2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その1)

「日本で一番コーヒー牛乳が美味しい県はどこでしょう!」
 男は僕の肩に腕を回し、テーブルに置いてあったカルーアミルクを左手でくいっと飲んだ。
「あーっ! それ僕が頼んだのに」
「こんなのよりさ、コーヒー牛乳にラム酒入れたやつの方が絶対美味いって」
 僕は男の顔を見た。頬骨が高く、全体的に骨格がゴツゴツしている。髪は細かく縮れてふんわりと、アフロとパンチの間くらい。
「さっきのなぞなぞの答えは何ですか?」
「なぞなぞじゃなくてただの事実だよ。日本で一番コーヒー牛乳が美味いのは、鳥取県!」
「鳥取?」
 水木しげるの出身地である境港があって、あと有名なのは、砂丘、二十世紀梨、らっきょう。コーヒー牛乳の名産地だなんて聞いたことがない。
「きっと水が良いんだろうな。大山って山があるから。名水で育った牛の乳と、名水で淹れたコーヒーなら、まあコーヒー牛乳も自然と美味くなるよな!」
 男は僕の肩をがしっとつかんだまま、カルーアミルクを飲み干してしまった。
「うちにあるんだ、その鳥取のコーヒー牛乳が。もちろんラム酒も」
 Tシャツから伸びる太い二の腕を見て、胸やお腹にもしっかり筋肉が付いているのだろうなと想像する。ジムで鍛えているんだ。いつでも裸になれるように。
「別のもの飲まされそうだからお断りします」
「おお、乗り気だねぇ、嬉しいねぇ!」
「いやいやいや」
「あ、お兄さん、カルピスサワーを二つ!」
 ドキドキしていた。耳は真っ赤になっているはずだし、この人がそれに気付かない訳がない。
 かなり奇妙なやり方ではあるけれど、僕は口説かれている。見知らぬ人からあからさまに性欲を向けられたのは初めてで、正直言って全然イヤじゃなかった。面白そうな人だし、ふらっとついて行ってコーヒー牛乳やら別のものやらを飲んじゃっても構わないかなと、思わなくもなかった。
 でも僕は人を待っていた。同い年の無口な大学生で、最初に会ったゲイバーにいるからと押し付けるように約束した。メールに書いた時刻を、もう一時間以上過ぎている。
 待ち人を諦めて店を出るまで、男は僕の肩を離さなかった。二人で席を立つと男は思った以上に背が高く、見上げるようだった。視線がぱちりと合う。男は微笑んで、
「高校時代はバレー部だったんだ」
 と決まり事みたいに言った。
 店を出ると男は少し距離を置いて隣を歩いた。僕を口説く気はもうないらしく、知り合ったばかりの人間同士の、ありきたりな会話をした。
「名前は?」
「翼です」
「サッカー部? って聞かれるだろ」
「そうですね、主におじさんに」
 両親は僕の名前を、ヴェルディのオペラの一節「行け我が思いよ、黄金の翼に乗って」から付けたのに、みんな大昔に流行った漫画しか思い出さない。僕も面倒臭いから説明しない。
「俺はアキラ」
「懐かしいですね」
「懐かしい?」
「アニメがあるじゃないですか」
「お前いくつだよ!」
「二十歳ですけど。古い漫画が好きなんです」
 一番好きなのは水木しげるだ。僕の神様。
 電車の中で出身地を聞かれたので、熊本だと答えた。アキラは腕を組み、首を振って、
「熊本の男とはやったことがないな」
 と残念がった。まるで山好きの人が「阿蘇山にはまだ登ってない」と言うような調子だった。
 驚いたことに、アキラと僕の家は最寄り駅が一緒だった。電車を降りた後、コーヒー牛乳を飲みにうちにおいでと誘われたら、ついて行くつもりでいた。なのにアキラは、
「俺、コンビニ寄ってくから〜」
 と手を振って、あっという間にいなくなってしまった。僕もコンビニに用があったのに、何だか未練たらしく追いかけるみたいで、そのまま一人暮らしをしているマンションの部屋に帰った。
 携帯電話を確認すると、司からメールが来ていた。

 急にバイトが入っちゃって、行けなくてごめん。

 待ち合わせ時刻の前に知らせてくれれば良いのに。分かってる。司は僕にそんなに興味がないんだ。初めて会った時も、僕だけが必死に話しかけて、司はどこかそわそわと、僕との会話なんて上の空だった。
 それでも僕は司と仲良くなりたかった。表情のあまり変化しない、不機嫌そうな顔が渋くて格好良かったし、何より僕と正反対なのが気に入ったのだ。
 僕は普通にしていても「どうしてそんなに楽しそうなの?」と聞かれたりする。中学生の頃、おしゃべりし過ぎて教師に説教されて、反省してるのに「ヘラヘラするんじゃなか!」とさらに怒られたこともある。どうも僕の顔には真剣味が足りないらしい。
 すぐにアキラからもメールが来た。別れる前にアドレスを交換したのだ。

 近所だったのは笑ったね。何となく、お前とは長い付き合いになりそうな気がする。

 馴れ馴れしいなぁ、もう。僕はそんな気、全然しません! と意地悪キャラで通そうかと思ったけど、実は僕も同じことを考えていた。
 僕は司ではなく、アキラのことを好きになるのだろうか。ベッドに入ると一人なのが寂しかった。鳥取のコーヒー牛乳が飲みたかった。高校時代に付き合っていた人のことを思い浮かべ、その人が僕にしてくれた気持ち良いことを、頭の中でもう一度してもらった。
 東京に来てからずっとしてないんだよな。今、一番したいのは司だ。でも出来ない気がする。もう会うことさえないのかもしれない。


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翼交わして濡るる夜は(その2)

 今度こそ必ず遅刻しないで行くから、もう一度あの店に来て欲しい。

 司からメールが届いた。バイト先である居酒屋が人手不足で忙しく、余裕がなくて、約束をすっぽかすなんて最低最悪のことをしてしまって本当にごめん、言い訳してごめんと、一つのメールに「ごめん」という文字が三、四回出てきた。
 居酒屋で働くの、大変そうだもんな。あの夜は落ち込んだけど、まだ望みはあるのかもしれない。借りを返される側の優越感にひたりながら、

 気にしなくて良いよ。

 と返事を書いて、再び会うために予定を合わせた。
 約束の日、言った通り司は先に来て僕を待っていた。モスグリーンのアーミージャケットを着ていて、司の引き締まった眉と目によく似合っていた。のび太くんみたいな格好をしている自分が恥ずかしかった。
 メールと同じように何度も「ごめん」と繰り返した後で司は、
「翼は甘いもの平気?」
 と聞いてきた。その時に僕が飲んでいたのはストロベリーダイキリで、僕が甘いもの好きなことくらいすぐ分かるだろうにと思いつつ、うん、とうなずいた。
 司は茶色い革のリュックから、小さな黒い紙袋を取り出して僕に渡した。
「お詫びの、チョコレート……」
「わーっ ありがとう!」
「あと、待っている間に使ったお金も払うよ」
「いや、いいって、ほんとに。気にしないで!」
 前回の支払いはアキラがしてくれたのだ。
 司はバイト先の居酒屋の話をし、僕は自分のバイト先である個人指導の塾の話をした。給料は悪くないけど事前に教えることを予習しなければならず、結局時給にしたら五百円くらいなのかも、とかそんな話。
 大変だねと言い合ったら、もう次にするべき会話が見つからなかった。司は前に会った時と変わらずうつむきがちで、僕とは絶対に目を合わせない。サークルに入ってないのはもう聞いた(僕も入ってない)お酒を飲みながら大学の勉強の話をするのもどうかなぁ、と思う。二人とも無言の、気まずい時間がしばらく続いた。
「よぉ!」
「あっ」
 顔を上げると、アキラの顔があった。花火がパンとはじけるような、明るい笑顔だった。
 どうしよう。アキラは何故か店員のように銀の盆を持っており、司の隣に腰掛けた。
「再会を祝して!」
 アキラはテーブルに炭酸飲料の入った三つのコップを置き、僕たちに持つよう促した。
「乾杯〜!」
 飲んでみると、それはジンジャーエールだった。司はストローに口を付け、不審そうにコップを見た。
「どうしたの?」
「これ……」
「まあまあ、気にせず飲んで飲んで!」
 そう言いながらアキラは司の肩に腕を回し、耳元に口を寄せた。キスしたんじゃないかと疑うほどの近さだった。司は跳ねるように腰をずらしてアキラを見た。
 その司の横顔を、僕は一生忘れない。瞳はうるんで上目遣いで、色白じゃないから分かりにくいけど、頬や耳は真っ赤だった。司、こんな顔するんだ。無表情でもクールでもない。可愛い、というのがぴったりだ。
 アキラは司の肩を引き寄せて、再び耳元で何か言った。司はもう飛び退かなかった。アキラに髪や首を触られても、下を向いてされるがままになっている。
 僕はアキラにやめろと言えなかった。司が喜んでいるのがはっきり伝わってきたから。司はアキラの太ももに手をつき、二人でコソコソと話している。僕は完全に蚊帳の外。いないも同然だった。
 このままここでやり始めちゃうんじゃないかと心配させるような光景を存分に見せつけてから、アキラは立ち上がった。もちろん司と一緒に。席を離れる時にアキラは小さく手を振ったけど、司は太い腕に包まれてこちらを見もしない。店の扉がカランと鳴り、閉じる。僕の目の前にあるのは三つのコップと伝票だけ。
 瞬く間の犯行に、僕はしばし呆然とした。盗られた…… 司のコップには半分くらいジュースが残っている。一口飲んだ後に何か言おうとしていた。変な味でもしたのかな。まさか惚れ薬? 僕は化学の授業で習った通り、コップの上を扇いで臭いを確かめた。
 これ、ジンジャーエールじゃない。アルコールだ。考えるのが面倒になってぐいっと飲んだ。やっぱりシャンパン! わざわざジュース用のコップにシャンパンを入れて持ってくるなんて、アキラは最初から司を奪う気満々だったんだ。
 司の態度はお酒のせいだったのだろうか。違う。司はアキラを気に入ったんだ。僕なんて視界から消えてしまうくらい強く。
 会計を済ませて(シャンパン代は請求されなかった)自分の部屋に帰っても、僕は司からもらったチョコレートの袋を開けなかった。捨てるのももったいなくて、パスタ入れの底の方に隠した。見える場所に置いておくのが辛かったから。
 今頃、してる真っ最中だろうな。もし二人がホテルではなくアキラの家に行ったとしたら、すぐ近所なのだ。激しい声が聞こえてくるようで、やり切れなかった。
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翼交わして濡るる夜は(その3)

 次の日、僕はにんにくと、母親が送ってきた赤なすとベーコンでスパゲティを作った。それにトマトサラダ(トマトを半分に切っただけ)を付けてモグモグ食べ終わらせてボーッとしながら、
「司とアキラのことは忘れよう」
 と決めた。恋人か友達かは分からないけど、僕は二人と仲良くなりたかった。誰にでも感じる訳じゃない「親しくなれそうな予感」があった。でも二人そろってあんな形で僕を侮辱するなんて許せない。脳の記憶領域を二人のために使いたくない。消去! 完全に消去! 向こうはとっくに僕を忘れているだろう。そう思うと涙がにじんだ。
 ひどい経験ではあったけれど、しょせんは二度会っただけの人たちだ。一週間もすると怒りは薄らいだ。半導体に光を当てて電力を発生させる実験のレポートを書いていたら小腹が空いたので、司のチョコレートを出して食べた。いかにも高級そうな、濃厚で苦い味がした。僕はそれを「一個十円!」と思いながら飲み込んだ。
 一ヶ月くらい経った後だろうか。司からメールが来たのでびっくりした。

 アキラって翼の知り合いなんだよね?
 すごく良い人だね。
 毎週末に会ってます。

 いやいや別に知り合いじゃないし! 君もろとも記憶から消したし!(全然忘れてないけど)あれだけ人を傷付けておいて、のんきな文章を送ってくる無神経さに腹が立った。
 しかしそれよりも、アキラを「良い人」と呼んでいるのが気になった。「楽しい人」ならともかく、ああいうタイプを「良い人」と感じるなんて、人間観察力が足りないんじゃないか。
 素敵だと思っていた司をけなすなんて嫌だな。僕はアキラに嫉妬しているんだ。……そうかな? 何か引っかかり、なるべく冷静になってもう一度考えてみた。
 僕はアキラをよく知らない。でも、僕の手に負える相手じゃないことくらいすぐ分かる。司はどうなんだろう? 僕は司のこともそれほど知らない。胸がざわざわする。
 司はアキラと対等に付き合えるような人間なのだろうか?
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翼交わして濡るる夜は(その4)

 大学は夏休みに入っていた。僕は塾のバイトのために熊本には帰らず家にいた。サークルの合宿や旅行に行く人が多く、僕はいつも見ていない生徒まで教えなければいけなくなって、中学三年生の国語の問題集を解いていた。理系の学生が古文の指導なんかして良いの? って冷や汗かきながら。
 だんだん飽きてきて、シャワーを浴びて寝ようかな、と考えていた午後十時。携帯電話の着信音が鳴った。

 会いたい。
 どこにいる?

 司からだった。唐突な文面が何だか怖い。でもまあ司は基本的にぶっきらぼうな人だし、会いたいと言ってくれたのは嬉しい。僕は「自宅にいるよ。来たければ来れば?」と住所を添えて返信した。
 五分もしないうちに玄関のチャイムが鳴ってゾッとした。何で…… ああ、司はアキラの家にいたんだ。アキラの家ってここからそんなに近いの? 嫌だなぁ。僕は顔をしかめたまま玄関のドアを開けた。
 司は夏休み中の大学生にしてはずいぶんきちんとした格好をしていた。鈍く光る真鍮ボタン。ネイビーブルーのシャツにいくつも染みを作って、司は泣いていた。
「どうしたの?」
 うつむいたまま何も答えない。腕を引っぱって家に入れると、司は靴を脱がないうちにしゃがみ込んだ。
「翼、助けて」
「アキラに何かされたの?」
 司は頭を抱えてしゃくり上げる。
「とにかくさ、こっち来て座りなよ」
 僕は司を無理に立たせて靴を脱がせ、椅子にもなる大きなクッションのところに連れてきた。お姉ちゃんから「分厚くて使いにくい。あげる」と押し付けられたタオルがあったのを思い出し、司に渡した。ふかふかし過ぎて本当に使いにくいのだけど、涙を拭くにはちょうど良さそうだった。
 クッションの前に片膝をついて司の顔を覗き込む。
「落ち着いた?」
 目からタオルを離すと再び涙があふれてはらはらこぼれる。
「何があったの? 警察を呼ぶようなこと?」
 司は首を大きく横に振った。服装や髪に乱れはなく、暴力を加えられた気配はない。
「俺のわがままなんだ」
 司がタオルを顔に当てたまま震える声で言った。
「アキラとケンカしたの?」
 司はまた首を横に振る。これは長くなりそうだな。僕はテーブルの椅子を移動させて司の前に座った。
「あの後、毎週会ってたんだ。アキラと」
「あの後って?」
「翼がアキラを紹介してくれた夜」
 紹介なんかしてないよ! シチュエーションが勝手に改変されてる〜 司の記憶、どうなってるの? お酒のせい? 忘れかけていたムカつきが一瞬でよみがえる。けれども僕は無言で耐えた。司があまりにも悲しげに泣き続けるから。
「もう恋人みたいなものなのかな、って思って…… でも、はっきり確かめるのが怖くて…… アキラに『恋人いるの?』って尋ねたんだ」
 いる訳ないじゃん! アキラは特定の相手と付き合うタイプじゃない。一回きりで終わらなかったのが不思議なくらいだ。僕はすっかりあきれてしまった。司、ほんとに何見て何考えてるの。
「そうしたら、
『俺は恋人という制度が嫌いなんだ』
 って言われた」
「制度?」
 結婚が制度なのは分かる。恋人も制度なんだ。言われてみればそうかもしれない。あのチャラチャラしたアキラが「制度」なんて堅苦しい単語を使ったのが意外だった。
「仲良くしていた二人が、恋人になった途端にケンカばかりするようになったのをいっぱい見てきたって。お互い束縛して、浮気したって騒いで。アキラはもっと自由にやりたいみたい」
「まあそうだろうね……」
「それでアキラこう言うんだ」
 急に強まった雨のように、司の瞳から大きな滴がポタポタ落ちる。
「『司も、俺の誘いを断って、別の奴と会っても構わないんだからな』って」
 にっこり笑いかけるアキラの顔が見えるようだ。良い人ですね〜 僕はため息をついた。
「それってさ、アキラも俺以外の奴と会う可能性があるってことだよね……?」
 当たり前! どうしてこの人はそんなことも分からずにアキラとやっちゃったんだろう。
 司は急に腰を上げて僕の太ももにのしかかり、Tシャツの裾をつかんできた。
「助けて、翼。アキラを誰にも取られたくない! 取られたくない!」
 駄々をこねる子供みたいに大声で泣き叫び、司の涙が僕の肌を濡らす。何て馬鹿な人。あのアキラを本気で好きになるなんて。僕にどうにか出来ることじゃない。さすがの司もそれくらい分かっているはず。だからこそこんなに泣くんだ。泣いたって仕方ないから泣くんだ。
「ねえ、司。寝ちゃいなよ。寝たら辛いことも遠くなるよ」
 僕は司の服を脱がして自分のパジャマを着せた。司の裸は均整が取れていて綺麗だった。スポーツをやっているのかな。元気になったら聞いてみよう。いつ元気になるのか知らないけど。
 僕のベッドに横たわらせても司はまだ泣いている。病人にするみたいに僕は司の手を握った。
「アキラのことを考えると体が痛くなるんだ。心のことなのに、全身がズキズキする」
「今はアキラを思い出さないようにしなよ」
「アキラのことしか考えられない」
 でしょうね〜 僕のことなんか全っ然考えてないのはよく存じております。白々と醒めた気持ちと、それでも司を可哀想に思う気持ちを行ったり来たりしながら、僕は司に付き添い続けた。
 しばらくすると司は寝息を立て始めた。僕はベッドの横に冬用の掛け布団を敷いてその上に寝た。
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翼交わして濡るる夜は(その5)

 曖昧な、覚えていられない夢をいくつも見た。普段と違う寝方をしたから眠りが浅かったのだろう。起きてみるとまだ六時前で、司は昨日と同じ形でよく寝ていた。僕はシャワーを浴び、卵とベーコンと高菜漬けでチャーハンを作った。仕上げに白ごまをさらさら入れる。
「翼、ごめん」
「うわーっ!」
 気付いたら、幽霊みたいにどよーんとした司がすぐ横にいた。
「脅かさないでよっ!」
「翼、昨日、ごめん」
「悪いと思ってるならすぐ食べて! 顔だけ洗って。洗面台はそっち!」
 テーブルに着いた司は泣いてこそいないものの、昨日と変わらず暗かった。一晩寝て解決する問題じゃない。司の沈んだ視線の先に、出来たての高菜チャーハンを置く。
「司、これ半分食べられる?」
 僕はメロンをかかげて見せる。
「けっこう大きくない?」
「無理?」
「ううん、食べられる」
「じゃあ切るからチャーハン先に食べてて」
 メロンを半分に切ってスプーンと一緒に出し、僕も高菜チャーハンを食べ始める。
「メロン、種は自分で取ってね」
 司は顔を上げた。唇に米粒を付けたままなのがメチャクチャ可愛くて、僕は突然泣き出したいような気持ちになった。でも我慢した。力を振りしぼって何でもないふりをした。
「翼って一人暮らしなんだよね」
「うん。……唇にお米付いてるよ」
 司は近くにあったティッシュで口を拭いた。少しホッとする。
「どうしてこんな贅沢出来るの?」
「贅沢?」
「メロンって高いんでしょ。自分で買ったことないから値段は知らないけど」
「母親が送ってくるんだよ。一人でダンボール一箱分のメロンを食べたら、いくら好きでも飽きるよね」
 メロンは熟れ過ぎて、少しお酒になってしまったのではないかと思うような香りが立ち昇っている。司は種を丁寧にすくってよけた。
「こんな風にメロンをグレープフルーツみたいに食べるの初めてだ」
「グレープフルーツもあるよ! 持って帰る?」
 司は僕を見て少し笑った。司の笑顔を見るのは初めてかもしれない。直視出来なくて、僕は下を向きメロンを真剣に食べた。頭がぼんやりするほど甘かった。
「チャーハンもメロンもすごく美味しかった。ありがとう」
 昨日よりは落ち着いた様子に見えたので、僕は自分の考えを伝えることにした。
「司。アキラにちゃんと付き合いたいって言いなよ。アキラが恋人という制度が嫌いでも、司がそれに合わせる必要はないと思う」
 司はおびえた表情で僕を見て、すぐ目を伏せた。無言になった後、再び視線が合った時には、瞳が潤み、声も震えていた。
「出来ない。俺、弱くてごめん」
「いや別に僕が口出す話じゃないし! 余計なこと言ってごめんね。気にしないで」
 また泣き出すかと心配したけれど、司はいつもの不機嫌そうな顔でじっとしているだけだった。
 結局、司にはメロンを二つ、グレープフルーツを三つ持たせた。
「迷惑かけて、お土産までもらって」
「食べ切れないんだから良いよ。駅まで送ろうか?」
「道分かるから大丈夫」
 もうアキラと会うのはやめなよ。悲しくなるばかりだよ。とは言えない。悲しくても苦しくても、司はアキラに会いたくてたまらないんだ。
「僕、東京にそんなに友達いなくて、一人暮らしだし、寂しいんだ。だから司、いつでもうちにおいでよ。ちっとも迷惑じゃないよ」
 早口で言いながら、毎回僕はみっともないなと苦笑したくなる。
「ありがとう」
 司を送り出した後、自分のベッドに顔をうずめた。馬鹿な司。馬鹿な僕。司が着ていたパジャマを抱きしめる。僕も司のように泣くのだろうか。僕が泣く時はきっと、このベッドに一人きりだ。東京に「助けて」と言える相手などいない。
 寝不足で頭に膜が張っている。でもバイトがあるから眠ってしまう訳にもいかない。僕は体を起こし、いつものように電子ピアノの前に座った。司と出会ってからずっと心の中で鳴り響いている旋律に、和音を付けてゆく。和音が僕の知らない旋律を呼び、それがまた和音を生む。僕はなるべく何も考えないようにして、観客のように指先が奏でる音楽を聴いた。
 自分の両手だけが本当の友達で、あとは世界中見知らぬ人しかいないような気持ちになりながら、僕は分厚い音の繭に閉じ籠もった。
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翼交わして濡るる夜は(その6)

 飛行機代が高くなるお盆は避け、熊本へは八月の終わりに帰った。
「こん夏、お姉ちゃんも帰ってきたと?」
「帰る訳なか! 連絡一つなかたい。生きとっとか、死んどっとか」
 娘の安否の話なのに、お母さんは明るく歌うように言った。
「ピアノんことしか考えとらんばい。私もドイツにおった時は日本んことなんていっちょん思い出さんかったもんね」
 お姉ちゃんはドイツに留学して音大に通っている。お父さんとお母さんも若い頃、ドイツに留学していた。
 お母さんはくるりと振り向き、真面目な顔で僕を見た。
「木山先生に会いに行きなっせ」
「最初からそんつもりたい」
「先生少しね…… 認知症になりかけとる感じがすっと」
 僕はぶどうの皮をむくのをやめて顔を上げた。
「道で会うた時に、私を見て『誰やろう』って顔しとらした」
「老けたせいで分からんくなったんじゃなかと?」
 お母さんは眉をつり上げる。
「女の子にそぎゃんこつ言うたらいかんばい!」
「周りにおる女の子はまだ誰も老けとらんもん」
 翼が意地悪になった…… 東京になんてやるんじゃなかった…… とお母さんは大袈裟に嘆いてみせる。
「で、木山先生ん話は?」
「そうそう、私の顔は忘れたごたるばってんね、『翼は東京で元気にしとります』て言うたらすぐ分かってくれて、嬉しそうに笑っとらしたよ。だけん早めに行ってきなっせ」
 次の日、僕は木山先生の家に行き、ドビュッシーの「喜びの島」を弾いた。木山先生は子供の頃から高校を卒業するまで習いに行っていた、僕のピアノの先生だ。すぐ近所に住んでいる。
 木山先生はショパンやシューマンが好きで、僕はロマン派より後の作曲家の作品を全く教わらなかった。譜面だけ買って自己流で練習した曲を聴かせたらがっかりするかなと不安だったけど、木山先生は昔と同じように拍手してくれた。
「翼さんの音は、いつでん一つ一つ輝いとるようねぇ。曇り空なのに、こん部屋だけ太陽がさんさんと照らしとるごたる」
 色んな人に何度も言われていることだから、僕はお礼も言わずにただ微笑む。高校の音楽の先生に「南米からの帰国子女?」と聞かれたのは面白かった。とにかく僕のピアノの音は、光や熱や陽気さを感じさせるらしい。
「東京には立派な先生が沢山おんなはっとでしょ」
「先生て、大学のですか?」
「ええ。上手にならしたけん、よう分かります」
 いや、大学ではピアノなんか全然弾かないで、超伝導体を液体窒素で冷やしたりしてるんだけど…… 話のつじつまが合わなくて、どうやら先生は僕が音大に進学したと信じ込んでいるのだと気付いた。音楽の道には進まず、理工学部に入学したと報告したし、その時には残念がりつつも門出を祝福してくれたのに。
 否定したら先生が混乱するだろうと思い、適当に話を合わせて、僕が持っていった鳩サブレーを一緒に食べた。薔薇の絵の付いた金縁のカップに注がれた紅茶は、昔と変わらず優しい香りがした。

 高校時代の友人が僕の帰省に合わせて飲み会を開いてくれて、同級生が二十人ほど集まった。みな学生で、恋人同士もいれば、別れてしまった元カップルもいる。今日がチャンスと狙っている様子の人もちらほら。僕が加われる恋愛でなくても、見ているだけでワクワクする。
 隣の席は、高二の時に仲良くしていた漫画好きの女の子だった。短大卒業後に東京の会社に就職することが決まったと言う。
「東京恐ろしか〜 今から震えとる」
「そぎゃんお化け屋敷んごたっとこじゃなかよ」
 と笑ったのだけど、すぐにアキラのことを思い出し、東京は噂通り恐ろしい場所で、僕は油断してしまったのかなと反省した。
 東京に戻る前に柳川の祖母の家にも寄った。
「そこんにきのおばんば、みんな呼んで待っとるげな!」
 と楽しみにしていてくれて、はたして僕が到着すると、祖母の家はおばあさんたちでぎゅうぎゅうになっていた。僕は居間にある古いオルガンでバッハを何曲か弾いた。
 母方の親戚の家に行くと必ず何か演奏することになる。それは構わないのだけど、お姉ちゃんが日本にいた頃は大変だった。たとえ相手が子供であっても「男を立てる」気風が残っていて、必ず僕が先に呼ばれた。お姉ちゃんと僕とではピアノに対する意気込みが全然違うのだから、そこを汲み取ってくれないと困る。その後どれだけ憎々しげににらまれるか考えてみて欲しい。まあ、闘争心丸出しになったお姉ちゃんの演奏は迫力があって、嫌いじゃなかったけど。
 僕はおばあちゃんたちに安らかなお迎えが来ますようにと願いながら「主よ、人の望みの喜びを」を弾いてミニコンサートを終えた。大箱で買っておいた鳩サブレーを配ったら、
「愛らしか〜」
「うまか〜」
 と大好評だった。
 柳川から電車で博多の方に出て、福岡空港から東京行きの飛行機に乗る。さようなら、にぎやかな僕のふるさと。こちらから何かしなくても、ただそこにいるだけで僕を大切にしてくれる親しい人たち。
 僕はそういう温かい場所で生きてきたから、東京に出てくるまで、友達を作るのが下手だということに気付かなかった。
 誰かを信じるのも頼るのも、今の僕には難しい。東京だから? 僕も周りも大人になってしまったから?
 あの時はすごく簡単だと思ったのにな。僕は窓側の席でウトウトしながら、鳩サブレーを最初に「食べさせて」くれた男を思い出していた。
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翼交わして濡るる夜は(その7)

 福岡から帰ってきたのに辛子明太子を買い忘れたことに気付いて絶望し、駅前のスーパーに行ってみたら普通に売っていた。「なーんだ、ありがたみがないなぁ」と思いつつ一パック買う。僕を追いかけるように母から野菜と肉、祖母から魚の干物が届く。大量の食料を前に「僕、一人暮らしなのに」と苦笑した。
 だから司がまた夜中に突然玄関のチャイムを鳴らした時には、ニコニコと笑顔になってしまいそうな気分だった。もちろんそれは隠して神妙な顔で迎える。司は予想通り心を乱して泣いていたから。
「アキラにひどいことを言った」
 司は泣きじゃくってそう繰り返した。「ひどいこと」が何なのか尋ねても答えない。僕は前回と同じように着替えさせて自分のベッドに司を寝かせた。
「言わないように我慢してたんだ。でも」
 僕の手を強く握りしめ、涙をポロポロ落とす。
「司はきっと、頑張ったよ。そうじゃなければこんなに苦しくなるはずない」
 司のことを馬鹿だなぁと思うのに、軽蔑する気持ちにはなれない。遊び人にだって十分なれるくらい格好良いのに、器用に恋愛出来るタイプじゃないんだ。駆け引きすることも疑うこともなしに、ただただ一途にアキラを好きになってしまった。やっぱり馬鹿だ。
「おやすみ」
 僕は母がよく鼻歌で歌っていた、シューベルトの「グーテナハト」を小さな声でハミングした。
 司が寝息を立て始めたのを確認し、自分も寝ようと目覚まし代わりの携帯電話を見た、ら! カッと目が開き、髪まで全部逆立つような気がした。妖気!

 司から連絡があったら教えて欲しい。

 アキラだーっ! この諸悪の根源めっ。僕は即座に返事を打った。

 うちにいるよ。
 あんなに傷付けてどうするつもり?
 遊ぶ時は相手をちゃんと選びなよ。

 怒りで指先が震える。アキラは司だけでなく僕のことも傷付けたのだ。自分で思うより深く。
 すぐに返信が来た。

 あ〜 それなら良かった。
 あとよろしく〜

 文末に笑顔マークが付いていて、僕は自分の携帯電話を危うく壁に投げつけそうになった。アキラのを投げるならともかく、自分のを壊したってしょうがない。
 こんな奴が徒歩五分のところに住んでいる。こんな奴が恋しくて司は泣き暮らしている。東京なんて嫌いだ。練馬区なんて大嫌いだ!
posted by 柳屋文芸堂 at 10:46| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その8)

 次の朝、司にはシャワーを浴びるように言って、僕はトマトときゅうりのサラダを作り、なしをむき、スパゲティを茹でて明太子とバターで和えた。
「辛いの大丈夫だった?」
「うん、美味しい」
 司はフォークにスパゲティをからめて食べながら、泣いた。
「やっぱり辛いのダメだった? 無理して食べなくて良いからね!」
 司は涙をぬぐって少し笑った。
「辛くて泣いたんじゃないから。心配させてごめん」
 僕が出した料理を残らず食べた後、司はまっすぐ僕の目を見た。真剣な決意が感じられて、ドキドキするけど受け止めなければと思った。
「もうアキラとは会わない」
「その方が良いと思うよ、悪いけど」
「……うん」
「なし持って帰る? 干物もあるよ」
「ううん、無駄になっちゃうから」
 無駄? なし、沢山食べてたのに。魚は好きじゃないのかな。司にしては失礼な言い方で、奇妙に感じた。司は基本的に礼儀正しい人だと思う。恋にさえ狂わなければ。
 司を見送ろうと玄関に立つと、司はまた僕を見つめた。
「迷惑かけ過ぎて、もうチョコなんかじゃ埋め合わせ出来ないね」
「あーっ そうだ! お礼言うの忘れてた。高級な味で僕にはちょっと苦かったけど、美味しかったよ。ありがとう」
 司が目を細めた瞬間、僕の脳内で凄まじい不協和音が鳴り響いた。何これ、楽器じゃない。急ブレーキをかける電車の金属音。警笛。目撃者が次々発する叫び声。パトカーと救急車のサイレン。それらが全て重なって聞こえる。
 司、線路に飛び込んで自殺するつもりだ。
「家まで送ってくよ!」
「え?」
「今日バイトないし、学校もまだ始まらないし、ヒマなんだ。ねえ、なしと干物持って行きなよ。司のお母さんもきっと喜んでくれるから!」
 僕は司の家族の人数を尋ね、なしと干物を四つずつ紙袋に入れて、司と一緒に家を出た。
 電車の中で僕たちは、終始無言だった。二回家に泊めて慣れたせいか、気まずい感じはしない。
 目黒駅から十五分ほど歩いたところで、
「ここ」
 と司は小声で言った。そこは熊本出身の僕でも名前を知っている、お金持ちの住む街だった。都心にしては大きい一軒家に、膨らんだ紙袋を持った司が吸い込まれていく。大丈夫かな。
 司の家を見て、僕の頭には「世間知らずの坊ちゃん」という言葉が浮かんだ。そう考えると色々納得がいく。僕も熊本では坊ちゃんの部類だと思うけど、うちの収入ではこのあたりに家を買うことは出来ないと思う。東京は信じられないくらい土地代が高いから。
 僕に輪をかけた「箱入り」の司。アキラみたいな男には絶対かなわないよ。今は辛くても、どうにか心の痛みに耐えて生き延びて欲しい。僕は街路樹にいる弱々しいセミの声を聞きながら、祈るような気持ちで家に帰った。
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翼交わして濡るる夜は(その9)

 後期の授業が始まって忙しくなっても、僕はこまめに司へメールを送った。返事が返ってくるたび「生きてる!」と嬉しくなった。
 十一月の学園祭の期間は授業が休みで、参加するべき催しもない。僕にとっては単なる連休だ。司も同じような状況らしいので、一緒にお昼ごはんを食べることにした。
 久々に会う司はそれほど変わりがないように見えた。
「これからどうしよっか」
 新宿の駅ビルにある鳥料理屋で親子丼を食べて(アキラと偶然会ってしまったら可哀想だと思い、自宅には誘わなかった)デザートの柚子シャーベットを崩しながら尋ねる。
「映画でも見る?」
 僕は今やっている映画のタイトルを挙げた。爆発シーンの多そうなハリウッド映画で、僕の好みには全然合わないのだけど、何も考えずに楽しむにはちょうど良いかなと思ったのだ。
 司の、シャーベットをすくうスプーンの動きが止まる。
「ごめん」
「ん?」
「映画見るの、無理だと思う」
「バイトに間に合わなくなっちゃう?」
「それは大丈夫なんだけど…… ごめん」
 司は瞳を潤ませ眉を曇らせ、おびえる視線で僕を見た。
「いや別にどうしても見たいってほどじゃないし」
「食べ物は俺が買って、お茶もペットボトルで良いから、翼の家に行きたい」
「良いよ! お茶くらい出すよ。淹れたてのあったかいの飲みたい」
「前みたいに色々させたら悪いと思って……」
 なーんだ、それなら最初から家に呼べば良かった。司が好きなお菓子を選んで良いと言うのでバウムクーヘンを買ってもらい、一緒に電車に乗った。僕の家の最寄り駅(大変不本意ながら、アキラの家の最寄りでもある)に着くと、司はキョロキョロと前後左右を見た。
「アキラには会ったことないよ。学生と社会人じゃ生活リズムが違うのかもね」
「そっか」
 司は残念そうだった。アキラに会いたくて僕の家に来たいと言ったのかもしれない。まだ好きなんだ。少し寂しくなった。
 家に着くと、僕はバウムクーヘンを切って緑茶を淹れた。
「このバウムクーヘン、しっとりしてて美味しい。切って袋に入って売ってるのは、もっとパサパサしてるよね。上等なの買ってくれてありがとう」
「翼が選んだんだよ」
「ごめん、値段見なかった! 高かった?」
「そうでもなかったと思うよ」
 バウムクーヘンを食べ終わると眠くなってきた。
「クッションの方に行って良いかな」
「うん」
「司もおいでよ。一緒に寄りかかろう」
 大きなクッションだから、十分二人の背もたれになる。司と向き合わずに済むのが心地好い。司を正面から受け止めるのは重たくてしんどい。僕の左肩に司の右肩が当たり、わざと狙ったんじゃない、と心の中で言い訳する。体が熱い。司とは絶対そうなれないと確信しているのに、幸せになるのを止められない。
「物語が怖いんだ」
 僕は振り向いて司の横顔を見た。
「せっかく映画に誘ってくれたのに、行けなくてごめん」
「流行ってるから聞いてみただけで、興味があった訳じゃないんだ。だからほんと、気にしないで。それよりどういうこと? 怖い物語が怖いの?」
 自分でもおかしなことを言っているなと思う。司は首を振った。
「物語全部が怖い」
「桃太郎も?」
「桃太郎は結末知ってるからまだマシだけど、翼が桃太郎の話をするとしたら聞きたくない」
 司は怒っているような声できっぱり言った。
「しないよ」
「桃太郎って何か、痛い思いするじゃん」
「鬼がね」
「そういうの考えると、すごく嫌な気持ちになる」
 司は握りこぶしで額を押さえた。
「昔からそうなの?」
「ううん。アキラと会わなくなって少ししてから」
 きっかけはテレビドラマだったという。家族と食事をしている時に、つけっぱなしにしているテレビで男女がケンカを始めた。途中から見たので彼らが夫婦なのか恋人なのかは分からない。でもとにかく「恋愛が原因のケンカ」であることは伝わってきた。それで司は、
「怖くなって、ごはん食べるの途中でやめて、自分の部屋に逃げた」
 ああいう場面が出てくるかもしれない、と思うと、ドラマも、映画も、漫画も、アイドルの歌さえも恐ろしく感じて、何も見えない、何も聞こえない場所に逃げ込みたくなるという。
「確かに流行ってる曲ってだいたい恋愛の歌だよね」
「恋愛だけじゃないんだ。暴力振るったり、悲しい思いをしたり、何て言ったら良いんだろう…… そこで『マイナスなこと』が起こるかもしれない、そういうものが全部怖い」
 鬼太郎はどうだろう。ねずみ男が砂かけばばあにビビビビって殴られたりするから「マイナス」だろうな。可愛い妖怪が出てきたり、笑ったり出来る分、僕には「プラス」なんだけど。
「司、大学で何を勉強してるんだっけ?」
「経営学…… なのかな。とにかく経営学部に行ってる」
「文学部じゃなくて良かったねぇ! 物語を読めなくなったら単位取れなくなっちゃうじゃん!」
 父親がドイツ文学を教えているせいで、文系というと文学部を思い浮かべてしまう。でも文学以外にも文系の学問は色々あるし(詳しくは知らないけど)司はその「その他」であるらしい。僕はホッとして、嬉しくなった。
「翼の顔を見てるとさ、自分の深刻さが馬鹿馬鹿しくなってくるよ」
 司は少し笑って言った。
「いつもおびえて、必死で逃げまくって、相当情けない生活してるのに『良かったねぇ!』って満面の笑顔で言うんだもんな」
「いやでも、学生の本分は勉強することなんだから、それさえ出来れば困らなくない?」
「映画の誘いを断るの、辛かったよ。ただでさえ人付き合い苦手なのに、どんどん孤独になる」
「司が怖がるものは分かったから、怖くない、別の遊びをすれば良いよ。ねえ司、次に会う時には一緒に勉強しよう!」
 司は肩を震わせて笑った。
「それ遊び?」
「勉強楽しくない? 文系の人はそうでもないのかな」
「少なくとも恐ろしくはない」
 司は腰をずらして僕の方に近付き、僕の肩に頭を乗せた。耳に司の髪が触れて、息が乱れそうになるのをどうにか抑える。
「ここは天国だね」
 僕には地獄だよ、と心の中で答えた。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:44| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その10)

 バイトがあるから、と司は夜になる前に帰っていった。僕はまたクッションの、司が寄りかかっていたあたりに抱きつく。司はどうして体をくっつけて来たのだろう。僕とエッチなことをする気なんて全然ないくせに。親愛の情。友達としてごく自然に。
 たぶん司はまだアキラのことが好きだし、それよりもまず心が弱っていて恋愛どころじゃないのだと思う。たわいない恋の歌を耳にしただけで血の気が引くという人が、本当の恋なんて出来るはずがない。
 身代わり、かもしれない。その言葉は鋭く僕を刺した。本当はアキラと肌を触れ合わせたくて、それが出来ないから、僕の肩で欲望を満たそうとした。家に来るのも同じこと。司は僕の家じゃなく、アキラの家に行きたいんだ。
 利用されている。もしそうだとしても、すでに僕は司を遠ざけられない。不安定な司の精神は甘く、愛おしく、それとは別に友達として司を守らなければいけない。
 いつか司が回復し、アキラのことも諦めて、
「好きな人が出来たよ」
 と僕の知らない人を紹介してきたら、肩の荷が下りて僕はきっとラクになるだろう。その後で気が狂ったように泣けば良い。
 僕は傷付くのを先送りにした。

 司の話を聞いてから「物語」を意識して暮らすようになった。世の中には物語があふれ返っている。コンビニには漫画雑誌が並び、駅には映画のポスターが貼ってあり、交差点の大型モニターではミュージックビデオが流れている。その多くが「恋愛」についての「物語」だ。改めて考えてみると「こんなに必要なの?」と首を傾げてしまう。
 これら全てを「怖い」と感じるのだとしたら、外出するのも嫌になるに違いない。病院の精神科に行って相談した方が良いのだろうか。いや、もしそうなれば、司は医者にアキラの話をすることになる。それを隠して治療を受けられるほど司は器用じゃない。ゲイに対して偏見のない医者を見つけなければいけないし、たとえ相手が公正であっても、見ず知らずの人にカミングアウトするのは今の司にとって負担が大き過ぎる。

 僕は久々に光一のブログを見た。変化なし。去年の三月から更新されていない。ハンドルネームは「こーいち」元気でいるなら今年で四十歳になる。
 光一に司のことを相談したかった。まさか僕を忘れてはいないと思う。でももしかしたら、すでに新しい恋人がいて、僕からの連絡を迷惑に感じるかもしれない。
 光一の冷たい声を想像し、とても耐えられないと頭を振った。光一は僕に、何もかも許すような優しい声で話しかけなければいけない。光一がいつもそんな風にしてくれたのは、僕が高校生だったからだ。二十歳の僕を光一がどう扱うのか、あまり考えたくなかった。
 光一は僕の肩を抱いて、エサを与えるように鳩サブレーを僕の口元に近付ける。僕はわざと扇情的な顔をして、鳩の首のくびれのあたりを舌先でちろちろ舐める。僕が食べたいのはこれじゃないよと視線で訴えてから、鳩の頭を口に入れて噛み砕いた。
 光一は幸福そうに微笑んでその様子を見つめていた。口の中のものを飲み込むと、光一は僕の唇をティッシュで拭いた。
「粉を取ってるの?」
「うん」
「舐めれば良いのに」
 光一が軽くキスをしてきたので、僕は光一の体にしがみついてもっと深いキスをした。やりたくてやりたくてたまらなかった。
 僕は光一を愛していただろうか。光一は僕を愛していただろうか。僕はその答えを必要としていない。
 ただ、僕が身も心も欲望でいっぱいにしてどうしようもない恥知らずになっていたあの日、光一は僕よりずっと冷静だった。司が唇に米粒を付けているのを見てようやく気付いた。鳩サブレーを食べて唇を粉まみれにしていた僕を、光一は「可愛い」と思っていたのだ。
 そういう煮え切らない態度に僕はいつも腹を立てていた。理性や愛情などどこかに打ち捨てて、ひたすら快楽に溺れて欲しかった。自分だけでは処理出来ない激しい性欲の中で、僕は独りぼっちだった。隣に光一がいても。隣に光一がいるからこそ。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:43| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その11)

「私の性愛の対象は少年だ。
 特に制服を着た中学生、高校生を見ると、毎年歳の差が離れていくにもかかわらず、むしろ離れれば離れるほど、彼らは不可侵の神聖な存在として、私の背徳の扉をノックする。
 彼らは本質的には聖なる者ではなく、日々の不愉快と闘い、将来に不安を抱く未熟な大人に過ぎないのだろう。
 彼らを神にしているのは私の中の後悔だ。自らの性的欲求を封じ、自己憐憫の中毒のようになって、恋愛だけでなく友情にまで背を向けた頑愚な私。
 やわらかな少年であるうちに、傷付くことなど怖れずに、私は誰かを愛するべきだったのだ。たとえ叶わぬ恋であっても、そのあたたかみがもしあれば、心がこんな形で固まってしまうことも避けられたかもしれない。
 私は幻想の中で少年と交わる。
 その時私も少年になっている。
 少年時代を生き直すことが、不可能な試みであることを知りながら」

 回りくどい言い方してるけど「制服の男子を思い浮かべて一人エッチをしています」ってことだよね。僕はいつも適当に翻訳しながら光一のブログを読んだ。
 僕がこんな危ない(そしてけっこう痛々しい)おじさんと知り合ってしまったのは、高二の時の夏休みの宿題のせいだ。「中勘助の『銀の匙』を読んで千字以上の感想文を書け」というもの。僕は進路を私立理系と決めていたから、受験に使わない科目の宿題というだけでうんざりしていた。さらに悪いことに、僕はこの本の面白さがちっとも分からなくて、十ページも進まないうちに文字を追うのが苦痛になった。
 ネットで検索して誰かの感想を切り貼りしよう。そうやってたどり着いたのが光一のブログだった。光一は「銀の匙」に思い入れがあるらしく、ダラダラと長い意見を書いていた。この話に対してそんなに言うことがあるのかと、感心するよりあきれてしまった。
 さて、どこを使おう。読みにくい文章を拾い読みしているうちに「銀の匙」の次の記事が「少年」というタイトルであることに気付いた。開けてみると「私の性愛の対象は少年だ」で始まっている。当然、退屈な本の話より興味を引かれた。
 制服の男子が好きということは、僕を見ても興奮するのかな。不思議と気持ち悪いとは思わなかった。直接会ってからかってみたい。「こーいち」の文章から弱い大人を想像し、何があっても勝てる気がした。
 僕は「銀の匙」の記事にコメントを残した。

 高校の夏休みの宿題で「銀の匙」の感想を書かなくてはいけなくて、すごく困っていました。こーいちさんの論文を使わせてもらおうと思います。ありがとうございました。

 何も言わずに借用することも出来たけれど、こうすればこーいちが喜ぶと思ったのだ。
 その日は文章を上手くまとめられず、次の日に再び記事を見てみると、こーいちの返事があった。

 読書感想文が苦手な人は多いみたいだね。私は頼まれてもいないのにこんな文章を書き続けている人間だから、作文の宿題で困ったことはないけれど。
 ところで君は「銀の匙」を読んだのかな?

 僕は素直に答えた。

 読んでないです。全然面白くなかったから。

 それに対してこーいちは長いコメントをくれた。

 面白くなかった、というのは立派な感想だと思うよ! 人生は短く、学生の日々は宝石よりも貴重なのだから、面白くない本を読んで時間を無駄にする必要はない。君の判断は賢明だ。
 けれども「面白くなかったです」とだけ書いて提出したら、先生は宿題をやったとは認めてくれないのだろうね(何故だろう? これ以上正しい感想はないのに!)
 何か良い案はないかと考えてみた。
「銀の匙は面白くなかったので、別の本を読んでみました」
 と、自分の好きな小説の感想を書いてしまうのはどうかな? 先生は苦笑はしても怒りはしないと思う。これで君の国語の成績が悪くなってしまったら申し訳ないけれど。

 好きな小説。何かあったかな。漫画なら数え切れないくらいあるのに…… あ。僕はトイレで読んだ本を思い出した。
 うちのトイレにはいつも必ず古い文庫本が一冊置いてある。「トニオ・クレエゲル」「車輪の下」「若きウェルテルの悩み」等々。父親が若い頃に読んでいた本だ。ドイツ語が使えるようになって日本語版はいらなくなり、トイレに長居する時に雑誌みたいにパラパラめくっているのだと思う。
 どの本もタイトルと一ページ目しか読まなかったけど、カフカの「変身」という小説だけは最後まで読んだ。主人公の虫が可愛かったから。
 僕は虫になっていると同時に、外側からも虫を見ている。虫がドアの鍵を口にくわえてケガをして体液をポタポタ落とした時、僕の口も痛くなったし、
「鍵は僕が開けてあげるよ」
 と言って虫の背中をぎゅーっと抱きしめてあげたくもなった。虫の可愛さを中からも外からも満喫出来るのが楽しい。読み終えた後、体に「虫っぽさ」が残るのも得した感じがする。
 そんな内容で書いていったら簡単に千字を超えた。これで一つ宿題が終わったとホッとした。
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翼交わして濡るる夜は(その12)

 言われた通りのやり方で感想を書いたと伝えると、こーいちは読みたいと言ってメールアドレスを教えてくれた。文書ファイルを送信すると、こーいちから情熱的な返事が届いた。

 君には文才がある!

 文才なんてある訳ない。こーいちに文才が無さ過ぎるだけだよ。そうため息をついた後で、僕は褒め言葉の本当の意味に気付いた。
 光一(メールの署名は本名の坂倉光一だった)は僕に気に入られたいんだ。何しろ僕は「憧れの男子高校生」だから。実物の僕を見せてあげたいな。

 九州に来る予定はありますか?

 と聞いてみた。すると、

 来るも何も、住んでいるよ。福岡です。

 福岡と言うから「福岡市」かと思ったら大牟田だった。僕のいる街から車で一時間ほどの場所だ。僕は熊本に住んでいることを伝え、

 光一さんに直接会って、お話したいです。

 と言った。光一は快諾し、週末に熊本市内まで来てくれることになった。
 制服で行った方が良いかな。登校日でもないのに不自然だ。僕はバックベアードがプリントされた黒いTシャツとジーンズで、光一が指定した観光客向けの高級焼肉店に向かった。入り口で僕は何も言わなかったのに、個室に通された。
「翼くん?」
「はい」
 淡いピンクのワイシャツを着て、眼鏡をかけたおじさんがテーブルの奥に座っている。光一は想像していたより体が大きく、特に肩幅が広かった。座高からいって背も割と高そうだ。
「サッカー部?」
「いえ」
「君の歳だと『キャプテン翼』は知らないか……」
「名前は知ってますけど、読んだことはないです」
「僕が学生だった頃にちょうど流行っていてね。野球よりサッカーをやる子が多かったよ」
 光一が「私」ではなく「僕」を使ったので、あれ? と思った。
「翼くんは、球技では何が好き?」
「球技は家で禁止されているんです」
 光一は驚いたらしく、そのまま固まってしまった。
「ピアノを弾くから。母が嫌がるんです。直接ボールを触らなくても、飛んできて手にぶつかったらと思うと、心配で貧血起こすって」
「じゃあきっと君は、ピアノがすごく上手いんだろうね」
 僕は首を振った。
「お姉ちゃんの方がずっと上手いです。僕はただ楽しく弾いているだけで、そんなに努力しないから」
 光一は微笑んだ。これまでの交流で抱いていた「弱そうな人」という印象は、この時に「優しそうな人」へと変化した。
「楽しんで弾いているなら何よりだ。やりたいことを我慢してピアノの練習をさせられているんじゃなくて良かった」
「やりたいことは我慢しないです。絶対に」
「読みたくない本は読まない」
「会いたい人には会う」
 僕は光一の目をじっと見つめ、意味ありげに笑ってみせた。光一は視線をそらし、この店のメニューを説明し始めた。
「これで良いかな?」
 光一は一番高いコースを指差す。
「これだと肉ばっかりですね」
「ここは焼肉屋だから」
「もっと野菜を食べたいです」
「ごめんね、肉嫌いだった?」
「野菜と肉を一緒に食べるのが好きなんです。うちでいつもそうしているから」
 光一は少し考えて、コースをやめて単品でキムチとサラダと野菜の盛り合わせを頼んでくれた。もちろんカルビやハラミやタンも。
「熊本は肉も野菜も米も美味しくて素晴らしい場所だ」
 光一は熱々の脂のしみ出た焼肉をタレにつけて頬張り、左手に持った大盛りのご飯をかっ込んだ。僕は肉よりカボチャを食べた。遠慮したのではなく、焼いたカボチャはお菓子みたいで美味しいから。
「高校生は肉が好きだろうと思ってこの店を選んだのだけど、僕の方がいっぱい食べてるね」
「肉より甘いものが好きです。でも肉も嫌いじゃないですよ」
 知らないおじさんと二人きりで焼肉を食べている。自分が置かれた奇妙な状況にまだ慣れない。この個室だけが現実世界を離れ、空中に浮かんでいるようだ。
「ああ、美味しかった」
 光一は食事を終えると、膨らんだお腹を満足そうにさすった。僕はデザートに、エスプレッソコーヒーがかかったバニラアイスを食べた。
 食後は大牟田の方に向かってドライブすることになった。光一の車は軽自動車みたいに小さくて、真っ赤だった。女の子が好みそうなデザインだと思った。
 僕は助手席に座ってすぐに寝てしまった。車が動いてないのに気付いて目を覚ますと、フロントガラスの前に広がっているのは道路ではなく、海だった。
「おはよう」
「僕、どれくらい寝てました?」
「だいたい一時間かな。この少し先が福岡との県境だよ」
 車から降りて砂浜に立つと、湿って重たい海風が全身に当たる。
「人、いないですね」
「このあたりは浅くて泳げないから。今日は天気もあまり良くないし」
 光一が波打ち際の方に歩いていったので、僕もついていく。
「晴れた日に見せたかったな。僕は曇りの日のこの風景も好きだけど」
 小さな波が寄せて返すだけの、何の変哲もない海だ。そんな風景より光一に興味があった。遠くを見つめて立ち尽くす光一の背中に、僕は抱きついた。まるで僕の体がはまるのを待っていたかのように、ちょうど良い形でくぼんでいる。腰をぎゅっと押し付けると、冷房で冷えた体が温まった。
 光一は僕の腕をほどいてこちらを向いた。僕たちは何も言わずに見つめ合った。
「ごめん」
「嫌でしたか?」
「そんなことない。人に触れられることがあまりないから……」
 足元まで来た波をよけようとして、光一は転びそうになった。腕をつかんで助ける。
「上手く歩けない」
「大丈夫ですか?」
「動揺してる。ものすごく」
 光一はその場でしゃがみ込み、頭を抱えてつぶやいた。
「不純な気持ちになってしまったんだ。君は僕を軽蔑していい」
「不純な気持ちって?」
「胸がドキドキした」
 光一の深刻な声が可笑しくて、笑ってしまった。
「ドキドキするのは不純ですか?」
「僕はゲイなんだ」
「僕もですよ?」
 光一は僕を見上げる。眼鏡の奥の目が潤んでいた。
「分かっていてやったの?」
「光一さんが喜ぶかと思って」
 光一は立ち上がり、眼鏡を外してハンカチで拭いた。崩れた前髪がおでこにかかり、別人みたいに子供っぽく見える。その時に僕は「この子を守りたい」と思った。光一は僕よりずっと年上なのに。色んな価値観がひっくり返ってゆく。
「ブログ、銀の匙の感想以外も読んだんだ」
「全部読みました」
「全部?」
 光一は眼鏡をかけ直して目を丸くする。
「同性愛を嫌う文章が多くて悲しかった。僕まで否定された気分になりました」
 光一は首を振る。
「否定しているのは同性愛ではなく、僕自身だ」
「同じことですよ」
 光一の黒目をにらむ。おびえて泣きそうになっている。やっぱりこの人は弱い大人、大人のふりをしている子供なんだ。
「そんなに悪いことですか?」
「自然に反してる」
 僕は大笑いして、目じりの涙をぬぐいながら言った。
「じゃあこれから僕は、自然に則したことをしますね」
 背伸びして光一の唇に自分の口を押し付け、歯を開かせて舌を入れた。同時にズボンの中に右手を突っ込む。そんなことをするのは初めてだったけれど、光一が無抵抗だったから割と上手くいった。
 光一のを触りながら口だけ離す。
「これが僕のしたいことです。したいことをするのは自然なことだと思いませんか?」
「とりあえず、ここじゃまずいよ」
 背中にしがみつき、ほとんどぶら下がるようにして耳にキスをし、そのままささやいた。
「二人きりになれる場所に行きましょう」
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翼交わして濡るる夜は(その13)

 光一はラブホテルではなく、旅行客が泊まる大きなホテルに連れていってくれた。叔父と甥だということにしようと口裏を合わせて(でも別に、ホテルの受付の人は僕たちの関係を尋ねたりしなかった)部屋に入ると僕はすぐに光一を裸にした。鍛えてない、全然良い体ではなかったけれど、僕は満足だった。触りたいだけ触って口でいかせた。光一はその間、体をこわばらせて寝ているだけだった。最後にお返しをするように僕のも舐めた。
 出し終わると、夢から醒めたように冷静になって、自分が異常なことをしたのだとようやく気付いた。今日初めて会った、恋い焦がれている訳でもないおじさんと、性的な関係を持ってしまったのだ。しかも向こうから誘ってきたのではなく、こちらが一方的に犯したようなものだった。光一は嫌がりも喜びもせず、されるがままになっていた。二人とも汗をかいて髪が濡れている。
「すみません。夢中になってしまって」
「そうだったねぇ」
 光一は腕を伸ばして僕を抱きしめた。
「すみません」
「ううん」
 光一の匂いがして、僕のがもう一度反応した。光一の抱き方はあまりにも優しく、自分が正しいことをしたのか、間違ったことをしたのか、うまく判断出来なかった。

 軽くシャワーを浴びて(光一が髪を丁寧に乾かしてくれた)家の近くまで送ってもらい、夜になる前に別れた。家族と食卓を囲んで夕飯を食べていると、いつも通りの光景がいつもと全く違うものに感じられて落ち着かない。変わったのは家族ではなく、僕だ。もちろんお父さんとお母さんに光一の話をすることはなかった。
 次の日の夜、光一のブログが更新された。「罪」というタイトルだった。

 罪を犯した。
 いくつの罪を犯したのか、恐ろしくて数えることも出来ない。
 けれどもその中で最も重く、何をしようと決して贖うことが出来ないと分かっているのは、自分に対する罪だ。

 これまで私は自分の臆病さを憎んできた。
 この醜い性質が、本来なら味わえるはずだった美しいものを遠ざけてきたのだと。
 しかし今、この臆病さがどれだけ自分を守ってくれていたのか、自分が何故臆病であったか、ようやく理解した。

 私の心は途轍もなく弱い。
 この苦しみの中で正気を保てるだろうか。
 考えようとするだけで気が狂いそうになる。

 罰はすでに始まっている。
 天使に会えなくなったら。
 これほど大きな痛みを私は知らない。

 罪というのはたぶん、僕としたエッチなことを指すのだろう。予想外の一日ではあったけれど、僕は楽しかったし、光一も笑って見送ってくれた。それなのに、こんな風に書くなんて。
 天使に会えない? キリスト教は確か同性愛を禁止していたはずだ。光一がもしクリスチャンだとしたら、天国に行けなくなるとか地獄に落ちるとか、信仰に関することで悩んでいるのかもしれない。僕は特定の宗教を持たないから「神の教えに背く」というのがどんな感覚のものなのか、全然分からなかった。
 僕は光一にメールを送った。

 今日更新された「罪」の話、どういう意味?
 僕のことだよね?

 すぐに返事が来た。

 ごめん。削除した。どうしてもどこかに気持ちを吐き出さないと耐えられなくて、軽率なことをした。本当にごめん。

 光一のブログを見てみると、さっきの記事は無くなっていた。僕は削除して欲しかったのではなく、意味を教えてもらいたかっただけなのに。遠く離れた場所で勝手なことをする光一にイライラした。

 光一はクリスチャンなの?

 違う。どうしてそんなことを聞くのだろう。ああ、罪と罰について書いたせいか。もしクリスチャンだったら、僕はもっと苦しむことになったのか、それとも救われたのか……

 メールのやり取りではらちが明かないと思い、週末に再び会う約束をした。

 心が乱れていて事故を起こしそうだから、話しかけないで欲しい。そう光一が言うので、僕はあの海に着くまで助手席でおとなしくしていた。
 砂浜に車を停め、僕たちは冷房の効いた車内で話すことにした。外には家族連れが遊びに来ており、小さな姉妹がおもちゃのスコップで濡れた砂を掘り返している。
 もう車は動いていないのに、光一はハンドルを握りしめ、前を向いたまま言った。
「僕と、友達になってもらえないだろうか」
「セックスフレンドのこと?」
「そうじゃない。普通の友達だ。雑談したり、笑い合ったりするだけの……」
「え〜っ」
 光一とは歳が離れているし、趣味も合いそうにないし、友達になりたいとは思えなかった。友達はダメでセックスフレンドなら良い、というのも変な感じがするけど、正直に言ってそうだった。
「もし友達になれないなら」
 光一はハンドルを強く握り、手の甲の血管がぐっと浮き上がった。
「もう会うのはやめよう」
 声も体も震えている。
「この間僕がしたこと、そんなにイヤだったの?」
「イヤじゃなかった」
 光一は頭を大きく振った。
「でもするべきではなかった」
「光一がしたんじゃなく、僕がしたんじゃん」
「僕には止める義務があった。それなのに…… 君に体を触ってもらいたいという欲望を、抑えられなかった」
 光一の耳がみるみる赤くなる。
「今も触って欲しいんじゃないの」
 僕は外から見えないように光一の太ももを撫でた。
「ダメだよ」
 そう言いつつ、僕の手を振り払いはしない。
「あの日の夜、君のお母さんのことを考えて眠れなくなった」
「うちの親?」
「サッカーもやらせないで大切に育てたのに、二十も年上の男にわいせつな行為をされたと知ったら、ショックで倒れてしまうんじゃないだろうか」
 球技禁止の話のせいで、光一は僕の親を過保護だと勘違いしたようだ。ピアノの練習さえサボらなければ、あとは放任なんだけどな。
「わいせつな行為をしたのは僕じゃん」
「世間はそう考えない。中年の男と未成年者が性行為をしたとなれば、自動的に未成年者の方が被害者だと見なされる。細かい事実なんて誰も見てくれない。大人には未成年者を保護する義務があるんだ」
 いつも夢見がちなことばかり言っているくせに、急に普通の大人みたいなことを言い出して。
「君のお父さんかお母さんが警察に相談すれば、僕は逮捕されるかもしれない」
「じゃあ僕は『親に言いつけるよ』って光一を脅せるんだね?」
 ガバッとこちらを向いた光一の顔は引きつり、瞳は叩かれる直前の子供のようだった。
 太ももを撫でていた指を足の間に移動させ、布越しに膨らみを確認する。
「早くちゃんと二人きりになろうよ。我慢出来ない」
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翼交わして濡るる夜は(その14)

 光一との性的な関係は高校を卒業するまで続いた。受け身でいても罪の重さは変わらないと観念したのか、途中からは積極的に僕を気持ち良くしてくれるようになった。どれだけ快楽を共有しても、僕たちは全く対等ではなかった。光一は常に僕の言いなりで、それに腹を立てて僕はさらにわがままを言った。いい加減にしろ、と光一は怒るべきだったと思うし、それを望んでいたからこそ、わざと酷いことも言ったのに、最後まで光一は本心を隠し続けた。そして時々、僕の体をきつく抱き締めて、
「逮捕されたら、面会に来て欲しい」
 と懇願した。光一は逮捕なんてされない、親に言いつけたりしないし、たとえバレたとしても光一が思うほどうちの両親は過保護じゃないし同性愛にも理解がある、といくら言葉を尽くしても無駄だった。
「実際に面会に来られなかったら、魂だけでも良いから会いにきて欲しい」
 なんて訳の分からないことを言い出す。
「君が来てくれると信じられたら、実際には来てもらえなくても、この恐怖に耐えられるかもしれない」
 光一はまるで僕につかまっていないと深い穴に落ちてしまうかのように、必死に僕にしがみついた。
 結局僕たちの関係は誰にも知られず、光一が逮捕されることもなかったけれど、光一が恐れていた事態を今なら想像出来る。光一は少年に性的暴行をした犯罪者として、実名や顔写真がニュースで流される。親や周囲の人たちに最悪の形でゲイバレして、会社もクビになる。一方で僕は未成年の被害者として、名前も顔も表に出ないのだ。
 僕に抱きつかれてドキドキしたことにさえ罪悪感を抱いた、気の小さな光一。ただ一度だけ性欲を我慢出来なかったがために、社会的に破滅させられることをどれだけ深く苦悩したのか、僕の測れる範囲を超えている。
 罪を犯したのは僕だ。高校生であることを利用して、安全な場所に立ったまま、光一の体で性欲を解消した。正確に言うと性欲は解消しなかった。すればするほど自分が本当に欲しいものがそこにないことがはっきりした。光一は完全に心を閉ざしていた。当たり前だ。
 光一が言ったように「友達」になっていれば、僕たちはもっと気分良く付き合えたのかもしれない。物語を恐れるようになった司の話も興味深く聞いてくれたはずだし、司の苦痛を和らげる方法を一緒に考えてくれただろう。
 あんなに苦しめておきながら、あんなに疎ましく思っていながら、僕は光一が与えてくれた愛情を頼りに生きていた。光一。僕はいまだに誰ともつながれないまま暮らしているよ。光一はきっと僕を許してくれないから、僕の罰は一生終わらないのかもしれないね。
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翼交わして濡るる夜は(その15)

 春休みに一緒にスキーに行こうと司に誘われた。二つ返事でOKしそうになって、すぐにハッと気付いた。
「やったことないから、お荷物になっちゃうよ。いっぱいすべりたいんでしょ?」
 司は首を振った。
「スキーがしたいっていうより、翼と旅行に行きたいだけだから」
 僕と旅行したいってどういう意味? 夜のお楽しみ〜? と頭の中だけで叫ぶ。そういう展開はないだろうなと最初から諦めている。司は時々思わせぶりなことをしたり言ったりするけれど、相変わらずビクビクと神経をとがらせて生きており、恋愛やセックスなんてまだまだ全然無理だと分かっている。
 司を元気にしたい。でも元気になったら僕ではない誰かを好きになってしまう気がする。僕は司が好む男のタイプとずいぶん違うから。アキラに似ているなんて言われたらムカつくし。
 車酔いしやすいと司が言うので、僕たちは高速バスではなく新幹線で新潟に向かった。駅からタクシーに乗ってたどり着いた「ホテル・ビアンカ」は合宿所のような雑な宿だった。受付の横に黒っぽく薄汚れた鹿が立っている。
「あっ、鹿のくん製!」
 僕が指差して大声で言うと、司はじーっと僕を見た。
「もしかして、はく製って言いたかった?」
「あれっ?」
 司は目を細めて微笑んだ。
「翼は何でも食べ物にしちゃうんだね」
 司は板とかウェアとか、スキー用品一式を自前で持っていて、それらは全部宅急便で無事に届いていた。僕は何も持ってないから、全て宿で借りることになっていた。
「ダサい……」
 選べるのはサイズだけで、ポリバケツ色の全然格好良くないウェアを渡されて絶望した。古くてちょっと破れているところもあるし。
「雪の中でも目立つから、遭難した時にも安心、とか」
「良いよ、無理に慰めてくれなくても」
 司は目尻にしわを寄せてクスクス笑い、そんな表情を見られたからこのウェアで良かった……とまでは思えなかった。
 外は雪が溶けてしまうんじゃないかと不安になるほどの快晴で、遭難する心配はなさそうだった。
「えっ、リフトに乗るの?」
「乗らなかったらすべれないよ」
「でも僕まだ、板付けて三歩歩いただけだよ? それもけっこう重くて大変だなぁって」
「すべれば重くないよ」
 リフトは二人乗りで、想像したほど怖くはなかった。落ちても下は雪だから平気な気がするけど、どうなんだろう。ケガをしたらお母さん怒るだろうな。
 リフトから降りる時にちょっとコケて、でもどうにか僕は初心者用コースのてっぺんに立った。
「スケートやったことある?」
「ない」
「ローラースケートは?」
「ないよ」
「そういう人にどうやってすべり方を教えれば良いんだろ?」
 司は手袋をはめた手をあごに当てて思案した後、ついっとすべり始めて十五メートルくらい下で止まってくるりと振り向いた。
「こうやってみて」
「いや、無理だから!」
 すべり方は分からなかったけど、司に教える才能が全くないことだけはよく分かった。仕方ないので他の人のすべる姿を観察し、見よう見まねで体を動かした。僕とスキー板は摩擦の少ない斜面をするする落下する。うん、これ、重力加速度……
「どうやって止まれば良いの〜っ?」
「止まるぞ、って思えば」
「ギャーッ」
 司にぶつかるのを避けようとして派手に倒れた。
「大丈夫?」
「たぶん……」
 腕と手に変な痛みがないか触って確認する。お母さんが怒ったり泣いたりする姿が頭に浮かんで、僕も泣きそうになる。
「初めてやる人にとっては、スキーって難しいんだね」
 司は当たり前のことを不思議そうに言う。
「司は苦労しなかったの?」
「子供の頃に親に教わったから、すべれないのがどんな感じか覚えてない。でも他のスポーツに比べたらスキーは簡単だよ。俺も一年振りだけどすぐ思い出したし。他のは練習しないと鈍るじゃん?」
 もうこの人はいないものと考えよう。司は銀色のアクセントが入った黒いウェアで、すべる姿も動きに無駄がなくて格好良くてドキドキしたのだけど、先生として頼ろうとしたらひたすら腹が立つ。
 ちょうど良くお父さんにすべり方を教わっている小さな男の子が近くにいたので、僕は耳をそばだててそのレッスンを勝手に受講した。板をハの字にして、蛇行。ふむ。男の子と同じようにしたらそれほど加速しなくて済み、転ばずに司のそばまで行けた。
「ね? 簡単でしょ?」
「うーん……」
 司は嬉しそうに笑い、板を並行にそろえるプロっぽいすべり方で、シャーッ、シャーッと雪面を降りていった。
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翼交わして濡るる夜は(その16)

 その日は疲れてすぐに寝てしまった。
 次の日もまた二人で初心者用コースに行き、僕は馬鹿みたいに「ハの字で蛇行」を繰り返した。
「上手くなったね。全然転ばないし」
 ケガしないことを第一に考えてやっているのだから当然だ。
「司、僕に付き合ってここにいてもつまらなくない? 上級者向けのコースに行ったら?」
 司は首を振る。
「翼見てると面白いよ。おもちゃみたいで」
「おもちゃ?」
「体まっすぐ伸ばして真剣な顔で降りて来るからさ。おもちゃの兵隊がスキーしてるみたい」
 変な色のダサくてボロいウェアを着て、みっともないスキー姿をさらし続けるって何の罰ゲームなの…… でもスキー場に来てから、司は今まで見たことないほど楽しそうにしている。体を張って司を元気にしていると思えば。僕はこういうことがやりたかったのかなぁ。うーん……
 白い地べたにサインかコサインのグラフを描きながら、僕はゆるやかに落下する。行き着く先には必ず司の笑顔が待っていた。
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翼交わして濡るる夜は(その17)

 お風呂ではなるべく司の裸を見ないようにした。着替えさせたこともあるし、そんなに意識する訳ではないのだけど、自分の体の醜さを思い知るのが嫌だった。痩せていて肌は白く、筋肉なんてどこにもない。司が僕ではなくアキラを選んだのも仕方ないなと思う。僕みたいな体に興奮するのは少年好きのおじさんだけだ。
 宿の名前がプリントされた浴衣を着て(司とおそろいでいられるのが嬉しかった)布団に入る。スキーの疲れと温泉のお湯のせいで全身がいつもと違う。重たいような、心地好いような。
「翼と旅行するの楽しい」
 司はこちらを向いて微笑みながら言った。
「そう?」
「うん。どっちかが急にインフルエンザにかかったりして行けなくなったらどうしようって、ずっと心配してたから、来られて本当に良かった」
「流行ってるもんねー、インフルエンザ」
 僕は布団の中でうつ伏せのまま伸びをした。
「翼。俺もう誰も好きにならないようにして、翼に迷惑かけないようにするから。だから、ずっと仲良くして欲しいんだ」
 ん? 今なんか絶望的なこと言わなかった? ずっと仲良くして欲しい。そう言ってもらえるのは幸せなことだし僕もそうしたいけど、その前。もう誰も好きにならないようにするって、どういう意味? 僕だけが好きで、他の誰も好きにならないということ? 違う。司は僕に恋してない。それくらい分かる。
 僕が何も答えずにいたら司は不安になったようで、少し上ずった、いつもと違う声で畳みかけるように話し始めた。
「俺みたいな奴と一緒にいても何も良いことないし、翼は優しいから俺に冷たく出来ないのを利用して、翼から与えてもらうばっかりで何も返せない、自分がどうしようもない奴だって知ってるけど、でも翼を失ったら俺、何もないんだ。何も」
 しまった。司、おかしくなりかけてる。僕は慌てて布団を出て、司の頭を撫でた。
「司と一緒にいるの、僕も好きだよ。『与える』とか『返す』とか考える必要ないって。友達なんだから」
 友達。声として発せられて明確になったその言葉は、僕の心をざっくりと切り裂く。
「もし気になるなら、僕が困った時に助けてくれれば良いんじゃないかな」
「翼も恋愛で悩んだりすることあるの?」
 現在、その真っただ中ですが! しかしその手の質問には慣れているので驚かない。司に言われるとさすがにため息が出るけど。
「『悩み無いでしょ』ってよく言われる。のんきそうに見えるからさー 顔と心は関係ないのに」
「そうじゃなくて…… 翼も誰かを好きになることあるの?」
 え? 頭の中が真っ白になる。この人、何言ってるんだろう。
「僕たちがどこで知り合ったか覚えてる?」
「ゲイバー」
「恋愛したくなかったら、そんな所に行く訳ないじゃん!」
 もっと正直に言うなら、セックスしてくれる相手が欲しくて、新宿の薄暗い階段を上ったのだ。すごく怖かったけど、一人でし続ける物悲しさに、耐えられなかったし耐える必要もないと思った。
 こんな大きな寂しさを押し付けられるなんて思ってなかった。
「怒った? ごめん。悪い意味じゃなくて、翼って何か、そういうドロドロした感情持って無さそうだから……」
 司はおびえて、潤んだ目で僕を見上げる。ダメだ。司には優しくしなくちゃ。
「子供っぽく見られるけど! 性欲と食欲にはちょっと自信あるよ!」
 司は仰向けになって大笑いした。
「食欲はいつも見てるから知ってる。翼の性欲って想像つかないな」
「いいよ、想像しないで。恥ずかしい」
 司は一瞬真面目な顔になって、僕を見た。
「色んな奴とやったりするの?」
「そんなことしないよ! 高校の時に年上の人と付き合ってて、その人としただけ」
 性欲に自信あり、と宣言した割には経験が貧弱だなと情けなくなる。司は目を細めて心臓のあたりに手を置いた。
「良かった。翼が遊びまくってなくて」
 何で安心するの。やきもち焼いてくれる訳でもないのに。
「その人、恋人だったんだよね?」
「たぶん」
「どんな人?」
「普通のおじさん。福岡県の大牟田ってとこに住んでて、でも出身はこっちだよ。帰省するといつもお土産に鳩サブレーをくれた」
「翼にぴったりって感じする」
「美味しいよね。サクサクして」
「嫌なら話さなくて良いけど…… 別れちゃったの?」
「別れるっていうか、自然消滅っていうのかな。東京の大学に行くことが決まって、今までありがとう、体に気を付けてね。みたいな」
「遠距離恋愛は難しいって?」
「……うん」
 本当は違う。問題は距離よりも「僕が高校生ではなくなってしまうこと」だった。光一は僕ではなく「男子高校生」と付き合っていたのだ。すごく嫌な思いをしながら。遠く離れた場所にいる、高校生ではない僕と付き合い続ける意味なんてない。
 最後にした日の、湿った肌の記憶がよみがえる。光一は窒息するんじゃないかと思うほどきつく僕を抱き締めて、
「東京なんて全然良い所じゃない」
 と言った。
「辛かっただろうな、その人」
 司の声で現実に引き戻されてハッとする。
「翼と離れるのってさ、他の奴と別れるのと感じがまるっきり違う気がする」
「違うって?」
「全ての運に見放されて地獄行き、のイメージ」
「何それ」
「幸福の象徴なんだよ、翼は」
 ただ単に、顔が気楽そうってだけじゃん。僕の心はちっとも楽なんかじゃない。
「翼さ、大学卒業したら熊本帰るの?」
「こっちで就職するつもり」
「良かった」
 司は僕を必要としてくれている。でもそれは僕が望む形じゃない。
「俺、性欲ってよく分からないんだ」
 司は天井を見上げたまま言う。これを尋ねたら傷付けてしまうだろうか。でもやっぱり聞かない訳にはいかない。
「アキラとしたんでしょ?」
「うん」
「無理やりされた?」
「ううん」
 ならばそこには司の性欲があったのでは。司は天井を見つめてしばらく何も言わなかった。
「性欲のことは分からないけど、殺人犯の気持ちは理解出来るようになった」
 殺人、という強い言葉にどきりとする。
「前はさ、殺人事件のニュースを見ても『逮捕されるのに何でそんなことするんだろ、馬鹿だな』って思うだけだった。でもアキラとのことがあってから、俺もやってたかもしれないな、って」
「アキラを殺したかったの?」
 司は首を振る。
「先に自分を殺したと思う。アキラのことは好きだから」
 過去形じゃない。司はアキラだけが好きで、他の誰も好きにならない。最初から分かり切っていたこと。
「誰を殺すにしても、殺している間、殺人者は正気じゃないんだと思う。翼の家に押しかけて泣いた時の俺みたいに」
「あの時、びっくりしたけど、司が僕を頼ってくれて嬉しかったよ」
「俺は死ぬほど後悔してる。翼に迷惑かけたこと」
 君とはあんな風に関わるつもりはなかった。そう言われているみたいに聞こえる。
「だからもう誰も好きにならないようにして、なるべく冷静でいられるようにして、翼を大事にしたいんだ」
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翼交わして濡るる夜は(その18)

 司が泣いている。隣の布団の中からしゃくり上げる声と、全身の震えが伝わってくる。
「アキラに会いたい」
 祈るように、呪うように、何度も同じ言葉が繰り返される。アキラに会いたい。アキラに会いたい。アキラに会いたい!
 どうして誘われた時に気付かなかったのだろう。司はアキラとスキーに来たかったのだ。二人で上級コースを気持ち良くすべって、夜は浴衣なんて早々に脱ぎ捨てて、いつもと違う環境に興奮しながら痛くなるまで粘膜を刺激し合って、発情し完全に動物になった司のいやらしい叫びが和室の薄い壁を越えて宿じゅうに響き渡る。司はもう他人のことなど考えられない。頭の中も体の中もアキラで満たされて、僕がこの世に存在することにさえ気付かない。
 司の背中にのしかかって激しく腰を打ちつけるアキラを引き剥がしたいのに、体が固められたように動かない。その人は、僕の! 怒鳴りたいのに声も出ない。その人は、僕の。その人は、僕の……
 泣くことだけは何故か出来て、あたたかい涙が皮膚の上を流れてゆくのを感じる。アキラ。司から離れて。司が欲しくてたまらないんだ。理解ある優しい友達のふりなんてもうしたくない。司の敏感な場所を指と舌で支配して、僕のことが好きだと絞り出すような声で言わせたい。
 司の手首をつかんで布団に押し付ける。司は子供みたいに顔をグシャグシャにして泣きながら、
「したくない」
 と言った。
「殺して。こんなに悲しくて苦しいなら死にたい」
 僕の体は司が寝ているのとは反対の方向にすべっていく。楕円軌道を描く惑星のように静かに、確実に、僕は司から離れてゆく。嫌だ。司と一緒にいたい。僕の体と唇は固まったままだ。僕と司の間の距離はぐんぐん開いていく。司! 手を伸ばそうと限界まで腕に力を入れる。どんなに頑張っても僕の体は動かず、見えないベルトコンベアーは僕を運び続ける。司から遠い場所へ。決して声にならない声で僕は泣きながら呼びかける。司、司、司!

 目を覚ますと、まず見慣れない天井に混乱した。ここ、どこ? ああ、司とスキーに来たんだっけ。隣を見ると、司は先に起きていたらしく、布団の上で正座している。
「おはよう、司」
「ごめん、起こした?」
「自然に目が覚めたんだと思うけど…… 今、何時?」
「六時半。朝食は七時からだから、まだ寝ていて大丈夫だよ」
 睡眠時間は充分取れたはずなのに、頭が妙に疲れている。何だろう、これ。夢を見た気がする。ひと続きのまとまった話ではなく、細切れの場面をたくさん詰め込んだような。内容はぼんやりとして思い出せない。
「すごい嫌な夢を見たんだ」
 司はうつむいたまま言った。僕は司のひざの所まで匍匐前進し、ころんと転がって司の顔を見上げた。新しい朝が来たとは思えないほど、瞳がどんより暗い。
「アキラの夢?」
「うん。よく分かるね」
「何となく」
 下着汚した? とはさすがに可哀想なので聞かない。ちょっといじめたい気分ではあるけれど。
「俺、病気なのかな」
「熱っぽいの? 風邪引いた?」
「そうじゃなくて。アキラのことが頭から離れないんだ。もう何ヶ月も会ってないのに」
「仕方ないじゃん。好きなんだから」
「俺の頭の中にいるのは、もう本当のアキラじゃない気がする」
 下から眺める司の涙は、僕に向かって降る雨みたいだ。
「アキラは悪くないのに、俺が色んなこと考え過ぎたせいで、アキラは心の中で化け物になっちゃったんだ」
「悪いのはアキラだって! 傷付けられたこと自覚しなよ!」
 司は頭を抱えて首を振った。
「怖い…… 翼ごめん。ごめんなさい……」
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翼交わして濡るる夜は(その19)

 着替えて食堂に行っても、司は精神の暗闇から戻ってこない。僕たちは無言でご飯と塩鮭を食べた。
「あっ」
「ん?」
 司が顔を上げる。
「今朝見た夢、思い出した。すべっていくんだ。つつーって」
「ああ、スキーをやったせいだね」
「スキーとは進み方が違ってたな。司と反対の方向に等速直線運動」
 僕が後ろを指差しながらそう言うと、司はようやく笑った。僕はどうしてか分からないけど、すごく寂しくなった。
「もしこの世界に摩擦がなくて、何もかもツルツルしてたら、僕たちどこにも行けないんだね」
「どこにでもすべって行けて便利なんじゃないの。スキーみたいに」
「摩擦がなかったら歩けないよ。ずっと右足と左足を交互に出すだけになるはず」
「誰かに背中を押してもらえば?」
「その人とは二度と会えない」
 朝食に付いていたヤクルトを飲み始めて、すぐにお茶碗に吐いた。
「翼、どうしたの? 大丈夫?」
「ヤクルトって、炭酸入ってたっけ?」
 司は自分のヤクルトのフタを開けて臭いを嗅いだ。
「発酵が悪い方向に進んだらしい」
「腐ってるって言いなよ、素直に」
「ここに着いた日、暑かったからさ、うっかり日の当たる場所に置いておいてダメにしちゃったのかもね」
「ウェアもボロボロだし、雑な宿だなぁ」
「次に旅行する時はもっと高級なホテルに泊まろう」
 そんな所へ行っても、司とやれないんじゃなー やることばっかり考えている自分が可哀想だった。
 朝から降り続いていた雪は止むどころかひどくなり、真っ白く吹雪いて数メートル先も見えない。
「今日はスキー無理だね」
「ホレおばさん頑張り過ぎ」
 司は窓の外をじっと見た。
「宿のおばさん? こんな雪の中で働いてるの?」
「違うよ。グリム童話の」
 そこまで言ってさっと血の気が引いた。司は物語が嫌いなのに。しかもグリム童話は子供向けとは思えないほど残酷なのだ。
「ごめん。うそ。ホレおばさん頑張ってない」
 司は肩を震わせて笑った。
「良いよ。翼が話す物語は平気だから。教えて」
「ドイツでは雪が降ると『ホレおばさんが布団を振っている』って言うんだよ。中の綿が飛び出るのが雪みたいでしょ」
「ホレおばさんって誰」
「魔女の一種じゃないかなー」
 グリム童話では、ホレおばさんは怠け者の娘にタールをかける。司が心を痛めたら大変なので、そんな話はしない。やり過ぎだろ、って僕も思うし。
「ドイツにはいっぱい魔女の話があるんだよ。ブロッケン山のヴァルプルギスの夜とか」
「嬉しそうだね」
「魔女、悪魔、妖怪。そういうの大好きなんだ! 司が怖がると思って話さないけど」
「ごめんね、話聞けなくて」
「いいよ。他の人にもあんまりしないし」
「天使の話なら聞けると思うけど」
 パッと光一の顔が思い浮かび、再び犯そうとしている罪を突き付けられた気がした。自分がどれだけ酷い人間で、それをいかに必死で隠して司と接しているか。
 全部懺悔してしまいたい。ダメだ。今の司には優しい友達が必要なんだ。「本当に」優しい友達でなくたっていい。
「どうしたの、固まって」
「ふ、古傷がうずいて」
「前の彼氏に『エンジェル』って呼ばれてたとか?」
「うわ、寒ぅ〜! それはないよ! ひぃ〜!」
 二人でお腹が痛くなるほど大笑いして、あれ、司と話せることが前より増えたかも、と気付いた。旅行に来て親しくなったせいなのか、司が回復してきているからなのか、分からないけど。
「今日一日、何しよう」
「この雪じゃ、外出ると遭難するね」
「ゲームでもやろうか。鹿のくん製のそばにあった気がする」
 受付の横、普通のホテルなら「ロビー」と呼ばれるであろう場所には、暇つぶしのためのおもちゃが散乱している。ゲーム機、トランプ、麻雀、将棋、オセロ、タンバリン等々。すでに先客がいて、たぶん僕より歳下の女の子たちが、人生ゲームをしながら酒盛りをしている。
「あっ、ピアノ!」
 壁際に国産のアップライトピアノが置いてあった。どうせ調律もされずとんでもない音程になっているのだろう。悪口を言うためにショパンのエチュードを弾いたら、一つのキーも狂ってない。安っぽい、軽やかな音がする。グランドピアノの重厚な響きより、僕はこういう音色の方が好きだ。作品十の一番を最後まで弾き終える。
「すごいよ、司! この宿には、ピアノに対する意識の高い人がいるんだ。ヤクルトへの意識はあんなに低いのに」
 椅子に座ったまま振り向くと、司は目を見開いて僕を見ていた。
「翼…… 何者?」
「え?」
「音大、じゃなかったよね?」
「うん。理工学部だよ」
 司は真剣な眼差しで僕を見つめ続ける。ドキドキしてしまって、せっかく友達でいられたのにと悔しくなりながら、視線をそらした。
「趣味でピアノやるの、そんなに変?」
「いや、趣味の域じゃなくない?」
「これくらい弾ける人、いっぱいいるよ」
「もっと聴きたい」
「良いよ」
 トランプをやっているヒゲ面の男が、
「革命!」
 と叫んだので、僕はショパンの「革命」を弾いた。
「ブラボー!」
 酒盛りをしていた女の子のうちの一人が叫び、周りの子たちは、
「もうバカ、酔っ払い! 恥ずかしい!」
 と笑いながら拍手してくれた。
 ポニーテールのブラボー女子はこちらに近付いてきて、
「リストのラ・カンパネラ、弾ける?」
 と目を輝かせた。
「もちろん」
 僕はこの曲の切迫した雰囲気を完全に消して、ダンス音楽のように明るく楽しく弾いた。その方が彼女に似合う気がしたから。
 弾き終えると、いつの間にか真後ろに立っていた茶髪のお姉さんが、
「普通の曲は弾けないの?」
 と聞いてきた。
「普通……?」
「BUMPが好きなんだけど」
 ああ、この人にとってはポップスが普通の曲なんだ。僕は派手な装飾をたっぷり付けて「天体観測」を弾いてみせた。
「きゃりーぱみゅぱみゅ!」
「となりのトトロ!」
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲!」
「津軽海峡冬景色!」
 僕は次々とリクエストに応えてゆき、最後に、司と一緒にいると必ず心の中で鳴り響く、あの曲を弾いた。言葉にさえしなければ、いくらでも愛を表現して良い。そのことに救われる。よどんだ感情がメロディに変換されて体の外に出てゆき、僕は一時的に空っぽになった。
「お腹空いたからおしま〜い!」
 そう言って立ち上がると、ピアノの周りにはいつもと同じように人がぎっしり集まっていて、鳴り止まない拍手を聞きながら、僕は司を引っぱり部屋に戻った。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:31| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その20)

「お昼、何食べよっか」
「いやいや昼飯どころじゃないよ! さっきの何? あれ」
 僕のお腹がギュゥ〜っと鳴る。
「今は食べることしか考えられない!」
 司が宿のおじさんにおすすめの店を聞いてくれて、僕たちは宿から徒歩五分ほどの所にある定食屋さんに行くことになった。スキーウェアを着て、新しい雪にずぶずぶと足を踏み入れ、大変な行軍だった。わーとかキャーとか叫んで楽しかったけど。
 僕は豚の味噌焼き定食、司はコロッケ定食を頼んだ。
「あぁ〜 肉が! 胃に沁み入る!」
「お米も宿のより美味しい気がする」
「ほんとあそこ、ピアノの音が合ってる以外、良いとこないよ」
「ピアノの音が合ってるのって、そんなにすごいことなの?」
「調律師を呼ばないと出来ないから。お金もかかるし。もしかしたら宿泊客に調律師がいて、暇つぶしに音を合わせたのかもしれないね」
 そう考えなければ納得いかないくらいの、見事な狂いのなさだった。僕はちょっと甘みのある豚肉を噛みしめながら、さっきの気持ち良い演奏を思い出した。
「最後に弾いた曲の名前を教えて」
「えっ」
 司のテーマ、という何のひねりもない単語が浮かび、言うわけにいかないなと苦笑する。
「動画サイトで検索したら聴けるよね?」
「聴けないよ」
「CDならある?」
「ない。あれ僕が勝手に弾いてるだけだから」
「勝手に?」
「心の中で鳴ってるメロディに、適当に音を付けるんだ」
「翼が作曲したということ?」
「そんな大袈裟なものじゃないと思う。譜面に書いたりしてないし」
「すごく良かったよ。音楽に感動するってこういうことなんだね。うまく言えないけど、生まれて初めて、自分のための音楽を聴いた気がした」
 僕は思わずお茶を吹きそうになった。そりゃそうだよ。あれは司が作り出している音楽なんだから。
「何々っていうバンドが好きだとか、誰々っていう歌手のファンだとか、みんな当たり前みたいに言うじゃん? 俺、ああいうの全然分からなくてさ。俺には音楽を理解する才能がないんだと思ってた。でも違う。俺は今まで本当に素晴らしい音楽に出会ってなかったんだ」
 司は熱のこもった瞳で僕を見つめて言った。
「俺、翼のファンになる!」
 今度こそお茶吹いた。
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翼交わして濡るる夜は(その21)

 次の日は晴れて、僕たちは最後のスキーを楽しんだ。その次の日、朝のうちに宿を出て、新幹線で東京に帰った。
「ずっと一緒にいたから、翼と離れるの寂しいな」
「またうちにおいでよ。泊まったって良いし」
「翼の家、サービス良過ぎて申し訳ないからなー 今度から宿泊費取って」
「考えとく」
 笑って手を振って別れたのに、自分の部屋に帰るとすぐ、僕は布団にもぐり込んで泣いた。僕たちの関係はもう行き止まりだ。これ以上進みようがない。司は僕のことを必要としてくれているし、ファンになるとまで言ってくれた。これで満足すべきなんだ。どうして「やりたい」なんて思っちゃうんだろう。
 生きているのだから食欲や性欲を感じるのは当然のことだし、男が好きなのも、少数派の方に入っちゃったんだなと思うだけで他の人ほど悩んだりしない。でも司を前にすると、自分の欲望が汚い、余計なものであるような気がしてくる。そんな気持ちになるのが嫌だった。
 それは結局、司が僕の性欲を必要としていないせいだ。僕は司が求めるものだけを差し出したい。性欲はどこかに捨ててこなければ。
 床の上で携帯電話が震えている。拾い上げると、司からのメールだった。

 翼が隣にいないと寂しい。

 僕も。

 まるで恋人同士みたいだ。もしかしたらもう、プラトニックな恋人なのかもしれない。そしてそんなものでは、僕の心と体は全然満たされないのだ。
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翼交わして濡るる夜は(その22)

 アキラに司を盗られたゲイバーには二度と行きたくなかったので、他に良い店がないかネットで探してみた。一つ、飛び抜けて料理の美味しそうな店があった。トップページに載っている「かえるくんの芽キャベツパスタ」がまず目を引いた。つやつやした黄緑色の芽キャベツに、てっぺんに載っている赤い唐辛子。サンドイッチやドーナツ、パイにもいくつか種類があって、全部食べてみたい。けれども価格設定が高めで、僕にはちょっと贅沢だ。
 お店のブログを見てみると、店長と料理人の写真があった。優しそうな眼鏡のおじさんと、女装している若い男の人で、頭をくっつけて寄り添っている様子から、説明がなくても二人が愛し合っているのが分かる。

 文学青年が集まるゲイバーにしたかったのに、メグの料理が美味し過ぎて美食クラブみたいになっています。本好きな人はもちろん、メグの料理を食べてみたい人はぜひ新宿三丁目の春樹カフェへ!

 文学青年ということは、光一のようなタイプがけっこう来るのかもしれない。水曜日は学生証を見せると料理が三割引きになるらしい。その日はきっと、学生目当てのおじさんも多いのではないか。そこに狙いを定めれば、やれる……!
 そこまで考えて、司以外とは誰ともやりたくない自分に気付く。もう何でも良い。やれるやれないに関係なく、メグさんの料理を食べてみたくて仕方がなかった。

「メグさんに会いに来ました」
「キャーッ! いきなり口説かれたーっ」
 春樹カフェは想像していたより落ち着いた雰囲気の店だった。壁や床には年季の入った焦げ茶色の木材が多く使われており、暖色の光が物静かなお客たちをほのかに照らしている。その中で、調理場だけがステージのように明るいのが面白い。そこで立ち働く料理人のメグさんも、その光に負けないくらい明るかった。
「ネットで料理の写真を見たんです。どれもすごく美味しそうだったから」
「あれ全部、周平が撮影したんだよ。カメラのことなんて全然知らなかったのに、専門書を何冊も買って、料理を美味しく撮る方法を研究して」
「周平さんっていうのは、あの眼鏡の店長のことですか?」
「そう! 努力家なの。すごいよね!」
 のろけだ…… メグさんは幸せそうに微笑みを浮かべたまま、手際良く牡蠣を揚げたりパスタを茹でたりレタスを千切ったりする。顔は綺麗な女の人なのに、メグさんの腕の皮膚の下では職人仕事で鍛えられた筋肉がうねっていて、ドキッとするほど男らしい。
「僕の宝物なんだ」
 周平さんはメグさんを見つめて目を細め、僕の方を向いてニコッと笑った。
「口説いても良いけど、口説き落としちゃダメだよ」
「大丈夫です。僕、うんと年上の人が好きだから。店長みたいな」
 周平さんは目をむいて、福々としたほっぺたを少し赤くした。
「僕も君のこと、初恋の人に似てるな、って」
「こらそこ、口説き落とされてるんじゃない!」
 メグさんは眉をつり上げて店長に包丁を向けた。
「可愛い男の子に口説かれたことないもんで、つい」
「あたしはっ! 可愛い男の子ですっ」
 夫婦ゲンカを見上げていたら、肩をぽんぽんと叩かれた。振り向くと、さっきまで誰も座っていなかった隣の席に、おじさんがウィスキーを持って移動しているところだった。
「君は純真そうな見た目に似合わず恐ろしい男のようだね」
 僕は遠慮せずにおじさんの品定めをする。ざっくりと伸ばしたヒゲはうっすら白く、たぶん三十代後半くらい。襟のないシャツにジャケットという格好で、会社勤めをしている人には見えない。でもだらしない感じはしなかった。
「迷惑なら元の席に戻るけど」
「いえっ そんなことないです」
「良かった」
 口説きに来たのかな? アキラみたいに馴れ馴れしく体に触ってきたりすることはなく、氷をカラカラ鳴らして琥珀色のお酒を飲んでいる。
「大学生?」
「はい」
「理系?」
「そう見えますか?」
「アサガオの観察するような目で俺を見るから」
「すみませんっ!」
 おじさんは肩を震わせて笑った。僕がおじさんを点検するように見たのは理系だからではなく、ここがゲイバーで、相手が自分の好みに合うかあからさまに判定しても構わないと思ったからだ。もしかしたらこの春樹カフェは、そういう場所ではないのかもしれない。
 文学青年が集まる店にしたかった、というネットの紹介文を思い出す。ここにいる客はみんな、光一やうちの父親のような人間なのだろうか。現実の世界におびえ、何かあるとすぐ言葉の森に逃げ込んでしまう人たち。
「君はどんな本が好きなの?」
 おじさんは僕の目を優しく見つめて言った。
「僕、小説はあんまり好きじゃなくて……」
「そう」
 おじさんは僕に気を遣って表情を変えなかったけど、失望したのが伝わってきた。僕はちょっとムキになってこう続けた。
「でも漫画は好きで、水木しげるの本はだいたい全部持ってます」
「水木しげるか。俺も戦争の話はあらかた読んだよ。ラバウルのエビ」
 おじさんが僕を試すようににやりと笑うから、僕は早口で返した。
「噛みしめても水しか出てこない」
「そう。あれは忘れられないな。戦争と命の虚しさをあれほど端的に表した場面を俺は他に知らない」
 おじさんはつげ義春とますむらひろしと吾妻ひでおの話をし、僕が全部読んでいるのを知って目を丸くした。
「渋いね。もしかして俺より年上だったりする?」
「古本屋で買えますから。文庫にもなってるし」
 僕に話を合わせてくれたからだと思うけど、おじさんとのおしゃべりは楽しかった。二人で声を立てて何度も笑った。
「物語って、こうやって人と話すネタにするために存在するんですかね?」
「いや、今日はたまたま二人とも知っている漫画があったから出来ただけで、世の中の人全てが『不条理日記』を読んでいる訳じゃない」
 吾妻ひでおの馬鹿馬鹿しいギャグを思い出し、また一緒に笑う。
「僕の好きな人、物語を読めなくなっちゃったんです。漫画も小説も昔話も、全部怖いって」
 司は僕の好きな人、なのか。もちろん分かっていたけれど、改めて言葉にしてみると、出口のない空間に追い詰められた気分だった。
「好きな人がいるんだね」
 おじさんの声が低く小さくなってハッとした。
「もしかして、僕のこと狙ってました?」
「気にしなくて良い。好きな人は俺もいるから。絶望的な相手だけど」
「ノンケの人?」
「いや、オネエ」
「へー」
「オネエなんだが、奥さんがいる」
 スパゲティを食べている最中だったから、思わずむせた。
「オネエで異性愛者という人もいるんですね」
「男しか好きになったことがないと言っていた。それなのに、俺のことは好きになってくれなかった」
 僕はおじさんの容姿を改めて確かめた。美男子ではないけれど、醜男でもないし、きっとこれまでに沢山の物事を考えてきたのだろうと思わせる、静かな目元が魅力的だった。
「その人の理想のタイプはオスカルなんだ」
「オスカルは女じゃないですか」
「さすが漫画オタク、話が早い」
 おじさんはコップに残っているお酒を一気に飲み干した。
「で、現れちゃったんだな、オスカル様が」
 頬杖ついてこちらを向いたおじさんの目は、酔いで潤み、座っている。
「君の好きな子は、こんなくだらない俺の話も怖がるのかね?」
「最もダメだと思いますよ。悲しい恋の話なんて」
「幸せなんだけどな、俺」
 僕はおじさんにシナモンドーナツを分けてあげて、二人で同じポットのお茶を飲んだ。紅茶を頼んだはずなのに、ほうじ茶みたいな和風の味がした。
 おじさんは別れる時に名刺をくれた。
「中嶋さん」
「そう」
 名前の他にはメールアドレスしか書いてない。
「お仕事は何をされてるんですか?」
「文化的雪かき」
 僕が首を傾げると、中嶋さんは満足そうに微笑んだ。

 司の話さえしなければ、中嶋さんとやれたのかもしれない。かなり好みだと感じたし、向こうも僕を気に入ってくれたと思う。何より中嶋さんは寂しそうで、僕も寂しくて、慰め合うのにぴったりだった。
 でもきっと僕は抱き合っている間ずっと司のことを考えてしまうし、おそらく中嶋さんもオネエとオスカルが頭から離れないだろう。
 オネエとオスカル。中嶋さんには悪いけど、楽しそうなカップルだ。想像すると笑みが浮かんでしまって、真剣に同情出来ない。
 中嶋さんは幸せだと言っていた。オネエに片思いして、オスカルにやきもちを焼いて。確かに幸せかもしれない。
 僕は司に「会おうよ」とメールした。やれなくても、オスカルの話を聞かせられなくても、会いたい人に会うことしか僕には出来ない。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:28| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その23)

「普通の手なのに……」
 司は僕の手を両手で優しく包んでしげしげと眺めた後、自分の右手を開いて僕のてのひらにくっつけて、指の長さを比べた。
「俺の方が大きいくらいだ」
 やらしい想像をしちゃうよ、どうしても。もしあれを比べるとしたら、司はどっちが大きいとか小さいとか言わないと思うけど。まず僕たちがそんな状況になることなんてないのだろうけど。
「どうして音大に進まなかったの?」
 近所迷惑にならないよう音量を調節して、僕の部屋にある電子ピアノで演奏を聴かせた後だった。
「サラリーマンになりたいから」
 司は僕を見つめて三秒ほど固まった。
「ネクタイ姿のおじさんを求めて……?」
「確かにスーツの似合う人って格好良いな〜って思う」
「翼は年上が好きなんだもんね」
 司は嬉しそうで、僕は複雑な気持ちで、でも「翼はおじさんマニア」ということにしておいた方が、司は安心出来るのかもしれない。
「もったいないな。ピアニストになれば良いのに」
「司さ、ピアノが弾ければピアニストになれると思ってない?」
「ただ弾ければ良いって訳じゃないことくらい分かるよ。翼みたいにピアノで人を感動させられたら、ピアニストになれると思う」
 僕は首を振った。
「ピアニストになるには、ピアノで戦って勝たなきゃいけないんだよ。色んなコンクールに出てさ」
「出れば良いじゃん」
「ピアノで戦いたくないんだ。音楽って、勝ったり負けたりするものじゃないと思う」
「格好良い、翼」
「格好つけてるんじゃなくて、そういう性格なんだよ。闘争心が足りないんだ」
 お姉ちゃんはピアノの腕前を競うことに一ミリの疑問も抱いていなかった。というより勝つことが全てだった。ピアノが上手いという上級生の家に乗り込んでいって自分の方が難しい曲を弾けるのを見せつけたり、ピアノ教室で「一番」になってしまうと「もっと良い先生のところに行きたい」と親にせがんで、またそこで一番を目指した。
 コンクールでは意外と賞を取れなくて、それでもやさぐれることなく帰宅後すぐに次の戦いのための準備(練習や音楽の勉強)を再開した。
 そういうスポ根漫画みたいなピアノの弾き方を見ていると、僕も同じように戦いたいとはとても思えなかった。お姉ちゃんは努力すればするほど、音楽の本質から離れていく気がした。
「まあピアニストにならなくたって、俺はいつでも翼の演奏を聴けるんだから」
「そうだよ」
「もっと弾いて」
 胸が痛くなるような笑顔で司は言う。
「良いよ」
 僕は心で鳴り響いているメロディをそのままピアノで追いかける。司は激しい曲より甘く悲しい音楽の方が好きみたいだから(聴いている時の表情を見れば分かる)なるべく司が喜ぶように、ためらいの間を含ませてアルペジオを展開する。うつむいてじっとしたまま耳を澄ましている司、その瞳が、かすかに細く、とろけるようになるのを僕は見逃さない。司は今、気持ち良くなっている。耳たぶ、首すじ、鎖骨、胸、わき腹、太もも、膝小僧と、司の感じる場所を探っていく僕のてのひら。僕はちゃんと見つける。この旋律だね? 司は小さく眉根を寄せて、でもそれは嫌だからじゃない。皮膚に歯を立てるようにとびきり不安定な和音を紛れ込ませ、もちろん本当に痛くはしない。すぐに分厚い長調の和音で包み込む。僕だって気持ち良くなりたい。司の好みは考えずに、指の動きにまかせて僕は……
 司が急に顔を上げた。視線がばちっと合って、心臓が止まりそうなほどびっくりした。
「な、何?」
「翼、鍵盤見なくてもピアノ弾けるの?」
「う、うん」
「へえ〜 すごいね」
「いちいち目で確認してたらピアノなんて弾けないよ」
「そうなんだ。翼の視線を感じて、あれ? って思ってさ」
 ピアノを弾いている時、僕はどんな表情をしているんだろう。今まで考えたこともなかった。エッチの最中みたいだったら恥ずかしいな。どっちの顔も自分では見たことないけど。
「弾いてくれてありがとう。俺、翼のピアノ、本当に好きだ」
 僕はつくづくピアノしか取り柄がないんだと思い知る。子供の頃から飽きるほど褒められていて、正直何とも思わない。司にはピアノではなく僕自身を好きになってもらいたい。……僕自身って何だろう? 僕の体? 心? 脳みそ?
「アキラと会わなくなってから、ずっと苦しいんだ。胸のあたりがもやもやして、時々発作みたいに全身が痛くなるし」
「それってさ、病院……」
 司は激しく首を横に振った。
「翼のピアノを聴くと治るんだ。だから家でも聴けるようにCDが欲しい」
「作ったことないよ」
「そのピアノ、音のデータ取れるんじゃないの?」
「さあ……」
「理系なのに機械に弱い」
 司が笑うので、僕はふくれた。
「必要ないから使ってないだけ! ねえ司、録音するの面倒だし、僕の演奏を聴きたくなったらうちに来なよ」
「翼にも会えるし」
「ご飯も食べられる」
「翼、優し過ぎるよ」
 だって、司のことが好きだから。僕はしばらくふくれたままで、司は僕を見つめて微笑んでいた。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:26| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その24)

 大学からの帰り、駅前のコンビニで買い物をしていたら、
「おい!」
 と声をかけられた。
 振り向くと、スーツ姿のアキラがいた。背が高い上にアフロだからインパクトがすごくて、でも限りなく黒に近い灰色のスーツは意外と似合っており、普通の人に見えなくもなかった。
「目を見開いて固まるなよ。妖怪に襲われた村人その一みたいだぞ」
「村人にもなるよ!」
 近所に住んでいるのにこれまでばったり会わなかったことの方がおかしいのかもしれない。しかしいざアキラの顔を見ると、色んな感情がぐちゃぐちゃになって、逆に頭が真っ白になってしまう。
 僕は奇妙な違和感を感じた。アキラの雰囲気が、ゲイバーで最後に見た時とずいぶん違う気がしたのだ。髪型と体型は変わっていない。スーツのせいでもないと思う。何だろう、アキラはもっとギラギラしていたはずなのに。
「お前、まだ司と連絡取ってる?」
 僕は黙ってうなずいた。アキラは周囲を気にするようにキョロキョロと左右を確認した。
「悪い。五分ばかり付き合ってくれないか。相談がある」
 コンビニを出て、アキラの早歩きを小走りで追いかけた。
「駅前にひと気のない場所というのはなかなかないもんだな」
「アキラとひと気のない所になんて行きたくないんだけど」
「もうおかしなことをしたりしないよ。俺の家に来るのも」
「イヤです!」
「だよなぁ」
 アキラは歩みを止めてアフロヘアの後ろをぽりぽり掻き、こちらに振り向いた。
「内緒話がしたいんだ」
「通行人は誰も僕たちの話なんて聞いてない」
「それもそうだな」
 アキラはうつむいて、逡巡するように何度もまばたきしてから、僕を見た。
「俺、病気になったんだ」
 悪い予感がした。地べたがぐらりと揺れる。
「エイズ」
 その単語を聞いた瞬間、僕はアキラの胸ぐらをつかんでいた。突き飛ばしてやりたかったのに、アキラの体は頑強でびくともせず、悔しさに顔が歪んだ。
「司も感染させたのかよ!」
「いや…… それより後だと思うんだ。でも一応検査するよう伝えたくて。あいつ、俺のメール着信拒否してるみたいだから」
 司の心を壊しておいて、アキラは平気で他の男と遊んでいたんだ。そんなの分かりきっている。この人にとっては当たり前のこと。それでも体の中心が煮え繰り返って爆発しそうだった。
「殺してやる」
 僕を見下ろすアキラの顔は寂しそうで、無力なくせにいきがっている僕をあわれんでいるようにも見えて、本当に今すぐアキラを殺したくなった。
「人が人を殺すのは腕力だけじゃない。……プルトニウムを飲ませてやる」
 冥王の名を持つ放射性物質。物理学科だからといってそんなもの自由に扱える訳がないのだけど、どうにかアキラをおびえさせたかった。痛みさえ感じる憎しみを、何がなんでもぶつけてやりたかった。
「体の中からお前をズタズタにするんだ」
「イヤな死に方だな、それ」
 アキラは怖がっていなかった。寂しげな顔が、悲しみの色に染まっただけだった。
「こんなくだらない男を殺して警察に捕まるのも馬鹿馬鹿しいだろ」
 僕はアキラの服を放した。悔しかった。二十歳を過ぎても僕は子供で、力でも心でもアキラには勝てなくて、僕がどんなにみっともなく優しいふりをして見せても、司はアキラに恋い焦がれて泣いている。
「治療さえすればエイズはもう死ぬ病気じゃないって、司に伝えてもらいたいんだ。たぶん大丈夫だと思うし、悩まないで検査して欲しい」
「勝手だよ。悩むに決まってる」
「お前も一緒に検査したらどうだ」
 良いこと思いついた! とでも言うように、アキラはニコニコして僕を見た。
「司が感染してたらお前だって危ないだろ?」
 ケンカに負けた犬そのままに、僕はその場から走って逃げた。アキラは僕と司がやっていると思い込んでいる。ゲイが二人いたらセックスするのが当然と……いや違う。僕が司を好きなのがバレバレなんだ。好きなんだったらやるだろ? しかも相手はあんなに落とすのが簡単な司だよ? アキラの声と僕の声が混ざり合って僕を責める。
 助けて。僕は家に帰って布団にもぐり込んだ。誰か助けて。東京に、僕を助けてくれる人なんていない。司に検査の話をしなければ。でも司に会いたくない。司は僕を苦しめるばかりで、僕を助けてはくれない。友達なんかじゃない。
 少し泣いて、少し眠った後で、春樹カフェのメグさんの顔が思い浮かんだ。メグさんが茹でた、オリーブオイルでつやつや輝くアルデンテのスパゲティが食べたかった。僕もパスタはよく作るけど、食材の切り方や加熱時間が雑で、やっぱりプロとは全然違う。メグさんはブロッコリー一つに対しても微笑みを向けて調理する。包丁を動かす親指や、鍋を持ち上げる二の腕にも無駄がない。
 あの人は芸術家なんだ。客の口の中に消えてしまう儚い存在のために、持てる技術と情熱をありったけ注ぎ込める人。
「お腹空いた〜!」
 アキラと司の問題はとりあえず脳内から消去して(この決意をするの、二度目だ)夕飯を食べに春樹カフェへ行くことにした。
 まだ日が落ちる前で、お店には夜の営業の準備をするメグさんと周平さんしかいなかった。
「料理頼んでも良いですか?」
「もっちろん!」
 僕は調理の様子が一番よく見えるカウンター席を選び、厨房の中を楽しそうに飛び回るメグさんを眺めた。周平さんが運んできてくれた紅茶のカップと受け皿には、可愛い羊のイラストが描かれている。
 唇がカップに触れたところで、肩をポンと叩かれた気がした。振り向いても誰もいない。何だろう。あっ!
 それは店内に流れている音楽の、ピアノの音だった。メロディとメロディの隙間に合いの手のように入る不協和音。楽しげな曲なのに、ピアノだけが奇妙で不可解な、クラシックではあり得ない音の選び方をしていた。ジャズだと思うけど、現代音楽かもしれない。どちらにしろ僕には馴染みのないジャンルだ。
「今かかっている音楽は何ですか?」
 周平さんはCDのケースを持ってきてくれた。
「セロニアス・モンク」
 ぼんやりと物思いに耽る、黒人のおじさんのモノクロ写真。つまずくような、ぎこちないピアノソロ。いや違う。複雑なステップを完璧に踏んでみせたんだ。これが彼にとっても曲にとっても正解なんだと気付いて、自分の知らない音楽の扉が開くのを感じた。
「この曲のピアノ、すごいですね!」
 周平さんは瞳だけを天井に向けて、しばらくセロニアス・モンクの音楽を聴いていた。そしてCDのケースを開けて解説が書いてある冊子を開いた。
「このピアノを弾いているのが、セロニアス・モンクなんだよね?」
「僕に聞かれても困りますけど」
「うん、そうだ。ここにも書いてある。この人こんなに下手で、よくクビにならなかったね」
「下手というのとはちょっと違う気が……」
 確かに滑らかな弾き方じゃない。クラシックのコンクールだったら一小節弾き終えないうちに会場から追い出されるだろう。けれどもただ楽譜通りに音を出しているだけの演奏に比べたら、こっちの方が断然「音楽」だ。そういう「棒読み」の演奏は世の中に不思議なほどあふれていて、街の騒音の一つだと思っている。音楽もどきの音の連打は僕の耳を通過してゆき、心に何も残さない。
「お待たせ〜」
 メグさんは枝豆がたっぷり載ったパスタの皿をことりと置いた。
「メグさんはどう思います?」
「えっ 何が? 枝豆について?」
「このピアノ」
 僕が上を指差すと、メグさんは周平さんとそっくりの表情で音楽に集中した、と思ったらすぐに僕をにらんだ。
「早く食べて! 伸びちゃう!」
「は、はい」
 バジルソースと枝豆が意外に合っていて美味しい。僕が勢いよく食べ始めるとメグさんは安心したらしく、目を細めてしばらく無言になった。
「これは、シャンツァイみたいなものなんじゃないかしら」
「えっ、バジルじゃないんですか?」
 思わず口から枝豆を飛ばしそうになる。
「それはバジル。落ち着いて食べて」
 メグさんはクスクス笑って人差し指で天井を指した。
「シャンツァイはこのピアノのこと。たとえば白いご飯にシャンツァイだけかけて食べろって言われたら」
「不味そう」
「ご飯への冒涜だよ」
 周平さんはよっぽど嫌だったらしく、眉根を寄せて首を振った。
「でもお米の粉で作った麺に、鶏肉とナンプラー味のスープをかけて、ライムをしぼってシャンツァイを添えたら」
「美味しいですよね、フォー」
 春樹カフェではなくベトナム料理屋に行くべきだったかと一瞬思ってしまった。
「要はバランスなのよ。ご飯にシャンツァイだけだと青臭さが強く出ちゃう。フォーの中ならシャンツァイはうまみとつり合って目立ち過ぎない。全体で見たら丸く収まる」
「枝豆とバジルも美味しいです」
「美味しく作ってるもの。この曲だって音楽のことをよく分かってる人が上手い組み合わせを考えて演奏してるんでしょ」
「そうだと思います」
「ピアノだけ聴くとちょっと変な気もするけど、他の音と混ざるとけっこう心地好い気がするんだ」
 周平さんは腕組みして言う。
「メグが音楽を語れるなんて全然知らなかった」
「あたしも店でこんな曲がかかってるなんて全然知らなかった」
「えっ」
 僕と周平さんは同時にメグさんの顔を見た。
「料理と接客で音楽に耳を傾ける余裕なんてないわよ!」
「ごめん」
「すみません」
 僕たちは、家事で忙しいお母さんにわがままを言ってしまった子供みたいに縮こまった。
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翼交わして濡るる夜は(その25)

 会計の後で、周平さんはセロニアス・モンクのCDを何枚か貸してくれた。
「良いんですか?」
「これを返すためにまたお店に来てくれたら僕たちは得するんだから」
 家に帰るとすぐベッドに横たわり、部屋を真っ暗にしてセロニアス・モンクの音楽を聴いた。
「世界は不可解なことで満ちている」
 ピアノを弾く人間だけに通じる言葉でセロニアスおじさんは言う。
「世界は不可解で美しいことで満ちている」
 おじさんは言葉を和音にして追加する。
「そうかなぁ」
 僕はシーツの上で鍵盤を叩いて答える。
「世界は不可解で美しく悲しいことで満ちている」
「そこで僕はどうしたら良いの?」
 訥々とした、優しいピアノソロが始まる。
「世界は愛情で満ちている」
「たとえそうだとしても、誰も僕には愛情をくれない」
「もらえないなら、与える側になれば良い」
 僕の言葉に答えたのは、僕の右手だった。
「でも、それだけじゃ苦しい」
「本当に?」
 セロニアスおじさんのピアノの音はいつの間にか遠くなり、僕の右手と左手の会話が脳内に鳴り響く。いつもの曲よりしっとりと濡れていて、主旋律は収束のあてなく変奏され、気が付けば全く知らない和音を生み出している。
 好きだよ、司。
 夢の中で泣いたのか、実際に涙が流れたのか、覚えていない。

「ありがとう、翼」
 家で使う通信機器を買い換えたいという司に付き合って、新宿にある大きな電気屋さんに行った。
「僕、あんまり役に立たなかったし」
 理系らしいところを見せなくちゃと思って、同じ学科のコンピュータに詳しい人(理工学部には掃いて捨てるほどいる)に相談したり、自分でもネットで検索したり、色々準備して行ったのに、司は買うものをだいたい決めていたので僕の努力はおおむねムダになった。
「買い物は、単に誘う理由が欲しかっただけだよ。翼に会いたかったんだ。最近連絡ないからどうしてるのかと思って」
 そんなに僕が好きなら、やろう! 今すぐ! と心の中で叫ぶ。こういう恋愛じゃない愛の告白に対して僕はどう返事をしたら良いのか。
 答えが浮かばなかったから、何も言わずに電子ピアノのコーナーへ行って適当に弾いた。
「翼、怒ってる?」
「怒ってないよ」
「それなら良いんだけど。何か曲の感じがいつもと違うから」
 僕はピアノを弾くのをやめた。
「いつもと違う? どんな風に?」
「よく分からないけど、音が濁ったというか…… 悪くなったんじゃなくて、籠められている感情が、前と違うのかなぁと思って」
 ここのところセロニアス・モンクのCDばかり聴いていたから、影響を受けたのだろう。僕はちょっとしたイタズラを思い付いた。
「好きな人が出来たんだよ」
「えっ」
 司が少しでも傷付けばと思ったのに、全く表情が変わらず僕の方が傷付いた。
「すごく優しい人で、いつも僕を慰めてくれるんだ」
「ふーん…… おめでとう。付き合い始めたってことだよね?」
「ううん、片思い。相手、奥さんいるし」
「えっ、ダメだよ、そんなの」
「まあ仕方ないよねぇ〜 好きになっちゃったんだから」
「おじさんが好きな人って、大変だね……」
 司が暗い顔して深刻に言うから、僕はとうとう吹き出した。
「僕の家においでよ。好きな人の写真見せてあげる」
 駅ビルで九州物産展をやっていたので「いきなり団子」を買って帰った。
「これが僕の好きな人」
 いきなり団子と緑茶をテーブルに用意してから、セロニアス・モンクのCDを司に見せた。
「外国人なんだ……」
 司はCDを両手でつかんで真面目な顔で言う。
「まだ、だまされてるの?」
「えっ?」
「オレオレ詐欺とかに気をつけてね、司……」
 俺だよ俺、アキラだよ。二百万円振り込んでくれない? 司は何の迷いもなく振り込んじゃうんだろうな。勝手に想像しただけなのに心が疲れた。
 司はCDケースを開けて解説冊子を開いた。
「昔の人?」
「モーツァルトほどじゃないけど、もうずいぶん前に亡くなってる」
「これ空だけど、CDは?」
「プレーヤーに入ったまま。かけるね」
 司は頬杖ついて音楽に集中した。少しまぶたを落としてアンニュイな顔でいると、司は本当に格好良い。単純バカになんて全然見えない。僕はいきなり団子を頬張りながら司に見とれた。
「薄暗いバーでかかってそう」
「確かに最初に聴いたのはそういうお店だった。店員は明るいんだけど」
「俺、翼のいつもの演奏の方が好きだ」
 司は再び解説冊子に目をやった。
「この人、何か悩みがあるんじゃないかな。黒人に対する差別も今より激しかっただろうし、色々つらい思いをしてさ。だから音楽もちょっと歪んでるんだと思う。翼とは全然違うよ」
 僕はセロニアス・モンクに励まされてばかりいたから「悩みがある」という司の指摘は意外だった。セロニアスおじさんに悩みを打ち明けられた覚えはない。けれどももしかしたら、司は彼の音楽から別のメッセージを受け取ったのかもしれない。
「悩み」
「うん。翼みたいに幸せな人じゃないよ、きっと」
 司が僕を悩みも苦しみもない人間だと思いたがっているのは知っている。しかし僕の本当の姿を見てくれないことに、さすがに腹が立ってきた。……もう言ってしまおう。
「僕だって悩みくらいあるよ」
「えっ」
 司は真剣な目で僕の顔を覗き込んだ。
「どんな悩み?」
 僕は大きく息を吸い込んで、言った。
「駅前のコンビニで、アキラに会ったんだ」
 司は数秒固まってから、ふだん僕の前では絶対にしない、アキラに肩を抱かれた時だけ見せたとろける笑顔で、
「アキラ、元気にしてた?」
 と聞いてきた。
「アキラがそんなに気になるなら、着信拒否なんてしなきゃいいじゃん!」
 僕の言葉が司の心をすぱっと切った感触があった。再起不能になるまで司を切り刻んでやりたい。欲望が火柱みたいに立ちのぼる。
「司、エイズになってるかもしれない」
「え?」
「アキラが! エイズだったんだって! だから司も」
「それはないよ。俺、検査したから」
 髪を振り乱して怒鳴り散らす僕に対し、司は冷静に言った。
「アキラと会わなくなって三ヶ月後くらいに病院行った。他にも一度ヤバそうなことがあったから」
 他? 全身の血が変な風に巡るのを感じる。
「アキラと別れた後に、誰かとやったの?」
「アキラの前。その後はない。もう一生ないから心配する必要ないよ」
 僕を安心させるように笑って見せた司を、僕はどう思えば良いのか。うまく立っていられなくなり、気付いた時には膝をついて大声出して泣いていた。
「司は僕を、頭からっぽの人間みたいに思ってるけど!」
「からっぽなんて思ってない」
「ずっと、言わなきゃと思って……僕が教えなかったら、司、病気のこと知らないまま、死んじゃうって……」
 セロニアスおじさんの確信に満ちた和音が、僕の背中をぽん、と叩く。
「翼を悩ませていたのは俺だったんだね」
「アキラだよ! 司をこんなに傷付けて、病気の心配までさせて」
「アキラ、一人で大丈夫かな」
 僕が顔を上げると、司は遠くを見ていた。
「医学が進歩して前ほど怖い病気じゃなくなったみたいだけど、それでも不安だろうなって」
「アキラを気遣う余裕なんかない!」
「アキラが病気で苦しんでいると思うと、俺、何か、うまく呼吸が出来なくなる」
 こちらを向いた司と視線が合う。司は「僕用の」微笑みを浮かべた。
「俺、やっぱりまだアキラのことが好きなんだね。認めたくなくて、必死に頭から追い払おうとしてきたけど、どうしようもないんだ」
「知ってるよ、そんなの。今さらって感じ」
「こんなに好きなのにさ、アキラが困ってる時に助けられないなんて、馬鹿みたいだ」
「助けに行けば良いじゃん」
「出来ないよ。俺、絶対アキラに迷惑かける」
 司は自分のカバンからタオルを出して両目にぎゅっと押し当て、しばらく動かなかった。僕は手持ち無沙汰だったから、食べかけのいきなり団子を頬張った。司は震える声で、
「そのいきなり団子って、ヘルシーで美味しいね」
「ヘルシー」
「団子の概念が関東とは少し違うみたいだけど」
「概念」
 司は瞳を潤ませたまま、いきなり団子をもう一個食べた。僕たちはアキラの話なんて一切しなかった振りをして、その後の時間を過ごした。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:22| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その26)

 司に片思いし続けるのも、アキラに伝言を頼まれるのもうんざりだった。司とアキラから離れるにはどうすれば良いのだろう。司がアキラに対してしているように、僕も司からのメールや電話を着信拒否して、アキラと会わないように別の街へ引っ越そうか。
 引っ越すのは簡単だ。母親に、
「ピアノの弾ける部屋に住みたい」
 と言えば良いのだ。喜んで防音設備のあるマンションを見つけてくれるはずだ。僕が電子ピアノしか弾けない部屋に住むことに、母は猛反対していた。
「翼がピアノんなか家で暮らすなんて、海に沈めらるるごた気持ちたい」
 と半泣きになっていた。でも僕は音大に通う訳ではないし、ヘッドホンを付けて自分一人、音の世界に閉じ籠もる感覚が好きだったから、大学からの近さを優先して、演奏禁止の部屋を選んだ。
 実家と同じように居間の真ん中にグランドピアノがあれば、音量なんて気にせずに好きなだけ鳴らせるなら、司を呼んで、司が喜ぶようなメロディを次々奏でて、ピアノの音色を模した電子音なんかじゃなく、僕の打鍵の振動が直に震わせる、瞳を閉じた司のまつげと唇を思い浮かべて、想像なんだから裸にしちゃったって構わないよねって……司と縁を切る方法を考えていたんじゃなかったっけ?
 僕が着信拒否したら司はどう思うのだろう。傷付くのか、大して気にしないのか。孤独に苛まれて本格的に壊れる司が見えるようで、でも実際に壊れるのは僕の方なのかもしれない。

 結局僕は司と連絡を取るのをやめられなかった。時々会ってごはんを食べたり、うちに来てもらって一緒に勉強したり、ピアノを聴かせたり、清く正しく「友達」であり続けた。
 アキラとは不思議なほど会わなかった。久々に再会したのは大学四年の梅雨の日曜日。僕はまたメグさんのスパゲティが食べたくなって、ランチの時間に春樹カフェへ向かった。
 店内に入ると、
「あっ」
 サンドイッチをむしゃむしゃ美味しそうに食べているアキラと目が合った。
「何でここにいるの?」
 僕の声は明らかにアキラを非難していた。アキラは首を傾げ、のんびりと、
「まあ話し始めたら長くなる事情があれこれあるんだが…… とりあえず俺が今ここにいるのは、腹減ってるからだな」
「少し前までは空腹で、今現在は満腹になりつつある」
 アキラの前に座っている人が付け加えた。
「まあ正確に言えばそうだ。それにこの店の食いもんはどれもハズレなしだから」
 頬いっぱいにサンドイッチを詰め込んで、アキラはにっこり笑う。そうだった、この人は性欲だけでなく美味しいものへの欲望もけっこう強いのだった。メグさんの店を見つけて常連になってもおかしくない。自分のサンクチュアリに踏み込まれたようで絶望したが、メグさんの料理は僕だけのものではなくみんなのものだ。仕方ない。
「ねえ、アキラが傷付けたのってこの子?」
 アキラの前の人が頬杖ついたまま僕を指差して言った。
「バカバカバカ、違う違う違う!」
 アキラは焦った様子でその人と僕を交互に見た。深緑色のジャンパーを着た、アキラと親しいらしいその男は、小さな肩を震わせて笑った。
 アキラを本気で好きになってしまった司のことを、この二人は笑いものにしているんだ。怒りで血の気がすうっと引く。殴ってやりたかったがメグさんのお店で騒ぎを起こしたくないし、そもそも僕にはアキラをやっつけるだけの力がない。僕はジーパンをがりがり引っ掻いて耐えた。
「君、可愛いね」
 男の顔を見て、別の意味で血の気が引いた。目の下のくまが酷い。痩せているというより「やつれている」髪も肌もパサパサだ。何よりゾッとしたのは、その賞味期限切れの顔面に、美少年の面影があるところだった。何歳なのか分からないけど、たぶん若くはないのだと思う。格好良いおじさんにも普通のおじさんにもなれず、キラキラ輝いていた過去を想像させながら、どこにもたどり着けない。最初から不細工ならこんなに哀しい気持ちにはならなかったはずだ。
「自分の感情を全然隠せないんだね。大好きな友達のことを思い出すよ」
「七瀬さん? イタッ」
 醜い小男はアキラのおでこを指先でパチンと弾き、僕の方に向き直った。
「失恋したのが君じゃなくて良かった。こんな奴を好きになって傷付くなんてさ、末代までの恥って感じ」
 司を馬鹿にされるのは嫌だったが、末代までの恥には激しく同意だった。
「もしかして君、理系?」
「はい。何で分かったんですか?」
「服がダサいから」
 痛いところを突かれて、僕の顔は真っ赤になったのだと思う。小男はギャハハと嬉しそうに(メチャクチャ腹立つ感じに)笑った。
 僕は男が着ているジャンパーを見た。深緑色の布地は白っぽく色褪せて、袖口は伸びて広がり擦り切れている。僕の水色のパーカーは確かにダサいかもしれないけど、古くもないし破れてもいない。
「優しい顔してるから、生物系かな。ショウジョウバエにバナナ食べさせてそう」
「ハエなんか育ててません! 物理学科です」
「へえ。おれ電子工学科だったから、量子力学好きだったよ。懐かしいな。虚数がないと成り立たない世界」
 目を細めて微笑むその人の顔を、アキラがじっと見つめているのに気付いた。
「克巳。追加で何か頼む?」
「ううん、もう帰る。さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの 人間の世紀末」
 カツミと呼ばれた小男は独り言をつぶやきながら立ち上がった。アキラが二人分の荷物を持って後ろを付いてゆく。身長差があり過ぎて、まるで大人と子供だ。
 支払いをしたのはカツミだった。
「少なくとも僕の店では暴力を振るわないで欲しい」
 周平さんがいつもより低い声ではっきり言った。
「暴力?」
「アキラさんのおでこを叩いただろう」
「は? ただのデコピンじゃん」
「軽い気持ちでやったんだろうけど、相手はちゃんと痛みを感じるんだよ」
 カツミは下を向き、ガンッと音を立ててレジの下の板を蹴った。
「俺、ほんと大丈夫ですから!」
 アキラはへらへら笑いながら扉を押さえ、カツミは高慢ちきなお嬢様みたいに店から出て行った。
 周平さんはすぐに走り寄って来た。
「ごめんね、何か嫌なこと言われたでしょう」
「いえ……」
 遺伝子と電子工学って語呂が良いな。僕はぼんやり関係ないことを考えていた。
「アキラさんと知り合いなの?」
「はい。顔見知り程度ですけど」
 好きな人の好きな人、ではある。しかしアキラがどんな人間なのか、実際のところ全然知らない。
「アキラ、あのカツミって人の下僕みたいでしたね」
 周平さんは叱っていたけど、僕はアキラがデコピンされて清々したのだ。
「恋人同士らしいよ」
「えーっ あの二人が?」
 周平さんは何故か暗い顔でうなずいた。
「アキラのことだから、今だけなんじゃないですかね」
「それなら良いんだけど」
「気になるんですか?」
「見ていて何か感じなかった?」
 僕はあごに手を当てて、カツミの青白い顔と、ボロボロのジャンパーを思い浮かべた。
 周平さんはため息をついて言った。
「普通じゃないんだ、あのカツミという子は」


********************
「さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの 人間の世紀末」は田村隆一の詩集「1999」からの引用です。
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翼交わして濡るる夜は(その27)

 普通って何だろう。男が好きな男という意味では、周平さんも、メグさんも、僕も、司も、アキラも、カツミという人も、みんな普通とは言えないんじゃないか。しかしこれだけ沢山いるのだから、もうそれは普通なのかもしれない。少数派も集まれば多数になって、その中にいる限りマイノリティであることを意識しない。
 アキラにデコピンしたり、レジの下を蹴ったりするからカツミさんは異常なのか。でも僕はアキラにデコピンより酷いことをしてやりたいし、イラッとした時にどこかを蹴ったりぶったりする人を東京に来てから何度も見た。僕はやらないけど気持ちが分からない訳じゃない。
 周平さんに反感を、カツミさんに親しみを感じている自分に気付く。あんなに醜くて痛々しいのに……
 それから日曜日のお昼に春樹カフェへ行くと、必ずと言って良いほどアキラとカツミさんに会うようになった。僕の好意が伝わったのか、それとも単に気に入られたのか、カツミさんは僕を見つけると邪気のない笑顔で手を振ってきた。不健康な今の姿に可愛かった頃の顔が重なって見えて、そのたび胸が苦しくなった。
 アキラはカツミさんを大切にしていた。何より視線が優しかった。カツミさんを煩わすようなことが起きないか、いつもそちらに神経を集中しており、僕にはあいさつをするくらいでほとんど注意を向けなかった。
 ある時、カツミさんは僕の手を握り、
「おれが他の男と仲良くしてるのに、怒らないの?」
 とアキラに言った。
「俺、嫉妬ってよく分からないんだ」
「つまーんなーい」
 アキラは悲しそうだった。カツミさんが求めているものを全部そろえて目の前に出してあげたいのに、何故自分にはそれが出来ないのだろう。そんな瞳でカツミさんをじっと見つめた後、メグさんが作ってくれたサンドイッチを食べた。一口に入れる量が多く、気持ちの良い食べっぷりだった。
 僕たちのやり取りを、周平さんは少し離れた場所から絶えず監視していた。穏やかないつもの表情とは全く違う、キツい目つきが怖かった。
 この三人には僕の知らない深い因縁があるのだろう。とりあえず僕が気にしなければいけないのは、アキラがカツミさんを愛しているということだけだった。
 司は今度こそ本当に失恋したのだ。
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翼交わして濡るる夜は(その28)

「ねえ、これどういう意味かな」
 司はノートを開いて指差した。ちょっとカクカクした司の字が、罫線の上にびっしり並んでいる。神経質なのが一目で分かる書き方だ。

 あるものをXとして見ることは、それがXが行うあらゆる仕方で振舞うことを期待しうるだろうということを見ることなのである。その振舞いがXに期待されていることと一致しないことがわかれば、これ以上それをXとして見ることは難しくなる。

「回りくどい文章だね。何これ」
 僕はテーブルの反対側に座っている司にノートを返した。
「卒論を書くために前に取った授業の復習をしてるんだけど、ややこしくて」
「卒論、何やるの?」
「ブランドの分析」
「ブランドって、洋服とかバッグとかの?」
「高級ブランドだけがブランドじゃないよ。きのこの山もガリガリ君も全部ブランドだよ」
「ふーん……」
 経営学部と理工学部では勉強する内容がずいぶん違うんだ、ということしか分からない。しかしXを使っている所は数学みたいで親しみやすかった。
「一般化されているものは具体的な例を考えると理解しやすくなるよ。例えばXを『きのこの山』に置き換えてみたら?」

 あるものを「きのこの山」として見ることは、それが「きのこの山」が行うあらゆる仕方で振舞うことを期待しうるだろうということを見ることなのである。その振舞いが「きのこの山」に期待されていることと一致しないことがわかれば、これ以上それを「きのこの山」として見ることは難しくなる。

「『きのこの山』の箱を開けたのに、たけのこの形のチョコが入ってたら、もうそれを『きのこの山』として見ることは出来ない、ってことなんじゃないの」
「きのこ派の人たちは怒り狂うだろうね……」
「僕はどっちも好きだけど」
「食べたくなってきた」
 僕たちは勉強をやめて駅前のコンビニに向かった。夏の終わりの涼しい風が吹いていた。
「前にここでアキラに話しかけられたんだ」
「今日は平日だから会わないよ。仕事してる」
 司は「きのこの山」と「たけのこの里」のどちらにするか少し悩み、たけのこの方を手に取った。
「アキラってどんな会社に勤めてるの?」
「公務員だよ。練馬区役所の職員」
 一拍置いて、
「ええーっ!」
 僕は大声で叫んでいた。
「あのチャラチャラしたアキラが公務員! 僕の税金が!」
「翼、税金払ってるの?」
「消費税とか! 巡り巡ってアキラの給料になってるんじゃないの? よく知らないけど……」
 社会の仕組みについては小学生より無知だ。興味のないものは聞いてもすぐに忘れる。
「俺、そんなに驚かなかったけどな。アキラが区役所に勤めてることを教えてくれた時」
「あのアフロヘアで区役所に通ってるんだ……」
「天然パーマなんだよ。切るとパンチになるって」
 アキラの話をすると、司の声と表情はどんどん甘ったるくなっていく。
「性格も真面目だし」
「どこが!」
「恋人を作らないのも、考えようによっては誠実だと思うんだ。相手を束縛しないで、お互いの自由を尊重しながら関係を保とうとするんだからさ。俺は合わせられなかったけど……」
 僕は一度取り出したハーゲンダッツのいちご味を、冷凍庫に戻した。
「やっぱりアキラは誠実じゃないよ」
「俺を傷付けたから?」
「ううん」
 目をつむって深く息をし、言った。
「アキラには恋人がいるんだ」


********************
「あるものをXとして見ることは……」は田中洋「企業を高めるブランド戦略」の中で引用されている、ノーウッド・ハンソン「知覚と発見」の文章の引用です(ややこしい)
posted by 柳屋文芸堂 at 02:20| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その29)

 たけのこの里を少し分けてもらって食べてから、アイスも買うべきだったと後悔した。
「続きは家で聞かせて」
 と言った後、司は上の空だ。僕はあんまり得意じゃない(でも卒業研究でやらなきゃいけない)プログラミングについての本をパラパラとめくって、閉じた。司はさっき僕に見せたノートを眺め続けている。
「俺、アキラが粉々になっても、アキラをアキラだと思うと思う」
「は?」
 司は切羽詰まった早口で続ける。
「例えばアキラが死んで『これがアキラの骨ですよ』って言われたら、それを見て泣くと思う。もし『間違えました。それは別の人の骨です』って言われたら」
 司は虚空をにらむ。
「俺は何に対して悲しんでいるのだろう?」
「アキラなんていないんだよ」
 僕は適当に言った。
「恋人と一緒にいるところを見たけどね」
 司が混乱すれば良いと思った。認識をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、アキラの記憶を消してしまえたら。アキラの概念を歪めて、司がアキラをアキラととらえられなくなれば。
 もちろんそんなことは無理に決まっている。僕だって光一を忘れたりしない。光一が僕を愛していたのか憎んでいたのか、まるで知らないにもかかわらず。
「アキラに恋人が出来たことは、嬉しいんだ。自分にはやれないことを成し遂げた人がいるんだな、って。羨ましいけど、悔しくはない」
 僕を見つめる司の瞳が潤んでゆき、しかし鼻をすんと鳴らすだけで泣きはしなかった。
「俺もこんなに弱くなければ、アキラを支えられたのに」
 カツミさんはアキラを支えるというより「従えてる」って感じだけど。滅びた王国の騎士と姫君。甲冑姿のアキラと、長いドレスを着たカツミさんが脳裏に浮かんだ。騎士は街じゅうの鏡を破壊する。姫君が、醜くなってしまった自分の顔を、うっかり見てしまわないように。
「こんな奴を好きになって傷付くなんてさ、末代までの恥って感じ」
「俺、ほんと大丈夫ですから!」
「普通じゃないんだ、あのカツミという子は」
 誰かを好きになる時、その人の何を好きになるのだろう。それは時が経っても変わらないのだろうか。気持ちだけが取り残されることはないのだろうか。
posted by 柳屋文芸堂 at 02:19| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その30)

 母親が電話口で息を切らし、
「木山先生が」
 と言った瞬間、僕の体は次に続く言葉を勝手に予測し、心臓がきゅうっとなった。
「施設に入らすて」
「死んだんかと思ったー!」
「体はお元気そうばってんが……」
 母は少し考えるような間を置いた。
「死って何だろか」
「そぎゃん急に哲学的なこつ聞かれても」
 母は再び無言になる。さっきより長い。
「木山先生の心臓はまだ動きよる。足腰も丈夫で、買い物に行こうとして迷子になってしまうとよ」
「認知症、悪化してしまったとね……」
 会うたび話のつじつまが合わなくなっていくのは感じていた。でも最後に会った時にはまだ一人で生活出来ていた。
「顔つきも変わってしまわして、いつもぼんやりしとって、不安そうで…… かつての木山先生はもうおらん気がする」
「心が先に死んでしまったってこと?」
「死んだというか、別のもんに入れ替わりよるごた…… ばってん」
 母は急に笑い出した。
「木山先生、翼んこつは忘れとらんばい」
「僕の話ばしとったと?」
「夜になっと翼さんが窓から入って来て、ピアノば弾いてくるるて。何の曲ば弾いたと?」
「ベートーヴェンの『月光』」
 母親は大笑いした。
「サンバを踊り始めるベートーヴェン!」
「僕、木山先生の家になんて行っとらんよ」
「分かっとるばい。先生ん頭ん中ではもう、現実と幻想ば隔てる壁が壊れてしもうて、だけんあたにも羽根が生えて、距離も気にせんで東京から熊本まで飛んで来る」
「先生、ピアノん弾き方も忘れてしもたっだろか?」
「それは大丈夫。遠い、たどり着けん場所への憧れに満ちた音楽が、いつでん聞こえてくるけん。前より弾く時間が増えたかもしれん」
「良かった」
「私、家族ん顔も自分ん名前も全部忘れてしもたとしても『熱情』の弾き方は体から消えんと思う」
「僕も『熱情』ば弾けんお母さんなんて見たくなか」
「木山先生の入る施設に、ちゃんとしたピアノはあっとだろか?」
 母の声は震えていた。木山先生がピアノのない暮らしをすることになるかもしれないと思うと、僕も泣きそうだった。

 木山先生のところに通っていた生徒はそれほど多くない。僕と、木山先生と同年代のおばあさんと、不登校らしい年上の女の子。お姉ちゃんは最初から別の教室だった。
 僕はよく木山先生とおばあさんの前でミニコンサートをした。
「モーツァルトんごたるね」
 と二人がはしゃぐから、僕はウィーンの宮殿に呼ばれた天才少年になり切って「トルコ行進曲」や「きらきら星変奏曲」を弾いた。
 女の子とはほとんど会わなかった。偶然同じ日にレッスンがあっても、僕が部屋のドアを開けた途端にぴたりと演奏をやめて、逃げるように帰ってしまうのが常だった。
「神経の細か子だけん。悪気はなかけん気にせんで」
 僕はその時「神経」と「悪気」という言葉を覚えた(しかし今でも不思議な単語だと思う)
 それから僕は、彼女がレッスンに来ていると気付いたら物陰に隠れるようになった。体が小さかったからどこにだって入り込めた。観葉植物の裏とか、掃除用具が収納されている棚の中とか。
 壁を挟んでくぐもったピアノの音が聴こえる。「トロイメライ」彼女の演奏はぎこちなく、どこかに帰りたくなるような旋律の空気を表現出来ていなかった。
「気に入った音だけ弾いてみなっせ」
 木山先生がそう言うと、彼女はトロイメライで使われていた音を分解し、前後もリズムもバラバラにして、別の音楽を奏でた。音楽と呼ぶには滑らかさが欠けていたかもしれない。しかしそれは元の曲とは比べ物にならないほど、彼女の心を表していた。顔を見るよりくっきりと、彼女の輪郭が浮かび上がった。
 こんな風に好きな音だけ鳴らして良いんだ。ピアノでは必ず知っている曲を弾かなければいけないのかと思っていた。心の中で暴れているこのうねりを、音の形にして外に出しても構わないんだ。
 僕は作曲のやり方を知ったというより、まだこの世に存在しない音楽を奏でても良いと、木山先生に許してもらったのだ。おそらくそれは、クラシックの名曲に魂を捧げているお母さんやお姉ちゃんには、絶対に出来ないことだった。

 大学卒業後、僕は大学院に進学し、司は飲料メーカーに就職した。お互い新しい環境に慣れた頃に、司の会社のそばにある店で一緒に食事をすることになった。スーツ姿というだけで眩しくて直視出来ないのに、
「翼に好かれるようにおじさんっぽくしたよ」
 なんて言っていたずらっぽく笑うから、顔がかぁっと熱くなって言葉を返せなかった。
「どこがおじさんなのか分かる?」
「え?」
「背広の裾を長くしたんだ。最近は短いのが流行りですよってお店の人に言われたんだけど、父親に似たシルエットじゃないと納得いかなくてさ」
 なんだ。それ別に僕のためじゃないじゃん。僕はがっかりしつつホッとした。
「司のお父さんはサラリーマンなの?」
「そうだよ。証券会社だからバブルの頃は良かったってよく嘆いてる」
 僕は子供の頃から「サザエさん」に出て来るマスオさんとアナゴくんが会社で何をしているのか知りたくてたまらなかった。机の上の紙には何が書いてあるのだろう。彼らはそれをどんな風に使ってお金儲けをしているのか。
 マスオさんが勤めているのは商事会社だっけ、と尋ねたかったが、司は「サザエさん」も怖がると思い口をつぐんだ。
「翼のお父さんは学者さんなんだよね」
「そう。だから背広を着てもサラリーマンみたいにパリッとしない」
「サラリーマンに憧れるって面白いよね。会社なんて仕方なく勤めるものだとばかり思ってたよ」
 僕は司の、まだ新しい灰色のスーツの袖口を見た。司は毎日嫌々ながら働いているのだろうか。
「仕事、大変?」
「大変になるようなことまださせてもらえないよ。バイトしてた時より貯金が増えて嬉しい」
 司は「いつもお世話になっているから」と言ってその日は奢ってくれた。スーツ姿の司は明るく元気そうに見えた。
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翼交わして濡るる夜は(その31)

 その年のクリスマス、司は高級レストランを予約して豪華なディナーがしたいと言い出した。その後やれる訳でもないのにカップルのデートみたいなことをするのは馬鹿馬鹿しかったし、どんな高級な店でもメグさんの料理の方が絶対美味しいに決まっている。しかし春樹カフェへ行けば、アキラたちと鉢合わせする可能性が高い。
「そのディナーに使うお金でさ、チーズフォンデュ用の鍋買ってくれない?」
「チーズフォンデュか…… 食べたことない」
「実家で時々やってたんだけど、こっちに来てからは道具がなくて」
「良いよ。何か楽しそう」
 僕たちは午前中から買い物に出て、チーズフォンデュ用の鍋とコンロ、それに野菜やパンを買ってきた。チーズはスイスのエメンタール。チーズを溶かすのと飲むために、白ワインも二本用意した。
「じゃがいもは茹でてから皮をむく!」
「あっつ! あっつ!」
「火傷しないようにね」
 司と一緒に料理するのは楽しかった。ライ麦パンとじゃがいもとにんじんとブロッコリーを一口大に切る。それらを串に刺し、ふつふつと香り立つとろけたチーズに突っ込む。
「じゃがいもがチーズの中で崩れた!」
「スプーンで回収して」
「チーズが、伸びるー」
 僕が糸引きチーズをパンにからめている間に、司はスプーンを口に入れた。
「あぐっ」
「口の中火傷しないようにね」
 僕たちはふだんそれほどお酒を飲まない。しかし熟成されたチーズの味は恋するように狂おしく辛口ワインを求めるようで、二人とも飲み過ぎて肌が真っ赤になった。
「翼、手まで赤い! 大丈夫?」
「司だって赤いよ」
 僕は優しい友達のふりをして、司の左のてのひらに触れる。
「じゃがいもの皮むいた時に火傷しなかった?」
「手より口の中が少し痛い」
「慌てて食べるから」
「美味しくて我慢出来なかった」
「単純な食べ物だけど、最高だよね」
 いつものように二人で大きなクッションに寄りかかる。司が手を握ってきて驚いた。でもすぐに、寂しいのかもしれない、と思った。
「翼ってさ、今、恋人いるの?」
「いないよ」
「もしいたら、俺のこと嫌がるだろうな」
「どうして?」
 司は答えずに、握った手を床にコンコンと軽くぶつけた。
「クリスマスの時期って、世界中から責められてるような気持ちになるんだ」
「司、異教徒?」
「異教徒って何!」
 司は酔っ払いらしく無意味に大笑いし、止まらなくなった。
「大学はキリスト教系だったよ。宗教の授業が必修でさ、知識としてはへーって思ったけど、信者になるほどじゃなかった」
「やっぱり異教徒だ」
「翼はクリスチャンなの?」
 僕は光一が書いた罪と罰の記事を思い出した。あの話の意味は今でも分からない。
「違うよ。僕の神様は水木しげるだけ」
「妖怪教。多神教の一種だろうね、きっと」
 あずきとぎや豆腐小僧はどんな願いを叶えてくれるのか。神様と呼ぶには能力が限定的過ぎる気がした。
「キリスト教は同性愛を禁止してるけど、そのせいで悩んでる訳じゃないんだ」
「キリスト教の国の方が同性婚を認めてるしね」
「もっと大きな…… 恋愛するのが当たり前の世界。誰かと親しくなって楽しく過ごすのなんて簡単。そういう空気が辛くなる」
「クリスマスの時期は特に強くなるよね。でも恋愛は簡単なことなんかじゃないよ。物理学よりも、たぶん経営学よりも、難しいって」
「出来なくても叱られない?」
「誰が叱るの」
「自分だろうな」
 酔った勢いで司を押し倒せたら良いのに。どれだけアルコールが回っても僕の中心はしんと静かで、司の寂しさがホレおばさんの雪みたいに降り積もり、ああ、これは、僕自身の寂しさなんだ。
 司がフフフと笑い出した。
「俺、今、神様と一緒にいる」
「どうしたの? 変だよ。酔い過ぎ」
「翼は俺の神様だから。ちゃんと救ってくれた」
 司は再びグレードアップしたらしい。友達からファンへ。ファンから信者へ。
「神様、懺悔します! 射精するより泣いてる方が気持ち良いです!」
「それ別に罪じゃなくない?」
 司は笑い続け、目から涙が流れて、それをつないでいる僕の手の甲でこすった。濡れたところがひんやりする。
「翼の前では泣かないって決めてたけど、クリスマスだから許して」
「好きなだけ泣けば良いよ。タダなんだし」
「タダ最高!」
 司は笑いながら僕のベッドに入り、すぐ寝てしまった。
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翼交わして濡るる夜は(その32)

 ベッドのそばに布団を敷いて横になっても、司ほど早く眠りに落ちることは出来なかった。明日、司が今夜のことを思い出して落ち込むのではないかと心配だった。
 翌朝、司が歯を磨く音で目を覚ました。
「昨日俺、何もしないで寝ちゃったね」
「けっこう酔ってたよ。二日酔いじゃない?」
「全然平気。ワイン美味しかったなぁ〜 チーズフォンデュも!」
 司が鼻歌を歌い出しそうなくらいご機嫌だったのでホッとした。
「さらに美味しいものがあるから。司の口に合うか分からないけど」
 僕は濃いめのミルクティーを作り、母親が送ってきたシュトーレンを切った。
「甘っ! 表面が白いのは全部砂糖だったのか」
「甘過ぎる?」
「大丈夫。しかし翼の家に毎日いたら確実に糖尿病になるな」
「こんな高カロリーな食事をするのはクリスマスだけだよ」
 司はシュトーレンを覆っている粉砂糖をペロッと舐めてミルクティーを飲み、二人で笑った。
「恋人がいなくてもクリスマスを楽しめるって分かって良かった」
「もともと家族で過ごす祭日だよ。日本のお正月に近い」
「異教徒なのに詳しい」
「親から聞いてるから。ドイツのお正月は爆竹鳴らすんだって」
「中国みたいだね」
 司のリクエストに応えてピアノを弾き、また大きなクッションでのんびりして、夕方になる前に司は家に帰った。
 夜、塾のバイトを終えて寝る準備をしている時に、見覚えのない小さな箱が落ちているのに気付いた。深緑色の包装紙を開くと、ネクタイピンが入っていた。艶消しの銀色で、どことなく優しいデザインだった。
 僕はすぐに司にメールした。

 ネクタイピンありがとう!

 今頃気付いたの?

 ごめん。僕、プレゼントのことすっかり忘れてた。

 翼よりすごいプレゼントくれる人なんて、世界中どこを探したっていないよ。

 ありがとう、と打ちながら、僕はもう一生セックス出来ないのだろうなと思った。司はずっと泣き続けていたいみたいだし、僕は司以外としたいと思えない。性欲が有り余って初対面のおじさんとやっちゃった僕が、こんなにストイックな人生を送ることになるなんて。
 ハッと気付いた。どれだけ寂しくても、僕は誰とでもやれる訳じゃないんだ。それはつまり、光一のことが好きだったということなんじゃないか。
 裸で抱き合って一番気持ち良くなっている最中に、光一の耳元で「好き」と言ってあげれば良かった。「少年」から告白されて、光一はきっと意味不明の文章をブログに書くだろう。苦悩や逡巡がごちゃごちゃ混ざりつつ、基本的には明るく幸せな記事になるはずだ。
 光一が抱いている少年はもう、僕ではないような気がした。僕は賞味期限切れで、僕を愛する可能性のある人は毎秒ごとに減ってゆく。
 さよなら。心で小さくつぶやいて、僕は司が寝ていたベッドで眠りについた。
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翼交わして濡るる夜は(その33)

 就活用のスーツは恐ろしく似合わなかったけれど(まるきり七五三だった)幸い採用担当者は外見以外も見てくれたようで、修士二年の春のうちに内定が出た。司にもらったネクタイピンを付けて、時々相談にも乗ってもらって、僕は先に社会人になっていた司をずいぶん頼りにしていた。
「決まったよ」
「マジで? 理系すごい」
「頑張った僕を褒めてよ」
「院卒すごい」
「まだ卒業してない」
「いやほんと、俺の就職活動はもっと時間かかって大変だったよ。日本は科学技術の国なんだなぁ」
 司が「おめでとう」と言ってくれなかったから、僕も「ありがとう」と言えなくて、ちょっとムッとした。僕の就職活動だって僕なりに大変だったし不安だった。日本の主要産業なんてどうでも良い。
 就活中に何度か七五三の格好(紺のスーツ)のまま春樹カフェに行った。周平さんとメグさんは何も聞かず、見た目をからかうこともなく、いつも通り美味しい料理を出してくれた。二人に内定を報告したらきっと喜んでくれる。僕は春の終わりの夕暮れに、店のドアを開けた。
 メグさんが厨房ではなく客側のカウンター席に座って、泣いていた。高めではあるけれど男の声で、泣き方は過剰に女性的で、僕は知らない楽器を見るように、ほとんどにらむくらいの強さでメグさんを凝視した。
 周平さんが駆け寄ってきた。
「ごめん、そのうち落ち着くと思うけど、料理をすぐ出すのは難しそうだ。飲み物なら」
「メグさん、どうしたんですか」
 周平さんは暗い顔で言い淀んだ後で、何かに気付いたらしく僕の目を見た。
「君は克くんに気に入られていたね? アキラさんの恋人の」
「はい。……え?」
 カツミさんのパサパサな髪や、目の下の青黒いクマが頭に浮かんだ。擦り切れたジャンパーの袖口。遺伝子と電子工学。
「あの子が死んだんだよ」
 僕は一拍置いて叫んだ。
「用事を思い出したので帰ります!」
 店を飛び出て新宿三丁目の雑踏の中を、どうにか電話で話せる静かな場所はないかと小走りで探し回りながら、春樹カフェでかかっていた音楽のことを考えていた。終わりのない階段を延々と下り続けるような曲。ああ、あれは「ノルウェイの森」だ。いつもはジャズをかけていることが多いのに、何でビートルズなんか。
 空き店舗のシャッター前に小さな空間があるのを見つけ、僕は司に電話した。
「千載一遇のチャンスだよ!」
「せんざい? 洗剤がどうかしたの?」
「馬鹿! そこはどうでもいい! チャンスなんだよ。アキラの恋人が死んだんだ!」
 自分の声がらんらんと明るく響くのを感じる。
「恋愛にテクニックというものがあるとすれば、傷心に付け込んでかっさらうのは基本中の基本だよ」
 僕は出来なかったけど。司は何も言わない。
「さすがのアキラも絶対傷付いてる! カツミさんのこと、メチャクチャ愛してたんだ。見てれば分かった。世界にたった一つの宝物みたいに大切にしてた。そんな人が死んだんだよ? 今なら大魔王だって犯せる! 病気がうつらないようにさ、行きにコンドーム買っていきなよ。ローションも!」
 一息で言ったから苦しくて一回深呼吸した。
「聞いてる? ただ泣き続ける方が司はラクなのかもしれないけど、やっぱりこのままじゃダメだよ。この先何十年も『恋愛怖い』って言いながら、セックスしないで生き続けるなんて虚し過ぎる。少なくとも僕は嫌だ。ちゃんとアキラに好きだって言って、やってきな! あの日みたいに!」
「なんか…… よく分からないんだけど、アキラの恋人が亡くなったんだよね」
「そうだよ!」
「じゃあアキラ、落ち込んでるだろうね」
「心配してるふりして、優しいふりして、ぎゅうっと抱き締めるんだ。後のやり方は自分で考えて」
「でも俺」
「臆病風に吹かれて僕の家に来たりしちゃダメだからね。間違いなくアキラの家に行くんだよ。もう二度と、僕のところには来ないで」
 返事は聞かずに通話を切った。

 これは司のチャンスであり、僕のチャンスだ。アキラの隣に強力なマイナスの席が用意されたのだ。
「ここ空いたよ」
 ひらりと椅子から立ち上がるカツミさんが見える気がした。その席に司をなんとか押し込めて、僕は自由にならなければいけない。
 司と会えなくなった後、自分はどうなるのだろう。考えてみても上手く想像出来ない。司と頻繁に連絡を取り合い、会いたくなったらすぐ会う日々が当たり前になっていた。寂しい・苦しい・悲しい、という単語を頭に浮かべてみても、それはただの言葉でしかない。未来の日々は真っ白で、誰も、自分さえもいなかった。
 自宅に向かう電車の中でようやく落ち着いて、カツミさん、亡くなったんだな、と思った。最後に春樹カフェで会った時には、生きていて、笑ったり歩いたりしゃべったりしていた。当たり前だ。でももう心臓は止まり、体は動かない。呼びかけても何も答えない。
 メグさんはどうしてあんなに大泣きしていたのだろう。カツミさんと特別仲良くしていたか、思い出せない。僕の目からは全く涙が出そうになくて、僕は本当に冷たい人間なんだと思った。みんな僕が優しいと勝手に勘違いする。顔がのんきなのは性格と全く関係ないのに。
 カツミさんはいつ会っても不健康そうだった。何か病気……エイズ? アキラがうつしたのか、カツミさんがアキラにうつしたのか……
posted by 柳屋文芸堂 at 02:12| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その34)

 外で夕飯を食べてくれば良かったと、家に着いてから後悔した。母親が送ってくれた野菜でアイントップを作ることにした。実家でそう呼んでいただけで、単なる具沢山スープだ。じゃがいも、ソーセージ、にんじん、ベーコン、カリフラワーを切り刻み、大きな鍋に湯を沸かして次々投入してゆく。これを作っておけば数日間はパンを買ってくるだけで生きてゆける。飽きたらカレー粉で味を変えれば良い。
 これ以上具を入れたら煮こぼれるなというところでフタをし、火を弱火にした。テーブルの椅子に座り、時々アクを取ったりしながらぼんやりする。
 玄関のチャイムが鳴った。司だ。ふだんは聞こえない自分の心臓のドキドキが教会の鐘みたいに響き渡る。チャイムは短い間隔で三回、四回と繰り返され、宅配便の可能性は消える。あんなに強く言ったのに。きっと僕は心の奥で司を待っていた。だから空腹で力が出ないのに、二人で食べられるアイントップなんか作ってしまったんだ。
 居留守を使うべきだろうか。司に会いたかった。司と離れたくなかった。でもここでドアを開けたらカツミさんがくれたチャンスが水の泡になってしまう。
 一つの可能性が心をよぎる。僕がドアを開けなかったせいで、司が自殺をしたら。アキラのところへ行ってやれたとしても、アキラの心はカツミさんのものだ。そのことに司が耐えられなかったら。司はきっと冷静さを失う。恋をしているから。
 僕はあくまで人道的な見地によって、玄関のドアを開けた。はたして司は怖い顔をしてうつむき立っていた。
「もう、来ちゃダメだって……」
 次の瞬間、自分がどうなっているのか分からなくなり混乱した。僕は壁に体を押し付けられてキスをされていた。いやキスというより唇で唇を圧迫しているという感じだ。司は舌を前歯に引っ掛けて口を開けようとしてくる。僕は自分の歯で司の舌を傷付けるのが嫌だったから大きめに歯と歯の間を開いた。司の舌が僕の口の中でがむしゃらに暴れる。
 何なのこれ? アキラを犯せと言ったのに、家、間違えてる? これはキスなんだろうか。鼻が詰まっていたら窒息していた。風邪ひいてなくて良かった。僕の頭が「?」と雑念でいっぱいになっている間に、司は僕のベルトを外し(恐ろしく手際が悪い)ズボンと下着を下ろし、口に入れた。
 こちらはそんな気分じゃない上に火にかけたままの鍋も気になり舐め方も下手で全然反応しない。司は小さな声で、
「なんで……?」
 とつぶやいた。いや、こっちが聞きたいよ! 試しに司のを触ったら硬くなっている。もしかして、アキラの家で性的に興奮するドラッグを使ったのでは。
「仕方ないなぁ、もう!」
 僕は(手際良く!)司の服を脱がせ「昔取った杵づか」でささっと口でいかせた。司は泣き出すようなかすれた声を上げた。抱き締めると手足をきつくからめてきて、すぐに寝息を立て始めた。
 いったい何なんだこの人は。僕は服を着て手を洗い、鍋を見に行った。吹きこぼれることなく泡立ちながら野菜は平和に揺れている。ベッドから布団を持ってきて、下半身丸出しで床に寝ている司にかけた。
 いったい何が起きたのだろう? 司がアキラとやってからここに来たのだとしたら…… 気持ち悪くなって顔をしかめた。口でしたのは軽率だった。手を使えば良かった。エイズの心配もある。どうやって感染するんだっけ。
 司とやりたいとずっと願っていた。僕が寂しい夜に何度も何度も空想したのはこんな行為じゃない。カツミさんのクスクス笑いが聞こえる気がした。セックスなんて一人でするのが一番だよ?
 鍋に塩を入れて黒胡椒を振り、洗面所へ行って歯を磨いた。うがいを口が痛くなるほど繰り返しているうちに涙が出てきて止まらなくなり、顔も洗った。唇や舌が麻痺し、アイントップの味見をしても、それが正しい味なのか何なのか分からなかった。
「翼」
 突然、後ろから抱き締められ、ギャーッと叫んだ。
「火を! 使っている人を! おどかさない!」
「ごめん」
「パンツはいて!」
「あっ」
「手も洗って!」
 布団をめくり自分の服を探す司の背中に向かって、僕は、
「出て行け!」
 と、言うことが出来ない。
 僕が泣いてることなんかお構いなしに、司は馬鹿みたいな笑顔で聞いてくる。
「何作ってるの?」
「ドイツ風だご汁」
「何それ! でも良い香りしてる」
 全く納得いかなかったけれども、アイントップをおわんに注いでテーブルに並べた。
「野菜がやわらかくて美味しい」
「長く煮てたから……」
 味見で調節しなかったのに、ちょうど良い塩加減だった。舌の感覚は元に戻っていた。
「司、良くないよ。ドラッグなんて」
「ドラッグストアには寄らなかったよ。電話で色々買っていくよう言ってたけどさ」
 話がかみ合ってない。そもそもこの人と話がかみ合ったことがどれだけあったろう。
「アキラには会ってきたよ。意外と普通に話せるものだね。あんなに長い間、悩んでいたのに」
 司はスプーンにアイントップの具を山盛りにし、目を細めた。
「それで、アキラとやったの?」
「たぶん人に言っちゃいけないことだから、アキラ本人にこの話はしないで欲しいんだけど」
 僕は顔を上げた。司はおかわりして二杯目のアイントップを見ながら言う。
「アキラ、もう勃たないんだって」
「カツミさんが亡くなってから?」
「ううん、病院でHIVに感染してるって言われて、その後ずっと」
「薬の副作用?」
「分からない。治療しないのか尋ねたら、治したいって気持ちもないんだって笑ってた」
「事実上の引退宣言」
 司は吹き出した。
「翼って急に変なこと言うよね。スープ飲んでるのに」
「ごめん。アキラ、そんなに落ち込んでなかったんだ」
「ううん」
 司はテーブルの端っこの、何もない空間を見つめた。
「カツミさんの写真が飾ってあったんだ。自分には出来なかったことが、この人には出来たんだ、と思ったら悔しくなって、ちょっと乱暴にその写真を手に取ったんだ。そしたら」
 司の目が、見たことのない感じに潤んだ。
「『破らないでくれ!』って叫んで、泣き崩れて『カツミの体、まだこの世にあるのに、会いに行けない』って」
「カツミさんの」
 死体、と言いそうになり、慌てて適切な言葉を探す。
「遺体は部屋になかったの?」
「たぶん家族のところだよ。アキラとは結婚している訳じゃないし」
「僕たち、差別されてるんだねぇ」
「しみじみ言うことじゃないよ」
「ふだんあんまり気にしないから」
「翼はそうだろうね」
 僕が首を傾げると、司は僕の目を見て微笑み、アイントップを飲み干した。
「どうにかしてあげたかったけど、解決方法を思い付かなくてさ。前に翼が俺にしてくれたように『寝れば辛いことも遠くなる』って言ってベッドに寝かし付けたんだ。それからここに来た」
「僕の所に来ちゃダメじゃん」
「そうだね。アキラ、目を覚まして一人だったら余計に寂しいね」
 いや、そういうことじゃなく! 司との会話にイライラしつつ、僕もアキラのことが少し心配になってきた。
「二人で会いに行こうか」
posted by 柳屋文芸堂 at 02:10| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その35)

 家を訪ねても良いかメールで確認すると「今、この店に向かってる」と住所と店名が送られてきた。ネットで検索してみたら、ゲイバーではない南欧風のバルだ。
「隠れ家系の雰囲気」
「気晴らしに出かけたのかな」
「それにしてはちょっと遠いね。新宿で乗り換えなきゃいけない」
 最寄り駅は代々木上原。僕たちも電車で向かうことにした。さっきの変なキスみたいのは何だったの、と尋ねたくても外では出来ない。
「翼が来たらアキラ、きっと喜ぶよ」
「そうかなぁ……」
「俺と二人だとほんと、お通夜で。戦場で死体があちこちに折り重なっているのを見ても、翼だけはニコニコ笑ってそう」
「それはもはや敵だよね」
 バルは駅から十分ほど歩いた場所にあった。入り口の木の扉は潮風にさらされたようにざらっとしている。海辺の店というコンセプトなのだろう。
「住宅街で浮いてるね」
「隠れ家なんだか目立ちたいんだか」
 扉を開けると、薄暗い空間にソファーが並んでいる。しかしそこではなく、カウンター席の方にアキラの背中があった。近付いてゆくと、アキラより先に、隣に座っている人がこちらを向いた。
 僕はその瞬間まで「一目惚れ」というのは都市伝説か何かだと思っていた。見ただけで恋に落ちるなんて、実際にはある訳ないと。しかしその人は、筋肉質で背が高いとか、顔が渋くておしゃれだとか、そんな相対的でたわいない長所など吹っ飛ばしてしまう、絶対的に光り輝くおじさんだった。
 僕はそのままひざまずいて、爪先にキスをしたいくらいだった。そういう芝居がかった動作が似合う、派手な美男子なのだ。
「お前、他のことなんてもうどうでも良い、って顔になってるけど、この人、奥さんいるからな!」
 焦った声でアキラが言う。
「覚悟の上です」
「覚悟まで決めてる!」
 男は足を組み直し、頬杖をついて微笑んだ。全ての動きが計算されたように美しい。
「悪いな、お前の取り巻きを奪ってしまって」
「取り巻きじゃないです。友達ですよ。二人とも俺のこと心配して来てくれたんです」
 アキラと僕は友達だっけ、と一瞬思うが、そんなの本当にどうでも良い。僕の視界には隣の美しいおじさんしかいない。
「俳優さんですか?」
「テレビドラマや映画に出たことはない。演じることは時々ある。生きるために」
「こちらは七瀬さん。カツミの大学時代の同級生で、本業は研究者なんですよね」
「僕の父と母も、熊本大学で教授をしています!」
 共通の話題! 僕は七瀬さんに気に入られたくて必死に食い付く。
「ほう、すごいな。俺は一生教授にはなれないかもしれない。講師になれただけでもありがたく思ってるんだ」
「何を研究されてるんですか?」
「日本の伝統演劇。専門は歌舞伎だが、能の方が性に合っていて好きだ」
「僕、子供の頃、父親に連れられて水前寺公園の能を見に行ってました。外国で日本オタクに出会っても困らないように」
「翼、ここに何しに来たんだよ?」
「え? 七瀬さんを口説きに」
「残念ながら今日は時間がないんだ。アキラをカツミの家に連れて行かないといけない」
「アキラ、カツミさんに会えるんですか?」
 この店に来て初めて司が声を出した。
「俺が会わせる。母親は大体の事情を理解している。他の親戚がどう考えているかまでは分からない。侮辱を受けるかもしれない。それでも構わないんだな?」
「はい」
「俺の副業の話はするな。俺のためじゃなくお前のためだ」
「はい」
「七瀬さん、時間が出来たら一緒に能を見に行きましょう!」
 どうして僕はこんなに必死に七瀬さんを誘っているのだろう? ああ、七瀬さんの隣にも強力なマイナスの席があるのだ。そこは座っちゃダメ、というカツミさんの声が聞こえる。知るか。死んじゃった方が悪い。
 七瀬さんは黒い大きなカバンから名刺を取り出し、僕にくれた。かつて第一志望だった(でも落ちた)大学の名前が、古めかしいフォントで印刷されている。真ん中には「七瀬耕一」
 こーいち。
「前の彼氏と同じ名前だ」
「もしお前が嘘つきでないなら、そこに書いてあるアドレスにメールをくれ。ここの店のレモンチェッロは美味いから飲んでいくと良い。じゃあな」
 七瀬さんは一万円札をテーブルに置き、キャラメル色の薄いコートを羽織ってアキラと店を出て行った。コートの裾が描いた乱れのない楕円軌道と、形の良い大きな瞳が僕に送ったウィンクが、残像としてしばらく胸に残った。
「ウィンクする人って…… 現実にいるんだ」
 司が呆然とした声で言った。
「講師ってそんなに給料良くないんだよ。この一万円には十万円くらいの価値がある!」
「副業…… あの人、ホストなんじゃないかな」
「そっか。おばさんたちからお金巻き上げてるなら心配いらないね」
「いやいやいや」
「とりあえず注文しようよ」
 奥の団体客の相手をしていて僕たちの入店に全く気付いてない様子の店員さんに声をかけ、司はレモンチェッロ、僕はオレンジチェッロを頼んだ。
「翼、あのホストみたいな男にメールするの?」
「うん。デートしてくれるのかなぁ」
「お金を取られるかもしれない」
「バイト頑張るよ。ちょうど就職活動も終わったところだし」
「翼は田舎育ちのお坊ちゃんだから知らないだろうけど、東京には怖い人が沢山いるんだから」
「全くだよねぇ……」
 どんな凄腕のホストだって、司ほど深く長く僕を苦しめたりはしない。オレンジチェッロは甘く、香りが良くて、でもしっかりとお酒だった。飲みやすいからとぐいぐい飲んだら危ない味だ。
「ダメだよ、翼。あんな人のところに行っちゃダメだ……」
「レモンチェッロ美味しい?」
「美味しい。言われた通り美味しいのが腹立つ……」
 深刻に言う司がおかしくて、僕はきまぐれな猫みたいに体を寄せて、笑った。
posted by 柳屋文芸堂 at 02:07| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その36)

 僕は本当に七瀬さんと能を見に行くことになった。待ち合わせ場所の千駄ケ谷駅に行くと、七瀬さんは着物姿で待っていた。
「すみません! この格好じゃ能楽堂入れませんか?」
 普段着のTシャツとパーカーで来てしまったので、焦った。
「能楽堂にドレスコードはない。俺が和装なのは単なる趣味だ」
「烏帽子をかぶっていくべきかな、ってちょっと考えたんですけど」
「後ろの席の人に迷惑だろう」
 七瀬さんは真面目に答えた後で、ふふ、と笑った。着物姿なのもあって死ぬほど格好良い。頭がクラクラした。
 アキラほどではないけれど背が高く、品の良い青色の着物も目立って、すれ違う人たちもみな七瀬さんを見る。日没直後の夜空のような幻想的な青。宇宙が歩いているみたいだ。
「お前が熊本出身だというから九州の織物にした。熊本ではなく博多だが」
「僕の母方の祖母が福岡に住んでます。あと前の彼氏も」
「前の彼氏、前の彼氏って今の彼氏は大丈夫なのか」
「今の彼氏?」
 ととぼけつつ、司のことだろうなと察しは付いた。
「最初に会った夜に後ろにいた奴だ。お前があんまり俺にしっぽを振るから、物凄い目でにらまれたぞ。刺されるかと思った」
「大丈夫です。僕たちは物語に守られています」
 小さなビルが立ち並ぶ東京の風景が途切れ、唐突に和風の庭と建物が現れた。
「わぁ〜 能楽堂に入るの初めてです。劇場で劇を見ること自体、久々だなぁ」
 七瀬さんが僕の分のチケットを渡してくれる。
「物語に守られる?」
「司……その、今の彼氏に見えた人は、物語が怖いんです。劇場なんて近寄れませんよ」
 能楽堂の中は、ほのかにお香の匂いがした。
「物語が怖い」
「物語って、次に何が起こるか分からないじゃないですか。それが怖いみたいです」
「人生だってそうだろう」
「人生だけで充分なんじゃないですか」
「確かに」
 七瀬さんは司の病気を興味深く感じたようで、腕を組んでしばらく考え込んでいた。僕は座席表を見て自分の席を探した。前から三列目。舞台のすぐそばだ。
「屋内にある能舞台って、何だか窮屈ですね」
 天井の下に立派な屋根があるのが変だ。緑に囲まれた熊本の能舞台を懐かしく思い出す。
「まあ東京ドームみたいなものだ。許してやってくれ」
 そう言いながら七瀬さんは、ホチキスで留めたプリントをくれた。
「これからやる話のセリフと現代語訳だ」
「デートだと思って来たんですけど、授業ですね……」
「試験はしない。何を言っているのか分からなかったらつまらんだろう」
 僕たちが観たのは「菊慈童」という能だ。主人公は、山奥で七百年も生きている少年。舞台の真ん中に菊の花をお刺身のように飾り、歌声はお経の響きに似ていて、カツミさんのお葬式はどんなだったのかなと、ふと思った。
 少年は王様からもらった枕を、大切そうに抱える。司が帰った後の自分みたいで恥ずかしかった。主人公は不老不死で、そのことを寿ぎながら舞を舞う。山奥で永遠に少年のまま暮らすのは、幸せなことだろうか。七百年も生きていれば悟りを開いて「これはこれで楽しい」と思えるようになるのだろうか……
「すみません、途中少し寝ちゃいました」
「退屈だったか?」
「そんなことないです。ハッピーエンドなのに、寂しいお話ですね」
 七瀬さんは僕の顔をじっと見た。七瀬さんの瞳は本当に綺麗だ。タンパク質でこんな宝石めいたものを作り出すなんて、七瀬さんのDNAすごい。
「昔、克巳と歌舞伎を観たことがあった」
「デートですか?」
「いや、克巳と、克巳の恋人と俺の三人で、建て替える前の歌舞伎座に行った」
 七瀬さんは席を立ち、そのまま能楽堂を出た。
「入り口で写真を撮りませんか?」
「ネットに上げるのか」
「いえ、司をいじめるためにしか使わないのでご安心ください」
「どうしようもないな」
 穏便に済ましてくれよ、と笑いながら、七瀬さんは僕の肩をそっと抱き、携帯を持った腕を伸ばした。
「自撮り棒があれば……!」
「そんなものいらん。まあ背景を入れるのは難しいが」
 写真を見て僕は叫んだ。
「七瀬さんが僕のほっぺにチュウしてるー!」
「上手いだろう」
「チュウくらい本当にしてくれたって良いのに」
「刺されたくないからな」
「自撮り、慣れてますね」
「長く生きていると、思いも寄らない技術が身につく」
 七瀬さんは来た道を戻らず、千駄ヶ谷駅とは反対の方向に歩いていった。
「今日は悪かったな、付き合わせて」
「そんな、悪くなんてないですよ」
「克巳が死んでから少しおかしくてな。さすがにこたえたらしい」
 七瀬さんの横顔はバッハの旋律のように完璧で、何がどう「おかしい」のか読み取るのは不可能だった。
「俺にも一応、奥さんがいるんだ」
「家庭を壊す気はないので……」
「壊そうにも、家庭がない」
「えっ?」
 七瀬さんは表情を変えず、坦々と歩き続ける。
「籍は入れているが、一緒に住んではいない。時々彼女の家に行って、運が良ければ会える」
「運が悪いと会えない」
「そう」
「運が悪い時って、どんな時なんですか」
「赤ん坊が産まれている。産科医なんだ。大きな病院の産科部長で、難しい妊婦ばかり担当している」
「それは大変ですね……」
 立ち止まり、七瀬さんはこちらを向いて微笑んだ。
「彼女自身は誇りを持って働いているし、家のことは信頼出来る人に任せて、生活は滞りなく回っている。ただその中で俺は、おまけでしかないんだ。摂取する必要など全くない、チョコとか葉巻みたいなものだ」
「そういうのって、辛くないですか」
「まあ俺の人生は全体的に嗜好品なんだ。主食にはなれない。金は意外とふところに入ってくる。パンよりケーキの方が高いだろ?」
 子供の頃に旅先で食べたザッハトルテの味を思い出していた。あの時に僕は、苦いコーヒーがこの世に存在しなければいけない理由を知った。
「彼女との関係に、満足しているつもりだった。それなのに、克巳が死んだすぐ後、彼女にひどいことを言ってしまった。心の奥底でこんな風に思っていたのかと、口から言葉が出ていくのを、他人のように見ているほかなかった」
「僕はアキラに『殺してやる』と言ったことがあります」
 七瀬さんは体を小刻みに揺らして笑った。
「何をやったか知らんが、怨まれてるんだな」
「でもアキラは全然死ななくて、言葉は無力なんだと改めて思いました。きっと『死なないでくれ』と言っても、人は勝手に死ぬんですよ」
 あっ、とカツミさんがつぶやく。僕の勝ちだ、カツミさん。
「お前は言霊を信じてないんだな」
「言葉には、言葉としての力しかないと思います。文系の人は言葉の力を過信しているから、カツミさんみたいな人に呪いをかけられちゃうんです」
 七瀬くんに、ボクのこと考えてもらいたくて、命がけだったのに。カツミさんの声は子供のように甲高く、舌足らずで、僕の心の声と区別がつかない。
 七瀬さんはしばらくぼんやりと立ちすくみ、それから急に羽織を脱いで僕に着せた。絹だろうか。経験したことのない、しっとりした布の感触に驚く。
「克巳は若い頃、今のお前と同じくらい、可愛かったんだ」
「僕もカツミさんと同じように、醜くなるんでしょうか」
「克巳をボロボロにしたのは、失恋と、病気と過労と不摂生だ。せいぜいあの目つきの悪い男を大事にして、美味い飯でも食うんだな」
「やってます!」
 七瀬さんは目を細めて、僕に携帯を向けた。撮れた写真を見せてもらう。
「スーツを着ても、着物を着ても、七五三ですね」
「お前のことは何て呼べば良いんだ」
「呼び捨てで構いません。翼で」
「翼交わして濡るる夜は いつしか更けて水の音 思い思うて深見草」
「へっ?」
「そういう歌詞の唄があるんだ」
「僕の名前、オペラの歌詞から付けられたんです。『行け我が思いよ、黄金の翼に乗って』」
「有名な曲じゃないか」
「知ってますか?」
「ヴェルディの『ナブッコ』だ。オペラに詳しい訳じゃないが、基本は教わってる」
 僕は嬉しくなり、七瀬さんと手をつないだ。七瀬さんもいやがらなかった。
「夕飯は俺の馴染みの店で構わないか」
「良いですよ」
「村上春樹の作品に出てくる和食フェアとかで、すき焼きが食えるらしい」
「それってもしかして、メグさんの店ですか?」
「そうだ。俺はメグが角刈りだった頃から知ってる」
「角刈りぃ?」
「昔は男だったからな…… 今でも男なんだろうが」
 僕は七瀬さんのてのひらをぎゅっと強く握った。
「おそろいの着物を着て新宿三丁目を歩いたら、僕たち100%恋人どうしに見えますね」
「能フレンドなのに」
「彼とは能だけの関係」
 七瀬さんは笑って、でも七瀬さんが本当に手をつなぎたいのはカツミさんで、カツミさんの体はもう、二酸化炭素とカルシウムだ。
 僕の体が作り出すあたたかさは、カツミさんの皮膚の冷たさに勝てるだろうか。


********************
「翼交わして濡るる夜は いつしか更けて水の音 思い思うて深見草」は長唄「都鳥」からの引用です。
posted by 柳屋文芸堂 at 01:06| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その37)

「東京に出てきて一番楽しかった!」
 司と一緒にザワークラウトを食べた後、七瀬さんとのデート写真をテーブルに並べた。わざわざプリントしたのだ。
「翼に好きな人が出来たら応援するつもりだったけど、この人はダメだよ」
「なんで?」
 司は真面目くさって言う。
「結婚している人に言い寄るなんて」
「あんまり幸せな結婚生活じゃないみたいだったよ。けっこう簡単に離婚させられるんじゃないかなー」
「訴えられて、裁判になることだってあるんだから」
「結婚にはすごい力があるんだね」
「そうだよ」
「それなのに、ゲイは結婚出来ないなんて、酷くない?」
「そうだよ」
「結婚の恩恵は受けられないのに、罰は受けるなんて、おかしくない?」
「そうだよ。世の中は酷い上におかしいんだよ」
「急に『友達』がキスして来たりするし?」
 僕は司の目を下から覗き込んでまっすぐ見つめた。司は顔を真っ赤にした。
「あれは…… 忘れて欲しい」
「いやだよ。忘れない」
 僕は立ち上がり、司を背中から抱き締めた。司の髪の匂いがして、自分がどれだけ枕に鼻をうずめたか思い出し、泣きそうになった。
「翼が俺じゃムリなのよく分かったから。もう二度とあんなことしないから」
「いやだよ。しようよ。ベッド行こう」
「なんで?」
「床だと背中が痛くなる」
 納得いかない様子の司の服を脱がせて、自分も裸になった。司はちゃんと体を鍛えているのに、僕は相変わらず貧相で、見られないよう胸と胸をぴったりくっつけた。
「司、何かスポーツしてるの?」
「高校までは飛び込みやってた」
「飛び込み自殺?」
「水泳競技だよ! 今は時々プールで泳ぐだけ」
 僕が背中に回した腕に力を込めたら、司もしっかり抱き締めてくれた。
「最初に会った時に、翼とは絶対セックスしないって決めたんだ」
「何それ!」
「友達になった方が、長く一緒にいられると思ったから」
「僕とはしたくない?」
「友達でも恋人でも、永遠に一緒にいられる訳じゃないって、カツミさんの写真見て思ったんだ」
 司はそろそろと遠慮がちに、唇を触れ合わせた。僕は司のふとももに腰を強く押し付けた。
「翼、やる気まんまんだね」
「ずっと我慢してた」
「そっか」
 司は抱き合っていた腕をほどき、ベッドの端に座った。
「体が半分になったみたいで寒いよ。離れないで!」
 僕が泣き声上げてもう一度抱きつくと、司は近くにあったパジャマを肩にかけてくれた。
「くっついたままだと何も出来ない」
 キスをして、司はしばらく僕の両足を抱きかかえていた。それからひざに手をかけて、ゆっくりと開かせた。
「司は何も着なくて寒くない?」
「大丈夫だよ。裸を見ていた方が興奮するかなぁ、と思って」
「ドキドキしてるよ」
「この間は全然だったのに」
「鍋が火にかかったままだったし!」
「美味しかったね、ドイツ風だご汁。今日のザワークラウトはビールによく合った」
「残りのザワークラウトは冷蔵庫に入れたよ。これで心置きなく興奮出来る」
「良かった」
 司は笑顔のまま、僕のを口に入れた。不器用なのは分かっていたから、恥ずかしかったけど、どうすると気持ち良くなるか言葉で説明した。司の舌の動きはもどかしく、苦しくしないよう注意しながら、腰を揺らした。
「翼もそういう顔するんだね」
「変な顔になってる?」
「ううん」
 司は美味しいものを食べている時のように、幸せそうに、僕の表情をちらちら見ながら、僕の体を刺激し続けた。
「ごめん。声とか、出して良い?」
「何で謝るの?」
 司は大笑いした。
「司の前でこんな風になるの、初めてだから!」
 僕の声は怒っているようで、司は少し悲しい顔で、僕を抱き締めた。
「翼も不安?」
「不安だよ」
「俺、死ぬほど怖いんだ。翼との関係が変わることが」
「変わらないよ。ただ一緒に生きて死ぬだけだよ」
 全身をきつく絡め合って、お互いのをぶつけ合って、それから再び司は口でし始めた。体が勝手に波打つのを、かすれた声がのどからもれるのを、僕はもう我慢しなかった。

「出した後は体をくっつけたくない?」
「ううん。くっつけたい」
「翼、あったかくなってる」
「ちょっと休んだら、司のも、するから」
「俺はいいよ。それよりこうやって抱き合っていたい」
 汗ばんだ肌に司の肌が貼り付いて、このまま境目が溶けてしまえば良いのにと思う。
「一人でどうやって生きてきたのか思い出せない」
「ホストとのデートを楽しんでたくせに」
「あれはお金払ってでも、もう一度行きたいねぇ」
「俺、浮気とか、ほんと無理だから、やめて……」
「どこまでが浮気?」
「翼が俺以外の男を見ているだけで苦しい」
「独占欲、強過ぎじゃない?」
「だから翼とは友達でいたかったんだよ!」
「そんなに変わるもの?」
「アキラを好きになった時は、自分をコントロール出来なくなって、自分には恋愛する資格がないんだと思った」
「刺したくなったらさ、刺しに来ちゃえば良いじゃん。包丁持って」
「えー」
「七瀬さん、逃げる姿も格好良いんだろうな〜」
 司は笑って、僕の体をぎゅーっと強く抱き締めた。
「翼は俺の深刻さを溶かしちゃうんだよね」
「ふざけてるってよく言われる。僕、すごく真面目なのに」
「知ってる」
 司は僕の耳もとで、小さな声で、甘い言葉を言った。そのまま同じ言葉を返せば良いだけなのに、照れて、
「お、お互い様です」
 とよく分からない返事をしてしまい、司はまた笑った。笑いの振動が僕の全身を震わせて、僕も笑い、涙が流れた。
posted by 柳屋文芸堂 at 01:04| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その38)

 司が心配していたほど、僕たちの関係は大きく変わりはしなかった。
「お金が貯まったら、翼のコンサートを開きたいな」
 冬のボーナスが出た夜、焼肉屋さんでピーマンをひっくり返しながら司は言う。
「えー 面倒くさいよ。会場借りたり、チケット売ったりするの」
「そういうのは俺がやるよ。翼はピアノを弾くことに集中して欲しい」
「それより早く一緒に住もうよ」
「住宅情報サイトで部屋探してるけど、都心は家賃が高くて」
「練馬区で良いじゃん」
「職場から遠いし、アキラに会ったら気まずいし」
「未練たらしい」
「未練はないけど。東京は諦めて神奈川かなぁ」
「神奈川だったら鎌倉が良い」
「遊びに行くならともかく、通勤には不便だよ」
「そうなんだ」
「行ったことない? お正月に鎌倉デートしようか」
「それよりも……!」
「今晩したら落ち着くって」
「ううう」
 透明になった玉ねぎでカルビを挟んで食べる。熊本産の牛肉らしくて、メニューにはくまモンが印刷されていた。
「やりたいだけじゃないよ。会った後『じゃあね』って司が帰っちゃうのがつらい」
「俺、実家から出たことないからさ。生活していく自信がなくて。なかなか踏ん切りつかなくてごめん」
「家賃払うのも満員電車に乗るのも大変だもんね。僕も四月から仕送りなくなって、やっていけるのかなぁ」
 暮らしやすいとは言えない東京の街で、数え切れない恐れを感じながら、転ばないように、それでも確かに前進していると、光一に伝えたかった。それなのに僕は、今年も年賀状を出さないだろう。
「年末年始は熊本帰るの?」
「ううん。司と鎌倉デートしたいから帰らない」
「ええー お父さんとお母さんに悪いよ」
「うそ。飛行機代が安い時を狙って帰る」
「そっか、良かった。正月は鎌倉も混むのかなー」
 鎌倉には光一の実家がある。帰省した光一とばったり出会うストーリーを考えていたら、
「翼、何か悪だくみしてる!」
「え〜 なんで分かるの!」
「顔に全部出てるよ」
 今晩、僕は司の前でどんな顔をするのだろう。ネクタイをゆるめたり、ベルトを外したりする司の妄想で頭がいっぱいになって、
「シャーベット溶けるよ?」
「あっ」
「顔、真っ赤だよ?」
「うっ」
「食べ終わらせて、早く一緒に帰ろう!」
posted by 柳屋文芸堂 at 01:03| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする

翼交わして濡るる夜は(その39)

「本当にね、天使みたいな子なんだよ」
 激しく愛し合った後で、光一は必ず翼の話をする。
「あの子のピアノを君にも聴かせたいといつも思うんだ。音の一粒一粒がキラキラ輝いて、天国から降ってくるお菓子のようだよ。音楽とはこんなに素晴らしいものだったのかと、今まで聴いてきた音楽は何だったのかと、世界がひっくり返ってしまって、あの子のピアノを知った後は、全ての音楽が味気なくなってしまうから、聴かない方が良いのかもしれないね」
 どっちなんや! 光一は気持ちが高ぶるとだんだん何を言っているのか分からなくなる。別に俺は光一の言いたいことを正確に理解したいとは思っていないので放っておく。
「ホテルで弾いたとだろ」
「よく覚えてるね」
「何度も聞いとるけん」
 光一は二十歳も年下の翼に童貞(処女?)を奪われた。自分の身にこんなことが起きるなんてと呆然としていたら、翼はホテルのロビーに置いてあるピアノを弾き始めた。
「止める間もなかった。そこにピアノがあれば弾くのが当然と思うらしくてね。最初は『華麗なる大円舞曲』だったかな。あまりにも見事で、活き活きとした演奏だったから、誰も文句は言わなかった。ピアノの周りに人が集まってきて、翼はリクエストに応え始めた。ポップスだろうがタンゴだろうが、事も無げに弾きこなすんだ。観客はみんな笑顔だったよ」
「そして最後、翼は誰も知らない曲を弾いた」
「そう。長く夢を見過ぎて、現実に戻れなくなった苦しみに、甘く溺れてゆくような旋律だった。僕はクラシック音楽に詳しい訳ではないから、ロマン派の、それほど有名ではない曲なのだろうと思った。演奏を終えて、満場の拍手に振り向きもせずに、翼は僕だけを見つめて駆け寄ってきた」
「最後に弾いた曲の名前を教えて」
「光一と一緒にいると聴こえる音楽だよ」
 光一は感極まって、後ろから抱きかかえている腕をぎゅうっと強く締める。人の肌はあたたかい。その人が何を思っているかに関係なく。
「それで光一は翼にメロメロになった」
「その前からなっていたけどね。絶対追いつけない同級生に憧れるように、僕は彼に恋をしたんだ。会えなくなるのがただただ恐ろしくて、年上の余裕などまるで無かった」
 翼が東京に行ってしまった後、光一は飲まず食わず会社にも連絡せずで数日間泣き続け、肉体的にも社会的にも死にそうになった(親切な会社の同僚に発見されて助かった)
 そして翼を失った寂しさをごまかすために、光一は俺と付き合い始めた。一番になれないことは、最初から分かっている。
「もう一度翼と会えたら、よりば戻すと?」
「可愛い上に積極的な子だもの、今頃は東京で十人目くらいの恋人とイチャイチャしているよ。僕のことなんか忘れてしまったんじゃないかな」
 問題は翼ではなく「光一が」どうするかだ。偶然どこかで翼のピアノを聴いた光一が、悪魔の笛の音に引き寄せられる子供みたいに、フラフラと翼の方へ行ってしまって、二度とこちらに戻って来ない。そんな状景がありありと心に浮かぶ。
「正月は仕事?」
「うん。光一は鎌倉に帰ると?」
「その予定だよ」
 もし悪魔が弾くピアノを聴いたとしても、俺を忘れんで欲しい。強く祈れば光一に届くだろうか。すぐそばにいる、遠い人。
「いつか君を両親に会わせたいんだ。恋人と紹介することは出来ないけど、お世話になっている親友だと言えば喜ぶと思うんだ。僕が離れた土地で孤独に暮らしているのを、ひどく心配しているから」
「世話しとらんし」
「そんなことない」
 光一は俺の首筋を唇で撫でた。じっとしていられない太ももに右手が伸びてくる。
「僕はずっと、自分の欲望は迷惑にしかならないと思い込んでいたんだ。僕みたいな人間だって、人を愛しても構わないと、許してくれたのは翼なんだ」
 抱かれるのをやめて光一の上にのしかかる。光一の、抱えきれない大きな体が好きだ。俺の背中に腕を回しながら光一は言う。
「僕の人生を小説にしたら、終わりはきっとこうだ」
 天使を失った不幸な男は、二人目の天使を見つけた。
「そぎゃん男、不幸じゃなか!」

(終わり)
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翼交わして濡るる夜は(その40)

【あとがき】
 熊本弁については西乃まりも様に大変お世話になりました。熊本では使わない表現を指摘していただき、より自然な言い回しを教えてくださいました。大大大感謝です!
 基本的には方言の入った文章も自分で書きましたので、間違い等があった場合の責任は全て筆者(柳田のり子)にあります。福岡県柳川市でのセリフは誰にもチェックしてもらってません。柳川にゆかりの深い檀一雄の文章を参考にして書いたのですが、今でもこんな言い方するのかしら……
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