男は僕の肩に腕を回し、テーブルに置いてあったカルーアミルクを左手でくいっと飲んだ。
「あーっ! それ僕が頼んだのに」
「こんなのよりさ、コーヒー牛乳にラム酒入れたやつの方が絶対美味いって」
僕は男の顔を見た。頬骨が高く、全体的に骨格がゴツゴツしている。髪は細かく縮れてふんわりと、アフロとパンチの間くらい。
「さっきのなぞなぞの答えは何ですか?」
「なぞなぞじゃなくてただの事実だよ。日本で一番コーヒー牛乳が美味いのは、鳥取県!」
「鳥取?」
水木しげるの出身地である境港があって、あと有名なのは、砂丘、二十世紀梨、らっきょう。コーヒー牛乳の名産地だなんて聞いたことがない。
「きっと水が良いんだろうな。大山って山があるから。名水で育った牛の乳と、名水で淹れたコーヒーなら、まあコーヒー牛乳も自然と美味くなるよな!」
男は僕の肩をがしっとつかんだまま、カルーアミルクを飲み干してしまった。
「うちにあるんだ、その鳥取のコーヒー牛乳が。もちろんラム酒も」
Tシャツから伸びる太い二の腕を見て、胸やお腹にもしっかり筋肉が付いているのだろうなと想像する。ジムで鍛えているんだ。いつでも裸になれるように。
「別のもの飲まされそうだからお断りします」
「おお、乗り気だねぇ、嬉しいねぇ!」
「いやいやいや」
「あ、お兄さん、カルピスサワーを二つ!」
ドキドキしていた。耳は真っ赤になっているはずだし、この人がそれに気付かない訳がない。
かなり奇妙なやり方ではあるけれど、僕は口説かれている。見知らぬ人からあからさまに性欲を向けられたのは初めてで、正直言って全然イヤじゃなかった。面白そうな人だし、ふらっとついて行ってコーヒー牛乳やら別のものやらを飲んじゃっても構わないかなと、思わなくもなかった。
でも僕は人を待っていた。同い年の無口な大学生で、最初に会ったゲイバーにいるからと押し付けるように約束した。メールに書いた時刻を、もう一時間以上過ぎている。
待ち人を諦めて店を出るまで、男は僕の肩を離さなかった。二人で席を立つと男は思った以上に背が高く、見上げるようだった。視線がぱちりと合う。男は微笑んで、
「高校時代はバレー部だったんだ」
と決まり事みたいに言った。
店を出ると男は少し距離を置いて隣を歩いた。僕を口説く気はもうないらしく、知り合ったばかりの人間同士の、ありきたりな会話をした。
「名前は?」
「翼です」
「サッカー部? って聞かれるだろ」
「そうですね、主におじさんに」
両親は僕の名前を、ヴェルディのオペラの一節「行け我が思いよ、黄金の翼に乗って」から付けたのに、みんな大昔に流行った漫画しか思い出さない。僕も面倒臭いから説明しない。
「俺はアキラ」
「懐かしいですね」
「懐かしい?」
「アニメがあるじゃないですか」
「お前いくつだよ!」
「二十歳ですけど。古い漫画が好きなんです」
一番好きなのは水木しげるだ。僕の神様。
電車の中で出身地を聞かれたので、熊本だと答えた。アキラは腕を組み、首を振って、
「熊本の男とはやったことがないな」
と残念がった。まるで山好きの人が「阿蘇山にはまだ登ってない」と言うような調子だった。
驚いたことに、アキラと僕の家は最寄り駅が一緒だった。電車を降りた後、コーヒー牛乳を飲みにうちにおいでと誘われたら、ついて行くつもりでいた。なのにアキラは、
「俺、コンビニ寄ってくから〜」
と手を振って、あっという間にいなくなってしまった。僕もコンビニに用があったのに、何だか未練たらしく追いかけるみたいで、そのまま一人暮らしをしているマンションの部屋に帰った。
携帯電話を確認すると、司からメールが来ていた。
急にバイトが入っちゃって、行けなくてごめん。
待ち合わせ時刻の前に知らせてくれれば良いのに。分かってる。司は僕にそんなに興味がないんだ。初めて会った時も、僕だけが必死に話しかけて、司はどこかそわそわと、僕との会話なんて上の空だった。
それでも僕は司と仲良くなりたかった。表情のあまり変化しない、不機嫌そうな顔が渋くて格好良かったし、何より僕と正反対なのが気に入ったのだ。
僕は普通にしていても「どうしてそんなに楽しそうなの?」と聞かれたりする。中学生の頃、おしゃべりし過ぎて教師に説教されて、反省してるのに「ヘラヘラするんじゃなか!」とさらに怒られたこともある。どうも僕の顔には真剣味が足りないらしい。
すぐにアキラからもメールが来た。別れる前にアドレスを交換したのだ。
近所だったのは笑ったね。何となく、お前とは長い付き合いになりそうな気がする。
馴れ馴れしいなぁ、もう。僕はそんな気、全然しません! と意地悪キャラで通そうかと思ったけど、実は僕も同じことを考えていた。
僕は司ではなく、アキラのことを好きになるのだろうか。ベッドに入ると一人なのが寂しかった。鳥取のコーヒー牛乳が飲みたかった。高校時代に付き合っていた人のことを思い浮かべ、その人が僕にしてくれた気持ち良いことを、頭の中でもう一度してもらった。
東京に来てからずっとしてないんだよな。今、一番したいのは司だ。でも出来ない気がする。もう会うことさえないのかもしれない。