛いよ。人間は。」

「……あれっ?」
 そこは私の部屋だった。ともなりさんの姿はない。電話本体から外れてぶら下がる受話器を耳に当てると、「ツー」という無機質な音が終わりなく鳴り続けていた。
(ここは本物の自分の部屋? それともともなりさんを探しに来て辿り着いた幻の家の中なのかしら。)
 淡いピンクのツーピースが、夢ではない事を証明している。防災ずきんと綿入れ半てん、昔の男がくれた三通の手紙はどこへ行ったのやら。
(詐欺師なんてロクなもんじゃないわね。奇術師の間違いなんじゃないの。)
 一人でぼんやりしていても埒が明かないので、扉を開けて外に出てみた。すると、はらり、はらりと私の髪を撫でながら落ちていく木蓮の花びらが、「まだ時空はねじれたままですよ。」と優しく教えてくれた。
(ともなりさん、いなくなっちゃったのかな。)
 無性に胸が苦しくなって、涙がこぼれた。どれだけ一生懸命になっても、みんな私を置いて遠くに行ってしまう。離れていってしまう。本当は一人で生きていくのが怖くて仕方ないのに。幸福な思い出と不幸な思い出が一緒くたにわっと心へ押し寄せて来て、螺旋階段を転げ落ちるように理性を失い私は泣いた。
 何故傷付くと知りながら愚かな行為を繰り返すのか。何故私は「私」という存在と一生を共にしなければならないのか。何故私は安心感を手に入れられないのか。何故……
「沼田さん、泣いてるの?」
 涙で顔をグシャグシャにし、鼻をたらしたまま振り向くと、そこには普段着姿のともなりさんが立っていた。
「な、何よ! まだいたの?」
「『まだ』はひどいなあ……。予知能力使ってよ。」
「混乱させたのはともなりさんじゃないかっ。」
 差し出されたポケットティッシュで鼻をかんでも、涙腺に勢いがついてしまったのか、なかなか泣き止む事が出来ない。登園を嫌がる幼稚園児みたいにしゃくり上げる私に向かって、ともなりさんはすまなそうにつぶやいた。
「今の沼田さんを見ながらこれを言うのは辛いけど、ごめん。僕はもうここから発つつもりなんだ。」
「知ってたよ。」
「じゃあ何でこんなに泣いたの。」
「自分から逃げる方法はどこにもないのかな、って思ったら急に悲しくなっちゃったのよ。でももう大丈夫。平気。」
 まぶたの重たさを我慢して、にっこり笑ってみせた。
「逃げる事は出来なくても、向き合う事は出来る。そう考えて、僕は旅立つんだ。」
「自分を見つめ直すくらい、ここにいてもやれるんじゃないの?」
 無駄と分かっていても、つい未練たらしく引き留めてしまう。
「優子さんの世話を焼いたり、沼田さんの行く先々に出没したり、用事が多過ぎて雑念が払えないもんでね。」
「私に近付いた理由って……。」
 全て偶然などではなく、ともなりさんが仕組んだ「必然」であるのは最初から分かっていた。けれど私が不安だったのは。
「僕がいなくなった後、独りぼっちになる優子さんの相談相手にぴったりだと思ったから!」
「やっぱり。」
 あからさまにがっかりする私に向かってともなりさんは、待ってましたとばかりに優しい声で告げた。
「でもそれだけじゃない。駅前でぼんやり座っている沼田さん初めて見た時、強い衝撃を受けてね。」
「衝撃?」
 ただ過去の思い出に浸っていただけだと思うのだが。
「昔の彼氏達との愛欲の日々、ぜーんぶ見ちゃったから。」
「ひぇ〜。そうだよね、同じ能力があれば簡単に出来るはずだもん。」
 男の面影を追って生きているのを恥じるつもりはさらさらないが、心の中を丸々見られてしまうと、さすがに決まり悪い。ともなりさんは私の複雑な気持ちになんて全然気付かない振りをして、さわやかに続けた。
「沼田さんは本当に過去を誇りに思っているんだね。」
「だって、真剣に愛したもの。裸見られたってやましい所は一つも無いわよ。」
「僕はいつも迷ってばかりいるから、とてもうらやましかった。それで絶対、この人と仲良くなってやろうって決めたんだ。」
 愛の告白を受けたようにドキドキした。顔が熱い。
「ついでに旅に出る決意もしちゃったんでしょ?」
「うん。」
「どうも上手く利用された気がするなあ……。」
 ともなりさんは茶目っ気たっぷりに微笑んだ後、すぐにすっと笑みを消し、呪文を唱えるようにおごそかな声を響かせた。
「川口駅東口から東に向かって進むバスに乗り、十三個目の停留所で降りてしばらく歩くと、そこに深い森がある。」
 私にはその森が見えた。こずえを揺らして飛び回る小鳥の羽音。太陽の光に透ける葉の緑。私を育てた愛しいゆりかご。
「ねえ、それ、ばーちゃんちの雑木林でしょ。『あんぎょう』の近くだから今でも植木屋は多いけどさ、高速道路が通ってから住宅が増えちゃって、もう森や林なんてほとんど残ってないわよ。畑と小川はつぶされて病院が建っちゃったし。それに……」
 太い切り株のあった細い道もアスファルトで舗装されて、今では車がビュンビュン通っている、と続けるつもりだった私をさえぎり、確信に満ちた調子でともなりさんは言い切った。
「そこに入り口があるんだ。」
 ともなりさんは虚無の湖に小舟を浮かべ、いずこかに漕ぎ出ようとしている。たどり着くべき岸辺があるのかさえ分からないのに。
 ここは相変わらず永遠の夜に包まれている。水面が虹色にきらめく朝など、一生出会えないのかもしれない。
 しかし音もなく打ち寄せる虚無の波を見つめているだけでは、何も得られない。
「仏様みたいに修行するの? その中で。」
「まあそんな所だね。」
 きっと大丈夫。ともなりさんの舟は頑丈な造りをしているから。
「ところで沼田さん、この間渡したハーゲンダッツのアイスクリームはどうした?」
「食べたわよ。」
「えーっ!」
「捨てるのはもったいないし、冷凍庫に置いといても邪魔だからね。」
「甘い物嫌いなんでしょう?」
「やっぱり知ってて買って来たのね。」
「出掛ける前にもらおうと思ってたのに。」
「そういう魂胆だったか。」
 お前も甘党だな、ともなりさん。
「うーん、残念。」
「あっ、アイスの代わりに良い物があるよ。」
 私は木蓮の門の奥に戻り自分の部屋の冷蔵庫を開けて、そごうの地下で売っている一本二百五十円の牛乳を取り出した。
「失業者が身銭を切って買った高級品よ。」
「紙パックじゃなくてガラス瓶なんだね。美味しそう。」
 昔ながらの丸いふたを外して手渡すと、ともなりさんはゴクゴクと音立てて一気に飲み干した。
「プハァー」
「どう?」
「牛乳飲んだ〜って香りが鼻から抜けるね。」
「思わず悟りが開けちゃいそうでしょう。」
「沼田さんはスジャータと同じくらい、僕に力を与えてくれたよ。」
 にっこり笑うつもりだったのに、上手く答えられなくて泣きそうになった。うつむいた私に向かって、ともなりさんは優しい声で言った。
「川口市じゅうの悩める人々を救うような、立派な占い師になれるよ、きっと。」
「ありがとう。お世辞でも嬉しい。」
 微笑みの気配を感じて顔を上げたのに、私と目線が合った時には、すっかり真面目な顔つきに戻っていた。
 整った、けれど決して冷たくない、その表情。
「さようなら。」
 まるで遠くの方から投げかけられた言葉みたいだった。まだすぐそばにいるにも関わらず。もしかしたら彼の心と体は、すでに半分「向こう側」に入ってしまったのかもしれない。
 彼の魂にしっかり届くよう、私は大声で叫んだ。
「私知ってるのよ。あなたが『ともなり』なんかじゃないって事。本当の名前は……。」
「いつか僕が真実を見つけて、『こちら側』に帰って来る事があったら、堂々と名乗るよ。」
 行ってしまう、虚無の湖の向こうに。
 さわやかに手を振って。 
 光を吸い込む黒い水面。
 どうか、どうか、丸ごと飲み込まれたりしませんように。

 気が付くと、ともなりさんはいなくなっていた。木蓮の花びらは静かに散り続けている。
 目的は果たした。帰ろう、本当の自分の部屋がある、小さなアパートへ。
(なーんだ。ここ、前にも通ったよ。)
 薄明るくなり始めた空の下でよくよく眺めてみて、ようやく気付いた。鉄工所も高層マンションも共に見覚えがある。
(最初に西口を探検した時、この横の道を走ったんだな。)
 そう言えば、結局ともなりさんの家は西口と東口のどちらだったのだろう。エルザタワーや荒川の風景に振り回されたけれど、今改めて考え直してみると、「ともなり」なんて人物は川口のどこにも住んでいなかったような気がする。その証拠に、ついさっきまで一緒にいたはずなのに、もう顔も思い出せない。
(こうやって記憶から自分の姿を消しちゃうのか。)
 忘れ去られてしまえば、詐欺の罪で訴えられる事もない。残した女達を悲しませる事も。
(でもでも、たとえ悲しくっても、最初からいなかったみたいに綺麗さっぱり忘れちゃうのは嫌だな。何か記憶を引っ張り出すためのしおりがあれば良いのに。)
 その時、コツンと頭に何か当たった。
「痛ーいっ。」
 道端に転がった水色の小さな箱を拾い上げると、それはシャチハタ印だった。ふたを開けて試しにてのひらへ押し付けてみると、「大賢者大森賢五郎」という黒い印影がくっきりとつややかに残された。
(誰だっけ?)
 胸の奥をもやもやさせたまま駅の方角に向かっていくと、次々に色々な物が頭の上に落ちて来た。防災ずきん、綿入れ半てん、昔の男がくれた三通の手紙。私は三人三様の書き癖がよく表れている「沼田きみ子様」という文字を見つめ、「最初の彼氏」「二番目の彼氏」「三番目の彼氏」それぞれの顔を思い浮かべた。
(もう一つ思い出すべき顔があったはずなんだけど……)
 心の底にうっすら積もった寂しさが、ゆっくりと全身を冷やしていったので、あわてて淡いピンクのツーピースの上に綿入れ半てんを羽織った。そうして川口駅西口に着き、優子さんの住んでいるマンションを見上げていると、何やら軽いひらひらした物が視界の端を落ちていった。
(木蓮の花びらかしら。)
 何故花びらなんて思い付いたんだろうと不思議に感じつつ、かさり、かさりと音立てて地面を滑っていくそれを追いかけ、手に取った。
「千円札だ……。」
 ニセ札ではない。赤青黄色の細い線で描かれた図案をすみずみまで眺めて首をもたげると、表、裏、表、裏とクルクル回りながら雨か雪のようにお札が降って来る。ああ、あの人の貯金通帳だ。無意味に増えた残高が、今こうやって、風の中に放出されている。
 解き放たれたの? 呪縛から。
(浮浪者のおじさん達が朝一番に見つけると良いなあ。)
 これから先、優子が一人でやっていけるのか、多少心配だった。でもきっと大丈夫だ。明日になればもう誰かを頼りにしていた事なんてすっかり忘れて、バリバリ働き始めるに違いない。そしてそのうち、
「何でこんな安月給で雇われてなきゃいけないのよっ。」
 と怒りを爆発させて、さっさと正社員の口を見つけるだろう。ボーナスが出たらブランド品のバッグを買いに行こう。東京のでっかい音楽ホールで、パイプオルガンを一緒に聴こう。ケチらずにいっとう高いチケット買って。

 生きていこう。図太く、したたかに。
 ほら、もうじき、この街の夜が明ける。

(完)
posted by 柳屋文芸堂 at 23:45| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする

大賢者大森賢五郎(その11)

   あとがき

 あとがきには、『大賢者大森賢五郎』を書き終わらせるために、どれだけ苦労したかを書くつもりでいました。確かに、執筆中何度も何度も、
「ぎゃあ〜 うまくまとまらない〜!」
 と叫んだ記憶があります。けれど実を言うと、具体的にどのように苦労したのか、あまりはっきりと覚えていないのです。
 大体、これってどんな話だっけ?(それは忘れ過ぎ)
 今、ざっと読み直してみましたが、けっこう面白くないですか?
「わあ〜 まるで私みたいな主人公! とっても共感出来るわ。」
 はい。バカです。忘れるというのは素晴らしい事ですね。私以外の人が共感してくれるのか不安ではありますが、とりあえず私は楽しめました。
 書き始めたきっかけはよく覚えています。二年程前、私と私の仲間は、「社会的にひどい目」に遭いました。あいまいな言い方しか出来なくてごめんなさい。でも、それは卑怯でずる賢く、ある意味目から鱗が落ちるような驚きの経験でした。
 当然私は嫌な気持ちになりました。心労がたたって、作中のきみ子や優子のように、体も壊しました。けれども一番許せなかったのは、私の大好きな仲間が精神的にも経済的にも傷付けられた事でした。
 憎しみ。恋愛関係の愛憎以外で感情を高ぶらせるのは珍しいのですが、私の心にどす黒い色をした憎しみがわっと広がり、それは瞬く間に物語へと姿を変えていったのです。
 この物語に良い点があるとすれば、憎しみから生まれたにも関わらず、それが読者にはあまり感じられない所だと思います。言わなければ分からないくらいなのではないでしょうか。実際、この物語を書き終えた時、私の中の憎しみは跡形もなく消え去っていました。まあ、もともと恋愛関係以外の感情を長持ちさせられない人間であるせいかもしれませんが。
 全てはきみ子の甘い思い出の中に。男の事を考えてうっとりする以外に、人生においてやるべき事なんてあるの? それはきみ子と私の共通認識であり、強い信念でもあります。
 ところで、作中に何度も出て来る「ダメ男」って何でしょう。
「自分も他者も愛する事が出来ない」
「世の中に上手く適応出来ない」
「虚無に飲み込まれてしまう」
 などなど、色々なタイプの「ダメ」があると思います。もちろん、
「それは『ダメ』なんかじゃない。バカにするな!」
 と怒る方もいるかもしれません。けれどもこの単語を愛する私はあえて言ってしまう。「ダメ」とは「人間性」の事なんじゃないか、と。

 それでは、またどこかでお会い出来る日を楽しみにしています。

 二〇〇四年 梅雨の午後に
 柳田のり子
posted by 柳屋文芸堂 at 23:44| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする