2007年08月17日

鳥のいる場所(その1)

一、竹林

 私の家は小さな山のてっぺんに立っている。この山は雑木林に覆われていて、沢山の植物が生えている。何の世話もしないのに、必ず花を咲かせる露草や曼珠沙華。愛らしいどんぐりを落とす、背高のっぽのコナラやクヌギ。桜も何十本か植えてあり、うちの敷地で花見が出来る。
 あらゆる木々は冬に葉を失くし、河の形で空を指すが、山の上から中腹まで続く竹林だけは例外だ。葉が色づくのはほんの一瞬で、年中豊かな緑の葉が揺れる。
 うちの庭はこの竹林に面している。私は自分の部屋のガラス戸から、竹と空を見て暮らす。私の部屋は異常に広い。町会中の人々を集めて宴会をやっても、まだ畳が何枚も余ると思う。
 この部屋を使っているのは私だけだ。部屋には机しか置いていない。寝る時は布団を部屋の真ん中に敷き、高校の生物の授業で習った「植物細胞の構造」を頭に思い描きながら目を瞑る。この部屋を一つの細胞に見立てるのだ。部屋を囲む障子や雨戸は、植物だけにある堅い細胞壁。空間を充たす液の中を、ミトコンドリアと緑葉体がゆっくり巡るのを想像する。私は染色体を抱える核の役だ。漂う自由さと、絶対になくてはならないという束縛感が、いつでも私を安心させる。
 外を見ながら寝るために、ガラス戸の側に布団を敷く時もある。
 例えば、とても風が強い日。竹はしなやかにたわみ激しく躍り、全ての葉と葉が擦れ合い、打ち合う。そのざわめきは少し波に似ている。無数の小さな泡が、壊れて消える時の響きに。
 そして、滅多にないけれど、雪で景色が真っ白になる日。竹の葉は雪に動きを止められて、いつもの音は吸い込まれたようにいなくなる。ほのかに光を含んだ雪の竹林を見ると、気持ちが高ぶり眠れやしない。
 その日は、星の綺麗な日だった。何かを訴えているような星の瞬きを見て、ふと「星は、本当に星なのだろうか。」という疑問が浮かんだ。ある日突然、世界で一番偉い天文学者が、こんな発表をしたらどうだろう。
「星は、光を発する球体などではありません。北極星もシリウスも、夜空に空いた穴なのです。外側に満ちる強い光が、穴からこぼれているのです。今まで嘘ついてて、ごめんなさい。」
そのくだらない星穴論より、生真面目そうな顔で謝る学者の方が、私の心を捉えてしまった。きっとこの人は、子供の頃から星ばかり見て、今も星のためだけに生きているのだ。
 プラネタリウムで目を回す夢でも見ようと、布団に深く潜ろうとした、その時。竹林におじいちゃんが入って行くのが見えた。こんな夜中に何だろうと、不思議に思っているうちに、おじいちゃんの声が聞こえ始めた。叫びでもなく、つぶやきでもない。はっきり聞き取れる言葉を、何度も何度も繰り返した。
「みの。」
これは、おばあちゃんの名前だ。
「よしゆき。」
これは、お父さんの名前。
 呼ばれているのが私の名なら、すぐにでも飛んでいくのに。
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鳥のいる場所(その2)

二、青い鳥

 朝焼けの残る空。薄紅色の雲の隙間から伸びる、光の筋。私鉄の窓の風景は、鶯の心に一つの言葉を与えた。
 神様
 彼女は強く思った。もし本当に神がいるとしたら、相当根性の悪い奴に違いない、と。
 若く美しい姿に似合わない、険しい表情で。

 鶯は都内のある工科大学で、経理の仕事をしていた。男子学生が九割を占める地味な構内で、鶯は誰より目立っていた。色白で華奢な体。並の男性より高い背丈。切れ長の目と、優しく光を通す蜂蜜色の長い髪。鶯は日本の民話に登場する狐のような、異界の者の雰囲気を持っていた。
 鶯にはここ一週間、気になっている事があった。昼休みになると事務室に必ず現れる男子学生がいるのだ。受付の前に置いてある長椅子に座り、鶯の動きを目で追うのだが、決して話しかけて来ない。人に見つめられるのには慣れていた。しかし、その学生の深刻な顔は、どう考えても鶯を睨み付けていた。何か恨まれるような事をしただろうか。何も思い当たらない。その学生の服装が毎日全く変化しない事も、心配だった。一本黒い線が入っている灰色のセーターに、こげ茶色のズボン。ちゃんと下着は替えているのか。
「田仲さん、また来てるよ。」
先輩に言われて窓口を見ると、また同じ洋服で、怖い顔をこちらに向けている。
 鶯は自分から話し掛ける事に決めた。
「何かご用ですか?」
学生は、鶯の方から声をかけて来るとは思っていなかったようで、幾分錯乱し、上擦った声でこう答えた。
「僕は、物理の富川の息子の、物理の富川です。田仲さんですよね?田仲鶯さん。」
妙な日本語を頭の中で分解し、ようやく学生の正体がわかった。鶯は以前、物理学科の富川という教授と御昼を食べに行った事があった。その時に、息子もこの大学で、自分と同じような研究をしているのですよと、嬉しそうな顔で話されたのを思い出した。
 富川は、事務室の人間を一通り睨んだ後、こう続けた。
「ここではあれなんで、来てくれませんか。」

 富川と鶯は、三つある学食のうち、一番まずいと評判の食堂に入った。食事時にもかかわらず、客はまばらであった。
「父に、これを田仲さんに渡してくれと頼まれまして。」
富川は鶯に、リボンの飾りが付いている薄い箱を差し出した。鶯がその場で包装を破くと、あやめの花が描かれている絹のハンカチが入っていた。
「父は「貴金属をあげたい」と騒いだのですが、あまり親しくない人に高価な物を贈るのは迷惑になると思って、説得しました。」
「一体何だっていうの?」
「あなたのファンだそうです。本当は自分で直接渡したかったらしいのですが、「勇気が出ない」なんて言って。だから僕が。」
そこまで言うと、富川は少し顔を赤くした。そして、味が無い事で有名な「肉そば」を食べ始めた。
 鶯は、富川の父と食事をした時の事を思い出していた。変わり者の多い大学教授の中で、富川はこれといった特徴がなく、教壇から降りた途端に学者である事を忘れられてしまうような男だった。しかし鶯はいつも富川の事を気に掛けていた。鶯は、昼時になると富川が事務室前で「待ち伏せ」するのを毎日見ていた。富川はそこで教え子か、知り合いの研究者を見つける。そして偶然を装い、食事に誘うのだ。ある日、鶯が事務室内で弁当を食べていると、懸命に誰かをつかまえようとしている富川が見えた。しかし昼休み開始から四十分が過ぎても、富川の要求を聞いてくれる者は現れなかった。断わられる度に、富川の目は潤んでいった。鶯はもう耐えられず、話した事もない富川を、学校の裏にある喫茶店に連れていったのだ。
「私ね、この職場がとても気に入っているの。大学の先生って可愛いでしょう。世間の毒に汚されていない感じで。もともとお金持ちのお坊ちゃまが多いのかしら。物腰が穏やかで。穏やか過ぎて生きているのか心配になる人もいるけど、みんな好きよ。教授の部屋が並んでいる所へ、用も無いのに行ったりするの。あそこだけ、別の時間が流れているように思わない?」
富川は、いくら噛んでものどに入っていかない硬い肉を口に含んだまま、首を傾げた。
「あなたもあの時間の中に住んでいる証拠ね。」
鶯は髪を揺らし、目をすっかり細くして笑った後、富川の目を真っ直ぐ見つめた。
「私はきっと、象牙の塔のファンなのよ。大学の先生が、ただ薄ぼんやりしているだけだったら、興味なんてわかなかったと思う。自分の研究に誇りを持っているから、純粋な空間で生きられるのだわ。あなたのお父さんも、研究者として優秀だと聞いてる。それなのに、何故堂々と暮らしていないの?」
富川は、鶯の視線から逃げるように遠くに目をやり、小さな声で
「それは、あの人の本当の目的じゃなかったから。」
と言った。
「どういう事?」
富川は不機嫌そうな顔で、話題を変えた。
「あの、その髪の毛、染めているのですか?」
「染めてない。生まれた時からこの色よ。」
鶯は、奇妙な程色の薄い自分の髪を、指に絡めた。
「外国人なのですか?」
鶯は一瞬、全身の動きを止め、目を大きく開いて富川を見た。そしてすぐに、大声で笑い出した。
「そんなにはっきり言って来た人、初めてよ。みんな思っていても口に出さない。」
「すみません。疑問に思ったものだから、何も考えずに聞いてしまった。」
いいの、いいの、と言いながら、鶯は笑いを止めた。
「母親は日本人よ。でも父親がどこの国の人か判らないの。会った事がないから。」
富川は箸を置いて、鶯の方に顔を向けた。
「片親で育ったのよ。あなたと同じ。」
「知っていたんだ。」
「富川先生が「妻に先立たれまして。」と繰り返し言うのだもの。でもあなたは少しお母さんの記憶があるのでしょう?」
「ええ。母が亡くなったのは、僕が小学校に上がる少し前だから。」
「私はちゃきちゃきの片親っ子よ。物心ついた頃にはもう、父親はいなかったの。母親は何も話してくれないし、それらしい男の写真も残ってないわ。でもその方が色々想像出来て楽しいわね。」
富川は、鶯の嬉々とした表情を、半ば呆れながら見続けた。
「私ね、お父さんがオランダ人だったら良いなと思うの。」
「長崎に出島がありましたからね。」
富川は丼の底を箸で探りながら、適当に答えた。
「チューリップを持って会いに来て、私を指差してこう言うの。「この娘は誰の子だ?」「おらンだ。」」
学食のテーブルはどこまでも静かであった。
「真面目に考えてないでしょう。」
「最初からいないと、親なんてそんなものよ。」
富川が少し怒っているように感じたが、鶯は気にせずに微笑んだ。髪の光が波打った。
「いなくなる事で、誰かを不幸に出来る人は、幸福なのよ。あなたのお母さんは物凄い幸せ者ね。」
言葉の真意が掴めないまま、富川は悲しむような、中途半端な笑みを浮かべた。その笑顔の作り方が、父親にそっくりだと気付いた。
「うちの父親に声を掛けてくれてありがとう。父さん、本当に嬉しかったみたいだから。あなたは変な人だけど、優しいですね。」
「優しくなんてない。」
「どうして?」
「それは」
その後が続かなかった。鶯の目に急に涙が溢れて、さっきまで微笑んでいたのが嘘のように、唇が歪んだ。その泣き顔はすぐに、飾り気のない細い手のひらに隠されてしまったが、富川は汁の残っている丼をひっくり返さんばかりに動揺した。
「どうしたんですか!」
鶯は指で頬を拭いながら、富川の顔を見上げた。
「私、今日、帰る家がないの。」

 仕事を終える頃には、もう外は真っ暗だった。鶯は大学近くの駅のロッカーに入れておいた荷物を取り出し、ホームで富川と待ち合わせた。「僕の家に来ませんか。」という富川の誘いに、簡単にうなずいた自分が可笑しかった。勧めておきながら富川も、戸惑っていた。
「遠いですよ。覚悟して下さい。」
富川の家の最寄駅に着くまで、鶯は何度も「まだ?」と尋ねた。電車が進むにつれ、窓から見える景色に灯りがなくなっていくのが分かった。最後には、田んぼと木の影しか見えなくなった。
 結局、目的の駅まで一時間半もかかった。ここからバスに三十分も乗らなければならないと言う。
「あなたも富川先生も、こんな所から通っているの?信じられない。」
バスの席で鶯は大声をあげた。
「あなたも明日はここから仕事に行くのですよ。」
「五時起きね。」
鶯は疲れた様子で薄汚れたガラスに髪を押し付けた。
「明日家に帰るのだから、今日一日旅行のつもりでいれば良いでしょう。」
「帰らない。」
慣れない拗ねた女の顔に気付かない振りをして、富川は口をつぐんだ。鶯は我慢出来ずに、自分から話し始めてしまった。
「私ね、今朝まで男の人と一緒に暮らしていたの。名前は思い出したくないから「K」って呼ぶわね。そのKがちょっと馬鹿でね、歌手を目指しているのよ。音楽を自分で作って歌うやつ。彼の頭の中の予定では、あっという間に曲が売れて、芸能人になれるはずだったのに、全然駄目なの。他人に聴かせるどころか、自分自身納得いくものすら作れない。その事で当たり散らすのよ。病的なくらいに。」
鶯が顔に手を当てたので、また泣き始めたのかと富川は勢いをつけて鶯の方に振り向いたが、それは頭を抱える仕草だった。
「元々神経の細い人だから仕方ないと思っていたのだけど、そのうちKの病気が私にも伝染してしまって。気が付いたら、怒鳴り合い泣きわめくだけの生活になってしまった。このまま家を病気の巣にして置く訳にいかないから、通帳と着替えだけ持って出て来たの。」
鶯は窓ガラスを上着の袖口で擦った。地面に明るいものは何もなかったが、空は都会の何十倍も美しかった。
「簡単に言えば、逃げたのね。やっぱり私は優しくないわ。」
 バスから降りた後がまた大変であった。街灯が全く無い、森沿いの小道をひたすら歩かされた。鶯は不意に、富川も男である事を思い出した。こんな所に二人きりでいるなんて、危険なのではないか。もし変な事をされそうになったらどうしよう。富川は顔は怖いが、体は貧弱そうだから、戦えば勝てるかもしれない。
「ようやく入り口に来ました。ここの上に家があるので、もうすぐです。」
富川の声で我に返った鶯は、森の間に作られた、細い坂に気付いた。ただ木を抜き土を固めただけの原始的なその坂道の両脇には、黒い裸の木が並んでいた。
「桜?」
「そうです。春はきれいですよ。」
富川と鶯は縦に並んで上っていった。
「この桜はあなたの家のものなの?」
鶯は、見た目よりずっと急な坂道に息切れしながら言った。
「桜だけではなくて、この森全部がうちのものですよ。」
「昔からこの辺の地主だったの?」
「いや、父親が若い頃、論文で賞をもらったのですよ。その賞金を使って、ここの土地と、家を買ったんです。家を見ると、驚きますよ。」
 坂を上りきると、そこには古い木造の大きな家が立っていた。旅館だと言っても不思議に思わない程、立派な造りをしていた。
「あなた、何人家族?」
「父と二人ですよ。」
鶯はしばらく口を開けたまま、一ヶ所だけ明りが点いているガラス戸を見ていた。
「何を考えてこれを買ったの?」
「父親に聞いて下さいよ。」
富川は寂しく笑って、家の中に入っていった。

 富川家三つの約束
その一、家の中でも上着を脱いではいけない。
隙間風がひどいので、室内の温度が外と全く変わらないのだ。
その二、台所、台所の隣の部屋、風呂及びトイレ以外の部屋には、なるべく入らない。
掃除を全くしていないし、電気が引かれていないから、使えない。
その三、トイレは風呂の隣以外に、あと二つあるが、そこには絶対に入ってはいけない。
ここに富川一家が越して来て以来、一度も扉を開けた事が無い。もしかしたら人間以外の何かが住んでいるかもしれない。
 要するに、部屋の数は多くても、活用している面積は鶯とKのアパートと同じだった。
 富川の父は何も聞かずに鶯を歓迎した。次の日にはもう、日常が始まっていた。

 日曜日、富川は縁側で膝を抱える鶯を見つけた。曇り空の下でも鶯の髪は充分に光をためて、庭の土に向かって流れていた。
「そんな所に座っていると、体が冷えますよ。」
振り返ると、富川が黒いトレーナーとジーパンという姿で立っていた。
「あら、服替えたのね。」
「二週間に一回、日曜日に洗濯するんですよ。」
「下着はもっと頻繁に替えているんでしょうね?」
「多少は。」
多少、そう呟いて鶯は、膝に顔を埋めた。
「座布団持って来ますね。」
富川がお茶と座布団を持って戻って来ても、鶯は顔を隠してうずくまったままだった。
「大丈夫ですか?」
返事は無かった。富川は空に目をやり、薄い雲の間から太陽が現れるのを待った。
「あなたが毎日泣いているような気がして。」
「平気よ。昨日は富川先生とトランプで遊んだわ。」
「トランプで何を?」
「七並べ。」
二人で七並べやって楽しいかなあ、富川が馬鹿にするように言うと、鶯も困ったように微笑んだ。
「すみませんね。父さんの相手をさせちゃって。父さん、嬉しくて仕方がないんですよ。あなたがこの家にいる事が。」
「こっちこそごめんなさい。いつまでも泊めてもらって。病人がいるみたいで迷惑でしょう。」
「構わないですよ。この家もあまり健康的とは思えないし。」
鶯は庭の前の竹やぶを見た。風が無いのに竹の葉全てが微妙に揺れ動いている。
「帰りたいですか?」
「わからない。すごく帰りたい。でも絶対に帰りたくない。頭が混乱していて、何が一番自分にとって正しいのか判断出来ない。」
「いつまででもいて下さい。あなたが泣かないで暮らせるまで。」
鶯は竹やぶから目が離せなかった。この感じは何だろうと考えて、そうだ、たき火、と呟いた。
「たき火?山火事が起こるといけないから、ここでやった事はないですよ。やりたいですか?」
「違うの。ここの竹を見ていたら、たき火を一日中見つめていた時の事を思い出したの。何故かしら。」
富川も竹を見た。それぞれ勝手に動いていた葉が、一陣の風のせいで、いっせいに同じ方向へなびいた。風がやむと、竹の葉は何もなかったように元の位置に戻って、ささやかな自己主張を繰り返す。
 鶯は学食で見せたような笑顔を竹やぶに向けた。
「たき火は人を留まらせるでしょう。竹も同じね。」
富川はもう鶯の笑顔が信じられなかった。鶯が明るくすればする程、心は遠くに落ちているようで、たまらなかった。
「Kってどんな人ですか?」
「自分勝手で、弱い人。」
「もっと具体的に。」
あら、興味あるの?と言って鶯は意味深い笑いを浮かべたが、富川はその意味が全然解らなかった。
「ギターが上手なの。自分で作る曲はどうしようもないんだけど、他人の曲は器用に弾くのよ。声も色っぽいの。特技はそれだけ。」
「どんな曲を作るのですか?」
鶯は思い出し笑いをしながら、愛してる!愛してる!って叫ぶようなやつ、と言った。
「愛してるぅ〜愛してるぅ〜と歌うのですか?」
「そうじゃなくて、とにかく表現が直接的なのよ。ひねりも何もないの。」
富川は首をひねった。
「そう言われても想像がつかない。歌詞を教えて下さいよ。」
「嫌よ。だって全部私についての詞なんだもの。」
突然表情が変わる目を褒めたりするのかな。富川は自分なりに解釈した。僕はあの急な変化が怖いけど。
「例えば、彼女が浮気して悲しい気持ちを歌うとするでしょう?
「彼女がぁー、俺より背の高い男とぉお、密会してたァァ」
と叫んでも、みんな同情するだけで感動はしてくれないのよ。」
「そうでしょうねえ。そんなにひどい詞なのですか。」
ここまでアホではないけどね。鶯は笑った。
「Kが人の心を動かす歌を作る日が来るのかしら。」
風が鶯の髪と竹の葉を撫でた。遠いざわめき。雲には太陽の白い影が揺れている。
「かわいそうな人。才能も無いのに、夢なんて見て。」
鶯が振り向くのと、富川が飛び退いたのは同時だった。予感通り、鶯の目からは音を立てるような涙が流れていた。
「貪欲なのよ。どうして私だけでは駄目なの?自分に夢中になってる女が隣にいるのよ?それだけで満足したっていいじゃない!どうして他のものを求めるの?なんで不幸そうな顔をするの?」
最後の言葉が、家中に響いたように感じた。鶯はその後も何か言い続けようとしたが、唇が震えるだけで声にならなかった。
 富川は何を思ったか、今まで閉めたままにしていた雨戸を、突如開け始めた。立て付けが悪く、蹴ったり押したり引いたりしながら全ての戸を戸袋にしまい終えると、富川は力を使い果たして座り込んでしまった。だが鶯は、汗だくで目の焦点を失っている富川は全く無視して、そこに広がったからっぽの和室に、心を奪われていた。数えきれない古い畳。向こう側の壁が小さく見える程大きな部屋。家具も何もない。この存在を初めて知った。
「僕は夏と秋だけこの部屋に入るんです。セミと、秋の虫の声を聴くために。」
昼間なのに、部屋はどうしようもなく暗い。竹やぶの闇のような気品もない。夏には湿り気が淀んで、富川の体を畳に張り付けるのだろう。
「森に囲まれてますからね。夏の間は夥しい数のセミが鳴くのですよ。セミに勢いがなくなると、今度はは秋の虫が盛りになる。目を瞑ってそれを聴くのが好きなんです。巧く言えないけれど、この世の外に連れていかれるような感覚がして。この心の動きが何なのか、ずっと知りたかった。」
突発的な強い風。背中で竹やぶが鳴った。夏にはセミに消されてしまう、実在感のない響き。
「ある時気付いたんです。これは虫のための声だ。人の耳に届く必要がない、虫だけに聞こえればいい声なんだと。」
無表情のまま富川を見つめる鶯は、虫の声そのもののようだった。夏と秋の、頭の中に虫が住んでしまいそうな、喧しい鳴き声。絶対にそこにいる感触。でもいつの間にかいなくなってしまう。秋の終わりには確実に。今、虫はどこにいるの?
「聞こえなくても良いのに、感じなくても良いのに、どうして気付いてしまうんだろう。」
富川は思い出していた。ついこの前、季節はずれの鈴虫が一匹、天井裏で鳴いていた。三日で声がしなくなったけれど、仲間のもとに帰ったのだろうか。それとも。
「僕はこの家が好きだ。人間が大勢いる所なんかより、ずっとここの方が良いと思う。でもうちの父親はそう考えられないんだ。前にあなたが、何を考えてこの家を買ったのかと尋ねたでしょう。」
鶯は少し震えながら頷いた。ここは寒い。こんな格好で座ってはいけない場所なのだ。
「うちの父親は、子供を沢山儲けて、この家を人だらけにするのが夢だったのですよ。何でそんな大家族願望があるのか知らないけど、家中から笑い声が聞こえたら、「寂しい」という感情を捨てられると思ったのかもしれない。それならわざわざ体の弱い人と結婚しなくても良いのに。」
鶯には富川の父の夢が見えた。子供達が広い畳の上でかけまわる。甲高い、明るい叫び。全員が部屋の真ん中に集まり、じゃんけんぽん。鬼は決まった。急に静かになって、かくれんぼが始まる。一人は押入れの中へ。ある子は台所の隣の小部屋に。障子の裏に隠れた子は、影ですぐに見つかってしまった。一番上のお姉ちゃんは、隠れる振りをしてお父さんの部屋に忍び込む。もうかくれんぼで楽しめる歳ではない。本棚から溢れる専門書の山から、彼女は一番部厚い本を選ぶ。前から憧れていたのだ。なのにどうしてだろう。文字は読めるのに、内容が全く理解出来ない。見た事のない記号。解るのは+、−、=。大人の手付きでページをめくる小さな背中を父親は見つけ、とろけそうな微笑みを浮かべる。肩を叩くと、少女は驚きで涙ぐむ。君がした事はちっとも悪くない。頭を優しく撫でながら、少女にふさわしい本を探す。そして有名な物理学者が書いたものだよと、リチャードP.ファインマンの随筆を渡す。君の心は痛むだろうか。死ぬ事を運命付けられた妻と、人間の無力さを知った科学者の愛の物語に。ノーベル賞は妻を生き返らせない。
「教授になりたい人が、全員なれる訳ではないんです。企業が望む研究しか出来ない、不自由な学者の方が世の中には多いんだ。父さんは本当に恵まれている。それなのにくだらない夢なんか見て。」
「くだらないなんて言わないで。」
「僕だって言いたくない。でもそうしないと」
僕も陽だまりの夢を見てしまう。闇のない、暖かな空間を。そして得られずに涙目で人を待つのだ。いつまでも、いつまでも、いつまでも。
「泣いてるの?」
鶯は、背を向けて縮こまる富川の側に寄っていった。富川は静かに顔を上げて、独り言のように囁いた。
「あなたもきっと帰ってしまうんだ。」
何も答えずに、鶯は富川の髪に触れた。硬い、男の髪の感触を手のひら一杯に感じながら、溜息をついた。逃げて来たはずなのに、また見つけてしまった。どうしてこうなるのだろう。諦めるしかない。こんな言い方は嫌いだけど、私はこういう星のもとに生まれてしまったのだ。
 冷たい竹林のざわめきを聞きながら、鶯は何かを信じ始めていた。
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鳥のいる場所(その3)

三、始まりの香り

 お父さんがバス停に立っていると、そこにトラックが突っ込んだ。その時赤ん坊だった私は、お父さんを写真でしか知らない。

「小鷺、あんた本当に十八歳?八歳の間違いじゃないの?」
入学式の帰り道、凛ちゃんは散々私を馬鹿にした。行きの電車の中で、袋の開け方に失敗し、芋かりんとうをぶちまけたからだ。
「だって、芋かりんとう美味しいんだもん。」
「美味しいからって何でばら撒くのよ。大体普通、電車の中でお菓子の袋なんて開けないわよ。遠足じゃないんだから。」
「早く食べたかったの〜」
「お子ちゃま!他人に迷惑かけないでよね。恥ずかしい。」
本当の事を言うと、私は今日、遠足のような気分だったのだ。生まれて初めての電車通学。初めての定期。中学から都内の私立に通っていた凛ちゃんには分からないだろうけど。
「サツマイモ農家の人に謝りなさい!」
「農家の皆さん、私はあなた達が大切に育てたお芋を、汚して食べられなくしてしまいました。小鷺は悪い子です。ごめんなさい。」
「ま、いくら謝っても地獄行きだけどね。」
「えーっ。いーやーだー。」
高価そうなスーツの袖を引っ張ると、凛ちゃんは立ち止まり、横を向いて目を細めた。
「どうしたの?」
「綺麗ね。」
凛ちゃんが向いた方に目をやると、私の家の入り口だった。山のてっぺんまで続く満開の桜並木。森に生まれた白い筋。
 入学式の後に配られたビラを見ながら、これから入るサークルを検討しようという事になった。凛ちゃんは自分の家のように私の家を使っている。子供の時からずっと。二人とも一人っ子で遊び相手がいなかったから、一日中どちらかの家に入り浸るのが癖になっていた。だからこの家の隅々に、二人の「跡」が残っている。柱の傷はもちろん、凛ちゃんが暴れて空けた壁の穴や、何も考えずに貼ったアイドルのシール、保育園の頃の落書きなどが、そのまま保存されている。格好悪いから直したいのだけど、おじいちゃんがそういうものを宝物みたいに思っていて、修理をさせてくれない。気持ちは少し、分かるけど。
「小鷺の家は良いよね、いつ来ても葬式の匂いがする。大好き。」
宴会場のような私の部屋に入ると、凛ちゃんは深呼吸して笑った。
「朝、昼、晩と全員がお線香を上げるからね。遠くの仏具屋さんから取り寄せた、高級な線香なんだよ。」
「ふうん。律儀ねえ。」
身の周りに高級品しかない人に、線香の高さを力説しても仕方ないな。凛ちゃんはこの地区で知らない人はいない、大きな建設会社の社長の娘なのだ。中高一貫のお嬢様学校を卒業して、今春、私と同じ大学の土木工学科に入学した。
「ついこの間、うちも葬式をやったのよ。葬式は楽しいよね。人が沢山集まって、夜中ずっとおしゃべり出来るから。」
凛ちゃんの家は親戚が多くて、しょっちゅう葬式を出す。
「誰が亡くなったの?」
「ばあちゃんの妹。性格悪くて嫌いだったから、全然悲しくなかった。私が有名な学校に通っているのが気に食わなかったみたいでさ、会う度に「女に学問はいらない」とか言ってくるの。腹立って仕方なかったわ。でもまあ、葬式が面白かったから、許してあげよう。」
凛ちゃんは意地悪な笑顔で指を三本立てた。
「今回起きた事件は、三つ。」
親戚が全くいない私にはその辺の感覚が掴めないのだけど、血が繋がっている大勢の人間が一ヶ所にまとまって何かしようとすると、必ず揉め事が起きるらしいのだ。特に凛ちゃんの家はお金の事とか、難しい問題が色々あるようで、えげつないドラマのようなお話をいつも聞かせてくれる。
「まずお通夜の準備中に、輝子伯母さんと晶枝さん、この人は俊彦叔父さんのお嫁さんなんだけど、この二人がさ、台所の使い方の事で大喧嘩になっちゃって、平手の打ち合い。ほら、輝子伯母さんって、相撲取りみたいな体格でしょう?「やっぱり本場の平手打ちは違うよね。」ってみんな感心していたよ。」
輝子おばさんには私も何度か会っている。お正月に凛ちゃんの家に行った時に、ちょっと驚くような額のお年玉をくれた。全身が貴金属でキラキラしている、頑丈そうな人だった。
「次にお通夜の後のお清めで、隆久叔父さんがお酒を飲んじゃったの。あの人酒乱だからさ、息子の嵩ちゃんに殴りかかっちゃって、大乱闘。嵩ちゃんは今高校生で、文学部志望なのね。隆久叔父さんとしては、うちの会社の経営に関わらせるために、商学部か、せめて法学部に入ってもらいたいと思っているのよ。その事で前から上手くいっていなかったんだけど、お酒で爆発しちゃったみたい。」
私は嵩君の繊細そうな顔貌を思い出していた。きつい目と、赤い唇。
「で、葬式の朝、今回死んだばあちゃんの妹の娘の、玲子さんが、「あんたの旦那のせいでお通夜が無茶苦茶になった」って嵩ちゃんのお母さんを責め始めて、そのうち口だけじゃ済まなくなって、流血の惨事よ。当の隆久叔父さんはいつも通り暴れた記憶を失くしているし、夫婦喧嘩も混ざって、大変だったわ。一番可哀相なのは、嵩ちゃんよね。」
嵩君にだけは本気で同情しているらしく、凛ちゃんは笑顔を消した。でもすぐに声を立てて笑い出した。
「その後直ちに葬式だったから、包帯を巻く暇もなくてさ、みんな血を流しながら坊さんのお経を聞いてんの。可笑しかったよー。」
へー、としか答えられずに、私はガラス戸の向こうの竹林を見た。実を言うと、私はまだお葬式に出た事がない。お父さんのお葬式なんて覚えていないし、おばあちゃんは私が生まれるずっと前に亡くなっている。よく知っている人が死ぬと言うのは、どんな気持ちなんだろう。芸能人が死んだりすると、ワイドショーで涙、涙のお葬式を見せてくれるけど、なんとなく演技みたいで、死の実感が得られない。そういえば、凛ちゃん家のお葬式で誰かが泣いたという話は一度も聞かない。
「人が死ぬってどんな感じ?」
「何でもない感じ。でもまあ、悲しそうにしなきゃ、くらいは思うわね。しんみりした空気を作るというか。そうそう、こういう迷信知ってる?近くで人が死ぬと、カラスが「アーヤ、アーヤ」って鳴くんだって。「カア、カア」じゃなくて。」
「嘘だよ、そんなの。」
「それが、ばあちゃんの妹が死んだ日に、聞いちゃったのよ。カラスの声を。最初は私も、非科学的で馬鹿みたい、と思ったの。でも、動物って、その場の雰囲気を読むでしょう?うちのヌーなんてさ、お母さんが風邪で寝込むと、一緒に具合悪くなっちゃうのよ。」
ヌーというのは凛ちゃんが飼っている犬の名前で、十五歳になるマルチーズだ。凛ちゃんのお母さんにとても懐いている。
「ヌーが「病気の雰囲気」を読むからよ。だからカラスも読むんじゃないかしら。「死の雰囲気」を。」
ヌーは、ガンの宣告を受けてから三年生きている。ヌーの病気が判った時、凛ちゃんは私の家に来て大声で泣いた。でも最近は、「ヌーは長持ちよね。高かっただけあるわ。」なんて酷い事を言うようになった。
「色んな葬式を経験したけど、私も死が何なのかよく分からないわ。」
どうしてかな。死は世の中に溢れているのに。
「ヌーが死んだ時初めて、本当の死を知るのかもしれない。」
 学校帰りに買った椎茸茶を飲みながら、サークルのビラを畳に並べた。運動は絶対にしたくなかったから、「テニス」とか「スキー」の文字のあるビラは全て除けた。
「小鷺は決まった?」
凛ちゃんはまだ何も決められないようで、どのビラにもきちんと目を通していた。
「うーん、やっぱり物理研究会かなあ。」
「おじいさんが物理学者で、お父さんも似たようなもんで、物理学科に通って、物理研究会に入って・・・。そんな人生で本当に良いの?」
「うん。」
呆れられてしまった。いつもの事だけど。
「ちなみに、高校では何部だったの?」
「物理部。」
もう何も言わないよ、凛ちゃんはそう言って椎茸茶を飲み干した。お吸い物みたいで美味しいでしょう。
「興味が湧くサークルが無いよ。どこにも入らないでいようかな。もう少ししたら、忙しくなるかもしれないし。」
二人とも横になって、窓の外を見た。空が赤く染まりつつあった。
「公務員になる勉強をするために、学校に通おうかと思っているのよ。」
「何で公務員の勉強なんてするの?凛ちゃんは家を継ぐんでしょう?」
私は思わず飛び起きてしまった。
「あの会社嫌いだもん。それにこの辺では大きい方だけど、全国的に見たら弱い会社なのよ。いつまでも安定した経営が出来るとは思えない。つまらない会社と一緒に滅びるより、官僚になって国土計画に携わる方が楽しそうだわ。お金より、権力の方が美しいと思わない?」
「わからない。考えた事ない。」
凛ちゃんは、私が決して思い付かないような事ばかり考えている。脳みそが、私の何倍も実用的に出来ている。
「小鷺は大学を卒業したらどうするの?大学院?」
「あんまり考えてないけど、一先ずは、」
「一先ずは?」
「科学好きなお姉さんになる。」
「その後よ。」
「その後は、科学好きなおばさんになる。」
私は自信満々だった。科学。素敵な言葉。
「で、最後、科学好きなおばあさんになるの?」
「そうそうそう。」
「ばか。どうやって暮らしていくのよ。」
暮らす。そうか、ごはんを食べなければ、生きていかれない。
「凛ちゃん家の家庭菜園から野菜を盗んで、生き長らえる。」
「訴えるわよ。」
凛ちゃんが湯呑茶碗を振ったので、もう一杯椎茸茶を入れてあげた。
「何も考えてないでしょう、小鷺は。母親は何か言って来ないの?将来の事とか。」
「なーんにも。」
お母さんは私に何の要求もしない。物理学科に行きたいと言った時も、お母さんが働いている大学を受験すると決めた時も、「あら、そう。」としか答えなかった。結局その大学に入学する事になったのだけど、お母さんの意見はたった一言。「遠いわよ。」確かに遠かった。
「小鷺はきっと研究者になる。血筋から考えても、性格から考えても、それしかないと思う。嵩ちゃんも、小鷺みたいに運命に従順になれれば、楽なのにね。」
運命。ジャジャジャジャーン。そんなに大仰なものなのかな、私が選んだのは。
 気が付くと、もう竹林の中は夜になっていた。朱色の空に、黒い竹の葉が揺れている。日常の中で影絵のような景色が見られる幸運に感謝した。

 凛ちゃんが帰った後、私はほんの少し後悔していた。おじいちゃんの事を相談出来なかった。この二ヶ月間、第一志望の大学に合格するという人生最大級の喜びがあったにもかかわらず、不眠症気味だったのは、おじいちゃんの夢遊病(?)のせいだ。三日に一度くらい、夜中に竹林の中に入っていって、おばあちゃんとお父さんの名前を呼ぶ。一体何の意味があるのだろう。いよいよ本格的なボケかしらとも考えたけど、昼の間は存外しっかりしている。大学を退職した後、おじいちゃんは家から少し離れた所にある商店街に買い物に行くのを日課にしている。商店街の人達は皆おじいちゃんが大学の教授だった事を知っていて、「先生、先生」と声を掛けてくれる。一番優しくしてくれるのは化粧品屋のおばちゃんだ。この前おじいちゃんはそこで口紅を買ってきた。苺のような色だったので、私にくれると確信したのに、口紅は仏壇のおばあちゃんの写真の前に供えられていた。二十代で亡くなったおばあちゃんには、確かに苺色の紅が似合う。隣に置いてあるのはお父さんの怖い顔。こちらもまだ二十代だ。早死の家系。嫌だな。でも私はお母さんに生き写しだから、遺伝子はどんな具合なんだろう。実は母方の祖父、祖母について何も知らない。お母さんは「いないのよ。」としか教えてくれなかった。「いない」というのは「死んだ」と同じだろうか。あまり深く聞けないまま今に至っている。凛ちゃんの一族は、メンデルの遺伝の実験のようだ。親族がどこも欠けていない。「おじいさんの従兄弟の孫」なんてのが凛ちゃんに似ていたりして、とても奇妙だ。凛ちゃんの性格はお父さん譲りで、どちらも私の世話を焼いてくれる。小学生の頃、私は石崎という男子に集中的にいじめられていた。私は極度の運動音痴で、球技やリレーなど集団でやる競技になると、必ず周りに迷惑を掛けた。石崎は体育をするために学校に来ているような奴だったから、私がとても邪魔だったのだ。汚い言葉でなじるのに始まり、顔が狐に似ている事から「女狐」というあだ名を付けられたり、後ろから物を投げ付けられたり(野球が得意なだけあって、いつでも頭に命中した)、私は毎日泣かされていた。一番怖かったのはやはり直接的な暴力だ。髪の毛を引っ張られると、毛が全部なくなってしまう恐怖を感じた。投げ飛ばされて机に頭をぶつけた時は、殺される、と思ったものだ。私を男性恐怖症にした石崎に、凛ちゃんはたまに仕返ししてくれた。凛ちゃんの得意技は「引っ掻き」で、石崎は首に血を滲ませ大声で泣いた。ただ単に喧嘩好きなだけかもしれないけれど、私は凛ちゃんを頼りにしていた。凛ちゃんのお父さんも、とても頼り甲斐のある人だ。昔ながらの「親分」で、父親を早くに亡くした私を不憫に思ったらしく、凛ちゃんと一緒に様々な遊びに連れて行ってくれた。外国に行かせてもらったのも嬉しかったけれど、私は毎年欠かさなかった「梨狩り」が忘れられない。毎回ダンボール箱一杯の梨を持ち帰って、おなかを壊す程たっぷり食べた。凛ちゃんのお父さんは傷があるのや、色の悪いのばかりを選んでもいでいた。あの梨園、潰れてしまったそうだけど。
 私の不幸な境遇(?)は、私に色々なものを見せてくれた。お礼を言うべきなのだろうか。「運命」に。

 目を開けると、私の部屋も夜になっていた。慌てて台所に行くと、お母さんが一人でたこ焼を食べていた。
「小鷺がなかなか来ないから、先に食べ始めちゃったわ。先生はもう終わったわよ。」
お母さんはおじいちゃんの事を先生と呼んでいる。
「どうしたの、このたこ焼。」
「今日、駅前でね、腕に刺青をしたお兄ちゃんが、赤ん坊をしょったままこれを焼いていたのよ。どんな事情があるのかしらと考えたら、居たたまれなくなって、全部買い占めそうになったの。でもうちでは食べ切れない、と理性が働いてね、五パックで止めておいたわ。」
これがお母さんの買い物の仕方だ。質も値段も関係なく、情だけで物を買ってくる。
「うちは三人家族だから、一人5/3パックずつ食べなければいけないのね。」
「先生は一パックしか食べなかったから、小鷺と私は二パックよ。」
たこ焼にはタコが全く入っていなくて、少しお花見の味がした。
「大学はどうだった?」
「入学式だけでは分からないよ。とりあえず遠かった。」
「行きと帰りで一冊本が読めるわよ。」
お母さんが読書家になったのは、ここに住むようになってからだそうだ。「電車ではこれしか出来なくて。」と悲しげに言われた事がある。
「先生が切ったグレープフルーツ、食べるの忘れないでね。」
冷蔵庫を開けると、半分に切って黒糖を散らしたグレープフルーツが三つ、ラップに包まれていた。
 私が二つ目のグレープフルーツを食べ終わると、お母さんはテーブルの上を片付けた。食器を洗うお母さんに、思い切って話し掛けた。
「お母さん、おじいちゃんが最近変なの。夜中に竹林に入って、おばあちゃんを呼ぶんだよ。お父さんの名前も。」
お母さんは何も答えずに洗い続けた。
「ボケちゃったのかな。」
「昔から半分ボケていたわよ。」
お母さんは私の話に少しも驚かない様子で、同じ動作を繰り返した。
「真剣に考えてよ。みの、よしゆき、ってはっきり言ってるの。何度も何度も。ちゃんと聞こえるんだよ。竹林の中から。みの、よしゆき、みの、よしゆきって。」
お母さんは洗い続けた。私の言葉を全く聞いていないかのように、無反応だった。ねえ、と強く言おうとした瞬間、お母さんの頭が不自然なほど下がっているのに気が付いた。そう言えば、今日使った食器は湯呑茶碗だけだ。なぜそんなに時間を掛けているの。
「お母さん」
お母さんは動きを止めた。振り向きもせず、言葉を返そうともしなかった。お母さんの背中だけが、別の空間に行ってしまったような気がした。
「泣いてるの?」

 今日も布団をガラス戸際に敷いた。おじいちゃんが竹林に入るようになってからずっとそうしている。本当は部屋の真ん中で、人間である事を忘れて眠りたいのに、近頃は思考、思考の睡眠になっている。脳は不便だ。問題を解決出来ないのに、忘れる事も出来ない。
 お母さんは泣いていたのだろうか。私は救いようのない泣き虫だが、お母さんが泣いているのは見たためしがない。母親とは泣かないものだと思っていた。でも今日のお母さんの姿を見て、私の心に不思議な感情が起こった。
「懐かしい」
心の奥で、何かが引っ掛かったのだ。言葉になんて出来ない、色も匂いも分からない、雰囲気の断片のようなもの。
 お母さんは子供の頃からあまり変わらない。たまに馬鹿馬鹿しいダジャレを言って、家中をしんとさせたりする他は、大抵いつもぼんやりしている。普通のお母さんは、成績や生活態度などに文句をつけたりするそうだけど、うちのお母さんは私に何も求めない。一度、
「どうしてお母さんは、私に「勉強しろ」と言わないの?」
と聞いた事がある。すると、
「言わなくたって、小鷺は勉強ばかりしているじゃないの。」
と言われた。確かに私は勉強好きだ。他に何も出来なかったせいもあるけれど、これはおじいちゃんの影響だと思う。おじいちゃんは家にいると、朝から晩まで勉強している。その隣で漢字の練習をしたり、算数の問題を解いたりするのが好きだった。塾になんて行かなくても、おじいちゃんが勝手に授業をしてくれた。おじいちゃんの教え方は、学校の先生とは全然違っていた。説明は巧くないのだけど、学問に対する愛情が強く伝わって来て、胸が無性に熱くなる。一番激しかったのは「微分」の解説だ。私はまだ微分の最初を習ったばかりで、微分の計算は出来るけど、微分の意味がよく解らないという状態だった。おじいちゃんはまず、
「小鷺も微分を習うような歳になったか。」
と涙ぐんだ。それから、微分は色々な所で使われるんだと言って、車の速度・加速度の話から、電気の話、放射性物質の話などへと続き、経済学の話でようやく終わった。半分も理解出来なかったけれど、瞳を輝かせながら話すおじいちゃんがとにかく可愛らしかった。熱烈に、でも少し照れながら。まるで初恋の話をしているみたいだった。この時から、微分を勉強すればきっと良い事があるのだろうと思うようになり、受験勉強も頑張れた。
 私が物理学科に入ったのは、おじいちゃんが書いた論文を読んでみたかったからだ。おじいちゃんが自然に向かって書いた文章。恋文のような文面に違いない。
 こんな理由で大学を選ぶのは変なのだろうか。ふと、「女に学問はいらない」という言葉を思い出した。真実かもしれない。凛ちゃんは男女差別に反発したのだろうから、「人間に学問はいらない」と言い替えたらどうだろう。学問が起こす問題は多く、解決するものは少ない。学問は純粋に楽しむのが一番健全なのではないだろうか。学問に頼らなくても、人は救える。
 お母さんの昔の写真を見た事がある。品の良いほっそりした体と、腰まである黄金色の髪。背が高い事もあって、周りが霞むほど綺麗だった。おじいちゃんが言うには、学生はもちろん研究者の間でもとても人気があり、お父さんとお母さんが結婚した時には大勢の男の人が嘆き悲しんだそうだ。まだ女子学生が少なかった頃。お母さんはそこに存在するだけで他者を幸福にしていたのだ。
 お母さんに顔も姿もそっくりなのに、私はちっとも男子にもてない。形は同じでも、お母さんと私は「感じ」が違う。田舎臭いと言うか鈍臭いと言うか、私は何をやっても垢抜けない。山育ちのせいか、それともこれが父の遺伝子か。
 私の存在は誰かを幸福にしているのだろうか。前から気になっている事がある。まだお母さんの髪が長かった頃、お母さんは私を妙な場所に連れていった。繁華街に近いアパートで、ひげもじゃの愛想の悪いおじさんが待っていた。私はそのおじさんが怖くて怖くて、大声で泣き喚いた。多分そのおじさんは、子供をどう扱ったら良いのか分からなかったのだろう。私に話し掛ける事もなく、静かにギターを弾いていた。その音色はとても優しかったので、私は目の前にいるのが「ひげもじゃ」であるのを忘れて眠り込んだ。
 目を覚ますと電車の中だった。お母さんは何を話しても上の空で、帰り道はとても寂しかった。
 今思えばあのおじさんは、お母さんの恋人だったのではないだろうか。お母さんは再婚したかったのに、私がいたために駄目になったのではないか。あの時私が泣き喚かなければ。
「みの」
私はすぐに目を見開いた。竹林はいつの間にか風に荒れ狂っている。嵐の海のようなざわめきと共に、おじいちゃんの声が途切れ途切れに聞こえてくる。
「よしゆき」
 お母さんはどうして相談に乗ってくれなかったのだろう。こんな事は今まで無かった。おじいちゃんも、お母さんも、私の願いなら何でも聞いてくれた。私が「どんぐりのお団子が食べたい」と言えば、籠一杯に椎の実を拾い集め、食べ切れない程の団子を蒸し上げてくれた。私が学校から泣いて帰れば、何時間でも私の話を聞いてくれた。友達と喧嘩した時も、泣いた理由をはっきり言えない時も、いつだって二人は私の味方をしてくれた。
 世界全てが敵になっても、二人は一緒に戦ってくれる。そんな確信があった。
 私はこの無闇に広い箱の中で、大切に大切に育てられた、お姫様だった。それはいつでも絶対だった。疑いなんて何も無かった。
 だから、こんな歳になるまで気付かなかったのだ。
 この空間が、本当はとても、脆いという事に。
 脆いという事は、壊れるかもしれない、という事だ。ここが壊れるとはどういう事だろう。家が崩れる?それは違う。私が恐れているのは、家族の崩壊だ。でも私達の心はバラバラになったりしない。家族が壊れるという事は。
 誰かがいなくなるという事?
 それは、死ぬという事?
 おじいちゃんもお母さんも私も、死ぬ程健康だ。風邪一つひかない。なら何が怖いの?おじいちゃんが死者を呼ぶ。お母さんが涙を流す。それに対して生じる、このどうしようもない不安の理由は。
 心の死。魂の死。体の死なんて問題じゃない。人間は精神で生きている。
 そして今、おじいちゃんの精神は、死に向かって歩き始めているのだ。
 私は布団を剥いで立ち上がった。
「みの」
おじいちゃんの声はまだ聞こえている。私は寝巻のまま自分の部屋から飛び出した。庭にあったつっかけを履いて、竹林を睨み付けた。風は思ったより強く、竹は互いの葉を叩き合っている。その激しい音は、人を拒絶しているようでも、誘っているようでもあった。竹林の中は真の闇で、先に何があるのか全く見えない。夜空が奇妙に明るく感じられた。
「救う」
何故かこの言葉が心に現れ、私の胸を何度も打った。救う。それは甲高い鐘の音のように私を焦らせ、私の足を動かした。おじいちゃんの所に行かなければ。藪の中へ。闇の中へ。
 一歩踏み出した途端に、頭を竹にぶつけた。い、痛い。二歩目、足が何かに引っ掛かり、転んでしまった。再び頭を打った。起き上がれない。これは困った。どうしよう。
 竹林の入り口で寝そべったまましばらく暴れていたが、すぐに冷静になった。何をしているんだ私は。明るい所と同じ感覚で暗がりを歩くからいけないのだ。私は目を瞑った。私は目が見えないんだと自分に言い聞かせる。耳と皮膚の感覚を尖らせた。嵐の音。それと同質の乾いた音が、体の下で生じている。枯れた竹の葉が割れる音だ。すぐに寝巻に何かが刺さっているのが分かった。細い棒のようなもの。指で触れると、折れた竹だった。
 どうにか竹の拘束から逃れ、起き上がり目を開けた。
「よしゆき」
おじいちゃんの声は風に消されて、近くなのか遠くなのか感知出来ない。私は空を見上げた。弓のようにしなって揺れる竹と竹の間に、粉のような星が散っていた。弱く、小さな光。ずっと、ずっと遠くの。
 どこに向かって進めば良いのか考えずに、とにかく私は足を前に出した。また転ぶのは嫌だったから、掴める竹を探しながら、慎重に枯葉を踏んでいった。足の下の寂しい響きは、竹林の轟音に溶けていく。
 足取りは落ち着いて来たのに、胸は苦しくなる一方だった。今まで形にならなかった感情が、言葉に変化していった。幼い頃にもはや生じていた、罪の意識。
私がいなければ、お母さんはもっと幸福になれたかもしれない。
小鷺がいつも泣いてばかりで、おじいちゃんも悲しかったはず。
父のない子を不幸にしてはいけないと、必死だったでしょう。
宝物みたいに育ててくれて。
ざわめきが私に問い続けた。私という存在の意義。罪に対して私が為すべき事は。
救う。私が救う。私しかいない。救わなければ。
やれるかどうかは問題でなかった。方法も考えていなかった。救うという言葉の、訳の分からない力に突き動かされていた。救う。その意味は?
「おっ。」
 前にいるとばかり思っていたおじいちゃんの声が後ろから聞こえたので、何かに化かされているのかと一瞬疑った。しかしすぐに、道のない藪の中で、出会わずに追い抜くのは容易いと気が付いた。「小鷺か、ハハハ。」とか、「びっくりさせるな。」という言葉が続くと思っていた私は、その場でじっとしていた。
 いくら待っても、何も起こらなかった。おじいちゃんの声はもう聞こえず、気配もなくなってしまった。私は一本の太い竹に寄りかかり、竹の葉の間から覗く空を見続けた。
遠い星。小さい星。弱い星。
 私は自分の髪を星にかざした。これほどの暗闇の中でも、私の髪は金色だった。日本人なのに。私もお母さんも、本当は狐なのかもしれない。何かの間違いで、もしくは何か目的があって、人間の世界に紛れ込んだ。そして狐は本来の姿を忘れ、科学者を目指している。変なの。
 お母さんはずいぶん前に髪を切ってしまった。「懐かしい」という感情は、お母さんの長い髪の思い出から滲み出ている。
 暗い台所。私の目の位置は限りなく床に近い。テーブルから垂れ下がるお母さんの髪は、光を失ったまま絡まり合っている。お母さんの表情は見えないのに、心の湿りが伝わってくる。私は幼心に甘味を感じた。非現実的で、半分夢だと信じていた、私の最初の記憶。
 上ばかり見ていたので首が痛くなった。最後には疲れで目眩を起こしてしまった。暗いはずの竹林が白く見え、空の星が動いた気がした。
 流れ星?
 幻だったのかもしれない。

 その夜以降、おじいちゃんの夢遊病(?)はすっかり見られなくなった。あれは何だったんだろう、と思い悩む暇もなく、私は理系学生特有の忙しさに飲み込まれた。実験とそのデータ処理。最初の週からレポート十枚出せと言うのだから、信じられない。大学生は楽だなんて、誰が言ったの?
 物理学辞典を借りにおじいちゃんの部屋に行ったが、おじいちゃんはいなかった。家中探しても姿を見つけられなかったので自分の部屋に戻ると、おじいちゃんは私の部屋に付いている縁側で、日向ぼっこをしていた。
「ずっとここにいた?」
「うん。」
小さくて分からなかったのかな。それとも髪の無い頭のてっぺんが、日光と同化しているからだろうか。
「物理学辞典借りても良い?」
おじいちゃんはこちらを向いて頷くと、再び体を太陽にさらした。
「何に使うの?」
「実験のレポート。結果をまとめた後に、考察を書かなければいけないの。」
 部屋の畳も光を浴びて、暖まっていた。おじいちゃんの傍に辞典とレポート用紙を広げて、寝転がった。
「学校は楽しいか?」
「女の子が少ないの。土木工学科は凛ちゃん一人だって。うちは五人いるけど、まだ話し掛けられない。」
私は初めての人が苦手だ。新しい場所に慣れるのに、とても時間が掛かる。
「実験の班はね、私以外みんな男の子なの。私の話なんて聞いてくれるのかな、と思うと不安でね、何も話せないでいるの。これからずっとこのままかも。」
十八にもなって男の子が怖いなんて言っていると、凛ちゃんに殴られそうだから、努力しようと思っている。思っているけど。
「この間はエレベーターの中で貧血を起こしたの。」
おじいちゃんは私の顔を見た。目を大きく開けて。
「男の子に囲まれて怖かったのもあるけど、エレベーターに男の子の匂いが充満していてね、それがすごく嫌だった。」
あれは本当に、吐き気がした。男の子はどうして変な匂いがするんだろう。他の人は平気なのだろうか。それ以来、私はエレベーターに乗っていない。
「そうか。」
おじいちゃんは再び竹林の方に体を向けた。何だかおじいちゃんを悲しませる事ばかり言ってしまったと、反省した。これは私の戦いなのに。大人になるための。
春風にそよぐ竹林の葉は陽を反射して、無数の光の粒に見えた。通学途中にある川の水面に少し似ている。
「おじいちゃん、あの時どうして声掛けてくれなかったの?」
「あの時?」
「竹林の中だよ。真夜中の。おじいちゃん、私を見つけて「おっ。」って声を上げたじゃない。」
 おじいちゃんは古いコンピューターのように固まったまましばらく考え込んでいたが、ようやく全て理解したらしく、ほのかに顔を赤らめた。
「あれは小鷺だったのか。」
「気付いてなかったんだ。」
おじいちゃんは頷いて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「どうしておばあちゃんの名前なんて呼んでいたの?お父さんの名前も。」
おじいちゃんは話すのをためらっているのか、光に溶けたまま動かなかった。レポート用紙の白が眩しい。
「面白い本を読んだんだよ。」
私は関係ない話をし始めたのかと思った。やっぱりボケちゃったの?
「おじいちゃんより年寄りの、女性の作家が書いた身辺雑記でね、「最近幽霊を見るようになった。」と書いてあるんだよ。幽霊なんてのは、特殊な能力がある人とか、ちょっとおかしい人とか、とにかくおじいちゃんと何の係わりもない人達が見るものだと思っていた。」
私は狐だけどね、と思いながら部厚い物理学辞典のページを繰った。
「その作家の書き方が上手でね。この世に執着を残して死んだ先祖が、とても些細なやり方で、彼女に助けを求めるんだ。幽霊が、恐ろしい化け物のように描かれていたら、一笑に付していたと思う。でも彼女は幽霊を弱いものとして書いていた。怨みや欲望を捨て切れず、かと言ってその源を壊す事も出来ずに、ふらふらするんだ。幽霊は人間の精神そのものなんだよ。人間は死んでも人間なんだと、妙に納得した。そして、幽霊は本当にいるのかもしれないと、信じそうになったんだ。」
風は暖かく、幽霊の話に似つかわしくないように感じた。竹林の葉の擦れる音の爽やかさ。
「しかしそこで、確かめずに信じるのは良くないと、学者根性が出てきたわけだ。」
「それじゃあもしかして、おばあちゃんとお父さんを呼び出して、幽霊の存在を確かめようとしたの?」
おじいちゃんは本当に恥ずかしそうに、禿げ頭を掻いた。
「二ヶ月経っても現れなかった。なに、研究は「鈍」が大切なんだ、結論を急ぐのはいけないと、あと一年位は頑張るつもりでいた。ところがあの日、いつも通り竹林を歩いていると、「人の気配」が近付いて来るのが分かったんだ。自分以外の何者かが、この地面を力強く踏みしめている。おじいちゃんは戦慄した。」
私の足音はそんなに大きかったのだろうか。無我夢中になっていた自分を思い出した。泥まみれの。
「おじいちゃんはそれが何なのか確かめるどころか、もう少しで卒倒しそうだったよ。どうにか意識は失わずに済んだけど、小鷺が一番近くに来た時に、腰を抜かしてしまったんだ。全く情けない。幽霊の研究をするには、おじいちゃんは度胸が無さ過ぎるんだ。資格がないんだよ。」
おじいちゃんはわざとらしい程の大声で笑うと、急に静かになってしまった。庭も、畳も、全てが明るく暖かいのに、おじいちゃんの背中は悲しくなるくらい寂しかった。おじいちゃんの背中は昔から変わらない。多分、私が生まれるずっと前から。
 おじいちゃんの心細さが伝わって来て、私は泣きそうになっていた。聞いて良いのか分からなかった。でもそうとしか思えなかった。
「会いたかったの?」
「ミノも、好幸も、他人が困っていたら必ず助けようとする人間だったよ。だから、出て来てくれるかもしれないと、思ったんだ。」
 優しい風だった。おじいちゃんと私がいつまで黙っていても許される空気だった。私は岩の前に佇む僧侶の気分で、絶望を味わっていた。あの夜、「救う」という単語に叩かれていた自分が、滑稽に思えた。
「もしおばあちゃんが出て来たら、あの口紅をあげようね。苺色の。」
おじいちゃんの表情は石のままだ。体も、中身も。
「いつもグレープフルーツが一つ余るの。お父さんはあの味好きかな?」
お父さん。白々しいな。呼んだ事もないのに。
 これは何だろう。自分の力では決して動かせない、この感じ。逆らう事が出来ない、神とか定めの力の強さ?いや違う。これは、人間の心の重みだ。沈むのは簡単なのに、なかなか浮き上がって来れない、哀れな重みだ。
「春は、良い匂いがするね。」
私はこの世を地獄だとは思いたくなかった。現に、この山には美しい竹林があり、立派な木は花や実を生み、私達を楽しませている。しかも今は春だ。日差しはまるで、天国のそれではないか。
「小鷺はどんな匂いを感じるんだ。」
おじいちゃんが口を開いてくれたので、私は明るい声で言葉を続けた。
「まず花が咲いているから、甘い匂いがするでしょう?あとは、湿気と土の匂い。それから暖まったイグサの匂い。」
私はこの広い部屋を転がり回って、全ての畳に挨拶したい気持ちだった。私が唯一安心して子供でいられる、この空間に。
「あとはね、「あったかい」の匂いがする!」
おじいちゃんは少し笑った。
「そうか、これは、あったかいの匂いか。」
おじいちゃんの顔が光って見えたので、私は心の底からの笑顔で、おじいちゃんの瞳を覗き込んだ。
よかった。
私は、無邪気に、そう思っていた。

(鳥のいる場所・完)
posted by 柳屋文芸堂 at 01:18| 【中編小説】鳥のいる場所 | 更新情報をチェックする