2007年08月17日

夕闇にのぞむ窓辺(その1)

 Kちゃんと、K君へ



 僕は彼女を知っている。
 彼女が十八の時に和己という男と付き合って、すぐに別れたという事を知っている。そしてもうすぐ二十四になるというのに、彼女が未だに和己とよりを戻そうとしては失敗している事を知っている。
 数年前、彼女が書いた小説が地方の新聞の出している小さな賞に入選した事を知っている。けれど今ではすっかり小説が書けない事も知っている。
 彼女が今までにして来たこれらの行為の詳細を知っている。何故知っているかというと、彼女が事細かに何度も何度も僕に話して聞かせるからだ。
 彼女が僕にこんな話を繰り返す理由を僕は知っている。もうそれは心臓が痛くなるほどよく知っている。
 けれど、彼女を知っている事と、彼女に何かするという事は、また別の問題だ。
 僕は彼女に何もしていない。

 彼女は何の前触れもなく僕の部屋を訪れる。半永久的に壊れている呼び鈴を押し疲れた彼女は、まるで太鼓を叩くかのように両手でドアをノックする。
「今日のうちの夕御飯、おでんなんだって。私おでん嫌いなのよ。ダイコンも昆布も玉子も全部同じ味がするんだもの。あんなもの食べたって
『ああ、おでんの味がするねえ』
としか感想が言えないじゃないの。表現力が乏しくなるわ。」
 僕が戸を開けると、彼女は靴を放り出すようにして上がり込んで来て、これだけの長い台詞をつかえもせずに言いながら、まっすぐ冷蔵庫に向かって進んでいった。
「それですぐに葛原君の家に胡麻豆腐があったのを思い出してね・・・よしよし、あったあった。」
そして何のためらいもなく他人の家の冷蔵庫を開けて、田舎から送られて来た胡麻豆腐二つを大切そうに取り出した。
「一緒に食べようね。」
 ようやく彼女は僕に顔を向けた。夕焼けの逆光でよく見えないけれど、それは嬉しそうな笑顔を浮かべているようだった。僕は何を言ったら良いのか分からなくて、
「食べずに取って置いて、良かった。」
と小さく呟いた。
 小皿に載せた胡麻豆腐と、彼女用の朱塗りの箸を、僕は小さなちゃぶ台に並べる。頬杖をついたまま彼女は見つめる。
「ごはんも食べていく?」
「ううん。一応おでんも食べないと、お姉ちゃんにしかられるから。」
 彼女は年の離れたお姉さんと、お母さんと一緒に住んでいる。二人とも彼女の食の細いのを心配していて、何が何でも沢山食べさせようとするらしいが、僕は彼女が小食である事を信じられない。僕の家では図々しいくらいよく食べるのだ。
「おいしいー!」
さっきは表現力うんぬんと言っていたけれど、彼女が食べ物に対して「おいしい」と「まずい」以外の言葉を使ったのを聞いたためしがない。少し大袈裟に、おいしい、おいしい、と連呼して、あっという間に胡麻豆腐は無くなってしまった。
「これで我慢しておでんを食べられるよ。葛原君の家はいつでもおいしい物があるから大好きよ。」
彼女は僕の手首をきつく握って、じゃあね、と言って出ていこうした。
「なつみさん」
後に続く言葉がなかなか出て来なくて、僕はしばらく無言でじっとしていた。彼女は不思議そうに首を傾げて、僕を見ていた。静止した空間の中で夕日だけが着実に落ちていった。もうすっかり薄暗かった。
「無理しておでんを食べる事はないよ。夕御飯を少し多めに作っておくから、後で食べにおいで。」
彼女は安心したように微笑むと、
「ありがとう。」
と言って帰っていった。
 その晩彼女は来なかったので、僕は多めの夕飯をひとりで平らげた。
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夕闇にのぞむ窓辺(その2)

 彼女とはバイト先の会社で出会った。今思うと奇妙な感じがするが、最初の頃、彼女は僕よりずっと年上だろうと思っていた。正規社員として事務用コンピュータの使い方や電話の取り方を教える様子は、長い事学生をやっている僕とは比べものにならないくらいしっかりしていた。
 彼女に対する認識がずれ始めたのは、会社の引越しの時だった。手狭になった古い社屋から隣の新しいビルに事務所を移すのに、会社は引越し屋を頼んでくれなかった。仕方なく社員総出で荷物を移動させる事になり、男性は机やコンピュータなど大型のものを、女性は書類や小物の詰まったダンボール箱を運び始めた。
 他の男性社員と一緒に本棚を動かしている間、僕は彼女と何度もすれ違った。そのうちに、僕はある事に気が付いた。彼女の腕に抱えられたダンボール箱が、他の女性社員の運ぶそれより数倍大きいのだ。薄茶色の大箱は、彼女の小さく華奢な身体をまるっきり隠してしまっていた。
 驚いた僕は、本棚を移し終えた後、すぐに彼女を呼び止めた。
「なつみさん、何でそんなに大きな箱を運んでいるの。二人で運ぶか、男の人を頼めば良いのに。」
彼女は初め、何を言われているのか分からないように、表情を失くしていた。
「もっと頑丈そうな人が沢山いるんだから。僕だって言われれば手伝うし。」
彼女はふっと何かを思い付いたらしく、自分のお腹や腕をさすった。
「私、もしかして、か弱そうに見える?」
「ええ。手とか足とか、全体的にほっそりしているし、身長も大きい方ではないでしょう?」
彼女は静かに笑った。
「十八の時に急に痩せちゃったもんだから、まだあんまり自覚が無いの。」
そしてその後、深い意味を持った彼女の笑顔を、僕は見てしまった。確かに笑ってはいた。けれどその目は確実に「助けて」と言っていた。一瞬、見なければ良かった、と思う程、彼女の瞳の光は強かった。涙が潮のように満ちて、すぐさますっと退いていった。
 冗談を言うような軽い口調で彼女は続けた。
「二、三ヶ月で十六キロも減っちゃうんだもの。驚いちゃった。男の子に振られただけなのに、馬鹿みたい。」
「拒食症になったの?」
「さあ、病院に行った訳じゃないから分からないけど。とにかくしばらくの間、ごはんを美味しく食べる事が出来なかったの。食欲が全然無くなってね、でもやっぱり体のために食べなくちゃ、と思って食べ物を口に運ぶんだけど、味がよく分からないの。大好物だったはずの物を食べても、何も感じなくなった。「おいしい」っていうのがどういう感触だったのか、思い出せなかったのよ。」
そう説明する彼女には先ほどまでの痛々しい感じはまるで無く、自分が体験した興味深い出来事をどうにか伝えようとする懸命さでいっぱいだった。
「もうそこまではひどくないんだけど、まだやっぱり調子の悪い時には同じような状態になる。元気な時でも食べる量はすっかり減っちゃったしね。昔は筋肉が沢山あって、とっても強そうだったんだから。今だって力持ちなのよ。」
そう言って彼女は、その日一日大きなダンボール箱を運び続けた。

 彼女が小説で賞を取った話は、バイトを始めてすぐ耳にした。僕と彼女が所属している部署の上司が、彼女がもらった賞金や、彼女の名前が新聞に載った事を、自分の事のように自慢していたのだ。
「でもあの人、私の小説読んでないのよ。」
それが当然であるかのように淡々と彼女は言った。
「なんだか社内で妙に騒がれちゃってね。でもその割にちゃんと読んだ人はいないみたいだから、良いんだけど。」
「僕、なつみさんの書いた小説が読みたいと思って・・・」
彼女は目を見開いて、僕の顔を見た。彼女の鳩に似た驚き顔に、僕の方が焦ってしまった。
「いや、みんなも読んだのかと勘違いしていたから、僕も話に遅れないようにと思ったのだけど。もし嫌なら別に構わないよ。」
「嫌じゃないのよ。読んでもらえるのはすごく嬉しいの。でもあんまり面白くないと思う。血沸き肉躍る冒険活劇とかじゃないし。それに、」
不意に彼女は言い淀んで僕から視線を逸らし、床に目を落とした。
「その方が良い。僕は静かな物語が好きだから。」
なら良いの、と微かに声を響かせて、彼女は小説が掲載された雑誌を持って来る事を約束してくれた。

 僕は彼女の小説を読んだ。
 確かに僕は彼女の小説を読んだ。一字一句洩らさずしっかりと、丁寧に。
 しかし。
「登場人物が、林の中でおしゃべりする」
 僕がはっきりと理解出来たのはそれだけだった。不安になって二度も三度も読み直したが、結果は同じだった。

 雑誌を受け取った次の日から、彼女はやたらに話し掛けて来るようになった。彼女が感想を聞きたがっているのは十分分かっていたが、僕はなるたけ小説の話を出さないように心掛けていた。けれど僕の努力も虚しく、とうとうお昼休みに僕は彼女に捕まってしまった。
 僕と彼女は食堂でカレー南蛮を注文した。
「わあ、おそろい。」
 熱い、辛い香りが、僕たちのテーブルに満ちた。二人が同じ料理を選んだのが嬉しかったらしく、彼女ははしゃぎながらうどんをすすった。
「ねえ、小説どうだった? ずっと気になって気になって仕方なかったんだけど、仕事が忙しくてなかなか話せなかったね。」
僕は軽い罪悪感で頭がぼんやりした。けれど何も答えずに薄ら笑いを浮かべている訳にもいかないので、どうにか小説に対する誉め言葉を絞り出した。
「舞台になっている雑木林の描写が綺麗だった。」
「近所の林を見ながら書いたの。そこはお話に出て来る雑木林よりずっと雑然としていて、人が入れるような場所じゃないんだ。でも、木々のざわめきや虫の声を聞く事は出来たから、そこから色々想像したの。揺れる葉と葉の間から覗く夜空の星は、流れ星みたいに見えるんじゃないか、とか考えたりして。」
「あとは、登場人物の描き方が上手だった。それぞれの個性が分かったよ。」
「わあ、それは最高の誉め言葉だよ。」
彼女が顔を赤くして喜んだので、僕の心はますます重くなった。僕は登場人物の違いを見分けられただけであって、彼らが何を訴えたいのかはまるで理解出来なかったのだ。
「あとは・・・」
僕が言葉に詰まると、彼女は引越しの時と同じように、少しだけ涙ぐんだ。僕は何とかして彼女が一番言ってもらいたいと思っている事を見つけたかった。けれど僕は彼女の期待に添えなかった。全然駄目だった。
「作品全体に漂っている雰囲気がすごく良かったよ。うん、どこがどうって上手く言えないけど、とにかく良かったよ。本当に。」
「そう」
彼女は悲しそうに笑って、カレー南蛮のうどんを割り箸で弄んだ。つゆに浮いた油が七色に光りながら、ゆっくりと丼を回っていった。
「葛原君って、文学賞の選考委員みたいな感想を言うのね。」
それは良い事なのだろうか、悪い事なのだろうか。少なくとも僕が「作品の中で最も重要な何か」を読み落としたのは確かなようだった。彼女はあからさまに落胆していた。僕と同じくらいに。
「授賞式の時、おめでたい席だから当たり前かもしれないけど、文章力とか、表層的な事はいっぱい誉められたの。でも、私が一番伝えたかった気持ちについては、誰も何も言ってくれなかったんだ。」
彼女は寒気に耐えるように両腕を抱えて縮こまった。うなだれた首はしばらく動かず、その表情を窺い知る事は出来なかった。
 僕は何も言わなかった。言えなかった。何か言わなければと気は焦ったが、気の利いた言葉どころか、打つべき相槌すら思い付かなかった。
 次の瞬間、急に頭を上げた彼女はぼんやりとした曖昧な笑顔を浮かべていた。風に吹かれる草のように、ゆったりと首を揺らしながら、つまずきそうな早口で彼女は続けた。
「私ね、かずちゃんに読ませるために、あの小説を書いたの。かずちゃんっていうのは、その、私を痩せさせた男の子なんだけど・・・・私達、恋人同士としてはとっくの昔に別れたの。でもまだ、変な形で関係が続いているのよ。」
「変な形?」
「私達、『友達』なんだって。」
破局を迎えた男女がその後どうなるかなど僕の知った事ではなかった。けれどかつて愛し合っていた二人の熱情が冷めて友情に変化するというのは、経験の浅い僕でも想像のつく、ごく自然な事のように思えた。
「良いんじゃない?」
「良くない。良くないの。私、『友達』って言葉大嫌いよ。世界で一番嫌いな言葉。」
彼女が耳まで赤くして怒るので、僕はまるで自分が責められているような気分になった。僕はまた黙った。
「かずちゃんったらね、なつみちゃんのためなら何でもするけど、愛する事だけは出来ないよ、なんて言うんだよ。ひどいと思わない?」
「さあ・・・」
僕がはっきりと同意しないものだから彼女はむっとして僕を睨んだ。僕は慌てて尋ねた。
「なんでその『かずちゃん』とやらはそんな事言うの?」
彼女は一瞬、力の抜けた悲しい顔をして、続けた。
「別れる時にお互い沢山傷つけ合ったから、もうそういうのが嫌になっちゃったんじゃないかな。私の何倍も、繊細で弱い人だから。」
彼女は何故かうっとりと酔ったような表情を浮かべていた。繊細で、弱い、「かず」という名の男。僕は何の感情も抱かずにその情報を反芻した。
「かずちゃんはそういう気持ちでも、私は別れてからずっと、かずちゃんと元通りになる事ばかり考えていたんだ。かずちゃんに対する愛情を消せなかったの。友達同士の間にある愛情ではなくて、恋愛感情としての愛情を。」
僕には恋愛に関する知識なんてほとんど無いのだから、そんな相談をされても何の役にも立たないよ、と言って、この話を切り上げてもらいたかった。けれど彼女の唇はもはや誰にも止められなさそうだった。気が付けば彼女はしっかりと僕の手首を握っていた。
「毎日悲しくて仕方なかったの。会えなければ寂しいし、会ったら会ったで恋人でないかずちゃんを見るのが辛いし、泣いてばかりいたんだ。泣きながら眠ると、ほどよく疲れてよく眠れるのよ。」
僕は毎日昼寝するせいでなかなか眠れないよ、と言いそうになったが、あんまり関係なさそうなのでやめた。僕はなるたけ真剣そうな顔で頷いた。
「そんな状態で何年も暮らしていたら、私の心も耐え切れなくなったみたいで・・・ちょっと病的な事を言うけど、変に思わないでね。」
彼女は恥ずかしがるような、自慢するような微妙な調子で、告げた。
「頭の中に、おじいさんが出て来たの。」
「おじいさん? 出て来るって、どんな風に?」
「何て言ったら良いのかなあ。思い浮かぶ、ってのに近いのかな? 姿が見えるんだよ。おじいさん、ぽつん、と一人で座っててね、いつも泣きべそかいてるの。それはそれは寂しそうなのよ。行って慰めてあげたくなるくらい。祖父は私が生まれるずっと前に亡くなっているし、親戚にも知り合いにもおじいさんなんていないから、多分実在の人物じゃないの。でもすごくリアルに悲しみが伝わって来るのよ。妙でしょう。」
僕はそこはかとなくぞっとした。これは聞いてはいけない話なんじゃないだろうか。戻る事の出来ない道に入り込んだ気分だった。けれどもう、僕は彼女から目を離せなかった。それを知っているかのように、彼女は僕の目を真っ直ぐに見て微笑んだ。無邪気な笑顔だった。
「そのうちにね、おじいさんに一生懸命話し掛ける女の子が現れたの。現れたって言っても、もちろん頭の中の話なんだけど・・・私は耳を澄まして、二人の会話を聞き取ったんだ。ちゃんと聞こえたのよ。その内容から、おじいさんが大切な人を次々に亡くして、それでも諦めきれずにその人達を待っているのが分かった。女の子はそんなおじいさんの事が心配でならないんだけど、幼過ぎておじいさんの悲しみを完全には理解出来ないの。そこまで見えたら後はあっと言う間よ。おじいさんと女の子の住んでいる世界が目の前に広がったの。色つき、匂いつきで。」
僕ははっとした。おじいさんと女の子、という組み合わせでようやく思い出した。それは彼女の小説の登場人物だった。
「それが、あの雑木林?」 
「そう。そこには二人以外にも人がいっぱいいた。それぞれに固有の性格があって、私が朝起きて、夜寝るのと一緒に、その人達も私の頭の中で生活を始めたの。ああ、今私すごい変な事言ってるねえ。」
僕は彼女が安心するように、大きく首を振った。病的だろうと何だろうと、彼女の存在は非常に興味深かった。自分と全く違う、他人の頭の中身を覗く面白さに、僕は興奮した。酔うように。
「頭の中で色んな人がおしゃべりしたり泣いたり笑ったりするものだから、現実の私の生活の方がお留守になっちゃってね、ぼんやりしてる時間が増えてきたの。なんとなくこれじゃいけないような気がして来て、その人達を外に追い出す事を考えたのよ。その別世界の記憶を消して、忘れ去ってしまう事なんてとてもじゃないけど出来なかったから、その代わりに紙に断片を書きつけたの。会話とか、風景とか、状況とか、人物同士の関係、どの人が誰に対してどんな感情を抱いているのか、とか。」
子供の頃から、小説を読むのは好きだった。けれど僕自身は小説を書こうなんて考えた事もなかった。僕にとって小説とは、完成された物語として、ぽん、と目の前に現れ、そして消えていくだけのものだ。作者の感情や、ましてやその作品の生まれる工程になど、全く関心がなかった。
 彼女の説明は、手品の種明かしに似ている。寂しがり屋の奇術師が、ただ楽しむためにやって来た客に無理やり秘密を暴露する。
「満足いくまで、頭と心がからっぽになるまで書いてみたら、すごくすっきりしたのよ。それに、書き終わって、それを読み直した時に気付いたの。この人達はみんな私だ、って。私の中の、寂しい気持ち、それを慰めて欲しい気持ち、諦めたい気持ち、諦めきれない気持ちが、我慢出来ないくらいに溢れて、人物という形をとって現れたのよ。本当は、かずちゃんを憎みさえすれば解決出来る簡単な問題なのかもしれないのに、人間の心って不思議ね。複雑ね。」
不思議なのはあなただけで、僕はもっと単純な暮らしをしているよ、と言いたかったが、やめた。彼女は僕を仲間として見ているような気がしたから。その安心感と幸福感に、僕はその錯覚がいつまでも続くように願った。
「最初はね、誰にもその文章を見せるつもりはなかったのよ。でも、どうしても、かずちゃんに読ませたくなっちゃったの。だってもともとは全部かずちゃんに対する気持ちから生じたものなんだから、伝えるべき人に伝えなきゃ意味が無い、って思ったんだ。読みやすいように断片を組み合わせて、不必要な部分を削って、明瞭でない表現があったら書き直した。かずちゃんの頭の中にも私と同じ風景が浮かぶように、雑木林を見に行ったりして、写実的に描くよう心掛けたの。努力したのよ、とっても。」
「うん。分かるよ。努力の跡を僕も見たよ。」
だからこそ、僕の脳裏には美しい景色が広がったのだし、各場面で何が起きているのかも理解出来たのだ。そう、見えるものだけ。
「でもね」
彼女は骨ばった指で僕の手首を強く絞めた。その力はぎりぎりと決して緩まず、僕は痛みを訴える叫びをのど元で抑えなければならなかった。
 怪力とは裏腹なか細い声で彼女は言った。
「かずちゃん、小説渡した次の日に、
『分からない。全然分からない。』
って言って来たの。あんなに頑張って書いたのに。自分がやった事は無駄だったんだと思って、それ以来小説書くのやめちゃったの。ううん、書けなくなっちゃったの。」
昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。彼女は、あらこんな時間、と掛け時計を見ながら立ち上がった。彼女の横顔はすっかり元の事務員的な表情に戻っていて、正直僕はほっとした。その頃の僕は、「まともな」彼女の方が好きだったのだ。
 いかにも満腹であるようにお腹をさする彼女と一緒にテーブルから離れる間際、僕は何の気なしに彼女の丼に目をやった。
 彼女のカレー南蛮は、運ばれて来た時と同じ量のまま、残されていた。
 軽い眩暈と共に、彼女がはしゃぎながらすすっていた最初のうどん一本、おそらく最後の一本が僕の心を掠めた。と同時に、舌を噛むような不確かな発音で、彼女の言葉が耳元によみがえった。
 調子の悪い時
 おいしい、って感覚がどんなものだったのか、分からなくなるのよ。
 僕は流れ星が流れる間に三つのお願いをするのと同じ速度で、その日の午後のスケジュールを立てた。そして即座に実行に移した。
 まず、僕は嘘をついた。
「僕の家に、田舎から送られて来たきゅうりがいっぱいあるんだ。一人じゃ食べ切れないから、うちに来ない?」
「きゅうり?」
「そう。マヨネーズと味噌つけて食べるんだ。美味しいよ。」
 実際、心配性の母が定期的に届けてくれる大量の食料のおかげで、僕は平均的な一人暮らしの男よりずっと豊かな食生活を送っていた。けれど残念な事に、その日僕の家にあったのは金銀の和紙に包まれた無闇に高級そうなそうめん二箱と、即席のカレーだけだった。そのどちらもカレー南蛮を連想させて、断じて彼女は口にしない気がした。
 時間もなく、断るのが面倒だったのか、彼女はそっけなく、うん、と言った。
 僕は仕事が終わり次第すぐ自転車を飛ばし、駅前デパートに向かった。目的は地下食品売り場だ。僕はそそくさと持参したタオルで買った物を包み何かの競技に出場しているかのようなスピードで家に引き返した。
 近所のスーパーの四倍の値段のついたそれは、棘が多くなかなか理想的な形をしていた。
 そう、まさに絵に描いたような正しいきゅうりだった。これなら彼女も「田舎からやって来た」とすんなり信じてくれるはずだ。僕はほくそ笑んできゅうりを冷蔵庫に入れた。
 しばらくすると、少し迷っちゃった、と言いながら彼女が僕の部屋を訪れた。僕は西日の当たらない場所に座布団を敷いて、彼女を座らせた。彼女はきゅうりの支度をする僕をじっと眺めていた。
 ちゃぶ台に食事、と言ってもきゅうりと味噌とマヨネーズ、が整うと、彼女は僕が座るのも待たずにきゅうりに齧り付いた。そうしてすぐに、
「おいしい! こんなにおいしいきゅうりを食べたの生まれて初めて!」
と叫んだ。僕も慌てて彼女と同じようにきゅうりを齧った。
 本当に美味しいきゅうりだった。若い木の幹を思わせる程実が締まっていて、香りも濃縮されたように強かった。歯ごたえも味も、以前食べていたあの水っぽい緑の棒は何だったのだろう、という疑問が湧く位の凄さで、革命的と言っても誇張ではなかった。
 僕もこんなきゅうり初めて、という言葉をぐっと抑え、落ち着いた態度のまま彼女にもっと食べるよう勧めた。
 結局、僕と彼女は河童かキリギリスのように飽きるまできゅうりを食べ続けた。彼女は大いに満足し、僕もその幸福そうな顔を見て満足した。
 彼女の「通い」は、こんな風に始まってしまったのだ。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:27| 【中編小説】夕闇にのぞむ窓辺 | 更新情報をチェックする

夕闇にのぞむ窓辺(その3)

 今思うと、あの日彼女がカレー南蛮を残したのは食欲がなかったせいではなくて、ただ単にしゃべるのに忙しく食べる暇がなかっただけなのではないだろうか。それなのに僕は大枚はたいてわざわざきゅうり(しかも何故きゅうり?)を仕入れたりして、一体何をあんなに必死になっていたのだろう。
 あの時の事を考えると、小説と「かず」という男(本名は「和己」だと後で知った)の話をする彼女の悲しそうな目と、きゅうりを食べながら笑う彼女の顔が交互に思い浮かぶ。
 僕がした事は、たぶん間違っていなかったのだ。

「この間の胡麻豆腐のお礼に、おにぎり作って来たの。食べて食べて。」
 今日も彼女は僕の家にいる。
 僕は本業の論文書きに集中するため数ヶ月前にバイトを辞めた。それでも彼女は変わらず僕の家に通いつめている。彼女の態度にはますます親しみがこもり、舌足らずな話し方はさらに子供っぽくなっていく。
「なつみさんが作ったの?」
「ううん。お母さんとお姉ちゃんが作った。私は見てただけ。」
大きめの平たいタッパーを開けると、すっかり左側に寄って崩れている十個のおにぎりがそこにあった。どのおにぎりも事前に相談したかのようにぱっくりと口を開けており、そこから真っ赤なイクラが零れていた。米粒は赤い汁に浸り固形化の能力を奪われ、半分おじや状態だった。
「ありゃ、イクラをおにぎりに入れたのが間違いだったか。」
「それ以上に運搬方法に問題があったように思う。左を下にして来たでしょう。」
「うん。しかも自転車でガタガタやった。ガタガタ。」
どうしてこの人はこんなに考えなしなんだろう、なんて僕は考えない。もう慣れた。彼女は失敗を後悔せずに喜ぶのだ。この崩壊したイクラおにぎりにしても、赤い色は綺麗だなあ、なんて事を思っているだけに違いない。
「これじゃ手で持って食べられないね。」
と言って僕が箸を取りに行く間、彼女は「イクラおにぎりの歌」(作詞・作曲なつみさん)を歌っていた。どうやら「おあずけ」の状態でじっと待ってはいられないようだ。
「赤い目の玉のような〜 イクラ〜 口の中で〜 潰れなかったら〜 怖い〜 イクラ〜 しかもおにぎり〜♪」
僕は朱塗りの箸を彼女に差し出した。
「これでつついて食べよう。」
「わーい! イクラ〜 イクラ〜」
楽しかったのは最初だけだった。大量の(何と言ってもおにぎり十個分の米がおじや化しているのだ)赤々と染まったごはんばかりを食べ続けるのには限界がある。おまけにそのイクラは特別塩辛く、僕も彼女も「お米を粗末にすると目が潰れる」という古臭い倫理観だけを動力にして、黙々とおにぎり(だったもの)をつつき続けた。修行のようだった。
 元の三分の一の量になった所で彼女はおにぎりとの戦いを放棄した。僕はその後もかなりの奮闘ぶりを見せたが、やはり残り全てを胃に入れるのは諦めた。「食べ疲れ」と言っても良いような気だるさと、こなれない腹を抱えて、僕達は一言も口をきかずにいた。互いに別々の一点を無心に見つめて、身動ぎ一つしなかった。
 彼女は、窓のそばに座って空を見ていた。

 ようやく多少の活動ならしても良い、という気分になって来たので、僕は倒し気味にしていた姿勢を立てた。 
「なつみさんは家で料理作ったりしないの?」
彼女は外を見たまま答えた。
「全然。ぜーんぶお母さんとお姉ちゃんがやってくれるもの。」
「作りたいとは思わない?」
「危機感は多少あるのよ。だって大自然に例えるなら、私は狩りの能力がないのと一緒でしょ? 自分が暮らせるだけのお金を稼いで、自分が食べる分の食事を用意するっていうのは、動物がエサを獲るのと同じくらい基本的な事だと思わない? それが出来ないというのは、何かとんでもない欠陥なんじゃないかしらって、たまに、思うの。」
「そんな事言ったら、僕だって親の仕送りで生活しているし・・・」
僕は彼女が暗に僕のスネかじりを批判しているのかと思ったが、全くそういう気はないようだった。
「でも葛原君は学校を卒業すれば何かしらの仕事をするようになるんだから。そうしたらお金も稼げる、料理も作れる人間になるのよ。すごいわ! 完璧だわ! 羨ましい。」
「なつみさんも一人で暮らしてみたら? 嫌でも料理の一つくらい作れるようになるよ。」
「一人になったら私、何も食べなくなっちゃうよ。」
そんなの決まってるじゃない、という顔で彼女は笑った。
「問題は、料理を作る技術がないって事じゃないのよ。作ろうとする意欲がない事なの。牙があっても噛み付く気力がなかったら死んじゃうでしょ? そういう感じ、分からない?」
「うーん」
お腹が空けば、自然に食べ物を調達しようとするんじゃないか? と思うのと同時に、彼女には拒食癖があったんだっけ、と思い出す。まさか。ついさっきまで美味しくもないしょっぱいおにぎりをたらふく食べていたじゃないか。
「むかしはこんなんじゃなかったんだけどなあ。」
彼女は窓にもたれて目を閉じた。彼女がうっすらと目を開けるまでのほんの少しの間、日の落ちる気配だけが感じられる、静かな時間が流れた。
「かずちゃんと付き合っている頃ね、私も料理を作っていたんだよ。お姉ちゃんに頼んでオーブンを買ってもらって、バナナブレッドを何度も焼いたの。」
僕は彼女が和食しか食べないものと勝手に考えていたから、彼女の口から「ブレッド」なんて言葉が出て来た事に驚いた。
「随分なつみさんらしくないものを作っていたんだね。」
「私も菓子パンなんて大して食べたくなかったんだけどさ。ほら、ロマンチックで乙女チックな乙女だった私としては、愛する人に食べさせるものは、やはり横文字の名の付いた西洋菓子でなきゃならん! と思い込んでいたのよ。」
「そんなものかねえ。」
何の根拠があってそんな考えを持ったんだか、と僕は半ば呆れた。
「そんなものなの。」
少し強めにそう言ってから、彼女はこちらを向いて微笑んだ。西から射す強い日の光が彼女の頬に影を作った。
「それに、バナナブレッドは熟れ切ったバナナを大量に使うから、焼き上げた時、家中に甘い香りが立ち込めるの。バナナって、一分の隙もなく徹底的に甘いでしょ? イチゴとか柑橘類なら酸味が加わるけど、バナナにはそういうじゃま者は入らなくて、もうただただ甘いの。あとは腐っていくだけなんだな、って瀬戸際の、どうしようもない甘い香り。それがね、かずちゃんと私のいる空間に一番相応しく感じたの。」
彼女はまた外を見た。今度は頬杖をついて空に笑いかける。
「でもね、何度も挑戦したんだけど、何故か私が焼くと生地が膨らまないの。香りはもうもうと台所に満ちるのに、オーブンを開けてみると、かろうじて火だけは通ってる茶色いかたまりしか出来てないんだよね。そんな出来損ないかずちゃんに食べさせる訳にもいかないから、毎回全部自分で食べていたんだ。でもそんなのをしょっちゅう繰り返していたら、ある時とんでもない下痢になっちゃってね。もう、痛さのあまり起き上がる事も出来ないようなひどいやつ。それに懲りて、バナナブレッド作りはやめちゃった。」
じゃあ結局和己はなつみさんの手料理を食べられなかったんだ、と言おうとしたけれど、彼女の後姿があんまり寂しそうなのでやめておいた。
 本当はとってもとっても食べさせたかったんだよ。甘い甘い、二人の関係そのものみたいなお菓子。
 そういう声が僕にすら聞こえてしまうような、あからさまに悲しい背中。
「クッキーの方が良かったんじゃない? あれなら膨らませなくて良いから簡単だよ。」
「ああ、クッキーも作ったよ。でも歯が折れるくらい堅かった。」
料理の技術がない事が問題なのではない、と彼女は言うけれど、やっぱり技術だって相当重要なんじゃなかろうか、と僕は思った。何というか、料理には失敗を恐れる気持ちが必要なのだ。つぶす、混ぜる、こねる、焼く、と続く全ての過程で、「まあいっか」という適当な気持ちを出すと、小さな誤差が積もり積もって、最終的に大きな失敗を生む。彼女にはそれを回避するだけの几帳面さが欠けている・・・とそこまで考えて、仕事をしている時の彼女の姿を思い出した。彼女は事務員として飛び抜けて優れているという訳ではなかったけれど、何をしてもそつが無く、上司にもそれなりに信用されていた。一度たりとも仕事上の間違いで騒ぎを起こしたりしなかった。
「なつみさん、仕事はちゃんとこなせるんだから、料理だって練習すればいつか作れるようになるよ。」
「仕事だって慣れない内は大変だったよ。でも他の社員の真似をしていたら、いつの間にか覚えちゃった。」
「ほら。」
「ああでも」
思い出そうとするときの癖で少し上を向き、彼女は続けた。
「あの当時は希望に燃えていたから。私、結婚資金を稼ぐためにあの仕事に就いたの。そういうはっきりした目的があると、普段なら出せない力が出るじゃない。その勢いでどうにか乗り切ったんだよ、きっと。」
「結婚って、和己との?」
「もちろん。私もかずちゃんも結婚して一生連れ添うという未来しかないと思ってたの。だから一緒に住む部屋の間取りを絵に描いて、家具や電化製品の配置をどうしよう、なんて毎日話し合ってた。新婚生活のための買い物リストも作ったんだよ。結婚ってお金がかかるのよね。」
そんな命題について考えた事もなかったけれど、とりあえず頷いた。
「あと子供の養育費。私達、明日生まれるかのように赤ちゃんの話をしていてね、名前まで決めてたの。二人とも何でだか知らないけど『女の子が生まれる』って信じていたから、女の名前なんだけど。」
「へえ、何て名前?」
「内緒。」
素早い答えだった。
 赤ん坊の名前なんて知りたくでもなかった。ただ僕は、彼女が言いたくて仕方ないようだったから、聞いたのに。
 内緒。
 その排他的な響きに僕は少しむかむかした。けれど僕の気持ちになんてまるで気付かずに、彼女は思いにふけっていた。
 僕なんて最初からいてもいなくても同じだったのだ。
 彼女の話を聞き取れる耳さえ付いていれば、僕でなくても、誰でも。
「葛原君って良い人ね。」
その言葉に起こされるように我に返ったので、すぐには意味を理解出来なかった。え? という顔をしていると、彼女はゆっくりと大きな声でもう一度繰り返した。
「葛原君って、良い人ね。」
良い人なんかじゃない。ただ、あなたに良い人だと思われたいだけだよ。そんな答えが浮かんだけれど、口には出さなかった。
「何で? 何でそう思うの?」
「かずちゃんの話を怒らず聞いてくれるから。」
「別に怒る必要ないし。」
さっきのむかむかを忘れて僕はそう言った。
「女の子の友達で、かずちゃんの話をすると怒る人がいたの。
『なつみは昔の彼氏の話ばかりして、新しい恋愛をしようとしない。過去に執着してないで、もっと素敵な人を見つける努力をしなきゃだめだ。』
って、私を叱るの。」
しごく真っ当な意見だ。と思ったが言わなくて本当に良かった。彼女はこう続けたのだ。
「私、その友達とは連絡取らないようにしたの。だって、かずちゃんの話が出来ない人となんて、会う必要ないもんね。」
同意を求めるように目を細められても、僕は呆然とするばかりだった。
 親切心?
 おせっかい?
 その友達が何故彼女を叱ったのかは分からないけれど、自分の「友としての存在理由」がそこまで軽いとは、全く考えもしなかっただろう。
 彼女は笑っていた。
 彼女はいつだって、どこででも、悪気なんてないのだ。
 僕は、背骨がひっそりと冷えるのを感じた。
「葛原君は、ハトおじさんになる!」
彼女は僕の鼻をまっすぐに指差して突如叫んだ。
「びっくりした・・・。急に大きな声出さないで。」
「今ぱっとひらめいたのよ。予知能力がある巫女みたいに、葛原君の未来がはっきり見えたの。葛原君はハトお兄さんから、立派なハトおじさんに成長し、その後ハトおじいさんとして惜しまれながら死んでいくのよ。」
「そんな。大体がハトおじさんって何?」
「真昼間に公園とかで鳩にエサあげてる人よ。何でこの人はこんな時間にこんな場所でパン屑撒いてるんだろう? 仕事に就いてないんだろうか? っておじさん、たまに見かけるでしょ?」
「うーん」
僕は不服である事を表現するために大きく唸ってみせた。
「僕はもうちょっとまともな職業を選ぶつもりなんだけどなあ。」
「職業っていうのはどうやってお金を稼ぐかではなくて、生き方の問題なのよ。たとえあなたが高給取りのお偉いさんになったとしても、忙しい商売の合間を縫ってハトにエサをあげ続けるはず。そうよ、そうに違いない!」
そこまで自信たっぷりに断定されると、僕がこれから先どんな努力をしても、結局はハトおじさんとして一生を終える事になる気がして来た。いくら画期的な論文を発表したとしても、もっと年を取って社会的に高い地位を手に入れたとしても、僕は他人からハトおじさんとして認識され、ハトおじさんとしての自分を常に意識しながら生きるより他ないのだ。
 いやもっと言えば、僕はとうの昔からハトお兄さんとして暮らしていたのかもしれない。ただその言葉を見つけられず、気付かなかっただけで、僕はずっと前からハトお兄さんだったのだ。ハトお兄さん・・・。
「大丈夫?」
彼女は、それこそ鳩みたいに目を丸くして僕の顔を覗きこんだ。
「う、うん。」
僕は気持ちを落ち着かせるために大きく息をした。
「自分はどこから来て、どこに行くのか。一度きりの短い人生をいかに生きるべきか。というような日頃なるべく考えないようにしている問題が頭を駆け巡って、くらくらしてしまった。」
「そういう重要な事柄は日夜時間をかけて考えておいた方が良いわよ。でないときっと後で困る。」
心配そうに彼女は僕に助言した。
「とりあえず今のところ僕には鳩にエサをあげる習慣なんてない。」
「そんな習慣持っちゃ駄目。きっと鳩にエサあげるのって楽しいのよ。癖になったら大変なんだから。人間も、鳩も。」
微笑む彼女から目を離して外を見ると、日がすっかり傾いていた。僕の目線の動きで彼女もすぐにそれを察知し、慌てて窓の外に身を乗り出した。
「綺麗な夕焼け!」
その太陽は、燃えるような、と形容するにはあまりにも光が鋭過ぎた。それは遥かに遠い場所で起きている爆発だった。爆音も聞こえず、爆風も届かず、閃光さえも僕達を完全には照らさない、静かな、永遠に止まぬ爆発だった。
「空の色が赤くなるのはまだ納得いくのよ。でも何で夕暮れ時には空気にまで色が付くのかしら?」
僕の心には声にするだけの価値のある答えがなかった。それに彼女はいつでも何か尋ねるように語尾を甘く上げてしゃべるけれど、本当は答えなんて全く必要としていないのだ。
「不思議ねえ。」
僕がずっと黙っていれば、彼女は幸せそうな笑顔を見せてくれる。僕がただ、彼女の傍に佇んでいれば。
 けれど僕は、つい、口をきいてしまった。
「なつみさんは何になるの?」
「え?」
彼女は怯えた瞳で僕を見た。
「何って、私はもう事務員だよ。何になるもないよ。」
「職業っていうのは給料を稼ぐ方法ではなくて、生き方の事なんでしょ? なつみさんはこれから先もずっと事務員として生きるの?」
彼女はうつむいて、分からない、と呟いた。
「小説家になろうとは思わない? そのために賞に応募したんじゃないの?」
「賞に小説を出したのは本当に偶然だったんだよ。かずちゃんに小説突っ返されたすぐ後、会社に置いてある新聞に文学賞の作品募集の記事が載っているのを見つけてね、ヤケで送っちゃったの。どうせ受かるわけないと思っていたし、せっかく時間をかけて書いた物をただ捨てるのも嫌だったから。」
彼女は空中の一点を見つめたまま黙った。彼女は次に出すべき言葉を慎重に選んでいるようだった。何度か口を開きかけては躊躇って言うのをやめるので、彼女が話そうとしている内容が彼女にとってどれだけ大切であるかが僕にも伝わって来た。
 しばらくして、彼女は決心したように僕の方に勢いよく振り向いた。
「頭の中に自分でない誰かが出て来て勝手におしゃべりする現象は、子供の頃からずっとあったんだ。何かを我慢したり、誰かを憎みそうになった時に、新しい『誰か』が生まれる事が多かったように思う。要は、私なりの感情の処理方法だったんだよ。それ以上でもそれ以下でもない。今回初めてそれを文章にして、小説みたいにまとめて、賞まで取って確かにとても良い気分ではあったけれど、それを職業にすべきなのかは分からない。ただ一つ確実に言える事は、」
彼女は一瞬、動きも、言葉も、息さえも止めて、一心に僕を見つめた。
 僕は助けられないよ。
 僕は助けられないよ。
 僕は念仏みたいに何度も心の中でそう繰り返して、彼女から目を背けた。
 彼女はさっきよりずっと小さな声で、続きを言った。
「確実に言えるのは、小説なんか書かなくても満たされる生活を送れたら、それが一番幸せだという事だけ。かずちゃんが隣にいた時は、私も現実世界で生きていたのに。現実だけを見て、それだけで満足していたのに。」
 僕は夕影に焼かれてすっかり赤く染まった部屋の中で、馬鹿のように突っ立っているより他なかった。
 僕を見つめる彼女の瞳が潤んでいるように見えたのは、単に目のふちが夕日に映えていただけだ、と思い込もうと努力しながら。

 それからも、彼女は何度となく僕の部屋に訪れた。そうして飽きもせず、彼女は僕の家の食料を消費し、和己の話をし、辺りが暗くなってから、いけない、いけない、こんな時間、と慌てふためいて帰っていった。
 僕は彼女からうんざりする程和己の話を聞いた。
 二人が付き合っていた頃、お金がなくて遠くに行けず近所の図書館に入り浸り、いくら声を潜めておしゃべりしても彼女は必ず辛抱出来ずに大声で笑ってしまい、その度司書のおばさんに叱られていた話。
 いつも一つのアイスクリームを二人で分け合って食べていた話。そしてある時馴染みのアイスクリーム屋さんが店を閉める事になり、その最後の日に特別サービスしてもらったラムレーズンアイスの量と甘さと香りについて。
 夜の公園でデートしていたら、十人くらいのおじさんがわらわらと集まって来て円陣を組んだ話。意味が解らずとても怖かったそうだ。
 挙げるときりの無い些細な話ばかりだ。それは僕を楽しませようとする行為ではもちろんなく、彼女は一人で話し、一人で懐かしみ、一人で笑うのだった。
 彼女は和己がアレルギー性鼻炎の治療のために飲んでいた漢方薬の名前まで僕に暗唱させた。
 彼女は僕に記憶を共有してもらいたいのだと思った。和己との幸福だった過去の記憶を。彼女がそう望むのなら、と、僕は彼女の記憶を記憶した。
 しかしそれは違うというのが徐々に明らかになっていった。
 彼女はこう告白した。
「かずちゃんの話をしていると安心するの。今の私は完全に独りぼっちなのに、かずちゃんがいないのが嘘みたいに思えるから。『かずちゃん』って言葉は私にとって呪文なの。泣かないで、笑って過ごすためのおまじない。ねえ葛原君には分かる?『いない』っていうのがどんな意味なのか。かずちゃんは今日も私の知っている場所でちゃんと生きているのよ。会おうと思えばあの人は優しいからきっと会ってくれるのよ、でも。それは私の欲するかずちゃんじゃないの。私は私と恋人同士だったかずちゃんにしか会いたくないの。私を愛していないかずちゃんなんて、存在していても私にとって何の価値もない。ねえ、葛原君、私に夢中だったかずちゃんはどこにいるの? どこに行ったら会えるの? 葛原君、ねえ、教えて、お願いだから教えて。私どうしてもかずちゃんに会いたいの。それでもう一度私を真剣に見つめて欲しいの。これが叶わなかったら私生きていけない。私をかずちゃんに会わせて。私だけのかずちゃんに。かずちゃんさえいれば、私他に何もいらないから。何も、何も。」
posted by 柳屋文芸堂 at 10:26| 【中編小説】夕闇にのぞむ窓辺 | 更新情報をチェックする

夕闇にのぞむ窓辺(その4)

 ある日の事、もう日が暮れ掛かっていて、さすがに今日はなつみさんも素直に家に帰っただろう、などと考えている時。入り口の方から小さな物音が聞こえて来た。衣擦れのような響きと、微かなドアの振動。そして動物の鳴き声に似た、物悲しい掠れた音。
「なつみさん?」
彼女がこんなに慎ましく登場するはずがない、と思いつつも、僕には他に誰も来客の当てが無かった。
「こんな時間にどうしたの? もう日も落ちるよ。」
いくら呼びかけても何の反応もなかった。僕は仕方なく立ち上がり、痺れた足を振りながら戸に向かった。
 ドアを開けてみると、予想通り彼女が立っていた。しかしいつもの明るい笑顔はそこにはなく、彼女は口を開けたままどこか分からぬ一点を見つめ、放心していた。
 そして頬には太い涙の跡が乾き切らずに残っていた。
 僕は驚いた。と同時にすぐ思い当たった。和己。彼女をこんな姿にするのは奴しかいない。僕は彼女に声を掛けたいと無性に思った。優しい言葉で彼女を慰められたらどんなに良いだろう、と。けれど当然僕にそんな高等技術があるはずもなく、ただただ彼女の前に立ち尽くした。困惑の色だけを発散させて。 
 そんな僕などまるでいないかのように無視し、彼女はすっと僕の部屋に入っていった。足音はなく顔の生気もすっかり抜けていて、その動きは限りなく幽霊に近かった。そしてその雰囲気を纏ったまま折り畳んであったちゃぶ台をてきぱきと開いて立てたから、僕は可笑しくて笑いそうになった。首から上の死人の顔とその下の働き者の身体がひどく不釣合いで、それはとても彼女らしい事に思えた。
 彼女は自分で敷いた座布団に、水中に飛び込む時の勢いで腰を落とした。
 僕がそろそろと臆病な足取りで近寄って行っても、彼女は全く僕に関心を示さなかった。彼女は一体どこを見つめているのだろう。彼女の視線は一つの位置に縛られ固定されていたけれど、その目標となるべきものはどこにも見当たらなかった。
 何も見えてはいないのかもしれない。
 幸福だった和己との日々の中のある一点を見つめているのかもしれない。
 あるいは、幻を。ありもしない彼女の中の幻を。
「はだかになったの。」
「え?」
彼女が急に言葉を発したのでつい僕は聞き返してしまった。
 彼女は再び黙り込んだ。瞳は何も映さずに、淀んだ沼の静けさで、僕には見えない何かに向けられている。頑なに。
 僕は彼女を見た。見つめる事しか出来ないと分かったから、それはもう強く強く、僕の眼差しで彼女が焼けてしまえば良い、と思う程、彼女を見た。
 僕は彼女を見る。彼女は幻を見る。
 必死で別々の場所を見る二人。
「かずちゃんに、会って来たの。会わないって決めていたのだけど、どうしても耐えられなくなって、行っちゃった。怒られるかと思ってドキドキしたのに、かずちゃんは嘘みたいに優しくしてくれたの。私、嬉しくって嬉しくって、一生懸命かずちゃんの身体を触ったの。大好き、大好きって口でも言っていたかもしれないけど、とにかくこの気持ちが私の指先からかずちゃんの全身に広がっていくように、大好き、大好き、って伝わるように、心を込めて触ったの。」
ずっと動かずにいた瞳から、数粒の涙が流れ出た。悲しくて泣いたと言うよりは、和己への思いが溢れほとばしったように僕には見えた。
「そうしたらかずちゃん、私をはだかにしてくれたの。私は何年か振りに幸せな気持ちになって、かずちゃんに抱きついたの。とっても安心した。もう一生手に入らないと思っていたよ、あんな安らかな心地。」
彼女は涙を手で拭って、少し笑った。そして近くにあった箱入りのちり紙を引き寄せ、大きな音を立てて鼻をかんだ。僕は彼女がすぐに泣きやむのだと思った。
「でもね。」
彼女はようやく僕を見た。僕は油断していた。彼女がこんなあっさりした報告で満足するはずがないのに。
 涙に滲んだ目の縁。その周囲は赤くうっすらと腫れ上がって、睨むように僕に焦点を合わせようとしても、溜まった涙に光が反射して視点が泳ぎ定まらない。
 ごめんね、だから僕には何も出来ないって。
 彼女はぐっと僕の服を掴み、ぼろぼろと泣き始めた。
「全部終わった後で、かずちゃんは私を可哀相なものを見るみたいな目で見たの。ねえ、私って可哀相なの? 葛原君も私が可哀相だと思う?」
確かになつみさんも可哀相だけど、僕もかなり可哀相なんじゃないだろうか、と思いながら戸惑っているうちに、彼女の泣き方は激しくなっていった。言葉は叫びに変わり、その声は瞬く間に幼児の頃に戻っていく。
 目の前でしゃくり上げる彼女はもはや、幼稚園の門の前でぐずる園児とそう違わなかった。こんなに大きくなったのに、どうしてこんなに泣かなければいけないのだろう。しかもわざわざ自分から、自分を苦しめるであろう状況に飛び込んで行くのだろう。
 僕は居た堪れない気持ちになり、気が付けば眉間に皺が寄っていた。とにかくどちらの方向でも良いから、彼女から少しでも離れられる場所に移動したかった。僕はじりじりと後退り、ある程度進んだらひらりと身を翻して、冷蔵庫に駈け寄った。
 扉を開け、薄明かりの中雑然と並べられた食品を見ると、僕は多少落ち着きを取り戻した。そこには日常があった。好ましい、平坦な生活が。弱い照明は暖かささえ感じさせた。しかしそんな事はもちろん錯覚で、冷蔵庫からは冷ややかな風が乱れもせずに送られて来た。僕は寒気に身を震わせ、温泉玉子の六個入りパックを掴み戸を閉めた。温泉玉子がどんな物なのか一度食べてみたいと言っていた彼女のために、用意しておいたのだ。
 温泉玉子の正しい食べ方を僕は知らない。いつも付属のだし汁と一緒に温かいご飯にかけて、つまりは生玉子と同じ扱いで食べてしまうのだが、もしかしたら温泉玉子発祥の地(温泉街か?)に伝わる正統な「温泉玉子道」では禁止されている手なのかもしれない。けれど僕はこの食べ方が好きだった。生玉子より温泉玉子の方がずっと好きだった。彼女が温泉玉子を知らないと聞いてから、早く彼女に食べさせたくてむずむずと体がかゆくなったくらいに好きだった。
 温泉玉子を食べさえすれば彼女はたちまち元気になるだろう。そんな事はあり得ないと分かっていながら、昔から病人には玉子を食べさせると言うじゃないか、などと納得して。
 僕は小鉢と御飯茶碗を二つずつ用意した。彼女に聞いてみよう。そのまま食べる? ごはんにかけて食べるともっと美味しいよ、と。
「なつみさん」
 振り向くと、そこに彼女はいなかった。
「トイレかな?」
呼び掛けるように独り言を言いながら食器と温泉玉子をちゃぶ台まで持って行ったが、返事はなかった。いつの間にか彼女の姿は部屋から消えていた。僕はそれ程深刻に受け止めずに、二つの小鉢に温泉玉子を割った。
 その時。
 突然だった。背中に何かが勢い良くのし掛かり、全身を使って力強く僕の身体を締め付けた。細い腕を見てすぐそれがなつみさんだと判ったけれど、その行動の意味が分からなかった。
 何か呼び掛けようにも声が出ない。傍からすれば僕が彼女をおんぶしているのん気な光景のように見えるのだろうけれど、彼女の力の入れ具合は尋常でなかった。
 僕の体には彼女の全体重と全ての力がかけられた。その重さ。その軽さ。僕は彼女が予想以上に痩せているのを知り驚いた。僕の背と腕は彼女の骨を鋭く感じ、その硬さは痛みとして苦しく僕に伝わった。そしてその感触は僕の中にあった幻想を一瞬で打ち砕いた。
 女性的なもの、という幻。

 やわらかい
 あたたかな
 やさしい

 おおらかな
 ゆたかな
 あかるい

 幸福な
 
 意識が遠のいていった。僕を地に立たせ、動かし、考え感じさせていた生の気力とでもいったようなものが、軟弱にも簡単に消えていくのが分かった。僕は無に向かっていた。明日もなく今もなく過去もない。無へ。
 完全に気を失う一歩手前、彼女は両腕の力を緩めずに僕の耳に唇を押し当てた。そしてそのまま低い掠れた声でつぶやいた。
「葛原君くらい私によくしてくれた人はいなかったよ。でも、葛原君もかずちゃんと一緒。」
 つかれちゃった。
 その瞬間、宙に浮くように体が軽くなった。そして目の前に現実の部屋の風景はなく、僕はほのあかるい光に包まれていた。薄紅がかっただいだい色の、優しく温かな光だった。僕は最初、夕日の中に飛び込んだのかと思った。四方八方を夕焼け空に囲まれて、囚われたような心持ちだったから。しかしすぐに気付いてしまった。光に浮かぶ無数の傷に。刃物で作った切り傷のような、幾百、幾千かの白く細い筋。そこからは強い光が漏れていた。傷は光り輝いて僕に訴える。この痛みを知りなさいと訴える。
 これは彼女の心だ。色と光を持った心の形だ。その考えは奇妙にしっくりと僕の奥底に収まった。
 どうして空気にまで色が付くのかしら。
 どうして心にまで色が付くのかしら。
 どうして心には傷が付くのかしら。
 どうして?
 ねえ、どうして?

 目を開けると、部屋はすでに真っ暗だった。そして今度こそ本当に彼女は消えていた。
 ちゃぶ台には割ったままになった温泉玉子二つが置かれ、残りの四個は冷蔵庫に返されていた。
 仕方なく、僕はその割られた二つで夕飯を食べた。
 なつみさん、温泉玉子くらい食べて帰れば良かったのに。

 次の日も、僕は温泉玉子で夕飯を食べた。
 残りは三つ。

 次の日も。残りは二つ。

 次の日も。残りは一つ。

 次の日も。空になったパックを捨てて、もう一パック買いに出た。どうも凝ってしまったようだ。

 体に悪いのを承知で二つ食べてしまった。

 だから次の日は一回休み。

 その次の日もまだ飽きない。残りは三つ。

 次の日も。残りは二つ。

 次の日も。残りは一つ。

 最後の一つをご飯にかけて、さあもう一パック買うか、しばらく玉子は控えようかと悩むうち、
 ふっと。
 最近なつみさん来ないな、と思った。
 確かに最後に訪れた時の様子は奇妙だったが、僕はそれ程気にしていなかった。奇妙と言えば彼女のやる事なす事僕にはいつも不可解だったし、何をしたって当然と言えば当然だった。
 僕は本当に気にしていなかった。



 幾日か経っても彼女は来なかった。



 彼女は来ない。



 ずっと来ない。
 さすがに少しむずむずして来た。温泉玉子もまだ食べさせてない事だし。



 追憶の中の言葉。
「付き合い始めの頃にかずちゃんは言ったの。
『ずっとずっとなつみちゃんの事を好きでい続けるよ。たとえなつみちゃんが心変わりをして他の誰かを好きになったとしても、僕はいつまででもなつみちゃんを好きでいるよ。』
 だからかずちゃんが私を好きでなくなった今も、私はかずちゃんを愛し続けるの。」
 矛盾している、と思いつつ上手く指摘出来ない。



 鳩の夢を見た。
 雲も太陽もない、ただ青いだけの空の下、鳩が群れをなして蠢いている。一羽として羽ばたくものはいない。目的があるのかないのか、ただせわしなく首と足を動かしている。



 夢だとばかり思っていたけれど、もしかしたら夢ではないのかもしれない。



 鳩。灰色の鳩。まだらの鳩。歩く歩く。どこに行くのやら。



 鳩と空の像が常に頭から離れない。この鳩のいる空間が、彼女が言うところの
「自分でない誰か、の生まれる場所」
なのだろうか。
 たとえそうだとしても、僕の中で物語は育たない。
 ただ鳩がぽつぽつ歩くのみ。



 頭の中の鳩を眺めていたら、急に血の気が引いた。
 思い出してしまったから。
 僕が鳩おじさんになれない事に。
 幼稚園に上がるより前、僕がほんの小さな子供だった頃。僕は公園の鳩と遊んで高熱を出し、三日三晩寝込んでしまった。鳩が悪かったのか鳩の立てた埃が悪かったのか、原因不明のまま母親から鳩遊び禁止令が出された。
 それ以来、僕は鳩に近付いていない。
 これから先も、永久に鳩には近寄れない気がする。
 何となく。



 背中が寒い。
 彼女が部屋から消えたその日から感じていたのだが、気付かぬ振りをしていた。しかしもう誤魔化せない。彼女の身体がかぶさった部分に、すうすうと風の吹き抜けるような心地がする。彼女の骨が当たった痛みもまだ残っている。
 四六時中、彼女と身体を合わせたままのような気持ち。



 鳩の交尾を見た事がある。
 雄しべと雌しべの性教育を受けるより前の何も知らない頃だったから、小さな鳩に乗りかかってばさばさと激しく羽を羽ばたかせる大きな鳩を、意味も分からずじっと見つめた。
 はじめ、下になった鳩がいじめられているのかと思った。もしそうならすぐに助けよう。熱を出したって良いから。お母さんに怒られたって構わない。そう決意しても、どうもその二羽には近付き難い雰囲気があった。側にも行けず、かと言ってそこから離れる事も出来ず、僕は最後までただ、見ていた。
 ひとしきり羽ばたき終わると、大きな鳩は小さな鳩からぴょんと飛び下りた。
 小さな鳩は押しつぶされたままの形でうずくまった。大きな鳩も数歩歩いてすぐ立ち止まり、自分の羽の中に首をうずめて座り込んだ。
 二羽はそのまま動かなかった。
 僕も動けず、いつまでも見つめ続けた。



 鳩が飛び立つ。音立てて。
 灰色の羽に隠された、白い翼を、見せて。



 このままでは頭がおかしくなる。そう感じたのは、彼女の使っていた食器をちゃぶ台に並べ、彼女に関わる物品がそれしかない事に愕然とし、彼女が前は何日置きに訪れていたかを思い出そうとしてちっとも覚えてない事に茫然とし、あるはずもない彼女の持ち物か残した物を探そうと家中の引き出しを全て引き抜いてしまった時、だった。
 体調に乱れはなかった。論文書きも順調に進んでいた。それでも体の中から突き上げて来る強い不安感が、僕の行動を狂わせていた。頭の中では常に鳩が舞っていた。
 本当の事を言うと、彼女が残したのは食器だけではない。一つ重要な物を彼女は持ち帰り忘れた。いや、多分わざと置いたままにしたのだろう。
 それは、例の小説の載った雑誌だった。彼女がしょっちゅう来ていた時には、いつでも返せると思って本棚にしまったままにしてあったし、たまにふと思い出していつまでも返さずにいるのを詫びると、
「もういらないものだから。」
などと言って笑うので、僕は返しそびれてしまった。
 小鉢や朱塗りの箸よりも、よっぽどこの雑誌の方が彼女に関わりの深い物だったが、僕は意識的に避けていた。彼女の書いた文章がぎっしりと両ページに詰まっているかと思うと、恐怖で背表紙に手を伸ばす事すら出来なかった。
 けれどもう限界だった。
 鳩が青空の高い所をくるくると回るように飛んでいた。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:24| 【中編小説】夕闇にのぞむ窓辺 | 更新情報をチェックする

夕闇にのぞむ窓辺(その5)

 僕は彼女の小説を読んだ。再び。
 読んでいる間中、身体の震えが止まらなかった。最初の印象とのあまりの違いに、僕は思わず作者の名前を何度か確かめた。もちろんそれは間違いなく彼女の小説だった。
 一般の小説同様、その文章の中には数人の登場人物と緩やかな話の筋があり、かぎ括弧でくくられた会話が連ねられていた。けれどそれは小説の形だけを真似ているように僕には見えた。
 そこには、彼女がいた。
 丁寧に描かれた雑木林や夜空の下には、独りぼっちの彼女が立っていた。おじいさんの姿をしていても、女の子の姿をしていても、それらは全て彼女だった。言葉遣いが、悲しみを伝えようとする直接的で不器用な行動が、全て彼女のものだった。そしてどの場面にも、無理しているような明るさが立ち籠めていた。それこそまさに、彼女を、なつみさんを、なつみさんとして存在させている雰囲気だった。言葉を選びながら懸命に語りかける彼女の声が、目の前に聞こえるようだった。
 僕は何度も読み返した。彼女がそこにいたという事を心に刻み付けるように、繰り返し繰り返し読んだ。
「ねえ、チャイム壊れてる?」
入り口の方で男の声がした。雑誌から顔を上げてそちらを向くと、一瞬の躊躇の間を置いて、二、三度ドアを叩く音がした。戸にくぐもって分かり辛かったが、それは少し上擦った、見知らぬ男の声だった。
 中途半端な返事をし、ドアを開けると、そこには痩せた、色白の、背の低い男が立っていた。その男は僕の顔を一つも見ずに、じっと呼び鈴のボタンを睨んでいる。
「直さないの?」
「ここに来た時から壊れていたから。」
「直さなかったらずっとこのままだよ。」
「そうだね。」
その受け答えに不満だったのか、男は僕をちらりと睨んだ後、右手の人差し指を左手で包んだ。ここに来る人間が誰でもやるように、鳴らない呼び鈴を何度も鳴らしたのだろう。
 男は脇に挟んでいた大学ノート位の大きさの茶封筒を差し出した。
「これ、なつみが置いていった。」
それだけ言って帰ろうとするのを、僕は襟を掴んで引き止めた。
「なつみさん? え? いつ来たの?」
「昨日かな。郵便受けに入っていたからはっきりとは分からない。」
男は迷惑そうに振り返り、答えた。彼が渋々そこに留まったのを確認し、僕は急いで茶封筒の中身を空けた。入っていたのはホチキスで綴じられた、手製の白い冊子だった。そしてその表紙には、「かずちゃんと、葛原君へ」と小さく記されていた。
 僕は彼の顔を見た。薄々そんな気はしていたけれど、どうやらこの人が「繊細で、弱い、和己という男」であるようだった。そう言われてみれば、彼は鼻炎の人特有の鼻にかかった高い声をしていた。彼女が説明した通り、朝、昼、晩と毎食前にアレルギー性鼻炎に効く漢方薬を飲んでいるのだろう。しかし外見は、彼女の見解とは多少異なっているように僕には見えた。細い手足は確かに貧弱そうな印象を与えたけれど、やつれ浮き出た頬骨には、繊細と言うより神経質な感じを受けた。
 物言いは強気なのに、たまに怯えたような表情を見せる所が、彼女に似ている気がした。体つきは彼女にそっくりだった。
「小説みたいだよ。自分で書いた。」
彼にそう言われて冊子をぱらぱらとめくってみると、世間の小説と同じように、全ページが文字で埋められていた。僕は背筋に寒気を覚えて一行も読まずに閉じた。
 今にも帰りたくて仕方なさそうな男の袖を掴まえて聞いた。
「読んだ?」
「読んでない。前の小説も読まなかったし。」
なつみさんの話と違う。僕が不審そうな顔をすると、彼は答えた。
「読まなくたって何が書いてあるかだいたい分かるよ。どうしてこういう無駄な事をするんだろう。」
軽くため息をついて彼は続けた。
「全然分からない。何をしたって、もうどうにも出来ないのに。」
今度こそ本気で帰ろうとドアを開けかけた彼を見て、僕は焦った。何か言わなければ。なつみさんが毎日毎日僕に語っていた事を、彼に伝えなければ。
 僕は未練たらしい女のように、彼の上着を強く引っ張った。
 彼は不機嫌に、気持ち悪そうに立ち止まった。
「何?」
「どうしてなつみさんとよりを戻してあげないの? なつみさん、いつもあなたの事ばかり話していたよ。」
「僕の所では君の話ばかりしていたよ。」
不意をつかれて僕がぽかんと口を開けると、彼は僕を馬鹿にするように軽く笑った。
「家に来ては『葛原君、葛原君、葛原君』ってあんまり騒ぐから、そんなにその男が良いならそいつの恋人にしてもらえって言ったんだよ。そうしたら『葛原君はそういう風に私を見てくれない』って泣かれて、困った。」
「大変だったんだね。」
我ながら妙な返事だったが、それ以外に何を答えたら良いんだろう。
「十八歳のかずちゃんを出せって泣き喚かれたり、急に『気分が悪い』って言い出して、トイレでげえげえ吐かれたり、まあ色々とね。」
「でも」
混乱したまま僕は言った。
「あなたなら何とか出来たと思う。」
「それじゃあ聞くけど。」
言葉に怒りを含ませて、彼は言った。
「君はなつみちゃんを幸せに出来たの?」
入り口の向こうとこちら側、僕と彼のいる空間が、しんと静まった。この静止した感じには覚えがあるな、と思う間もなく、彼はあいさつ一つせず身を翻し帰っていった。
 手許には彼女の新しい小説だけが残された。

 僕はその小説をちゃぶ台に置き、じっと見つめた。
 僕はこの小説を読むだろう。今すぐには無理だけれど、きっとすぐに読まずにはいられなくなるだろう。読んだ後僕はどうなるのだろう。変わるのだろうか。学生としての生活には全く乱れを与えないまま、僕の根本がぐらりと揺らいでそのまままるで違ったものに変えられてしまうのだろうか。
「『いない』っていうのがどんな意味なのか、葛原君には分かる?」
彼女の声が耳によみがえった。いない。彼女はいない。道でばったり会ったとしても、彼女は僕を見ず知らずの人間のように扱うだろう。絶対そうだとも言えなかったが、彼女にはそういう冷たさがあるのを僕は知っていた。いや、知らされてしまった。

 動けなかった。
 彼女の小説を前にして、壊れた物のように、僕は動けなかった。
 日没が近かった。
 窓の外に落ちていく夕日の存在を感じながら、僕はいつまでも僕の名の書かれた表紙を見つめ続けた。

(夕闇にのぞむ窓辺・完)
posted by 柳屋文芸堂 at 10:23| 【中編小説】夕闇にのぞむ窓辺 | 更新情報をチェックする