2009年01月18日

私小説

 直前まで、全く違う話を書くつもりでいた。

 一見幸福そうな女性が自殺するまでの様子を、微に入り細に入り空想する女の話だ。ストーリーの流れや結末もはっきり決まっていたし、何より二人の姿がまるで目の前にいるかのように見えていた。死ぬ直前、夕闇の中で微笑みの形に曲がる濡れた唇。そういう生々しい感触のようなものさえあれば、途中どんなにつまずいてもどうにか書き終えられる。

 そう思って書き始めたものの、どうもしっくり来ない。今の自分の心情からはずれている気がして、切実さが出ないのだ。文章だけが上滑りしている。

 さて、どうしたものかと筆が止まった矢先、タチの悪い夏風邪をひいた。

 最初は少しだるいだけだった。暑さのせいだろうか、それとも疲れだろうか。あれこれ考えながら家事や買い物を済ませてゆくうち、どんどん体が重くなってゆく。横になりたい。寝不足?
 どこまで行っても私の頭には「病気」という単語が出て来ない。華奢な割に私の体は頑丈で、微熱さえ滅多に経験しないのだ。いつもなら何の苦もなく出来る「洗濯物を洗濯機に入れる」作業をまるで鉄か鉛を扱う重労働のような気分で終え、ベッドに飛び込む。一時間くらい昼寝をすれば、きっと元通りの体調に戻るだろう。

 目を覚ますと、私の予想は完全に裏切られ、手足を動かすのもつらい状態になっていた。すでに自分自身が鉛だ。さすがの私もこれはおかしいと気付き、フラフラとした足取りで体温計を取りに行く。
 三十八度七分。電子体温計の液晶部分をのぞく私の目は、カッと見開かれていただろう。自分の体温がそこまで上がったという事が信じられないのだ。これほどはっきりした症状が出ているのに、愚かしい。

「夕ごはんを作れそうにない」というメールを旦那の携帯に入れ、ベッドに横たわっていると、今度は腹痛がやって来た。トイレに行くと案の定下っている。腹と言っても下腹だけでなく胃も痛い。トイレは一度では済まない。気が付けば頭もガンガンと痛む。

 心配した旦那が早めに帰宅した時、私はすでに立派な重病人になっていた。

 私は恐ろしいほど小さな声で、夕ごはんを作れなかった事と、洗濯機に洗濯物が入っている事を詫びた。夕飯はともかく、寝込む直前に洗濯をした事に旦那はあきれ返った。あの時はまだ、数時間後にこんな風になるなんて思わず、自分で干せると信じていたのだ。

 まともな物は食べられなさそうだったので、エネルギー補給が出来るというゼリー飲料をもらって飲んだ。普段なら絶対に好まない人工的で甘ったるい味が、奇跡のように美味しく感じる。これだけやわらかければお腹も大丈夫だろう。
 きりで刺されるのに似た腹の痛みが、自分の考えの甘さを知らしめた。フラフラとベッドから抜け出てトイレに向かう。手を洗って戻る。ウトウトとする間もなく、またトイレに行く。手を洗う。ベッドへ。トイレへ。旦那が床に就き、家中が真っ暗になっても、この周回は続いた。

 ようやく腹痛が弱まり、少しだけ浅い眠りを取れた時、ふと「舌が乾いているな」と気付いた。水を飲んだ方が良いだろうか、とも思ったが、せっかく与えられた睡眠の機会を手放すのが惜しくて、そのまま目をつぶった。

 それが間違いの元だった。

 次の腹痛の波がやって来て、よたよたと起き上がり、便座に座った瞬間、何やら不穏な感じがした。体がふわふわと浮くような気がするのだ。だからどうするという策もなく用を足す。まだ一体私の中に何が残っているのだろう、と思うが、出てゆくものは出てゆく。ほとんど「流れる」に近いその形状に驚くより、いよいよ激しい腹の痛みに気持ちが弱り果てる。旦那の名前を口の中で唱える。呪文のように。

 便意も腹痛も一向に治まらない。しかし目の前がチカチカして来たので、一度ベッドに戻ろうと決める。立ち上がって水を流すための栓をひねり、便器を汚していないか確認、しようとしても、目が見えない。壁も床も便器の中も全て白色に輝いている。定まらないのはこちらの視点で、ぐらりぐらりと左右に揺れる。私は動いているのだろうか、それとも。

 便器の確認をあきらめてトイレから出ると、暗いはずの廊下も白い。まっすぐ歩けず、パチンコの玉のように壁にぶつかりながらギザギザに進み、洗面台で手を洗う。石けん。見えたり、見えなかったりする。暗い。明るい。明るい時に手ににぎる。水も出さなければ。石けんと石けん置きが排水口の方に落ちる。カシャーン、という音が響いた、はず、何も聞こえない。でも手は洗いたい。手を洗っているような状況なのか? ぼんやりと疑問がわくが自分の行動を途中で変える力もない。どうにか石けんと石けん置きを元あった場所に戻し、手をふき、廊下。

 動けない。

 糸が切れた操り人形ってこういうのを言うんだな。

 動けない。

 両ひざは私の意志と関係なくがっくり落下し、てのひらは廊下にぺったり張り付いてしまっている。力を入れようとしても全く入らず、大事な何かがすっかり「切れた」のだと分かった。
 ああ、脱水症状。発熱で沢山汗をかいたし、下痢で水分を大量に失った。その割にたいして水を飲んでいない。夏場、運動部の部員が練習中に倒れて死亡する事故のニュースを思い出す。

 死んじゃうの?

 頭の中心には冷静な部分が残っていて「これくらいでは死なない」と笑う余裕がある。けれどもし、処置の仕方を間違えたら。悪い条件がいくつか重なったら。
 力をふりしぼって旦那の名前を叫んだ。もう呪文では済まない。おそらく私同様熟睡出来ていない旦那はすぐさまそれを聞きつけ、飛んで来た。何か言われている気がする。しかし耳に膜が張ったようで、声も物音も一切聞こえない。相変わらず目もまともに見えない。わきの下をぐっと持ち上げられ、ズルズルとベッドに運ばれた。

 少し落ち着いた私に、明日の朝病院に行くよう旦那は言った。大の病院嫌いの私も、こんなになっては素直にうなずくより他ない。倒れた後に電子レンジで温めた白湯を飲んだが、すぐに腸の深部に到達してしまって、再びトイレに駆け込むはめとなった。固形物だけでなく、口に入る全ての物を私の胃腸は拒絶するのだ。ただの筒でしかない元・消化器と、骨と皮だけで構成された痩せた肉体。これは点滴だけでしばらく過ごさなければ、生命活動を維持出来ないのではないだろうか。

 その後も熱と痛みの夜は続いた。三日三晩苦しみ続けたような気分なのに、洗面台の時計を見るとまだ午前二時半だ。本格的に発病してからまだ十二時間経っていない。時の流れがゆがんでいる感じがする。

 奇妙に間延びした夜が終わり、朝になっても、そのゆがみは残ったままだった。どうやら最後の数時間は眠れたらしい。記憶は途切れ途切れな気もするし、全くない気もする。いつまで起きていて、いつ寝たのか、まるで分からない。
 体温計を取りに行こうとすると、寝たままでいなさいと旦那に制された。しばらくして渡された体温計を、のろのろとわきにはさむ。九十秒後に鳴る最初の電子音が、なかなか鳴らない。一分半とはこんなに長いものだったか。

 今のところ腹に激痛はない。それでも歯を噛み締めながらその茫漠とした時間のような空間のような正体不明のものが過ぎ去るのをじっと待っていると、ピピピ、ピピピ、とささやかな音が聞こえた。
 この最初の計測では正確な値が得られないと、前に微熱を出した時に知った。旦那の場合はそうでもなかったから、私の体との相性が悪いのかもしれない。わきの下の力をゆるめずに、次の十分後のピピピを待つ。

 長い。

 まだだ。

 生ぬるい黒い空気の中を、ゆっくり、ゆっくり、落ちていく。きっと底はないのだろう。

 まだ鳴らない。もう一時間くらい経ったのではないか。眠ってしまって音に気付かなかった? まさか。私は起きている。……起きている?

 ピピピ。くるくると回る思考と肉体に電子音。目をうっすら開けても回転は止まらない。ベッドごと。
 三十九度六分。ここまで四十度に近付いたのは小学生以来だ。もう驚かなかった。ちょっと怖いだけで。

 こちらに引っ越して来てから、病院に行くのは初めてだ。旦那は一人で先に行き、予約を入れられるようなら入れて来ると言う。どこに行っても混み合っている人口密集地の病院で、そんな便利な制度があるだろうか。たとえあってもそれが待ち時間を減らしてくれるかどうか。心に疑問がわいてもそれを文章化出来ない。何よりまともに聞こえる声で話せない。役に立つか分からない事をさせに行かせるなんて申し訳ないな、と思いながら、こくりと力なくうなずいた。

 その後で、私は寝たのだろうか? また、ひどく長い黒色の時間が夜の川のようにうねり流れて、私はその中に飲み込まれ揉まれ揺られ、半日ほど先に移動させられた、気がした。夢を見たのではない。時が過ぎ去った、という感触が、強く心に刻まれたのだ。いぶかしむ余地もないくらいに。

 明るい部屋に旦那がいる。会社は一日休んでしまったのだろうか。病院に行くと言っていたのに、もうとうに受付時間を過ぎているだろう。それとも午前中に行くのは諦めて、午後の診察時間に行こうと決めたのか。

 旦那は私のそばに寄って、今日は空いているから待たずに診察してもらえるそうだと、嬉しそうに言う。

 つながりが悪い。

 この不思議さも当然言葉にならず、代わりに今の時刻を聞いた。
 午前十時。

 私の家の朝は習慣的にあまり早くないので、先ほどの体温測定が早朝だったとも思えない。そうなるとおそらく、一、二時間も経っていないに違いない。もしかしたら、旦那が病院と家を往復した、ほんの十数分。

 体を壊している間は時間が延び続けるのか。治る時刻に手が届きそうになると、黒い背景がゴムのように引っ張られて、欲しかったものは私の指先から離れていくのだ、きっと。

 いつまで?

 眼鏡をかけた旦那に連れられて病院に向かった。腹の中が空っぽなおかげで下痢の回数は減っていたし、ゆっくりならば家の外を歩くのも不可能ではなかった。ただやはり視界には銀色の細い筋が幾百も飛び交っており、外界の音は厚い壁を隔てたようにくぐもって聞こえた。
 入院させられるかと思いきや、診察は思いの外簡単だった。腹に何も入れないのは良くないので、おかゆやうどんのような消化に良いものを食べて薬を飲むように。そんな健康人みたいな事が今の私に出来るのだろうか。恐ろしい医者だと思ったが、点滴を一本してもらえたのはありがたかった。薬液がぽたり、ぽたりと落ちて来るのをながめている間に、旦那はインスタントのおかゆやスポーツ飲料を買いそろえてくれた。

 家に着いて私が横たわったのを確認すると、一日家にいられないのを深く詫びて、旦那は会社に向かった。今、仕事がとても忙しく、半休を取るのも大変だったはずだ。このしわ寄せがそのうち彼の所にやって来るかと思うと、罪悪感で胸が苦しくなった。

 体が多少休まったのを見定めて、緩慢に起き上がる。電子レンジでおかゆとスポーツ飲料を温め、のろのろ口に運び、処方された数種類の胃腸薬を飲んだ。予想通りすぐさま腹に激痛が走ってトイレに駆け込む。この調子では薬も効く前に排出されてしまうだろう。スポーツ飲料のせいか点滴のせいか甘ったるい異常な便の臭いの中で、あきれるように空を見つめた。再び空っぽになった腹を抱えて、壁づたいにベッドへ戻る。

 静かだ。一人でいる時には必ずつけっ放しにするラジオも、今日は黙ったまま。スイッチを入れに行くのがつらいし、それ以上に音を聞くのが苦痛だった。普段は無音が何より怖くて、音、音、音と心の底から求めるのに。弱っているのだな、と今さらながら思った。

 寒気がする。夏だから寒い訳がないのに、体の芯が冷えてこごえる感じだ。手足の長さに少し足りない小さなタオルケットの中に体を縮こませる。掛け布団を出してもらった方が良かっただろうか。しかしすぐ、全身から汗が吹き出るようなかっかとした暑さにベッドの端まで転げ回る事になる。暑いのか寒いのか。高熱のせいと分かっていても、頓服で出された解熱剤を飲む勇気はなかった。その手の薬は必ず胃を傷つけるのだ。これ以上胃痛でもだえたくない。

 タオルケットをかけたりはずしたりしながらふと、この原稿について考えた。〆切は迫っている。遅筆の私には危機的な時期だ。けれどもう、最初の設定では書けないな、と苦笑した。
 本格的にではないにしろ、自分の体が死に近付いてみると、自殺というのが見知らぬ国のおとぎ話のように遠いものに感じる。倫理的に許せないというのではない。ただ、自分と関係があると思えないのだ。「わざわざ自分で」死のうと出来るその力が、今はいっそ羨ましい。

 もちろん、軽い気持ちで自殺について書こうとしたのではない。結婚後の一年間、それは私にとって切実な問題だった。愛する人と暮らす喜びを噛みしめつつほとんど毎日、私は自死を思っていた。
 不幸なのではなかった。私から恋をし、努力し、手に入れた相手だ。一緒に生活し始めた途端、欠点が目立って幻滅したりもせず、いとおしさは増すばかりだった。そしてそれは、旦那の方でも同じ思いであるようだった。

 苦手なのではないかと心配していた家事も、楽しくやれた。金銭的に困ったりもしなかった。
 何もかも、希望通りと言っても良かった。
 唯一苦痛だったのは、一人で帰りの遅い旦那を待っている時間だけ。
 きっとすぐに慣れるだろう。初めのうちはそう思っていた。しかしその恐怖に似た感覚はどんどんと膨らみ、私をぎゅうぎゅう押しつぶすようになっていった。

 外に出たい、と私は旦那に言った。別に禁止した覚えはない、出たければ出れば良い、と旦那は答えた。それに今でもしょっちゅう外出するじゃないか。友達と遊ぶとか、イベントに参加するとか。
 それじゃあ足りないの。足りない? あれだけ出ていて。結婚前より家にいる時間がずっと増えた。本当ならどこかで働いて毎日外に出たい。
 それも禁止してない。働きたければそうしたら良い。でも私は不器用だから、家事と両立する自信がない。

 閉じこめられてる。

 え?

 私はこの2LDKの箱の中に閉じこめられてる。あなたに。

 旦那はあきれ返った。それでも家事をするのは旦那のためだし、家事があるから外に出られないのだ。責めるべきは旦那以外の誰でもない。
 私は調子が悪くなると旦那に怒鳴り散らし、泣きわめいた。これではまるで、独りぼっちになるために結婚したみたいだ、と。このまま心に他者という風が吹かなかったら、私の精神は朽ち果ててしまう。一人はいや。助けて。

 旦那は私の悩みを頭では理解しても、心の底から共感出来はしないようだった。もともとあまり社交的でなく、のろけではなく本気で、私さえいれば他の誰とも付き合わなくても全く困らないと言う。それゆえ私が外界との接触を強く求めるたび、何故僕との世界では満足しないのだろうと、逆に寂しがる始末だった。

 発作は当然一人の時にも起きた。いつもは存在を忘れるおとなしい白い壁が私を威圧し、その中の空気がゆがむ。私は近所にも聞こえるであろう甲高い悲鳴を何度も上げ、ごそり、ごそりと自分の髪の毛を大量に引き抜いた。

 死。自分の。

 ここから逃れるための。

 しかし旦那や実家の家族の悲しみを忘れるには、私の衝動は瞬間的過ぎた。その一瞬に、台所にあるきちんと研がれた包丁と、突き刺しやすそうな自分の薄い胸板も思い浮かぶのだけど。
 私に出来るのは、せいぜい腕の内側に強く爪を立てて、赤い三日月形の小さな傷を作る事くらいだった。しびれるような痛みはじわりと心を麻痺させ、ほんの少しだけ気持ちを楽にしてくれる、気がした。

 この軽い自傷行為は刃物や火も使わず効果もあってなかなか良いではないか、と自画自賛していたのだが、意外に痕が残って消えない。これでは薄着になる季節に恥ずかしいな、と発作を起こしていない時にうっすら自分の腕を、笑った。
 このまま悪化したら元に戻れなくなる。これはいよいよ、精神科に行かないとまずいかもしれない。

 そんな不安は、結婚から一年が過ぎ、家事に慣れ、働けない代わりに習い事を始めると、静かに消えていった。
 今思えば、私を閉じこめていたのは他でもない、私自身だったのだ。愛ゆえに、旦那を完璧に助ける良い妻になろうとし、かえって旦那をひどい目に遭わせてしまった。

 冷静になれた今なら、「自殺する女性」と「その様子を空想する女」という登場人物を使って、その時の感情を客観的に書けるかもしれない。最初のストーリーはそう考えて決めたのだった。
 結婚してもうすぐ二年。自死を思っていた日々は、遠い過去と同じ扱いになっている。自分の心情にしっくり来ないのも無理はない。最近よく考えるのは自分の死ではなく、旦那の死だ。

 家に一人でいると、急に背中がゾッと寒くなり、もう旦那は帰って来ないのではないか、という予感が私の心を支配する。
 電車の事故、交通事故。常に過労ぎみだから、脳卒中か心筋梗塞で倒れるかもしれない。誤ってどこかから転落する。大きな重い物が上から落ちて来て、ぺしゃんこにつぶされる・・・・・・
 あらゆる可能性が渦を巻いて、私の体を震えさせる。そうなったら私はどうしよう。生きていけるのだろうか。経済的な事が心配なのではない。結婚前は私も仕事をしていた。いざとなればきっと働ける。問題は精神面だ。ごはんを食べ、睡眠を取り、日々をきちんと送ろうという意欲が出るかどうかだ。

 きっと私は初め、事態がうまく飲み込めず、呆然とするだろう。次に大いに混乱し、のどが切れるほどの声を出して泣くだろう。その後はやまない雨のように、しくしくと目が溶けるまで泣くだろう。

 それから。

 ここからの想像が妙に現実的になる。

 しばらくの間はこの部屋に住んでも良い。けれど一人暮らしには広過ぎるし、家賃も高い。私は実家に帰るのだろうか。そうなると家財道具を処分しなくてはいけなくなる。どれも旦那と選んだ大事なもので捨てたくはないが、実家の家は狭いのだ。特に惜しいのは、長く使えるようにと思い切って買った、いくつかの高価な家具。それでも箪笥やテーブルなどは、まあどうにかあきらめられる。どうしてもいやなのは、毎日一緒に眠ったダブルベッドだ。これだけは手放したくない。

 小さな部屋を借りようか。ダブルベッドだけを入れて、細々と暮らそう。頑張って正社員の口を見つけ、家賃を払って自炊して。そして夜には大き過ぎるベッドの上で、過去に意識を飛ばすのだ。たぶん私は性的な交わりではなく、ささやかな触れ合いの事ばかり思い出す。薄闇のまどろみの中、からませようと意図せずに、からまってしまった手首や足首を。

 寂しいかな? 寂しいだろうな。けれども甘い記憶さえよみがえらせれば、胸の奥がぽっと暖かくなる。大丈夫だ。それだけを糧に生きていける。穏やかで気楽な、一人の暮らし。うん、悪くない・・・・・・

 私はこんな愚かしい妄想を懲りずに何度も繰り返す。旦那を失うのがとにかく怖くて、最悪の状況を予想し、ショックをやわらげたい。それが一番強い理由だろう。でももしかしたら、この部屋、この閉鎖的な愛の空間から逃げ出したい、という願望も少し入っているのではあるまいか。

 我ながら恐ろしい妻だな。皮肉な笑みがもれる。しかし全て頭の中での話だ。それに今となってはもう、死は、旦那の死も私の死も、ここから遠い場所にある。

 私はきっと治るだろう。その証拠に部屋が暗い、夜が来たから。時間は正常な速度でないにしろ、ちゃんと流れている。

 カーテンを閉めようか。いや、そんな事をもしすれば、起きたりしてはいけない、ずっと寝てなければダメじゃないかと、旦那に叱られる。

 外から自分の姿を隠すのも許されず、かといって夜空を見上げられもしない、愛情に殺された、一つの屍。

(終わり)
posted by 柳屋文芸堂 at 23:59| 【短編小説】私小説 | 更新情報をチェックする