2007年08月17日

火の川

 その男の死は、この小さな村ではちょっとした事件だった。町の警察が自殺であると断定しても、その結論を信じる村人は一人もいなかった。村人達は波風を立てるのを嫌い口をつぐみ、おきて通り鳥葬を出した。不幸な死者は自ら命を絶った罰として西神山の頂上でからすの餌になった。
 僕には確信があった。強い光が僕の脳を包んで放さなかった。

「かなみ、かなみ」
 山の入り口の草むらは僕の足に執拗にからまった。薄くかたい夏の雑草は何度も手足に切り傷をつけ、僕を前に進ませなかった。セミの声が異常に小さく、遠くで幾百羽のからすが鳴いているかを想像せずには居られなかった。
「かなみ」
 僕達は、いつからこうなったのだろう。

 その「先生」の奇怪な儀式を一番最初に見つけたのは、かなみだった。かなみは生まれて初めて僕に秘密を作った。傑上神社の崩れかけた神殿の中の行いを村人全員に知らしめたのは、山の向こうまで届くかと思われた、かなみの叫び声だった。
 かなみはついこの間まで、小さく細い身体だけが印象的な、平凡な娘の一人だった。ただほんの少しだけ、かなみの精神が現実世界とずれている事を僕は知っていた。子供の頃なら、そのずれを「無邪気」とか「純粋」という美しい言葉に置き換える事が出来ただろう。
 そう、もう一度あの頃に戻れるなら、僕は絶対に時間を止めて来る。

「かなみ、そこにいたのか。」
かなみは木の大枝にまたがって草笛を吹いていた。かなみは僕の姿を認めると、素早く木の上から飛び降り、走り出した。
「かなみ!止まれ!どうして僕から逃げるんだ。僕はお前の幼馴染の耕平だぞ、止まれ!止まれ!止まれ!!」
 かなみは走り方を忘れたように突然硬直すると、草むらの中に倒れ消えた。僕はかなみが見えなくなった辺りに駆け寄った。
「かな・・・・」
僕は草の中から投げつけられた土をまともにかぶり、一時的に目をつぶされた。口に入り込んだ泥をつばと一緒に何度も吐き出して、焼かれたように痛む目をかばいながら、僕は叫んだ。
「かなみが、殺したんだろう」
かなみの気配は感じられなかった。もともと、そこにいる、という感触の弱い人間だった。僕はかなみが聞いているのか判らないまま、必死に叫び続けた。
「警察は自殺だと決めて帰った。お前は村の住人全員に無視される以外、何の罰も受けずに済むだろう。でも僕は知ってる。かなみが、あいつを殺したんだ!」
「先生は、自分で死んだのよ。」
 声は意外にも耳の直前にあった。耳たぶを噛むような、甘いかすれた声だった。そしてすぐ、生温かい湿り気を帯びたものが、僕のまぶたをおおった。かなみは口を使って僕の目の泥を取り除いた。かなみの姿がぼんやりと現われ、やがて空や雲や草や木の強い色彩と共に、はっきりとした輪郭を持って少女とも大人とも言えない女が視界に入った。
「先生は、自分で死んだのよ。だから、あたしもこれから、死ぬの。」
 かなみは僕の目が正常に働くのを確認すると、再び走り出した。その足の運びはそこが草むらである事を忘れさせる程軽く、息を切らしている自分が追いつけないのが不思議だった。かなみは何度も振り返っては、輝きのない瞳でにっこり笑った。
 かなみは目的地らしいがけの上に着くと、真っ直ぐに僕を見た。狂気を含まない静かな表情。まるで何も知らなかった頃のような。背中の汗が僕の全身を凍らせた。
「どうして殺したんだ。お前は人を殺せるような人間じゃない。カツ爺のところの子馬が死んだだけで、三日三晩泣き続けるようなお前が・・・」
「耕平ちゃんは、何もしてくれなかった。」
風が、かなみをさらおうとしていた。一歩一歩、かなみの足は確実にがけの向こうに近付いていた。
「先生は沢山、してくれた。あたしの身体を細い紐でくくって、火であぶって、刃物で傷を、つけて」
「そんな愚劣な行為が何になるんだ。何がお前を」
かなみは今まで見た事のない、慈愛の表情を浮かべながら、着ている服を全て脱いだ。手に、足に、胸に、無数の火傷やあざがあった。新しい傷が古い傷に重なり、完治しているものは一つもなかった。腹部には、特に目立つ大きな切り跡があった。
「いけにえになるのよ。それでね、それでね、願いをかなえるの。」
願い、そうつぶやく前に、かなみはがけから身を出した。
「先生の血が、床に、流れて、赤い湖が、出来て、その中で、その中で、上手くいくって、おもった」
歌うようなかなみの声を聞きながら、僕は傷だらけの裸体にしがみついた。僕達の身体は、空の中に、投げられた。
 かなみの背の奥に、遠い、海が見えた。



 あの頃に戻りたいね
 私の肌にはまだ傷跡なんて、なくて
 あなたの瞳はいつでも近くを見て、満足そうだった

 あなたの血と私の血が混ざって
 とても、綺麗

 私達、鳥に食べられるのよ

 おいしいかしら
 おいしいかしら

 同じ場所に、還る事が、出来るのかしら―――

(火の川・完)
posted by 柳屋文芸堂 at 09:42| 【掌編小説】火の川 | 更新情報をチェックする