2015年12月20日

贋オカマと他人の恋愛(その1)

 これから話すのは、壊れてゆく恋の話だ。なるべく楽しく語りたいとは思うけれど、何しろ結末が決まっている。それぞれの立場で出来得る限り足掻きもがいたのに、逃れようがなかった。俺も、周平も、克巳も。
 救いがあるとすれば、これが俺の恋愛ではなく、他人の恋愛だったということだ。他人の話にいちいち傷つく必要はない。バカは克巳だけで間に合っている。
 そもそも妙な話なのだ。周平が克巳の携帯に電話をかけると、まず知らない男が出た。その後、
「周平?」
 という克巳の声を聞き、周平は通話を切った。普通に考えて、浮気相手を電話に出すか?
 とにかくそれが二人の関係の終わりで、克巳の破滅の始まりだった。
 周平と克巳がどこで知り合ったのかは知らない。俺と周平は大学の専攻が一緒だった。俺が教室で弁当を食べながら本を読んでいると、隣の席の男が声をかけてきた。
「本、好きなの?」
 振り向くと、丸眼鏡の福々とした男が嬉しそうに微笑んでいる。ここは文学部だ。本が好きなのは当たり前じゃないか。そいつの手元を見ると、俺と同じように左手で文庫を持ち、右側にパンが三種類ほど置いてある。
「何読んでるの?」
「日本永代蔵」
 俺の答えを聞いて、その男は目をぱちぱちさせた。
「い、井原西鶴……?」
「そうだよ」
「古典を読んでる人なんて初めて見た」
「試験でみんな読むじゃん」
「試験だけでお腹いっぱいだよ」
 俺が読書に戻っても、そいつはまだ話したそうにこちらを見ている。しょうがないので質問してやることにした。
「お前は何読んでるの?」
「村上春樹」
 ちゃらちゃらした流行作家の本を読みやがって。俺の気持ちは顔にそのまま出ていたと思う。
「君の好きな作家は?」
「琵琶法師」
 真面目に答えたつもりなのに、腹を抱えてゲラゲラ笑う。
「君は面白い人だねぇ! 最近の作家で好きな人はいないの?」
「うーん、樋口一葉とか?」
「それ全然最近の作家じゃないよ」
「死んで百年以上経った作家じゃないと興味湧かないからな」
 何故か急に笑いを止めて真剣な顔つきになる。
「もしかして君、生きてる作家の本は読まない?」
「読まないね」
「もしかして君、村上春樹ファン?」
「死んだ作家の本しか読まないって、今言ったばかりだろ! 村上春樹は生きてるじゃないか」
「ふぅん……」
 頬杖ついて何やら考えている。
「どうして死んだ作家にしか興味がないの?」
「駄作を読む時間がもったいないからだ。死んで百年も経てば、つまらない作品は忘れ去られて勝手に滅んで、読むべき価値のある作品だけが生き残る。人生は永遠じゃない。無駄なことはなるたけしたくない」
 このおしゃべりも無駄な気がしてイライラする。男は俺の眉間に寄り始めた皺のことなど頓着せずに、ゆったり自己紹介した。
「僕は隅田周平。君の名前は?」
「七瀬耕一」
 無礼で横柄で、俺の第一印象は相当悪かったと思う。しかしどこを気に入られたのか、その日から周平にすっかり懐かれてしまった。授業で会うと、必ず近くの席に座って話しかけてくる。
「七瀬は二年からどのコースに行くつもり?」
「演劇専修」
「僕も同じだ。受かると良いねぇ」
「良いねぇじゃねえ。絶対行く」
「もしかして俳優を目指してるの?」
 まただ。今までの人生で何回言われただろう。耕一ちゃんは歌舞伎役者になるの? それよりジャニーズよ。本当に、女の子みたいに綺麗な顔ね! 華慧先生の所で日舞を習っていたおばさんたちの声が頭に響く。うるさい、うるさい。
「俺がやりたいのは研究だ。周平は演劇行って何するつもりだ」
「実は映画もドラマも全然好きじゃないんだけど、村上春樹が大学時代に演劇を勉強していたっていうから」
 ミーハー過ぎる。俺があからさまに呆れても、周平は一ミリも悪びれずほがらかに微笑む。
「昔テレビに出てた? 子役とかで」
「出てないよ」
「雰囲気が普通の人と違うからさ。何て言うんだろう、後光が差してる」
「観音様か!」
 俺は内面と外見が乖離していた。単なるガリ勉の伝統文化オタクなのに、見た目が無意味に派手だった。服だけでも地味にしたかったが、洋服を決める権利は母親にあった。俺を連れて好みの店に入り、こう言うのだ。
「この子にぴったりの服を選んでちょうだい」
「まあ、可愛らしいお坊ちゃんですねぇ。選び甲斐がありますわ」
 その結果、俺の服装は常にバラエティー番組に出てくる芸能人のように軽薄だった。四角い顔をして黒縁眼鏡でもかけていれば、俺はずいぶん落ち着いて生きられただろう。
 克巳を初めて見かけたのは、大学一年の夏休みが終わった後だ。ぶら下がるように周平の腕をぎゅっとつかんでいて、俺は最初、
「あの周平にも彼女がいるのか」
 と感心した。それにしても、かなりボーイッシュな女だ。いや…… あれは男? ということは友達か。友達にしては、距離の近さが異常だ。具合の悪い人を支えてる? 二人は見つめ合ったまま笑い声を上げた。どちらも元気そうじゃないか……
 周平がゲイで、彼氏とベタベタしている、という状況を飲み込むのにしばらく時間がかかった。それまでゲイというのは、オカマっぽくなよなよしているか、筋肉ムキムキか、世間に背を向けた芸術家か、とにかく普通とは違う人間がなるのだろうと勝手に考えていた。
 平凡が服着て歩いているような周平が、ゲイだなんて。相手の男も、デカい肩かけカバンを持った垢抜けない学生だった。背が小さくて、長めの茶色い髪がさらさらしている。
 教室にやってきた周平に、俺は言った。
「夢を壊すんじゃない」
「何が?」
「ゲイというのはもっとエキセントリックなものだと俺は思っていた」
「見てたのか」
 周平は珍しく困り顔で、頬を赤くした。
「彼、理工学部で、同じ学年なんだよ。文学部のキャンパスにも来るようになっちゃって」
「安珍だな」
「アンチン?」
「安珍清姫。道成寺の話だよ。坊さんの安珍を好きになった清姫が、蛇になって追いかけてきて、釣鐘に隠れた安珍を焼き殺す」
「そんな物騒な話じゃないんだけど。僕、逃げてないし。両思いだし」
「ああそうかい」
「でも確かにちょっとやっかいなこともあってね……」
 周平は俺の顔をちらりと見た。
「今度、三人で会ってくれないかな」
「3Pの誘いか」
「いややや、友達になろうって、ただそれだけだよ」
 何で俺が貴重な時間を割いてゲイカップルの相手をしなければいけないのか。しかしすぐ思い直した。日本は古来、恋愛に対して寛容で、古典文学では時折同性愛の記述が出てくるし、伝統演劇も男色と深い関わりがあるのだ。
「いいよ。後学のために」
 そして俺は、嵐に巻き込まれる羽目になる。
 学食の前にあるテラスへ行くと、周平の彼氏が白い椅子にだらしなく座って、丸テーブルの脚をカンカンと蹴っていた。
「克くん」
 前髪がさらりと横に流れ、物憂く潤んだ瞳が周平を見上げる。
「へー 女の子みたいで可愛いな」
 他人の持ち物を褒める気分で軽く言ったのに、そいつは立ち上がって俺の胸ぐらをつかんだ。明らかに悪意のある目で俺を睨む。
「何だよ、いきなり!」
 そのまま突き飛ばされそうになるが、幸い力が弱く二歩よろけるだけで済んだ。
「おい周平、何なんだよ、こいつは!」
「克くん落ち着いて」
「周平に近付くな!」
「へ?」
 全身の毛を逆立て全力で怒っているのはよく分かる。けれども背が低く、顔も丸くて小さいし、子どもがふくれているみたいで噴き出しそうになる。
「うん、今後一切周平には近付かない。じゃっ!」
「いや、それじゃ困るんだよ」
「周平は何でこんな奴に執着するんだっ 失礼だし、全然良い奴じゃないじゃんか」
「だから友達だって何度も……」
「友達なんてやめちゃえ!」
 修羅場か。俺はニヤニヤするのを我慢出来ない。蛇に焼かれている周平をどう助けてやるか。俺は財布からテレホンカードを出し、怒り狂うチビに見せた。
「悪い。俺はこういう世界の人間なんだ」
 上から見下ろされるのも腹を立てる原因になるだろうと思い、俺だけ椅子に座る。
「綺麗…… ねえ、周平見て」
 二人は態度をコロっと変え、頭を寄せてカードを見た。
「本当だ。これは歌舞伎?」
「日本舞踊。藤娘をやった時の写真だ」
 二人は同時に俺の顔を見る。
「これ、君?」
「そうだよ。高二の時の」
 顔を見合わせ、再びこちらを見る。
「オカマ?」
「お仲間?」
「女形と言ってくれ」
 チビはカードを面子のようにテーブルへ叩きつけた。
「ナルシスト! 女装した自分の写真をテレホンカードにして持ち歩くなんてバカじゃないの」
「いや、母親が作るんだ。しかも計算が雑だから、例えば三百枚で間に合う時でも五百枚くらい頼んじゃって、うちには大量の俺のテレホンカードが余っている。欲しければやるよ」
「いらない!」
「ねえ、何でそんなにテレホンカードを作るの?」
 藤娘を拾って俺に返しながら、周平が首を傾げる。
「発表会で配るんだ。これは高三の冬、京鹿子娘道成寺をやった時に、三味線弾く人とか、衣装の準備をしてくれる人とか、あと見に来てくれた人にも渡した」
「七瀬ってもしかして、金持ち?」
「周平、どこ見てんだよ。こいつの服、上から下まで全部ブランドものじゃん。下品なんだよ」
 さも憎々しげに言って椅子を蹴る。
「このチワワの悋気をどうにかしてくれ。お門違いにも程がある」
「リンキって何?」
「お前は本当に文学部なのかっ」
 まるで役に立たない周平のことは諦めて、俺はチワワの目をまっすぐ見つめた。
「『女の子みたいで可愛い』っていうのは褒め言葉で言ったんだよ。子どもの頃から女みたいだと言われ慣れてて、嫌な気持ちになるって忘れてたんだ。俺も踊ってる時以外は女っぽいなんて言われたくない。ごめん」
 チワワは視線をすっとそらした。
「マザコン」
「マザコンじゃない。母親が俺を大好きなんだ。そうなると、色々しょうがないだろう?」
 それでようやく、チワワの攻撃は収まった。
 周平の最初の恋人、辻堂克巳。とんでもない奴だとは思ったけれど、周平が克巳を好きになった理由は少し理解出来た。克巳は顔が可愛かったし、可愛い女に振り回されるのを喜ぶ男は大勢いる。そのゲイ版だと考えれば分かりやすい。
 それより克巳が周平に夢中になっていることの方が謎だった。わざわざ俺にケンカを売りに来るほどのぼせ上がって、そんなにイイ男か? まあ悪い奴じゃない。優しいのかもしれない。でもそれだけじゃないか。
 勝手にしろ。俺に迷惑をかけるな。俺にはやるべきことがわんさとあるのだから。

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「生きてる作家の本は読まない?」
 は、村上春樹「風の歌を聴け」からの引用です。
 
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贋オカマと他人の恋愛(その2)

 ずっしりと重たい衣装の裾が、恋と恨みを語り始める。強過ぎる照明に顔を焦がされ、眩しい。けれども決して目を細めたりしない。暗い客席のどこかにいるはずの母親に、俺はとびきりの流し目を送る。
 舞台の光の中にいる自分と、教室で下を向き必死に本を読む自分。本当の人生は、どちら側にあるのだろう。

 俺が生まれる少し前、近所に私鉄の新しい駅が開業した。そのあたり一帯の土地の権利を持っていたのが、俺の母親だった。昔から住んでいた農家という訳ではないらしい。母親の過去は全くの謎だ。父親にも会ったことがない。
 財閥系の不動産屋が周辺を開発することになり、母親は躊躇せず土地を売り払った。自宅用に残した五十坪に質素な平屋を建て、外で働くこともなく、ただただ毎日、湯水のように俺に金を注ぎ込んだ。
「お母さんはどうして着物を着ないの?」
「みんなが着物を着ている時に着物を着たって目立たないじゃないの」
 日本舞踊の発表会。金糸の刺繍を散らした派手な着物のおばさんたちの中で、真っ黒いドレスを着た母親は、結婚披露宴に葬儀の参列者が紛れ込んだように浮いていた。不吉な未亡人のようだった。
 ピアノや水泳ではなく日舞を習わせたのも、みんなと同じでは目立たない、ということだったのかもしれない。実際に華慧先生の弟子の中で、男の子どもは俺だけだった。
「歌舞伎の養成所に入るの?」
 先生以外のおばさん全員に訊かれた気がする。役者との血縁のない人間が歌舞伎の世界で名を上げるには、魔術のような所作の美しさが必要だ。俺は踊りが嫌いではなかったし、生来真面目で稽古も家での練習もサボらなかったが、それだけだ。部屋の中に雪を降らせ、見えない山を見せる、常人にはたどり着けない境地を目指す情熱はなかった。華慧先生はそのことをよく分かっていた。
 師範名取の資格は取っていたから、近所の人に踊りを教えつつ市井の舞踊家として生きる道もある。しかしそうして日舞の狭い世界で実績を積み重ねても、子どもの頃から膨らみ続けている苛立ちは消えない。
 俺はいつも学校の教室で、静かに腹を立てていた。クラスの誰とも話が合わないからだ。ここは日本なのに、何故アメリカ文化の劣化コピーみたいなダンスや歌ばかりテレビで流すのか。みんな疑問も持たずにそれを楽しんでいる。歌舞伎や邦楽を好む俺が、どうして少数派にならなければいけないのか。愛想笑いをせずに済むよう、早々に友達は作らないと決めて、休み時間は読書に充てた。
 俺は世界を変えたかった。全員日舞をやれとは言わないが、古くから日本にあったものをもっと大切にして欲しい。そのために、まずは自分が伝統文化を深く理解しなければいけない。高三の発表会で日舞はやめて、大学に入ったら研究に集中しよう。
 一番気になったのは母親の反応だった。テレホンカードや、俺の写真をイラストにして染め抜いた手ぬぐいを配り歩き、役者のパトロン気取りでいる母親を、悲しませるのは忍びなかった。
「先生にはもう、やめるって言ってあるんだ」
 京鹿子娘道成寺を演じ終えた帰り道、俺はかなり悲壮な声でそう告げた。
「良いんじゃない?」
 母親は拍子抜けするほど明るく言う。
「歌舞伎役者になって欲しいとか、思ってたんじゃないの」
「別に何も考えてないわよ。この子が踊ったら可愛いだろうなぁ、と思ったかな、始めた時は。実際に可愛かったし、綺麗だったし。あんただって嫌がらずにお稽古してたじゃない」
「この発表会にいくらかかった?」
「さあ。ちゃんと計算してないから分からないけど、八百万くらいかしら。銀行から一千万下ろして来て、まだ残ってる。ほら、春には大学の入学金も必要でしょ」
 母親は楽しそうに笑ってこちらを見た。
「何かになるために、日舞をやってたの?」
「そうしなきゃいけないんだと思ってた」
「ケチ臭いわねぇ! お母さん、そういうの大嫌い」
 立ち止まり、冷たく光る冬の星空を見上げ、目を瞑る。
「今日のあんたの踊り、夢みたいだった。私の息子なんですって、みんなに言って回りたかった。今日、幸せになれたんだから、それで良いじゃないの。明日が必ず来るなんて保証、どこにもないのよ」
 お母さんはもう何かになる必要がないから、そんな風に刹那的になれるんだ。俺はこれから身を削って努力して、何かにならなければいけない。人に大きな影響を与えるような、偉大な何かに。
 
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贋オカマと他人の恋愛(その3)

「成績表見せてみろ」
「あっ」
 二年になり、俺も周平も希望通り演劇専修へ進んだ。二人とも一年の授業はほぼ皆勤で、落とされる心配はほとんどなかった。
「英語と第二外国語が全部Aだ…… 周平のくせに生意気だぞ」
「でも体育はCだよ。まさか大学に入ってサッカーをやらされるとは思わなかった。君は英語でBを取ったのか。意外だな」
「横文字は苦手なんだ」
「僕は英語の読解が好きでね。英語の長文を訳してると、熱中して時間を忘れちゃうよ」
 なら英文学に行け、と思うが言わない。周平の村上春樹への傾倒は度を越していて、同じ道を歩むことに深い満足と快感を得ているようだった。誰かの真似をして喜ぶという感覚がまるで分からない。
「古い作品にしか価値がないなんて頭の固いこと言ってないで、君もたまには今の小説を読んでみたら」
「俺は絶対、村上春樹は読まないからな」
「えーっ」
 布教したくてうずうずしているのだ。七面倒臭い。
「『ノルウェイの森』が流行った時は酷かったじゃないか。どこに行ってもクリスマスみたいな赤と緑の本を広げてる奴ばっかりで。俺は『みんな一緒』だと背筋が寒くなる。全体主義社会か!」
 周平は眉を下げてしょぼーん、とした。飼い主に叩かれた犬のようで、さすがに言い過ぎたと反省する。
「他に誰かいないのかよ。村上春樹だけが現代作家って訳じゃないだろ」
「おすすめ読んでくれるの?」
 周平の目がらんらんと輝く。
「あんまり有名じゃない奴が良い」
「そうだなぁ…… 江國香織は知ってる?」
「知らない」
「『きらきらひかる』って小説は映画化もされててね」
「何だよ人気があるんじゃねえか」
「そうか、君に紹介する場合は逆効果なんだ。うん、映画化されてないよ」
「アホか!」
「へそ曲がりに小説を読ませるのは大変だなぁ……」
 結局周平は、江國香織の「ホリー・ガーデン」という本を貸してくれた。失恋してボーッと暮らす果歩と、果歩の生き方に腹を据えかねている幼馴染みの静枝と、果歩に片思いする中野の物語。当たり前だが全編口語で、どこにも引っかからずスラスラ進むのが心許ない。こんな本ばかり読んでいたら、そりゃ古典が苦痛になるはずだ。文句を言いつつ二度読んだ。ふーん、なるほど。
「どうだった?」
「果歩は何で出家しないのだろうか」
「……」
 周平は五秒間、無言で固まった。
「普通はしないよねぇ、出家」
「中途半端に俗世間に残っているから、虚しい暮らしをする羽目になるんじゃないか」
「彼女の暮らしは虚しい?」
「適当な相手とセックスしたり、一人でピクニックに行ったり、俺だったらそんな生活嫌だね」
「果歩さんは自分のルールがあって素敵だと思うけどなぁ」
「お前は男の趣味だけでなく女の趣味も悪いのか。断言してもいい。果歩はやめておけ」
「じゃあ静枝の方が良いの」
「あれもお節介で関わり合いになりたくない。嫁にするなら中野だな」
「中野くんは男じゃん!」
「男か女かなんてどうでもいい。中野は気立てが良いだろ」
「気立て、ねぇ……」
 周平は明らかに不満そうだった。どんな感想を期待していたのやら。いくら本を貸してもらったといっても、俺はおべっか使えるほど器用じゃない。
「どうせお前は『僕もどんぶりで紅茶が飲みたい』とか憧れるんだろ」
「うっ…… ラーメン用のどんぶりで飲んでみたら量が多くて」
「あれはカフェオレボウルだ。そんなデカい訳なかろう、バカ者」
 考えてみると、こんな風に友達と小説の話をするのは初めてかもしれない。なかなか面白いじゃないか。周平は打ちひしがれているが。
「趣味に合わない本を読ませて悪かったよ……」
「いや、そんなこともない。果歩がお菓子の缶を開けて、別れた恋人に撮ってもらった自分の写真を見る場面は美しいと思った。能の『井筒』にそっくりだ」
「能?」
「『日本演劇史』の授業で見ただろ。井筒! 筒井筒! 覚えてないのか」
「能って演劇という形に高められた催眠術だよねー どんなに頭が冴えてる日でも、見始めて三分後にはよだれを垂らしてる」
「世阿弥に謝れぇ!」
 周平だけを責めるのは酷か。能の映像を鑑賞した後は、教室が気だるい雰囲気に包まれる。寝る奴が多い証拠だ。古い能舞台で直接見ると、神事の緊張感があって最高なんだが。
「在原業平は分かるな?」
「伊勢物語の光源氏」
「まあそうだ。『井筒』では業平の恋人だった女が、業平の形見の着物を着て井戸をのぞき込む。井戸の水には自分と、愛した男の姿が重なり合って映っている」
「それのどこがホリー・ガーデンなの」
「果歩も井筒の女も、見ているのは過去の自分なんだ。恋の狂気を描いているのに、相手はもうどこにもいない」
 そこまで早口で言い切って、自分がやけに熱くなっているのに気付く。周平は腕組みしてしばらく黙っていたが、
「克くんのいる理工学部には、美少女アニメの話をし出すと止まらない人がいっぱいいるんだって」
「何だよ急に」
「七瀬は対象が伝統芸能というだけで、そういうオタクの人と変わらないよね」
「うるせぇ! 知ってるよ!」
 俺はたぶん真っ赤になっていたと思う。誰にも見せずにいたものを、油断してさらけ出してしまったような。周平はニコニコしている。俺の負けか。克巳もこうやって負けたのか。
 カバンから「ホリー・ガーデン」を引っぱり出し、周平に返した。
「ハードカバーを買うなんて珍しいな」
「文庫になるまで待てなかったんだ」
「繰り返し読んだ跡もある。大事な本を貸してくれてありがとう」
 周平はちょっと驚いた顔をして、すぐに微笑んだ。
「どういたしまして」
 周平と克巳は相変わらず仲が良く、腕をからませたり手をつないだりして学内を歩いているのをよく見かけた。これが高校だったら一大スキャンダルになっていたと思うが、大学生の反応はクールだ。しかし女たちは確実に二人を、というより克巳を、目で追っていた。
「隅田くんってゲイなの? ってたまに訊かれるんだけど、みんな必ず目がキラキラしてるんだよねー」
「お前にときめいてるんじゃなく、克巳に注目してるんだから勘違いするなよ」
「どっちでもいいけど。ただ、同性愛を嫌う人が克くんに暴力を振るったりしないか心配で」
「たぶん女たちが犯人をボコボコにするから安心しろ……」
 当時の克巳は本当に綺麗だった。いつも周平の方を一心に見つめて、まるでそちら側に光源があるかのように笑顔が輝いていた。その姿はいじらしく、見る者の胸を苦しくさせる。
「克くん、他人の視線を全然気にしないんだ。嫌悪も好奇心も憧れも」
「お前しか見てないからな。全くどこをそんなに気に入ったんだか」
「ひどいなぁ」
 中学・高校と男子校で過ごし、女の少ない理工学部にいるゲイの克巳にとって、女は書き割りの一部程度のものなんだろう。克巳に無償の愛を向ける女たちを、少しあわれに思った。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:07| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その4)

「今度一緒に能を見にいかないか」
「えっ……」
 周平は何故か怯えた様子で一歩下がる。
「二人で会うと克巳がギャンギャン言うだろうから、三人で」
「絶対寝ちゃうよ。僕も克くんも」
「映像で見るのと全然違うって。狂言もやるし面白いぞ」
「うっかり眠り込んでイビキかいたりしたら周りの人に悪いじゃないか」
「その場合、つねって起こす」
「叫び声上げちゃったらどうするの…… それに能のチケットは高いでしょ? 僕たちとても払えない」
「それは気にするな。俺がおごる」
 正確には「俺の母親が」だな。
「えー うー」
 注射を受ける犬のように俺から離れたがっているのがよく分かった。そんなに嫌か、能が。
「睨まないでよ〜」
 俺はそっぽを向き、自分が傷ついているのに気付く。
「ねえ、歌舞伎はどう?」
「歌舞伎なんてつまらないだろ」
「僕、歌舞伎を見たことないんだよ」
 俺は驚いてひっくり返りそうになった。
「そんな奴いるのか! 学校の鑑賞教室で連れていかれたりするじゃん」
「僕の学校にはなかったなー あったとしても覚えてない」
 俺は毎週のように歌舞伎座や国立劇場に通っていたから、周平も飽きていると勝手に思っていたのだ。
「正直言って僕は歌舞伎に全然興味ないんだけど、克くんが喜ぶんじゃないかと思って。藤娘のカードもうっとり見てたし」
「正体が俺だと分かるまでだがな……」
「ね。三人で歌舞伎を見に行こうよ。コーヒー飲んで寝ないよう頑張るからさ」

 デートの約束というのはこんな風にワクワクするのだろうかと想像する。相手がゲイカップルというのが侘しいが。同年代の友人が一人もいなかった高校時代に比べれば、俺の周辺もずいぶん華やいだじゃないか。
「貸衣装で着物を借りて着せてやって、歌舞伎に連れていこうと思うんだ」
 夕食の時、母親に計画を話してみた。
「貸衣装なんてケチ臭いこと言わないで、着物も作ってあげたらいいじゃない」
「え?」
 それは幾分やり過ぎなんじゃないか。
「採寸して体にぴったり合ったものを着た方が気持ち良いでしょ」
 確かに母親の言うことももっともだ。この機会に、周平と克巳が着物を好きになってくれたら俺も嬉しい。
「という訳で、着物を作りに行くぞ」
「本当に良いの?」
 俺を先頭に三人で、日本橋の馴染みの店に向かう。
「ママに請求書送ったりしたら許さないからな」
 ママ? と思うが突っ込むとまたうるさくなるので追及しない。
「俺の顔を見たら自動的にうちの母親に請求が行くようになってる。悪徳商法じゃないから心置きなく好きなの選べ」
 十九、二十という年齢のせいか、若草色や、空色に見える細い藍の縦縞など、明るい色の反物が次々と二人の前に広げられた。
「何がなんだか分からないよ〜」
 周平が目を回し始めたので、店員の説明を断り、自分たちでケースを見て行くことにした。
「僕はこれが良いなぁ」
 周平が指差したのは、亀甲柄の泥大島だった。鉄瓶に似た渋い黒で、柄が細かいため遠くからだと濃い鼠色に見える。
「良いんじゃねえか。お前はおっさん顔だからこういうの似合うと思うぞ」
「君は失礼なことを言わないと気が済まないんだねぇ」
 問題は克巳だった。周平と同じ布にすると言って聞かないのだ。
「克くんはもっと若々しい着物の方が似合うと思うよ」
「やだっ 周平とペアルックにするっ」
 よくもまあ恥ずかしげもなく『ペアルック』なんておぞましい単語を口に出せるもんだ。俺もお店の人も見えなくなっているのだから仕方ない。
「大島は長持ちするから、じいさんになるまで着続けたらいい。お前百までわしゃ九十九まで」
 それを聞いた克巳は、あのぱあっと光る笑顔になって、
「二人とも長生きして、ずっとこの着物を一緒に着よう。周平が死んじゃったら、おれもすぐ死んじゃうから」
「そう考えると、若い頃しか着られない着物は損だね」
「年食って明るい色の着物を着たら、落語家と勘違いされる」
「笑点!」
 採寸してもらい、二人は同じ柄の泥大島で着物と羽織を仕立てることになった。帯や草履もサイズだけ違う同じ物。足袋に長襦袢、肌襦袢、腰ひもと、着物を着るのに必要な小物は全てそろえた。
 着物が仕上がるのを待って、三人の予定を合わせ、歌舞伎のチケットを取る。予想より壮大な計画になってきた。
 見に行く演目は俺の独断で「二人椀久」にした。「勧進帳」「東海道四谷怪談」あたりが初心者向きかと考えたが、ちょうど行きたい時期にやってなかったのだ。歌舞伎を見たことのない人間が何を面白がり、何をつまらなく思うのか、この世界に馴染み過ぎている俺にはもはや想像出来ない。
 二年後期の試験が終わって、三月。夕方の開演までに着付けと食事が済むよう、午前中のうちに二人を俺の家に呼んだ。
「お城みたいな所に住んでるのかと思ってた」
「割と普通だね」
「でも柱が太くて立派だ」
 そう言って克巳は壁をコンコン叩く。
「点検してないでとっとと服を脱げ」
「えーっ 七瀬くん、こっち見ちゃダメだよ」
 克巳は赤くなっている。
「はぁっ? 何でだよ」
「裸は周平にしか見られたくないっ」
「くだらねぇ……」
「そう言えば、ふんどし買わなかったけど、パンツのままで良いのかな」
「周平のふんどし姿見たいなぁ」
 克巳は周平を見つめて目を細める。
「周平もおれのふんどし姿見たいよね?」
「まぁ……」
 周平は克巳と視線を合わせて顔を赤らめる。
「えーい変態どもっ ちゃっちゃと足袋とステテコをはけっ」
 着せてみると、予想以上に周平は着物が似合った。渋い色と柄のおかげでふっくらしたほっぺたは落ち着いた印象になり、小太り体型は威厳を感じさせる。
「周平、格好いい〜 押し倒したいっ」
「俺が着せたものをすぐ脱がす奴があるか」
 一方、克巳は予想通り大島が似合わなかった。子どもっぽい女顔で痩せている上、背が低い。小学生の女の子が父親の背広を着たようなちぐはぐさ。
 こいつに似合うのは京鹿の子絞りの振袖だ、と思い付く。もちろん自宅を血の池地獄にしたくないので口には出さない。
「俺も着るからちょっと待ってろ」
 トランクスだけになると、ペアルックの二人が口を半開きにしてこちらを見ている。
「見世物じゃねーぞっ」
 俺はドン! と大きな音を立てて床を踏んだ。二人は慌てて後ろを向く。
「周平、いやらしい目で七瀬くんのこと見てた!」
「克くんも見てたじゃないか」
「だって、貧弱なのかと思ったら全然違うんだもん……」
「日舞をなめるな」
「やめたんじゃなかったの?」
「習いに行ってないだけだ。練習は続けてる」
 帯を締め、羽織紐を結び整え、
「もういいぞ」
 こっちを向いた周平が呆れたように言った。
「派手だなぁ……」
 俺がその日着ていたのは、丹後ちりめんの真っ赤な着物と、本塩沢の白い羽織だった。
「こと着物に関して、俺は派手じゃないと落ち着かない」
「洋服だって派手じゃん」
 母親は何故か赤飯を炊き、鶏の唐揚げと、カリフラワーとグリンピースの入っているサラダを出した。
「遠慮しないでどんどん食べてね」
「こ、この度は……着物を作っていただきありがとうございます」
「ありがとうございます」
 まず周平が、続いて克巳がぺこりと頭を下げた。
「いいのよ。うちはお金が余ってるの」
 母親はそれだけ言うと台所の方に消えた。
「唐揚げ美味しいね」
「あったかいお赤飯も美味しいよ」
「ごま塩! ごま塩!」
「僕、たまにスーパーでお赤飯買って食べるんだけど、冷えてて」
「周平、そんなにお赤飯好きなんだー っていうかチンしなよ」
「面倒でそのまま食べちゃうなぁ。あっ、本当だ、唐揚げ美味しい!」
「食べ過ぎて気持ち悪いとか言い出すなよ。帯締めて、いつもと違うんだから。あと肉ばっかじゃなく野菜も食え!」
 母親に見送られ、電車と地下鉄で歌舞伎座に向かう。途中、すれ違う人たちがチラチラこちらを見ていた。同じ着物を着て手をつなぎ歩くゲイカップル、ではなく、その前を偉そうに歩く紅白の俺が目立ったのだろう。成人式でもない平日の昼間に、着物の若者が三人というのも物珍しい。
 克巳は終始ごきげんで、甘ったるい声で周平に話しかけ続けた。
「周平と一緒に出掛けられるの、嬉しい!」
「いつも部屋の中にばかりいるもんね」
「いつか旅行にも行きたいっ」
「お金持ちになったら」
「お金持ちになったら!」
 周平はウェイターのバイトをしていたが、一人暮らしをしているせいもあってかつかつで、克巳は学校の課題が多くて働けないと言っていた。
「早く着き過ぎたな」
 歌舞伎座はまだ開場しておらず、東銀座駅の出口周辺におばさんたちがあふれ返っていた。空いている場所を見つけ、三人でしばし佇む。
「お前、ほんっと似合わねぇな、泥染め」
「うるさいなー 好きなの選んで良いって言ったじゃん!」
 克巳がシャーッと毛を逆立て始める。
「ちょっと俺の羽織と交換してみろ」
「やだっ」
「白の方が絶対似合うって。周平が惚れ直すかもしれないぞ」
 周平は直す余地もないくらいおれに惚れてるんだから惚れ直したりしない、と訳の分からないことをブツブツつぶやきながら、克巳は白い羽織を着てみせた。周平がどう反応するか知りたくなったのだろう。
「痛々しいな」
「うん、痛々しいねぇ」
「こっち着ても貶すのかよっ」
「いや、そうじゃない。俺が言うと怒るから周平言え」
「どこかのお姫様が、事情があって男装してるみたいに見える。似合ってるよ、とっても」
 克巳は小さくため息をつき、羽織を脱いだ。
「似合うのが嫌だから、明るい色を避けるんじゃないか。洋服も」
「そう言えばお前、深緑とか焦げ茶とか、パッとしない服ばっか着るよな」
「ボクだって本当は……」
「あっ、開いたみたいだよ」
 慌てて合切袋からチケットを出し、二人に渡した。おばさんたち(おじさんも多少混じっている)の流れに加わって扉をくぐる。
「ここで待ってろ」
 筋書きを二冊買って戻り、二人を席に連れてゆく。前から五列目、ほぼ真ん中。
「これ読んで予習しろ!」
「パンフレット?」
「そうだ」
「映画のより分厚いんだね」
 周平はあらすじを読み始め、克巳は役者のカラー写真をじっと眺める。
「ねえ、周平見てよ。この人とっても綺麗だねぇ」
「克くんは女形が好きなんだね」
「綺麗なものは何でも好きだよ」
 克巳は周平の肩にそっと頭を載せ、目を瞑った。
「俺、売店行ってくる」
 モナカアイス、は開演前に急いで食べると寒いな。弁当、だとさっき食事したばかりだから多過ぎる。
「サンドイッチ買ってきた。食え。お手拭きもある」
 周平が肩を震わせて笑い、克巳も目を開けた。
「君はアイドルみたいな顔してるくせに、中身はおばちゃんだよねぇ」
「おれ、前からそう思ってたよ」
 仕方ないじゃないか。これまでの人生、おばちゃんに囲まれて暮らしてきたんだから。
「ん? 何で俺の隣が克巳なんだ」
「周平の隣になんて座らせないっ! 危険だもん。暗い中でこっそり手をつないだりしたら」
「周平と手なんぞつなぐかバカッ」
「小学生じゃないんだから、席順でケンカしないでよ……」
 幕の内側から三味線の音合わせが小さく聞こえ、拍子木がキン、キン、と高い音で鳴り、開幕を待つ高揚感が劇場に満ちる。
 ガサガサガサッ
 ちーるー ちるー
「おいっ」
 音の元を見ると、克巳の向こうの周平がレジ袋から紙パックの飲み物を出し、ストローを挿して吸い上げている。
「もうじき始まるぞ。静かにしろよ」
「うん、大丈夫」
 ペコペコと紙パックを潰してガサガサとレジ袋に戻す。音が響いてヒヤヒヤする。
「コーヒー牛乳飲んだんだ。眠くならないように」
「コーヒー牛乳で眠気飛ぶか……?」
 幕が開き、客席の照明がゆっくり落ちてゆく。
 実を言うと、前半の演目はそれほど好きな話ではない。出演者を変えてしょっちゅう上演されるので、うんざりしてもいた。周平と克巳は観劇マナーを知っているのだろうか、途中で何かやらかすのではと不安だったが、おとなしく最後まで見ていた。
「どうだった?」
「面白かった!」
 反応が良いのは克巳だった。
「ポーズ決めるんだね。戦隊ものみたいに」
「見得切るところだな。セリフは理解出来たか?」
「半分くらい」
「……僕、トイレ行って来るね」
 周平がお腹を押さえて立ち上がる。
「痛いの?」
「うん」
「コーヒー牛乳を一気飲みしたりするからだ」
「おれも一緒に行こうか?」
「克くんが来ると気になっちゃうから一人で……」
 心ここにあらずの態で周平はロビーに出ていった。
「今生の別れみたいな顔で見送るなよ」
「大丈夫かな」
「腹壊しただけだろ」
 周りの客は一斉に弁当を食べ始めた。おしゃべりと食事の音で劇場全体がさんざめく。
「お前も弁当いるか? 欲しければ買ってくる」
「いいよ。お腹空いてない。七瀬くんのお母さんの料理、美味しかった」
「そりゃ良かった」
 克巳はこちらを向き、小さな声で言った。
「七瀬くんって本当にゲイじゃないの?」
「違うよ」
「じゃあ女の子と付き合ったことある?」
「ない」
「エッチしたことは?」
「ないよ」
「童貞なの?」
「そこだけ大声で言うな」
「それじゃあ、ゲイかどうか分かんないじゃん」
「自分の性的指向がどっち向いてるか、中学生くらいで気付くだろ」
「そうかもしれないけど……」
 克巳は背もたれに頬をくっつけて女性的なしなを作る。俺がやるとしたら何度も練習しないと難しいような動き。克巳の仕草は自然で愛らしかった。
「周平に告白されても、ちゃんと断ってね」
 こいつは本物のアホだ。本気で心配しているんだ。こんなにはっきり「いじめて欲しい」という顔をされたら、素直にいじめる他ないじゃないか。
「そうねぇ、付き合っちゃおうかしらっ 周平くん、キスがとっても上手だし」
 何故オカマ言葉。と自分にツッコミを入れつつ、人差し指をあごに当てながらブリブリと言ってやった。笑うかと思ったのに、克巳は目に涙をためて俺を睨んだ。
「ただいま〜」
 周平がモナカアイスを食べながら帰ってきた。
「お腹壊してるのにアイス。しかも自分の分だけ」
「壊してなかったんだ。快腸、快腸。アイス、欲しければ買ってくるけど?」
「俺はいい」
 克巳はうつむいて黙っている。
「着物、着崩れなかったか?」
「トイレ出たところで知らないおばあさんに『ちょいと坊ちゃん!』って呼び止められて、その人が帯締め直してくれた」
「そいつは幸いだったな」
 周平が席に座ると、克巳は周平のてのひらをぎゅっと握った。周平の顔が険しくなる。
「七瀬、克くんに何か言ったね?」
 何でそれだけで分かるんだ。
「周平がいない間に浮気しよう、って誘ってきたんだよ。確かに俺の方が美男子で君が発情するのも当然だ。しかし周平を裏切る訳にはいかな…… いってぇーっ!」
 克巳は俺のすねを草履で蹴った。素早く効果的な攻撃だった。
「お前、これ必殺技だろ。弁慶…… 痛ぁ〜」
「克くんが浮気なんてする訳ないじゃないか」
 周平は克巳のてのひらを両手で包み、子どもを相手にするように優しく言った。
「七瀬はひねくれ者だから、反対の言葉でしか愛情を表現出来ないんだよ。もし克くんが酷い言葉を言われたなら、それは七瀬が克くんのことを大好きって証拠だ」
「こんな奴に好かれたくないっ」
「ほら、次の舞台にさっき克くんが見てた、綺麗な女形の人が出るよ。機嫌直して」
 まるで幼稚園だ。でちゅよー バブゥー 全部お見通し、みたいな周平の態度にムカついて、俺は無言になった。
 周平と克巳は筋書きを開き、次の演目である「二人椀久」の解説を生真面目に読んでいる。
「この話にも『井筒』が出てくるんだね」
 周平が何事もなかったように明るい声で言った。
「そうだ。ネタバレになるが……」
「つついつのいづつにかけしまろがたけ」
 突然呪文を唱えるように言い出したのは、克巳だった。
「へー お前理系なのに『伊勢物語』読んでるんだ」
「分かんない。急に出てきた。たぶん高校の古典の先生が仕込んだんじゃないかな。もし『井筒』という単語が入力されたら『つついつのいづつにかけしまろがたけ』と出力しなさいって」
「さすが中高一貫の進学校は違うねぇ」
「その歌の意味は分かるか?」
「幼馴染み」
「短か過ぎる」
「うーん。『つついつのいづつにかけしまろがたけ』と言われたら『幼馴染み』と返しなさい」
「丸暗記というよりほとんど機械だな……」
 また怒り始めるかとびくついたが、機械と言われるのはそれほど嫌ではないようだった。
「子どもの頃、井戸のあたりで遊んでた幼馴染みの話なんだよ。大人になって疎遠になって、でもやっぱりあの人と結ばれたい、と願って贈った歌だ。井戸の囲いより低かった背も、あなたに会わないうちにすっかり伸びて大人になりました。結婚しましょ、そうしましょ」
「背が伸びないとプロポーズ出来ないのか……」
「いや、そこにショックを受けなくてもいい。ざっくり言うと『井筒』は昔馴染みの恋人同士の記号なんだ。だからお前の丸暗記は間違ってないし無駄じゃない。周平よりよっぽど話せるじゃないか」
「すごいねぇ、克くん」
「えへへ」
 少しは悔しがれよ周平。周平と克巳は愛しそうに肩を寄せ合って、頭をこつんとやわらかくぶつけた。
「で、この『二人椀久』は……」
 場内が暗くなってゆく。俺は話すのをやめ、周平と克巳は筋書きをカバンにしまった。

 狂気に浮かされた男が花道を進む。「二人椀久」の主人公、椀屋久兵衛。遊女松山に入れ揚げ、座敷牢に閉じ込められた挙句、そこを抜け出しさまよっているのだ。松山に恋い焦がれる久兵衛は、ふらふらと本舞台にやって来る。歩き疲れてまどろむと、そこに松山が。二人は一緒に踊り始める。
 この話にセリフはない。音楽と体の動きだけでストーリーと情感を表現する。久兵衛が松山の打掛けを羽織るのは、能「井筒」の井戸を覗く場面を踏まえているのだろう。
 久兵衛と松山は幸福に、愛を確かめ合うように踊り続けるが、音楽と感情がクライマックスに達した瞬間、松山は久兵衛の前から消えてしまう。
 じゃらくら じゃらくら
 じゃらくら じゃらくら
 印象的な歌詞が耳に残る。二人は再会を果たした訳ではなく、松山は幻影でしかなかったのだ。一人になった久兵衛は舞台にくずおれ、その寂しくあわれな姿に客席はしんみりした雰囲気になり…… 幕。
 いやー 良かった、良かった。最高、最高。そう思って横を見ると、克巳が顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。膝あたりの布を握り締め、えっ、うっ、としゃくり上げている。
 周りの観客は立ち上がり、出口に向かって動き出した。周平が席を立つと、克巳は周平の羽織の袖にすがりついた。
「どこにも行かないで……」
「行かないよ〜」
 周平は克巳を腕の中に引き寄せ抱き締めた。手慣れた動作だった。周平は俺の顔を見て、困ったように微笑む。
 久兵衛と同じくらいバカな男がここにいることを、他の客は誰も知らない。幕の裏で大道具を片付けるバタバタした音だけが、劇場に響いていた。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:07| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その5)

「あの女形の人はどうしていなくなっちゃうの?」
「幻っていう設定なんだよ。夢の中に偶然出て来たようなもんで、目が覚めたら終わりだ」
「男の人と女形の人はどうして一緒にいられないの?」
「松山は遊女…… まあ簡単に言えば売春婦だから、金がないと会えない」
「あの人だけ無料にしてあげたらいいじゃん!」
「いや廓っていうのはだな……」
 克巳は「二人椀久」の結末に本気で腹を立てていた。まるで久兵衛を不幸にしたのはお前だ、とでも言うように、激しく俺を責め立てる。
「夕ごはんどうしよう」
 周平は食べることしか考えてないみたいだった。
「おごるから安心しろ」
 母親とよく行くフランス料理屋へ連れていくつもりだったのに、周平が客引きに引っかかった。やたら流暢な日本語を話すインド人で、気が付くと俺たちはカレーのセットを注文させられていた。それほど美味いとも思わなかったが、周平と克巳はカレーが好きなようで、ガツガツとかっ込んだ。
「『じゃらくら』ってどういう意味?」
「でれでれ。お前たちみたいのをじゃらくらって言うんだろうな」
「ふうん?」
 克巳は口の端にカレーを付けたまま首を傾げる。周平は自分のハンカチを出してその汚れを拭いてやった。
「克くんは歌舞伎を満喫してたね」
「楽しかったけど、悲しかった」
「克くんは感受性が豊かだから」
 周平は克巳の頭を撫でる。俺はマンゴーラッシをじるーとすすった。
 支払いを済ませて店を出ると、克巳が周平の羽織をくいっと引っぱった。
「ごめん、僕たち有楽町から乗ろうと思って」
「克巳も?」
「今晩は僕のうちに泊まるんだ」
「ほー じゃあ帯をくるくるほどいて『あ〜れ〜』ってやるんだな。お互いに」
 俺はバレリーナみたいに回ってみせた。
「童貞のくせにうるさいっ」
 克巳は俺の弱味を握った気でいる。
「童貞で結構。俺は清い体で生きてくよ。そうだ、脱いだ着物は早めに呉服屋へ持っていって手入れしてもらえ。場所覚えてるか?」
 二人はそろってこくんとうなずく。
「どうせ今晩は床にほっぽっとくんだろうけどな。思う存分おしげりなんし」
 遊女っぽく裏声で言ってみる。二人は首を傾げる。意味分かるだろ、バーカ。
「職人さんたちが手間暇かけて糸染めて織った布だ。大事にしろ」
「もしかしてこれ、手織り?」
「そうだよ。大島について語り始めると長くなる。興味があったら自分で調べてくれ。じゃあな」
 手をつないだ着物のペアルックが、銀座の雑踏に消えてゆく。あいつらあんなにべったりで、別れる時どうするのかな。一生一緒にいればいいだけか。
 亀甲柄の羽織が二枚、はらりと床に落ちる。その上で二本の帯が蛇のようにからまりあい、体温と同じ熱さの着物が二枚重なって……
 地下鉄の階段を降りていた足が止まった。
 一生一緒なんて、本当に可能なのだろうか?

 家に帰ると、昼食の残りとイチゴがテーブルに並んでいた。
「育ち盛りの子が二人来るって言うから沢山作ったのに、いっぱい余っちゃった」
「もう三人とも育ち切ってるよ……」
 イチゴに練乳をかけてぱくりと口に入れる。
「あの子たち、可愛いわね〜 仲が良くて、子犬がじゃれてるみたい」
「恋人どうしだからな」
「えっ」
 母親はとっさに意味を理解出来なかったらしく、俺を見つめたまま固まった。
「ゲイなんだよ、ゲイ。衆道。男色。ホモ。分かる?」
「もちろん言葉の意味は分かるけど…… もしかして、耕一もゲイなの?」
「俺は違う」
「三人の中で一番ゲイっぽいじゃない」
「たぶん、学校の奴らもそう思ってるんだろうなぁ」
「今からなっちゃえば?」
 母親は目を輝かせる。
「なろうと思ってなるもんじゃないだろ」
「お母さん、そういうちょっと変わった子が良かったのに」
「今でも十分変わってるから安心しろ……」
 誰のせいでこんなに生きづらくなったと思ってるんだ、全く。
 数日後、周平が電話をかけて来た。
「この間は色々ありがとう。お母さんにもよろしくお伝えください」
 躾が良いんだな、と感心する。
「お前、退屈だったんじゃないか?」
「そんなことないよ。貴重な体験させてもらったと思ってる」
「どこが面白かった?」
「筋書きだね。映画のパンフレットは高い割に薄くて写真ばっかりでつまらないけどさ、歌舞伎の筋書きは読みでがあって好感が持てた」
「お前はほんと文章を読むことにしか興味ないんだな」
 まあ、俺も活字中毒だから気持ちは分かる。
「『二人椀久』の解説を読んで、入れ揚げることの怖さを考えた。僕も克くんに入れ揚げてるから」
「バイト代貢いでるのか」
「好きな人に捧げるのはお金だけじゃないよ。時間とか、未来とか」
 周平の声があまり幸福そうに聞こえなくて、心配になった。
「克巳とケンカでもしたのか」
「ううん。ラブラブだよ」
「なんだ」
「ラブラブだから困るんじゃないか」
 その頃の俺はまだ、ラブラブであることの危険性を知らなかった。
「とにかくありがとう。それじゃ、新学期にね」
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:05| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その6)

 三年生になると、学年全体が将来に向かって動き出すような感覚があった。マスコミを目指す連中は政治・経済の勉強をし始め、教員や公務員になるために予備校に通い出す奴もいた。周平は英語、克巳は情報処理の資格を取ったと言う。
「少しでも履歴書に書けることを増やしたいからね」
「情報処理の試験は会社に入っても受けさせられるんだ」
「僕も?」
「周平が行くような所のことは知らないよ。技術者は、って話。どうせやるなら学生のうちに取れるだけ取っておこうと思って」
「ご苦労だな」
 俺は読んでいた文庫にしおりをはさみながら二人を見た。
「完全に他人事だね」
「俺は就職しない。博士課程まで行ってその後も大学に残る」
「学者として生きるのって大変なんだよ」
 克巳の伯父は別の大学で教授をしているという話だった。
「承知の上だ」
「色仕掛けでどうにかする? 文学部は女の先生多いしさ」
 あごを上げて笑い、克巳は全力で俺を蔑もうとする。
「こう見えても七瀬は頭が良いんだよ」
「こう見えても、って何だ!」
「文学部の勉強なんて遊びみたいなもんじゃん」
「お前、周平には絶対そんなこと言わないだろ」
「まあ確かに会社に入ったら全く役に立たないだろうね」
「自ら文学を否定するな、周平……」
 不安なのはみな同じだった。もし学問の世界で職を得られなかったら。ネクタイ締めて満員電車に揺られる自分なんてうまく想像出来ない。周平は特に疑問もなく、大学を出たらサラリーマンになるつもりでいるらしい。三年の秋には気の早い企業が会社説明会を始め、そのたび授業を休む周平のために俺はノートをコピーしてやった。
 後期試験の後、所属するゼミが決まった。担当教授は歌舞伎の入門書も何冊か出している気さくな先生で、俺が提出したレポートを気に入ってくれていた。
 周平は映画のシナリオを読み込むゼミに入った。最初の顔合わせで、
「映画は年に一度くらいしか見ません。分からないことばかりですがよろしくお願いします」
 とにっこり自己紹介し、他のゼミ生をあぜんとさせた。周平以外は全員「年に数百本見るのは当然」の映画マニアなのだ。
「みんな親切にあれこれ教えてくれるよ」
 と嬉しそうにしている。そういう状況がどうして平気なのか。無知であることへの羞恥心の無さが羨ましく、少々恐ろしくもあった。

 俺の人生が唐突に狂ったのは、四年の六月。一週間続いた雨がやみ、色の濃い青空と濡れた草木が美しい朝だった。
「貯金が二百万円になっちゃった」
 ご飯にちりめん山椒をかけながら、母親は何気なく言った。
「俺用の通帳?」
「ううん。うちの全財産」
 透明な蝶のように言葉が脳を通過していく。二百万。全財産。……全財産?
「この間まで五百万くらいあったはずなんだけど、夏物買ったりしたら無くなっちゃって」
「ちょっと待てよ」
 母親はご飯を咀嚼し緑茶を飲んで、いつも通りの笑顔をこちらに向けた。
「今日から我が家は貧乏になります」
「貧乏って……」
 俺は貧乏なんて知らない。思考のスイッチを切られ頭が真っ白になり、目が勝手に見開く。
「明日から何食べるんだ」
 母親は声を立てて大笑いした。
「大丈夫よう。そんなすぐに飢えないから」
「でも、どこからもお金が入る当てなんか無いし」
「そう、その話がしたかったの! お母さん、来月から駅前の薬局で働き始めることになってね」
 グレープフルーツをスプーンでほじくり返しながら、明るい早口で言った。ウキウキしているんだ、お母さんは。
「パート?」
「ううん。正社員。いきなり管理薬剤師だって。二十年以上ブランクあるのにやれるのかしら」
「薬剤師?」
「薬剤師の資格持ってるって、言ってなかったっけ?」
 お母さん優等生だったのよー あんたの成績が良いのは遺伝子のおかげなんだから威張っちゃだめよー と母親は歌うように続ける。そんな歌、聞きたくない。
「大学の学費も払い終わってるし、贅沢をやめれば普通に暮らせるわよ」
「俺、大学院に行くつもりなんだけど」
「何それ、知らない。就職するんじゃないの?」
「博士課程まで……」
 声が震えてる。
「それはけっこう苦しいなぁ。耕一が大学卒業したら子育て終了だと思ってたのに」
 まっとうな意見だ。二十二歳まで育ててくれたことにだって感謝すべきなのだろう。しかし人生には計画というものがある。突然「今日から貧乏」はないだろうよ。
 どんな手立ても浮かばず教室でうつむいていると、周平が声をかけてきた。
「頭抱えてどうしたの?」
「我が家は没落した」
 周平は爆発するようにギャハハハ、と笑った。
「君は何をやるにしても時代がかっているよねぇ!『姉さん。僕は、貴族です』」
「太宰治ごっこをする余裕はないんだ、マジで」
 俺は今朝の母親との会話を全て話した。
「二百万もあるなら不安になることないよ。僕の通帳には二十万しかない」
「お前は実家からの仕送りがあるじゃないか」
「七瀬のお母さんも働き始めるんでしょ?」
「あの人のことだ。『やっぱりお母さんには無理だったわ〜』なんて言って三日で辞めてくるかもしれない」
「もう少ししっかりした人に見えたけどね」
 周平は腕組みしてしばらく考えていた。
「七瀬が就職しちゃえば何の問題もない」
「嫌だっ」
 まだ全然足りないのだ。知識が。考える力が。
「大学院には行く。何がなんでも行く」
「そうなるとお金が必要だね。学費と生活費」
「奨学金をもらうのはどうだろうか」
 即座に賛成してくれると思ったのに、周平は渋い顔で首を振った。
「奨学金というと聞こえは良いけど、あれは借金だもの。修士課程までならともかく、博士課程が終わる頃にはとんでもない債務が君の肩にのしかかることになる」
「のんきにオーバードクターなんぞ出来ない」
「もちろん」
「服を売るか」
「いくらブランド品でも、中古の服はそう高く売れないと思うな。それより今あるものを大切に着て、新品を買わずに節約した方が良い」
「テレホンカード、は売れないだろうなぁ」
 携帯電話が普及したせいだ。この数年で瞬く間に必需品になった。俺は流行に乗りたくなくて意地でも買わないつもりでいるが、周平は就職活動が始まる前に自宅の電話を解約し、携帯だけを利用していた。
「作ってもらった着物、返そうか?」
「人にやったものを頼みにするほど俺は落ちぶれてないっ」
「その性格じゃ苦労しそうだね。でもそれでこそ七瀬だ」
 周平が何故か誇らしげに微笑んで、俺は泣きたくなるような、安心するような、不思議な心持ちになった。
「とりあえずバイトを始めたら」
「何もしない訳にはいかないだろうな」
 勉強や読書に使える時間が減ると思うと悔しくてならなかった。
「ホストクラブとか?」
「何でだよ!」
 周平はクスクス笑いながら言う。
「昼間は学校に来たいだろうから夜の仕事で。無駄な美貌がようやく活かせる」
「給料は良さそうだなぁ……」
 ホストとして働く自分を想像してみる。
「おばさんたちにモテる自信はあるが、他のホストと話が合わない」
「わがまま言っちゃいけないよ」
「でもなぁ……」
 孤独にはもう耐えられそうにない。周平や克巳と親しくなってしまったから。
「オカマバーは? 藤娘の写真、綺麗だったじゃないか。君は確かに二丁目で働けそうな女顔だ」
 あれは冗談だった、とのちのち周平は繰り返すことになる。しかし俺は本気で良い案だと感じてしまったのだ。
「それだ!」
「……え?」
「オカマは話が面白そうじゃないか。俺が伝統文化について熱く語っても、真面目に聞いてくれそうな気がする」
「どうだろう……」
「オカマの知り合いはいないのか」
「オカマを『男性同性愛者』の意味で使うなら僕もオカマのうちだろうけど」
「いや、もっと女っぽい奴」
 周平は首を振る。
「オカマバーで働くような人たちについての知識は、君とほとんど変わらないよ。テレビに出てるのを見るくらいで」
「オカマとゲイは隣接領域だろ? 電気工学と電子工学みたいに」
「研究してる訳じゃないもの。克くんだけで間に合ってる」
「最後はのろけで締めるんだな」
 周平と話したことで、気持ちが上向きになった。金が無くなっても、自分の中にある記憶や思考能力は俺のものだ。たとえ借金まみれになったって、これだけは誰にも盗めない。
 もともと俺が欲しいと願っているものは、手に入れるのが難しいのだ。道はさらに険しく困難になった。しかし諦めたりするものか。進め。進むことに意味がある。
 次の日、周平がレポート用紙を一枚、俺の前に置いた。
「人を募集してるオカマバーをいくつか見つけたよ」
 紙には店名と住所、一番下には簡単な地図が書いてある。
「ネット?」
 パソコンを使うのは俺より周平の方が上手い。克巳に習ったと言っていた。
「ううん。昨日、新宿の紀伊國屋へ行く用事があったから、ついでにオカマバーも回ってきた」
「求人広告でも貼ってあったのか」
「一軒一軒店に入っていって尋ねたんだよ。『フロアの求人はありますか』って」
 俺は本気で感動した。
「お前、いい奴だなぁ!」
「気付くのが遅いよね」
 周平はシャーペンの先で店名をつついた。
「この店がおすすめかな。赤鬼みたいなおじさんが出て来て丁寧に受け答えしてくれた。『あなたは金運は良いけど恋愛運はイマイチねっ でもきっといつか素敵な出会いがあるわ!』だって」
「完全に恋人いないと思われてるな」
「占いは大はずれだけど、ああいう世話好きな人がいると職場の雰囲気が悪くならないんじゃないかな」
「ああん、どうしよう。あたし、履歴書上手に書けな〜い! そもそも履歴書を買うお金がな〜い!」
「余ってるの分けてあげるから、急におネエにならないで…… 心臓に悪いよ」
 周平の指導のもと、俺は生まれて初めて履歴書を書いた。働くのだって初めてだ。プレッシャーで胃の調子がおかしかった。
「失敗したって良いんだからさ、肝試しだと思って行っておいでよ」
「お化け屋敷か」
「そうそう。イベントとして楽しんじゃうんだ」
 周平はとうの昔に大手電機企業への就職が決まっていた。知り合った当時はうすらぼんやりしていた周平が、いつの間にか俺より大人になっている。尊大に振る舞っていた自分が情けなかった。
 オカマバーではどんな人材が求められているのだろう。お客を喜ばせ、人気者になれる人。お客は何を喜ぶのか。何はともあれ、客はまずオカマが見たいのだ。ニセモノだとバレたら「金返せ」と怒り出すかもしれない。
 俺は…… あたしは本物のオカマだ。どう頑張っても男らしくなれず、注意してないと言葉や動作がつい女性的になってしまう。男として生きることを強要してくる世間に嫌気が差して、オカマバーで働こうと決めたのだ。
 世間に嫌気が差してるのだけは本当だな。

**********
「姉さん。僕は、貴族です」
 は、太宰治「斜陽」からの引用です。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:04| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その7)

 母親のタンスからブラウスを無断借用する。袖や首回りがゆったりしているデザインで、着てみると、試着して買ったみたいに体に馴染んだ。耳の後ろに香水をかける。母親の匂いがして心が休まる。いや、休んでる場合じゃない。
 化粧をしていった方が良いだろうか。……いや、やめておこう。洋服用の化粧は経験がない。女装に慣れたオカマを演じたらボロが出る。男にも女にもなれず戸惑っている、という演技の方が嘘が少ない。男の格好をしながら、はしばしからにじみ出る女っぽさ。それはそれでかなり高度だ。けれども難しい踊りに挑戦するような心地好い興奮があった。詰まるところ俺は、俺ではない何かになるのが大好きなのだ。
 目の細かい櫛で髪を整え、眉とまつげの乱れをチェックする。ヒゲはかみそりで怪我をしないギリギリまで深剃りした。鏡台の引き出しにチューブ入りのリップクリームがあったので、小指に出して塗ってみる。天ぷらを食った後ようなツヤが出た。
 これが今の俺の精一杯だ。
 周平くん、あたし頑張る。

 面接のために通された部屋は、表のケバケバしいネオンとはかけ離れて、無個性かつ殺風景だった。灰色の棚。灰色の事務机。乱雑に積み重なった書類。机の向こうに座っている人は「社長」と呼ばれていた。顔を真っ白に塗っており、能面の白式尉と姥(じいさんとばあさん)を足して二で割ったよう。人間存在を超越したオーラがあった。
「あなた日舞やってんの」
 社長は履歴書の特技の欄を見て言う。
「下手っぴなんですけどっ 踊っている間はお姫様になれるのが嬉しくって。『男の子だなんて思わなかった』とか『女の子より可愛い』とかとか、いっぱい褒めてもらってぇ……」
 全部嘘じゃねえぞ。襟あしやブラウスの袖口を指でいじり、上目遣いで社長にちらりと視線をやった。
「踊ってみてよ」
「ええ〜っ ほんっと、好きなだけで全然上手じゃなくてぇ〜」
 頬を両手ではさんで二、三度首を振り、困り顏でパイプ椅子から立ち上がる。予想通りだ。そう言われるだろうと思い「京鹿子娘道成寺」を練習し直しておいた。自分が最も可憐に見える場面を、唄いながら踊る。
「どうでもおなごは悪性者〜」
 ブラウスとズボンという姿だと、かなり間抜けな感じがする。しかし「現代のオカマ」より「昔の女」を演じる方が慣れていて気が楽だ。
「都育ちは蓮葉なものじゃえ〜」
 俺は床に体を横たえ、ねちっこく流し目を送った。無垢な娘から遊女の顔へ。あたしを、買ってください。
「ふうん、お金に困ってるんだ」
 つい素に返って息を呑んだ。
「どうして分かったんですか?」
「何年この仕事してると思ってるの」
 本当に何年なんだろう。数百年?
「弁天小僧にならないでよね」
「ゆすり、かたりなんてしません! お店のお金に手を付けるとか、そういう心配は……」
「そっちじゃないわよ。お客の前で正体を明かすなってこと。にせオカマ!」
 社長は般若の顔になり、両目をビカッと光らせた。本当に光った! 恐怖で全身に撃たれたような衝撃が走り、それが落ち着くと、悲しい気持ちになった。失敗か。どんな職場なら俺を受け入れてくれるのだろう。時給の安いバイトでは学費が出せない。サラリーマンになったら勉強の時間が作れない。
 社長はホッホッホ、と高い声で笑った。
「傷つくと、憎たらしいほど可愛くなるのねぇ。ずーっといじめてようかしら」
「いえ、帰ります。お時間取らせて申し訳ありませんでした」
 椅子を引いて立ち上がろうとすると、
「あら、ぶりっ子はもうやめたの?」
「才能が無いようなので諦めます」
「諦めが良いのは美点じゃないわよ」
 俺は社長の顔を見た。普通の、優しげなおっさんの顔だった。色が白いだけで。
「働きたいなら働けば良いじゃない。その花のかんばせも十年経てばギトギト、二十年経てばシワシワになって、二度と元に戻らないんだから」
「花の色は移りにけりないたづらに」
「その通り。花が散るまで、飲んで歌って騒がなくちゃ。頭にネクタイ巻いてね」
 よく分からないが、俺は採用されたらしい。大学の授業のことなどを尋ねられ、とりあえず来週から週三回来るように言われた。
 社長のいる部屋を出ると、赤鬼そっくりのおじさんが目をキラキラさせて近付いてきた。これが周平を占った奴か。
「どうだった? 合格でしょ?」
「そうみたいです」
「キャーッ! じゃあ今日からお仲間ねっ あたしたち、とっても仲良しになれる気がする」
 どうだろう。俺がテンションについていけてないことなどお構いなしに、赤鬼は両手で俺の右手をつかんで激しく振った。
「いたらない点も多いと思いますが……」
「堅苦しいあいさつは無しよ! ここは夢の国なの。浦安にディズニー、新宿にオカマバー。世知辛い世の中を生きる人々には、夢と希望が必要なの」
「はぁ……」
 赤鬼は一歩下がって、俺の顔や体を上から下までジロジロ眺めた。
「白雪姫も裸足で逃げ出すような美しさねっ あなたはきっと沢山の人を楽しませて幸せに出来る!」
 また当たらない占いか。先輩だと思うと邪険にする訳にもいかず、俺は再びぶりっ子になろうと決めた。
「自信ないんですぅ〜 お仕事するのも初めてだしぃ〜 女の子の格好も〜 日舞の時しかしたことないしぃ〜」
「大丈夫!」
 赤鬼は俺の耳にすっと口を近付け囁いた。
「あたしもね、妻と子どもがいるの」
 え? 何も答えられずにいると、赤鬼はチェシャ猫の笑みを浮かべて、
「世界はあなたが考えるより滅茶苦茶で支離滅裂だから安心しなさい。学生は同じ年代の、似たような境遇の人とばかり一緒にいるから、知る機会がなかなかないと思うけど」
 安心? こいつもにせオカマ? ゲイじゃないだけ? 偽装結婚?
 一番の問題は、俺がにせオカマだってバレてることだ!
「俺の女の演技、そんなに下手ですかね」
「お仕事始まったら、特訓してあ・げ・る」
 赤鬼はフフフと笑う。変な奴だが、性根は悪くなさそうだった。
「あたしの名前は『ゆめこ』よ。あなたは?」
「七瀬耕一です」
「じゃあ『ナナちゃん』ね。この間お店に来た可愛い坊ちゃんはお友達? 丸眼鏡の」
 ゆめこさんはそう言って人差し指と親指で丸を作り、目に当てる。前に母親も周平を可愛いと言っていた。意外とおばちゃん受けが良いんだな。
「そうです」
「あの子、自分をウブに見せるのが上手ね。油断しちゃダメよ」

 家に帰るとどっと疲れが出た。今日一日で十年くらい経ってしまった気がする。明日になったら髪が真っ白になっているんじゃないか。
 幸い鏡の中の寝起きの俺は、二十二歳の見た目のままだった。あの店は竜宮城ではなかったらしい。どんよりした顔を冷たい水で洗って目を覚まし、学校へ向かう。
「オカマバーへの就職が決まった」
 俺が神妙に報告すると、周平は目を見開いて固まった。
「本当に?」
「そうだよ」
「本当の本当に?」
「そうだよ」
「本当に本当の本当に?」
「しつこい!」
 一瞬の間の後、周平はぎゃっはっは、ぎゃっはっはと泣きながら大笑いした。
「まさか本当に面接に行くとは思わなかった〜」
「お前が見つけて来たんじゃないか!」
「全部冗談のつもりだったんだよ。履歴書まで書いちゃって、ノリが良いなぁ、って感心してた」
「冗談であそこまでやるか?」
「だって、七瀬がオカマになるなんて絶対無理だと思ってたから。おネエでもゲイでもないってすぐバレたろう」
「よく分かるな」
「君には自分がどう見えるかという意識がまるでないじゃないか。ゲイはこの社会で少数派だから、目立って攻撃されないために何かしら工夫してるはずだよ。僕だってゲイじゃなかったら『普通』になるために努力したりしなかった」
 俺は驚いて周平の顔を見た。
「お前はただ平凡なんじゃなく、意図的に平凡なのか」
「どうだろうね。どこまでが作った自分で、どこまでが本当の自分かなんて分からないよ。ただ、ゲイだったことは人格形成に影響を与えたと思う。あの人目を気にしない克くんだって、彼なりに色々苦労してるみたいだし」
「あいつは妙にピリピリしてるよな」
 周平は左右を見て、克巳がいないことを確認した。教室まで入ってくることは滅多にないのだが。
「克くんには絶対に言っちゃダメだよ」
「何だ、秘密の暴露か」
「たぶん彼は、もっと女の子みたいになりたいんだと思う」
「今だって十分女の子じゃないか」
「あれで男らしくしてるつもりなんだよ」
「お前の前だと女っぽくなったりするのか」
「逆。僕の前だともっと男っぽくなろうとする。でも時々、左利きの人が右利きに矯正してるような歪みを感じる。僕としては、もっと楽に生きて欲しいんだけど」
 周平は誰もいない空間をじっと見つめた。
「ゲイっていうのは外から差別されるだけじゃなく、自分の中の気持ちの整理も大変なんだな」
「そういう繊細な人たちのサンクチュアリに土足で踏み込もうとしていることは忘れない方が良い」
 周平はいつも通り、穏やかな微笑みを浮かべている。しかしその内側に、熱い怒りがあるのは明らかだった。
「なあ。俺は酷いことをしようとしてるのか?」
「君を責めてるんじゃない。ただちょっと気をつけて欲しいと思っただけだよ」
 周平は俺の顔を見て、目を細めた。
「本格的に女装したら、さぞや美しくなるだろうね。お店としては不細工な本物のオカマより、綺麗なニセモノのオカマの方がありがたいはずだ。何よりお客を喜ばせるのが大事だもの」
「残酷だな」
「商売というのは徹頭徹尾、残酷だよ。……七瀬は僕だけのものだったのに、みんなのものになっちゃうんだね」
「なあに、それ。愛の告白? 克くんに言いつけちゃおうかしらっ」
「いややや、本気でマズいからやめて」

**********
「花の色は移りにけりないたづらに」
 は小倉百人一首(小野小町)からの引用です。
 
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贋オカマと他人の恋愛(その8)

 オカマバーでは最初のうち、とにかくおとなしくしていなさい、と言われた。ドレスを着て先輩に化粧をしてもらうと、
「こんな美女と現実で出会うことはないだろうな」
 と思う程度には綺麗になった。ナルシストだったら二度と鏡から離れなかっただろう。俺は美人にも自分にも興味がないので、夢の中でも出会えないレベルになるために、他人の技を盗もう、と誓った。
 案の定、俺はおばちゃんにモテモテだった。特に地方から観光で来るおばちゃん軍団は、競い合って俺と記念撮影したがった。
「この子、男の子なのよ。タマタマはまだ付いてるって!」
 と留守番の旦那に写真を見せるのだろう。楽しい東京の夜の思い出。自分が金閣寺、銀閣寺みたいな存在になれるのは素直に嬉しかった。
 観光客の中には歌舞伎座へ行ったと言う人もおり、演目を聞くとつい名場面を再現してしまう。
「『女郎は客をだますものと、知ってはいれど色香に迷い、度重なったその挙句、身請けをしよう、なろうと言う、相談さえもまとまって、我が花とせぬそのおりに、手折りし主の栄之丞ゆえ、満座の中で悪口され、恩を仇にて次郎左衛門に、よくも恥辱を与えたな』
『そんなら解けたとおっしゃったは、誠のことではなかったか』
『積もる思いも人目をいとい、今日まで胸にこらえていたも、辺りをはばかりこの二階で、われに遺恨を返さんためだ』
『そのお腹立ちはもっともながら、これには深い訳のあること、お気を鎮めてくださりませ』
『今さらとなり言い訳聞かぬ、八ツ橋、われが命はもらったぞ!』
『アレーッ』」
 女形はともかく立役が男らし過ぎて先輩はハラハラしたと思うが、おばちゃんたちからやんややんやの大喝采を浴びたので文句は言われなかった。言わせるものか。
 一方、男性客には面白いくらいモテない。俺が見えてないんじゃないかと疑いたくなるほど無視された。彼ら、特に酔っ払ったサラリーマンは、本物のオカマをしっかりと嗅ぎ分ける。彼女たちの多くは肉体と精神の性の不一致により普通の職場に馴染めず、選択の余地なくオカマバーに勤めていた。人あしらいの下手さにつけ込み、サラリーマンは胸や腹のあたりをベタベタ触る。男の体に女の心。これ以上気安いおもちゃが他にあるだろうか。
 あんまりおイタが過ぎる時には、妬いている振りをして割って入った。彼女たちに触れたがるサラリーマンも、守りたいと願う俺も、男なのだなぁ、と感じ入る。オスとメス。猿の集団を観察しているようだ。
 接客を重ねるうち、この店における自分の立ち位置が見えてきた。楽な仕事ではないが、これならしばらく続けられそうだ。

「今日、おじいさんを殺しそうになっちゃった〜」
 心配していた母親も、三日で辞めることなく薬局の仕事を続けていた。
「大丈夫なのかよ」
「お母さんが悪いんじゃないのよ。医者の書いた処方箋がいい加減で、薄めなきゃいけない薬をそのまま出しそうになって」
「薬剤師というのは薬の正しい濃度を知ってるんじゃないのか」
「お母さん、元・薬剤師だもーん。というよりニセ薬剤師?」
 お前もニセモノかよ。
「資格持ってるんだろ」
「薬剤師の免許が更新制じゃなくて助かったわ〜 大学で習ったことなんて綺麗さっぱり忘れちゃってる」
「恐ろしいな」
 五十を越えて仕事を再開するのは相当キツかったらしく、母親は家事、特に掃除を全くしてくれなくなった。家中が荒れ果ててゆくのを見かねて、俺が掃除機をかけ、トイレや洗面台を磨くようになった。ふた月前には毎日勉強のことだけ考えて過ごせば良かったのに。風呂場でカビキラーを流すためにズボンの裾をビシャビシャにしながら、平家物語の冒頭をつぶやいた。
 八月には大学院の入試があった。学内推薦で入れることは決まっていたので、形だけの口頭試問だ。卒業に必要な単位は取り終えていたから、後は無事に卒論を出せれば…… いや、大学院の学費がまだ用意出来ていない。周平には反対されたが、いざとなったら学資ローンでも何でも組んでやる。
 卒論の準備は順調だった。必要な資料はあらかた家にそろっている。仕事と掃除で時間がなくなった分、優先順位をつけて早め早めに行動した。三年まで遊びほうけていたら大学院どころか卒業も難しかったかもしれない。脇目も振らずガリ勉を続けた自分に感謝した。

 佐知子さんが最初に店に来たのは、蒸し暑い夏が終わり、大気が生まれ変わる秋の始まりだった。
 ゆめこさんに呼ばれて個室へ行くと、ソファーに女の客が座っていた。おばさんとは呼びにくい、しかしお姉さんと呼ぶにはとうが立っている。そんな肌質だ。こちらを向き、間違いが無いか確認するような目で俺を見た後、ニコッと微笑んだ。
「お金はいくらでも出すから、この店一番の美人をお願い、って頼んだの。そうしたら入口の赤鬼さん『この店には美人しかいないのよ。あたしを見れば分かるでしょ!』だって」
「きっと鬼の世界ではあの人も美人なのよ」
 女は手で口元を隠して笑う。
「どんな人が来るんだろうってドキドキしながら待ってたんだけど。良かった。ちゃんと一番綺麗な子にしてくれたんだ」
 俺はウーロン茶をテーブルに置き、五十センチほど距離を取って女の隣に座った。
「名前を教えて」
「ナナ。ナナちゃんって呼んで。あなたは?」
「佐知子」
「じゃあ『サッちゃん』ね」
「あはは。子どもの頃みたいでくすぐったいな」
「いや?」
「ううん、それで良い」
 サッちゃんは夢見るようにうっとりと俺を見つめ続けた。
「お金はいくらでも出すなんて豪儀ねぇ」
「豪儀!」
 そんなに変な言い方だろうか。俺は自分の意図と関係なく笑われることがたびたびあった。
「おかしい?」
「ごめんごめん。若いのに、ずいぶん古風な言葉を使うと思って。じゃあ私も合わせて昔っぽい歳の訊き方をしよう。ナナちゃんの干支は?」
「辰」
 眠そうなタレ目がパッと丸く開いた。
「ちょうど一回り違うんだ。私も辰年。十二支の中で唯一の架空の動物」
 ということは三十三か三十四。サッちゃんは両手を開いて言った。
「カルテが無いと不便だね。全部聞き出さないといけない」
「まぁ、お医者さんなの?」
「産科医」
 つい生つばを飲み込みそうになって自分に呆れる。中学生か、俺は。
「興奮する? ……そんな訳ないね。男の子が好きなんだから」
 俺は何も答えず曖昧に笑った。
「私、不良になるためにこの店に来たんだ。灰皿ある?」
 サッちゃんは黒い大きなカバンから白い箱を出し、その中の茶色い棒をつまんだ。タバコにしては太く長い。
「葉巻?」
「院長のをくすねて来た」
「大丈夫なの……?」
「裁判したら絶対勝てる、ってくらい超過勤務させられてるんだから、葉巻一本なんてどうってことないって」
 二人で葉巻をじっと眺める。
「吸い方は?」
「知らない」
「あたしも知らないわよ」
「ハサミある? 確か、火をつける前に端を切るんだ」
「ちょっと待ってて。千年前から生きてるオカマに訊いてくる」
 ノックしてドアを開けると、社長は分厚い帳簿に何やら書き付けているところだった。
「あの、葉巻を吸う人の接客はどうやれば良いんでしょうか」
「吉田茂でも来てるの?」
「とっくに死んでますよ」
 俺はシガーカッターを借り、葉巻は置いたままにしておくと火が消えてしまうことなどを教わった。
「乱暴されそうになったら逃げてね」
「はっ? 何でですか」
「今どき葉巻を吸うなんて、威張りくさったジジイじゃないの」
「女性です。可愛らしい」
 社長は無表情で俺の目をまっすぐ見た。
「なお危ない」
 サッちゃんのいる部屋へ戻って、言われた通り端を切り、反対の端にマッチで火をつけた。甘く妖しい香りが部屋に満ちる。
「素敵ねぇ。タバコは嫌いだけど、これなら歓迎だわ」
「でしょ、でしょ!」
 サッちゃんは楽しそうに葉巻をくわえ、すぐにゲホゲホ咳き込んだ。
「うえええ」
「吸うと不味いの?」
「私はダメだ」
「香りは良いのにね」
 それは阿片の匂いに似ていた。と言ってももちろん実物を嗅いだ経験はないから「想像の中の阿片」だ。頭の芯が麻痺し、現実なんてどうでもよくなる重怠い空気。
「あたしも吸ってみて良い?」
「どうぞ。私はもういいや」
 深く吸うと体に悪そうなので、口に含んだ煙を誰もいない方向へ吹いた。
「舞台女優みたいに決まってる。でも若い女の子がタバコ的なものを吸っていると止めたくなるわねぇ、職業柄」
「平気よ、ニセモノの女の子だもん」
 サッちゃんは本物の女じゃないか。心配になって左手の薬指を見ると、指輪はなかった。マニキュアは塗っておらず深爪で、子どもっぽい手だ。
「結婚してるかチェックしてるの?」
「ご、ごめんなさい。不躾に」
「大丈夫。妊娠する可能性は一ミリもない。おそらく永遠に」
 病気か何かかな。俺は言うべき言葉を見つけられず、黙り込んだ。
「そんな悲しそうな顔しないで。私、男の人が苦手なんだ。だから一生誰とも付き合わないだろうなって、ただそれだけ」
「あたしも男よ、一応」
「ナナちゃんは怖くない。美人をお願いしたのは、なるべく女らしい人に来てもらいたかったの。別に面食いな訳じゃないんだよ。……葉巻の火、消えちゃったね」
「もう一度つける?」
 サッちゃんは首を振った。
「お香みたいに焚いておけたら便利なのに」
 これからまた病院に戻ると言って、お酒は一滴も飲まなかった。それでもサッちゃんは酔った人のように饒舌になって、満足そうに帰っていった。

**********
「女郎は客をだますものと……」
 は歌舞伎「籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)」からの引用です。
 
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2015年12月19日

贋オカマと他人の恋愛(その9)

「卒論は進んでる?」
「どうにかな」
 四年の後期は授業を入れずゼミだけにしたので、周平に会う機会は格段に減った。その日はたまたま図書館で出くわし、一緒に昼食を取ることにした。
「お前は?」
「興味のない映画を立て続けに見るのはけっこう苦痛だね」
「そりゃそうだろうよ」
「まあ、能よりはマシだ」
「不眠症になったら見に行け」
 周平の笑顔を久々に見て、俺もホッとする。
「克巳は元気か」
「うん。卒業研究で忙しそうだけど」
「あいつは就職決まってるのか?」
「克くんも大学院だよ」
「学費出せるのか」
 周平は生姜焼きをモグモグ噛みながらうなずく。
「お小遣いが少ないのは家の教育方針で、彼は本当のお坊ちゃんだもの」
「悪かったな、ニセモノのお坊ちゃんで」
「もはやお坊ちゃんですらない」
「全くだ」
 金が無くなったことを話題にすると、周平は嬉しそうな顔をする。我が家の没落を喜んでいるように見えるのは気のせいか。
「働き始めてから、たくましくなったよね」
「だと良いんだがな」
「大きくなれよ〜」
「お前に言われるとムカつく」

 銀杏の葉が散って道が黄色く染まる頃、サッちゃんが再び店にやって来た。あいさつをするより前に、俺の胸元にすっと何かを挿し入れる。引っ張って取り出す時に、ことりと床に物が落ちる音がした。
「プレゼント?」
 それは藤色のスカーフだった。
「あげたかったのはこっち」
 サッちゃんは床に落ちた物を拾ってテーブルに置いた。
「え……?」
 丸められた一万円札が輪ゴムで留めてある。広げてみると十枚あった。
「スカーフはご祝儀袋の代わり。使ってくれたら嬉しいけど」
 有名ブランドのマークが入っている。大尽客の寵を得た遊女。芝居や物語では馴染みのある場面だが、いざ自分がその立場になってみると、どうしたら良いのか分からない。
「いやだった?」
「そ、そんなことない。ちょうどお金に困ってて……」
 しまった。そんな話、客にするつもりないんだ。
「そうなの? 一億二億じゃ無理だけど、額によっては出してあげるよ」
「ううん、これで十分!」
「借金?」
 事実を話し始めたら、俺の正体まで全部さらしてしまいそうで怖かった。
「借金はないの。ただね、えーっと…… パパが商売でしくじって、夜逃げしちゃったの」
「パパって、パトロンのこと?」
「ううん、実の父親。それで突如、あたしの細腕で年老いたママを養わなきゃいけなくなったわけ」
 年老いてないし、あんたに養われた覚えもなーい! と怒る母親が見えるようだった。迷惑かけられたのは確かなのだから、ネタにするのは許して欲しい。
「それまでは裕福でね、可愛い服も好きなだけ買ってもらえて、でもパパがいなくなってから一枚も買ってないの」
 買う必要もないくらい、タンスは服でパンパンなのだが。
「だからこのスカーフをもらえて、とっても嬉しい! 宝物にする!」
 これでうまくつながったんじゃないか? どうだろう。
「お父さんはどんな仕事をしていたの?」
「不動産」
「ああ、バブル崩壊で酷い目に遭った人がいっぱいいたらしいね……」
 父親の人柄は訊かないでくれ。俺も知らない。
「サッちゃんのパパは何してるの?」
「医者だよ。商店街の真ん中で開業医してる」
「すごーい」
 サッちゃんは困ったような、誇るような、不思議な笑みを浮かべた。
「父も、伯父も、兄たちも、みんな医者なの。他の生き方を知らないのね」
「立派なことよ。サッちゃんの一族は世界を守ってる。みんなの健康を取り戻して」
「それなら良いんだけど」
 温かいレモンティーを一口飲み、サッちゃんは続けた。
「実家は個人でやってる診療所だから大した検査も出来ないし、重い病気が疑われる患者さんには紹介状を出して、大きな病院へ行ってもらう。でもね」
 寝ているような目が、さらにとろんと溶ける。
「みんな戻って来ちゃうの。『東京まで通うのは面倒だから最期まで先生診てくれよ』って言って。それで死んじゃうの。父の前で」
「ねえ、もしかしてお父さん、サッちゃんと顔が似てるんじゃない?」
 不意を打たれたような表情でこちらを向く。
「そうだよ。瓜二つ」
「絶対そうだと思った! サッちゃんを最初に見た時にね、なんて優しそうな人だろう、仏様みたい、って感じたの。みんなきっと安心しきって天国へ行ったわよ」
「それって良い医者なのかな。励まして闘病させて、長生きさせるべきじゃなかったのかな」
「別に無理して生き続けるほど良い世の中でもないじゃない」
「……それもそうね」
「尊敬出来るお父さんがいて羨ましいわぁ」
「往診も進んでするし、昔気質な人よ。父は患者さんたちの干支を全部覚えてるの。性格が分かって診察の役に立つんだって」
「今で言う血液型占いみたいなものかしら」
 サッちゃんはうなずく。
「佐知子は辰年で本当に良かった。もう少し遅く生まれて巳年になっていたら大変だった。巳年の人は執念深くて、ちょっとのへまも一生忘れない。巳年の患者を診る時にはいつもの何倍も緊張する…… なんて言うの」
 サッちゃんは笑うが、俺はゾッとして笑えなかった。早生まれの克巳は巳年なのだ。
「これって差別よね」
「かつて干支の迷信には無視出来ないほどの影響力があった。丙午みたいに」
「次の丙午には私もヒマになるかな。それともその頃には、血液型しか気にしなくなってるかな」
「何も気にせずのんきに暮らしたいわ」
「本当にね」

 サッちゃんが帰った後、大慌てで社長の部屋へ行った。
「お客さんから十万円もらいました」
「良かったじゃない」
「巻き上げないんですか?」
 社長は机の上のアメを投げた。
「痛っ」
「『マージン取らないんですか』とか、言いようがあるでしょう」
「ああ…… とにかくこのお金はどうすれば」
「帰りにATMへ寄って貯金したら。最近は物騒だし」
「全額自分のものにして良いんですか」
「あなたが受け取ったチップじゃない」
「チップにしては高過ぎます」
 社長は帳簿から顔を上げ、俺を見た。
「まずはアメを舐めて落ち着きなさい」
 ぶつけられたアメを拾うと、ミルキーだった。
「昔働いてたお店がね、チップを半分納めるルールで、それがとっても嫌だったの。やられて嫌なことは人にしないのがあたしの信条」
「でも」
「巻き上げて欲しいの?」
 社長は目を細め、唇だけで笑う。
「十万円分働いたとは…… とても思えなくて」
「葉巻の女でしょ。来店した時には死んだような顔してたのに、生き返ってニコニコして帰ったって、ゆめこが言ってた。立派なもんじゃない」
「一緒に葉巻を吸って、たわいない話をしただけです」
「歳を重ねると、その『たわいない話』をするのが難しくなるの。忙しくなってケチになって、人の話を聞くために時間を割くのが惜しくなる。それでも自分の話は聞いて欲しい。そのジレンマをお金で解決する人たちが、うちみたいなお店の最高のお客になってくれるわけ」
「佐知子さんはケチなんじゃなくて…… 疲れてるんです。朝から晩まで患者の話を聞いて、夜勤もしょっちゅうで、ヘトヘトなんです」
「そしてここに来て元気になって、十万円置いていった。ねえ、あなたが何を気に病んでいるのか、あたしにはちっとも分からないんだけど」
「十万円もらったからには、もっと何かしなきゃいけないんじゃないでしょうか」
「何するの。体でも売るつもり?」
「いえ……」
 佐知子さんが望んでいるのはそんなことじゃない。
「お客は気まぐれに好き勝手なことするんだからさ、いちいち思い詰めていたら身が持たないわよ」
「はい」
「せいぜいがっかりさせないよう頑張ったら。ほんと、顔に似合わずクソ真面目なんだから」
「顔は関係ないです」
 頑張る、というのはずいぶん抽象的な言葉だ。結局どうしたら良いのだろう。
 サッちゃんはその後、ひと月に一度くらいのペースで店に来た。俺を指名し続け、十万円のご祝儀も欠かさなかった。そのおかげもあって、大学院の最初の年の学費はどうにかなりそうだった。
「昨日、卒論提出してきた。これで卒業出来ると思う」
「あらそう。良かったわね」
 母親は俺の勉強の話にほとんど興味を示さない。昔からそうだ。いくら良い成績を取っても褒められたためしがない。母親が俺に求めているのは、もっと別の何かなのだろう。
「そう言えば、大学院の話はどうなったの?」
「行くよ。試験にも合格してる」
「学費出せるわよ」
 俺は母親の顔を見た。
「修士でも博士でも、どこまででも行ったら良いわ。おばあさんになってばったり倒れるまで働くから。悪い男にだまされたと思って、耕一に貢いじゃう」
「ひでぇな……」
 母親にそんな覚悟をさせるとは、落語に出て来るダメな若旦那みたいだ。まあ、似たようなものか。
「一年目の学費は用意してある。二年目以降はどうなるか定かじゃない。もしかしたら借りることになるかもしれない。でも、基本的には自分で出そうって決めてるんだ」
 母親は思わぬものを見つけたような顔で、俺を見上げた。
「遠慮しなくても良いのよ?」
「本来なら就職すべき状況なんだ」
「バッグを五十個売ってお金を作ったのに」
「五十個?」
「あんまり気に入らなくて使ってないものを手放したの。女なら誰でも、三百個はバッグを持っているものよ」
「腕は二本しかないだろ……」
「耕一は男だから分からないでしょうね」
 男か女かの問題か?
「家に生活費を入れる余裕はないと思う。ごめん」
「生活に困ったら、またバッグを売りましょう」
 没落貴族の優雅な微笑みを浮かべて、母は玉露をゆっくり飲み干した。
 卒業式には黒紋付の羽織袴で出席した。女子学生は和装も多かったが、男はスーツか普段着だったのでひどく目立った。すれ違う人がみなこちらを見る。
「女の袴にすれば良かったのに」
 久々に会った克巳が薄笑いで言った。本人は深緑のジャンパー、つまりいつも通りの格好をしている。
「少し考えた。しかしうちは貧乏になったからな、レンタル料が惜しくてやめた」
「女装したらもっと注目されてたかもね」
 周平は新品の、体に馴染んでいないスーツを着ていた。
「ここにいるどんな女より綺麗になる自信があるぞ。不慣れな安っぽい着物を着た女たちは何であんなに醜いんだ」
「そうかなぁ。キャーキャー騒いで楽しそうじゃん。ちょっと羨ましい……」
 克巳は周平と手をつないだまま、袴姿の女子学生の集団を見つめていた。お前こそ女装すれば、という言葉がのど元まで出かかり、ぐっと飲み込んだ。それは克巳にとって、軽く冗談に出来るような話題ではないのだ。
「周平はスーツを着ると大人っぽくなるよね」
「大人というより『おっさん』だろ」
 克巳は俺の茶々を完全に無視し、周平を見上げ、ポタポタ涙を流し始めた。
「一人だけ…… 遠くに行っちゃう…… 周平、周平……」
「別に卒業したって何も変わらないよ〜」
 二人の世界になってしまい、俺は観客になる。俺がいなくなってからやれよ。というより、俺が早くいなくなるべきなのか。
「邪魔者みたいだから俺は帰るぞ」
「えっ、そうなの? もうちょっと話そうよ」
 周平は名残惜しそうにする。克巳の髪が怒りで逆立つのを感じる。ああバカ周平。
「いいじゃん、こんな奴! おれが大事な話をしてるのに! 周平はいっつも七瀬、七瀬って、ムカつくんだよ!」
 卒業式くらい罵倒されずに済ませたかったのに……
「もう会うこともないだろうから腹立てるなよ」
「せっかく仲良くなったんだから、また三人で会おうよ」
「嫌だ! 会いたくないっ」
 俺は羽織の袖でそっと口元を隠し、周平に流し目を送る。
「じゃあ二人っきりでお会いしましょう、周平くん………」
 克巳が目をギラギラさせて俺を睨む。
「いーやーだっ! 絶対ダメッ!」
「な? どうやったって俺はお前たちに会えないんだよ」
「寂しいなぁ」
 克巳は周平を憎しみの目で見る。
「お金持ちになったらうちのお店に来てちょうだい」
「行くもんかっ」
「克巳は大学院なんだから、これまで通り文学部の方へ遊びに来てくれたって良いのよ?」
「行くもんかーっ 周平のいない文学部になんて何の意味もない!」
「ねえ七瀬。克くんも落ち着いたら考えが変わるかもしれないし、また三人で会おうよ。せっかく友達になったんだ」
 周平の声には真心がこもっていて、胸が熱くなったのを、俺はすぐに隠した。
「チワワを説得出来たらな。じゃ、二人とも元気で」
 結局その後、三人で会うことは、二度となかった。
 
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贋オカマと他人の恋愛(その10)

 大学院での研究は自分一人でやって来たことの延長線上にある。お仕着せばかりの中学・高校の学習。それよりマシとはいえ自由の少ない大学の授業と試験。俺の歩む道とは離れ平行に進んでいた学問の道が、ようやくこちらに近付いて来た。
 ゼミの輪講などとは別に、高校時代から記録し続けている観劇ノートをパソコンで打ち直す作業もした。歌舞伎ファンのためのホームページを作るのが目的だ。俺は専門家だけでなく、一般の人たちがどのように歌舞伎を楽しんでいるのかに興味があった。アンケートを取り、ゆくゆくは研究にも活かしたい。人を集めるのにインターネットは金もかからず便利だった。
 オカマバーでも業者に頼んでホームページを作成してもらうことになり、トップ画面に俺の写真を使っても良いかと社長に尋ねられた。
「構いませんよ」
「ここで働いていることが家族や友達にバレて困ったりしない?」
「母親には内緒にしてますけど……」
 オカマとして働いていると知ったら、母親が狂喜乱舞するのは目に見えている。近所の人を集めてツアーを組んで店に来てしまうかもしれない。人と違う、美しい息子を自慢するのが母の最大の喜びなのだ。親孝行も悪くないが、巻き込まれるご近所さんたちに申し訳ない。
「母はパソコンを使えないので、大丈夫だと思います。たとえバレても、田舎から逃げるように出て来た他の子みたいな被害はありません」
「それなら良いんだけど」
 社長は心底心配していたらしく、ホーッと大きく息を吐いた。
「ただし下手な写真だったら撮り直しさせますから」
「は?」
「腕の良いカメラマンにしか撮られたことがないんです」
 日本舞踊の発表会で俺の撮影を担当していた人の名前を告げると、社長は目を剥いた。
「何でそんな有名な写真家なのよ!」
 あごをツンと前に出し、高慢な笑みを作ってみせる。
「あたしを誰だと思ってるの?」
「本当に何者なのよ……」
 俺が子どもの頃、その写真家はまだ駆け出しで、気軽に素人の撮影もしてくれたのだ。有名になった後も呼び続けるために、母親が大枚はたいていたのは想像に難くない。
「没落した成金です、単なる」
「うちはそんなお金かけられない。ゆめこに撮らせようと思ってた」
「せめてプロにお願いしましょうよ。売り上げに響きます」
「すでに予算オーバーで泣いてるのにぃ〜」
 社長が電卓とにらめっこし、営業マンと大ゲンカを繰り返した末に完成したホームページは好評で、明らかに客が増えた。
「ネットに出てるあの子に会いたい!」
 と俺を指名してくれる人も多く、にわかに忙しくなった。研究と仕事。余分なことを一切しない生活は飛ぶように過ぎてゆく。内省の時間が少ないのは気になったが、充実感があり楽しかった。
 予約客のパーティーが終わり部屋を出ると、ゆめこさんが手招きしている。
「何ですか」
「さっき佐知子さんが店に来たの」
 決定的な失敗をとがめられたような感触で、血の気が引いた。
「事情を説明したらすぐ帰っちゃった。挨拶だけさせましょうかって言ったんだけど」
 その日の客は俺を直接指名した上で予約を取っていた。たとえ上客の佐知子さんが来たとしても、長時間部屋を離れる訳にはいかない。
「あの人も予約してくれないかしら」
「予定の立たない仕事なんで、無理だと思います」
「そうよね……」
「もしまた今日みたいなことがあったら、引き止めて俺を呼んでください」
「あんまり意地悪は言いたくないんだけど」
 ゆめこさんは耳元に顔を寄せて囁いた。
「今のあなた、すごーく男っぽくなってるから気をつけてね」
 火が出るほど顔が熱くなった。真っ赤になっているのが自分でも分かる。
「い、いつも通りです……」
 ゆめこさんはニヤリとし、その後何故か寂しげに微笑んだ。
「サッちゃんはナナちゃんの大切なお客様だもの」
 釘を刺されているのだ。分かっている。
 一体の文楽人形が脳内を横切った。あれは……「心中天網島」の小春か。ダメ男の紙屋治兵衛と一緒に死んだ律儀な遊女。俺は小春だろうか、治兵衛だろうか。心中しようと誘ったら、サッちゃんは断るはずだ。自分のためではなく、待合室にずらりと並ぶ腹の中の赤ん坊のために、あの人は生きている。たとえその列の終わりが見えなくても。

 ひと月ほど後、佐知子さんは再び店に来た。俺は他の客の席にいたため、ゆめこさんが気を利かせて交代してくれた。
「あたしナナちゃん。急に二十年経って太っちゃった」
「えー」
 無茶な会話を背中で聞き、足早に佐知子さんのいる部屋へ向かう。
「久しぶり。会えて良かった」
 今までで一番具合の悪そうな顔をして、それでも嬉しそうに俺を見上げる。
「この間はごめんなさい」
「いいの。それよりホームページ見たよ。私のスカーフ、使ってくれてるんだね」
 撮影の時、最初にもらった藤色のスカーフを首に巻いた。この遊女は佐知子さんのものです、という印として。そのことを伝えたかった。でもどうしても上手く口に出せなかった。
「……似合ってた?」
「とっても! 私もナナちゃんみたいに美人だったら、おしゃれを楽しめるのに」
「お洋服を選ぶのは嫌い?」
「無難な服ばかり買っちゃう」
「サッちゃんのように淑やかな人は、洋服より着物が似合うわよ」
「淑やかなんて言われたことない。タレ目だから?」
 そのタレ目をいよいよ細くして、サッちゃんは笑う。
「そうね、ききょうの花を散らした友禅はどうかしら。サッちゃんの優しさと聡明さが引き立つわ。綺麗よ、きっと」
 サッちゃんは表情を失くし、顔を背けた。
「着物は嫌い?」
「そんなことない。素敵だと思う。成人式にしか着たことないけど」
「……ねえ、やっぱりこの間会えなかったこと怒ってる?」
「そんなことない。仕方ないことじゃない。仕事ってそういうものでしょう。ただ」
 その続きをなかなか言ってくれなかった。息苦しい無言の時間が続く。
「サッちゃん?」
「お金で誰かの時間を買うなんて恥ずかしいね」
 音もさせずに、サッちゃんの瞳から涙の粒がこぼれた。
「ごめん。今日の私、おかしい」
「働き過ぎて疲れてるのよ。オカマバーはお客さんが元気になるための場所なんだから、そのために泣いたって笑ったって良いのよ」
「仕事は辛くないんだ。緊張するし忙しいけど、赤ちゃんが産まれてくれば全部報われる。そういう現場に立てることを誇りに思ってる」
 サッちゃんの目から、たぶんさっきとは違う意味の涙が二粒ばかり落ちて、唇に微笑みが戻る。
「原因は私にあるの。最近ね、妊婦さんやお母さんになったばかりの人たちと話していると『上辺は素直に私の話を聞いているけど、心の中で私を軽蔑しているんじゃないか』という気持ちが膨らんで、時々耐え切れなくなる」
「被害妄想」
「分かってる」
「ねえ、働いている病院に精神科もあるんでしょう? 時間見つけて診てもらったら?」
「これは病気じゃない。だから治せない」
 医者にそう断言されてしまうと、素人の俺にはどうしようもない。
「『医者の不養生』とか『紺屋の白袴』とか『坊主の不信心』とか、その手のことわざがいっぱいあるじゃない。よく起こることなのよ」
「坊主の不信心」
 サッちゃんは笑いながら俺の首筋を撫でて、すぐに手を引っ込めた。
「私は医学を信じてないのかもしれないね」
 
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贋オカマと他人の恋愛(その11)

 ゆめこさんはこの店の隠れた有名人だ。よく当たる占い師、どんな重たい内容の相談でも受け付ける市井のカウンセラーとして、口コミで評判が広まった。客が客を呼んでくる。店のホームページにはゆめこさんの情報をあえて出していない。悩み事を抱えた客が殺到して、ゆめこさんの負担が増えるのを社長は心配していた。何しろゆめこさんは、社長を含めた社員全員の相談役でもあったのだから。
「精神病のお客をどうするか?」
「まだ確定じゃないんです。精神科へ行くよう勧めても、病気じゃないって言い張って」
「サッちゃんでしょ? あの人、病気じゃないわよ」
 ゆめこさんは「お医者様でも草津の湯でも」と適当なメロディーで歌って腰を振る。
「からかわないでください。妄想の症状が出てるんです。悪化すると『智恵子抄』の智恵子みたいになってしまうんじゃないですか」
「高村光太郎。美しいわねぇ…… 悪いけど、本当の精神病はあんなにロマンティックじゃないから」
「見たことあるんですか」
「常連客の九割が精神安定剤を飲んでる」
「ほとんど精神科医じゃないですか」
 噂にたがわぬ深刻さに、度肝を抜かれる。
「あたしが説得して病院に通わせてる人もいるもの。医者もたまには紹介料払って欲しいわー」
「説得はどうやって」
「さっきも言ったように、サッちゃんは病気じゃないから説得しても無駄よ。あの人の心は人一倍強靱。自分が今どんな状況にあって、問題を解決するために何をしたら良いか、ちゃんと自分で考えて実行出来る」
「そんな風に見えないです」
 ゆめこさんは慈悲深い顔になり、背伸びして俺の頭を撫でた。
「うわっ カツラ取れますから!」
「だってぇ〜 可愛いんだものー」
 他の客の前で馬鹿騒ぎしている時も、学校の図書館に籠もり資料を漁っている時も、佐知子さんのことが頭から離れなかった。俺は佐知子さんに何をしてあげられるのだろう。一ヶ月経っても、二ヶ月経っても、佐知子さんは店に現れなかった。俺が思えば思うほど、二人の距離は遠くなるようだった。
 学校も仕事も休みのある日、自室で短いレポートをまとめている最中に、母親が俺を呼んだ。
「辻堂くんから電話よ」
「辻堂?」
 ゼミにそんな名前の奴はいない。オカマバーで働いている誰かの本名だろうか。十秒ほど悩んだ末、それが克巳の苗字であることを思い出した。周平ならともかく、克巳? 訝しみながら受話器を耳に当てると、聞こえて来たのは泣き声だった。
「七瀬くん? 周平が……周平が……」
「何だ! 周平死んだのか!」
「違う、死んでない。生きてるけど……浮気……」
「周平が浮気したのか」
 アホらしい。犬も食わない痴話げんかか。俺は克巳が勝手にやきもちを焼いているのだろうと解釈した。
「違う。おれが……浮気して……」
「はぁぁぁぁ?」
 叫び声のような大声を出してしまって、母親ががらりと戸を開ける。
「何ごと?」
「すまん、何でもない」
 受話器の向こうの訳の分からない男は、ずっとしゃくり上げている。
「何で浮気なんかしたんだよ!」
 泣き声が激しくなるばかりで、答えない。
「切るぞ」
「切らないで! 会って、話して……お願い……」
 女みたいなか細い声で繰り返し懇願され、俺は大学近くのファミリーレストランを待ち合わせ場所に指定した。机の上に広げた資料をカバンに突っ込み、家を出る。浮気? 克巳が? はたで見ていて異様なほど、一途だったのに。気が付けば大学卒業から一年近く経っている。電車の中でレポートの続きを書きながら、幸せそうに体を寄せ合う克巳と周平を思い出していた。
 レストランの入り口に立つ克巳は、卒業式と同じジャンパーを着てうつむいていた。茶色い髪がにわか雨に濡れてぐしゃぐしゃになっている。
「克巳」
 俺を見るなり克巳は、その場でへたり込んで泣き出した。
「こんな所で座るな! とりあえず店に入れ!」
 克巳の腕を引っ張り、不審がる店員の視線を気にしないようにして、コーヒーを二つ頼んだ。席に座ってしばらくの間、克巳は何も言わずに泣き続けた。鼻水が垂れて困っている様子だったから、ポケットティッシュを渡した。
「あ……りがどう」
「俺に何の用だ。忙しいんだよ。泣いてるお前を眺め続けるヒマはない」
 傷ついている人間に対して、もっと別の言い方もあるだろうに。改めて自分が嫌いになった。
「ごめん。……周平に電話をかけて欲しい」
「俺が?」
 克巳はこくんとうなずく。
「何でだよ」
「おれが浮気して……周平怒って……電話に出てくれなくなった」
「そりゃそうだろう」
 克巳の目から絶え間なく涙が流れ出る。優しくしたいと思うのに、キツい言葉でいじめ抜きたいという気持ちが抑えられない。ああ、俺はこいつに腹を立てているんだ。冷静になろう。何か事情があるのかもしれない。
「落ち着いて最初から話せ。黙って聞いてるから」
「ホテルで男とセックスしている時に、周平から電話がかかってきた」
 いきなり生々しいな、とツッコミたいのを我慢する。
「携帯を、そいつが、取って…… おれが代わったら、すぐ切れた。その後いくら電話をかけても出てくれない」
 他人の携帯に簡単に出たりするものだろうか。ゼミの学生も職場のオカマたちも、財布と同じかそれ以上に、携帯電話を大事にしている。他人の財布は勝手に開けない。携帯も、自分以外の人間にはむやみにいじらせない印象がある。浮気の理由も言わないし、克巳の話はちぐはぐだった。
「おれがかけてももうダメだから。七瀬くんなら大丈夫でしょう?」
「電話で周平に何て言えば良いんだ」
「ごめんなさいって。許して欲しいって」
 許すか? という感想も飲み込む。周平は克巳を信じていた。どこを叩いても壊れないくらい完璧に信じていた。俺まで一緒に克巳を信じてしまうほどに。信用ならない奴だったんだ、最初から。
 それにしても、何故こいつはこんなにぎゃんぎゃん泣いているのだろう。周平が浮気したならともかく、自分で浮気しておいて。俺は克巳の痩せた小さな体を見つめ、ハッとした。
「まさかお前、無理やりやられたんじゃないだろうな」
 克巳は大きく首を振った。
「おれが『やろう』って言って誘った」
 頼もしく感じるくらい、きっぱり言い切る。いや、そんなところで頼もしくなられても。
「周平ってさ、セックスがワンパターンなんだ」
「俺にそんな話するな」
 周平はセックスの内容なんて俺に聞かれたくないだろう。逆の立場だったら絶対に嫌だ。克巳は制止など無かったように話し続けようとする。言葉で殴るつもりで言ってやった。
「じゃああれか、周平のセックスに飽きて浮気したのか」
「違う……違う!」
 克巳は両手で顔を覆い、再び泣き始めた。
「おれたち、一度もセックスなんてしなかったのかもしれない」

 何なんだ。何なんだよ。周平と克巳がケンカしようがセックスしようがちんちんかもかもだろうがどうでもいいんだ。俺には何の関係もない。せっかくの休日が台無しじゃないか。頭の中で暴れる雑念を振り払い、帰りの電車でレポートを書き上げる。バカ克巳。セックス、セックスって破廉恥なのよ!
 公衆電話からかけると拒否されるというので、自宅の電話から周平に連絡を取ることになっていた。克巳に頼まれた伝言よりも、いったい何があったのか周平に説明してもらいたかった。
 母親と食事をした後、電話の前に立って周平の携帯の番号を回す。呼び出し音が数回鳴った。
「七瀬?」
「おお、よく分かったな」
「番号登録してあるから…… どうしたの?」
「実は克巳がな」
 何の断りも前触れもなく、通話は切れた。それから何度かけてもつながらない。これが着信拒否というものかと、しんと静かな心で思った。
「すまん。俺もつながらなくなった」
「えっ……」
 携帯電話の雑音を挟み、俺と克巳は沈黙する。
「どうして?」
「お前の名前を出した途端に切られた」
 克巳の呼吸は荒く、震えていた。
「巻き込んじゃってごめん。ありがとう」
 俺が返事をする前に、克巳は通話を切った。不安か不満か、モヤモヤした気持ちが胸に湧き、克巳の携帯にかけ直した。
「何?」
「お前は着信拒否するなよ」
「しないよ。する理由無いし」
「すげえムカつくな、着信拒否。だんだん腹立ってきた。俺は問答無用というのが一番嫌いなんだ」
「周平のこと怒らないであげて。おれが全部悪いんだ。周平は七瀬くんのこと大好きだよ。尊敬してるっていつも言ってた」
「これが尊敬する相手にやる仕打ちかよ」
「周平のこと許してあげて。お願い……」
「分かった」
「本当に、本当に、ごめんね」
 電話を切る時、また克巳は泣いていた。
 寝床に入って目を閉じても、脳は頑として休もうとしない。全く意味不明の一日だった。疲れた。ほんの十秒ほどの電話で、友達を……親友を失ったのだ。俺はどうすれば良かったのだろう。
 周平とは大学を卒業してから一度も連絡を取らなかったし、そのまま音信不通になってもおかしくなかった。四年限りの縁だったと思えば、拒絶の痛みも多少和らぐのではないか。俺は薄情者だ。俺は薄情者だ。俺は薄情者だ。祈りの言葉のように繰り返し唱える。
「お前、いい奴だなぁ!」
「気付くのが遅いよね」
 あんな風に遠慮なく話せる奴は他にいない。俺のマニアックで長ったらしい話を、興味深そうに聞いてくれる奴も他にいない。
 克巳はどうして浮気なんかしたんだ。その挙句、失恋女みたいに泣きわめいて。自業自得だ。克巳を軽蔑すれば済む話なのに、俺にはそれが出来なかった。
 釈然としない思いを抱えたまま、忙しい日々に戻る。俺は桜のつぼみを毎日見上げた。冷たい空気にさらされながら、ゆっくりと確実に丸みを帯びてゆく。大学受験を控えた冬にも、よくこうして桜が咲くのを待っていた。不可解な世界を憎み、それでも何かを期待して。
 あの頃、学び続ければ何かをつかめる気がしていた。けれども実際は、学べば学ぶほど、本を読めば読むほど、人と会えば会うほど、分からないことが増えてゆく。答えのページの無い問題集を心にたんまり溜めて死ぬのかと思うと、やるせなかった。
「悩みでもあるの?」
「さすがお医者さんは鋭いわね」
 長いこと御無沙汰だったサッちゃんが店に来てくれたというのに、明るく振る舞えない。他の客の前では隠せる本心が、サッちゃんを前にするとあえなく漏れてしまう。絶対に知られてはいけないものを慎重により分けて、本当の話をしようと決めた。
「友達にね、着信拒否されたの」
「ケンカ?」
「違うのよ! その子もオカマなんだけど! オカマとオカマの争いに巻き込まれて!」
「何だか大変そうねぇ」
「オカマAが泣いてるから、ついあたしはその子の味方をしちゃって、そうしたらオカマBが機嫌損ねて、あたしとの連絡も絶っちゃったわけ」
「ナナちゃんは何も悪いことしてないんだ」
「そうよっ!」
「ただちょっとお節介だった」
 俺はサッちゃんの顔を見た。患者の相談を聞く医者の表情だった。
「ごめんなさい。お客さんの話を聞くのがあたしの仕事なのに、愚痴をこぼしたりして」
「ううん、ナナちゃんのプライベートな話が聞けて嬉しい。オカマのAさんとBさんが羨ましいな」
「えっ…… 何で?」
「ナナちゃんに愛されてるから」
 サッちゃんは下を向き、ストローの袋を結びながら言った。
「そんなことないわよ! あんな恩知らずよりサッちゃんの方がずっと大事!」
「どうかな」
 声に責めるような響きがあった。しかしすぐ、いつものとろける微笑みを浮かべてこちらを向く。
「ごめん。私も愚痴っぽくなっちゃった。これでおあいこ」
「……ねえ、近松門左衛門は知ってる?」
 サッちゃんは目をまん丸にした。これまで見た中で最も大きい。
「急に何?」
「知らないならいいんだけど……」
「ううん、高校の時に暗記した覚えがある。文学史だな。……江戸時代の小説家?」
「脚本家の方が近いわね。近松は遊女とお客が心中する話をよく書いたの。『曾根崎心中』『冥途の飛脚』『心中天網島』」
「曾根崎心中は聞いたことあるかも」
「あたし、この仕事を始めるまで、遊女がどうして心中に応じるのか理解出来なかったの。だって、お客とはお金でつながっているだけでしょう?」
 お金という単語に反応してサッちゃんは涙ぐむ。その手を両手で強く握った。
「実際はそうじゃないのよ。お客さんに選んでもらうと、遊女も幸せになるの。もちろん心に染まない相手じゃ嫌だろうけど、素敵だなと思う人がわざわざお金を払って自分の所に通ってくれたら、情が湧くわ」
 サッちゃんは顔をそらして言う。
「ナナちゃんも私に選ばれて幸せだった?」
「幸せよ。どんな言葉で表現したらいいか分からないくらいに」
 二人の視線が合う。怖がらせたくなくて、でも真剣に見つめることしか出来なかった。
「遊ぶのって難しいね」
 一番大切な客にこんなことを言わせる俺は最低だと思った。社長がもし見ていたら何をぶつけられるか知れたものじゃない。いや、クビにされる。
 落ち目のお笑い芸人のように悲壮な気持ちで、別の話題を探した。
「ねえ、サッちゃんはバッグをいくつ持ってる?」
「バッグ? こういうの?」
 サッちゃんはわきに置いてある黒い大きなカバンを軽く叩いた。
「知り合いの女が『女なら誰でも、三百個はバッグを持っている』って言うの。本当かしらと思って」
 サッちゃんはようやく少し笑った。
「私はこれ一個しか持ってない。中身を移すのが面倒でしょ? 学会誌とか専門書でいつもパンパンだから」
「あたしと一緒!」
「……え?」
 学会誌を持ち歩くオカマは可愛くないな。えーと。
「雑誌とか恋愛小説がいっぱい入ってるの。出先で読むものが無くなったらと思うと心配で、つい何冊も詰め込んじゃう」
「分かる〜」
 二人で手を取り合って喜んだ。
「私たち、似ているのかもしれないね」
 見送りの時に、小さな声で甘えた。
「次は間を空けないで来てね」
 サッちゃんはこちらを見ずに早口で言った。
「私、四月から長野の病院で働くことになってるんだ。だからもう来られない」
 そして新宿の街に駆け出し、消えた。

**********
「お医者様でも草津の湯でも」
 は「草津節」からの引用です。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:57| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その12)

 俺の顔は母親に全く似ていない。高級ブティックで流行りの服を選ぶように、いつかどこかで見目麗しい男とセックスしたのだろう。俺には関係のない話だ。
 もし醜く生まれていたら、おばちゃん以外に全くモテない、つまり誰にも恋愛対象にされないことを、顔のせいに出来たはずだ。外見を褒められるたび、中身に何の価値も無いことを思い知らされたりせずに。
 サッちゃんは本当に長野へ行くのだろうか。俺がただの男だということに気付いて、気持ち悪くなったのかもしれない。馴れ馴れしく手を握ったりして。触れたくてたまらなかった。指先に、まだサッちゃんの感触が残っている。
 いくら疑っても、サッちゃんが二度と店に来ないことには変わりがない。彼女の言葉をそのまま信じよう。都会の喧噪と汚れた空気を逃れて、今よりずっと健康的に仕事をするのだ。待合室の窓からは深い緑の木々と、山桜が眺められる。サッちゃんは幸せになる。幸せになる。
 長野にもオカマバーはあるのだろうか。りんごのほっぺをした純情なオカマに、またスカーフを贈るのだろうか。
 俺はそいつの細い首を力いっぱい絞めた。十人殺しても二十人殺しても足りなかった。
 俺はサッちゃんの幸せを願っている。
 俺以外の前で幸せにならないで欲しい。
 サッちゃんは勘の良い人だ。俺の中身の汚さを、とうに見抜いていただろう。離れていって当然だ。
 自分の不手際で上客を失ったことを社長に謝りに行った。消しゴムかボールペンでも投げつけられるかと思ったのに、それを望んでいたのに、社長はただ一言、
「そう」
 と言った。責めも慰めもしなかった。ゆめこさんの反応もだいたい同じだった。
「桜も咲いていることだし、たまには美味しいものでも食べに行きましょう」
 社長は俺とゆめこさんを、八丁堀のうなぎ屋へ連れていってくれた。何故わざわざ新宿から遠いビジネス街に飯を食いに行かねばならないのかと不審に思ったが、確かにその店のうな重は極上だった。
「こんなに美味しいのを食べたら、近所のうなぎ屋なんて入れなくなるでしょう」
 社長は優しく笑って、小指を立てた手で口元を隠し、楊枝を使った。客のほとんどが仕立ての良い背広を着た白髪の紳士で、俺たち三人は男装(?)していても浮いていた。
 今年の桜は色が薄く、散る花びらが雪に見えて混乱する。春の明るい日差しの中で踊る鷺娘。地獄の責め苦。
 春休みが終わり、大学に学生たちが戻ってきて、やっと俺は自分の本業を思い出した。金を稼ぐことだけが本業ではない。自分に価値が無いことなんて大昔に気付いていたんだ。だからこそ努力で知識やものの見方を身に付ける研究者の道を選んだ。俺自身は空疎でも構わない。自分の外側にある素晴らしいものを見つけ、見つめ、解析し、言葉にするのが俺の仕事だ。
 サッちゃん。

 克巳から連絡があったのは、桜の季節とゴールデンウイークが終わり、梅雨入りのニュースが流れてしばらく経った後だった。湿気を含んだ空気が重く鬱陶しい。
 前と同じファミリーレストランの入り口に立つ克巳を見て、背中から首筋に寒気が走った。もともと痩せていた体がさらに痩せ、骨に皮をかぶせたようだ。骸骨が透けて見える。
「七瀬くん」
 落ちくぼんだ目の下には黒いくま。光を失ってどこを向いているか分からない瞳。顔も体も別人だった。しかし今日は泣いてはいない。
「あの後、周平の家へ行ったんだ」
 席に案内され、克巳は話し始めた。
「周平が会社から帰って来るまで、近くで待ち伏せしてた。九時か十時か、すごく遅くに周平は来て……おれ追いすがったんだ」
 ストーカーだな、と思うが言わない。アイスコーヒーを飲みながら黙って聞く。
「『ごめんなさい、許して』って言っても、周平はこっちを見ないで、おれなんていないみたいに真っ直ぐ歩いて行っちゃうんだ。『周平、周平』って何度呼びかけても振り向きもしない」
「それは酷いな」
 無視される辛さは着信拒否で十分味わった。浮気に怒っているなら、その旨をきちんと伝えるべきではないか。つい俺は克巳の味方をしてしまう。
「そのままアパートの部屋に入っちゃって…… おれドアをドンドン叩いて泣き叫んだ。『もう迷惑かけないから出て来て』って」
「迷惑だな」
 克巳は今日初めて笑った。ガリガリで全然綺麗じゃなくなったのに、周平と仲良くしていた頃より女っぽく見える。交通事故か何かで突然命を奪われ、自分が死んだことに気付いてない女の幽霊みたいだ。
「矛盾してるよね。夜中にさ、大声で『迷惑かけない』って…… こんな奴、無視されて当然だなと思って、急に醒めたんだ。今まで見えなかった色んなことが見えてきて…… おれがいない方が、周平は幸せになるって、分かった」
 死んだ瞳から無感動に涙が流れ落ちる。
「周平はね、翻訳家になりたかったんだよ」
 初耳だった。夢の話なんて一度もしなかったが、確かに周平は外国語が好きだったし得意だった。
「そのために留学しようとしてたんだけど……おれがやめさせたんだ。行っちゃダメだって言って泣きわめいてパンフレットをびりびりに破いて手が血まみれになって……『僕はどこにも行かない』って周平……」
 克巳は顔に手を当てて本格的に泣き始める。
「おれは周平の人生を滅茶苦茶にしたんだ」
「滅茶苦茶ってほどでもないだろう」
 文学部では就職先が決まらないまま卒業する奴も多かった。周平は大企業の正社員になり、堅実に勤め続けている。オカマに身をやつして学者を目指す俺より、世間的に見ればよほど成功者だ。
「留学のことだけじゃない。他にも色々……」
 克巳はしゃくり上げ、当分泣きやみそうになかった。
「お前、ずいぶん痩せたけど…… 飯食ってるのか?」
「食べてない」
「少し食べた方が良い」
 メニューを渡そうとしても、克巳は首を振る。
「食べたくない」
「でもそのままじゃ……」
 死ぬぞ。
 俺の危機感が伝わったらしく、克巳は釈明し始めた。
「母親がおかゆを作ってくれる」
「ここの店の料理じゃ胃にもたれそうだもんな」
 こいつは今、普通じゃないんだ。病人みたいなものなんだ。
「周平に無視された日から、食べられなくなって、眠れなくなった。生きていくためにやらなきゃいけない当たり前のことが、全部出来なくなっちゃって……」
 克巳はどことも知れない一点に視線を固定したまま、動かなくなった。
「おい!」
 何故七瀬くんが目の前にいるのだろう? と不思議がるような顔で俺を見る。
「ああ、ごめん」
「大丈夫か?」
「おれ、心配してあれこれ言ってくる母親を…… 殴りそうになった」
 克巳の親を見たことはないが、何となく想像はついた。真面目で教育熱心で、ちょっと過保護な普通の母親。うちの親みたいな変人じゃないのは確かだ。
「殴りそうになっただけで、実際には殴らなかったんだな?」
「うん。手の甲に爪を立てて我慢した」
「じゃあ良かったじゃないか」
「……うん」
 克巳はまたぼんやりする。壊れた人間と話すのはなかなかやっかいだ。
「七瀬くん」
「ん?」
「着物を作ってくれてありがとう」
「は?」
「みんなで歌舞伎を見に行った時の」
「分かるよ。亀甲柄の泥大島だろ」
「眠れないし、起きても頭は寝てるみたいだし、どうしたら良いか分からなくて引き出しの鉛筆を折ったりしてたんだけど、あっ、て思い出したんだ。周平とおそろいの着物」
 克巳は骸骨の微笑みをこちらに向ける。
「周平の着物を体にかけて目を瞑ったら、ようやく眠れたんだ。おれを無視する周平じゃなくて、優しい周平を思い出せた」
「周平の着物?」
「クリーニングの後に交換したんだ。別れるなんて思わなかったから、着たい時にまた持ち寄るつもりで」
「二人ともサイズ違いを持ってるのか!」
「そう」
「着られないじゃん。もったいないなー 郵送で交換し直せば?」
「いやだっ!」
 克巳は店内中に響く大声で叫んだ。怯えて、顔をぶるぶる震わせている。
「周平の匂いが残ってるわけでもあるまいし」
「あの着物は命綱なんだよ。布団代わりに使うようなものじゃないのは分かってる」
 克巳はすまなそうに俺を見上げて言った。
「許して」
「許すも何も、あの着物はやった物だ。周平がどう思ってるかは知らんが、俺に何か言う権利はない」
「あの日、幸せだったね」
 克巳は目を細め、頬を赤くした。
「頭の中で千回くらい再生したよ」
 店を出ても、克巳は帰ろうとしなかった。俺の服の袖をつかんですすり泣く。
「寂しい。七瀬くん、寂しい」
 どうしたものかと迷ったが、俺は仕方なく克巳を抱き締めた。小さく細く、あわれな体だった。俺の胸に顔をうずめて嗚咽する、その揺れが、肌に直接伝わってくる。こんな風に他人の体に触れたのは初めてだった。
 周平ならもっと上手くやるだろう。
「気持ち悪かったでしょ。ごめんなさい」
「気持ち悪くなんてない!」
 俺の言葉を聞いたのか、聞かなかったのか。克巳は駅の方向に走り去った。
 
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贋オカマと他人の恋愛(その13)

 その日から、克巳に電話して食生活をチェックするのが日課になった。
「今日は何か食べたか?」
「何も食べてない」
「おかゆは」
「飽きた」
「わがまま言うな! そうだな…… 母親にりんごをすってもらえ」
「すりおろしりんご?」
「うちでは風邪をひくと必ず作ってくれる」
「美味しそうだね」
 電話をかけるたび、菓子パン、きしめん、じゃがいものみそ汁と、食べられるものが増えていった。ひと月ほどのち、家族と同じ食事を取れるようになったと聞いて、克巳の家の最寄り駅まで会いにいった。
「七瀬くん!」
 克巳は俺を見つけると笑顔で手を振った。まだガリガリではあったが、病的な雰囲気は減った気がする。照りつける七月の太陽を避けて古い喫茶店に入る。クラシックのピアノ曲が小さな音でかかっていた。
「おれウィンナーコーヒー」
「生クリームなんて大丈夫か?」
「お腹壊したらトイレ行けば良いだけじゃん」
「まあな…… じゃあウィンナーコーヒー二つで」
 克巳は前回会った時とも、周平と付き合っていた頃とも違う顔をしていた。何故こいつはこんなに定まらないのか。変化の激しさに戸惑いを覚える。
「七瀬くん、ごめんね」
「あ? ああ、お前の家の近くまで来たことか。元気な方が移動するのは当然だろう」
「それもそうだけど、そうじゃなくて。大学でさ、いっぱい酷いこと言ったじゃん」
「今さら謝られてもな」
「もう間に合わない?」
 克巳は潤んだ目で俺を見上げる。背中がゾワッとするような、奇妙な気持ちだった。サッちゃんに媚びる時の俺も、こんな表情をしていたのかもしれない。そう考えると無性に恥ずかしかった。
「別に何とも思ってないよ」
「そう? それなら良いんだけど」
 これまで一度も見たことのない克巳のやわらかい笑顔を見て、あっ、と気付いた。克巳は本物のオカマなんだ。店の「女の子」たちと同じ空気をまとっている。「男」が好きな周平のために、隠していたのか。あいつが言った言葉を思い出す。
「あれで男らしくしてるつもりなんだよ」
 そしてもう、その必要はなくなった。
「七瀬くんを最初に見た日のこと、昨日起きたみたいにはっきり覚えてるよ」
 克巳は首を傾げてふふふと笑った。
「身も心も溶けそうなくらい大好きな人がさ、ファッション雑誌のモデル並みに格好良い男の人と歩いているのを目撃したら、おかしくなってもしょうがないよね」
「俺はそんな風に見えたか」
「しかも周平、おれといる時より楽しそうで…… 周平はあの人のことを好きになっちゃったんだと思って…… その場で倒れそうになった」
「大袈裟な」
「本当だよ。『目の前が暗くなる』って言うけど、視界がザーッとして見えなくなって、吐き気がした」
「勘違いさせて悪かったよ」
 俺のせいじゃないが。
「どれだけ激しく嫉妬してたか、七瀬くんは一生理解出来ないと思う。七瀬くんみたいに欠点の無い人は、誰かを妬んだりしないんだろうね」
 俺は何も答えなかった。
「劣等感を消す魔法があれば良いのに」
「人よりダメなところばかりでもないだろ 。背が低いのはどうしようもないが」
 俺が笑っても、克巳は怒らなかった。それが逆にショックだった。
「周平と七瀬くんは友達だったんだね」
「それ以外に何がある」
「友達と恋人の違いがよく分からなかったんだ。周平に訊いたら『エッチするかしないかかなぁ』って答えて、大げんかになった。性欲解消するためにおれと付き合ってるのかよ! って」
「アホだ……」
「別れてやっと理解した。友達と恋人は全然違うんだね」
「当たり前だろ」
「周平と七瀬くんはいつか必ず仲直りして、友達に戻れる。でもおれは周平の恋人に戻れない。友達にもなれない」
 克巳はぽろっと落ちた涙を袖でぬぐう。
「おれは周平と、二度と会えない」
 喫茶店の横の細い道で、克巳は俺に抱きついてきた。背中に腕をまわして強くしがみつく。俺は克巳の小さな頭を撫でた。気性の荒い動物が、苦労と忍耐の末に懐いてくれたような満足感があった。茶色い細い毛が指にからむ。
「たまには文学部の方にも遊びに来い」
「大学院なんて辞めたよ」
「え?」
「とっくの昔だよ」
 克巳は腕をほどき、底の無い井戸に似た真っ黒い目をこちらに向ける。
「勉強なんてしても意味ないじゃん」
 強い語気で、確信に満ちていた。克巳の言う通り全部無駄なのかもしれない。何も答えられずにいると、克巳は再び抱きつき直した。
「七瀬くんは優しいね」
 どうだろう。

 克巳の性別がはっきりしなかったのはその日だけで、次に会った時には(不完全な部分はあるにしろ)昔と同じ「男」に戻っていた。抱きついてくることも二度となかった。
 克巳が女の子に見えたあの日のうちに、俺たちは恋に落ちるべきだったのかもしれない。そうすればあいつはあんなに早く死なずに済んだのかもしれない。克巳がいなくなった後、そのことを何度も考えた。
 でもたぶん、俺には克巳の運命を変える力が無かっただろう。それが出来るのは周平だけだ。にもかかわらず、あいつは克巳のお守りを俺に任せ、満員電車に揺られて大企業様に通って貯金通帳の残高をコツコツ増やしている。
 くそったれ。
 夏が終わり、ハロウィンのお化けかぼちゃが街にあふれる季節に、克巳から就職が決まったと連絡があった。小さな会社のプログラマーで、最初はバイトで入り、その後正社員になったという。
「ゲーム会社か?」
「違うよ。もしかしてプログラムを使うのはゲームだけとか思ってる?」
「いや、そもそもプログラマーがどんな仕事か分からない」
 克巳は電話の向こうで楽しそうに笑う。
「おれたち同じ学校に通ってたのに、全然違うこと勉強してたんだね」
 電話を切るのと同時に、記憶の中の周平が話しかけてきた。
「克くんは自分でゲームを作れるんだよ」
 ほっぺたを紅潮させてニコニコしている。
「すごいよねぇ。手に職ついてるから、僕みたいに就職で困ったりしないよ」
 そういう時の周平は、恋人自慢というより可愛い孫の話をしているように見えた。大学時代の二人を思い出すと泣きそうになる。何で俺が泣かねばならんのだ。まあいい。克巳は順調に回復している。若い頃にしていた予想と違っていても、物事は収まるべきところに収まるだろう。
 その時はそう感じたのだ。
 
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贋オカマと他人の恋愛(その14)

「俺、ハロウィンもクリスマスも大っ嫌いなんですよね」
「どうして? 恋人がいないから?」
「違いますよ」
 壁から魔女やコウモリの飾りを外してゆめこさんに渡し、代わりに受け取ったサンタやトナカイのぬいぐるみを貼り付けてゆく。
「クリスチャンじゃないのにキリスト教のお祭りで騒ぐのはおかしいと思ってる?」
「それもありますけど。問題は期間の長さです。今日は十月三十一日ですよ」
 正確には日付が変わって十一月一日。営業時間の後、居残って店の模様替えをしているのだ。
「これから二ヶ月近くクリスマス気分でやっていくのはどう考えても無理があります。ハロウィンもひと月続くし、本家のアメリカだってそんなにダラダラやらないんじゃないですか」
「商売人の願かけなんだからしょうがないじゃない。イルミネーションやツリーには『お客の財布のひもが少しでも緩みますように!』という念がこもってるのよ」
「ゆめこさんのカツラにも?」
「もっちろん!」
 この一ヶ月、ゆめこさんは全身かぼちゃ色だった。赤鬼がオレンジ鬼になった訳だ。蛍光ペンに似ている。
「効果あるんですかね?」
「効果があろうが無かろうが、祈らずにはいられないのよ。それが人間というものでしょう」
 サッちゃんが幸せに暮らしていますように。
 周平と克巳が仲直りしますように。
 俺の研究が…… いや、それは祈るものではない。ただ愚直に積み重ねてゆくだけだ。
 長い金髪のカツラをかぶり、赤いコートとミニスカートを身に付けて、俺は誰よりも美しい女サンタになった。文句を言っていたくせに、クリスマスパーティーラッシュで一番はしゃぎ、最も多く稼いだのは俺だった。
 どんなに店内が浮かれていても、ゆめこさんのもとには暗い顔をしたおばさんが通い詰め、二時間も三時間も部屋から出て来ない。とめどなくあふれる愚痴を聞き続けるのだ。よく精神的に参らないなと感心する。ゆめこさんの派手な服には、魔除けの効果があるのかもしれない。
 年が明けて元日、母親が俺宛に来た年賀状を分けて渡してくれた。喪中の知らせかと思うほど事務的で地味な社長の年賀状と、クリスマスカードみたいにキラキラしたゆめこさんの年賀状の間に、周平の年賀状があった。
 市販のイラスト入りの葉書で、子どもっぽいファンシーな蛇の絵の横に、手書きで、
「今年もよろしくお願いします。」
 とある。
 今年「も」って、去年のお前は全然よろしくなかったじゃねえか! 俺は部屋を飛び出て周平の携帯に電話をかけた。呼び出し音が鳴る。つながった!
「おいっ」
「七瀬?」
「そうだよ」
「…………」
「…………」
「あけましておめでとうございます」
「おう、あけましておめでとう」
「…………」
「…………」
 勢い込んでかけたものの、何を話すか決めてなかった。言いたいことは山ほどあるんだ。えー あー
「……元気?」
「風邪もひかない。そうだ、今すぐ新宿の紀伊國屋へ来い」
「実家にいるんだけど」
「お前の実家、埼玉だろ?」
「埼玉の奥地」
「奥地から出て来いっ 待ってるから!」
 紀伊國屋は元日も営業している。上の階から下の階まで何周かした後、外国文学の棚の前で周平を見つけた。大学時代と同じ紺色のダッフルコートを着ており、体型も変わらない。俺に気付くと、眩しいものを前にしたように目を細めた。
「七瀬はまだ携帯持ってないの?」
「持ってない」
 周平は笑顔になった。
「相変わらずだね」
 近くのファミリーレストランへ行くと、思ったより混んでいた。二人とも和風ハンバーグを注文し、ドリンクバーで飲み物を取ってくる。その間、克巳の話をしようかどうか迷っていた。名前を聞いた途端に、まただんまりを決め込むかもしれない。しかし克巳の話以外に、特にしたい話は無いのだ。
「大学の頃、僕このチェーンで働いてたんだよね。割引券持ってるはず……」
 周平は財布を探り、小さな紙片を取り出した。
「残念。有効期限切れてる」
「別に割引かなくたって高くないだろ。何ならおごるよ、俺が呼び出したんだし」
「羽振りが良いね。もうお金には困ってないの?」
「まあどうにかな。オカマは天職だった」
 周平は飲んでいたジュースを吹いた。
「まだあそこのオカマバーで働いてるの?」
「あら、やっだぁ〜 ホームページ見てくれてないのぉ〜?」
 店が作ってくれた名刺を周平に渡す。
「『吉本なな』」
「吉本ばななさんが大好きなんですぅ〜」
「大嘘つき……」
「このセリフを言うために一応全部読んだけどな」
「プロだねぇ」
 周平は名刺を裏返した。
「そこに店のホームページアドレスも載ってるだろ。あたしの可愛い写真がばーんと出て来るから見てちょうだい」
「歌舞伎の研究はどうなったの?」
「ちゃんと続けてる。もうじき修士論文提出だ。だいたい仕上がってる」
 周平は最初驚いて、それから誇らしげに笑った。
「君は変わらないね。本当に変わらない」
 その後、周平は仕事の話をした。ほぼ毎日残業があり、気力体力を全部持っていかれると言う。
「休みの日も、眠れるだけ眠って家のことをやったら終わっちゃうんだ。とても人に会おうなんて気分にはならない」
「それなのに悪かったな、呼び出して」
「大丈夫だよ。正月は一応長く休めるから」
 周平は頬杖をついて窓の外をぼんやり眺めた。赤い振袖の女と、黒い革ジャンの男が店の前を通り過ぎる。
「昔より切実な気持ちで本を読むようになったよ。通勤時間だけだから量は減ったけど」
「のほほんとしてたもんな、お前は」
「読書の時間がどれほど貴重か、気付いてなかったんだ、当たり前過ぎて。今僕は、本に没頭している時だけ生きている気がする。……他の時間は死んでいるような気がする」
 周平は克巳と違って痩せたりはしなかった(痩せた後もう一度太ったという可能性もあるが。何しろ二年近く会っていなかったのだ)仕事や恋愛に苦しめられた痕跡を、外側から見ることは出来ない。
 けれどももしかしたら周平も、崖っぷちに立って暗い谷底を覗いたまま暮らしているのかもしれない。突然泣き出す克巳と同じように。
「鏡の中の自分と目が合うと、いつも酷い顔をしていて呆れるよ」
「うちの店に来るサラリーマンが本当にどうしようもなくてさ、女の子たちの体をむやみに触ったり、答えに困るような嫌らしい質問をしてきたり。でもそれだけストレス溜まってるならしょうがないな」
「女の子って、みんな男でしょ」
「俺にとっては女の子だよ」
「そうなんだ。あと僕をそういうダメなサラリーマンと一緒にしないで欲しい……」
「あら、お店に来てくれたっていいのよ? あたしのおっぱい触り放題!」
「絶対行かない」
 会計しようとすると、レジの前に列が出来ていた。新人の店員らしく手間取って、青ざめたまま他の店員の所へ相談しに行ったりする。当然ちっとも進まない。
「懐かしいなぁ。手伝ってあげたくなっちゃう」
「お前今、誰かと付き合ってるのか?」
 俺が周平にそんな質問をするのはどう考えても不自然だった。俺は周平の恋愛事情になんて何の興味もない。そのことは周平だって十分承知のはずだ。
 周平の情報を入手し、克巳に知らせたい。俺の頭にあったのはそれだけだった。
「僕はもう一生、誰とも恋愛しないと思う」
 周平の方を見て、ああこれが死んだ顔か、と思った。怒りも悲しみも何もない、平板な表情。同時に俺は、自分を殴りたくなるほど後悔した。周平は深く傷ついているのだ。信じ切っていた克巳に裏切られて。それなのに、俺はいつの間にか克巳の味方になっていた。何があろうと周平の側につくべきだったのに。
 あいつがぎゃんぎゃん泣くからいけないんだ、全く。
「誰のことも好きにならなければ、ゲイかどうかなんて問題にならないしね」
 気の利いた冗談でも言ったような顔で微笑み、黙り込んだ。店を出て甲州街道を歩いている時も、周平は上の空で、いくら話しかけても会話が成り立たなかった。
 これで周平とは終わりかもしれないな。せっかく連絡が取れたのに。俺は本当にバカだ。
 新宿駅南口、JRの改札の前で、周平はこちらを振り向いた。
「またこうやって会えないかな。研究の話も聞きたいし」
 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。
「お互い忙しいだろうから、たまにで良いんだ。今日、七瀬と話して、自分がずいぶん鬱いでいるのに気付いたよ。仕事と関係ない人と会って心に風を通さないと、きっといつか潰れてしまう」
「じゃあ次は、藤の花が咲く頃に会うか」
 俺を見上げた周平の目が優しく輝く。そこには命が戻っていた。
「風流だね。藤の花っていつ咲くの?」
「ゴールデンウィーク」
「ちょうど良い。ありがとう」
 周平は手を振り、山手線のホームに降りていった。
 帰宅後、コートも脱がずに克巳に電話をかける。
「七瀬くん? あけま……」
「周平に会ったぞ!」
「えっ」
 俺は息を大きく吸って呼吸を整える。
「恋人はいないそうだ」
「そんなこと訊いたの? 最低!」
「何でだよ! 俺はお前が知りたいだろうと思ってわざわざ」
「ボクだってまだ、恋愛のことなんて尋ねられたくない。もーっ オカマ心が分からないんだから。にせオカマ!」
「うるせぇ! 分かるものかっ」
「それよりさ、周平は元気にしてた?」
 克巳の声音がとろりと甘くなる。
「まあまあってとこだな。仕事で疲れてる様子だったが、体型は昔のまんまだ」
「ほっぺた福々してた?」
「ああ。憎たらしいくらいに」
「ふふふ」
「お前も電話してみたらどうだ」
 克巳は無言になる。
「俺の着信拒否も解除したようだし、今ならつながるんじゃないか?」
「おれは…… 無理だよ。周平がこの世界のどこかで元気にしてるって分かれば…… それだけで」
 しゃくり上げ、鼻をすする。また泣かせてしまった。
「周平のこと、教えてくれてありがとう」
「差し出がましい真似をしてすまん」
「慣れてるから平気だよ。じゃあね」
 慣れてる?
 
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贋オカマと他人の恋愛(その15)

 それから俺と周平は、長い休みのたびに会うようになった。意識して話題を文学の方に持ってゆき、仕事の話にならないよう気をつけた。まるで客の相手をしている気分だったが、弱っている周平に対し、それくらいする義務が自分にはあると思った。
「今は何を読んでるの?」
「歌劇『オルフェオ』の台本」
「珍しい。七瀬が外国の作品なんて」
「うちのゼミにオペラと歌舞伎の比較研究してる学生がいてさ、発表の時に映像を見せられて興味を持った。ギリシャ神話の話だが、何故か内容は古事記のイザナギ、イザナミの話に似ててな」
「へぇ」
「イタリア語はやたらに脚韻を踏むんだ。リズムの良さは河竹黙阿弥を思わせる」
「七瀬はいつも古典文学や伝統芸能と比較しながら物語を読むよね」
「自分の網はそれしかないからな」
「網?」
「物語を捕まえる網だ。そこで表現されているものを理解するためのとっかかりとでも言えばいいか。本を読んだり劇を見たりすることで、その網は大きく、網目は細かくなる。その網を使ってまた本を読んだり劇を見たりする」
「じゃあ七瀬はその網を強化するために研究をしてるの?」
「網は目的を達成するための道具でしかない」
 青臭い「目的」を言うのは気が引けたが、幸い周平は説明を求めなかった。
「僕は自分の心と比べながら読むことしか出来ないな。共感したり、反発したり」
「それだと読書の範囲が狭くならないか?」
「知っての通りだよ。古典が苦手なのも、古語辞典を引くのが面倒臭いだけじゃなく、価値観が今と違い過ぎて面白いと思えないんだ。つい現代作家ばかり選んでしまう」
「もったいないな」
「仕事を始めてからいよいよ難しいものは読めなくなったよ。長編小説より短編小説、小説よりエッセイ」
「まあお前は会社で十分無理してるんだから、余暇にまで苦労する必要はない。読むべき本じゃなく読みたい本を読め」
「七瀬の仕事は大変じゃないの?」
「別の人格が働いてる感じだから俺は疲れないな。『吉本なな』は今頃グーグー眠って英気を養っているんだろう」
「ふぅん…… 二重人格」
「周平くんのために出て来ちゃいましたぁ〜」
 体をクネクネさせて投げキッスをする。
「いいよ、寝かせておいて」
 どんなに俺が努力しても、周平は昔みたいにほがらかに笑わなかった。口が曲がる訳じゃないのだが、笑顔に歪みのようなものを感じる。それが大人の男の笑い方なのかもしれない。俺がまともに成長出来ていないだけなのかもしれない。
 それでも、二人の間の溝が深く広くなってゆくようで、寂しかった。
「楽しかったよ。ありがとう」
 文学カウンセリング終了。別れる時、周平は必ずすっきりした顔になっていた。俺のやり方は間違ってない、と思いたい。
「自分ばっかりしゃべっていたように見えたけど? 本来カウンセリングは相手の話を聞くものよ。まあ、ナナにしてはよくやったわ」
 脳内にいるゆめこさんがアドバイスしてくる。わざわざ架空のゆめこさんと話さなくても、職場に行けばいつだって実物に相談出来るのだが。

 周平と克巳が別れて二年ほど経った頃、二丁目でばったり克巳と会った。声をかけようとして、向こうが男連れなのに気付く。一瞬目が合い、克巳はそのまま俺を無視して男に微笑みかけた。
 そうか、新しい恋人を作ったのか。ここはゲイの街だ。出会いのための店もある。克巳が男といちゃついていても、何ら不思議はない。言うなればあいつの方が先住民で、俺は入植者…… そんなことを考えながら、相手の男の顔を見た。
 お前の趣味はどうなってるんだーっ!
 最上級の不細工な上、全身が不潔っぽい。床に落ちている服を適当に集めて着ているようで、美意識の欠片も感じられない。周平に首ったけだったのもどうかと思ったが、比べるのも可哀想なほどこいつは酷い。
 何故俺は、克巳の彼氏の悪口を並べ立てているのだろう。誰と付き合おうと勝手じゃないか。難癖つける権利など俺にはない。嫉妬? いや違う、心配しているんだ。あの明らかに雑な男が、神経の細い克巳を大切に出来るのか。乱暴に扱われて泣かされたりするんじゃないか。
 人間は見た目じゃない、という言葉に俺はすがりつく。克巳の彼氏が醜い賢者であればいい。俺が無価値な絶世の美女であるように。
 その次の日、大学の研究室でパソコンを立ち上げると、克巳からメールが来ていた。アドレスを教えただろうかと訝り、研究室のホームページに名前と連絡先が掲載されているのを思い出した。自宅に電話してくれば良いものを、回りくどいことしやがって。
 会いたいと書いてあったので、前にも行ったことのある克巳の家のそばの喫茶店で待ち合わせた。
「ウィンナーコーヒーで良い?」
「いや、ただのコーヒーで」
「こういう昔からある喫茶店って落ち着くよね。おれスタバが大嫌いなんだ、うるさいんだもん。『トールキャラメルマキアート〜』馬っ鹿みたい」
 文句を言っているのに克巳の声は明るく甲高く、はしゃいでいるように聞こえた。
「残念ながら俺はスタバに行ったことがない」
「残念ながら!」
 きゃらきゃらと愛らしい笑い声。
「七瀬くんの話し方って面白いよね。久々に聞いて安心した」
「そうか」
 ウィンナーコーヒーが運ばれてくると、克巳はカップを両手で包み、温かさを慈しんで口を付けた。
「何でわざわざ研究室にメールしたんだ」
「迷惑だった?」
「いや、私用が禁止されている訳じゃない」
「じゃあ、いいじゃん」
「アドレスを教えてなかったから驚いただけだ」
「七瀬くん、携帯持ってないんだもん。おうちに電話して『耕一くんいますか?』なんて面倒でやりたくないよ」
「前はやってたじゃないか」
「世界は変わっちゃったんだよ。七瀬くんの知らないうちに」
 克巳は目を瞑ってウィンナーコーヒーを飲み干した。カップに残った生クリームをスプーンですくって舐め、空っぽの底を名残惜しげに見つめ続ける。
「新しい恋人は」
「やっぱり勘違いしてる」
「勘違い?」
「ものすごい顔でこっちを睨むからさ。怖かった」
「俺の方なんて見てなかっただろ」
「自分がどれだけ派手な顔してるか分かってないの? 視界の端に入るだけで感情が伝わってくるよ。舞台俳優みたいに」
 ふふふと笑って、上目遣いで俺を見た。
「おれと七瀬くんは恋人同士で、浮気してるところを発見されてやきもち焼かれてるんだ」
「は?」
「空想だよ」
「馬鹿なことを言うんじゃない」
 克巳はいきなりぼたぼた涙をこぼして泣き始めた。
「いいじゃん…… 現実が滅茶苦茶なんだから、想像の中でだけ自惚れたって……」
 どうしてこいつは俺と話すたびに泣くんだ。予想はしていたので、用意しておいた手ぬぐいを克巳の前に出した。
「何、これ……」
 克巳は鼻水垂らしたまま目を丸くする。
「まずそれで顔を拭け」
「そんな…… もったいなくて出来ないよ」
 肩かけカバンからティッシュを出して鼻をかんだ。
「『KOUICHI』って染め抜いてある」
「昔、母親が作った手ぬぐいだ」
「これ、七瀬くんの似顔絵だね? テレホンカードといい、どうしてこういう馬鹿げたものを沢山持ってるの」
「お前が泣いた時に、これを出せば笑うんじゃないかと思ったんだ」
 克巳はびしょびしょの目で俺をまっすぐ見て、すぐに手ぬぐいを顔にあてた。
「あの男は友達か」
「違うよ。あの日セックスしただけ」
 セックスという言葉を聞いて、体に力が入らなくなるような、嫌な気持ちになった。
「おれ、最初から競争率低いのを狙うんだ。そういう奴に限って自意識強いからさ、関心がある振りしておだてれば簡単に落ちる」
「そんなことをして何になるんだ」
「だから、一回セックス出来る」
「そんなにしたいものか」
「相手に困らない人に言われるとムカつく」
「困るも何も、したことがない」
 克巳はパッと顔を上げた。
「七瀬くん、いまだに童貞なの?」
「何でその話題になると大声になるんだっ」
「だって、えーっ、何なの? 宗教?」
「自分以外に信じているものはない」
「どうして全部断っちゃうの?」
「は?」
「七瀬くんみたいに格好良かったらさ、ゲタ箱を開けるとラブレターがどばーって」
「どこのゲタ箱だ……」
 恋人はもちろん友達さえいなかった小中高を思い出し、ため息をつく。
「モテないんだよ、単純に」
「ウソだぁ!」
「大学時代はお前たちと一緒にいたせいでゲイだと思われてたしな」
 克巳は眉をハの字にした。
「ボクのせいだね。ごめん」
「オカマバーに勤めてからは、しょっちゅうオネエ言葉で叫んでいたし」
「それボク関係ないよ」
 くだらない男遊びはやめろと説得したかった。しかし失恋後に虚しいセックスを繰り返すのは、恋愛の世界の伝統芸能のようなものなのかもしれない。昔、周平に借りた恋愛小説を思い出す。そこでは物事全てが、俺の知らないルールで動くのだ。
 
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贋オカマと他人の恋愛(その16)

「請け出された?」
「そういう古風な言い方したらナナが喜ぶと思って」
 そう話す社長も目を優しく細め、嬉しそうだ。
「請け出すったって、社長に借金してた訳じゃないでしょう」
「それが貸してたのよ、大した額じゃないけど。何しろあの子、高校出てすぐ家出して来ちゃったでしょう。当面の生活費を最初に渡したの。あの男、倍払うって言って来たわよ」
「それはまさしく、身請けですねぇ……」
 半年ほど前から店で働いているミユキの話だ。親が経営する会社を継ぐのが嫌で、東京にいる姉を頼って逃げてきた。仙台近くの海辺の街の出身だという。すらりとスタイルが良く色白だが、いかんせん顔が骨っぽい。化粧で工夫しても美女に仕立てるのは難しかった。
 それ以上に問題だったのは性格だ。
「媚びを売る」
 ということが一切出来ない。もともと口数が少ないのに、客がちょっとでも失礼な態度を取ると、ムッとして完全に無口になってしまう。客が帰った後は自分を責めて暗ーくなるので始末に負えない。
 媚びや嘘なんてタダで湧いてくるものなのだから、どんどん大安売りすりゃ良いのに。と俺は思うが、どうしてもやれない奴もいるのだろう。ミユキは男の体と女の心を持ってはいても、職業としての「オカマ」には全く不向きだった。本人もそのことは十分承知していた。
「お金を貯めて、美大を目指そうと思ってるんです」
「あら、あたしは昼間、大学院に通ってるのよ」
「本当ですか? すごい!」
 尊敬の眼差しを向けられて、苦笑したくなるような、決まり悪い思いをした。金のことだけ考えるなら、大学院などすぱっと辞めて店に出る日を増やした方が良い。学問を続けることに価値があるのか、自分でも確信が持てなかった。わざわざ苦労して余分な知識を増やし、結局誰も救えない役立たずの俺。
「予備校に通うお金は無いから、一人で受験勉強してるんです」
「家庭教師しようか。無料で」
 ミユキは目を輝かせ、しかしすぐに首を振った。
「そんな、悪いですよ」
「あたし勉強が大好きなの。特に受験の問題は答えが決まってて、クイズみたいに楽しめるじゃない。久々にやりたいわ」
 それから週に一度、ミユキが身を寄せているワンルームマンションに勉強を教えに行った。お姉さんが迷惑がるのではと心配したが、
「うわぁ、国宝級の色男だねぇ〜」
 と酔いしれてくれたので助かった。たいていの女は俺に優しい。
 ミユキの得意、不得意を見極め、それに合った問題集をそろえた頃、あの男が店にやって来た。職場の同僚に連れて来られたらしく、オカマには何の興味もない、と言うより、嫌っているようにも見えた。部屋のすみの暗がりに浮かぶ、不機嫌な顔。そこに何故かミユキがすーっと吸い寄せられた。
「どんなお仕事をされてるんですか?」
「土建屋」
「ビルを建てたりするんですか?」
「いや、道路」
「あたし、図書館で建築の写真集を見るのが好きなんです。フランク・ロイド・ライトとか」
「知らない」
 話が噛み合ってねぇぞ! 俺は土木職人たちをエロネタでゲラゲラ笑わせつつ、ミユキから目を離さなかった。相手をキレさせるんじゃないかと気が気じゃなかった。
 男はうつむいてウイスキーのグラスを眺めていたが、急にミユキの方を向いて言った。
「宮城の出か」
「えっ、どうして分かるの?」
「話し方が」
「ええっ あたし訛ってる? 気をつけてるつもりなのに」
「俺も若い頃、仙台にいた。生まれは秋田だ」
 そして先程とは別人みたいな温かい笑顔を、ミユキだけに見せた。日に赤く焼けた頬がぷっくり膨らむ。二人の視線が空中で重なって一筋になり、次の瞬間、世界は二人だけのものになった。
 仕事しろ、ミユキ〜 残り五人の相手を俺一人でやるのは不公平じゃないか。まあ最初から期待はしていなかったが……
 しかしある意味、ミユキは俺より良い仕事をしたのかもしれない。秋田の男はそれから何度も店にやって来て、ミユキ一人を指名した。
「あんたたち、店でやらないでよね」
「やるって何をですか?」
「……」
 からかわれてもキョトンとしているので清い恋愛なのかと思いきや、個室を覗きに行くとあられもなく抱き合ってキスしていたりする。ミユキはもう仕事をしていなかった。自分のいる場所が見えなくなるほど完璧に、男と愛し合っていた。
 男が社長に会いに来たのは、そのすぐ後だ。結婚は出来なくても、養子縁組など法的に関係を結ぶことまで考えていると、真剣に語ったという。
「ここが遊廓じゃなくて本当に良かったですね」
「遊女を請け出すとなったら、身上潰したり心中したり、大変な騒ぎよね」
「あの男、ゲイには見えませんでしたけど」
「さあ。男か女かより、東北出身かどうかの方が重要だったんじゃないの。とにかくあんな不器用な子、のし付けてプレゼントよ」
 退職の日が近付くとミユキは明るくなったが、俺にだけは申し訳なさそうな顔をした。
「美大は諦めて、デザインの専門学校へ行くことになりました」
「あら、素敵じゃない」
「せっかく勉強を教えてくれたのに、すみません」
「ミユキが納得してるなら、それで良いと思うわよ」
 独学で美大を目指すのは厳しいのではないかと、心配していたのだ。
「ホームページを作る講座もあるって社長に話したら、この店のもあなたに任せるからしっかり学んで来なさいって言われました」
「社長はケチだから、安く使われないようにね」
 ミユキは笑いながら、大学ノート程の大きさの紙を差し出した。
「お金が無くて、こんなお礼しか出来なくてすみません」
 クリーム色の紙に鉛筆で「吉本なな」が描かれていた。黒くはっきりした線に迷いは無く、画面のオカマは獅子か女王のように堂々としていた。
 俺の外側はこんな風に見えるのか。
「ナナさんは本当に綺麗ですよね。特に目の光。どれだけ高い山に登っても、どれだけ深い海にもぐっても、ナナさんの瞳より美しいものは見つけられないと思います」
「そんな歯が浮くようなお世辞を言えるなら、お客にも愛想良くしてよ!」
「絶対に嘘はつけません。心にちゃんと浮かんで来た言葉しか口に出せないんです」
 ミユキの目の奥にかたくなな炎が見えた。親に与えられた人生を拒否し、自分の選んだ道を進む人間の激しさだった。
「お返しにキスをしたら、あの熊男に怒られるかしら?」
 ミユキは耳まで真っ赤になり、頬に両手を当てて叫んだ。
「キャーッ! ダ、ダメです! あたしはもう、あたしのものじゃないんで。もったいない気もするけど……」
 可愛い子は、いつも他人のものだ。俺は感謝の気持ちを示すために、自分の絵に口づけしてみせた。
 それにしても、あの男は何故ミユキの故郷が宮城だと分かったのだろう。多少おっとりしたしゃべり方ではあったが、俺には標準語にしか聞こえなかった。東北の人間だけが聞き分けられる、県ごとのイントネーションの違いがあるのだろうか。
 とにかくその不思議な能力と、そこから生じたミユキの恋愛が、ミユキのお姉さんの運命を変えてしまった。当時はまだ誰も、想像さえしていなかったけれど。
 
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贋オカマと他人の恋愛(その17)

「……ということがあった」
「つくづく君は世話好きだねぇ」
「は?」
 俺と周平は駅ビルの定食屋で昼飯を食べていた。最近何か面白いことはあった? と周平が尋ねたので、ミユキの恋の顛末を語って聞かせたのだ。
「週一回家庭教師しに行ってただけじゃねえか」
「タダで、でしょ? 先輩風がびゅうびゅう吹いてる」
「家出少女から金なんぞ取れるか」
 俺としては、同郷の者を見分け、ゲイでもないのにミユキをめとった秋田男の奇っ怪さを説明したつもりなのだが、周平は特に興味を引かれないようだった。
「勇気を出して田舎から出て来て良かったね、ミユキさん。そのままだったら女の人と結婚させられてたと思うよ」
「女とは、無理だろう」
「無理でも何でも、跡継ぎ作れって周囲からプレッシャーをかけられるんだと思うな」
「んな無体な会社、とっとと潰しちまえばいいんだ」
「そう簡単にいかないよ。うちは父親がうるさくないから助かってるけど」
 食べ途中の鶏のきじ焼きから顔を上げると、一瞬だけ周平と目が合った。しかしすぐに視線をそらされた。
「お前の家も自営業か」
「一応」
「何屋だ」
 数秒の沈黙。
「内緒」
 周平はこの話題から離れたいらしく、不自然に関係ない話を振ってきたので、素直に従った。
 今さら隠しごとか。癪に障るな。
 帰宅後、克巳の携帯に電話をかけて訊いた。
「周平の実家の仕事を知ってるか」
「和紙の工房だよ。お父さんが和紙をすく職人さんだから」
「和紙職人?」
 あいつはそんな渋い家で育ったのか。
「俺には教えてくれなかった」
「家業を継ぐよう言われるのが嫌なんだと思うよ。七瀬くん、そういう日本の伝統大好きじゃん」
「他人のことに口を出したりしない」
 克巳は何故か電話の向こうで爆笑した。ひーひーとしばらく会話不能になった後、急に真面目な声で言った。
「周平を女の子とくっつけたりしたら許さないからね!」
「はぁっ? する訳ないだろ!」
「あ、でも、男なら良い。おれみたいにわがままじゃなくて、優しくて、真剣に恋愛するタイプの可愛い男がいたら、紹介してあげて」
「何で俺がお見合いおばさんにならにゃならんのだ」
「周平みたいな人が一人でいるのはもったいないよ。幸せになるべきだし、相手も幸せに出来るはずだもん」
 それじゃね、と一方的に通話は切れた。周平より、克巳の恋愛の方が心配なのだが。

 大学院を修了したからといって急に教授や助教授になれる訳ではない。教員の数は多く、学生は少子化で減る一方だ。非常勤講師の口さえなかった。
 ある時、担当教授の授業に呼ばれ、舞踊の振りを実演してみせた。化粧も衣装もなくただ浴衣で踊っただけなのに、大喝采だった。次からは歌舞伎舞踊の講義も任せてもらえた。日舞はやはり、俺の武器なのだ。
 長く稽古に通わず、自己流になってしまっているかもしれない。子どもの頃に習っていた華慧先生の門を、再び叩くことにした。空いている日時を確認するために電話をかけると、
「まあ懐かしい! すぐにでもいらっしゃい」
 と明るい声が返ってきて、緊張が解けた。
 十年前には真っ黒だった先生の髪は、真っ白になっていた。
「染めるのをやめたの。鏡獅子みたいで綺麗でしょう」
 皺が増えても色気のある顔で微笑んで、俺の後ろに目をやった。
「お母様は?」
「おかげさまで、元気に働いています」
「今日はご一緒じゃないの?」
「もう母親と出歩いたりしませんよ」
「昔はべったりだったじゃないの。私が何を言ってもお母様のことばかり気にして」
「そんなでしたっけ……」
 自立が遅かった自覚はあるので気恥ずかしい。
「楽しく踊れば良いのよと言っても『楽しい』というのがどういうことなのか分からないみたいだった。いつも痛々しいくらい必死で、親の期待に応えるために無理しているんじゃないかと気が気じゃなかった」
 ごまかしを全て見抜く厳しい目が、うっすら濡れて光った。
「戻って来てくれたということは、踊りを憎んでいた訳じゃないのね?」
「憎むなんて、考えたこともありませんよ! ただ……」
 自分の不甲斐なさに耐えられず下を向く。
「お稽古に通うだけで、発表会には出演出来ません。何百万も出せるほど稼ぎが無いんです」
 華慧先生は高く声立てて笑った。
「今はもう、あんな派手な催しやってないわよ。私も歳を取ったし、お座敷を借りて内輪の会を開くだけ。あれはあなたのためにやっていたんだから。お母様が費用のほとんどを負担してね」
「そうなんですか……」
 ホッとしたのと、改めて母親に呆れたのとで、力が抜ける。
「あの頃は景気が良くて、つまらないことに大金つぎ込む人が大勢いたけど、お母様は誰より賢明だったわね」
「最も愚かなような気がしますが」
「そんなことない。愛する人を見せびらかすのは何より楽しい道楽よ。それより心ときめくものなんてこの世にあるかしら?」
「はぁ……」
 それにしたって、全財産使い切るのはやり過ぎだろう。
「お母様の愛は重たかった?」
「いえ、親というのはああいうものなのかと。他に母を知らないので」
「そうね、誰でもみんな」
 うちが貧乏になったことも、俺がオカマとして働いていることも知らないはずの先生が、全て諒解した様子で、俺を見つめる。
「あなたがまっすぐ育ってくれて、本当に良かった」
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:50| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その18)

 戸籍の性別を変更するための法律が施行され、世間でも性同一性障害への理解が進んだ。水商売を辞めて手堅い会社に転職する人も、少しずつではあるが増えている。気付けば俺はあの店で、古株オカマの一人になっていた。
「イヤよっ 絶対にイヤッ!」
「ちょっとなら私用に使ったって構わないから。便利よ〜 一度持ったら手放せなくなるって」
「電磁波でお肌が社長みたいにシワシワになったら、あたし、生きていけない……!」
「肌なんて本気で心配してないくせにっ 失礼なことを言ってやろうという意気込みだけは本物なんだから」
「そりゃそうですよ」
 社長は俺に店の携帯電話を持たせようとしていた。
「いつでも呼び出しがかかるようになったらたまりませんよ。今の時給を三百六十五日二十四時間払い続けてくれるのでなければ、ケータイなんてイ〜ヤ〜な〜のぉ〜っ」
 タン! と大きな音を響かせてハイヒールで床を踏む。
「子どもじみたごね方しないでよ…… 用がある時は断って良いし、臨時で入った時は時給を三割増しにするから」
 お金の問題じゃない。断って心苦しくなるのがイヤなんじゃないか。やりたいことがあっても無理して店に来てしまうに決まっている。
「五割増し!」
「分かったわよ。その代わり、ナナに電話するのは一番最後にする」
 余計断れないじゃないかと思ったが、五割増しというのはなかなかおいしい。やむなく俺は信念を曲げ、携帯電話を持つことを了承してしまった。

 オカマと研究者の二足の草鞋を履いて忙しく日々を送るうち、俺は三十代に突入した。
「女装するの、初めてなんです」
 性的少数者への差別撤廃が理念として語られるようになっても、社会全体が一斉に寛容になるはずがない。男らしく振る舞えず職場で孤立し、ここならばとオカマバーに流れて来る者が一定数いる。寿司屋で三年、板前修行をしていたというメグも、そんな一人だった。
 メグには近所の坊さんが付けたという抹香臭い本名があり、ゆめこさんが適当に決めた甘ったるい源氏名もあった。けれども後になって名乗ることになった「メグ」という呼び方を、最初から使おうと思う。それはあいつがこの世界の生きづらさと格闘した末に手に入れた「本当の名前」だから。
「可愛いわよ、とっても」
 お世辞ではなかった。メグは白く美しい肌をしており、顔の輪郭がやわらかい。細いつり目だがキツい印象はなく、東洋的な愛らしさがあった。
「もう少しほっぺた赤くして純情さをアピールしようか」
 これは売れるな。服と化粧のおかげもあるが、元が上玉なのだ。調理希望で来たのを無理やりフロアに回した社長の気持ちもよく分かる。仕草は完璧に女だった。艶のある下唇や、不安げに潤む瞳にもそそられる。男の体で生まれてきたのは明らかに何かの間違いだ。
 こんなのと一緒に働いていた板前たちはさぞや苦しかったろう。うっかり本気になって、
「俺はおかしくなってしまったのだろうか」
 と悩んだ奴が一人や二人ではなかったに違いない。俺はこれまでにメグと関わった全ての男たちに同情した。性的に意識されてしまうせいで、決して男と友達になれなかったメグ本人にも。
「大変美味しゅうございました」
 女装に慣れていないオカマが大好物、という女の常連客に、とびきりの新物が入荷しましたと連絡すると、その日のうちにやってきた。ヘマをするとかえって喜ぶので、新人研修にちょうど良い。
「自分の姿に対する恥じらいがたまらないよね〜 恥じらいほど失われやすく、貴重なものは世の中にない」
「世の中っていうか、自分に無いからオカマで補給するんだよな」
 不思議なことに、この客は必ず男連れで来る。おそらく恋人だと思うのだが、常にほどほどのツッコミを入れて、まるで太鼓持ちのようだ。
「でもあの子、接客初めてじゃないでしょ」
「鋭いわねぇ。おうちが日本料理のお店で、子どもの頃からお手伝いしてたんですって」
「そこがマイナスかなー 次は『歯科技工士からオカマに転身』希望」
「職業限定し過ぎだろ」
 女はニヤニヤしながら俺を見る。
「あんな美人が入ったら、トップの座が危ういね、ナナ姉さん」
「負けそうになったら毒りんご食べさせるわ」
「女王様のコスプレで?」
「何か違くね?」
「その時もまた呼んでね〜」
 毎度訳の分からないカップルだが、まあ喜んでくれたようで何よりだった。
 最近は彼らに限らず、
「若い子に嫉妬する年増女」
 であることを要求される場面が多いのだが、どうにも演技が難しい。店の後輩を憎く思ったことなんて一度もないのだ。
 俺はどこかで挫折したり傷ついたりして店に来た子たちに、自信を取り戻してもらいたかった。自分が本当にやりたい仕事に就くために。世間のあらかたの職業は、男か女か男女かに関係なく勤まるはずだ。周囲が完全に理解してくれるのを待っていたら命が尽きてしまう。他人など構うものかと思える程度には強くなる必要があるし、オカマバーでの経験はきっとそのために役に立つ。
 もちろん社長やゆめこさんのように、化け物になるまで居続けたって良いのだけれど。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:49| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その19)

 案の定、メグはおっさんにモテモテだった。特に団体客が来ると、必ずその中で一番の醜男にがっちりマークされる。
「君は本当に男の子なの?」
「そうです」
 男はスーツを脱いでメグの肩を乱暴に抱き、キスせんばかりに顔を近付けて話しかける。男に好かれるタイプじゃなくて良かったと俺はしみじみ思いながら、割って入るタイミングを見計らう。
「確かめてみないと」
「え?」
 太ももに置かれていた手が素早く移動したのをメグははっしと押し留め、大声を出した。
「そこは! 好きな人にしか触られたくないんで!」
 それ、嫌いって言ってるだろ。俺と同じようにメグを気にかけていたその場のオカマ全員が吹き出した。さてどう助けようかと考えているうちに、メグは何故かぱあっと満面笑みになり、
「そうだ、おっぱいにしましょう! おっぱい最高!」
 と言って男の手を自分の胸に押し当てた。
「ああ〜ん、感じるぅ」
 棒読みだったが男は気にしない。シリコン製のニセおっぱいが揉み過ぎでお腹までずり落ちた頃、男は深い眠りの中にいた。俺はそいつを抱きかかえ、他の客と一緒にタクシーに放り込む。
「たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ」
「何ですか、それ」
「昔読んだエロ小説の一節。それにしてもよく頑張ったわねぇ。あの人、あなたを気に入って通い詰めちゃうかもよ」
「うえぇ〜 でも、おっぱいで満足するならキャバクラに行った方が良いんじゃないですかね?」
「本物を触る勇気はないのよ、きっと」
 板前ちゃんが面倒な客をみんな引き受けてくれるから仕事が楽になったと、オカマたちの間での評判も上々だった。
「雑魚殺し」
「板前だけに」
 七月には浴衣祭りをした。店じゅうに紅白のちょうちんを吊るし、ツルツルのピンクの造花を飾った。オカマたちは全員浴衣で接客する。お客様も浴衣でのご来店でドリンクサービス、と宣伝したら応じてくれた常連も多く、夏の夜らしい高揚感が店に満ちた。
 着付けの出来る奴は俺以外にも数人いたが、中でもメグは飛び抜けて手際が良かった。
「実家にいる頃、母親の着付けを手伝わされたんです。帯を締めるのが上手いって、よく褒められたんですよ」
 と笑うが、それだけじゃない。メグは自分の着替えを終えると部屋全体をさっと見回し、どんな順番で手伝えば全員の着付けが一番早く終わるか、一瞬で判断する。
 着物を着た経験の無い奴がいたら袖に腕を通すところからそばに付いてやり、ある程度出来る奴を見つけたら修正とチェック程度で手をかけない。考えてやっているのではなく体が勝手に動いていることが、移動の素早さで分かる。
 メグはそれぞれの器用さに合わせて少しずつやり方を教えてゆき、一週間しないうちにみんな一人で帯を結べるようになった。
 俺は店が用意した安っぽい浴衣を着るのが嫌で、自前のものを用意した。
「ナナさんだけずるーい!」
 メグが袖をつかんで抗議する。
「お客さんに作ってもらったんですか?」
「あら、みんなと違うの分かる?」
「値段が二桁上でしょう」
 その日着ていたのは藍染めの滝絞りで、およそオカマらしくない地味な柄だが、周りが派手なのでかえって目立った。
「無理に可愛くしなくても女に見えるのがすごいですよね…… あたしも着てみたいけど、自信ないなぁ」
 メグの浴衣はひまわりやハイビスカスが散っている浮かれたプリント柄だった。帯は真っ赤な兵児帯。
「そういう金魚みたいな尾っぽを垂らして許されるのは若いうちだけだから、存分に楽しみなさい」
 メグはくるっと後ろを向き、帯を揺らしてみせた。
「これ、自腹切って買っちゃったんです!」
「似合ってるわよ」
「一緒に写真を撮っても良いですか?」
 メグは通りがかった店の子に携帯電話を渡し、俺の腕にぶら下がった。
「美女二人〜」
 携帯のカメラも馬鹿に出来ないもので、なかなか綺麗に写っている。
「高く売ってよ」
「自分だけの宝物にします」

「最近、後輩に懐かれててな」
 俺はメグから送られてきた写真を周平に見せた。
「へえ、君とは違うタイプの美人だね」
「入ったばかりの頃はしょぼくれてて心配したんだが、元気に働けるようになってホッとしてるよ」
 周平はその写真からしばらく目を離さなかった。
「前の職場でずいぶんいじめられたらしくてな」
「可愛いから妬まれたのかな」
「違う違う。前は男だったんだ」
「前も何も、今だって男でしょ、オカマなんだから」
「板前として働いてたんだ。寿司屋で」
 周平は顔を上げ、五秒ほど無言で俺を見た。
「この子、僕に紹介してくれないかな?」
 今度は俺が固まる番だった。
「お前、こんなに女っぽい奴でもいけるのか!」
「いややや。……どこから話そうかなぁ」
 周平はコーヒーの水面を見ながらカップを軽く揺らし、皿に戻した。
「実を言うとね、会社を辞めようと思ってるんだ」
「とうとうクビか」
「似たようなものだよ」
 冗談のつもりだった。周平が勤めているような大企業では、クビなんてあり得ないと思っていたのだ。
「そんな泣きそうな顔しなくても良い。路頭に迷うのは七瀬じゃなく僕なんだから」
 周平は笑ってみせた。
「お前、営業向きじゃないもんな……」
「僕の売上げはそれほど悪くない。素晴らしいと言っても良いくらいだ。信じてもらえないと思うけど」
「じゃあ何で」
 声を低くして周平は言った。
「来年、僕の会社のことがたびたびニュースで流れると思う」
 つられて俺の声も小さくなった。
「悪事でも働いてるのか」
「いや、単に火の車なだけ」
「なんだ」
 俺はアイスティをちるちるすする。
「そんな風に見えないけどな。テレビでしょっちゅうコマーシャルもやってるし」
 電化製品に興味はないが、周平の会社だと思うと多少、意識した。
「お金が無くても広告を出すのは止められないよ。でもこの数年ヒット商品は全く出ていない。儲からないと商品開発にお金を回せない。冴えない物を無理に売ろうとするから、消費者はどんどん離れていく」
 客ではなく消費者か。周平の仕事が別世界のものに感じられる。
「しっかりサラリーマンしてたんだなぁ。俺が狂乱の夜を繰り返す間に」
 十年前には同じ大学の同じ学科で学んでいたのに。二人が歩んできた道の隔たり。
「会社はまず希望退職を募る。その一回目で辞めようと思ってるんだ。回を重ねるごとに条件が悪くなるからね」
「せっかく大企業に入ったのに、もったいない気もするな」
「看板は立派でも中はボロボロだよ。精神をやられて休職してる同僚が何人もいる」
「そうか」
 明らかに俺より過酷な毎日を送っている周平に、言えることなど何もない。
「で、それがうちの板前とどう関係するんだ?」
「貯金と退職金を元手にして、二丁目か三丁目に店を出したい」
 危うくアイスティを吹きそうになった。
「やぁだぁ! ついにお仲間になっちゃうわけ?」
「女装の店じゃない。ゲイバーだ」
「周平くんのエッチぃ〜」
「そんないやらしい店にはしないつもりだよ」
「じゃあどんな店だ」
 周平は何も答えず、冷えたコーヒーを飲み干す。
「何しろ飲食店はバイトでしか知らない。詳しい人に話を聞いてみたいんだ」
「それならこいつは適任だろうな。実家も料理屋だから裏も表も知り尽くしているはずだ」
「ありがとう」
 周平は、にっこりと微笑んだ。

**********
「たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ」
 は川端康成「眠れる美女」からの引用です。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:47| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その20)

「周平さんとナナさんって、どんな関係なんですか?」
 店の近くのヴェローチェで周平と会ってきたメグは、俺の顔をじーっと覗き込んだ。
「お友達よ」
「どんな?」
 友達にどんなもこんなもあるかよ、と訝りつつ、周平が信用出来る奴だということを証明するのが、紹介した者の責任なのかもしれない、と思い直した。
「そうね、あたしがわがまま言っても怒らずに聞いてくれるから、長続きしてるんでしょうね」
「長続き」
 メグは再びじーっと俺を見上げる。
「聞いたでしょ、大学時代からの付き合いなのよ」
「真面目な人ですよね?」
「それは見た目通り。授業をサボったことなんて一度もなかったし、会社でもけっこう頑張っているみたい」
「優しいですか?」
「そうね、親切だし」
 メグは腕組みして考え込んだ。人形のような顔とは不釣り合いに、メグの手の甲には骨と筋がくっきりと浮いており、そこだけあからさまに職人の男だった。
「なら安心して一緒に働けますね」
「えっ?」
 俺は慌てて周平に電話した。
「話を聞くだけって言ったじゃないの!」
「他には何もしてないけど?」
「あんたの店で料理する気になってるわよ」
「うん、スカウトした」
 最初から引き抜くつもりだったのか、このタヌキ野郎。
「調理師の免許も持っているんだし、料理の仕事をした方があの子も幸せなんじゃないかな」
 それは俺も考えていた。いつかはそっちの世界に戻るべきだと。しかしこれじゃあ……
「友人を使って二番人気を消すなんて」
 今後自分がやらされるであろうアホらしい芝居を思い、全身の力が抜ける。
「お役に立てて嬉しいよ」
 周平は腹黒い声でクスクス笑った。
「それにしてもあの板前さん、本当に可愛いね」
「嫁を紹介したわけじゃねーからな」
「九つも下だもの。手なんて出せないよ」
 悪い予感がした。良い予感なのかもしれない。
「あの子が店に恋人を連れて来たらショックだろうな。お父さんみたいな気持ちでいないとね」
 オカマバーでの俺の立場なんてどうなっても構わない。ただ、克巳のことが気がかりで、周平の言葉は針のように胸に刺さった。

 メグの変化はさらに激しく、心の中に台風が発生したのが誰の目にも明らかだった。
「ゲイの人はやっぱり、男らしい、筋肉ムキムキの人が好きなんですよね?」
「みんながそうとは限らないんじゃない?」
 社長の部屋に行くと、メグが相談を持ちかけているところだった。
「もし筋肉ムキムキが好きだったとしても、全員に筋肉ムキムキが配られるわけじゃないですよね?」
「そーね、日本は共産主義じゃないもの」
 社長は帳簿を広げて書き込みながら、適当に受け答えしている。
「だったらあたしみたいな女っぽい男にも、チャンスはありますよね?」
「相手の男次第でしょ。何べん同じこと言わせるの」
「社長に恋愛相談……?」
 メグは俺に気付くと顔を真っ赤にして飛びのいた。
「人選間違ってるだろ」
「『その話飽きた!』って誰も聞いてくれなくなっちゃって」
 どれだけ騒いでるんだ。
「ナナには相談したの?」
 社長は俺とメグにミルキーを配り、自分でも一つ口に入れながらニヤリとした。メグは少しためらった後、うつむいて小さな声で言った。
「周平さんはどんなタイプの人が好きなんですか?」
 周平のタイプ。世の中にこれほど俺と関係ない、どうでも良い情報があるだろうか。克巳を好きだったのは知っている。しかしタイプだったのかは不明だ。しかも十年も昔の話。
 メグは瞳をうるうる潤ませ、祈るように手を合わせている。
「あたしみたいな男が好きなのよ」
「や、やっぱり」
 整形手術して、目の大きさを三倍にしなければ。背丈も…… メグはブツブツつぶやく。
「あんたたち、いい加減にしないと給料から相談料引くわよ」
「俺は相談してません!」

 お互いに憎からず思っていることは明白なのに、本人たちにはそれが分からない。生きるの死ぬのと深刻ぶったって、恋愛というのは他人が見れば、全くの茶番だ。
「板前ちゃん、恋をしてますます可愛くなったわね〜」
 赤い頭を振って踊りながらゆめこさんは言う。
「見てるとあたしまで若返っちゃいそう」
「全然変化してませんよ。……痛ぁーっ!」
 俺の尻を力まかせにつねって、ゆめこさんはしれっと続けた。
「今のあの子、サッちゃんが来ていた頃のナナみたい」
「佐知子さんのこと、覚えてるんですか」
 彼女が店に通っていたのはほんの短い期間だ。俺以外はみな忘れたものと思っていた。
「覚えてるわよ。一度でも店に来てくれた人の顔は、全員頭に入ってる」
「すごいですね…… 観光で来たおばちゃんなんていちいち記憶してませんよ」
「ナナは美貌に頼り過ぎ。たった一度ツアーで寄っただけなのに『群馬からまた来てくれたの。三年ぶりねぇ』なんて言われたら嬉しいでしょ。あたしたちはお客さんを喜ばせるのが仕事なの。脳みそは使えば使うだけ性能が良くなるんだから、もう少し仕事にも振り分けなさい」
 ゆめこさんは笑顔だったが、本気で怒っているのが分かった。
「すみません」
「まあそれはともかく。サッちゃんは特別な人だったじゃない。ナナにとって」
 佐知子さんに対する気持ちは、恋愛感情だったのだろうか。恋した、愛した、というより「必要とされているような気がした」のだ。でもそれは勝手な思い込みでしかなかった。もし俺を本当に必要としていたなら、新幹線で長野から通うことだって出来たはずだ。仕事か帰省で東京に来た時に、店に立ち寄ることだって。しかしサッちゃんはその後、はがき一枚くれない。
「佐知子さん、今どうしてますかね」
「出世してるわよ、お医者さんの世界で」
 ゆめこさんが言うからには、きっとそうなのだろう。彼女は強くて優秀で、俺が入り込む隙間なんてなかったのだ。そんな風に全く見えなかったのは、こちらがおかしなフィルタ付きで彼女を見ていたというだけのこと。
 勘違いだということが明らかになった勘違いを、何と呼んだら良いのだろう。そんなものを恋と呼ぶのは、あまりにもあわれじゃないか。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:46| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その21)

 メグは恋の鱗粉を周囲に振りまけるだけ振りまいて、店のみんなにからかわれたり呆れられたりしていたが、周平からはメグの料理を絶賛するメールと、例年通りの年賀状が来たきりで、愛の話は特になかった。されたって困る。
 俺はなるたけ関わり合いにならず、二人でどうにかして欲しい。そう思っていたのに、一月終わりの雪でも降りそうな寒い夜、周平から電話がかかって来た。
「脱サラしてすぐに人を雇うのは無責任だろうか」
「は?」
 聞いたことのないような暗い声。深刻過ぎてかえって可笑しい。
「まずは一人で商売を軌道に乗せて、それから……」
「今さら何言ってんだ。あいつは『もうじき周平さんのお店で料理が出来る〜』って毎日クルクル回ってんだぞ」
「もう気持ちが変わってしまったかもしれない」
 克巳とメグだけでなく、こいつの恋愛の面倒まで見なきゃならんのか、俺は。
「何かあったのぉ〜?」
「汚れた大人なのがバレて嫌われた……」
 深夜だというのにこらえ切れず、ギャハハと爆笑してしまった。
「無理やり押し倒して、またがっちゃったわけぇ〜?」
「そんなことしてないっ! 嫌われないように…… すごく気をつけていた…… つもりだった」
 声が震えている。周平も本気なのが分かって、俺は安堵した。
「混ぜ返して悪かったよ。いったい何があったんだ」
「店舗を借りるために、二人で不動産屋へ行ってね、その時に値下げ交渉したんだ。向こうもプロだし、丸め込まれたらたまらないから、褒めたり焦らしたり色々して」
「そんなことが出来るのか。まあ、あのあたりは家賃も高いだろうしな」
「実際借りることになったら不動産屋さんにもお世話になるんだし、関係が悪くなるほど厚かましい真似はしてないよ。会社ではもっと酷い取引をしてた」
「ほー それが汚れた大人か」
 周平は無言になった。
「『あたしのことも利用するために褒めたんですか』って怒り出したんだろう」
「よく分かるね」
 周平さんは褒めてくれるんです。あたしは今まで家族以外に褒められたことがなかったから、もうそれだけで胸がドキドキしちゃって。周平さんが優しいだけなのに、こんな風に勘違いしちゃうなんて、幼稚ですよね。メグは耳まで真っ赤にして、何度も同じ話をした。
 俺だって「可愛い」「接客が上手」などと言ってメグを褒めたはずなのに、それは勘定に入らないようだった。周平はおそらくメグにとって一番大切な何かを褒めたのだ。そういうものを即座に見抜く力があるのは、付き合いが長いからよく分かる。その能力を営業にも使って、これまで食ってきたことも。
「周平、オカマが持っている最も美しい性質は何か分かるか」
「え…… 美意識とか?」
「確かに綺麗なものを好む奴は多いが、もっと本質的なことだ。オカマはな、嘘がつけないんだ」
「君が言っても信憑性ないけど」
「俺みたいなニセモノじゃなく、本物のオカマの話だよ。もし嘘がつけるなら、わざわざ苦労して女の姿になったりしないだろう。男の体で生まれてきたのに、女である自分を貫いてしまうから、自分も周りもだませないんだ」
「男らしくすることは、自分に嘘をつくことになるんだね」
「そうだ」
「七瀬の言う通り、あの子の心はまっすぐだ。見ていると苦しくなるくらいに」
 周平は大きく息をついた。
「人間性を失ってしまった僕に、人を愛する資格はあるだろうか」
「人間性を失った奴はそんなこと考えないだろう。ゴチャゴチャ言ってないで幸せにしてやってくれ」
「ありがとう」

 おあつらえ向きに世間がベタベタの甘々に包まれるバレンタインの直前、
「周平さんとお付き合いすることになりました」
 とメグから報告を受けた。
「めでたい」
「えへへ〜 ありがとうございます」
「もう愚にも付かない恋愛相談されずに済むのね。店の子全員がホッとするわ」
「これからはのろけます!」
 好きにしろ、と思って自分のメイクを続けたが、鏡の中のメグはまだ話を聞いて欲しそうな顔でこちらを見ている。
「あの、ナナさんって、本当に周平さんの恋人じゃなかったんですか」
「聞かなかったのー?」
 あんまりしつこく疑うので、本人に直接尋ねるよう言ったのだ。
「ナナさんと周平さんは大学の同級生だったんですよね」
「そうよー」
「周平さんが『十代の終わりから二十代の初めに、五年間付き合っていた人がいた』って教えてくれたんです」
 紅筆を動かしていた手が止まった。
「それって大学時代じゃないですか? ナナさんと一緒にいた時期と重なりますよね」
 ため息が出る。自分がこれまでに巻き込まれてきた他人の恋愛に、俺は改めてうんざりした。
「周平くんは今でもグンゼのパンツをはいてるの?」
「どうしてそんなこと知ってるんですか! 怪しいっ やっぱり怪しいっ!」
 三人で歌舞伎を見に行ったあの日、周平と克巳はおそろいの白いブリーフをはいていて、部屋がまるで、身体測定の時の保健室みたいになったのを思い出す。
「またがってもらえて良かったわねー」
「あっ」
 顔を赤くしているメグを見ながら、克巳に会って謝らないといけないな、と思った。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:44| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その22)

 克巳に電話すると、
「ちょうどおれも話したいことがあるんだ」
 と明るい声で言う。仕事の予定を尋ね、克巳の家の最寄り駅にある喫茶店で待ち合わせた。
「七瀬くんの用事は何?」
 克巳はだらしなく頬杖ついてケーキを崩し、とがった欠片をぱくりと口に入れる。
「申し訳ない」
 俺は頭を下げた。
「何が?」
「俺は意図せず、お見合いおばさんになってしまった」
 克巳は大笑いした。
「出し抜けに、真面目くさって、七瀬くん、ほんと変。あはは……」
 人差し指で目尻をぬぐい、克巳は続ける。
「周平に恋人が出来たんだね」
「そうだ」
「どんな人?」
「オカマだ。俺の後輩の」
 克巳は両手をテーブルの下に置き、目を丸くして俺を見た。
「色んな種類のオカマが走馬灯のように浮かんでは消えてゆくんだけど。ゴツいのとか、ケバいのとか、やたらうるさいのとか」
「普通の可愛い女の子を思い浮かべろ。お前が女装したらきっとあんな感じだ」
 言った後で、自分の発言に自分で驚いた。目や鼻の形はもちろん違うが、受ける印象が似ているのだ。色白の、さっぱりした愛らしい顔立ち。
 克巳の目がうっすら潤む。
「じゃあさ、周平、俺のこと忘れてないんだね?」
「忘れる訳ないだろ!」
 俺が怒ることじゃない、と気付いたのは怒鳴った後だった。
「すまん」
「ううん。ありがとう」
 克巳はケーキを一口分フォークに刺し、俺の顔の前に差し出した。
「あーん」
「何の真似だ」
「周平なら口を開けるよ」
「俺は周平じゃない」
「伝染しちゃおうと思ったのに」
「風邪か」
「HIVに感染しちゃった」
 その意味するところを理解し、頭が真っ白になった。克巳は黒いくまのある目を細めて微笑む。いつか見た、女の幽霊。
「ようやく死ねるんだって思ったら、体がすーっと軽くなってさ、よっぽど嫌だったんだね、生きるのが」
 克巳は満足そうに紅茶のカップを傾けた。
「今は発症を抑える薬があるんだろ」
「よく知ってるね。でもさ、生きたくないのに治療するなんてもったいなくない? 医療費が。国は借金まみれだし」
「国なんぞどうでも良い! お前の命だろう」
「死にたいんだ、心の底から」
 俺は今まで何をしていたんだ。俺は克巳を救ったような気でいた。いつも気にかけて、時々会って話を聞いて。
「周平と付き合ってた五年間に、人生の一番美味しい部分を食べ尽くしちゃったんだよ。もう何も残ってない」
「まだ分からない。現に周平は幸せになった」
「七瀬くんは?」
 克巳の挑発的な視線が、俺の空っぽな心を貫く。
「すてはてんとおもうさえこそかなしけれ」
 克巳は伝票をつかんで立ち上がり、俺の髪をグシャグシャと撫でた。
「理系だからって何も知らないと思わないでよね」
 その声は激しく俺を責め立てていた。大学の頃と同じように。

 混乱していた。俺は何をしたら良いんだ。一刻も早くあのバカを病院に連れてゆくべきだろう。しかし薬を出されても飲まないに決まっている。まず第一に必要なのは、生きる意志だ。
 この世界は生きるに値する場所か? 生きる苦労と死ぬ恐怖を天秤にかけて、死ぬ方が辛いと断言出来るか?
 克巳がつぶやいたのは和泉式部の歌だ。「捨てはてんと思ふさへこそ悲しけれ」その後はこう続く「君に馴れにしわが身と思へば」
 捨てるというのは出家する(世を捨てる)という意味だが、今この状況で克巳が言うとしたら「命を捨てる」ということだろう。君に馴れにし。馴れるというのは性的な関係を結ぶことだと思っていた。君って誰だ。周平なら話は簡単だが、克巳は俺に向かって言ったのだ。
 克巳を抱き締めた時の感触がよみがえる。温かくて、心もとなく、叫びを我慢しているかのようにのどの奥がちりちりし、自分の動作に確信が持てなかった。周平のやり方こそが正しくて、俺の抱き方はぶざまな模倣でしかなかった。
 あなたに抱かれたこの体を、捨ててしまおうと思うのは悲しい。死にたければ勝手に死ねば良いじゃねぇか。何でわざわざ俺にそんなことを言ってくるんだ。
 失恋した克巳そっくりに涙がボタボタこぼれて、この問題は一人で抱え切れるものではないと悟る。俺はカバンから携帯電話を取り出した。

**********
HIVは、食器を共用しても感染しません。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:43| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その23)

「おー 七瀬! 聞いた?」
 周平の声は妙に浮かれて高かった。
「何が」
「結局付き合うことになっちゃってさ〜」
「その話は百ぺん聞いたからもう良いっ」
 俺は地の底にいる気分なのに、何でこいつの頭はお花畑なんだ。無性に腹が立つ。
「今どこにいる」
「新宿三丁目。借りる場所が決まってさ、どうやって改装するか二人で相談してるところ」
「少し話したいんだが、出て来られないか?」
「七瀬がこっちに来れば良い」
「克巳のことで相談があるんだ」
 周平は一瞬無言になり、大声を出した。
「まだ克くんと連絡取ってたの?」
「お前が見捨てたんだろ! それで俺は仕方なく、あいつの面倒を見る羽目に」
「君の世話好きは、呆れるほどだね」
 七瀬から電話で、ちょっと会って来ても良いかな、とくぐもった声が聞こえる。
「周平とナナさん、仲良過ぎっ」
 と怒るメグの声も。

 駅のそばのドトールに入ると、周平はカップを置いて手を振った。
「懐かしい名前を聞いて驚いたよ」
 屈託のない笑顔を見て、克巳は周平にとって完全に過去の人間なのだと思い知る。
「あいつ、病気になったんだ」
「エイズ?」
 全身が凍りつく。周平は何でもないように店のクッキーを口に入れた。
「お前……」
「七瀬は僕たちの恋愛を、どこまで知っているの?」
 見た目も中身も平凡の極みで、セックスもワンパターンで、それにもかかわらず克巳の人生をすっかり狂わせてしまった男の顔を、俺はまじまじと見た。
「僕に暴力を振るっていた話は聞いた?」
「え……?」
 周平は肩を揺らしてクスクス笑う。
「まあ、相手は克くんだからね。もし彼が筋肉ムキムキの大男だったら、僕は殺されていたと思うよ」
 俺はこれまで克巳から、何を聞かされていたんだ?
「大きなケガはしなかったけど、心は傷ついた。たぶん一生消えない」
 何も言えなかった。相談するための土台をいきなり崩されたのだ。
「克くんはゲイじゃなくて、性同一性障害だったんだと思う。でもそれをどう解決したら良いのか分からなかった。男でいるのも女になるのも苦しかった。それで僕に性別の決定を押し付けたんだ。『周平は男が好きで、周平はおれが好きなんだから、おれは男だ』というように」
「素直に女装すりゃ良かったのに」
「僕だってそう思ってた。僕は性別なんて関係なく、克くんそのものが好きだったんだ。正確に言うと、どこにもたどり着けない不安な魂を愛していた。一緒に解決策を見つけて、幸せにしてあげたかった。でも現実には、僕は彼の苦しみの原因だった。僕がいるから男でいなければいけないんだ。自分でそう決めちゃったんだ。僕はそんなこと望んでた訳じゃないのに!」
 周平がテーブルをこぶしでドンと叩き、周りの客数人が振り向いた。俺の派手な顔のせいで、別れ話をしているゲイカップルに見られそうだと、ふと可笑しくなった。
「ごめん。もう冷静に話せると思ったのに」
「いや、古傷に触れてしまって悪かった」
 何だかもう克巳のことを考えるのが嫌になっていた。あいつは色んな意味で嘘つきなのだ。隠していることがまだ沢山あるとしたら、無駄に疲れるだけだ。
「そう言えばお前、翻訳家になりたかったんだってな」
 周平の顔がトマト並みに真っ赤になって、ばっと下を向いた。
「酷いよ克くん! 七瀬にだけは知られたくなかったのに」
 何だこの過剰反応は。
「お前、英語得意だったじゃん。別に恥ずかしがるような夢でもないと思うぞ」
「違うよ、僕は、村上春樹になりたかったんだ」
 周平はハンカチを出して額の汗を拭いた。
「……アホだなー」
「小説家になろうと思ったけどうまく書けなくて、翻訳なら元になる文章があるからやれるんじゃないかと」
「やれば良いだろ。今からだって」
「翻訳家に必要なのは英語力より国語力だよ。僕にはそれが足りなかった」
「足りなければ身につければ良い」
「君らしい。でもみんながみんなやりたいことに向かって突っ走れるとは限らない」
「よく分からないな」
「だろうね。僕は七瀬のそういうところが好きだ」
 周平はにこっといつもの微笑みを浮かべた。
「村上春樹が昔ジャズバーを経営していたのは知ってる?」
「ああ」
 実を言うと、ある時うっかり「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでしまい、村上春樹の作品は小説、エッセイともにほぼ全て読破してしまっていた。しかしそれは一生秘密にする。
「小説家としての村上春樹、翻訳家としての村上春樹は無理でも、バーの経営者としての村上春樹にならなれるかもしれない」
「それが今準備してる店か」
「そう」
「アホもそこまでやれば壮大だな」
「研究費を稼ぐためにオカマになった奴に言われたくない」
「全くだ」
 時々臨時で講師を務めることはあるが、俺はまだ研究で食えてはいない。実際に店を出して商売を始める周平の方が、よほどしっかり夢をかなえている。
「村上春樹のことだけじゃなく、場所を作りたいという気持ちもずっとあったんだ。若い頃の僕や克くんみたいに悩んでいる子たちが、話し合える場所。自分の心を直接説明出来なくても、文学について話すうちに間接的に語れるかもしれない。自分の中の大事な何かについて」
「お前たちはそんなに悩んでいたのか」
「見た目よりは」
 いつもイチャイチャして笑い合って、二人だけ幸福の国に住んでいるように思っていた。
「伝統文化オタクのことは誰が救ってくれるんだろうな」
「伝統文化カフェでも開けば?」
「能フレンドでも作るか。能を一緒に見に行ってくれる男の恋人」
「趣味の合いそうなお客さんが来たら紹介しよう」
 克巳を能に誘ったら、断られるだろうか。いつもただ会って話すだけで、どこかへ遊びに行こうなどと考えたことがなかった。
「頭では、克巳なんて勝手に死ねば良いと思ってるんだ」
「とてもそうは見えない」
「だってそうだろう、暴力振るって浮気して、男とやりまくって病気になって」
「あれは浮気じゃない」
 周平の表情から、何も知らないくせに口を出してきて、と迷惑がっているのがありありと分かる。
「付き合っていた頃に話を戻すよ。克くんは最初、ヒステリーを起こして暴れていただけだった。大学を卒業した後、暴力に方向性が生まれた。確実に僕の体を傷つけようとし始めた。同棲しようという誘いを断ったのがきっかけだった」
「どうして断ったんだ?」
 あんなに仲が良かったのに。そう見えたのに。
「一緒に住むのは精神的に無理だと思ったから。僕は嘘をついていた。克くんがどんなわがままを言っても平気な顔をして、余裕のある振りをしていた。その実、克くんの態度に疲れ切っていた。いつもギリギリだった。七瀬がいなかったらもっと早くに別れていたかもしれない」
「何で俺が関係あるんだ」
 周平は曖昧に唇を歪めただけで、それには答えなかった。
「克くんは殴る蹴るより効果的な方法をすぐに思いついた。どうするか分かる?」
 周平は今までで一番意地の悪い笑い方をした。
「お前、怖いこと言うんだろ」
「本を破るんだよ。大切なものから順番に」
「ひっでーなぁぁ!」
 そんなことをされるなら殴られた方がマシだ。というより一冊目をやられる前にボコボコにしてやる。
「止めなかったのかよ」
「うん。ただただ悲しくて…… 村上春樹と江國香織は後で全部買い直した」
「大学の時に俺が借りた本もやられたか」
「『ホリー・ガーデン』だね。ハードカバーなんて真っ先だよ。まあ焚書にされてたらアパートごと燃えていただろうし、ラッキーだったのかも」
「何がラッキーだ」
 周平は思い出を話すのが楽しくなってきたようだ。山頂から地上を眺めるように優しく目を細める。
「克くんは本に嫉妬していたんだよ。遠い出来事になってみると可愛いね。僕はどうにか落ち着かせようと『本より克くんの方が好きだ』と言ったんだ。そうしたら克くんは自分を傷つけ始めた。彼の痛みは僕の痛みだ。知らない男に犯されることは僕への攻撃になる。誰に何をされても、あの子は僕のことだけ考えていたはずだよ。それを浮気と呼べるかな」
「すごい自信だな」
「自惚れているんじゃない。克くんはそういう人間なんだ。可哀想なくらい変われない。病気にまでなって、使者を立てて僕に知らせようとするんだから」
 周平はおそらく冷めてぬるくなっているであろうコーヒーをくいっと一気に飲んだ。
「使者って、俺か!」
「そうだよ。克くんに利用されてるの、気付いてないの?」
 俺は腕を組んで堂々と答えた。
「うむ。改めて思い返すと、利用されっぱなしだ」
「君は本当に人が好いんだねぇ……」
「お前にも利用されたしな」
「そう言えばそうだった」
 周平は大学の頃のように、ほがらかに笑った。
「エイズはもう死ぬ病気じゃないだろ? それなのにあのバカ、治療しないって言ってる」
「徹底してるね。僕はもう別の人を愛してしまったのに、克くんは愛も憎しみも衰えてないんだ」
「どうしたもんかな」
「僕には何も出来ないよ。とうに逃げ出した身だもの」
「逃げて当然だ。お前は正しい」
 それでもやはり、克巳には生きてもらいたかった。どれだけ酷い話を聞かされても、それも含めて克巳は克巳だった。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 23:42| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする

贋オカマと他人の恋愛(その24)

 周平の店のオープニングパーティーの日に大学の用事が入ってしまい、行けないと伝えると、いつでも良いから開店前に来て欲しいと言う。仕事の予定がない早春の昼下がり、新宿三丁目に向かった。
「うわーっ 男のナナさんだっ」
「店でも行きと帰りは男だったろうが」
「まともに見たことなかったんで。は〜 男でも女でも俳優みたいなんですね」
 メグはジーパンの上に臙脂色のエプロンをかけ、薄く化粧している。角刈りだった初対面の時とも、派手に着飾って愛嬌を振りまいていた頃とも様子が違う。メグはもう、男であることも女であることも隠していなかった。
「食べてみてよ。『ねじまき鳥のスパゲティ』」
 周平は福々とした頬をいっそうふっくらさせて、俺の前に皿を置いた。フォークでソーセージを刺し、スパゲティをからめて口に入れる。トマトソースとバジルの味に、肉汁とスパイスの香りが重なる。
「どう?」
「俺はソーセージにはちょっとうるさいんだ」
「ソーセージにまでうるさいのか、君は」
「これは美味い! 昔、母親に連れていかれたイタリア料理屋の味に似てる。こんなの仕入れて高かっただろう」
 余計なお世話と知りながら、つい俺は、二人の商売を心配してしまう。
「全部あたしの手作りですよ〜 肉を刻むところから」
「ナツメグとセージを混ぜて腸に詰めていくんだ。家でもやっていたらしくて、すごく上手なんだよ」
「お前の家、日本料理屋じゃなかったか……?」
「市販のものは不味くて食べられないんです。それで仕方なく何もかも自分で作るようになりました」
「舌が肥えるのも考えものだな」
 村上春樹も飲んでいるという国産の紅茶に、ドーナツと蜂蜜パイ。ドーナツはシナモンが効いていて甘過ぎず、パイはサクサクして質が良い。どれも申し分なかった。
「ナナさんはあたしたちのキューピッドなんだから、いつ来ても無料にしようって言ったんですけど、周平がダメだって」
「タダだとかえって来にくくなる。仕事がある日は必ず夕飯を食べに寄るよ」
「わー 嬉しい! ナナさんだけスパゲティ増量しちゃう」
「俺と周平の仲を険悪にする気か」
「なるほど、その手があったか」
 周平はこちらに背を向けて洗い物をしている。
「引っ越しの時に、周平の荷物から着物が出てきてびっくりしましたよ。ナナさんに作ってもらったっていう大島紬」
 むせ返り、口からパイの破片が飛び出た。
「あんな高価なプレゼントをしておいて恋人じゃなかったとか、もうごまかすのはやめましょう! ナナさんと姉妹ならいっそ誇らしいです」
 俺が嫌だよ。周平とやったと思われたままでいるのは。しかし克巳の話を出すのも悪い気がするし、かと言ってこれ以上釈明するのも面倒だった。
「勝手にしろ」
「悔しいからあの大島、春物のコートに仕立て直しちゃおうかな。渋くて素敵な柄だったし」
「十年経てば似合うようになるだろう」
 メグは包丁を振り上げふくれて見せる。
「どうせ子どもっぽいですよ〜っ!」
 オカマバーで働いている時も手際が良いと思ったが、厨房の中のメグの動きはその比ではなかった。とにかく止まらない。さて次は、と逡巡する瞬間が全くないのだ。作り出すべきもののためにどういう順番で何をすれば良いのか、考える前に自然に体が動くのだろう。あまりにも無駄がなくなめらかで、調理をテーマにした即興の舞踊のようだ。
「綺麗だろう」
 周平は俺の隣に座って自慢げに言う。
「デカい魚なんぞさばいて、寿司でも握る気か」
「あれはスモークサーモンを作る準備をしているんだよ。オープニングパーティーで出すサンドイッチに入れるんだ」
「美味そうだな。行けなくて残念だ」
「開店後に来てくれたらいつでも食べられる」
 しばらくぼんやりとメグの舞を鑑賞した。どれだけ眺めても見飽きない美しさだった。周平の方を向くと、恍惚の表情を浮かべている。気持ちは分かるが働かなくて良いのか、店長。
「歌舞伎座に行った時の着物が見つかったらしいな」
「うん、懐かしかった」
「俺のだと勘違いしてるぞ」
 周平が首を傾げるので、俺はカバンからノートを取り出し、
 克巳のだろ
 と書いた。
「違う違う。僕のだよ」
 交換したんだろ
 周平は胸ポケットからボールペンを出し、俺の字の下に続けた。
 別れるような気がしていたから、隙を見て交換し直したんだ。僕は職人の息子だから、手織りの布を無駄にするのは忍びなかった。
 あの後、着たのかよ
 着てないけど。
 克巳はお前の着物だと信じて抱き締めて寝てるらしいぞ
 周平はちらりとこちらに視線を寄越し、すぐうつむいて文章を継いだ。
 克くんも気付いていると思うよ。だってサイズが全然違うもの。
「おっさん二人が顔くっつけて何をこちょこちょ書いてるんですかっ! 愛を語らいたければ堂々とやればいいでしょっ」
 メグはけっこう本気で怒っていた。
「いやいやいや……」
 周平は厨房に入っていって、メグの唇にキスした。相変わらず、照れもためらいもなく人前でそういうことが出来るんだなと感心する。
「今、愛しているのはメグだけだよ」
「メグ?」
 この呼び名を聞いたのはそれが初めてだった。
「新しい名前をつけて欲しいって言うから、最初『五反田くん』を提案したんだけど」
「野暮ったいから断って」
「シナモンとナツメグはどうかと言って」
「最終的に『メグ』に決まりました」
 五反田くんも、シナモンとナツメグも、村上春樹の作品に出てくる登場人物の名前だ。
「あたし、周平に出会うまで、男か女のどちらかにならなければいけないと思っていたんです」
「まあ、その方が、社会に受け入れられやすいからな」
「あたしは男でも女でもない『メグ』という生き物になるつもりです。周平がそれで良い、その方が良いって言ってくれたから」
 メグの表情は自信と希望に満ちていて、俺は不安になった。この光。周平に愛されていた頃の克巳の輝き。
 若者は俺の複雑な心境など想像もつかないらしく、
「ナナさんに負けたりしませんからね!」
 と、眉をつり上げ鼻膨らませ、お門違いの闘志を燃やしていた。

 俺はこれまで、克巳と会えば克巳の味方をし、周平と会えば周平の味方をしがちだった。話を聞くと一も二もなく同情してしまうのだ。しかしそもそも、あの二人はどれだけ分かり合えていたのだろう。
 別れないと思っていた克巳。
 別れる気がしていた周平。
 浮気されないと信じ切っている周平。
 浮気した克巳。
 あれだけ長期間ベタベタ一緒にいて、何故、相手を理解しないのか。どうして理解してもいないのに、愛し合うのか。
 分からないことだらけだが、一つはっきりしていることがある。俺は「犬も食わないもの」を食い尽くしてしまったのだ。何も出来ないくせに他人事に首を突っ込み振り回されて、間抜けにも程がある。
 十八歳の俺が今の俺を見たら、呆れ返るな。何、余分なことに時間を使ってんだ。お前のやるべきことは他にあるだろ! そう言うがな、そもそもお前が高校まで友達も作らず寂しい暮らしをしてたのがいけねぇんじゃねーか! ……いや、十八の俺とケンカしても仕方ない。不毛だ。
 俺を必要とする他人が一人もいなくても、俺には友達が必要なんだ。立ち止まり、携帯のボタンを押し始める。
「七瀬くん?」
 新宿を行き交う人々と車が立てる轟音に、克巳の甲高い、舌足らずな声が重なる。
「こっちの声は聞こえるか?」
「外にいるんだね。聞こえてるよ」
「俺は、お前に、生きて欲しい」
 数秒の間があった後、克巳は爆発するように笑った。
「おれ、一生に一度のモテ期かも〜」
「は?」
「この間、パンチパーマの男に追いかけられちゃってさ」
「ヤクザか」
「ううん、練馬区役所の職員」
 いったいどういう状況なんだ。
「HIVの勉強会の帰りで」
「お前、治す気ないとか言って、勉強会には行くのかよ!」
「何事も仕組みを理解しないと落ち着かないの! おれ理系でも医学の知識はないからさ、免疫についての専門書買って読んじゃった。生物学に出てくる化学式は分子が大きいから面倒だよね。面白かったけど」
「……パンチパーマはどうなったんだ?」
「あーそうそう、その人ね、やっぱり患者なんだけど、おれと違って毎回予防にすっごく気をつけていたんだって。どうして感染しちゃったんだろ。超流動でも起きたのかな?」
「何だその超流動ってのは」
「高校で習わなかった? 超電導みたいなものだよ」
「横道にそれてばかりいないで本題を話せ! 切るぞ」
「いいじゃん、好きに話させてよ! その人……アキラっていうんだ……めちゃめちゃ遊び人でさ、四十七都道府県全ての男とやるのが人生の目標で」
「そりゃ感染するだろ! アホか!」
「アホだよね〜 でまあ、そういう人だから、病気になったのがものすごいショックだったみたい。勉強会でおれを見かけて、自分と正反対の余裕しゃくしゃくな態度に心打たれて、わざわざ追っかけて声かけて来たってわけ」
「ようやく元の話に戻ったな」
「その後も何回か会って、それでね」
 克巳はふふふ、と南天の実を転がすような愛らしい声で笑った。
「一緒に生きて欲しい、って懇願されたんだ」
「お前、嬉しそうにしてるけどな、相手はパンチパーマの遊び人なんだろ?」
「あ、パーマは天然でね、顔をうずめるとフカフカして気持ち良いんだよ」
 こりゃダメだ。台風が発生したんだ。俺を巻き込み、俺には決して止められない、甘い台風。
「相手はどれくらい本気なんだ」
「知らないよ、そんなの」
「東京都代表にさせられてるんじゃないだろうな」
「東京はとっくに埋まってるよ。岐阜県出身とかだったら良かったのに」
「浮気されて辛い思いをするんじゃないか」
「病気のこともあるし、浮気はしないと思うよ」
「信用ならないな。今度そのパンチパーマに会わせろ。三者面談だ」
「もーっ やきもち焼かないでよ」
「焼いてねーよ! 心配してるんだろ!」
「大丈夫、心の一番大事な場所は、いつだって七瀬くんのために取って置いてあるから」
 克巳はクスクス笑って俺をからかい続ける。
「死ぬ日が近いと思うと人生は薔薇色になるね」
「エイズは治療すれば死なない。パンチパーマにも頼まれたんだろうが」
「医学が発達して、どんな病気も完治するようになったら、物語の作者は登場人物をどうやって殺すんだろ?」
「心中なら病気と関係ないな」
「自殺と言わないところが七瀬くんらしい。ロマンチック〜」
 克巳は「幸せいっぱい」と言わんばかりに浮かれている。
「おれが死ぬの、楽しみだね。七瀬くん、きっと泣くよ。じゃあ、アキラに予定聞いとくから。またね〜」
「なあ、ちゃんと治せよ!」
 通話はすでに切れていた。

 何だ。何なんだよ。耳を傾けてももらえなかった。俺の意見や思いは、そんなにも論ずるに足りないか。
 世界を変える気でいた十八の俺に教えてやりたい。お前は三十になっても、友達一人の気持ちさえ変えられないんだ。そして自分ばかりが世界に合わせて変質してゆく。
 もしかしたら一生、本当の意味では他人と関わることなんて出来ないのかもしれない。こちらが求めても、求めなくても、みな俺の前を素通りしてしまう。下を向いて本を読み続けた高校時代と同じように。
 まあ良い。勝手にしろ。俺に迷惑をかけるな。俺にはやるべきことがわんさとあるのだから。
 カバンの中で携帯電話が震えているのに気が付く。克巳かと思って画面を確認すると、社長からだった。
「今すぐ来て!」
「どうしたんですか」
「外国人の団体客が予約なしで来ちゃって、断りたかったんだけど、言葉が通じないもんだから曖昧な笑顔を浮かべているうちに、全員店に入っちゃったのよう」
「何、絵に描いたような日本人的対応をしてるんですか」
「あんた大学院まで出てるんだから英語くらい出来るでしょ! 助けに来て!」
 冷や汗が出る。英語はいまだに苦手なのだ。
「やっだぁ〜 外国人のはおっきいから口が痛くなっちゃ〜う」
 俺の突然の大声に、びくりとして振り向いたサラリーマンがいたので、ウィンクと投げキッスをしてやった。
「そんな仕事させたことないでしょ! うちは安全・安心がモットーの観光用のオカマバーなんだからねっ」
「俺が行っても、あんまり役に立たないですよ?」
「ゴチャゴチャ言ってないで来て! あんたのいかにもオカマらしいパーッと華やかな姿を見たら、中国人のおばちゃんたちもきっと満足するから」
「何だ、中国人ですか」
 それなら漢文で多少は意思疎通が可能かもしれない。
「今どこにいるの」
「新宿三丁目です」
「すぐ来られるじゃない。休みの日まで職場の近くに来ちゃうなんて寂しい女ね」
「社長に言われたくないですよ。友達の店に行っただけです、ほら、板前が嫁いだ」
「美味しかったでしょう」
「食ったことないくらいに」
「だと思った。生まれながらの料理人って感じだったもの。高い食材買い過ぎて店を潰さないと良いけど。それが嫌で、あたしはあの子をフロアに回したの。ああもう、今日はあの子も呼び出しちゃいたい!」
「辞めた人間まで集めないでください。すぐ行きますから」
「よっ 立女形! 日本一!」
 何が立女形だ。今日は母親と一緒に天ぷらを作る予定だったのに。材料買っちゃったわよ、と残念がる様子を思い浮かべると胸が痛んだ。
 仕方ない。俺を必要としているのは母親だけだが、オカマとしての俺を必要としている人間は大勢いるのだ。そして他人に必要とされない限り、金は稼げない。
 世知辛いな。俺は母親に詫びるメールを送り、店に向かって歩き始めた。

(終)
 
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