2007年08月17日

横曽根迷宮(その1)

 重たい、鈍色の雲が、東の空からこちらに向かって勢いつけて進んでくる。
 天空を埋める程の巨大な龍が、この街を渡ろうとしているのだ。

 公衆電話の受話器を肩に挟んで、秀子は鞄の中にあるはずのテレホンカードを探した。ほおに当たる手垢のベタつきの不快感を無視しながら、カードと共に小さな紙切れを引っ張り出し、間違わぬようゆっくりと、その番号のボタンを押した。
「笠原耳鼻咽喉科です。」
「わたくし、これからそちらで診察を受けようと思っております、棚田秀子と申しますが、そちらで事務を担当されている、岩井弓美子さんはいらっしゃいますでしょうか。」
「アンタ、あたしだって分かってて言ってんの?」
「弓美かなぁ、とは思ったけど、一応礼儀だから。」
「相変わらずねえ。なに、これから来るの?」
「うん。今混んでる?」
「全然。医院長と奥さんと私しかいないわよ。日曜の午後なんて、患者さんほとんど来ないもの。駅前でタクシー拾うの?」
「ううん。歩いて行くつもり。」
「ええっ、歩いて?」
「だって先々週タクシーで行った時、ワンメーターで着いたもの。一本道を真っ直ぐだったし、車に乗るなんてもったいないよ。」
「アンタよしなよ。ここはラビリンスだよ。」
「ラビリンス?」
「迷宮って事。昔に作られた街だからね、真っ直ぐに見えても道は少しずつ曲がっているのよ。来た道を戻っても元の場所には帰れずに、途方に暮れたおばあさんやおじいさんが、朝となく昼となく救いを求めてやって来るのよ。」
「それ、ただ単に弓美のとこに通っている患者なんじゃないの?」
「まあほとんどそうだけどさ。でも本当に隣の駅から散歩に出て、そのまま迷子になっちゃったおばあちゃんを助けた事あるのよ。道を聞きに来る人も多いし。」
「大丈夫よ。八十三歳になるまであと五十七年あるんだから。」
「どうしてもそうしたいなら、好きにすれば良いよ。しかしアンタも大変ね。わざわざ電車に乗って病院に来るなんて。」
「日曜にやってる耳鼻科なんてうちの近所にはないもの。平日休む訳にいかないし。」
「土曜は?」
「ここんとこずっと仕事が入ってる。」
「そんなに忙しくて平気なの?」
「日曜働いている人にそう言われてもね。」
「私は平日に休めるから。身体、壊さないようにね。」
「今の所壊れてるのは耳だけ。それじゃ、そっちに向かうよ。」
「気を付けて。」
 大きな音が立たぬようそっと受話器を置き、秀子は線路沿いの道に降りていった。

 耳の異変に気付いたのは一ヶ月前、ちょうど職場全体が次の納期に向けてラストスパートをかけ始めた頃だった。
 最初は、耳の奥に痛痒いような奇妙な疼きを感じるだけだった。時刻も大体決まっており、帰りの電車の中で「疲れたな、頭が重たい気がするな」と思うと、その気持ちに対する反応のように、微かに、ひっそりと、痛みが返って来るのだった。
 そんな密やかな痛みとの交流の時期はあっという間に過ぎ去り、病状は見る見るうちに悪化した。一週間もすると家や仕事場で、
「いったーいっ! 痛ーい!」
とまるで殴られたかのように耳を押さえて大騒ぎする程になってしまった。
 同僚も上司も同情はしても「休め」とは言ってくれなかった。泣く泣く記憶の底から弓美の「日曜出勤の愚痴」を思い出し、彼女の勤め先が病院である事は確かだったから、この際医者なら何でも良い、と早急に連絡を取った。
 日曜、しかも午後までやっている耳鼻科を素早く見つけられたのは不幸中の幸いだった。暇そうなお医者さんは、中耳炎でしょう、と簡単に結論を出し、そこでもらった抗生物質は耳の激痛を嘘のように消し去った。
 完治、そう喜ぶ間もなく、次の異変が始まった。耳鳴りである。炎症が治った途端に聞こえるようになった気がしたが、もしかすると、それまで痛みに紛れて気付かなかっただけかも知れない。「病み上がり」であるし、仕事場がしんと静まった時など多少集中力を削がれるように思うから、一応診察を受けに来たけれど、本当の事を言うと、耳鳴りは治さずこのままにしようかと考えていた。
 途切れ途切れに聞こえる高く小さなその音は、宇宙の果てから送られて来る信号のように美しかった。そこにはどんな意味が織り込まれているのだろう? 世界征服を企む宇宙人の、人類を操る暗号か、はたまたこの世とあの世の存在理由、全てに答える火・水・星の真理か―――。
 線路脇に立っている枯れかけの木から、油蝉の鳴く声がする。そして東の空からは、遠い雷鳴。どちらも現実だった。しかし耳鳴りと混じり合って、空耳でないと言い切る自信が無くなりつつあった。
 高い湿度のために全身がひどく汗ばんでいた。けれどもその皮膚の下は、どこまでも冷えていた。立ち止まり腕をさすると、下りの各駅停車と東京行きの特急が、すぐ横ですれ違った。
 重なり合う轟音、蝉、遠雷、耳鳴り。反射的に目を閉じる。
 見えない。
 聞こえない。
 何も。

 目を開くと、そこは横曽根商店街の入り口だった。

 秀子がタクシーを使わなかったのには、「もったいない」以外にもう一つ理由があった。前回車で通り過ぎるだけだったこの商店街を、じっくり見てまわりたいと考えたのだ。その時は車窓に顔を押し付け数分眺めただけだったが、秀子はその風景にすっかり惹き付けられた。どの店も古く、寂びれていて、営業しているのかどうか定かでない。そして商店街の端から端、笠原耳鼻咽喉科よりずっと奥まで張り巡らされている薄汚れた万国旗が、その侘びしさを強調していた。その様は十数年前の正月のようだった。秀子が子供の頃、盆と正月には街中のどの店も、眠り込むようにシャッターを下ろしていたものだった。賑わっているのは神社のみで、繁華街を歩く者などほとんどいなかった。
 秀子は想像した。この街の正月が明け、細く長い道に人々が溢れるところを。客を手早くさばくおかみさんの、荒っぽい言葉、丁寧なお辞儀。ガラスケースに顔をぺったり張り付けた子供の、鼻、おでこ、てのひらの色。ザルに次々積み上げられる、千円札と小銭の立てる音。みんなの頭上を吹き抜ける風、はためく原色、幾百の旗。
 しかし今は正月ではなく、盆もとうに過ぎていた。本来なら商店が最も活気づくべき、日曜の昼下がりなのだ。秀子は駅からここに来るまでに、たった一人としかすれ違わなかった。その人は縮れ毛の太ったおじさんで、赤と白のストライプのパジャマを着たまま自転車を漕いでいた。そして紅白の後ろ姿が見えなくなった後は、駅の方や横曽根商店街の中心部に向けていくら目を凝らしても、人間どころか猫一匹の姿も見つけられはしなかった。秀子はその無人の空間に吸い込まれていくように、奥へ奥へと進んでいった。
 よくよく観察してみて分かったのだが、シャッターが下まで完全に閉じられているのは通りのうちの約半数で、あとの店は屈んでくぐれる程度には入り口を開けており、ガラス戸がピカピカに磨かれて今にも店員が「いらっしゃいませ」と飛び出て来そうな所も何軒かあった。そんな中の一つ、「しわすだ屋」という和菓子屋に入ってみた。すあまでも買って道すがら食べようと思ったのだが、障子の向こうの奥の居間に、人のいる気配は無い。
「すみません。」
しばらく待ったが何の反応もない。
「すみません。誰かいませんか。」
 ガラス棚に並ぶ大福やまんじゅうは、黴びる様子も無く新鮮そうに見えた。棚も手入れが行き届いていて、ほこりも指紋跡も見せずに、甘辛団子のタレ同様つやつやと輝いていた。
 呼びかけを数回繰り返してみたものの、あまりの静けさに耳の痛みが再発しそうだった。秀子は未練たらしく桃色のすあまをじっと見つめた後、その店を後にした。

(すあまを見たら急にお腹が空いちゃったよ。)
秀子は笠原耳鼻咽喉科に向かってふらふらと歩き続けた。もし途中にコンビニでもあればカニパンと牛乳を買いたいと強く思い始めていたが、当然ここにそんなものは無く、戸の閉まった駄菓子屋の他食品のありそうな場所は目に入らなかった。
 加山竹材店、エビナ金物、草間印刷、こばやし洋品…… どの店にも古めかしい大きな看板が掛けてあり、職人が手書きしたであろう黒く太い文字は、錆び、かすれつつも立派だった。
(もうそろそろ着いても良い頃なんだけど。)
タクシーで来た時は、この商店街をするりと抜けて、ものの五分とかからなかった。
(まさか道に迷った訳じゃないわよね?)
弓美はやけにおどしていたけれど、本当に、絶対に、ただの一本道だった。その証拠に、無人のまま長靴・ぞうり・サンダル・革靴等をずらりと並べている「横曽根はきもの」という店には見覚えがあった。……ような気がした。
(あれ?)
商店街の先の方から微かに甘い香りが漂って来た。誘われるように歩を速めると、その甘さは強く、生々しいものへと変化していった。
「これか!」
商店が途切れ、雑草の生い茂る広い空き地の真ん中に、濃い水色の建物が立っていた。どうやらお菓子の工場らしく、あたり一帯には吐き気を催す程の甘ったるい空気が充満していた。
 秀子の頭の中には行儀良く一列になった桃色のすあま達が、ベルトコンベヤーに乗って運ばれて来た。すあまだけではない。もみじまんじゅうが、豆大福が、黒・赤・緑色のあんこ玉が、とてつもないスピードで流れて来た。
 冷静であればすぐ気付くはずだが、ここに満ちているのは焼けるバターの香りの混ざった洋菓子の甘さで、おそらくクッキーやマドレーヌを大量生産する工場なのだろう。しかし秀子の内部に流れ込んで来るのは和菓子ばかりだった。その表面が唇に当たる時のやわらかい感触が、粉に包まれたさらさらの手触りが、薄い寒天膜の透明さとその光が、まさに目の前にあるように感じられた。
「食べたーい!」
あの和菓子屋、人がいないのだから万引きしてしまえば良かったか、いやいやそれはまずい、でもお金を置いてすあまをもらって来る事は出来たはずだ……。秀子が来た道を戻ろうかと思案していると、工場の向こう側から、微かに電車の音がした。目を凝らすと、空き地の端に立っているプレハブとプレハブの間から線路が覗いており、電車の車窓が無数に横切っていくのが見えた。
 あそこまで行けば、先程歩いた線路沿いの道に戻れる。そしてそのまま駅に帰れば、コンビニはもちろん、レストランや、地下食品売り場付きのデパートだってある。
 規則正しくレールを打つ電車の音に吸い寄せられるように歩を進めようとした、その時。軽い痛みを伴なって、今までに感じた事のない高く、強力な耳鳴りが、秀子の脳の中に大きく響き渡った。
「行かなくちゃ……」
見えない糸が、秀子の足を引いた。横曽根商店街が、秀子の身体を強く強く、引き寄せた。

 ようこそ! ウェルカム! めんそーれ!

 秀子は空き地を突っ切り、万国旗が幾重にも重なって揺れる、商店街の奥へとつながる細い道に、飲み込まれた。

 一体いつになったら笠原耳鼻咽喉科に着けるのだろう? 道に迷うと言っても、こんな一本道、間違いようがないじゃないか。弓美の説明通りこの道が少しずつ曲がっているとしても、一本である事に変わりはないのだ。それとも一本に見せかけて、実はいくつもの似たような商店街が微妙な角度で交叉しながら存在しているのだろうか……。
 相変わらず人の姿はなかった。小さな稲荷神社の横を通り過ぎ、一分の隙もなく全面的に錆びついたトタン板で覆われている、「創業より八十年」(看板に書いてあった)の鉄工所を見学した後、入り口の見当たらない「源左衛門風呂」という名の銭湯の長いエントツから煙の上がっていくのを眺めた。
 「人の暮らしの匂い」はあちこちで感じられるのに、人気だけが全くないというのが、秀子の不安をかき立てた。中でも一番奇妙だったのが、天井のひしゃげた「本田書店」だ。身を屈めなければ入れない、つぶれた形の店内には、嵐か泥棒の去った後のように雑誌や本が散乱している。棚も、台も、床も、「よくぞここまで」と感心する程乱れているのだ。しかしよく見ると、散らばる雑誌はどれも最新刊で、本は最近流行中のベストセラーばかりだった。
 意味を考えてはいけない。きっとこれがこの本屋の販売形式なのだ。新しい本が入荷するたび、それを適当な場所に投げつける店主を想像し、秀子は体を縮めて店を出た。
 日頃の運動不足がたたって、大して歩いてもいないのにもう足がだるかった。商店街を満喫出来たので後悔はしていなかったが、早く着けるに越した事はなかった。
(ん?)
ジグザグに万国旗の張られた三角形の空の下遠く、人影らしきものが見えた。秀子は重たい足を地べたにこすりつけながら、もたもたと走り近付いた。
「あの、すみません。」
よれよれと形の崩れたポロシャツの下は、色のあせたズボン。短く切りそろえられた白髪まじりの後頭部に、秀子は何の考えもなく大きな声で呼びかけた。
「このあたりに、笠原耳鼻咽喉科という耳のお医者さんがあるはずなんですけど、知りませんか?」
「耳の医者?」
 くるりとこちらを向いたその顔には、目が三つ、ついていた。
 秀子はもともと「この人は高そうな服を着ているからお金持ちに違いない」とか「この人は顔が青白いからきっと病弱なのだろう」とか「この人は体中に刺青がある。怖い怖い、近寄らないようにしなきゃ」というような、「外見からその人の性質を判断する」能力に欠けていた。だから三つ目のおじさんの顔を見てもさして不思議とも思わなかった。(たぶん普通の人とどこが違うのか、とっさには気付かなかったのだろう。)
 それより秀子が驚いたのは、おじさんの右手に広がる深い森の方だった。時計屋と畳屋の間に店二軒分くらいの空間が空いており、その奥に、太い木々と厚い枝葉に光を奪われた、暗く湿った森があった。
 秀子は思わず道を尋ねるのも忘れてつぶやいた。
「なんか……、不自然な感じがしませんか?」
「何が?」
「この森。」
 森の入り口に立つ杉の巨木の胴回りは、子供が十人腕を広げて取り囲んでも、まだ囲い切れない程に太かった。その幹は内側にこぶを含み、無数の筋に沿って波打っている。表皮は白くささくれ立ち、そちこちに赤銅色の地肌が覗く。コケの生えた根は何重にも絡まり合い、その隙間から若々しい緑色のシダが、大小同じ形で顔を出していた。
 さらに奥深い所にはがじゅまるが、おのれの幹を束ね束ね、どこまでが一本の木なのか分からないくらい巨大化していた。空を抱くように伸びる力強い枝からは、縮れた茶色のひげが地面の方まで垂れ下がり、その木の過ごした年月の長さを思わせた。
 それは、人の手の入っていない、紛れもない原生林だった。
「だってこんな木、街中にあるはずないじゃない!」
秀子は三つ目のおじさんの目をじっと見つめて力説した。
「森がある事は別に問題ないと思うの。うちの近所にも雑木林がいっぱいあるし、変だとは思わない。でもこの木の太さはないでしょ? 文明発祥以前から一度も切ってない、って状態よ、これは。今見て来た限りここは商業と工業の町のはずなのに、ここだけ原始時代から手付かずなんて、絶対おかしいわよ。」
「さあ……、地主がものぐさだったんじゃねぇか?」
おじさんは口の広がった胸ポケットから煙草を一本取り出し、それに火を点けてから、ゆっくりと続けた。
「それに人間のする事なんて昔っから不自然な事ばっかりだ。生まれて来た子供に言葉を教えるのも不自然、糞をするのに便所に行くのも不自然、病気を治すためにわざわざ医者に行くのだって不自然だぞ。」
「そうかなあ……」
秀子は病院を探していた事を思い出し、改めておじさんの顔を見た。おじさんも秀子の真面目な視線につられて、こっちを向いた。
「でも予約を入れちゃったし、とりあえず一回はその笠原耳鼻咽喉科という所に行かなきゃいけないんだけど、知りませんか?」
「この商店街には無いよ。ここは一本道だから、森を抜けて別の道に出るしかないね。」
森には当然通路など存在せず、アスファルトの道さえまともに歩けなくなっている秀子の足では、コケと根っこに行く手を阻まれ、一歩も進めないのは確実だった。
「絶対転びます。」
「俺もそう思う。」
三つ目のおじさんは嬉しそうに声を立てて笑った。
「医者に行くのなんてやめちゃえばいいんだ。俺の友達にもおせっかいな奴がいて、
『お前は結膜炎の気があるから、一度目医者に行って来い』
なんて言うんだけど、俺は絶対行かないよ。」
そう言われてみれば、おじさんの左目と、三つ目の目は、少し充血しているように見えた。話に上ってかゆみが出て来たのか、おじさんはその二つの瞳をてのひらで交互にたたいた。パシパシ、パシパシと気合を入れるような音を立てて。
「約束しちゃったから、もう一度探してみます。ありがとうございました。」
秀子が深々とお辞儀するのを見るとおじさんは、義理堅そうな顔してるもんなぁ、とあきれたような笑みを浮かべて、どぶ板の穴に煙草を放り込んだ。
「役に立てなくて悪かったね。」
手を振り見送るおじさんを振り返り見ながら、ちょっと変な感じがしたけど良い人だったな、もっとこの街の人に会えたら楽しかったのに、と秀子は残念がった。
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横曽根迷宮(その2)

 前進しても戻っても変わりがないような気がしたが、惰性で今までと同じ方向に向かっていた。シャッターの下りている「長蔵米店」の壁から屋根にかけて、フウセンカズラのつるが巻き付き、ふとん屋「みやざき」の二階の住居の木枠の窓は、割れたガラスがガムテープで留められ、そのままになっていた。
「あっ、雨。」
 おでこに当たった水滴をぬぐい、空気中で光る雨粒に気付いて、秀子は空を見上げた。暗く分厚い雲は、秀子の真上の部分だけぽっかりと丸く穴が開き、そこから覗く空があまりにくっきりと青かったので、秀子は何度もまばたきした。
「天気雨だ。」

 龍はこの上空にいる。

 日に照らされ輝く雨は、気が遠くなる程美しかった。空の上の方では風が強いらしく、綿のような雲が形を変えながら素早く動き、穴を埋めていった。
 穴が完全に閉じるのを見届けて、秀子は再び商店街の奥へ顔を向けた。すると今しがたまで誰もいなかった道の先に、白くぼんやりと何かが見えた。
(犬かな?)
最初、秀子は何故かそう思った。しかし近付いてみると、細く長いふくらはぎが印象的な、ほっそりとした少女の後ろ姿だった。
 あの、という声が口から出るより先に、少女は秀子が来る事を知っていたかのように振り向いた。
 鈴の音が、聞こえた気がした。
 秀子は白く柔らかな、クチナシの花びらのごとき少女の肌を見て、胸の奥が痛むような、妙な心地を味わった。その秀子の様子を確認すると、少女の刀痕に似た鋭いつり目が、小さ過ぎる顔の中で強く光った。
 次の瞬間、秀子は少女に手首をつかまれ、森の中を走らされていた。それは肉体的な力というより、妖術や金縛りに近いものだった。もともと秀子は頑固な所がある割には、強引な人間に対してあまり抵抗しないたちだった。だから少女の行動をそれ程嫌とも思わずに、めくるめくばかりの速度で後ろに流れていく森の風景を、先刻の原生林と比べ考えていた。
 決して新しくはないけれど、ここの植物は人の手が整えたものに違いない。もやで枝先の見えない杉並木は、かつてこの道に人の通りがあった証拠だ。この杉は原生林の巨木のように表面が凸凹しておらず、皮もむけてはいなかった。人一人が抱きつける位の太さで、門番のように直立不動でそこに並んでいた。
 この森が越した年つきは、恐らく数百年。
 あるいは、千年。
 足裏に当たる感触が、草と土のやわらかさから粗く削った石の硬さに変わり、秀子は自分が石段を駆け上がっているのを知った。足元を見やると、少女と秀子の四つの足は俊敏な獣のそれのように、一体となって跳ねていた。驚いて天を仰ぐと、隙間なく重なり合って立つ朱色の鳥居が視界を占めた。
「千本鳥居だ……」
 いつまでもいつまでも、鳥居は尽きなかった。一本一本に塗られた鮮やかな朱は、秀子の頭の中で混ざり、赤い空に浮いていく気分だった。進んでいるのか戻っているのか、走っているのか止まっているのか、起きているのか寝ているのか、生きているのか死んでいるのか、分からなくなっていった。

 そして、忘れてしまった。
 常日頃、大切だと思っていた事。
 本当はちっとも大切でなかった事。

 気が付くと、秀子は見知らぬ神社の境内に立っていた。少女は秀子の手首から手を離し、社の後ろに先にまわって、手招きで秀子を呼んだ。
「聞いてみてよ。」
社の裏の羽目板に耳を押し付けたまま、少女は小声で言った。秀子は少女と向かい合い、同じ姿勢で耳を付けた。
 暴れまわる猛獣の、荒々しく乱れた息に似た響き。
 喜ぶような哀しむような、高く震える女の声。
「この中に誰かいるの?」
「あたしのお姉ちゃんよ。」
「何してるの?」
「神社の中でする事なんて決まってるでしょ。」
おはらいでもしてるのかな、と秀子はのん気に思いながら、なるたけ耳をそばだてた。
 二つの音は色が全く異なっていたが、同じ律動に乗って重なっていた。喘ぎは言葉を使わず何かを伝え、それに溜息が不安げに応じる。激しい息遣いを伴奏にして、女が歌っている風にも思えた。
「恥知らず!」
少女はますます瞳をつり上げつぶやいた。
「お姉ちゃんがあのよそ者と出来ちゃったもんだから、あたしまで巻き添え食って村八分よ。あたしは何も悪い事してないのに、みんなで無視するんだもの。」
「それは酷いね。」
「酷いなんてもんじゃない。でも一番許せないのはお姉ちゃん。二人で頑張っていこうってあれだけ言ってたのに、あたしを裏切って、あんな卑しい男と仲良くなるなんて。」
「そう。」
詳しい事情は分からなかったが、少女が置かれている辛い状況に、秀子は心底同情した。その心を読み取ったのか、少女は秀子の目を見て微笑んだ。
「ここんとこしばらく誰とも口きいてなかったの。だからあなたが来てくれた時、とても嬉しかった。」
 社の中の物音が突然止んだ。少女は首をぴんと立て身をひるがえし、社の正面に駆けていった。秀子も慌てて追いかけた。
 戸を開け放ち仁王立ちする少女の脇から、社の内側を覗いてみた。
「醜い格好。いやらしい!」
少女が怒りを込めてにらむ先には、裸の女が足を広げて四つん這いになっていた。その肌は暗がりの中で白く浮き上がり、長い髪は床板に流れ波打っていた。
「お姉ちゃん達がここで何をしてたのか、あたし、全部知ってるのよ。汚らわしい叫び声を上げて、どれだけ不潔な交わりをしたか。空虚な約束を交わして、あたしを捨てる計画を立てていた事も。」
 女は気だるそうに顔をこちらに向けた。面長で、目鼻は少女にそっくりだったが、裸であるのを抜きにしても、どこかあだっぽい雰囲気があった。
 ふと、女の体の輪郭が所々欠けているのに気付き、不思議に思ってじっと見た。するとだまし絵に描かれているものが急に分かるように、肌にかぶさる深い剛毛から、女に寄り添う存在を知った。
 そこには巨大な狼が、女の全身を包むようにして横たわっていた。
「十五になれば、あなただって分かるわ。あなたはまだ子供だから、私達を理解出来ないのよ。」
少女は答えずに、下を向いたまま強く拳を振った。その力は炎を生み、周囲は神社もろとも火の海と化した。
 奇妙な事に、いくら猛々しく燃え盛っても、秀子は熱さを感じなかった。いやむしろ火の勢いが増せば増すほど、寒さに身動きが取れなくなっていった。少女の悲しみが乗り移って、まるで自分が見捨てられるかのような心細さだった。やるせなく、胸が痛かった。
「人間に火傷一つさせないなんて、随分気を使うのね。」
全て消え失せた焼け野が原で、女はくすくすと笑った。女も秀子も無傷だったが、狼の尻尾の先だけがくすぶっていた。狼は表情も変えず土に尾を打ち付けた。
「何をしたって無駄。」
女は狼の胴に顔をうずめ、いとしそうに黒い毛を撫でた。
「さよなら」
「行かないで!」
疲れ切った少女の目から涙の雫がこぼれ落ちても、女と狼はためらいもせず旅立っていった。
「置いていかないで。独りぼっちにしないで。あたしはお姉ちゃんみたいにはならない。ずっと綺麗なままでいる。十五になんて、大人になんて、絶対にならない。」
泣きじゃくる少女の体は白く透いてゆき、慰める間もなく闇に溶けた。
 鈴の音と、遠吠えが、聞こえた。
 首筋に刺すような冷たさを感じ、すっかり暗くなった空を見上げると、月に照らされて粉雪が舞っていた。焼け野が一面雪におおわれると、どこからか紺色の地下足袋を履いた若い衆が現れ、神社跡にやぐらを組み始めた。
「揚げ立ての油揚げだよ! 毎回すぐ売り切れちゃうんだから、並ばないと買えないよ!」
呼び込みの声に驚いてそちらを見ると、露天商が大鍋三つに油を張って、油揚げを揚げていた。「本場の味 本物の味」と書かれた横断幕に惹かれるのか、即座に長蛇の列が出来た。
 その隣ではお面屋が、人の面と狐の面を交互に吊るして売っていた。綿菓子、あんずにりんご飴、かき氷に金魚すくい。屋台の上に揺れているあの商店街の万国旗は、次々と紅白のちょうちんに化けていき、順ぐりに燈が灯っていった。
 やぐらでは、笛に合わせて鉦や太鼓が打ち鳴らされていた。踊りの輪は二重、三重に広がって、油揚げをくわえた少年達が、その周りで追いかけっこしていた。
 秀子は祭りを楽しみもせず、少女の言葉について考えていた。
 私は十五の時に、一体何をしていただろう。ああ、受験勉強だ。きちんとした高校に合格し、きちんとした大学に入学し、きちんとした会社に就職し、きちんとした生活を送っていくために、私は全てを、自分のためになるもの全てを、その時捨てた。そうだ、私は十五の時に死んだのだ。
 すっかり忘れていた。
 今ようやく、思い出した。
 秀子は人々を掻き分け掻き分け、踊りの中心に向かっていった。そこにいるのが皆人間ではなく狐だと気付いても、秀子は止まろうとしなかった。
 雪が厚く積もり、狐達は目一杯はしゃいでいた。
 幾千の銀の尾が、光を散らす。

 龍はこの街を去った。
 後ろ髪引かれる事は何もない。

「弓美ちゃん、さっきの電話の相手はまだいらっしゃらないの?」
「奥さん。」
 弓美は仕事中の長電話を全部聞かれていたと知り、ばつの悪い思いをしたが、医院長夫人は全く意に介していない様子だった。
「駅から歩いて来るらしいんですけど、十五分位経ちましたね。」
二人は待合室にある丸い壁掛け時計に目をやった。
「このあたりの道は迷いやすいからタクシーで来るよう言ったのに、全然言う事聞かないんだもん。」
「大丈夫よ。もし迷子になったらもう一度電話をかけて来るでしょうし、途中でタクシーを拾う事も出来るのだから。」
それとも、そう言って医院長夫人はいたずらっぽく微笑んだ。
「とっくに迷宮入りしちゃった後かしら。」
「秀子ならあり得るかも。」
 二人の笑い声が、患者のいない待合室にしばらく響き渡っていた。 

(横曽根迷宮・完)
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