2014年02月19日

パパ

「今日は良い天気だから、ちょっと散歩しよう」
 とパパが言う。私は嬉しくて、つないだ手をぶんぶん振りながら歩いた。
「ほら、黄色い花が咲いているよ」
 私がしゃがんでじっと見ていると、小さなハエが花びらにとまり、くるくる動いて飛んでいった。
 大きな道路を渡る時、パパは私のてのひらをぎゅっと強くにぎる。曲がって来ようとする車を恐い顔でにらみ、つないでない方の手をパッと上げた。
「ふぅ」
 無事渡り切って、信号の横でひと休みする。
「そこのうどん屋に入ろうと思うのだけど」
 パパは近くにある看板を指差した。
「食べる!」
 店に入って椅子に座ると、パパは私の首にナプキンを巻いた。クマがいっぱい描いてあったから、私はその一つ一つの顔を見比べる。
「たぬきうどんを二つ。彼女はあまり食べられないんだ。片方少なめにしてもらえるかな」
「はい、出来ますよ」
 注文を取りに来たお姉さんは、真っ赤なバンダナで髪をまとめている。
「もしかしたらテーブルを汚してしまうかもしれない」
 こちらを向いたお姉さんと目が合った。一瞬間が空いて、にっこり微笑む。
「大丈夫ですよ。お気になさらずに」
 うどんはすごく弾力があったから、一生懸命もぐもぐ噛んだ。
「むかし、香川にうどんを食べに行ったね」
 むかしのことはよく分からない。私が首を傾げると、パパは少し寂しそうな顔をした。でもすぐに元に戻って、
「瀬戸内海も綺麗だった。水面は青く穏やかで、小さな島がいくつも顔を出している」
「空も綺麗?」
「もちろん。海が綺麗だと、空まで美しく感じる」
 頑張って食べたけれど、どんぶりの底に短いうどんが残っている気がする。すくおうと箸でパシャパシャしていたら、パパがギギッと椅子を引いた。私も慌てて立ち上がり、パパの手をにぎる。
 帰りにスーパーでお惣菜を買った。シュウマイと、きゅうりの漬けもの。家に戻ったら、干してあった洗たく物を取り込む。私が畳んだ服をパパが畳み直すので、私はプーッとふくれる。パパは笑って私の頭を撫でる。
 日が落ちる頃、パパは炊き込みご飯を炊いた。お醤油とお米のあたたかい匂いが、むわんと台所に満ちる。お茶わんによそってもらうと、にんじんが入っていた。さっき買ったお惣菜と一緒に食べる。
「美味しい?」
「美味しい!」
 夜はパパと同じベッドで眠る。パパは私を後ろから抱きかかえて、おっぱいを触る。お腹をさすり、そのまま手が下の方にいく。私は懐かしい気持ちになる。すっかり安心して深呼吸すると、パパの寝息が聞こえた。

 お昼のお弁当を食べた後、パパはテーブルに大きな画用紙を広げた。三十六色の色鉛筆もある。
「空色!」
「ははは。それ一本だけずいぶん短くなっちゃったね。そのうち買いに行こう」
 私が絵を描いている間、パパは私の前で本を読んでいる。
「こんにちは」
 知らないおばさんがやって来た。パパは立ち上がってお辞儀をする。
「よろしくお願いします」
「ゆっくり休んでいてください」
 おばさんは流しで食器を洗い始めた。私は画用紙に山を描いて、茶色で塗りつぶしてゆく。
「ゆりさん、今日は静かですね」
「絵に集中していると、おとなしいんですよ」
 山が終わったら、今度は空を空色で塗りつぶす。むらがあると空に見えないから、時間をかけて丁寧に。
「こちらに引越して来る前は、どちらにお住まいだったんですか」
「千葉県浦安市に。震災の液状化で、家が斜めになりましてね」
「まあ、それは大変でしたねぇ」
「直すのに数百万かかると言われて、思い切って引越すことにしました」
 茶色の山と、空色の空の絵が完成した。色は上手く塗れている。でも何となく変だ。これは私の描きたかった風景じゃない。
 絵は難しい。見たままを写しているつもりなのに、絶対に現実とそっくりにはならないのだ。
 私が描き終わったのに気付いて、パパが新しい画用紙を出してくれた。次は地べたの上に赤い屋根の家を描く。
「浦安ってことは、ディズニーランドにはよくいらっしゃったんですか」
「それが、二人とも一度も無いんですよ」
「まあ、もったいない! わざわざホテルを取って行く人もいるのに」
 おばさんはご飯を炊き、野菜炒めとみそ汁を作って帰っていった。
「パパはあのおばさんと結婚するの?」
 パパはびっくりして息を呑んだ。
「どうして」
「仲良さそうに話してた」
 パパは笑って私の頭を撫でる。
「パパはそんなにモテないよ」
「違うもん。みんなパパを好きになっちゃう!」
 私が大声上げて泣き出すと、パパは私を抱きしめて背中をさすった。

「今日は判定の人が来るから」
 とパパが言う。
「ハンテイ?」
「認定だったかな。まあとにかく人が来て、ゆりに色々質問する。……そんな悲しそうな顔をしなくていい。普通に答えたらいいんだ」
 すぐにピンポンと玄関のチャイムが鳴って、太ったおばさんが入ってきた。
「こんにちは」
 ゆっくりとした大きな声で私に話しかける。おばさんはパパと少し話した後、書類に何か書き込みながら質問を始めた。
「お名前を教えてください」
「ゆりこ」
「苗字は?」
 私が首を傾げると、おばさんはにっこり笑った。
「どこに住んでいますか」
「千葉県浦安市」
「ご家族は何人ですか?」
「二人」
「ご家族のお名前を教えてください」
「パパ!」
「パパの名前は?」
 私が首を傾げると、パパがククッと笑った。
「次は身体の機能を見ますね。ゆりこさん、廊下を歩いてみてください」
 褒めてもらえるんじゃないかと思って、私は早足で玄関の方に行き、戻って来た。
「身体はお丈夫みたいですね」
「そうなんです。だからいつも目が離せません」
 おばさんはカバンから眼鏡を出し、しばらく何も話さずに書類を書いた。
「失礼ですが、お子さんは」
「息子が一人います。仕事で中国に転勤になって、滅多に帰って来ません」
「今はどんなサービスを受けられているんですか」
「週に三回ヘルパーさんに来てもらっています。週一回お風呂に入れてもらって、あとは昼の弁当ですね。平日だけ」
 おばさんはまた何か書き込む。
「ご自分だけで大変になったら、預かる施設もありますから、利用してくださいね。長期間でなくても、一日だけとか、数日とか」
「今のところ大丈夫だと思います」
「ストレスを溜めてしまう前に、相談してください」
 おばさんは黄緑色の紙を差し出し、パパは眉根を寄せてそれを読んだ。
 おばさんは私を見てにっこりし、またゆっくりとした大きな声で、
「それではゆりこさん、今日はありがとうございました。お元気でお過ごしください」
 おばさんが帰った後、私よりパパの方が疲れていた。窓を見てボーッとしている。
「パパ、私は施設に行くの?」
「行かせないよ」
 恐い声だった。私はひざまずいて、座っているパパの太ももに頭を乗せた。

 眼鏡をかけた女の子の、頭のリボンをピンク色に塗っている時、知らないおばさんが部屋に入って来た。
「こんにちは」
 パパは人差し指を立てて、
「今日はわがままなお願いをしたいのだけど」
「何でしょう。私に出来ることなら」
「この料理を作ってもらいたいんだ」
 パパはおばさんにファイルを見せた。
「これ、奥様のレシピですか」
「そう。全部手書きだよ」
 おばさんは目を見開いて、ぱらぱらとページをめくる。
「『パパはイカが嫌いだから豚肉で』『パパはほうれん草より小松菜が好き』『パパは砂糖控えめの方がいっぱい食べる』」
「僕を喜ばせるためだけの料理だ」
「ゆりさん、全然変わってないんですね」
 おばさんは食器を洗った後、五目あんかけ焼きそばと、小松菜のお吸い物と、かぼちゃの煮物を作った。
「あの、このかぼちゃ、少し持って帰ってもいいですか」
「どうぞどうぞ」
「味見したらすごく美味しくて。会社には内緒にしてくださいね」
 二人でおばさんの料理を食べる。
「ゆりほど上手くはないが、悪くない」
 とパパが言った。私は不安になって尋ねる。
「パパはあのおばさんと結婚するの?」
「楽しそうに話していたから?」
 私は口をへの字にしてうなずく。
「君を褒めていたんだよ」
 パパは箸を置き、両手で私の左手を包んだ。
「ゆり以外の人と結婚したりしない」
「本当に?」
「何度生まれ変わっても」
 私は首を傾げて考えてみる。
「忘れないかな」
「忘れないさ」

(終わり)


posted by 柳屋文芸堂 at 15:33| 【掌編小説】パパ | 更新情報をチェックする