2008年10月21日

その音の響く夜に(その1)

「昔話みたいのが読みたいなあ。」
 あなたがそう言って微笑んだから。


 どうして?
 どうしてダメなの?
 街灯の少ない暗い夜道に、アスファルトを蹴る強い足音が響く。絶対に流すまいと決めていたはずの涙がポロポロとこぼれて、少女のほっぺたはゆるやかに吹く夏の夜風に冷やされた。
 今日起きた出来事はやっぱり間違っている、誰が何と言おうと絶対に間違っている。泣いてしまったという事実をもみ消そうとするかのようにハッピの袖口で顔中をグシャグシャとこすりながら、少女はそう確信していた。
 夏祭りの太鼓の練習が始まった最初の日、「ちびっこ会」役員のおじさんは確かに言ったのだ。
「祭りの夜、三年生まではやぐらの下で、四年生より上の子はやぐらの上で太鼓を打つんだぞ。」
 その言葉を聞いて、本当に心がドキドキした。生まれて初めて和太鼓という存在を知った一年生の頃から、やぐらの上で大きな音を響かせる上級生たちはあこがれの的だった。マンションの三階くらいの高さの所にはしごで上ってゆき、よしずの屋根にぶら下がるちょうちんの光に照らされて、どの子も自信たっぷりに見えた。何度その姿を思い浮かべて、そっと自分に置きかえただろう。
 あそこで太鼓が打てるなんて!
 夏祭り前の二週間、毎日必死に太鼓を打った。学校のプールで風邪をもらって、熱が出てしまった日も、お母さんの反対を押し切り練習場へと出かけていった。そのうち「ちびっこ会」のみんなで集まる夕方の練習時間だけでは足りなくなって、家中の物をたたくようになった。おはしでお茶碗をたたいたらお父さんに叱られたので、指で太ももをたたいたり、物差しで勉強机をたたいたり、何を見ても太鼓とバチに見立ててしまった。
 そんな事を繰り返していると、自分が誰よりも上手になった気がした。同い年の四年生たちはもちろん、五年生、六年生よりも。
 それなのに。祭りの始まる今になって、おじさんはこう言ったのだ。
「四年生まではやぐらの下、五年生より上の子はやぐらの上だからな。おじさんが呼んだら遊ぶのはやめて決められた所に行くんだぞ。」
 やぐらの、下? うそだ。四年生もやぐらの上だって言ったじゃないか。
「やぐらの上に乗せるには、今年の四年生はちょっと力不足だからな。タツヤは音が大きいけどリズムがずれるし、ヒロくんは急に打つのをやめちゃう時があるし、ユミは恥ずかしいんだか何だか、太鼓にへばりついてちっとも堂々としてないし……」
 タツヤは腕っぷしばかり強くて頭の中身はパッパラパアなのだ。ヒロくんとユミは途中で転校して来たので、一年生の頃から毎年練習している訳ではない。だから自分が正しく打てているか、いまだに不安なのだろう。
「太鼓は太鼓だけ打てば良いってもんじゃない。カセットテープの曲に合わせて、みんなの気分を盛り上げなきゃいけないんだ。やぐらの上でかっこ悪い音を立てて、周りの大人が踊れなくなったら大変だからな。」
 タツヤやヒロくんやユミなんてどうでもいい。私は? 私はどうして乗せてくれないの。
 おじさんは少し困った顔で、うーん、とうなってから、パッとひらめいたようにこう言った。
「なっちは背が小さいから、やぐらの上は危ないよ。」
 おじさんがなぜ急に背たけの話を始めたのか全く分からず、一瞬言葉に詰まったが、すぐに切り返した。
 高い所なんて全然怖くないよ。私のうち、マンションの十階なんだから。
「マンションとやぐらは違うからね。マンションははしごで上らないだろう。」
 でも背たけとも関係ない。
 しつこい問答に少々うんざりした様子で、おじさんはさらに言う。
「せっかくやぐらに上るんだから、もっと大きくなってからの方が良いだろう。その方が見映えもするし。」 
 確かに私は小さいけれど、少しでも体を大きく見せるために腕をピンと伸ばしたり、音を綺麗に響かせるためのバチのにぎり方を考えたり、たくさん、たくさん、工夫しているんだ。馬鹿力でドタドタたたくだけのタツヤと一緒にしないでよ!
 今度は本当にイライラして、おじさんは怒鳴った。
「と、に、か、く! やぐらの上で太鼓を打つのは五年生から! 来年になれば自然と上れるんだから、なっちも我慢しなさい。」
 なっちも負けじと大声で叫んだ。
「来年になる前に私が死んじゃったらどうするの! 猛スピードでビュンビュン走っている大きな重たいトラックに轢かれて、ああ、やぐらに上がりたかった、って思いながら私が死んだら、おじさん、どうするの!」
 おじさんはしかめっ面を崩してプッと吹き出した。
「そんな事ある訳ないじゃないか。大袈裟だなあ、なっちは。」
 そうして顔を真っ赤にしてゲラゲラ、笑った。
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その音の響く夜に(その2)

 許せない、許せない、ゆる……
 気が付くと、アスファルトの道は途切れていた。ビーチサンダルの底から伝わる土の感触にハッとして、なっちは初めて歩をゆるめた。夏祭りの会場であるマンション前の公園を飛び出し、暗い方へ、暗い方へとがむしゃらに走って来たけれど、一体ここはどこなのだろう。道端に電灯が見当たらないので、周りの様子がちっとも分からない。空を見上げると月や星の光が妙に強く、その美しさが逆に不安をかき立てる。
「寒い……」
 夜とはいえ、八月の風にしては冷た過ぎた。鳥肌の立った太ももをてのひらでさすった後、腕全体をハッピの袖の中に引っ込めた。それからぐるりとあたりを見渡すと、なっちは自分が公園からすっかり離れてしまった事を知った。夜空がいつもの何倍も広いのだ。あれほどせせこましく建ち並んでいた高層住宅の黒い影が、一つも、ない。
「私のマンション、どこに行っちゃったんだろう。」
 夜だというのに、たった一人で自分のマンションの見えない場所まで来てしまうとは。生まれて初めての経験に、なっちの頭は空っぽになった。
 どうしよう、どうしよう、来た方向に帰れば良いんだから、えっと、えっと……
「お前、このあたりのモンか?」
 暗闇からの声に全身がしびれるほどビクリとした。それでも叫び声を上げなかったのは、お化けにしては妙にのんびりした、その口調のせいだった。こわごわ振り向いてみると、すぐそばに背の高い少年が立っていた。顔つきからして、なっちより二、三歳くらい年上だろうか。丈の短い、ぶ厚いゆかたのようなものを着ているが、よく見るとそれはボロボロで、目立つ場所に何ヶ所もつぎが当たっている。
「道に、迷っちゃって。」
 得体の知れない少年に対する恐怖心より、闇の中に一人でいる心細さの方が勝っていた。それに少年が幽霊や妖怪のたぐいでない事は確かだった。痩せてはいても、体のすみずみまで、みっちりとした生命力が感じられるから。
「どこから来た?」
「フォックスパレスっていう名前のマンション。」
「そんな所、俺は知らねえなあ。」
「そう……」
 今にも涙がこぼれそうだった。けれど一度だけでなく二度までも、悲しみに任せる訳にはいかない。さっき泣いてしまった事だって、認めたくないくらい悔しいのだから。なっちは自分の感情を殺すために、前歯で下くちびるを噛んだ。血がにじむほど強く。
「ちょっと待ってろ。」
 少年が急にかけ出したので、なっちも慌ててついて行った。「待ってろ」と言われても、暗闇で一人にされるのはもう耐えられない。
 少年が立ち止まった所には、木製の荷車が置いてあった。その荷台には、大きな土嚢のようなものがいくつも積んである。
「なあに、これ。」
「砂だ。」
 なっちが不思議そうに首を傾げると、少年は嬉しそうに微笑んだ。
「父ちゃんの仕事に使うんだ。」
「運んでいる途中だったの?」
「こんな時分になって、足りないから採って来い、って言うんだもんな。もっと明るいうちに算段しておいて欲しいよ。」
 そして少し迷うように荷車全体をながめてから、砂袋の一つをパシ、パシ、と軽くたたいた。
「もう夜も遅いし、盗られやしないだろうな。」
 もしかしたらこの少年は、とても急いでいるんじゃないか。少年の父親がとても怖い人で、私と関わったせいでひどい目にあったり、殴られたりしたらどうしよう。
 なっちの心に新たな不安が生まれた事などまるで気付かずに、少年はなっちのてのひらをぎゅっとにぎった。
「さあ、行くぞ。」
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その音の響く夜に(その3)

 月明かりだけを頼りに、二人は歩いた。何故かどこまで行ってもアスファルトの道にはぶつからず、足の下の土の感触はいつまでもやわらかかった。
「本当にこっちから来たのか?」
「たぶん……」
「この先は川になっちまうぞ。」
 少年があんまり強くなっちの手をにぎるので、太鼓の練習でつぶしたマメがピリピリと痛んだ。なっちは顔をしかめつつも、その触れた部分から、心細さが消えてゆくのを感じていた。
 よく見ると少年の手は、子供のものとは思えないほどザラザラと荒れ果てている。指先もてのひらも皮膚が硬く盛り上がり、少年が肉体労働に従事している事をよく表していた。
「ほら。」
「あっ。」
 目の前に、幅の広い、大きな川のながめが開けた。砂地の先に黒い水面がゆらゆらと揺れている。
「私のうちのそばにも川があるの。ここと同じくらいの大きさで、向こう岸で遊んでいる子供が米つぶみたいに小さく見えてね。」
 けれども全てが違っていた。まず、ひっきりなしに電車の通る鉄橋が見えないし、日が落ちた後、水面をてらてら輝かせていた街灯が、この川のほとりには一本もない。それになっちの知っている河川敷は、どこも緑の芝生で人工的に整備されていたはずだ。
「この場所に見覚えはないのか。」
「ない。こことは全然違う所しか知らない。」
「じゃあ、やっぱりこの川沿いのどこかから来たんだろうな。」
「そうなのかな……」
 晴れた日に自転車で遊びに行ったあの川と、黒く重たげに横たわっているこの川が、同じであるとは到底思えなかった。
「このあたりで大きな川って言ったらこれしかないからな。まあ、こんなに暗くちゃあ、自分の来た道が分からなくなっても無理ねえよ。」
 少年はなっちの手をひときわ強くにぎり、反対の手で頭をガリガリ掻いた。
「明るくなってから出直した方が良さそうだ。」
 そんな事言われても、日が昇るまで、私はどうしていれば良いのだろう。暗闇の中一人ぼっちで、この見知らぬ土地をふらふらと歩き続けなければならないのか。
 なっちが不安と恐怖で茫然としているなんて思い付きもせず、当然のように少年は言った。
「うちに来いよ。」
「えっ。」
 とっさに頭に浮かんだのは、少年の父親の事だった。
「お父さん、怖いんじゃないの?」
「怖くねえよ。いや、怖い時もあるかな。でも怖くねえよ。」
「どっちなのよ。」
「仕事中にへまをやらかせば、そりゃあ怒鳴られるさ。殴られる時もある。」
「やっぱり怖いじゃないの。」
「そういうのは、俺を中途半端な職人にしないためにやるんだよ。仕事の他で無駄に怒った事なんか一度だってねえよ。」
「優しい?」
「うーん、優しいかなあ……」
 なっちは自分の父親の姿を思い浮かべた。家の中ではしゃぎ過ぎて、たまに叱られたりもするけれど、殴られたりひっぱたかれたりした覚えはない。どちらかと言えば優しい方なんじゃないかと、自分では思っている。
「ま、会ってみりゃ分かるよ。」
 なっちと少年は砂袋をほったらかしにしている事を思い出し、荷車の方へかけて行った。
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その音の響く夜に(その4)

 誰かにいじられた様子もなく、砂袋は先ほどと同じ形で荷車に積み上がっていた。
「じゃまになってどかされたりもしなかったみたいだな。」
 なっちもほっとして、荷台全体をよくよく見た。木の表面は古び、ささくれ立っている。
「こういうの、リアカーって言うんだっけ。」
「大八車だよ。」
「へーえ。いっぱい物が運べて便利そうだね。」
「そんなに珍しいか?」
「うん。」
 目を輝かせるなっちに対して、少年は首を傾げつつも、ずっしりと重たい大八車を引き始めた。
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その音の響く夜に(その5)

「俺があんまり遅いから、父ちゃん、寝ちまったみたいだ。」
 少年が長屋の引き戸を開けると、その奥はすでに真っ暗だった。なっちは少年に手を引いてもらって、どうにかこうにか布団の所にたどり着いた。
「父ちゃんと俺の分しか寝床を作れないんだよ。狭くて悪いな。」
「ううん。泊めてもらえて嬉しい。」
 なっちはハッピを脱ぎ、体操着とショートパンツだけになって、「かいまき」のように袖がある掛け布団の中にもぐり込んだ。ちょっとほこりっぽい匂いがしたけれど、寝心地は悪くなかった。
「寒くないか?」
「大丈夫。」
 少年も少し薄着になって、なっちと同じ寝床に入った。そしてどちらの体も布団からはみ出さずに済むように、背中と背中をぺったりとくっつけ合った。
「あったかい。」
 その言葉に満足した後、少年は体をくねらせて、顔だけをなっちの方に向けた。
「そういや聞いてなかったな。お前、名は何て言うんだ。」
「私は、なち。高田奈智。みんなからは『なっち』って呼ばれてる。」
「俺は一太。父ちゃんは銀。ここいらでも指折りの、腕の良い鋳物師だ。」
 一太は父親を心底誇りに思っているらしく、雲一つない青空みたいな、気持ちの良い声を出した。
「鋳物師ってなあに?」
「鉄を熔かして色々な物を作る職人だよ。父ちゃんは釜を作ってる。」
「カマ?」
「釜だよ釜。お、か、ま!」
 オカマ?
 なっちはテレビ番組にたまに出て来る、派手でおしゃべりなオジサンみたいなオバサンたちの事を思い浮かべた。
「鉄でオカマを作るの?」
「そうだ。鋳型には砂も使う。」
 鉄と砂でオカマ…… 変なの。
 勝手な想像と、疲れと寝床のあたたかさが、なっちを眠りの世界へ引っ張っていった。それでも恩人に断りもせず寝てしまう訳にはいかないと思ったのか、か細いフワフワした声でつぶやいた。
「おやすみなさい。」
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その音の響く夜に(その6)

 なっちはすっかり忘れていた。
 夏祭りの前の日まで、タオルケットも蹴飛ばさずにはいられないような熱帯夜が、連日続いていた事を。
 一太の背中の熱をこんなにも快く感じてしまう、急激な気候の変化に対する違和感を。
 長屋の壁をなでる冷たい風が、全てを知っているような声で、ひゅう、と鳴いた。
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その音の響く夜に(その7)

「おい。おい。」
 背中を揺すぶられたような感じがして、なっちはうっすらと目を開けた。
 自分の背中に触れているのは、一太の骨張った背中だけだ。ぼんやりした頭で考えるに、揺すぶられているのはなっちではなく、一太の肩のようだった。
「おい!」
 今度は大人の男の低い声にどきりとし、自然にぱっちりと目が覚めた。声のする方に顔を向けると、つやつやと光る褐色の腕が最初に見えた。
「何で子供が一人増えてるんだ。おい!」
 視線を上げてゆくと、一太によく似た男が片ひざを立てて座っている。
 これが一太の「父ちゃん」か……。
「んー。」
 一太はガバッと起き上がり、両腕を上に挙げて伸びをした。
「迷子だよ、迷子。昨日、砂を採って来た帰りに見つけたんだ。」
 なっちは他人の家の布団で寝ているのが急に申し訳なくなって、あたたかな掛け布団を体から引きはがし、敷布団の上に正座した。肌に直接触れる冷たい空気に、ブルッと体を震わせながら。
 銀は「弱ったな」というような表情で腕を組んだ。そしてなっちの顔をじっと見つめ、言った。
「悪いが今日は『吹き』の日でね、お前さんのうちをさがし回るって訳にいかないんだよ。」
「フキ?」
「火を起こして鉄を熔かす事をそう言うんだ。」
 一太が嬉しそうに説明する。銀は渋い顔のまま続けた。
「おまけに初午が近いと来てる。そのしたくもしなくちゃならねえ。」
「ハツウマ?」
 一太と出会ってから、一体いくつ新しい言葉を聞いただろう、と思いつつ、なっちはまた尋ねた。
「お祭りだよ。」
「えっ、お祭りがあるの!」
 なっちの目がキラキラと輝いた。
「太鼓は? 太鼓たたく?」
「ああ。打つよ。」
 一太と銀がそろってうなずきながら答えると、なっちは勢いよく立ち上がった。
「私も打つ!」
 三人の間にしばしの沈黙が流れた後、銀がつぶやいた。
「初午までここにいるって事か。」
 そこまで考えてはいなかったが、お祭りで太鼓を打つにはそうするより他はない。なっちは力強く首をたてに振った。
「ま、親がさがしに来るまでじっとしてるっていうのも、一つの手だよな。」
 銀は初めて口もとに笑みを浮かべた。「しょうがないな」という気持ちのこもったものではあったけれど。
 一太となっちは二人とも、何か面白い事が始まる予感がして、ドキドキしていた。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:45| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その8)

 銀が包丁を手に取ると、一太は白い植木鉢のようなものの上に黒い重たそうなナベを載せた。一体何をしているのだろうと不思議に思って見ていると、ナベの中のお湯がだんだんと煮立ってゆき、小さな泡が生まれたり消えたりするようになった。どうやら白い植木鉢は、色々な物を熱するための道具のようだ。
 これの他にまきも燃えており、その近くからご飯の炊ける良い香りがほのかにただよっている。おそらく一太となっちが寝ている間に、銀が準備してくれたのだろう。
 二人が朝食を作っている、という事はすぐ分かったが、台所の様子がなっちの家とあまりにも違うので、手伝いようがない。まあたとえマンションと同じ調理器具がそろっていたとしても、なっちが役に立てたかどうか怪しい所だ。自分のうちで料理を手伝った事など一度もないのだから。
 なっちの家ではいつでも、母親がご飯の用意をしてくれた。
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その音の響く夜に(その9)

 木製の小さなお膳が三つ並び、その上に朝食がそろえられた。
「美味しい!」
 なっちはご飯と味噌汁を一緒に飲み込んで、すぐさまこう叫んだ。
「オツケがそんなにうまいか?」
「うん!」
 カチャカチャと茶碗を鳴らし、せわしなくかっ込むなっちの姿を、銀は見慣れない動物を見るような目でながめた。
「これ、麦ご飯だね。」
「まさかそれも珍しい訳じゃねえだろうな。」
「ううん。給食にたまに出るよ。プチプチしてて大好き。」
 それを聞いて銀は声を立てて笑った。なっちは味噌汁に浮かんでいる油揚げをはしでつまみながら、何故一太のうちの朝食はこんなに美味しいのだろう、と考えていた。
「分かった! しょっぱいんだ。」
「『吹き』でびっしょり汗をかくからな、わざと塩っ辛く作るんだよ。」
 おかわりした分も食べ終わり、なっちはたくあんをコリコリ噛んだ。空っぽになった茶碗の中に、一太がお茶を注いでくれた。
「ありがとう。」
 のどが渇いていたのですぐに口を付けたが、熱くてとても飲めない。仕方なく茶碗をお膳に戻し、ずっと気になっていた事を尋ねた。
「お母さんはどこかに出かけているの?」
 その言葉が発せられた途端、時が止まったかのように、一太と銀の動きがぴたりと止まった。なっちはそれが触れてはいけない話題であると悟り、「しまった」という顔をした。
 一太はこういう場面に慣れていた。だからなっちが自分を責めたりしないように、表情をやわらかくして、言った。
「うちは母ちゃんがいないんだよ。」
 一太の大人びた気づかいは、なっちをいよいよ後悔させた。
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その音の響く夜に(その10)

 なっちのマンションにも、片親の子供が何人かいた。この手の情報は噂の力で広まるので、本人に無神経な質問をする事は避けられた。
 今回だって、ちょっと考えれば分かったはずなのに。
 親切にしてくれた一太と銀に嫌な思いをさせてしまったと思うと、苦しかった。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:43| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その11)

 三人は食器を片付け、長屋の近くにある鋳物の細工場へと向かった。心配したほど気まずい雰囲気になったりはせず、むしろ二人の気持ちの高揚がなっちにも伝わって来た。一太と銀はこれから始まる『吹き』の事で頭がいっぱいなのだ。
「危ないから、はじっこでじっとしてろよ。」
 大きな建物の中は暗く、強い鉄の匂いに満ちていて、口の中がジャリジャリして来るような錯覚を覚える。決して快適な場所ではないのに、一太と銀はそんな事など全く気にならない様子で、てきぱきと鋳型を用意する。
「あつい……」
 なっちは、自分の額に汗がにじんでいるのを手の甲で確かめた。銀の背たけの倍以上ある巨大な壺のような物から、火がごうごうと噴き出ている。
 一太はもろ肌を脱いで大きなひしゃくの柄をにぎり、その猛火のもとへ向かっていった。肩の汗が赤く照らされて、つやつやと光っている。壺にひしゃくを近付けると、火を扱う専門の職人が栓を砕き、バチバチと激しく火花を散らしながら、熔けた鉄が流れ出て来た。
 オレンジ色に輝くそれはなっちが思うより重たいらしく、一太は歯を食いしばり、早足で運んで来た。
「急げ! 揺らすんじゃねえぞ!」
 鋳型は太い円筒形で、質感は石に似ている。銀はひしゃくを受け取ると、ただちにそのてっぺんの穴から熔けた鉄を流し入れた。
 水のようにさらさらしているけれど、一体あれは何度くらいあるのだろう。少しでも手もとが狂って、足の上にでもかけてしまったら……
 恐ろしい結果を想像し、背中がゾクリとした。そしてなっちはつくづくと、一太と銀の緊張を思った。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:42| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その12)

「ほら、こっちに来てみろ。」
 鋳込み作業が一段落ついたので、銀は細工場の外へ休みに行った。なっちもそれにくっついて行こうとしたのだが、一太に呼び止められた。
「これが父ちゃんの作った釜だ。」
 一太が座っているむしろの上に、底の丸い鉄の入れ物がごろごろと転がっている。当然の事ながら、かまどにちゃんと引っかかるよう、立派なつばが付いている。
「あっ。これ、一太の家にもあったよね。ごはんの良い香りがして来た……」
「お前、本当に知らなかったのか?」
「う〜ん。」
 そう言われれば、テレビの時代劇か何かで見た事があるような気もした。けれど実物を見るのは絶対に初めてだ。
 一太はなっちの奇妙な振る舞いにすっかり慣れたらしく、特に不審がったりせずに、手近な釜の一つをごろんと裏返した。
「鍋・釜の良し悪しは尻を見ると分かるんだ。鉄を注ぐ口がここだから、下手な職人がやるとどうしても汚くなる。」
「ふうん。」
 確かに銀の作った釜に目立った傷などはなかったが、生まれて初めて釜を見る者に、その良し悪しが分かるはずもない。
「父ちゃんの釜は綺麗だし、何より丈夫なんだ。なっちも大きくなって釜を買う時が来たら、ちゃんとひっくり返して選ぶんだぞ。」
「うん。分かった。」
 力強くうなずいてみたものの、そんな日が来るのかどうか、なっちには見当もつかなかった。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:41| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その13)

 なっちにも「一太と銀の暮らしはどこかおかしい」と思う気持ちがなかった訳ではない。けれども割とすぐに、
「それぞれの家によって、違った生活の仕方があるんだな。」
 と納得してしまった。なっちは頑固な上に勝気ではあるが、自分の家のやり方だけが正しくて、他は全部間違っている、と思うような排他的な子供ではなかったのだ。
 だから今まで全く見聞きした事のない、職人の世界や、そこで見習いをしている男の子の言葉を、存分に吸収しようとした。
 そしてそれが、とても楽しく感じられた。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:40| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その14)

 一太にうながされて細工場の外に出ると、もう日が落ちてしまった後で、あたりはすっぽりと夕闇に包まれていた。
 細工場の敷地内にはお稲荷さんの小さなほこらがある。赤い鳥居が幾重にも重なっており、その横で一太はくるりと振り返った。
「お前、太鼓を打ちたいって言うけど、やった事あるのか?」
「あるよ。」
 なっちは「当然じゃない」というように、あごをつんと突き上げて見せた。
「ここでちょっと打つまねしてみろよ。」
「分かった。」
 なっちは即座に足を大きく広げ、地べたをぐっと踏みしめた。そして緊張も吹き飛ばすほど集中し、見えない太鼓に向かってこぶしを振り下ろした。
 太鼓やバチがなくても、上手にやれる自信がなっちにはあった。何しろ、家ではいつもおはしや物差しを振り回して練習していたのだから。これまでに考え出した「工夫」を全部詰め込んで、なっちは堂々と「打ちまね」をやってのけた。
 一太は腕を組んでその様子をながめていたが、やがて、感心したように何度かうなずいた。
「確かに腰が据わってるな。でも……」
「でも?」
 なっちは一太をキッとにらみつけた。
「いや、そんな怖い顔するなよ。お前の腕前にケチをつける気はさらさらない。ただ、打ち方が俺たちと違う気がするんだ。」
「えっ。」
 意外な言葉になっちは茫然とした。それまでなっちは「太鼓の打ち方は全国共通」とかたく信じていたのだ。
「だって、こうしないと曲に合わせられないんじゃない?」
「曲? 何だよ、曲って。」
 今度は一太が目を丸くした。
「『炭坑節』とか『大東京音頭』とか……。とにかくお祭りっぽい音楽をラジカセから流して、それに合わせて太鼓を打つの。」
 なっちはそういう太鼓の使い方しか知らなかった。でも一太の反応から、うすうす自分の間違いに気付き始めた。
「悪いが、初午太鼓の打ち方はそうじゃない。太鼓を七つばかり並べて、いっせいにたたくんだ。チャカマカチャン、チャカマカチャンチャンって。唄や囃子は一切付けないぞ。」
「チャカマカ……」
 なっちにはその演奏が一体どんなものになるのか、想像すら出来なかった。けれども、打ちたい、何としてでも太鼓を打ちたい、という気持ちだけは、ふつふつとわき出て消えるはずもなかった。
「私、練習する。他の子たちよりずっとずっと上手くなってみせる。教えてくれるでしょう? 一太。」
「ゲンコツが飛ぶかもしれねえぞ。父ちゃんみたいに。」
 そんな荒っぽい動作と全く釣り合わない明るい笑顔で、一太は言った。
「何されたっていい。私、頑張るよ。」
 なっちはゲンコツも真に受けたような眼差しで、一太を見つめた。
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その音の響く夜に(その15)

 なっちはまず、初午太鼓の基本になる打ち方を習った。と言っても本番の祭りになるまで、本物の和太鼓を出して来る訳にはいかない。一太がどこからか拾って来た棒っ切れをバチの代わりにし、二人並んで地べたをたたいたのだ。
 最初はまじないの文句のように感じた「チャカマカチャンチャン」も、一太が打つのと一緒に聞けば、太鼓のリズムを正確に表しているのだと分かった。
 まずは見よう見まねでやってみて、一太はそのぎこちない部分を根気よく直した。そして時たまなっちの背後に回って棒っ切れごと手の甲をにぎり、重なったまま一緒に打った。このやり方は、バチを振り下ろす力の入れ具合を体で覚えるのに効果的だった。
「チャカマカチャン、チャカマカチャンチャン……」
 土を打つパサパサとした音とともに、二人の真剣な声は熱を帯びてゆく。単調な繰り返しである分だけ、目標に向かってまっすぐに努力する事が出来た。なっちは間違いを正されるたび顔をしかめていたが、決して休もうとはせず、この特訓が永遠に続いても構わないかのように見えた。
 しばらくは一太が力ずくで打ち方を矯正するような形だった。しかし、ある瞬間を境に、くっつき合った二人の腕の動きがなめらかになり、一太の感じる抵抗がふっと軽くなった。
「今度は一人で打ってみろ。」
 なっちはどうにかそれをやってのけた。もちろん左手を使うべき所で右手を振り下ろしてしまう、なんて事も一度や二度ではなかったけれど、そのつど一太が、
「左!」
「右!」
 と怒鳴り、間違いはしだいに少なくなった。
「お前、覚えが良いな。」
 なっちが微笑んだり得意な顔をしたりするかと期待して、一太はそう声をかけたのだが、なっちは地べたを打つのに集中、いやむしろ夢中になっていて、表情はぴくりとも動かなかった。
 確かにこの単純で力強いリズムの繰り返しには、人の心をどこか遠くに連れていってしまう作用があるように感じられた。
 天国でも地獄でもない、私たちが生まれる前にいた、あの場所へ。
「いったん休憩だ。いくら何でも続け過ぎだ。」
「えっ。そうなの?」
 なっちは興に乗って来た所で打つのを止められがっかりしつつも、やはり少々疲れたらしく、ふう、と大きくため息をついた。
 そこへ細工場のかげの方から、ちょうちんを提げた少年が現れた。一太より少し年長らしく、同じ年頃の仲間が周りを取り巻いている。
「大吉だ。」
「ダイキチ?」
「細工場の親方の息子だ。」
 変な名前、となっちがつぶやく前に、大吉は二人の目の前にやって来た。
「一太、何だよこいつ。」
 大吉はそう言いながら、なっちの顔にちょうちんをぐっと押し当てた。その悪意を存分に含んだ感触に、なっちが相手をにらみつけるより早く、一太は大吉に飛びかかって胸ぐらをがっしとつかんだ。
「うわっ、俺はちょうちんを持ってるんだ。危ないまねはよせ。」
「そのちょうちんを人の顔に押しつけて来たのは誰だよ。」
 一太は容赦なく大吉をそのまま突き飛ばした。周りの仲間に助けられて転ぶのだけはまぬがれたが、一太が大吉の怒りに火を点けてしまった事は明らかだった。
「お前、こいつに初午太鼓の打ち方を教えてただろ。」
 一太は答えずに大吉の目を見た。
「良いと思ってんのかよ。」
「別に、誰にも知られちゃならない秘密って訳でもねえだろ。」
 一太は腹立ちも忘れて、不思議そうな顔をした。
「そりゃチャカマカチャンは秘密でも何でもねえさ。問題はお前のやろうとしている事だ。初午の時、こいつに太鼓を打たせようって魂胆なんだろ。」
「悪いか。」
「悪いに決まってんだろぉ!」
 大吉は不必要に大声を張り上げた。
「こんなヨソ者に大事な初午太鼓を打たせられるか! お稲荷さんがそれで怒って、細工場が火事にでもなったらどうするつもりだ。」
 周りの少年たちからも、そうだ、そうだ、と声が上がった。そしてその中の一人が、
「一太だって本当は入れたくねえんだぞ!」
 と叫ぶと、全員がどっと笑った。一太はカッとしてその声の主に棒っ切れを投げつけた。
「痛え!」
 それほどの衝撃とも思えなかったが、その少年は大袈裟に、痛え、痛え、と騒ぎ立てた。それを見ると大吉はニヤリと笑って、正々堂々とケンカが出来るとばかりに、一太に向かって殴りかかった。一太はそれをよけながらも、なっちを守ろうと横を見た。
 けれどもすでに、その姿はそこになかった。
「い、痛え! 今度はほんとに痛え!」
 なっちはいつの間にか大吉たちの後ろに回り、少年たちのやわらかい首筋を思いっきり引っかいていた。猫のように爪を立てて。
「この野郎、小せえから手加減してやろうと思ったのに、ふざけんじゃねえぞ!」
 その後は蹴ったり殴ったり、正真正銘の取っ組み合いとなった。
「お前たち、何してんだ。」
 銀は細工場から出た所で騒ぎに気付き、その中心になっちがいる事を認めて慌ててかけ寄った。なっちも銀の姿が目に入ると、ぶら下がって噛み付いていた大吉の足を離した。
「なぁに、初午の相談だ。なあ、一太。」
 着物はヨレヨレ、顔や首は引っかき傷だらけだというのに、大吉はまるで余裕たっぷりであるかのような言い方をした。一太はそれがよほどしゃくにさわったらしく、ギロリとした視線だけを返した。
「ねえ、私は初午太鼓を打っちゃいけないの?」
 なっちはすがるような目で銀を見た。正直言って、年上の男の子たちとケンカして傷だらけになるのは、いっこうに構わなかった。勝とうと負けようと知ったこっちゃない。しかし太鼓を打たせてもらえなくなったとしたら、耐えられない。夏祭りも逃げて来てしまったし、ここで打てなかったら今年は一度も太鼓の「本番」をむかえられない事になってしまう。
「ちびっこ会」のおじさんなら「来年がある」と言うだろう。でも来年は今年と違うのだ。小四の祭りは一生に一度しかない。もう二度と。
「大丈夫だ。親方にも話をつけて来た。」
「うちのオヤジが良いって言ったのか?」
 銀がゆっくりうなずくと、大吉は心底驚いたらしく、目を大きく見開いた。
「そんな訳ですから、二人をよろしくお願いします、大吉さん。」
「うそだ! 銀はうそをついてる!」
 大人の銀がこんなにていねいに頭を下げているというのに、アンタの偉そうな態度は何なのよ、とばかりに、なっちは大吉のおしりの下を思いっきりつねってやった。大吉は虫をつぶすようにその手をはたいた。
「うそじゃねえぞ、大吉。もうみっともねえまねはよせ。」
 そこに現れたのは、銀と同じ半てん姿の、しかし銀よりずっとでっぷりした、ひげ面の男だった。
「父ちゃん……。」
「銀の頼みを聞かない訳にはいかないんだ。お前にももう分かるだろう。」
 大吉は一瞬、眉根を寄せると、自分の父親から目をそらすようにして、細工場の奥の方へとかけていった。銀と一太は静かな表情で親方におじぎをし、家の方角に歩き始めた。
「大吉のお父さんって、良い人だね。」
 なっちの発したその明るい声は、まるで最初から聞こえないと決まっている言葉のように、夜の闇の中へと消えていった。
 銀と一太は家に着くまで、ずっと無言だった。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:39| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その16)

「なっち。」
「ん?」
「起きてるなら、ちょっとこっちに来い。」
 真っ暗になった家の中には、銀のゆったりした寝息だけが響いている。一太はなっちの手を引いて寝床を抜け、そっと長屋の外に出た。
「お前に話しておきたい事があるんだ。」
 壁を背に地べたへ腰を下ろすと、一太は真剣な面持ちでなっちを見た。
「なあに?」
 しかしすぐには口を開かず、ためらうように顔を下に向けた。
「……俺はお前に、うそつきと思われるかもしれない。でも俺はうそなんてついてない。あれは絶対に、本当の事なんだ……。」
「うそ……? ねえ、そんな小さな声じゃよく分からないよ。こっちを向いて、ちゃんと話して。」
「そうだな。」
 一太はどことなく悲しげに微笑んだ。
「俺は前に『父ちゃんはここいらでも指折りの、腕の良い鋳物師だ』って言ったよな。」
「うん。」
「父ちゃんは確かに丈夫で良い釜を作る。小僧に毛が生えたようなそこらへんの若ぞうとは訳が違う。でもな。」
 一太は、すう、と息を吸い、次の言葉を胸から押し出した。
「父ちゃんは親方じゃないんだ。」
「だって、大吉のお父さんが親方なんでしょ?」
「さっき大吉と一緒にいた奴らにとっては、そうだ。でも父ちゃんや俺の親方じゃない。」
「よく分からないよ。」
 自分の父親が会社で何をしているかも知らないなっちに、鋳物職人の世界の仕組みが理解出来るはずもなかった。困り顔のなっちを見て、一太は最初から説明する事に決めた。
「親方はまず、細工場を自分で持ってなきゃいけない。もちろん場所だけじゃなく、『吹き』をするための道具も必要だ。そうして住み込みの小僧に飯を食わせて、働かせる。」
「もしかして、さっき大吉と一緒にいたのは……」
「そうだ、あいつの家の小僧だ。みんな大吉の言いなりだったろ? 変な事を言って親方に告げ口でもされたら、おまんまの食い上げになるからな。」
 一太となっちはお釜で炊いたご飯の美味しさを口の中によみがえらせて、クスクスと笑った。
「一太はどうして大吉の言いなりにならないの? 大吉が嫌いだから?」
「まあそれもあるけどな。要は、大吉のオヤジに食わせてもらってる訳じゃないからだ。俺たちは細工場の片すみを借り、熔けた鉄を買い取って、仕事をしている。全く世話になってないとは言えないが、とにかく大吉の家とは勘定が別っこなんだよ。」
「う〜ん。」
 利発であるとはいえ、小さいなっちには少々難し過ぎたかな、と、一太は苦笑した。
「それで、何が『うそ』なの?」
「父ちゃんは腕が良い。でもそれをちゃんと認めているのは、俺だけなんだ。他の連中は、みんな父ちゃんの事を嫌ってる。」
「えっ。」
 美味しいご飯を食べさせてくれた銀。初午太鼓を打てるように、親方に話をつけてくれた銀。これ以上ないくらい親切な銀を、悪く思う人がいるなんて、なっちには信じられなかった。
「こう見えても、鋳物師ってのはけっこう儲かるんだ。『宵越しの金は持たない』なんて言って、たっぷりもらってパーッと使う。でも父ちゃんは、遊びにも行かないし、酒も飲まない。寝て、起きて、食って、ひたすら毎日釜を作ってる。何でだか分かるか?」
「実はとってもケチンボで、畳の下の壺の中にお金を貯めてる、とか?」
「アホッ! そんな風に見えるかよ!」
「ごめん、ごめん。冗談だってば。」
 二人はひとしきり笑った後、ふう、と息をついた。一太は、人が真面目に話してるのに、まったく、などとブツブツつぶやいてから、人がいないか確かめるため、そっと周囲をうかがった。そしてぐっと声を落として、言った。
「大吉の父ちゃんが、俺の父ちゃんの作った釜を、ほとんど全部取り上げちまうからだ。父ちゃんが逆らえないのを良い事に、な。」
「ひどい……。」
 なっちはようやく、細工場からの帰り道、一太と銀の態度が変だった理由を理解した。そうして、大吉のお父さんが良い人だと勘違いしたのを、恥ずかしく思った。
「何で一太もお父さんも、そんなのズルい、間違ってる、って言わないの?」
 私だったら絶対言うのに。という言葉をさえぎって、一太は悔しそうに、言った。
「父ちゃんがよそ者で、このあたりに何のつてもないからだよ。父ちゃんは、西行だったんだ。」
「サイギョウ……?」
「大昔の坊さんの名前だ。腕を磨くために、あちこちの細工場を渡り歩く職人を、そう呼ぶんだ。父ちゃんは、大吉の家のどの若い衆、いや、親方よりもずっと多く場数を踏んでるから、頼まれれば何でも作れる。それに鋳型に鉄を流し入れるだけじゃなくて、砂鉄を熔かす最初の所から、全部やれるんだ。」
「すごい。」
「何でも、田舎の細工場で働くと、そういう仕事を覚えられるらしい。人も道具もそろってないからな。」
 銀の話を始めると、一太の目はキラキラと輝き出す。つられてなっちの心も、ワクワクと熱くなって来る。しかし、ふと思う。銀のそうした技術は、尊敬を集めこそすれ、嫌われる原因にはならないのではないか、と。
「やっぱり嫌われるなんて、おかしいよ。」
「みんなねたんでるのさ。それに、俺もよく知らないんだが……」
 一太は言葉を止めて、遠くを見た。
「どうも母ちゃんが関係あるらしい。」
「お母さんって……」
 一太の瞳に悲しみの色が広がったので、なっちは続きを言えなかった。二人は体を寄せたまま、しばらくの間、黙りこくっていた。
「職人に、国も生まれもあるもんか。」
 沈黙を破ったのは、一太の小さなつぶやき声だった。
 目の前をふさぐ、暗い大きな「何か」 難しくて飲み込めない部分がたくさんある上に、一太の心が壁になって、全体をながめる事すら許されない。ちびっこ会のおじさんに笑われた時以上に、なっちは自分の無力さを感じていた。
 でも。それでも。
 一太と銀のために出来る事が、きっとあるはずだ。
 なっちは太鼓を打ち始める直前のように、体が熱くなるのを感じていた。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:38| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その17)

「まるで子供ん時からここに住んでるみたいだな。」
 地べたを打つなっちの腕さばきは、つい数日前まで「チャカマカチャン」を知らなかったなんてとうてい信じられぬほど、なめらかになっていた。その上達ぶりに一太はしきりと感心したが、なっちはひとかけらも不思議とは思っていなかった。一太の特訓の時間だけでなく、細工場で銀と一太が作業するのを見ている間も、頭の中でずっと太鼓を打ち続けているのだから。寝ている時だって、夢の中でバチを振り回している。
「まだ一度も本物の太鼓ではたたいてないけどね。」
「地べたでそれだけ出来りゃ太鼓でもおんなじだよ。」
 体の奥にずしんと響くあの音を鳴らすのは、どうやら本番までおあずけらしい。「ちびっこ会」では祭り前の二週間、毎日本物の太鼓を打っていた。だから最初のうちは、一太たちのやり方が信じられなかった。けれども数日一緒に過ごして、ようやく分かってきた。ここでは大人だけでなく子供たちも、一日中細工場で働いている。しかも天井を突き上げるような大きな火と、熔けた鉄を相手にする危険な重労働だ。わざわざ太鼓を引っぱり出す時間も体力も、仕事の後に残っているはずがないのだ。きっとその分、お祭りは爆発するみたいに盛大にやるのだろう。初午。ハツウマ。
「いよいよ明日だね。」
「いや、祭りは今日からだ。」
「ええっ? だって初午は明日だって……」
「太鼓は宵宮からたたき始めるんだよ。」
「ヨミヤ?」
「初午の前の日の事だ。」
「つまり…… もう今日、太鼓打てるのね!」
 なっちの顔が光に照らされたようにパァッと明るくなるのを見て、一太は満足そうに微笑み、うなずいた。
「その前に風呂に行くぞ。」
「そういえば一度も入ってなかったね。一太のうちのお風呂、壊れちゃってるの?」
「また変な事言ってんなぁ。あんな長屋に風呂が付いてる訳ねえだろ。」
 こういうやり取りにはもう二人とも慣れっこになっていたので、気にも留めずに笑い合い、風呂屋に向かった。それぞれ自分用のてぬぐいを持って。
 太い文字で「ゆ」と染め抜かれたのれんの下をくぐると、暗い、がらんとした空間が広がっていた。一太が一段高い所に座っている女の人にお金を渡している。
「タダじゃないんだ。」
 あきれて何も言わない一太に手を引かれて中に入ると、奥の方にもうもうと立ちのぼる湯気が見えた。どうやら湯船も床も全て木製のようだ。なっちは家族旅行で行った温泉を思い出した。
「そういえば私、一太と一緒で良かったのかな?」
「父ちゃんと来たかったか?」
「そうじゃなくて……」
 話はあとあと、という感じで、一太はバサバサと着ている物をかごの中に放り込んだ。なっちは少しためらったが、恥ずかしがるのはかっこ悪い気がしたので、いさぎよくシャツもパンツも脱ぎ捨てた。
「風呂場ですべって転んだりするなよ。」
 一太はなっちの方に振り向いてそう言った後、しばしの間固まった。
「お前、女だったのかよ!」
 なっちは一太と同じくらい目を大きく見開いて、叫んだ。
「知らなかったの?」
「だって髪は短いし、太鼓打ちたいなんて言うし。」
「自分の事『私』って言ってたじゃん!」
「確かにしゃべり方が変だなあ、とは思ってたけど、他にも変な所がたくさんあるから気付かなかった。」
 男と女だ、と意識してから向き合ってみると、妙な気分だった。何せ二人とも素っ裸なのだ。なっちはどこに目をやったら良いのか分からなくなって、一太の体以外の場所に視線を泳がせた。一太はそのぎこちない空気から逃げるように、湯船の方へと走っていった。
「走ったりしたら危ないよ。一太こそ転んじゃう。」
 ぬるぬるして冷たい風呂場の床にこわごわ足を進めつつ呼びかけたが、一太は何も答えない。
 嫌われてしまったのだろうか。私が女だから。
 ぼんやりとした不安がなっちの心をしめつけた。それは「ちびっこ会」のおじさんに抗議した時とも、暗闇の中を一人で歩いた時とも違う、今までに感じた事のない苦しさだった。
 案の定一太は湯船の前で右足をつるりとすべらせた。しかし転ぶようなへまはせず、その勢いでどぼんと湯の中に飛び込んだ。
「大丈夫?」
 返事はなかった。なっちが近付くと、一太は湯気の中でむっつりと横を向いている。早くそばに行かなければと、なっちはきょろきょろとあたりを見回した。
「ねえ、シャワーはどこにあるの?」
「……何さがしてんだ?」
 ようやく答えてくれた。一太がこちらを見ているのを確認して、なっちはほんの少しだけ安堵した。
「シャワーだよ。お風呂に入る前に体にお湯をかけたいから。」
「ほら、そこにおけがあるだろ。」
 一太が指差した先には、木製のおけが積み上げてあった。
「それで湯船から湯をくんで使うんだ。」
 一太に言われた通りおけで体にお湯をかけ、なっちは湯船に入っていった。思いの外冷えていたようで、足の先がじんとする。
「一太。」
 なっちは一太のすぐ隣に、ぴったりくっついて座った。お互いの腕が触れ合う。
「怒ってる?」
「怒ってねえよ。」
 その言い方は怒っているように聞こえた。しかし体を離したりはしなかったから、なっちの事を大嫌いになってしまったという訳ではないらしい。二人はそのまましばらく無言で湯につかっていた。
「……内緒にしてたんじゃないんだよ。」
「分かってる。」
 一太はなっちの方は見ずに、濡れた指で鼻の下をこすった。そして何かハッとしたような表情になって、風呂場のはしからはしまで見渡した。おじさんが二人、てぬぐいで体をこすっている。どちらも知らない人だ。
「お前が女だって、大吉たちに気付かれないようにしろ。」
「どうして?」
「また騒ぐに決まってる。『女が太鼓なんて打ったら、お稲荷さんが怒る』って。」
「ねえ、前に聞きはぐっちゃったんだけど。」
「何だ?」
「お稲荷さんって、何?」
 あまりにも基本的な質問に、一太は一瞬言葉に詰まった。 
「細工場のわきに赤い鳥居とほこらがあるだろ?」
「それは知ってる。うちのマンションの屋上にもあるから。」
「じゃあ何だよ。」
「どう言ったら良いのかな。あれをお稲荷さんって呼ぶのは知ってるの。中に神様がいるのも何となく分かる。」
 一太が湯にあごをひたすように、深くうなずいた。
「でもね、大吉が何であんなに大騒ぎするのかが分からないの。」
 マンションの住人で、お稲荷さんを気にしながら暮らしている人なんて一人もいなかった。大人はめったに屋上へ上がらないようだから、その存在自体を知らない人も多いのかもしれない。誰も手入れをしていないらしくボロボロで、怖いというより寂しい雰囲気をただよわせている。神様のはずなのに、捨てるに捨てられずそのまま忘れ去られた粗大ゴミみたいなのだ。
「お稲荷さんは火の神様で、細工場を守ってくれてるんだよ。火を無事に使えるようにな。初午もお稲荷さんのお祭りだ。」
「だから大吉は私に太鼓を打たせたくないのね。」
「あいつはちょっと騒ぎ過ぎだけどな……。」
 一太はくっくっと笑って、続けた。
「鋳物師にとってお稲荷さんが大切なのは確かだよ。なっちも俺たちの仕事を見てりゃ分かるだろ?」
 一太がひしゃくで運んでいた熔けた鉄は、金属に見えなかった。高い密度を保ったままさらさらと流れていく、火そのもののようだった。震えが来るほど美しく、恐ろしい。あの吹きの様子を思い出しながら、なっちはこくりとうなずいた。
「『ヤケ二十日』っていって、火で大ケガしてもそう長くは休めないしな。俺と父ちゃんなんて『ヤケ五日』ってとこだ。」
「ずーっと働きづめなの?」
「そんな事はないさ。明日の吹きは休みだ。」
「お祭だもんね。」
「初午の日に火を使うと火事になるからだよ。風呂も今日のうちじゃないと入れないんだぞ。」
「初午って、色々大変なのね……」
 どうか、私が太鼓をたたいたせいで細工場が火事になったりしませんように。なっちは湯の熱さでぼんやりしてきた頭と体で、お稲荷さんにお祈りした。幾重にも重なった赤い鳥居を思い浮かべて。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:37| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その18)

「わぁー」
 細工場に戻ると、やぐらの飾り付けがすっかり終わっていた。よしずの屋根が付き、紅白の幕が引かれ、紙で出来た大きな花があちこちに散らされている。
「ずいぶん広いんだね! 背もこんなに低いんだ。」
「太鼓の打ち方だけじゃなく、やぐらも違うのか?」
「うん、飾りは似てるけど、私たちのお祭りのやぐらはもっとのっぽだよ。」
 そういえば、やぐらの上で太鼓を打たせてもらえないのに腹を立てて、逃げて来たんだっけ。あの時の嫌な気持ちと、小さな不安のようなものが、ちらりとなっちの心をかすった。まさかまた、
「やぐらに乗せない。」
 なんて言われるんじゃないか。なっちの腰ほどの高さで、体育館の舞台くらいの広さがあるやぐらに上るのに「背が小さいから危ない」という理由は付けられないだろうが、何しろ大吉たちはなっちが太鼓を打つのをじゃましたくてしょうがないのだ。
「何難しい顔してんだ? これから宵宮だっていうのに。」
「そうだよね、お祭りが始まるんだから。」
 なっちは気を取り直した。何があっても、銀と一太が味方してくれる。きっと大丈夫だ。
 一度長屋に帰り、なっちは自分のハッピに、一太は銀の半てんに着がえた。
「ぶかぶかだね。」
「祭のためにハッピ買う金なんてねえからな。」
「でもすごくかっこいいよ。一人前の鋳物師になったみたい。」
 一太は表情を変えずに、耳だけを真っ赤にした。
 細工場では、大吉たちがやぐらに太鼓を並べていた。一太と違って、全員体にぴったり合ったそろいのハッピを着ている。濃い紺地で、背中にはだいだい色の大きなひょっとこ。おそらく大吉の父が初午のために仕立てさせたのだろう。
「かっこいいだろ?」
「全っ然。」
 大吉はなっちをにらみつけたが、一太のいでたちを見て、ふん、と笑った。なっちの態度を負け惜しみと解釈したのだ。
「大吉さん、太鼓の用意が出来ましたよ。」
「おう、じゃあ始めっか!」
 やぐらには「ちびっこ会」でも使っていたたる型の大きな太鼓だけでなく、なっちの知らない薄べったいつづみのような太鼓も並んでいた。ちょうど鼓笛隊の小太鼓くらいの大きさで、革を締めるための赤いひもが周りにめぐらされている。
 大吉は「当然」と言わんばかりに、一番大きなたる型太鼓の前を陣取った。
「なっち、来い。俺とお前は締太鼓だ。」
 一太もやはり「当然」と言うように小太鼓の前に立って、足をぐっと開いた。
「ちょっと待って。私、こんな太鼓たたいた事ないよ。」
「そうか、お前の所には締太鼓がないのか。でも地べたで打ってたのと同じだぞ。」
「でも……」
 なっちは泣きそうになった。私は今、大吉が打とうとしている、あの大きな太鼓がたたきたくて、これまで頑張って来たのだ。こんな変な形の、小さい太鼓じゃ、嫌だ。
 なっちの様子を見て、一太は一瞬何か考えたようだった。しかしすぐに、ちょっと意味ありげな微笑を浮かべ、言った。
「まあじゃあ、一回目はここで見てろ。初午太鼓は初めてなんだし、大勢で打つのがどんなもんか、聞いて覚えるんだ。なっちならすぐやれると思うけどな。」
 自分で打たずにただながめるだけなんて、なっちにとっては耐えがたい事だったが、一太の言い分ももっともだと思い、素直にしたがった。
 全ての太鼓の前に人が着いた。どことなくざわめいていたみんなの体と心が、一瞬、しんと静まる。
「初午太鼓、ハッ!」
 タタン!
 最初の一打ちを打ったのは、一太だった。金属的とも言える締太鼓の高い音が、あたり一帯に響き渡る。
「ハッ!」
 かけ声とともに大吉の家の小僧たちが続々と加わってゆく。締太鼓に締太鼓が重なり、中くらいのたる型太鼓のくぐもった低い音も加わる。
「ハッ!」
 ドドン!
 人一倍大きく、人一倍低く割れた大吉の音が最後に入った。もっと得意そうな小憎らしい表情で打つかと思ったけれど、意外にも真剣な様子だった。大吉だけではない。小僧たちも、もちろん一太も、これ以上ないくらい真剣だった。
「すごい……」
 七つの太鼓がいっせいにチャカマカチャンのリズムを刻む。チャカマカチャンなんておかしな表現からは想像がつかぬほど、勇壮な響きだ。太鼓の震動がなっちの指先から頭の先に向かって、つらぬくように伝わる。太ももが、腰が、腹が、胸が、肩が、ズズン、ズズン、と小刻みに震え続ける。
 まるで神鳴り様を目の前にしているような。
 まるで母の心臓を目の前にしているような。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:36| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その19)

 打ちたい。
 打ちたい。
 私も初午太鼓を打ちたい。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:35| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その20)

 繰り返されるチャカマカチャンの合間合間に、即興的なリズムが何度も入る。よく聞いてみると、それらはどれも一太がまず打ち、他の太鼓がまねして続いてゆくのだ。
 初午太鼓を先導しているのは、明らかに一太だった。あれだけ仲間はずれにされていたのに。まさかみんな気が付いてない訳じゃないだろう。
 感動と興奮と、少々の混乱とともに、一回目の初午太鼓は終わった。半てんの袖口で汗をぬぐっていた一太は、なっちが自分をじっと見つめているのに気付くと、にっこり微笑んだ。
「なかなかのもんだろ?」
「うん、すごい。すごかったよ!」
 それからなっちは大吉や小僧たちが離れた場所にいるのをちらりと確認し、続けた。
「一太が一番目立ってたね。大吉は怒らないの?」
 一太はふん、と鼻を鳴らして言った。
「あいつは自分が一番良い役を取ってるつもりなんだよ。俺の事なんて目に入っちゃいないさ。」
 二人の視線の先にいる大吉は、小僧たちに囲まれて満足そうな笑い声を立てている。
「変なの。」
「でもお前だって締太鼓を打てって言ったら嫌そうな顔してたじゃないか。」
「それは……」
 なっちは自分の心の変化にとまどった。ついさっきまで、あんな太鼓、打っても仕方ないと思っていた。でも今は。
「なっち、次はやれそうか?」
 答えは分かってるけどな、という顔で一太は尋ねる。なっちも当然のように大きくうなずく。きらきらと顔を光らせて。
「うん、私、頑張るよ。」
 日が落ちるまでにはまだ間があったが、青空はほんのりくすみ、夕闇のかけらのようなものがちらほらと降りて来ていた。
 なっちはあたりを見回し、「ちびっこ会」の祭りでは見かけない飾りがある事に気付いた。
「何、あの四角いの?」
 それは学校で使うお道具箱くらいの大きさで、木枠に張られた和紙に色とりどりの絵や文字が書いてある。
「ん? ああ、あれは地口あんどんだ。」
「やぐらにもいっぱい付いてる。」
 他にもお稲荷さんの赤い鳥居やへいのきわなど、そこらじゅう地口あんどんだらけだ。
「何が書いてあるんだろう……」
「お。また始まるらしいぞ。」
 大吉と小僧たちが再びやぐらに集まっている。一太となっちが近付くと、先ほど締太鼓を打っていた小僧が一人、すっとやぐらから身を引いた。
「代わってくれるの? ありがとう。」
 そそくさと逃げるその首筋には、川の字みたいな引っかき傷が真っ赤にくっきり残っていた。
「お前ってけっこう怖いのな。」
 一太がてのひらをひらひらさせて爪を見せる。
「私のたった一つの必殺ワザだもん。」
 頼もしいこった、とつぶやきながら一太は締太鼓に着いた。なっちも隣に並ぶ。不思議と緊張していなかった。ドキドキもない。心にあるのは無。
 静寂。
「初午太鼓、ハッ!」
 タタン!
「ハッ!」
 かけ声をかけるのなんて生まれて初めてだった。でもそれはのどの奥から自然に発せられた。まるで何かに導かれるように、太鼓の音も綺麗に響く。
 音の粒、粒、粒。こちらから飛んでゆき、向こうからもなっちを打つ。その勢いはただ聞いていた時とはくらべものにならない。
 欲しかったのは、これだ。「ちびっこ会」のおじさんとケンカしてでも手に入れたかったもの。いや、きっと、それ以上のもの。

 チャカマカチャン
 チャカマカチャンチャン……

 やっぱりこれはまじないの言葉なんだ。だからほらもう、こんなに遠くにいる。

 神様。
 そこにいるの?

 ……
posted by 柳屋文芸堂 at 22:34| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その21)

「思った通りだ。」
「え……?」
 気が付くと一太もなっちも大吉も太鼓を打っておらず、やぐらを下りる所だった。
「初めてだなんて信じられねえよ。」
「終わったの? 初午太鼓。」
 なっちの不思議そうな顔を見て一太は一瞬目を丸くし、それからすぐに大笑いした。
「気付かなかったのか? お前、夢中になって打ってたもんなぁ。」
「私、ちゃんと出来てた?」
「ちゃんともちゃんと! 上手かったぞお。」
 記憶が途切れた不安からようやく開放されて、ホッとしかけた、その時。なっちの頭の後ろにコチンと何かがぶつかった。
「痛っ。」
「大吉っ。」
 一太の声に振り向きもせず、大吉はなっちを小突いたグーの手をひらひらさせて、小僧たちの方に走っていった。
「いきなり、もう。仕返しなのかな?」
「いや、褒めてるつもりなんだと思うぞ。」
「うっそだあ。」
 その後何度も何度も、なっちは初午太鼓を打った。一太の即興を追いかけ、大吉の低音を背中に浴びて。小僧たちと入れ代わり立ち代わり。時の経つのなんてすっかり忘れてしまったから、全てが一瞬のように、全てが永遠のように思えた。
 夜のとばりが完全に降りると、子供たちの出番は終わりになった。なっちはもちろんもっと打ちたかったが、てのひらのマメがどれも破けて血がにじんでいたし、何より「やりたい事を存分にやれた」という充足感が心に満ち満ちていたので、素直に太鼓から離れた。
 次の主役は「若い衆」と呼ばれる青年たちだ。みんな鉄を熔かしている時とはうって変わって、子供みたいな無邪気な顔でバチを振り回している。
「悔しいけど、俺たちよりずっと上手いんだ。かっこいいからよく見……、なっち?」
 なっちが見ているのは若い衆の太鼓ではなかった。闇の中にぼうっと光り浮かぶ、四角い地口あんどん。その切ないような美しさに、視線も心も奪われていたのだ。
「ねえ、何で地口あんどんの光はちらりちらり揺れるんだろう?」
「さあ……。風で火が大きくなったり小さくなったりするからじゃねえか?」
「火? 中に入ってるのは電球じゃないの?」
 一太はなっちの言いたい事がよく理解出来ず、ただ首を傾げただけで何も答えなかった。
「近くに行って見ても良いかな?」
 一太が「おう」と答えるより早く、なっちはふらふらと吸い寄せられるように、地口あんどんのかかっている赤い鳥居へと向かっていた。
「綺麗。」
 あんどんにはぐにゃぐにゃと崩れた文字と、淡く彩色されたキツネが浮かび上がっている。
 どれくらいの時間、それをながめていただろうか。やぐらのそばに敷かれたゴザには酒とごちそうと人々が集まり、祭りらしいにぎわいを見せている。大吉と小僧たちも赤飯をかっこみ甘酒を飲んで、ふざけた踊りを踊っている。おそらく酔っ払ったつもりになっているのだろう。無理やり酒を飲まされた一番気弱な職人が、真っ赤な顔で一緒に踊る。すっかり出来上がった連中が、はやし立てつつその輪に入る。
 膨らみ続ける喧噪から、なっちと一太ははずれたままだった。一太は本当を言うと赤飯食いたさに腹がぎゅうぎゅう鳴っていたのだが、なっちの様子がいつもとあまりに違うので、動けずにいた。
 そこにふと、笠を目深にかぶった女性が一人、なっちの前を通り過ぎた。薄紅色の着物と真っ白い首筋は、地口あんどんと同じようにぼんやり光っているように見える。職人と子供ばかりのこの場所におよそ似つかわしくない風情だ。彼女はなっちの横にたたずみ、ほんの少し笠を上げた。冷たそうな肌に宿る、優しい表情。その視線の先にいるのは、銀だった。
「一太。」
「……何だ?」
「あの人、一太のお母さんじゃないのかな?」
「そんな訳ねえよ。母ちゃんは死……。」
「ほら、見てごらん。」
 銀は女性の期待に応じるようにすっと席を立ち、やぐらに向かった。
「あーあ、父ちゃん打つのか。」
「嬉しくないの?」
 銀は一番はしの締太鼓を打っている若い衆に、代わってくれるよう頼んでいる。
「あんまり上手くねぇんだよなぁ。ほら、生まれた時からここにいる訳じゃないから。」
 銀は遠慮がちに締太鼓を打ち始めた。確かにどことなくぎこちない。熔けた鉄を扱う時の凛々しさを思えば、がっかりするのも当然だろう。
「でも、何だかあったかい気持ちになるよ。」
「そうかなあ。」
「うん。やっぱり一太のお父さんが一番かっこいい。」
 完全に納得してはいないものの、父親を褒められるのはやはり悪い気はしないらしく、一太はほんの少しだけほおをゆるめた。
「あっ、今の顔!」
 なっちは次の言葉を飲み込まなければならなかった。「あの女の人にそっくり」と続けたかったのに、当の女性のてのひらに口をふさがれてしまったのだ。ほっそりした白い指はなっちのくちびるから耳たぶに向かって移動し、内緒話の形に軽く丸められる。そこに女性の笠が近付いて、なっちの顔は半分かくれた。
「……どうした?」
 女性が音もなく立ち去った後、なっちは顔色をなくして茫然としている。一太が話しかけても何も答えない。
 理由の分からない沈黙がしばらく続いた後、なっちは覚悟を決めるように、すう、と息を吸った。
「帰りなさい、って言われた。」
 一太はその言葉が自分にとってどんな意味を持つかを理解し、背筋をぶるりと震わせた。
「何でだ?」
「あなたはここにいるべき人間じゃない、って。私と同じだ、って。」
 なっちの声も高く震えている。
「同じ……。」
「ねえ、一太のお母さんって死んじゃったんだよね?」
「そうだ。俺は赤ん坊だったから顔を覚えてない。」
「もしあの人が本当に一太のお母さんだとしたら。」
 なっちはすがるように一太の目を見た。
「私、死んじゃったのかな?」
「そんな訳ねぇだろ!」
「でも、おかしいよ。もう何日もここにいるのに、お父さんもお母さんもさがしに来ない。それにもう気付いてるの。ここは空も風も人の暮らしも、私が前にいた所と全然違うって。私の知っている事と一太の知っている事が半分も重ならないって。」
 一太は反論出来ずにつばを飲む込む。
「『トラックに轢かれて私が死んだらどうするの!』なんて言っておじさんをおどしたから、きっと私、バチが当たって死んじゃったんだ!」
 大声で泣き出しそうになったなっちの胸に、一太はてのひらを押しつけた。
「生きてる。」
 低い静かな声にハッとしてなっちは前を見る。
 怖いくらいに真剣な顔。
 心臓の上にあるのは、ゴツゴツと硬い働き者の手。
 涙は一粒だけポロリとこぼれて、残りは引っ込んでしまった。
「良い音が鳴ってるぞ。ドン、ドン、って。」
「本当に?」
「うそついてどうする。」
 ようやく一太の顔にいつもの微笑みが戻る。なっちもつられて瞳を細めた。
「だいたいお前が死んでるとしたら、ここは地獄か極楽か? 俺たちは鬼かお釈迦様か? 冗談じゃない。俺たちはこの地べたの上でちゃんと生きてるんだ。」
 一太は足下の土をドンと踏みしめてから、なっちの腕を自分の胸にぐいと引き寄せた。
「……鳴ってる。」
「だろ?」
「生きてる。」
 なっちは自分がひどく馬鹿らしい心配をしたのだと気付いて、照れるように笑った。しかしすぐに気がかりな事を思い出し、真顔に戻った。
「それじゃあ、一太のお母さんの言った『同じ』って何だろう。」
 一太は、銀がみんなから嫌われていると告げた時のような寂しい表情でつぶやいた。
「ここにいられない、のかな。」
 なっちは意味が分からず首を傾げる。
「よそ者の所へ嫁に行ったから、母ちゃんは死んじゃったんだって、前に言われた事がある。」
「誰に?」
「大吉だ。」
「ひどい。そんな理由で人が死ぬ訳ないじゃないの!」
「きっと大吉の父ちゃんがそう話したんだ。『本当は銀なんぞと一緒になるような女じゃなかった』ってな。」
「もしかして……。」
 なっちは好奇心に瞳を輝かせた。
「大吉のお父さん、一太のお母さんが好きだったんじゃないの? それでヤキモチ焼いて……。」
「さあ、俺もそこまでは知らん。」
「なーんだ。」
「ただ、ここに居づらかったのは確かだろうな。だからって、いなくなる事ないのに。」
 一太の悲しげな顔を見て、なっちは自分の家族を思い始めた。日が落ちてから雨が降り出すと、必ず傘を持って太鼓の練習場にむかえに来てくれたお母さん。なっちの勇姿を撮るんだと言って、ビデオカメラを新調したお父さん。二人ともお祭りを、いや、なっちが太鼓をたたくのを、とても楽しみにしていた。
 何故分からなかったんだろう? やぐらの上か下かなんて、どうでも良い事なのに。
「馬鹿だ、私。」
 今度は一太が首を傾げる。
「ねえ、まだ初午終わってないけど……、おうちに帰っても良いかな?」
 予想していた言葉だったので驚きもせず、一太は大きくうなずいた。
「でもその前に、赤飯食わねえか?」
「そうだね。『おまんま』食べないと、どこにも行けないね。」
 二人はお腹をぐう、と鳴らしながら、みんなの集まっているゴザの方に走っていった。
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その音の響く夜に(その22)

「この川沿いのどこかなのは間違いないんだがなぁ。」
 二人が出会った時と全く変わらぬ大きな川のながめ。しかし夜明けが近いので、あたりの空気はほんの少しだけ光を含んでいた。
 白みつつある濃紺の空に残る星は、ちらちらと頼りなげにまたたく。
「あっ。」
「どうした?」
「街灯。」
 なっちは川のほとりの一点をじっと見つめた。
「まだ暗いけど、戻れそうか?」
「うん。帰りたい、って思ったから、きっと大丈夫。」
 遠くの方から初午太鼓の音が聞こえる。幾重にも重なって響く「チャカマカチャン」ここら一帯に点在する全ての鋳物の細工場で、初午の祭りが続いているのだ。
「地面が揺れてるみたいに感じる。すごいね。」
「朝まで打ちっぱなしだ。」
「最後までいられなくて、ちょっと残念だな。」
 一太となっちはお互いの顔を見た。二人とも同じ表情だったので、少し、笑った。
「太鼓、楽しかったよ。」
「俺もだ。」
「一太、とってもかっこ良かったね。」
「なっちもここで育ったみたいに上手かったぞ。」
 本当にここで生まれたんだったら良かったのに、となっちは心の中だけで言った。それがほんの少しだけうそだと、知っているから。
「なあ。」
「ん?」
「もし俺が大人になったら……。西行をして、色んな細工場で働いて、またここに戻って来たら……。」
 きっと今、一太の耳は真っ赤になっている。見えなくたって感じる。何を告白しようとしているのか、分かる。
 本当はすごく聞きたいけど、一太の言葉が聞きたくて仕方ないけど、聞かない。
 私はここにいるべき人間じゃない、のだ。
「私、大人になったら一太の作ったお釜を買うね。」
 一太の目が迷っている。喜んで良いのか悲しんで良いのか。
 きっと寂しさが一番まさっている。でも、かまわない。
「毎日美味しいご飯が炊けるよ。」
「……おう。」
「立派な鋳物師になってね。」
「おう。」
 なっちはさよならも言わずに走り出した。絶対に流すまいと決めていたはずの涙がポロポロとこぼれて、しかしそれをもみ消そうとはもうしなかった。
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その音の響く夜に(その23)

 一本目の街灯。
 振り返ってはいけない。

 二本目の街灯。
 振り返ってはいけない。

 三本目の街灯。
 四本目の街灯。

 ……
posted by 柳屋文芸堂 at 22:27| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その24)

 アスファルトの感触にハッとして足を止めると、河川敷に近いよく知った道だった。フォックスパレスに向かって再び走り出す。
 マンション前の公園から、太鼓の音が響いている。あたりをこうこうと照らすのは、電球の入った紅白のちょうちん。
「なっち、どこ行ってたの?」
 ユミが一大事みたいに叫ぶ。
「呼んでるのに何で来ないんだ、って、おじさん怒ってたよ。」
 私はもう怒ってないのに、と思いながら、なっちはやぐらの下に向かった。
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その音の響く夜に(その25)

 小四の夏休みの自由研究で、私は鋳物について調べた。

 この街では昔、鋳物産業が盛んだった事。
 鋳物工場―もっと大昔は「細工場」と呼んだ―があちこちにあって、優秀な鋳物師がたくさんいた事。
 どの工場も火の神様としてお稲荷さんをまつっていた事。
 そして毎年三月、初午の祭りとして太鼓を打ち鳴らしていた事。

 この街がベッドタウンとして開発されるようになってから、鋳物工場はどんどん減少している事。
 それにともなって初午の祭りも近所から苦情が来るようになり、太鼓抜きの地味なものになりつつある事。

 工場をつぶした跡地には、マンションやスーパーが建てられている事。
 フォックスパレスがある場所にも、昔、大きな鋳物工場があった事。

 図書館の郷土資料室に通いつめて書いたその文章を、担任の先生はいたく褒めた。とりわけ「鋳物師の仕事について」の部分を気に入ってくれたらしく、クラスみんなの前で読み上げ、
「まるで見て来たみたいだ。」
 と笑った。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:24| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その26)

 二十歳を超えた今でも、私は夏祭り前の二週間、太鼓の練習場に通っている。子供たちを指導する「先生」として。タツヤやヒロくんやユミは小学校を卒業した途端、太鼓の事なんてすっかり忘れてしまったのに。
 子供好きなのか人が良くて押しつけられるのか、あれからずっと同じおじさんが「ちびっこ会」の役員をしている。私を泣かせた事なんてまるっきり忘れているらしく、
「なっちは小さい時から飛び抜けて太鼓が上手かったもんな。」
 なんて平気な顔で言う。
 今になってみればおじさんの気持ちも分かるのだ。同じ学年の子は同じ扱いにしないと、親たちが黙っていない。他の四年生が実力不足だったからといって、私だけをやぐらに上げる訳にはいかなかったのだ。
 でも私は十分に気を付ける。子供たちに必要以上の期待を持たせて、後でガッカリさせないように。大人にとっては「毎年ある夏祭り」でも、子供にとっては「今年だけの夏祭り」なのだ。
 私みたいに傷付いて、そのあげく二度と会えない男の子を思い続けるようになったら、事だ。

 私は大人に、なった。
 一太、も?

 今年の夏祭りが終わったら、走り出してみようか。
 暗い方へ、暗い方へ。アスファルトのない、星の綺麗な場所へ。

 一太は粋な半てん姿で、鉄を熔かして丈夫な釜を作っている。
 いつ私が来ても良いように。
 待っている。
 きっと、待っている。 

 (おわり)
posted by 柳屋文芸堂 at 22:23| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする

その音の響く夜に(その27)

   あとがき

 筋としては単純な物語だというのに、実を言うと、書き上げるまで二年程かかっている。
 まず、詳しい時代設定こそないものの、現代が舞台の話ではないので、資料との格闘があった。関係する本や記録を集めて読み込む所までは楽しいのだけれど、それを物語に生かしていくのは本当に難しい。自分の力不足を痛感する事になった。
 さらに、結婚・新生活のバタバタで何度も書くのを中断した、というのもある。慣れない家事に時間を取られただけでなく、環境変化にひよわな心がついて行けず、精神不安におちいって文章が全く書けなくなったのだ。心が弱いのは昔からの事だし治しようもないので、今後はそこまでひどくならないよう気を付けて生活したい。専業主婦は常に孤独と共にある。気楽なように見えてけっこう危険でハードボイルドな仕事なのだ。
 そして、筆が止まった一番の原因。書き始める前に、
「ダメじゃない人間を書こう」
 という目標をかかげたのがいけなかった。登場人物が前向きな姿勢を見せるたび息苦しい気持ちになって、心底うんざりした。ダメ人間を書く時はあんなにうっとりするというのに。つくづく私は因果な性格だ。
 このようにあまり良い思い出のない作品なのだけれど、和太鼓について思う存分書けたのは素直に嬉しい。なっちと同じように、私も小学一年から結婚して引っ越すまで、
「夏は祭り、祭りは太鼓」
 の暮らしをしていた。今は打つ機会がないので本当に寂しい。誰か夏祭りに呼んで下さい。かなり華麗に舞いますので。
 昔話というより「自分の」昔話になってしまったこの小説。私の体に染み付いているあの音が、読んでくれた人の胸にも響くよう祈りつつ。

 二〇〇六年 五月の深夜、旦那を待ちながら
 柳田のり子
posted by 柳屋文芸堂 at 22:22| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする
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