2014年10月05日

オカマ先生の恋愛レッスン(その1)

 結局、婚姻届を出すことになってしまったけれど、これで良かったのか、いまだに迷っている。

 知り合ったきっかけは、キミヤの引越しだった。私は引越し業者に勤めていて、見積もりのために彼の部屋を訪ねた。
「お姉さん、すっごくイイ身体してるのね」
 キミヤは私の、筋肉でパンパンに膨らんでいる二の腕を見つめて言った。
「ありがとうございます」
「もしかして、荷物もあなたが運んでくれるの?」
「やりますよ。他にも何人か来ますけど」
「キャーッ ステキ!」
 グーにした手を振り回す。素なのか演技なのか、明らかにオネエキャラだった。
 引越し当日、荷物をひょいと持ち上げるたび、キミヤは目をハートにして私を見ていた。全てのダンボールを部屋に運び込み、料金の精算をする段になって、
「お姉さん、メールアドレス教えてくれない?」
「何かあればこの会社の電話番号に……」
「そうじゃなくて、あなた個人のアドレスが知りたいの。お友達になりましょ!」
 マリア様にお祈りするような格好で、ちょこんと首を傾げてみせる。不覚にも笑ってしまった。
「ねっ、いいでしょ?」
 私は会社の名刺の裏にアドレスを書いて渡した。キミヤの家を出て五分も経たないうちに、メール着信のメロディが鳴った。

 丸美って可愛い名前ね。マルちゃんって呼んでいいかしら? あたし、マルちゃんに食事をご馳走したいの。と言ってもあたしの手料理じゃなくて(笑)すっごく美味しいレストランがあってね、マルちゃんならきっと喜んでくれると思うんだ。
 引越しの間、マルちゃんに話しかけたくてウズウズしていたんだけど、スピードが早過ぎて無理だったわ(笑)あたし一人で荷造りしていたら、一生かかっても引越しが終わらなかったと思う。今日は本当にありがとう! またね。
 馬場君也より

 胸のあたりで手を振るキミヤが見えるようで可笑しかった。


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オカマ先生の恋愛レッスン(その2)

 二週間後の夕方に、レストランの最寄り駅で待ち合わせた。
「あーん、本当に来てくれた〜」
 キミヤは両手を頬に当て、顔を真っ赤にして言った。
「馴れ馴れしいメール送っちゃって、迷惑じゃなかった?」
「いえ、別に」
「マルちゃんと食事が出来るなんて、夢みたい〜」
 キミヤは身振りと口調は完全にオネエだが、服装や髪型など、見た目は普通の男だった。パリッとアイロンのかかった白いシャツと、細身の黒いズボン。口さえ開かなければ、割とイイ男だ。
「何も考えずにジーパンはいて来ちゃったけど、ドレスコードに引っかかるかな」
「大丈夫、そんな気取った店じゃないから。でも食材と料理の技術は最高級よ」
 飲み屋に挟まれた、小さな穴のような入り口をくぐると、テーブルクロスのかかったテーブルが五つほど並んでいた。インテリアは古めかしく、フランス料理屋というより洋食屋みたいだ。
「苦手な食べ物はある?」
「ないです」
「それじゃあ、シェフのおまかせで」
 ウニをふんだんに使った前菜。肉のような味がする不思議なきのこ料理。素材の主張をソースが引き立て、どれも個性がはっきりしている。
「メチャクチャ美味いです」
「でしょ!」
「今までの人生でこんな料理食べたことない」
「マルちゃんが気に入ってくれて、あたしも嬉しいわぁ〜」
 驚いたのは料理の味だけではない。店には一切音楽がかかっておらず、その代わりに厨房から間断なく怒鳴り声が聞こえるのだ。
「仲悪いんですかね?」
「そうじゃないと思うわ。みんな料理の職人だから、ちょっと荒っぽいだけよ」
 ステーキを切り分け、フォークを右手に持ち替えて無我夢中で食べていると、キミヤと目が合った。
「すみません。行儀が悪くて」
「ううん、想像通りの食べっぷり。あたし、人が美味しそうにご飯を食べているのを見るのが大好きなの」
 ナイフを優雅に動かしながら、うっとりと目を細める。
「ゲイの友だちはね、
『いくら料理が良くても、雰囲気が全然おしゃれじゃないからイヤッ』
 って付き合ってくれないの」
「私はガサツそうだから平気だと思った」
 意地悪く笑ってみせると、キミヤはナイフとフォークを置いて大袈裟に手を振った。
「違うの! マルちゃんは質実剛健って感じがしたから、この店の魅力を理解してくれるはず、って思って」
「まあ実際ガサツだし」
 キミヤは再びナイフとフォークを握る。絶対に音を立てない。
「何かスポーツをしてるのよね?」
「大学の頃はトライアスロンを」
「ス・テ・キ」
「社会人になってからは忙しくて、水泳しかやってないです」
 ステーキを食べ終え、キミヤはナプキンで口を拭った。何故か目を閉じていて、まつ毛の長さがよく分かる。
「立ち入ったことを聞くようだけど、マルちゃんってレズビアンなの?」
「はあ? そんな風に見えますかね」
「わざと外見を男性的にしているのかなって思って」
 私は顔をしかめた。
「女か…… 女とは付き合いたくないな」
 キミヤはふふふと笑う。
「ずいぶん女を嫌うのね。女なのに」
「友達として付き合うのも面倒だった」
「どこがイヤなの?」
「いつも競争しているところ」
「あら、それじゃあ男と同じじゃないの」
 今度は二人で笑った。
「マルちゃんも、普通に男の人と恋愛するのね」
「別に、男も好きじゃないです」
「ええっ、じゃあ何が好きなの?」
「数学」
 予想外の答えだったらしく、キミヤは一瞬無言になった。
「な、なんで?」
「面白いから。大学も数学科でした」
「キャーッ うっそぉ〜」
 レストランにオネエの悲鳴が響き渡る。厨房の怒鳴り声には慣れっこの常連マダムたちが、一斉にこちらを向いた。キミヤは全く気にしない。
「あたしも数学科出身なの! 今はね、予備校で数学を教えてる。『オカマ先生の数学レッスン』って本も出したのよ」
「へぇ、そりゃすごい」
 オカマ先生って。と思わなくはなかったけれど、大学卒業後も数学の世界で生きているキミヤを、素直に尊敬した。みんながみんな出来ることじゃない。
「あたしの本、今度送るわ」
「楽しみにしてる」
「ああ、これはきっと運命ね!」

 一皿に十種類ほどのタルトや果物が載った、驚異的なデザートを食べ終えると、料理人たちが厨房から出てきた。試合終了後のスポーツ選手のような笑顔をたたえ、一列に並び私たちを見送る。
「今日も素晴らしかったわ、シェフ!」
 常連のマダムたちは感激で料理長にキスせんばかりだ。
「ね、ケンカしていた訳じゃないって、分かったでしょ」
 色々な意味で濃い店だった。キミヤの濃さと、ちょうどぴったり合っていた。
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オカマ先生の恋愛レッスン(その3)

 数日後、キミヤから小包が届いた。『オカマ先生の数学レッスン』だ。一冊の本かと思ったらシリーズもので、数学I、数学A……と科目ごとに分けられており、全部で六冊あった。問題も解説も、全てオネエ言葉で書いてある。

 サイン、コサインって一体何なの? 習ったばかりの時、あたしも戸惑ったわ。でもこのグラフを見て。ねっ、とても綺麗な波の形をしてるでしょう。
 サイン、コサインの使い方を覚えると、波の性質を考えるのに役立つってこと。音波、電磁波。光や放射線も電磁波の一種よ。地震のP波、S波は覚えてる? 世の中って波だらけ。
 つまりあなたは、世界を理解するための道具を手に入れたのよ!

 ふざけているのは題名だけで、内容は至って真面目だった。特に感心したのは、数学を現実の世界に結び付けているところだ。数学の勉強の意味を説き、受験生が虚しい気持ちになるのを防ごうとしている。

「数学なんて面倒なこと、何でやらなきゃいけないの?」
 数学嫌いの子はそう思っちゃうわよね。確かに小学校からずーっと、算数と数学を勉強するのって不思議。分数の割り算なんて、社会に出たら絶対やらないのに(笑)
 高校卒業後、特に文系に進んだら、死ぬまで数学に触れないかもしれない。理系だって、全員が数学を使う仕事に就く訳じゃない。
 でもね、こう考えて欲しいの。数学は、問題を解決する練習なんだ、って。
 生きていると、色んなトラブルにぶつかるでしょ。親と意見が合わなかったり、友だちとケンカしたり。
 そんな時は、じっくり腰を据えて問題を眺めてみる。
 どんなヒントが隠れているんだろう。
 自分に何が出来るんだろう。
 すぐ諦めてポイッと放り出しちゃう人は、一生何も得られないわよ(笑)
 あたしはすごく弱くて感情的な人間で、若い頃は悩みに押し潰されそうだった。もし数学と出会わなかったら、冷静にものを考えられなかったかもしれない。毎日泣いているだけで、何も解決出来なかったかもしれない。

 ずいぶん叙情的な数学の参考書だ。私はキミヤの姿を思い浮かべて、くくくと笑った。そして何故か少し、胸が苦しくなった。
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オカマ先生の恋愛レッスン(その4)

「送ってくれた本、面白かったです」
 キミヤは私を自宅に招き、手料理をご馳走してくれた。ホワイトグラタンに、バルサミコ酢を使ったサラダ。予想通り、私が食べるにはもったいないほど味が良い。あんな変わったレストランに通うくらいだから、よほどの食通なのだろう。
「もう読んでくれたの?」
 キミヤはサラダのおかわりをよそって、私の前に置きながら言った。私は口の中のマカロニをモグモグ噛みながらうなずく。そしてアイスティをごくんと飲み、考える。
「数学ってさ、世界、宇宙…… うーん、どっちも意味が限定的だな」
「三千世界?」
「都々逸かよ! いや、その単語の方が正しいのか?」
 キミヤは指揮棒を振るみたいに、フォークを空中で軽く揺らした。
「この世にあるもの全部、この世に無いものも含めて全部、のこと?」
「そうそう、そんな感じ。数学ってさ、そういう『全部』を語るための特殊な言語だと思うんだ。キミヤはさ、それをみんなに伝わるように翻訳したんだね。オネエ言葉を使って」
 キミヤは見る間に真っ赤になった。
「やっだぁ〜 恥ずかしい〜っ そんな感想、初めてっ」
「他の人はどんな風に読むんだろう」
「『どんな』も『こんな』もないわよっ ウケ狙いの変な本だと思われてる。せいぜい生徒がからかい半分で『笑えました』って言って来るくらい」
「そうなんだ。ふーん。みんな分かってないなぁ。あれ、すごく良い本だよ。経済学とからめながら微分の説明をするところとか、本当に感心した」
「お世辞言ってくれたからじゃないけどっ デザート出すわよ」
 青みがかったガラスの器に、キウイや苺やパインが浮いている。シロップをすくってすすると、甘酸っぱかった。
「これ、お酒入ってる?」
「白ワインを少し、ね」
 キミヤは指先をぴんと伸ばして、パタパタと顔を扇いだ。それでも足りないのか、ワイシャツの一番上のボタンをぱちんと外す。まだ耳が赤い。
「マルちゃんって、いったい何なの?」
「何なのって言われてもね……」
 デザートも二回おかわりした。これではまるで、メシのお礼に本を褒めたみたいだ。
「次は私が奢りますよ。いつも食べさせてもらうのは悪いから」
「それは気にしないで。料理は好きなの。マルちゃんはどんなものを喜ぶだろう、って考えながら作るの、すごく楽しかった」
 お互い顔を見合わせて微笑む。
「美味しかったです」
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オカマ先生の恋愛レッスン(その5)

 キミヤと私は同い年で、三十三歳。全然違う生き方をしているのに、学校や職場で出会ったどんな人間よりも話が合った。二人とも他人を気にせず、自分がやりたいことを何より大切にして暮らしている。その気ままな調子が楽で良い。
 気が付くと、キミヤの家で時折食事をするのが習慣になっていた。

 手土産を持っていきたいと思いつつ、いつも手ぶらだった。ありとあらゆるものにこだわりがありそうなキミヤに、何をあげたら良いのかちっとも分からない。しかしこう恵んでもらってばかりでは野良犬のようだ。
 私はキミヤの家へ行く前に、デパートに寄ることにした。地下の食品売り場をウロウロする。何か美味いものを見つけなければ。
 お酒と輸入食品のコーナーで、ワインの試飲を勧められた。小さなプラスチックのコップでくいっとやって、その商品の価格を見る。キミヤの料理へのお礼にしては安過ぎだ。
「バルサミコ酢みたいなワインってないですかね?」
「バルサミコ酢、ですか」
 若い店員は明らかに動揺していた。店内を見回して、目立つ場所に置いてある黒いビンを持って来た。
「こちらはどうでしょう。イタリアの赤ワインです。円高還元でお値打ち価格になっておりまして……」
「値段はどうでもいいんだ」
「えー、えーっと、イタリアで『赤ワインの王様』と言われている銘酒なんです」
「へー」
「お料理に使うこともあるんですよ」
「あー、それはいいね。プレゼント用に包装して、何かつまみも見繕って」
「ではワインと同じピエモンテ州の珍しいチーズを……」
「カビてなきゃ何でも良いです」

 私がワインとチーズを差し出すと、キミヤはキャーッと奇声をあげた。
「バローロじゃないの! 高かったでしょう?」
「ワインの値段はどれくらいなら高いのか安いのか知らない。口に合うと良いんだけど」
「マルちゃんがくれたものなら何でも美味しいわ! それに、このワインで煮込んだ牛肉の料理がとても有名でね、あたしも一度しか食べたことがないけど…… あ〜 でも料理に使っちゃうのはもったいないわ。飲みましょう! あら、このチーズ、初めてよ」
 喜んでくれたようで何よりだった。

「今日のメインはね、鶏肉のソテーにオカマ風ソースをかけたの」
「何それ」
「本当にあるのよ、そういうソースが。娼婦風とか炭焼き職人風とか、イタリア料理の名前は面白いわね」
 いったいどんな味なのかと不安だったが、単にざく切りにした生のトマトとバジルがかかっているだけだった。
「さっぱりしてて美味しい。名前のつけ方間違ってる」
「イタリアのオカマはクールなのかしら…… マルちゃんのバローロ、開けるわね。魚じゃなく肉にして正解だったわ」
 細身の、背の高いワイングラスに、赤黒い液体が注がれる。キミヤは思いのほか大胆に、それをごくりと飲んだ。
「あ〜っ ちゃんとしたワインの味がする〜っ いつも一人だから、こういう高いワインは買えないの。飲み切れないともったいないじゃない? 料理用のを飲むと、ブドウジュースみたいで悲しい気持ちになるわ」
「じゃあ、また買って来るよ」
「そんな悪いわよ。気にしないで。マルちゃんがうちに来てくれるだけで、あたしは嬉しいんだから」
 キミヤが用意してくれた料理と、チーズとワインで二人ともすっかり満腹になった。残ったら料理に使うはずだったバローロは、空になっていた。
 私はテーブルから離れてリビングの床に座る。
「本棚見ても良い?」
「マルちゃんに見られたら困るものは隠してあるから大丈夫よ」
「わざわざ申告しなくても」
 ゲーデルの不完全性定理についての薄い本があったので、パラパラとめくった。ドラえもんの道具から説明が始まっているので、中高生向けに書かれた解説本なのだろう。言葉遊びのようなパラドックスの話が続く。

 正直者のインディアンが言った。
「私は嘘つきです」
 もしインディアンが正直者なら、インディアンは嘘つきということになる。
 もしインディアンが嘘つきなら、インディアンは嘘つきではないことになる。

「不完全性定理の本を選ぶなんて、マルちゃんは意外とロマンチストね」
 気が付くとキミヤが隣に座っていた。
「こういうの、あんまり得意じゃなかったな」
「マルちゃんの卒業研究は何?」
「数値解析。紙とエンピツで解けない問題を、コンピュータを使ってゴリゴリ解いてくやつ」
「あたしは数理論理学。黒板が記号だらけになって頭がこんがらがるの」
「じゃあ不完全性定理も範囲内だ」
「テーマには選ばなかったけどね。数学の論理にほころびがあるって知って、すごくホッとしたのを覚えてる」
「どこかが欠けてないと逃げられない」
「不完全性定理。不確定性原理。未完成交響曲」
 キミヤの頭が軽く肩に触れていて、女の子みたいな甘い香りがした。競い合うように私に腕をからませた、同級生たちを思い出す。
「私、大学時代が一番幸せだったんだ。毎日何時間でも数学に没頭出来たから」
 女の子たちは私のことなんて忘れて、男の子に夢中だった。独りは自由で清々しかった。強がりではなく、本当に。
「大学の四年間だけ、私は自分の国にいた気がする」
「今は違うの?」
「職場に数学の話をする人なんていないからね。だからキミヤを知った時、亡命先で祖国の人間に出会ったような気持ちになったよ」
 しばらく黙ったまま不完全性定理の本を読んでいた。キミヤは肩に頭を寄せてじっとしている。寝てしまったのだろうか、と顔をのぞき込むと、一瞬だけ目が合った。
「マルちゃん」
「ん?」
「あくまで仮定の話として聞いてね」
「うん」
 キミヤの声はどんどん小さくなって、最後は耳を近付けないと聞こえなかった。
「あたしがマルちゃんとエッチしたい、って言ったらどうする?」
「私が相手で勃つんだろうか」
 答えがない。キミヤの方を見ると、下を向いてかすかに震えている。
 そうか。勃ったからそんなことを言い出したのか。不思議なこともあるものだ。私は三秒ほど考えてみる。
「部屋を真っ暗にしてバックでやれば出来るかもしれない。とりあえずトイレ行ってくる」
 私は急いでブラウスを一度脱ぎ、ブラジャーを外した。頭の先から足の先まで、女の記号が無いか点検する。子どもの頃は百パーセント男と間違えられた。今でも名刺を渡して「えっ」と驚かれることがあるから、ずいぶん男性的なのだろう。
 しかしさすがに裸になると、輪郭に丸みがある。小さいが一応、胸もある。
 私の身体はキミヤの本能をどこまでだませるのだろうか。もし上手くいかなくても、笑って許してあげよう。
 服を整えてリビングに戻ると、キミヤは小さな箱を握って体育座りしていた。
「電気消すね」
 真っ暗になるかと思ったのに、街の灯がカーテン越しに入ってきて、窓全体が薄ぼんやり光っている。シルエットになったまま、私はキミヤに背中を向けてブラウスを脱ぎ捨てた。
「どうぞ」
「本当にいいの?」
「まあ、出来るところまでやってみたら」
 キミヤは私の背中に抱きついて、髪の毛をこすりつけた。形を確かめるように肩から二の腕までを手で撫でる。深呼吸みたいなため息が聞こえた。
「マルちゃん、マルちゃん」
「何?」
「呼びたかったから呼んだだけ」
 ずっと髪の毛でコショコショやっているので、犬にじゃれられているような、おかしな気分だった。
 背中のくぼみに頬をくっつけて、キミヤは動かなくなる。何もせずにそのまま寝てしまうのではないか、と思ったら、すっと身体が離れた。服を脱いでいく音がする。私も四つんばいになり、ズボンとショーツを脱がされた。
 あ。まずい。
 女性器は何をどうしようと女性器である。そこ、そんなに触らなくていいから、と言おうにも声が出ない。キミヤの細い指が私の身体の奥の方に沈んでゆく。水っぽいいやらしい音がした後、指ではない硬いものが当たる感触があった。
 萎えなかったんだ。そりゃ、めでたい。
 私は目をつむって歯を食いしばった。

「ねえ、マルちゃん、生理だったの?」
 ブラウスを着て振り向くと 、キミヤの貧相な身体が目の前にあった。暗闇に目が慣れて、あらかたのものははっきり見える。
「ゴムに血が付いてるんだけど」
「へー 処女って本当に出血するんだ」
 一拍おいて、キミヤは向こう三軒両隣に絶対聞こえる大声で叫んだ。
「マルちゃん、処女だったの?」
「そうだよ。血に触りたくないなら私が片付けようか」
「い、いいっ」
 キミヤはティッシュを使ったり手を洗いに行ったりひとしきりバタバタして、戻ってきた。私ももう服を着ていたので電気を点ける。まぶしい。
「なんで処女だって言わなかったのよ!」
「ごめん。血が付いちゃったのは申し訳なかった」
「そうじゃなくて! あたしなんかとしちゃダメじゃないの」
「なんで?」
「女の子にとって『初めて』は大事なんでしょ? 大好きな人と素敵な場所で、とか」
「もう女の子って歳じゃないし」
「歳の問題じゃないわよ!」
 キミヤは何故か、愛娘を汚された母親のようにいきり立っていた。
「でもさ、男も女も好きじゃないんだから、当然の帰結として、処女なのは予想出来たと思うんだけど」
「だってマルちゃんはモテるでしょ……」
「誰に。私とやりたがる男はいない。女とは私がやりたくない」
 きっとこのままセックスせずに死ぬのだろう、と思っていた。それは構わない。私の人生にとって重要なことではないから。けれど冥土の土産に、一度くらいやってみても良いかな、と思ったのだ。
 その相手がキミヤなのは、全然嫌じゃなかった。
「処女じゃないせいで、マルちゃんがお嫁に行けなくなったらどうしよう」
「いつの時代の話だよ! だいたい結婚するつもりもないし」
 勝手に落ち込んで頭を抱えていたキミヤが、パッとこちらを向いた。
「あたしと結婚しない?」
「はあ?」
 その時、天啓のように「偽装結婚」という言葉が浮かんだ。どうして今まで気が付かなかったのか。結婚詐欺の目的が、お金だけではないことに。みるみる心が醒めてゆく。
「帰る」
「マルちゃん……?」

 帰宅後、ネットでゲイの人たちのことを調べてみて、自分の無知を思い知った。
 最初、ゲイと女はねじれの位置にある直線のように、決して交わらないと考えていた。私とキミヤは特殊な例だと。しかしゲイが女と親しくなるのは、決して珍しいことではないらしい。
 まずは友達。これは女どうしみたいなもので、ノリや話題が合うのだろう。
 まだ自分をゲイだと認められない若い頃、無理に女と付き合う話も多く見つかった。女の子がその時どんな思いをしたのか、ゲイ側の文章を読んでも分からない。
 社会的にゲイであることを隠すため「カムフラージュ結婚」をする場合もある。これは途中でゲイであることがバレて離婚騒動が起きたりする。
 相手がゲイだということを納得して結婚する女性もいる。どんな種類の愛情なのか、苦しくないのか、これも知ることは出来なかった。
 パソコンに向かっている間、メール着信のメロディが何度も鳴った。キミヤに決まっている。考えがまとまるまで見ないつもりだ。
 どこかのブログにあった、
「ゲイは女にモテる」
 という言葉が私の心を刺した。確かに私はキミヤに惹かれている。人間関係において、私はまるっきりおぼこ娘だ。何故あんなに美味しい料理をタダで食べさせてくれるのか、裏側にある欲望なんて見もしなかった。
 気付けばすっかり餌付けされている。
 またメール着信のメロディ。
 キミヤの好意的な言葉や態度や優しさを、素直に、真正直に受け止めてしまっていた。ギリギリ我慢出来る結婚相手として、私をターゲットにしただけかもしれないのに。
 どれだけ男っぽいと言われても、私は女だ。どうしようもなく女だ。
 男も女も愛せるバイセクシュアルの人もいるという。でもネットの情報をざっと見た感じでは、それほど多くない。ゲイは男を愛する。男が女を、女が男を愛するのと同じように。
 またメール。
 いい加減うんざりして来たので開けることにした。

 マルちゃん、なんで怒って帰っちゃったの?
 あたしが「お嫁に行けない」とか言ったから?
 あたしが変なこと言い出さなければ、こんなことにならなかったのに。ごめんなさい。
 すごくドキドキしてたの。頭に血が上ってフワフワして、気が付いたら、心にある言葉を口に出してた。
 もう会わないなんて言わないよね?

 短いメールが十通以上来ている。一個一個開けていくのが面倒臭い。ウザいぞ、キミヤ。用件はまとめてくれ。

 マルちゃんがもう、うちに来てくれなくなったらどうしよう。
 あたし、取り返しのつかないことをしちゃった。
 何をしたら許してくれる?
 マルちゃん、電話して。
 マルちゃんの声が聞きたい。
 マルちゃん
 マルちゃん
 マルちゃん
 ……

 最後の方はその繰り返し。カップ麺の宣伝かよ!
 イライラしながら、ふと、今キミヤは泣いているな、と思った。携帯を握りしめたままベッドに突っ伏して。実際に声を出して私を呼んでいるかもしれない。
 いったいどんなつもりがあって、キミヤは私に近付いたのだろう。
 実はバリバリの異性愛者で、オネエ言葉で女を油断させてヤリまくっている。
 さすがにそれはうがち過ぎだ。得られるものが労力に見合わない。それに私はキミヤが真性の同性愛者であることを知っている。どこかで聞いたんだっけか……
 そうだ。「オカマ先生の数学レッスン」に書いてあったんだ。

「男ならば(p)、女を愛する(q)」
 この命題が間違っていることを証明するには、pだけどqじゃない例を一つ示せば良いの。
 そう、目の前にいるわね(笑)
 あたしは男だけど、女は愛さない。あたしが好きになるのは男だけ。
 ちょっと男の子たち、おびえないでよ! 年下と年上には全然興味ないの。あたしの好みはすっごくノーマルなんだから。

 ノーマル…… 今日一日でノーマルが何なのか、まるで分からなくなった。
 またメール着信。
「落ち着け!」
 と一言だけ返して、電源を切った。
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オカマ先生の恋愛レッスン(その6)

 キミヤの家の近くの公園には、小さなカフェテラスがある。平日の午前十時、人はまばらだ。薄い雲の向こうに太陽がのぞいて、テーブルの下に短い影を作っている。
「単刀直入に聞くけど、キミヤはなんで私と友達になろうとしたわけ?」
 キミヤはしおれた様子で、グレープフルーツジュースの氷をからんと鳴らした。
「友達になりたいな、って思ったから、友達になったの」
「もっと詳しく」
 私を上目遣いで見て、すぐ下を向く。
「引越しの時、女の子なのに荷物を軽々と持ち上げて、すごーい、って思って…… きっと脳みそも筋肉で出来てて話なんて合わないだろうけど、そういう子と食事してみるのも面白いかしら、なんて……」
「ところがその女は数学科出身だった」
「別の意味で脳みそが筋肉だった。とても頭の良い子だった」
「頭なんて良くないよ」
 もし頭が良いなら、自分が何に腹を立てているのか、もっと明確に出来るはずだ。
 キミヤは私の方を真っ直ぐ見て、優しく微笑む。
「マルちゃんはこの間の夜、なんで怒ったの?」
「『カムフラージュ結婚』って知ってる?」
 キミヤの顔色がサッと変わった。
「そんなひどいこと考えてたの?」
「世間をあざむくために結婚相手を探していて、『夫婦の営み』が可能かどうか試してみたのかと」
「そんなの絶対にない! だいたいあたし、『オカマ先生』で売ってるのよ! ゲイだってことは誰にも隠してないし、世間体を取り繕う必要も全くない。結婚なんてしたらかえって『オカマは演技だったのか』って後ろ指さされちゃうんだから」
「じゃあなんで、結婚しようなんて言い出したのか」
「それは……」
 キミヤは再びしょぼくれる。
「結婚したいな、って思ったから、そう言ったのよ……」
 一羽の鳩が目の前を歩いてゆく。後ろから降りて来た鳩がちょっかいを出し、一羽目はバサバサと飛び立った。
「あたしね、ノンケって言って分かる? 異性愛者の男の子しか好きになれないの。同級生とか、同僚とか」
「それって上手くいくの」
 キミヤは大きく首を振る。
「狂いそうになるくらい思い焦がれて、それでお終い。迷惑かけたくないから、告白もしたことない。ゲイの子と付き合った経験はあるけど、長く続かなかった」
 いよいよ私とセックスした意味が分からない。
「ゲイさえも男と認めない鉄壁のセンサーが、あの夜、誤作動を起こした」
 それとも、性行為と恋愛には関係が無いのか。特に男の人は。
「誤作動というなら、ずっと起こしっぱなしだわ。引越しの日からずっと」
 キミヤは急に私をキッとにらんだ。
「マルちゃん、自分がどれくらい格好良いか、分かってる?」
「えー 自分になんて興味ないから知らない。認知のベクトルは常に外側へ向かっている」
「でしょうねぇ。でもモテたでしょう、女の子に」
「中学、高校の頃は誰かしら腕にぶら下がってた。私をめぐって決闘事件が起きたり」
「女は怖いわ……」
「単なる男の身代わりだよ。大学入ったら彼氏作って見向きもしない。今はみんな二人三人子どもがいるお母さんだよ」
 身代わり。そうか、私は身代わりなんだ。誰にとっても。
「あたしは『オカマ』というジャンルの少数派だけど、マルちゃんもかなり変わってると思うのよね」
 そう言ってキミヤは紙を取り出し何か書き始めた。
「ちょっとした思考実験をやってみましょう。セックスアピールの全く無い人間を考えてみて」
「私みたいな?」
「そうじゃなくて、もっとゼロなの。男性としての特徴も女性としての特徴も一切持ち合わせてない、つるんとした人形のイメージよ」
 キミヤは殺人事件の現場のような、曖昧な人の形を描いた。
「このツルツル人間、恋愛の習慣はあって、適当な相手とペアを組むの。二百人いたら、百組のカップルが出来るわけ」
 紙に人の形を書き足してゆく。
「生殖器だけは男女の区別があることにしてちょうだい。でもそれは隠れている。恋愛する時には性差を一切知ることが出来ないから、
 男と男 男と女 女と男 女と女
 というカップルが同じ割合になっちゃうの。全部で百組なら、二十五組ずつね」
「繁殖出来るのは」
「人間と同じ。男と女だけ。百組のうちの五十組。もし一組の男女が平均二人の子どもを作るとすれば」
「次世代で個体数は半分になる」
「ツルツル人間はあっという間に絶滅しちゃうわ」
 キミヤのやりたいことが何となく分かってきた。
「次に、完璧なセックスアピールとそれを受け取る能力のある…… エロエロ人間を考えてみましょ」
「その名前はどうかと」
「他に思い付かなかったのよっ 男は男の特徴を持ち、女は女の特徴を持つの。男は女の特徴に対して恋をし、女は男の特徴に対して恋をする。例外はないわ」
 キミヤは少年漫画みたいな男と、少女漫画みたいな女を描いた。妙に上手い。
 私が後を続けた。
「磁石のSとNみたいに男女は単純に惹かれ合って、全てのカップルは『男と女』になる。もしそれぞれが平均二人の子どもを作るとすれば、次世代になっても個体数は変化しない」
「人間は基本的にエロエロ人間なのよね」
「なんか反論出来ない……」
 キミヤはちょっと上を向いて、得意そうにニヤッとした。
「とにかく、ツルツル人間よりエロエロ人間の方が繁殖の効率が良いでしょう。だから人間は、年頃になると男らしさや女らしさを強調するようになるわけ。もう本能に埋め込まれているの。それが下手な種は滅んじゃったから」
 みんな競っておしゃれを始めた中学時代を思い出す。自分だけが取り残されてゆく違和感。
「で、ここからが本題。一番単純なモデルとしてエロエロ人間を考えたけど、自然は大量に同じものを作るのが苦手なの。時々、規格外の人間が生まれてくる。女の特徴を持つ男、男の特徴を持つ女、男の特徴に対して恋する男、女の特徴に対して恋する女。ツルツル人間もいるかもしれない」
「四角い消しゴムを作る工場で、五角形の消しゴムが混ざるように」
「五角形に罪はないわ」
「もちろん」
「でも少数派として生きにくい生を送ることになる」
 キミヤが無言になった。キミヤが乗り越えてきた、三十三年間の重み。
「今、言いたいのはその愚痴じゃないの。マルちゃんは『男の特徴を持つ女』で、あたしは『男の特徴に対して恋する男』でしょう? 『男の特徴』をMとかに置き換えちゃえば……」
 キミヤの顔がだんだん赤くなってゆく。
「ねえ、ずいぶん長い話だけど、私を口説こうとしてる?」
 キミヤは両手を頬に当て、ぶんぶん頭を振った。
「一生懸命考えて来たのよぅ〜」
 いくら鈍感とはいえ、キミヤが私に恋愛感情に近いものを抱いていることくらい分かる。問題はそれが「永続的なものかどうか」なのだ。一時の気の迷いではないのか。思春期の恋のように。
「正直言って、マルちゃんはツルツル人間の一種なんじゃないかと思うのよ。男になろうとも、女になろうともしていない。男にも女にも興味がない。男っぽいのは、偶然でしょう」
「うん。髪は洗いやすいから短くしてるだけ。服は選びやすいようシンプルに。顔は生まれつき」
「少数派どうし、肩寄せ合って生きましょう」
 キミヤは私の手を握り、真っ直ぐ目をのぞき込んでくる。長いまつげが鳥の羽ばたきみたいに美しく上下した。
「マルちゃん、あたし本気でマルちゃんと結婚したいの」
 私はその手を払いのけた。キミヤは勘違いしている。私はツルツル人間じゃない。男に恋をして、女になろうとしている。変化してしまったら、キミヤは離れていくのに。自分では止められないのだ。
「私たちの未来に、そんな綺麗なものがあると思えない」
 呆然とするキミヤから視線をそらしてはっきり言った。
「もう会うのやめよう」
 次の瞬間のキミヤの叫び声は、都市伝説になりかねない、凄まじいものだった。
「い〜〜や〜〜っ」
 犬の散歩をさせているおじさん。マラソン中のお兄さん。腰が直角に曲がっているおばあさん。カフェテラスのお姉さん。公園にいる全ての人が、こちらを見ていた。
「マルちゃんの意地悪っ 甘い言葉であたしを夢中にさせたくせにっ」
「甘い言葉……?」
 ごく普通の会話しかしていないと思うのだが。
「悪い。記憶にございません」
「あんなにドキドキさせておいて、責任取ってよぉぉ」
 ゲリラ豪雨のようにボタボタ涙と鼻水をたらす。
「あたしはっ マルちゃんと結婚するのぉ〜っ」
 数理論理学まで修めておいて、結局は泣き落としかよ! 数学の勉強が全然役に立ってないじゃないか、オカマ先生……

 あたしはすごく弱くて感情的な人間で

 本の一節が思い浮かぶ。キミヤは今、論理どころじゃないんだ。必死なんだ。泣き声以外、何の武器も持たない子どもみたいになって、私に挑んでいる。
 胸が苦しかった。当たり前だ。キミヤが苦しければ私も苦しい。もうとっくにシンクロしている。
「いいよ」
「えっ」
 涙と鼻水でびちゃびちゃの顔がこちらに向いた。
「結婚してくれるの……?」
「仕方ない」
「仕方ないって何よ!」
 自分がこんなに男に甘いとは知らなかった。いや、男ではなく、キミヤに甘いんだ。
 母性本能なんて言葉は、言い訳に過ぎない。

 そんなこんなで、冒頭の一文にたどり着くのです(覚えてる?)
 軽率、無分別とそしられて当然だと思う。しかし私にとって、恋愛やセックスや結婚は、全て想定外だったのだ。それらにどれほどの重みがあるのか、まるで分かっていなかった。
posted by 柳屋文芸堂 at 21:53| 【中編小説】オカマ先生の恋愛レッスン | 更新情報をチェックする

オカマ先生の恋愛レッスン(その7)

「突然で悪いんだけど、私、結婚することになったから」
 沈黙。電話線の先にいる母の、困惑が伝わってくる。
「何それ。電撃入籍ってやつ?」
「まあね」
「結婚詐欺ではなく?」
「そうかもね」
 普段はいい加減なくせに、自分の娘のことになると急に鋭くなるからイヤだ。もしかしたら、不安が声に出ているのかもしれない。

「お母さん、許してくれた?」
 キミヤは眉をハの字にして聞く。私はうなずく。
「休み取れたら旦那を連れて来いって」
「会わなくて良かったの?」
「遠いから。父が亡くなった後、姉の嫁ぎ先の近くに引っ越したんだ」
「あたしのしゃべり方を聞いたらびっくりするかしら。男らしく振る舞った方が良い?」
「ニューハーフの番組をわざわざ録画して見るような人だし、歓迎されると思うよ」
「お父さんのお墓にもご挨拶に行きましょうね」
 家族に紹介してもらえないのを、キミヤは寂しく感じているようだった。キミヤを見せたくない訳じゃない。どちらかというと、私を見せたくないのだ。人を信じている私を。裏切られて傷付く私を。

 キミヤの家族にはすぐに会いに行った。予想通りキミヤの実家は金持ちで、両親は洋館風の大きな家に住んでいた。
「こんなにハンサムな女の子と知り合えるなんて、キミヤは本当に運が良いわ……」
 母親はそう言って目尻をぬぐった。自分の息子が普通の男として生きられないことに、幼稚園くらいの頃から気付いていたそうだ。
「乱暴なところがなくて、女の子みたいに育てやすかった。七歳の時にはね、ドレスを着て七五三のお祝いをしたのよ」
 その時の写真を見せてもらった。紺色のロングスカートをはき、薄く化粧までしたキミヤは、疑いの余地なく美少女だった。
「世界名作劇場に出てきそうでしょう」
「ずるい……」
 実を言うと私も七歳の時、ドレスを着る予定だったのだ。しかし試着室を出た途端、母と姉二人に指差されてゲラゲラ笑われた。別に腹は立たない。男の子が罰ゲームで女装させられたような姿を、一番醜いと感じていたのは私だったから。
 あの日、私は女になるのを諦めたのかもしれない。
 いつでも遊びに来てね、と手を振るお母さんにお辞儀をし、夕焼けで赤く染まった道を歩く。
「キミヤはもう女装しないの?」
「似合わないもーん。それに、そういう欲求はそんなに強くないみたい。マルちゃんと同じように、シンプルな服が好きよ」
 もし私の顔が可愛くて、あの時ちゃんとドレスを着こなしていたら、私は女らしくなっていたのだろうか。
「父のことなんだけど…… ごめんね」
「何が?」
 謝る理由が全く分からない。
「一言も口をきかなかったでしょう」
「静かな人だなー って思った」
「父はね、あたしのことを心の底で差別してるの」
 心の底。そこでなら何をしたって構わない……とは言えないな。
「自分をリベラルな人間だと信じているから、自分の中にある差別心に耐えられないの。異質なものに違和感を感じるのは自然なことなのにね」
 困り顏のままキミヤは微笑む。
「それで腫れ物に触るような付き合い方しか出来なくなっちゃった。お互いに」
「うちだって父親とそれほど仲良くなかったよ。けっこう長く単身赴任してて、家にいなかったし」
「あたしの父も」
「私たちの世代の父親って、仕事以外何も出来なかったんじゃないかな。能力というより時間的に」
「せっかく家族なのに、もったいないわよね」
 キミヤは私のてのひらをそっと握った。つながった二つの長い影が揺れている。
「最初に会った時、マルちゃんはあたしを気持ち悪く感じた?」
「全然」
「オネエ言葉も?」
「別に。言語の一つじゃん。スペイン語、博多弁、オネエ言葉。身振りも文化によって変わる。言語の一部だから」
 キミヤは私の腕にしがみついて、ぎゅーっと力を込めた。
「あーっ 嬉しい! あたしは本当にマルちゃんのお嫁さんになるのねっ」
「嫁かよ……」
posted by 柳屋文芸堂 at 21:52| 【中編小説】オカマ先生の恋愛レッスン | 更新情報をチェックする

オカマ先生の恋愛レッスン(その8)

 結婚式も指輪もなく、ただ婚姻届を市役所に出した。驚くほどあっけない。荷物を少しずつ移し、居候のような形でキミヤの家に住み始めた。
 家具屋からダブルベッドが届いた夜に、避妊するかどうかで大喧嘩になった。
「だってマルちゃん、余裕のある年齢じゃないでしょう? 子どもがなかなか出来なくて不妊治療することになったら、大変なのはマルちゃんじゃないの」
「不妊治療なんてするつもりない。面倒臭い」
 キミヤが子ども好きなのは知っている。だからこそムカムカした。
「子ども製造機の機嫌を損ねたら、いつまで経っても赤ん坊は出て来ないよ」
 暗闇の中で、すっと息を呑む音がした。叫ばれるかと覚悟したが、重苦しい無言の後に聞こえた声は、低くかすれていた。
「あたしを、どれくらいひどい人間だと思ってるの……?」
「明日早いんだ。寝る」
 私はキミヤに背を向け、ベッドの一番端に寄った。どうしてキミヤは、私の人生を平気で変えようとするのだろう。どうして私は、キミヤを傷付けずにそれを断れないのだろう。
 本当のことを言うと、私も子どもが欲しかった。キミヤを喜ばせたかったし、何より頭でも心でもなく身体が、それを望んでいた。私の子宮は恐ろしく単純であるらしかった。
 期待で下着が濡れている。
 妊娠する私。出産する私。授乳する私。そんな姿を見ても、キミヤの気持ちは変わらないのか。これ以上の女性の記号はないのに。
 やはり私たちの関係には無理がある。

 仲直りは特にしなかった。仕事をしながら家の中を整えるのに忙しく、日常を送っているうちに喧嘩のことはうやむやになった。
 キミヤはそれから私を一切誘わない。寝る時には、私も必ずキミヤに背を向ける。
 ある夜、キミヤは布団の中をそっと移動して、背中に張り付いてきた。何も言わず、小さな動物が棲み慣れた巣で身を丸めるように。すぐにスウスウと寝息が聞こえ始める。
 あたたかい。泣きたくなるほど。今すぐキミヤを抱きしめたい。
 もちろん私は振り向いたりしなかった。

 キミヤは料理も美味いし、家事もきちんとやる。整理整頓はそれほど得意ではないようだが、物を積み上げておくのは自分の部屋だけだ。二人で使う場所を散らかしたりしない。同居人としては最高だった。
 しかし一緒に暮らしてみて初めて分かったこともある。キミヤの作る和風の煮物が、妙に塩辛いのだ。味覚が合わない訳ではなく、本人も箸をつけない。
「あたしの母がね、ヨーロッパへの憧れが強い人で、子どもの頃から洋食で育ったの。だからどうしても和風の味付けが決まらなくて」
 私が肉じゃがを作ってみせると、
「こんなに上品な味なの!」
 と叫んでパクパク食べた。
「日本人と結婚したんだから、醤油とみりんの使い方くらい覚えてくださいよ、マダム」
「全くですわね、ムッシュー」
 キミヤは目を細めて私を見た。
「マルちゃんは料理も上手なのね」
「平凡なものしか作れないよ。『オカマ風』とか『木こり風』みたいなのは私の辞書に無いから」
「オカマ風はオカマに任せておけばいいのよ」
 笑っていても、それが心の底からの笑いでないことに、二人とも気付いていた。胸の中心が、いつもカラカラに乾いている。
posted by 柳屋文芸堂 at 21:50| 【中編小説】オカマ先生の恋愛レッスン | 更新情報をチェックする

オカマ先生の恋愛レッスン(その9)

 中学、高校の同級生たちとは、年賀状のやり取りしかしていない。会っても話が合わないのでこちらから連絡を取ることはないし、向こうからメールや電話が来ることもない。みんな仕事や子育てで忙しいのだろう。
 二十代の頃には何度か飲み会や結婚式に呼ばれた。なごやかにおしゃべりしているように見えて、さりげなくお互いの幸福度を比較している。彼氏はいるか。結婚の予定はあるか。先に出産した子がいると、どれくらい大変だったかと聞きたがる。
 腹を切られた。股を切られた。縁を切られた。そんなことどうだっていいじゃないか。
 女ってほんと変わらねぇな、と呆れながらビールを飲んでいると、仲間はずれをつくってはいけないと思ったのか、私にも話を振ってきた。
「マルちゃんは彼氏いるの?」
「いないよ」
「寂しくない?」
「別に」
 男と付き合ったり別れたりして面倒じゃない? なんて私は尋ねないのに。違う種族を見るような目で見られて、すぐに私の存在は透明になった。
 私が結婚したことを知ったら、彼女たちはどれほど大騒ぎするか。
 あのオトコオンナのマルちゃんが!
 しかも相手はオカマ!
 藍川さんから渡辺さんまで、ウワサは女の連絡網を光より早く伝わってゆくだろう。尾ひれが付き過ぎて元々どんな話だったか分からなくなった頃、私とキミヤは別れているかもしれない。
posted by 柳屋文芸堂 at 21:49| 【中編小説】オカマ先生の恋愛レッスン | 更新情報をチェックする

オカマ先生の恋愛レッスン(その10)

「マルちゃん」
 背中にくっついて寝ていたキミヤが話しかけてきた。そんなことは今までなかったので、少し身構える。
「何?」
「初めてエッチした時、痛かった?」
「痛かったよ」
「どれくらい?」
「焼きごてを押し付けられたようだったね」
 絶句している。キミヤを責めるつもりはなく、その時感じたことを素直に表現しただけだ。
「どうして痛いって言わなかったの?」
「キミヤが最後まで出来なかったら困るから」
 首筋にキミヤの息がかかって、肌がざわざわする。手足を動かしてごまかした。
「あたし、ずっと考えてたの。もし普通の男だったら、あの時どうしていたんだろうって」
 普通の男? 普通の男だったら、あんな展開になるはずがない。起こり得ない「もし」を考えても仕方がないのに。
「あたしはきっと『よく頑張ったね』って言って、マルちゃんを抱きしめなくちゃいけなかったんだわ。どう? 間違ってる?」
「そういうのに正解も間違いもないと思うけど」
 キミヤは答えを欲しがっている。
「マルちゃんの身体を傷付けたんだ、と思ったら、気が動転しちゃったの。だからって、すごく痛い思いをして我慢していた女の子に『お嫁に行けない』なんて脅すようなこと言うなんて、最低よね」
 キミヤは私の腕を撫でながら言った。
「エッチするの、怖くなっちゃった?」
「別に」
 身体の痛みなんて全然怖くない。
「次はもっといたわるから」
 次? そんなものあるのだろうか。
「ゲイは女の気持ちが分かるって言う人いるけど、あれは嘘ね。マルちゃんの気持ち、ちっとも分からないもの」
「私も女の気持ちなんて分からない」
 自分の気持ちは知っている。偽りようもなく知っている。
「ごめんね。あたしが優しくて格好良くて素敵な男の人じゃなくて。ごめんね」
 キミヤは優しくて格好良くて素敵な男の人だよ。忘れられないくらいに。気が狂いそうなくらいに。
「マルちゃん、泣いてるの……?」

 どう考えても限界だった。私たちはたぶん愛し合っている。けれども動かしがたいパラドックスがつっかえて、恋愛の歯車が回らないのだ。

 ゲイは男を愛する。
 ゲイが私を愛する。
 私は女である。

 おそらく問題は時間に関わっている。「ゲイは男を愛する」と「私は女である」は変えがたい、普遍的な事実だ。けれども「ゲイが私を愛する」は限定的な出来事で、存続期間の予測は一時間から百年まで幅がある。
 半減期くらい教えてください。
 統計資料が必要だ。真性の同性愛者が異性を愛した場合、それがどれくらい続くのか。真性の異性愛者が同性を愛した場合を含めても良い。必要なサンプルは千ほどか。
 そんな資料、ある訳がない。そもそも平均を取ってもキミヤの気持ちがその通りになるとは限らないのだ。
 病める時も
 健やかなる時も
 永遠の愛を誓えと言えば、キミヤは喜んでするだろう。だが、そんなのは無意味だ。
 例えばみかんに、
「永遠に輝かしいみかんでいることを誓います」
 と宣誓させても、ひと月も置いておけばカビだらけになってしまう。みかん本人にどうにか出来ることじゃない。
 諸行無常
 そんなの当たり前じゃねーか! と叫んでちゃぶ台をひっくり返したかった。明るい部屋で素っ裸になって、
「これでも愛せるのか!」
 とキミヤを責め立てたかった。
 失いたくない。キミヤを失いたくない。すっかり女々しくなった私を、嫌いになってくれればいいのに。
posted by 柳屋文芸堂 at 21:47| 【中編小説】オカマ先生の恋愛レッスン | 更新情報をチェックする

オカマ先生の恋愛レッスン(その11)

「しばらく別々に暮らしたいんだけど」
 キミヤは私の顔をじっと見つめ、何も言わない。
「向こうの部屋の物も処分したいし……」
 逃げ場を確保したくて、前に住んでいたアパートを引き払わずにいた。
「ここから通えばいいじゃない」
 問い詰めるような響き。
「二人でいることに疲れた」
 キミヤの身体がびくっと震える。言い方がキツ過ぎたか。
「長いこと独りで暮らしていたからさ、他人に合わせるのがしんどいんだ。もともと協調性のある人間じゃないし」
「帰ってくる?」
 キミヤの瞳に涙が溜まって、光った。すぐ帰ってくるよ、と嘘をついた方が、お互いにとって良いはずだ。それがどうしても出来ない。
「……分からない」
「そう」
 泣いて騒がれるかと思ったが、キミヤは静かだった。ただ電池が切れたように動かない。話しかけた時にやっていたワイシャツのボタン付けも放り出して、無表情で一点を見ている。
「針を無くさないように」
 うなずきはするが、裁縫道具をしまう気配はない。
「昼飯どうしようか。オムライスを作るとか言ってたよね」
「お昼は一緒に食べてくれるの?」
「うん」
 出て行くのはその後だ。
「ごめんなさい。ちょっと料理は無理そう」
 キミヤの作ったものを食べる最後のチャンスだったかもしれないのに。別居の話は食後にすれば良かった。
「じゃあ、外に食べに行こうか」
 魂の抜けたキミヤを引きずって、近所にあるイタリア料理の店に入った。気のいい夫婦がやっている明るい店だ。
「私はナスとトマトのスパゲティにしようかなー」
 キミヤが死人の顔でうつむいているので、必要以上に大声を出してしまう。
「キミヤは?」
 メニューをめくって指差したのは、彩り野菜のペペロンチーノだった。
 注文を済ませると、パンの入ったかごが運ばれてきた。自家製グリッシーニもある。菜箸みたいに細長く、歯ざわりはカリッとしてスナック菓子のようだ。私はこの店でその美味しさを知った。
 キミヤも家で作ってくれないかな。
 自分の思い付きの勝手さに苦笑する。
「キミヤはグリッシーニ食べる?」
「……一本だけ残しておいて」
 普段かしましい人間が低い声で話すと、迫力がある。ついオドオドしてしまって、私が悪いんじゃない、と心の中で繰り返す。私が悪いんじゃない。きっと。たぶん。おそらく。
 キミヤは丸いパンを半分ちぎって食べた。残りは皿に置いて手をつけない。
「そのパン、食べないならください」
 キミヤは軽く微笑んで、渡してくれた。
 私がスパゲティを食べている間、キミヤは身じろぎ一つせず、真っ直ぐこちらに視線を向けていた。
「私、売られる牛みたいだね」
「どうして?」
「最後の食事をしているところを、飼い主がじっと見ている」
「そのたとえはおかしいわ。捨てられるのはあたしだもの」
「捨てる訳じゃない」
「同じよ」
 キミヤはうつむいて震えている。ふと、ペペロンチーノが全く減っていないのに気付いた。
「食べないの?」
「食欲ないみたい」
「もらっていい?」
 キミヤは目を丸くして、クスクス笑い出した。
「どうぞ」
 ズッキーニの緑と、パプリカの赤と黄色が美しい。まだ冷え切ってはいない。危ないところだった。フォークにスパゲティをからませる。
「あたしね、これまでの人生でずーっと、片思いばかりしてきたの」
 フォークを動かすのをやめて、キミヤの方を向いた。
「だから片思いには慣れてる。でもね、マルちゃんと一緒にいると、不思議な感じがするの」
 そう言うとキミヤは両手の人差し指をぴんと伸ばした。
「この上にグリッシーニを載せて」
 人差し指を土台にした橋のようになる。
「右手と左手を近付けていくから、よく見ていてね」
 右手が少し動くと、次は左手が動く。右手と左手が交互に中央に寄ってゆき、グリッシーニの真ん中で、二本の人差し指はくっついた。
「片方だけが一方的に近付くことは出来ないの。相手が近付くからあたしも近付く。あたしが近付くから相手も近付く」
 キミヤよ。また説得する気だな。
「この感じ、覚えがあるでしょう?」
 あるに決まってるじゃないか。そうじゃなきゃセックスしない。結婚しない。こんなに泣きそうになってない。
 私は顔をそらした。
「あたしたち、両思いなんじゃないかって」
 鼻をすする音がする。
「自惚れてたのね。ごめんなさい」
 私はキミヤの指の上にあるグリッシーニを奪ってボリボリ食べた。ペペロンチーノの残りも口いっぱいに頬張る。
「ごちそうさま」
「マルちゃん、ほとんど二人分食べちゃったわね……」
「さすがに満腹で苦しい」
「こんな時に食欲がなくならないなんて、やっぱり恋しているのはあたしだけ……」
「キミヤはバカなのかっ」
 にらみつけると、きょとんとしている。荒っぽく伝票をつかみ、会計を済ませて店を出た。
「さっきの、どういう意味?」
「キミヤさんはバカですか?」
「そのままじゃない!」
「そのままだよ!」
 キミヤはぴたりと足を止め、私と向き合った。
「マルちゃんの前だと、確かにバカになっちゃうかも」
「いつもはバカじゃないというのか」
「失礼ねっ あたし本当は、すごくクールなんだからっ」
「クール」
 こんなにキミヤに似合わない単語があるだろうか。
「片思いしている人の結婚式で、オネエ言葉で笑い取りながらスピーチ出来るのよ!」
「それがどうした」
「大変なんだからっ な、泣かないように、するのが……」
 キミヤは私の首に抱きついた。血の気がさっと引く。胸がくっついたら、私たちの関係は終わってしまう。キミヤはそんなのお構いなしに、わーっと泣き始めた。
「食べ物の味がしないの」
「え?」
「パンがスポンジみたいだった。スパゲティがゴムみたいだった。マルちゃんがいないと、あたし餓死しちゃう」
 ぎゅうっと身体を押し付けてくる。
「エッチは諦める。子どももいらない。離婚したっていい。でもとにかく一緒にいて……」
 キミヤにかかっている恋の魔法は、いつ解けてしまうのか。怖くて立っていられない。
「離れて」
「離れないっ」
 キミヤはますます腕に力をこめる。私は涙声で懇願した。
「お願いだから離れて。おっぱいがあることがバレたら、私は嫌われてしまう」
 キミヤは急に冷静になって言った。
「マルちゃんはバカなの?」
「失礼な」
「胸なんて大して無いじゃないの! それにあたしたち、もうそんな仲じゃないでしょう? あたしは男でも女でもなく、マルちゃんが好きなのよ」
 私は試すようにそっと、キミヤの腰を抱き寄せた。
「マルちゃんと美味しくご飯が食べたい。マルちゃんともっとおしゃべりしたい……」

 解法を見つけたよ、キミヤ。
 キミヤはそのうち、私に性欲を向けなくなるかもしれない。また狂おしく男を思うようになる可能性だって、十分にある。
 もしそうなっても、私たちには料理と数学が残るじゃないか。刹那と永遠。しんしんと降り積もる二人だけの時間。
 キミヤの魅力を理解出来ないバカな男たちに、負けるはずがないのだ。

「妊娠したら、髷を結おうかな」
「な、何ゆえ?」
「大銀杏だよ。力士なら女の記号にならない」
「ごめんなさい。あたし、和風の男は論外だわ」
「デブがダメなんじゃなく?」
「人間の横幅なんて、観測点からの距離次第じゃない。太って見えたら少し遠ざかればいいのよ。でも侍は大きくても小さくても侍でしょ」
「キミヤらしいなぁ」
「あたしはね、オスカル様みたいな騎士がタイプなの」
「あれ女だから」
 騎士の読み方はもちろん「ナイト」だ。
「妊娠ってことは」
「うん」
「エッチしてくれるの?」
「家に帰ったらね」
 ごめんと言う代わりに、キミヤの背中を撫でる。
「ずっと、こうやってマルちゃんに抱きしめてもらいたかった」
 変な男だ。私と同じくらいに。
「さあマルちゃん、仲直りのキスをして!」
 キミヤは身体を離して目をつむった。私を手練れの王子様か何かと勘違いしているようだが、やり方が全然分からない。
 今さらのファーストキス。私たちはもう夫婦なのに、順番ムチャクチャだ。
「まだ?」
「まあ待て」
 涙のあとを指でぬぐうと、キミヤは幸せそうに微笑んだ。

 さて問題です。
 私はどの段階で目をつむればいいのでしょう?

 えーい、目を開けたままやってしまえ。キミヤの憎たらしいほど整った顔が眼前に迫り、私はハッとして目をつむる。
 くちびるは、男も女も、同じ形をしていた。

(終わり)
posted by 柳屋文芸堂 at 21:46| 【中編小説】オカマ先生の恋愛レッスン | 更新情報をチェックする