2007年08月17日

泥の小舟(その1)

 泣きながら暮らしている人へ

一、五月二十八日

 今年も教員採用試験に出願しなかった。

 家から岡田工業までの道のりは自転車で十分程である。そのちょうど中頃、「飼い主はマナーを大切に」という看板のすぐ下に、三、四日前から犬の糞が放置されている。その大きさから考えると、健康な大型犬のものに違いない。これだけの時間風にさらされているのに、まるで形が崩れていない。色といい姿といい、あまりの立派さに手を合わせたくなる。たかが糞であるが、何か重大な意味でも含んでいるように感じられなくもない。
 神は私に何を伝えようとしているのだろう?
 通勤途中、他に目に付く物は何も無い。本当に何も無い。
 私は午後から出勤する事に決まっているので、岡田工業に着くと昼食後の歯磨きをしている弓子さんにまず会う事になる。私が軽く会釈すると、弓子さんは唇の泡をぬぐって笑顔を作った。弓子さんは経理担当のお姉さんで、バブルの頃に青春を送った人特有の、根拠の分からない明るさと華やかさを常に漂わせている。私はこの会社で、弓子さんの指示に従い、雑務処理に徹している。
 午後の業務開始まで、タイムレコーダーのそばにあるテーブルでぼんやりしていると、午後出勤のおばちゃん達が次々やって来る。
「ハギちゃん、ほら、ボーッとせずに頑張りな!」
その内の一人、立花さんがそう言って背中を叩いた。予想以上の怪力にひ弱な私はひっくり返りそうになる。総勢十六名の労働者のうち十二人がパートタイマーで、そのほとんどがラヴィアンローズという甘ったるい名のマンションに住む主婦である。ラヴィアンローズは工業団地内にある唯一の住宅で、そこの住人は住宅ローンと子供の教育費のために世界中の誰よりも必死に働いている。彼女達に較べると、私の労働意欲は百分の一以下である。
 ここの会社には始業を告げるベルが無い。隣の大きな工場から漏れ聞こえるかすかな放送を頼りに、私達は仕事を始める。私は灰色の机に座り、伝票整理に精を出す。いくら気持ちは焦っても、精神の混濁により、進行はのらりくらりだ。
「社長と京介さんは外出ですか?」
京介さんは社長の息子で、弓子さんの旦那でもある。
「二人とも仕事もらいに外回り。不景気だから、なかなか難しいわよ。」
「大変ですね。」
弓子さんの暗い真剣な表情に、私は心にも無い応答をする。景気なんてどうでも良いのだ。私の心の荒れに比べれば。
 製品の出荷を頼みに作業場に行くと、機械工の五十嵐さんが左右に揺れつつダンボール箱を運んでいる。五十嵐さんの右足は義足なのだ。パキスタン人のスゥがそれを手伝っている。岡田工業はスポンジやプラスチックを機械で加工して売っているのだが、なにしろ男手が少ないので、機械をいじるだけでなく力仕事も任される。機械職人も油断ならない。
「そのダンボール箱全部にこれを貼って下さい。」
そう言って運送会社のシールを渡すと、二人はけだるい笑顔を見せた。五十嵐さんの白髪を見たら私も何だか安心して、思わず二人と同じ表情を返してしまった。
 ラヴィアンローズのおばちゃん達が帰った後、私は鉄格子付きの窓から漏れる薄紅の光に染められながら、夕飯の用意をしていた。用意と言っても茶を沸かすだけだが。啓の湯飲み茶碗を戸棚から出そうとしていると、通りかかった弓子さんに止められた。
「啓ちゃんね、今日は忙しいから御飯食べないで仕事をするって言ってたわ。」
作業場の扉が開いていて、笑いながら製品の梱包をする望月さんと啓の姿が見えた。
「あの母娘は本当に働き者よ。」
弓子さんも作業場に行き、私は一人残された。テーブルの周りは妙に暗かった。電球の光に照らされた啓のてきぱきとした動きだけが、私の視界の中で浮かんでいた。
 どうして今日に限って―――。
 私は祈っていた。救いようのない祈りだった。

 教員採用試験願書受付締切日である五月二十八日は、こうして過ぎていった。
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泥の小舟(その2)

二、バナナ友達

 最近、教育実習の夢ばかり見る。

「先生、この学校で昔、自殺した生徒がいるって本当ですか?」
五年後には相当な美人になるであろう、色の白い愛らしい女生徒が、瞳を輝かせて聞いて来た。
「知らないなあ。」
ごまかしではなく、本当に聞いた事が無かった。女生徒はがっかりしたようすで、再びうつむいてしまった。それを見ていた別の女生徒が、元気づけるようにこう続けた。
「体育館の裏にある合宿所でねえ、合宿中に先生が死んだ事があるんだって。自殺じゃなくて、自然死だったみたいだけど。」
その子に続き他の子も、学校にまつわる死の噂、芸能人の死、あげくの果てには道路で腐るネコの死骸の詳細な様子まで、熱心に話し始めた。
「みんな、死に興味があるの?」
私は平静を装い笑顔で尋ねた。
「一番興味がありますよー!」
生徒達の表情は真実光っていた。
「死にたくなる時とか、ある?」
「しょっちゅうですよ。」
「どんな時?」
一人の女生徒が、全く迷わずに明るい大きな声で、告げた。
「ヒーローになりたい時」

 雨のせいだ。教育実習は六月だったから、毎日雨の中出身高校に通っていた。卒業してから三年と少ししか経っていないのに、生徒の考えは私達の頃とまるで変わってしまっていた。私には、理解出来なかった。
十日続いた雨が止み、久々に星の見えた夜、私と啓は外で夕飯を取る事にした。
「まったくこの会社は何を考えているのかしら。」
生ぬるい麦茶を飲みながら、啓が唇を尖らせた。
「仕事に計画性が無いんだもの。今日なんて、立花さんが帰ったの午後七時よ。ラヴィアンローズの人達は家で子供が待っているんだから、残業させちゃダメよ。」
私は啓の文句に共感も反感も感じずに、ただ望月母娘に共通の、知的な雰囲気のある横顔を見ていた。
 啓と出会ったのは今年の二月、岡田工業のバイトを始めてすぐの頃だ。大学四年の授業が全て終わり、就職を決めていなかった私は、とりあえず家でぶらぶらしていても気が滅入るので、岡田工業の求人広告に応募した。社長や弓子さん、そして家族を含めた周囲の人達には、「バイトをしながら教員採用試験の勉強をするつもりだ」と言っておいた。それは便利な言葉だった。
 最初の一週間、私は一人で夕飯を食べていた。おばちゃん達のいない岡田工業は静かだった。冷たい蛍光灯の光の中、私の食事は安らかだった。
 それまでゆったりと進んでいた業務が急に慌ただしくなり、内心不安になっていた夜の事だ。夕飯を食べにテーブルの所まで行くと、見知らぬ女が座っていた。所々色の抜けたオーバーオールの下に、形の崩れた薄いセーターを着ている。妙に座高が低い。服からのぞく首や腕の細さから、その体が異常と言っても良い程にやせこけているのが分かった。
「あなた誰?」
そう声には出さなかったが、その瞳の強い光は、私の全てを透かし見ようとする意志に満ちていた。食われる。現代社会では存在するはずのない原始的な恐怖が、私の体を固めてしまった。
 一瞬間後、女の視線が外れた。私はそのまま走って逃げたかったが、意外なものが私を引き止めた。
「お弁当?一緒に食べようよ。私はねえ、メロンパン。表面の甘いところを少しあげるー。」
女の視線の移った先はテーブルの上の私の弁当だった。媚びるような、演技じみた幼い話し方が、相手もまた私のように緊張している事を知らせた。
「望月っておばさんがここで働いているんだけど、分かる?私の母親なんだけど。」
その言葉で、何もかもがつながった。
 望月さんは「おばさん」よりは「おばあさん」に近い感じの落ちついた人で、育ち盛りを抱えたラヴィアンローズのおばちゃん達より相当年上のように見えた。働き始めてすぐに何かと私の世話を焼きたがった他の人に比べ、望月さんの態度は冷たいと言っても良い程であった。新人が来ようと誰かが辞めようと彼女には関係なく、ただ、自分に与えられた仕事に最善を尽くす。そんな無駄のない実直さを、望月さんに感じていた。それは全く「おばちゃんらしくない」姿であり、私はそこに好感と寂しさを感じていた。
 業務時間内か休憩中か忘れたが、いつも遠くに眺めるだけだった望月さんが、普段の私なら決して他者に許さないであろう非常な近距離に居た。しかも私を真っ直ぐに見つめていた。今思うと望月さんは狙っていたのだろう。浅はかな若者の心を覗く機会を。
 海も空も、夜でさえもかなわぬような、深く悲しい目だった。それでいて何も語らなかった。一瞬より短い時間の内に、私の精神のうすっぺらな部分を全て数え上げられたような気がした。未経験や偽善や弱さを。私は土下座して謝りたかった。
 許して下さい。本当の人間になるまで努力し続けますから、何が努力なのかまるで分からないけれど、穴から抜けられるまで苦しみあがき続けますから、どうかどうか、哀れな私を許して下さい。許して下さい・・・
 表情を崩すのは娘の啓より望月さんの方が早かった。その微笑みは少女のように愛らしかった。望月さんはそっとささやいた。
「きっとみんな、色々な事を聞いてくるでしょう?気にしないで適当に答えておけば良いからね。」
「色々な事って何ですか?」
今度はあからさまに「世間知らずねえ、この娘は。」という苦笑を浮かべながら、望月さんは説明してくれた。
「行っていた学校の名前とか、この会社に来るまでの経緯とか、家族構成とか、親の職業とか・・・理由もなく知りたがる人がいるのよ。そう言うの、あまり愉快ではないでしょう。」
ええ、と実感を伴わない返事をすると、望月さんはすぐ「遠い人」に戻ってしまった。去り際、望月さんの白髪の少ない黒髪に気付き、案外この人は若いのかもしれない、と思った。

「ねえ、どこの大学出たの?」
メロンパンの皮を私の手のひらに押し付けると、まるで「そのパンを食べた分だけ話させるからね」と言わんばかりに、啓は私を質問攻めにした。
「Y大学の、教育学部。」
「へえええ。すごーい。頭良いんだねえ。あれ?教育学部って事は、先生になるんじゃないの?」
「教育学部だからって、みんな先生になれる訳じゃないんだよ。少子化で先生の募集少ないし、それに・・・・」
私を見上げる啓の瞳は美しかった。啓の内部で燃えている好奇心は決して褒められる種類のものではないはずなのに、啓の興味は他の噂好きなおばちゃんのものと違い、清流の岸に張った氷のごとく澄んでいるように思われた。それゆえ、私は迷いもせずに真実を、苦悩の中心を話してしまった。
「それに、先生になる自信がないの。今の学校が、先生も生徒もグチャグチャになっているのを教育実習で見て来たんだけど、私には直せないのよ。自分の手でどうにかしたいのだけど、その能力がまだないの。」
「グチャグチャって?」
「生徒がね、ひどく不健康なのよ。病的と言っても良い。生徒を病気にしたのは、無神経な教育制度と教師達・・・」
啓は目をすっと細めた。しかしすぐに何も理解出来ないような表情をして、ふうん、とかすかな相づちを打った。話が続かなかったので私は少し空しくなり、自分の弁当を広げた。不器用に詰めた目玉焼きに箸を入れようとして、ふと、啓が先の会話からずっと私を見ているのに気付いた。私が振り向くのと同時に、啓は言った。
「あなたは元気なの?」
その言葉には私を責める響きがあった。
「自分の病気に気が付かない人間が、他人の病気を治そうとするなんて、滑稽よ。」
私は動けなくなった。鉛を心臓に打ち込まれたようなものだった。
「私、病気のように見える?」
やっとの事で私は尋ねた。恐らくみっともない程青い顔で。
「妙に暗い目をしているんだもの。なんて言うのかしらね、「誰も自分を理解出来ないに違いない」って最初から決めつけている顔よね。瞳の反射が悪いのは、心が閉じ切っている証拠。」
何故初対面の人間にここまで言われなければならないのか、という怒りより、自分が今まで気にしつつも見ないように、言葉にしないようにしていたものを突如投げつけられた驚きの方が大きかった。
「ね、私と仲良くしようよ。このまま突き進んだら、あなた教師どころか真っ当な大人にもなれないわよ。気が付いたら自分が一番軽蔑するような人間になっていたとしても、もう一度生き直したり出来ないんだから。」
啓の言葉はこれ以上無い程失礼だったが、「友達になるための指切りげんまん」をねだる姿は人懐っこく憎めなかった。
「友達やめたら針千本飲ーます!」
声を立てて笑いながら小指で私の腕を振る啓を見ながら、本当に針千本飲まされるかもしれない、と思った。
 啓は腕を組み不機嫌そうに言った。
「私の最終学歴はK市立H中学校。自慢にならなくてつまらないわ。」
「え?H中学校?私もH中だよ。」
大学一年くらいかな、と勝手に予想していたので、中卒と聞いた途端に啓の経歴が何も見えなくなった。
 啓は私より一つ年下で、中学を出てすぐ工業団地内で一番大きなM電機の流通センターに勤め始め、今も朝七時から夕方の三時まで働いていると言う。岡田工業には弓子さんに呼ばれた時だけ、手伝いに来るそうだ。
「他の会社で働いた後、こっちの会社にも来るなんて、働き者だねえ。私には真似出来ない。」
「あら、私はあなたの無気力な感じ、好きよ。私には真似出来ない。」
そう言って啓は私の手を握った。まるで私を褒めているかのような振る舞いだった。私は期待に応えるつもりでもなかったが、「無気力に」弱く笑った。啓は大層満足なようだった。
「友達になって早速頼みたい事があるのだけど、私、毎日夕御飯を買うのが嫌で嫌で仕方ないの。せっかく一生懸命働いてもらったお金がどんどん消えていくのよ。悔しくてならないわ。このメロンパンだって百二十五円!」
啓はメロンパンの最後の一かけらと共に私の指をにらみ付けた。その目は明らかに「さっきの皮だって十五円位になるわよ!」と怒鳴っていた。
 私はもはや啓の命令なら何でも聞く人間になっていた。失礼な言葉とメロンパン(皮のみ)で買われたようなものだ。
「そこで考えたのよ。今世の中で一番安くて栄養価が高いのは、バナナだと思うの。だから共同でバナナを房で買って、夕御飯にしようよ。私、これからしばらく岡田工業で働く事になりそうだから。ねっ。」
もしや毎日バナナ?まさかねえ・・・と思いながら、私の内部には何の反論の言葉も無かった。深く考えもしない内に、私の状況がまるで変わって、いや、「変えられて」しまった事に、ようやく気が付いた。望月さんが注意するよう促したのは、啓のような人物の事だったのかもしれない。
「望月さんと、一度だけ話したわ。とても親切な人ね。」
「あの人もさあ、あなたみたいな所あるから、同情したんでしょうよ。」
啓はパンを口に入れたまま、不明瞭な声で説明を始めた。
「うちの母親、S女子大出てるのよ。昔はお嬢様だったの。そうね、つい十年前までお嬢様だったと言ってもおかしくない。でもあれはバブルの頃・・・」
啓はわざとらしく遠くを見た。私は冗談を言うのかと思った。それくらい啓の態度はふざけていた。
「私は小六、小学校最後の冬だった。夕方から塾に行っていたの。ちょうど今着ているこのズボンでね。耳が切れそうに痛む寒い夜で、」
啓は口の中のものをきれいに飲み込んだ。歯と歯の間が気になる様子で、舌で何度か探った。私は啓の長いまつげに見入っていた。
「家に帰ったら、父親もろとも家財一式がぜーんぶ燃えちゃってたの。」
啓はうっすら笑いながら目を輝かせた。まるで自分が持っているたった一つの自慢話であるかのように、その不幸を見せびらかした。
「会社の経営が上手くいかないからって自殺する事ないじゃないねえ。」
「お父さん、自殺だったの?」
啓はうなずき、死ぬなら一人でひっそり死ねば良いのに、とあっさり感想を述べた。
「私は人生の半分が貧乏だから全然平気なんだけど、うちの母親は子供の頃からあの火事までずっと良い暮らしをしていたからね。子供抱えて往来に一人ほっぽり出されて、まあ私の想像だけど」
啓はにっこり笑って言った。
「地獄よね。」

 あれから半年近く経った。あの会話の次の日から、本当に「夕御飯バナナ」が始まってしまい、実は今でも続いている。
「バナナは美味いー!」
啓はそう叫んで食べかけのバナナを月にかざした。三日月にバナナはよく似合う。ここは空気が悪く、隣町の繁華街が夜空を明るく照らすので、どんなに晴れても星は数える程しか出ない。月と太陽は汚れた地に住む私達の友人だ。決して裏切らずに姿を現わすのは彼らだけだ。あとは全てどんよりくすんでいる。何もかもが。
「バナナばかりの暮らしを後悔している?」
啓は何故か最近この質問を繰り返す。強引な自分の性格にようやく気が付いたのかと安心しそうになったが、おそらく啓自身がバナナ暮らしに飽きて来たのだろう。自分で言い出しただけにやめるにやめられず、私が「やめよう」と言うのを待っているのだ。
「私、贅沢するの嫌いだから、別にかまわない。」
バナナに対して愛がある訳ではなかったが、やめる理由も無かった。
「これだから仙人は。」
私のあだ名が「仙人」であったのを知って、何かと言うとこうからかうようになった。高校時代、私の弁当を見た友人がふざけてこの名を付けたのだ。その頃私は朝昼晩と狂ったように生野菜ばかり食べていた。少しでも速く走れるようになるために。私は陸上部の長距離走者だったのだ。タイムを縮めるのに野菜が役に立ったのか分からないが、この偏った食生活は私の身体をすっかり細長くしてしまった。この話をした時、啓は
「「馬」ってあだ名にならなかっただけ良かったじゃない。」
と大笑いした。本当に霞を食べて生きていられるなら、世界はもっと違った形をしていただろうに。
 火事の話を聞いたせいかもしれないが、啓の姿に多くの二面性を認めるようになった。色黒の、私より頭一つ半分小さいその身体。大きな目と分厚い唇。相変わらずの古いボロ服。啓は貧しい国の道端で日々飢えている孤児にも見えたし、南国の王家の姫君にも見えた。目の光に知性が、立ち居振る舞いに品格があるせいだ。外見は全く望月さんに似ていないのだが、二人の雰囲気は常に強くつながっていた。私は火事の前の二人の生活を度々思った。
 バナナの皮をたたみ、麦茶を飲み干してから啓はつぶやいた。
「おしろい花が咲く頃に、うちに遊びにおいでよ。一度、仕事以外で会いたいと思っていたんだ。」
「どうして今じゃないの?今週末だって良いじゃない。」
前々から啓の家に興味があったので、すぐに実行に移して欲しかった。
「うち、と言うかうちのアパートの周りに、赤いおしろい花がたーくさん咲くのよ。私ね、うーん、言おうかな、どうしようかな。」
啓は私の長袖Tシャツの裾をつかんだ。こんな時、黙って放っておけば勝手に話し出す。
「言っちゃう!私ね、自分に一番似合う花はおしろい花だって信じているの。」
紫がかった赤い花。やわらかな葉と花びらは秋に消えるが、次の夏には必ず再生する。あの黒く堅い種のせいだ。真っ白い粉の詰まった。確かに共通点はある気もするが、もう少し高級な花を選んでも良いように感じた。
「私ね、ハギちゃんに似合う花も考えたの。」
「何?」
自分に似合う花なんて考えた事も無かった。大体私は最初から花に例えられるような人間ではないのだ。せいぜい背格好から割り箸に見える位のものだ。
「・・・どくだみの花。あ、怒った?」
「どの辺が似ているのよ。」
やはりその程度か。どくだみなんて、臭いじゃないか。自分が必要以上に期待していた事に気付き、恥かしくなった。
「あのね、白い十字架みたいな花の咲くところ。」
啓はそう言うと、私の指をつかんで顔を伏せた。そうして体全体を私に押し付けた。これは啓の愛の告白なのだと素直に思った。そして何故か、啓が私を愛するのを当然のように感じた。啓は泣くような小さな声でつぶやいた。
「ここの会社に来る途中、大きな道路があるでしょう?重たそうなトラックが通る度に、今飛び出したら事故の振りして死ねるなあ、って思うの。でも会社にはあなたがいるはずだから、今日は我慢しよう、今度にしようって思うの。」
啓がこんな事を言ったのは初めてだった。裏切られたというショックと共に、啓の濡れたまつげの語る言葉を聞いた。あなただって考えているんでしょう?あの道路を通る人みんなが、いや世界中の人間全てが、死にたいと思っているんでしょう?私は教育実習中の苦痛を思い出し、背中に雨の冷たさを感じた。
 今頃になって私は啓に質問する。
 啓、あなたは元気なの?
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泥の小舟(その3)

三、おしろい花が咲いたら

 おしろい花が咲いたら啓の家に遊びに行こうという計画は、岡田工業の業務の忙しさにより実現出来ないかに思われた。
 が。
 計画遂行の糸口は妙な場所からやって来た。
 ある昼、いつも通り岡田工業に行くと、事務所の奥で弓子さんが泣いている。慌ただしく数ヶ所に電話を掛ける社長の横をゆっくり抜けると、背広姿の京介さんが素早く私を追い抜かし、走ってドアから出て行った。私は弓子さんの傍に寄り、何が起きたのかを尋ねた。
「K電子が倒産したのよ。」
K電子は岡田工業の取引会社の最大手で、岡田工業が生産している製品の約三分の一が、K電子関連のものだ。
「もしかして、すごい損が出たんですか。」
商売に疎い私は、間抜けな質問をしてしまった。
「損なんてもんじゃ、ないわ。今日から業務時間を短縮しないと・・・」
弓子さんは涙を拭くと、すぐに机に向かって電卓を打ち始めた。
 要は、岡田工業もつぶれるかもしれないって事か。
 私はようやく事態を飲み込み、特に感想もなく弓子さんの手伝いを通常通り行った。
 その日は午後二時半に業務を終了してしまった。何も知らずに三時過ぎ頃やって来るであろう啓を待とうと、テーブルのある部屋に行くと、狭い所に労働者が集まり、何やら大騒ぎしていた。
「スゥが心配しているのよ。」
望月さんが取り乱してそう言った。望月さんのこんな姿を初めて見た。
「スゥは完全に日本語を理解出来る訳ではないから、何が起きたのか教えてあげられなくてね。前にいた会社も倒産したらしくて、何ヶ月分かのお給料をもらえなかったらしいのよ。」
望月さんは心底怒っていた。
「外国人だと思って馬鹿にして、タダ働きさせていたのよ。もし私がその会社にいたら、何が何でもスゥにお給料払わせてやるわ。」
岡田工業が倒産した場合、この怒りが弓子さんや京介さんや社長に向けられるのは明らかだった。
「スゥだけじゃない。私だって心配しているわよ。」
そう大きな声を立てたのは怪力の立花さんだ。
「自分の給料もそりゃ心配だけど・・・ほら、最近ニュースでよく聞くじゃない。経営者の自殺。」
私は思わず息を呑んだ。立花さんは望月一家の事を知らないのか。望月さんの方を見ると、望月さんは黙って下を向いていた。
「明日辺り、会社に着いたら弓子さんと京介さんと社長が作業場の天井にぶらーんとぶら下がっていたりして・・・」
それじゃあホラーだよ、と思いつつ、それが割に現実に起こりやすい今の時代を考えた。
「そんな簡単に人は死なないよォ。」
そう笑ったのは機械工の五十嵐さんだ。化学工場の爆発が五十嵐さんの足と一緒に最初の会社をふっ飛ばして以来、五十嵐さんは数々の中小企業を渡り歩いてきた。この経歴は五十嵐さんを「何でも笑い飛ばす男」にしてしまった。ある時五十嵐さんが散歩をしていると、車が後ろから突っ込んで来た。その拍子に五十嵐さんの義足が飛んでしまい、道路に転がるその足を見た運転手が失神した話などを、さも嬉しそうにしたりするのだ。その事故で五十嵐さんが負ったのはすり傷だけだったという。
 私は五十嵐さんの言葉を信じたかった。人間は実際そうあるべきなのだ。
 
「え?倒産したの?」
啓は大きな目をさらに大きくして叫んだ。
「倒産したのはK電子で、岡田工業はまだつぶれてないよ。」
「つぶれたのと同じじゃないの。少なくとも私にとってはそうだわ。」
その時初めて、岡田工業の倒産に啓との別れの意味がある事を知った。
「ようやく深刻そうな顔したわねえ。」
啓が何も知らない子供を見るような表情をしたので、何だか自分が情けなくなった。
「とりあえず、これからの身の振り方を考えるために、私の家にいらっしゃい。」
 細いアスファルトの道を進むと小さな古いアパートが見え、目印のように大量のおしろい花が周りを取り囲んでいた。同じ中学校を出たと言うので大体予想がついていたが、啓の家は極めて私の家に近かった。この歳になるまで知り合いでなかったのが不思議な程だ。
「本当は鍵なんて要らないのよね。」
そうつぶやくと啓は「望月」というプレートの付いたドアを思いっきり蹴っ飛ばした。
「こうしないと開かないのよ。しかも蹴り方にコツがいるの。」
六畳程の部屋にこぢんまりした台所が付いた、簡単な作りの部屋だった。その特徴は何と言っても極端な物の少なさだ。家具はどこにも無く、岡田工業の内職が入ったダンボール箱と、数冊の本が部屋の隅に散っているだけだ。
「火事の後、私もお母さんも形のあるものを買うのが嫌いになっちゃってね。まあ買うお金も無かったんだけど。」
カレンダーすら掛かっていないその壁に、数枚の写真が貼ってあるのに気が付いた。子供らしくない派手な赤いワンピースを着た女の子が、黒い墓石の前で笑っている。波打つ長い髪は大きなリボンでまとめられ、唇には紅がのっている。
「これ、啓?」
啓は恥ずかしそうにうなずいた。
「物置が焼け残ったものだから、くだらない物ばかり助かっちゃってねえ。」
そう言うと台所の方から缶の箱を持って来た。その中には、熱海、札幌、福岡、その他もろもろの観光地の名の入ったキーホルダーが、腐る程入っていた。
「父親の会社は繁忙期とそうでない時の差が激しくてね。忙しい時はずっと家に帰って来ないのに、急に何週間も旅行に行っちゃったりするの。これはそのお土産。」
「旅行って、一人で?」
啓は意地悪そうに、さあ、誰とでしょう、と笑った。私は何も聞けなくなってしまった。私はもう一度啓の写真を見直した。それらは全て墓参りの様子を撮ったもので、啓と、望月さんともう一人、チンピラのような男が写っていた。
「あ、今「ヤクザがいる」って思ったでしょ。」
「似たような単語は浮かんだ。」
光沢のある赤紫のパンタロンをはいたこの男が経営していたのは、まともな会社だったのだろうか。
「青年実業家って言葉が流行った時期があったでしょう。あの時代の成金だったのよ。私も、父も。」
しかし啓は見事に姫君だった。場所柄に合わせて地味な身なりをしている望月さんの前で、啓はおおらかにはしゃいでいる。
「もしかして、他の写真は全部焼けちゃったの?」
「当然。まあ、子供の頃の写真は全部そんなようなもんよ。それだけで十分。」
 写真の向こうの空気から、日本が今よりもう少しけばけばしかった頃の事を思い出した。弓子さんは有名企業のOLで、高価な服やバッグをそろえ、海外旅行も毎年だった。そんな彼女も小さな小さな会社の跡取り息子と恋に落ち、このささやかなものさえ壊れてしまうと泣いている。
 私は時代がどう変わろうともいつでも同じ事を考えていた。小学校で優しい先生に出会っても、中学校で殺したい程頭の悪い教師を知っても、私が決意する内容は同じだった。教師以外の道など考えられなかった。私は何を教えたかったのだろう。誰に向かって?何のために?
「スゥの夢って知ってる?」
思いに浸る私を退屈しているとでも思ったのか、啓が手首をつかんできた。
「知らない。」
「パキスタンに帰ったら、日本で稼いだお金で会社を興したいんだって。何だか羨ましいわねえ。そういう前向きな夢を持って、素直に頑張れると言うのは。」
元々そういう顔なのかもしれないが、確かにスゥは口元に笑いをにじませながら仕事をしている。あれは将来の成功を確信している笑みなのだ。
「岡田工業よりずっと大きな会社になるんだろうね。」
私と啓は手をつないだまま笑った。
「岡田工業がつぶれたらハギちゃんはどうするの?私はM電機で働いているから良いけど、あなたは収入無くなっちゃうでしょ。」
「私は構わないよ。働くの嫌いだし。」
啓は目を丸くした。相当呆れている様だった。
「嫌いってねえ・・・見れば分かるけど。」
「働いていると、時給七百五十円と引き換えに命を削られてる感じがする。一時間、二時間と過ぎていくうちに、ああ、大切な時間がどんどん奪われている、私が本当に欲しいものは金なんかじゃないのにって、無闇に焦る。」
啓はいつものように体をきつく寄せて、涼やかに微笑んだ。
「それはあなたが本当にやりたい事をやってないからよ。」
啓の言う事は正しい。しかし正しいからといって実行出来るものでもないのだ。
「学校の先生になれないのなら、塾の先生にでもなったらどう?」
「受験体制自体に批判的なのに、受験テクニックなんて教えられないよ。知識を詰め込んでテストで正しい答えを書かせても、本当に学問を教えた事にはならない。自分の頭で考える事を教えないと。生きていく上で役に立つのはその能力だけだから。」
啓は珍しく黙ってしまった。沈黙はこちらが困る程長かった。音の無い空間は私の言葉を連れ戻し、その言葉達は私を責め始める。偉そうな事を言って、お前はどうなんだい?自分の頭で考えて、自分の問題を解決しきれているのかい?
「テストで正しい答えを書き続けた人が言っても、説得力無いわね。」
啓は独り言のように、ため息に似たかすれ声で言った。そしてそのままの声音でこう続けた。
「ハギちゃんは好きな人いる?」
私は首を振った。何故急にそんな事を尋ねるのか理解出来なかった。
「忘れられない人がいるの。中学の時の友達・・・で、私はそれ程好きじゃなかったのよ。でもその人は、私の事が大好きだったの。」
啓の中には完成された一つの考えがあるようだったが、その断片だけ無造作に渡されても、こちらは困惑するばかりだ。
「だから、こんなに心に残っているのね。」
己を叱るようなささやきが、この会話を無理やり終わらせた。
「忘れましょう。何もかも。」

図書館に本を返しに行きたいと言うのでついて行った。その図書館も、私が毎日のように通っている場所だ。週に一度は寄ると言う啓をこれまで見かけなかったのは、二人の本の趣味の違いのせいだ。私は二階にある教育関係の本を主に借りるが、啓は一階の図鑑ばかりを借りるそうだ。
「月によってテーマを決めるの。先月は梅雨だったから、テーマを「菌」にして、キノコやらカビやら粘菌やら、菌と名のつくものは全部借りたわ。」
そして今月のテーマは「夏の花」啓は新たに借りた図鑑を開き、ブーゲンビリアに隣り合う小さな写真を見つけた。
「おしろい花も元は南国の花だったのね。」
啓はしばらくそのページに見入っていた。私はそのうっとりとした表情に幸福を感じた。
「図書館が近くにあって良かった。本がこれだけ豊富に読めなかったら、私達母娘は生きていられたか分からない。」
「え?」
とっさに意味がつかめずに、私は啓の瞳をのぞいた。
「精神が飢え死にしちゃうじゃない。」
私の心は生きているのだろうか。そして、啓の心は。
 図書館で別れても良かったのだが、二人とも「さようなら」の一言が言い難く、無意味に近所を歩き回った。世間話も尽きた頃、啓が突然立ち止まった。
「ここ、私が一番好きな場所なの。」
そこは、二ヶ月程前に犬の糞が放置されていた道だった。さすがにその跡は残っておらず、犬よけの看板だけが自己主張を続けていた。
「上を見て。」
次の瞬間、私は驚きで卒倒しそうになった。数十羽のカラスが電線に留まっており、視界が真っ黒になったからだ。
「カラスの休憩所になっているみたいで、たまにこんな風になるの。ハギちゃんは地べたばかり見て暮らしているから、気が付かなかったでしょう。」
啓は私にではなく、カラスに向かって笑いかけた。
 空ばかり見上げているのも、空を翔ける生き物に憧れるのも、啓が地をはう動物だからじゃないの。
 私は強く思ったが、口には出さなかった。

 結局、辺りが暗くなってから啓のアパートに戻った。夕闇の中のおしろい花は赤くほのかに浮き上がり、私の視力を狂わせた。鳴き初めのヒグラシがさらに歪みをひどくした。私と啓は何も言わずに立ち尽くした。
「やっぱり、心が痛むわ。」
その言葉に振り向くと、そこには今までとまるで違った、素の表情の啓がいた。「嘘つき」と叫びたくなるほど、啓の演技は消えていた。そこには私の隠せなかった感情が、反射の悪い二つの目が、闇を吸い込むように浮いていた。
「まだ決心がつかない。でもこのままではいられない。行かれるかどうか分からないけど、今夜七時に岡田工業に来て。」
啓はそれだけ言うと、アパートの階段を駆け上った。

墨色のおしろい花が頭の中で増殖する。青く輝く黒い花。最初手のひらにあったものが私の背より高く育ち、啓のアパートを覆い隠し、ついには大地を埋め尽くす。見慣れない地平線までこの花以外何も見えない。一体ここはどこだろう。ああこれは工業団地の夜空だ。星が一つもないからすぐに分かった。
 おしろい花は秋に消える。ここはもうすぐ荒野になる。
 そして、私一人が残る。
「ハギちゃん」
 啓に起こされて時計を見ると、九時半を回っていた。いつもならこの位まで仕事をしているのだが、今日の岡田工業は何時間も前から電気が消されている。
「どうして立ったまま寝られるの?蚊に沢山刺されたでしょう。」
啓の笑いを近くに感じたり遠くに感じたりしながら、私は目をこすった。
「黒いおしろい花の夢を見ていた。」
啓ははしゃぐのをやめた。あの瞳が呼び戻された。
「正夢かもしれないわね。」
啓に生まれたその表情は、今日初めて知ったはずなのに、他のどんな顔よりも馴染み深いものだった。形は全く違うのに、鏡を見ているような錯覚を覚えた。同じ顔。同じ感情。誰も理解出来ない気持ち。
「私がハギちゃんの事をどう思っているか、考えた事ある?」
いつも自分の事ばかり考えているから、心をかすったためしも無いでしょう。そうあざ笑うように啓の口元が上がった。
 愛しているんじゃないの?
 小心な私はもうそんな風には聞けなかった。
「少なくとも、嫌いでは、ないと思う・・・」
啓は答えずに、擦れてすっかり弱くなった、古い封筒を投げてよこした。
「それが、私の全部なのよ。」
指の震えを抑えながら、中身を引き出した。
 そこにはひどく懐かしい、よく見覚えのあるものが、何枚も入っていた。
 それは私と啓の出身校であるH中学校の、定期テストの成績表だった。年間で計五回の中間・期末テストの結果が、一年から三年まで、一つも欠けずに入っていた。そしてそこに書いてある内容は、全て同じだった
 
 氏名    望月 啓
 全教科合計 五百満点中 五百点
 学年順位  一 位

「否定してごらんなさいよ。」
その声に驚いて顔を上げると、啓の目にはいっぱいに涙が溜まっていた。
「くだらないでしょう?私だってそんな事分かってるわ。でも、それが私の全てなのよ。」
常に首席だったという事実以上に、私はその点の取り方に驚いた。どんなに頭の良い人間でも、つまらない書き間違え等で、一度くらいは満点を取り損ねるものだ。私は啓の仕事姿を思い出した。朝の七時から夜の九時まで、一秒たりとも気を抜かず、雑務も重労働も完璧に素早く処理をする。他の会社で働く啓をわざわざ岡田工業に呼び寄せるのは、啓の優れた腕を弓子さんが強く買っているからだ。
「すごいね、私も学年一位は何回かしか取れなかったよ。」
「当然よ。H中に行くつもりなんてなかったんだもの。私はO中学に合格していたのよ。」
O中学は、中学受験をしていない私でも知っている、全国的に有名な私立中学校だ。ああ、火事で。啓のゆく道を壊した赤い炎が、私の脳裏に広がった。
「高校くらいなら、うちのお金でも行かれたのよ。でも、大学に行くお金がないのに、進学校に進んでも仕方が無いでしょう。」
確かにこの成績で中途半端に何かをしたら、不満ばかりが溜まるだろう。
「私は医者でも弁護士でも何にだってなれたのよ。父親がいない事は私を少しも不幸にしなかったわ。でもお金がない事は私の未来をすべて奪ったのよ。私は走れるわ。走りたくてしょうがないのよ。」
今からだって遅くないじゃない、そう言おうとしたのをさえぎる様に啓は続けた。
「でも、どこに向かって走り出したら良いのか全然分からないの。お金さえあれば良いんだと思って貯めてみたのよ。」
啓は私に数冊の貯金通帳を渡した。残高の合計は七百万円を超えていた。
「馬鹿馬鹿しいでしょう。何を取っても、どっちを向いても、あなたが軽蔑するものばかりでしょう。」
啓の涙は私をはっきり映す程厚かったが、絶対にこぼれなかった。本当に泣きたい人間は泣かないものなのだと、その時知った。
「私に憧れている男の子がいたの。と言うより私の成績に憧れていたのね。いつも私を抜かそうとしたけど、同点一位にもなれないの。詰めが甘いからよ。」
私を見る啓の目の中で、私はその男の子になった。
「その子ね、あなたと同じ大学に入ったの。あなたの事を知った時、私がどんな気持ちだったか分かる?お金なんて一度も使った事無いような顔をして、私が欲しい物を全部持っていて、それで何もせずに淀んでいるなんて!」
火が、啓の火が、私を燃やそうとしていた。何にも焼かれない石のような私を、啓は必死で動かそうとした。
「確かに学校は無情な場所よ。現実に自殺する人間もいるだろうし、心を殺される生徒はその何百倍もいるでしょうよ。でもそれを見た時に、ああ、私を含めた大人が悪いんだ、どうして私が代わりに死ななかったんだろうと自分を責めて責めて責めながら、それでも大切な何かを教えようとする、そんな教師になれば良いじゃないの!」
 あなたの本当の宝物は、満点の成績表や、七百万円の貯金ではなくて、その誰にも負けない強さなのよ。私には無い、私に一番欠けた、何より大事な力なのよ。
 間抜けな私は何も教えられずに、力尽きて倒れる啓を抱きとめる事しか出来なかった。
「珍しく必死になったら、貧血になっちゃったわ。」
「やっぱりバナナばかり食べるのは良くないんじゃないかしら。」
私達は力無く笑った。小さな沈黙の後で、啓が甘えた声を出した。
「ハギちゃんが天の川とホタルを連れて来てくれたら、元気になると思う。」
無理言うなよ、と思いながら、私は一度も見た事の無いその希望の品を心に描いた。テレビで見た映像を思い出して、下手な絵のような天の川と、電球のようなホタルの光を、心の工業団地に呼び出した。
「うん。きれい、きれい」
私と啓はその人工的な風景を、しばらくの間共有していた。
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泥の小舟(その4)

四、八月二十九日

 あれから一ヶ月経った。
 京介さんが死に物狂いで拾って来た仕事で、岡田工業はなんとか立て直した。だから弓子さんと社長はまだ生きている。
 生産する製品が少し変わっただけで、あとは何も変わらなかった。
 あの危機を乗り越えた事で、ラヴィアンローズのおばちゃんたちの労働意欲はさらに向上した。恐ろしい事だ。
 五十嵐さんは笑っている。きっと倒産しても笑ったろうが。
 望月さんは相変わらずだ。望月さんは何があっても「相変わらず」だろう。
 変わった事と言えば、スゥと啓の貯金通帳くらいだ。八月二十五日にちゃんと給料が支払われたから、また残高が増えたに違いない。

 私も、啓も、まだ何も決められずにいる。
 日々の労働を丁寧にこなし、たまに空を見る。
 鳴き止まないセミの声を聞きながら、雲の高くなる日を待っている。

(泥の小舟・完)
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