2014年02月19日

秘密

 こんな給料で、結婚なんて出来るわけないよな。
 友人が笑いながら吐き捨てた言葉を、山口は反芻した。同級生のほとんどは安定した仕事に就いていない。いつ潰れるか分からない小さな会社の社員か、大企業への派遣社員。一応世間で名の知られた大学を出たというのに、そんなことにはもう何の意味もないようだ。
 山口はイベント会社で働いていた。従業員二十二名。主な業務は展示会の手伝い。健康保険や厚生年金は出してもらえるが、ボーナス無し。たとえ結婚出来ても、子育ては無理だろうな、と思う。
 しかし将来への不安や見えない未来に、山口は慣れていた。高度成長期というのがあったらしい。バブルというのがあったらしい。それらは全部むかし話だ。物心ついた時からずっと、日本は不景気だった。
「ゆとり君」
 というあだ名を山口に付けようとして、失敗した馬鹿がいる。三十代の社員の坂下だ。山口があからさまにムッとすると、
「愛想が悪いとお客さんに嫌われるぞ」
 と、怯えた顔のままヘラヘラ笑った。こいつは透明人間だ、と思うことにして、極力無視しよう、と決める。
 山口の決意とは裏腹に、坂下はたびたび話しかけてきた。山口の機嫌を損ねたのを気に病んでいるらしい。
「香川さんには本当に参るよ」
 口から出てくるのは他の従業員の悪口だ。
「俺がディレクターだって言ってんのに、客がみんな香川さんに懐いちゃうんだよね」
 香川さんは三ヶ月ほど前から働いているアルバイトだ。
「彼女はアシスタントで権限がほとんど無いのに、客はそういうの分かんないからさ、ついつい美人に声かけちゃうんだよね」
 山口は相づちを一切打たなかった。ただ、香川さんってそんなに美人だったかな、とぼんやり思った。小さな体と、茶色い髪の毛だけが印象に残っていて、顔を思い出せない。
 香川さんと仕事をする機会はすぐやって来た。工作機械の見本市で大きめのブースを出すことになり、香川さんがアシスタントについたのだ。
「小武さん、こんにちは!」
 展示会場の入り口に現われた作業着姿のおじさんに、香川さんはかけ寄っていった。あれは誰だ、社長? 工場長?
 打ち合わせに出ていた若い男の名前しか覚えていなかったので、途方に暮れた。
「機械の実演をして下さる、小武実さん。工場長ではありませんが、長年あの会社で働いてきた、ベテランの職人さんです」
 液晶ディスプレイの調整をしている山口の耳元に、香川さんは早口でささやいた。ハッとして振り向くと、
「井山さん、今日はよろしくお願いします!」
 香川さんの周りに人の輪が出来ている。職人の小武と、打ち合わせに出ていた男と、あとは、社長か?
 なるほど。これは坂下に嫌われるわけだ。山口はかえってありがたく感じた。面倒な客の相手は香川さんに任せて、裏方に徹することにしよう。
「あの…… 山口さん、すみません」
「え?」
「やること、逆ですよね? 本当は私が、設営をしなくちゃいけなかったのに」
「いや、別にいいんじゃん? それぞれ得意な方をやれば」
 客は席を外していて、二人きりだった。そうだ、とあらためて香川さんの顔を見る。白い肌。痩せて、少し浮き出た頬骨。ブスではないが、びっくりするほどの美人でもない。目が合うと、香川さんはさっと下を向いた。
 香川さんがお客の心をつかむ理由はすぐに分かった。記憶力だ。
「岩永工業様ですね? 先ほどはアンケートに答えていただいてありがとうございます」
 本来なら、ブース運営は出展した企業が中心になって進め、山口たちの会社は手伝いだけをする。展示物を深く理解しているわけではないからだ。香川さんはそんなことお構いなしに、客も、客の客も全部覚え、積極的に声をかける。
「小武さん、こちらの装置を動かしてみていただけますか? パンプレットを見て興味を持たれたそうです!」
 香川さんの明るい声につられて、作業着のおじさんも、スーツ姿のおじさんも、ニコニコしながら話している。
 俺、ボーッと見てるだけでいいのかな。……まあいいか。
 液晶ディスプレイは滞りなく製品の説明を映し出しているし、名刺も順調に集まっている。香川さんが接客に徹して元気よく働ければ、このブースは成功するだろう。

「次もまた香川さんにお願いしたいって、井山産業から電話があったぞ」
「ああ、良かったですね。香川さん、頑張ってたから」
「っていうか、お前が担当した仕事だろ? なんで名前覚えてもらってないんだ!」
「頑張ってなかったからですかね?」
 上司に睨みつけられた気がしたが、別にどうでも良かった。
「彼女と組むと楽ですよ」
「やりにくい、って言う奴もいる」
「確かに頑張り過ぎなところがありますからね。でも俺はやりやすかったです」
「なーんかお前たちって、欲がねぇよな……」
 「お前たち」とは誰のことだろう。まあどうでも良いな、と二秒で忘れた。
 それから香川さんと仕事をする機会が多くなった。常に全力で働く香川さんを見ているのは気持ちいい。会場では常に小走りで、誰かと顔を合わせてはパーッと華やかな笑顔で対応する。仕事が好きなのか向いているのか、どちらにしろこちらの負担が減るのはありがたい。

 保険会社主催の絵画コンクールの手伝いをした時のことだ。子どもの絵がびっしり貼られた白い板の向こうに、関係者だけが入れる荷物置き場があった。山口が小さな扉を開けてファイルを取りに行くと、
「あれ、香川さん。食事中?」
 巨大なバッグの陰に隠れるようにして、弁当箱をつついている。
「ごめんなさい。ここしか場所がなくて」
「いいよ。まだお客来てないし。何食べてるの?」
「ゴーヤーチャンプルー」
「一口ちょうだい」
「えっ?」
 香川さんは目を丸くして山口を見て、おそるおそる、箸を差し出した。山口は何のためらいもなく、ひとの弁当箱をまさぐった。
「肉ないの?」
「すみません、入れてないんです」
「ええーっ 肉なしゴーヤーチャンプルー」
 それでも山口は嬉しそうにゴーヤーをつまんで、パクッと口に含んだ。
「にがぁ〜」
 香川さんは一瞬動きを止めて、くすくす笑い出した。
「山口さんって、全然怖くないんですね」
「は?」
「坂下さんが『あいつ怖いよ。俺のこと平気で無視する』っていつも言ってたから」
 本当に悪口しか言えないんだな、あの人は。
「別に怖くないよ。勝手なだけで」
「自覚してるんだ」
 香川さんは眉を少し寄せて、いよいよ楽しそうだ。
「気を遣うのって馬鹿馬鹿しいじゃん。どうせ何十年かしたらみんな死んじゃうんだし。やりたいようにやるよ、何事も」
「哲学ですね」
 そう言った香川さんはちょっと寂しそうだった。

「社員スゲーむかつく」
 大企業で派遣社員をしている友人が、飲み屋で愚痴を言い始めた。
「派遣ってさ、仕事の権限が限られているんだよ。それなのに俺にやらせようとするんだ、無言で。やらざるを得ない状況作ってさ……」
「何かあったら『あいつが勝手にやった』って言えるもんな」
「怖いよ。社員と比べてこっちの給料がどれだけ安いか分かってんのか」
 そうは言うけれど、月の手取りが山口の倍近いのを知っている。時給が高く、残業の多い業種なのだ。
「まあせいぜい、いい加減にやってストレス溜めないことだね」
「山口みたいにふてぶてしくなれないよ……」
 無理して頑張ってうつ病になっても、誰も助けてくれない。会社は簡単に人間を捨てる。薬漬けになってボロボロになって自宅でのたうちまわっている奴が世の中には沢山いる。
 生き抜くには。
 山口はそんな説教をしたりしない。サワーの氷が融けた水を、無意味にすすり続ける。

「香川さんってさ、時給いくら?」
「八百円です」
「はっぴゃくえん?  マジで?」
 今頃気付いたの、とでも言いたそうな困り顔で笑う。
「実家?」
「いえ、一人暮らしです」
「苦しくない?」
「気楽ですよ」
 八百円×八時間×五日間×四週間
 いったいその金額でどう生活しているのか、山口には皆目見当がつかない。
「社員になれるよう、社長に相談してみようか。香川さんお客から評判良いし、許可されるかもしれないよ」
 香川さんは目を見開き、山口をじっと見つめた。
「ありがとうございます」
「じゃあ行こう」
「いつか、本当にお願いするかもしれません」
 手を引っぱって今すぐ社長の所に連れていきたかった。しかし香川さんは首を振る。まだだめ、と言うように。

「お前たち、出来てるの?」
「香川さんですか」
「お。自分で認めたな〜」
 いかにも坂下好みの話題である。
「そっちこそ気に入ってるんじゃないですか。美人とか言ってたし」
「俺は妻帯者だからさ」
「結婚ってすごいですよね。何でわざわざこの人を選んだんだろう、って不思議に思うことがよくありますよ」
 まっすぐ目を見て言ってやった。さすがに意味を理解したらしく、涙目になっている。気の弱い先輩をいじめるのだけが楽しみな会社なんて、とっとと潰れてしまえ。
 もしそうなったら、香川さんは悲しむだろうか。いつも張り切って働いているし。いや、香川さんなら別にこの会社でなくても、どこでだって重宝がられるはずだ。

 次に香川さんと組んだのは、介護用品の見本市だった。お客は、
「歴史を持つあなたに美しいものを」
 というコピーを掲げ、デザイン性の高い杖や押し車を扱っている会社の女社長。打ち合わせの時から働き者の香川さんをいたく気に入り、山口はいないも同然だった。
「香川さん、会社辞めたら?」
 女社長は百貨店の仕入係と食事に出ている。ブースががらんとした隙に、小声で言ってみた。
「えっ…… それは会社からの指令ですか?」
 香川さんの白い顔から血の気が引いてゆく。やっぱりこの仕事が好きなんだ、と驚きあきれつつ、大慌てで訂正した。
「いや、単なる個人的意見。俺の」
「もしかして山口さん、怒ってます?」
「は? 何を?」
「お客さんの寵愛を一身に受けてしまったこと」
「寵愛!」
 香川さんはいたって真面目、というよりむしろ悲壮なほどで笑ってしまう。
「ないない。俺、そんな仕事に対する熱意ないもん」
「ですよねー」
 香川さんがにっこりしてそう言うと、何故か褒められている気分になる。
「時給聞いてからずっと納得いかないんだ。俺より香川さんの給料が安いなんて、絶対に間違ってる!」
 会場の人が振り返るほどの大声をあげてしまって、香川さんは一瞬固まった。でもその後、くすくす笑い出す。
「山口さんって意外と正義の味方?」
「やる気は無いが不正は許さない」
「困ったな、こんな形で責められることになるなんて」
 香川さんの声は、かすれて低く響いた。

 小さく折りたたまれたメモをてのひらに押しつけられてハッとする。帰宅後に開いてみると、メールアドレスだけが書いてあった。愛の告白?……と決めつけるのはまだ早い。それでもそこはかとなく緊張して文字を打つ。
〈何か用事? 山口〉
〈今週末、飲みに行きませんか 香川〉
 天井を三十秒眺め、再び携帯の画面に集中する。
〈沖縄料理にしよう〉
〈どこか良いお店を知ってるんですか?〉
〈これから調べる〉
 いつも友人たちと行くような安っぽい店じゃなくて。ケチケチせずに、多少高くても美味い店にしよう。もしかしたら、
「勘違いしないでくださいね」
 と釘を刺されるのかもしれないし。そうなったら、二度と一緒に飲みに行ったり出来ないだろう。
 まだ夢中になっているわけじゃない。ただ、香川さんとの距離が遠くなったら、世界を照らす小さな電球が消えるような寂しさを感じる気がした。
 つい無駄にあれこれ考えてしまう。まあこうして勝手に心配したり喜んだりする時間が一番楽しいのだろう。素直な微笑みを浮かべて、山口はパソコンに向かった。
 久々に生きている。

 金曜日、別々に会社を出て、店の前で待ち合わせた。
「あれ、服変えた?」
「一回家に帰って着替えてきました」
 いつもは茶や灰色のパンツスーツでいることの多い香川さんが、スカートをはいている。桜色のカーディガンに、ふわふわしたクリーム色のブラウス。甘ったるい服は香川さんを幼く見せた。
「若いね!」
「実際若いですよ」
「小学生みたいだ。飲み屋に入れるかな」
 冗談のつもりだったのに、香川さんは暗い顔をしている。
「ごめん」
「いえ」
「女の子の服ってどう褒めたらいいか分からなくて」
「山口さんにそんな甲斐性求めてないんで大丈夫です」
 店員に案内されてテーブルにつく。料理がメインの店だが、カウンターには大きな泡盛の瓶が並んでいる。アルコールを頼む時には、本当に年齢確認されるかもしれない。
「古いドラマでおばさんが旦那さんに、
『甲斐性なし!』
 って怒鳴るシーンがあってさ、意味が理解出来なかったんだけど、妙に自分が言われている気分になったよ」
「女の人が『甲斐性なし』って怒る時、その人は相手の男の人が好きなんですよね。期待しているわけだから。自分のためにやる気を出して欲しいって」
 それは俺に対する要望なのか、ただの一般論か。それより香川さんが沈みこんでいるのが心配だった。
「体調悪いの?」
 首を振り、メニューを開く。
「何だろう、この『さんぴん茶』」
「ジャスミンティだ。下に書いてある」
 三線の軽やかな音色に、陽気な歌声が重なる。明るいのに少し切ない沖縄のメロディ。
「山口さん、私……」
「お決まりですかー?」
「俺、さんぴん茶」
「わ、私も」
 二人で店員を視線で見送って、
「あの、私……」
「香川さんが何か深刻なことを告げようとしてるのは分かるんだけど、まず先に料理を注文しない?」
「そうですね」
 顔を寄せて、一つのメニューを覗く。
「ゴーヤーチャンプルーを頼もう」
「もしかして、お弁当を食べちゃったの気にしてます?」
 こちらを向いて微笑む。今日初めて笑顔を見た。
「肉入りのゴーヤーチャンプルーを食べさせたくて」
 香川さんはくっくと声を立てて笑い出した。
「貧しくて肉が買えなかったと思ってません?」
「違うの?」
「単に野菜が好きなだけ」
「じゃあ普通のゴーヤーチャンプルーはやめた方がいいか」
「ベジタリアンではないんで、混ざっていても平気ですよ。肉は山口さんが食べてください。私はゴーヤーを食べます」
 こちらをうかがっていた店員が注文を取りに来た。
「ゴーヤーチャンプルーとヒラヤーチー」
「海ぶどうと島らっきょうと島豆腐。あとこの、よもぎの炊き込みご飯」
  海ぶどうは海藻である。見事なほどの草食っぷりだった。
 食事がやって来ると、香川さんはぴかぴか輝くようにもりもり食べ始めた。
「あ〜 島豆腐美味しい! 大豆の味が濃い。身がしまってる」
「普通の豆腐じゃないの?」
「別物です! 素晴らしい〜」
 少し分けてもらって食べたが、山口には感激する理由がよく分からなかった。まあいい。香川さんが嬉しそうにしているのだから。
「私、お豆腐が大好きなんです。昔からあるお豆腐屋さんに毎日通って。そうだな、肉が嫌いなんじゃなくて、肉の入る余地がないの。タンパク源は常にお豆腐!」
 さんぴん茶しか飲んでないのに、酔ったように上機嫌だ。女の子のツボがどこにあるか、知れたものではない。
「このヒラヤーチーっていうのも美味しいですね。中に入っているのはニラかな」
「お好み焼きみたいで面白いね」
 女を落としたければ、まず美味いものを食わせろ、という教えは真実だったんだな、と思う。俺はこれから香川さんを落とすのだろうか。どうやって?
 もうどうでもいい気がした。仕事から離れた場所で二人で笑えたら、それで満足だ。無駄にガツガツした上司に「欲がない」と馬鹿にされるだろうか。ささやかな出来事だけで幸せになれるのは、悪いことだろうか。
 デザートのサーターアンダギーを食べ終えて、
「今日は楽しかったです!」
 と言って帰宅してしまいそうな雰囲気だった。でも一応聞かないわけにはいかない。
「で、今日俺を呼び出した理由は何だったの?」
 香川さんは軽く豆鉄砲を食らって、
「わ、忘れてました! すっかり!」
「何言ったっていいよ。俺もう何も期待してないから」
 少しだけ泣きそうになり、自分が嘘をついていることに気付く。ふと見ると香川さんはもっとひどくて、目に涙をいっぱいに溜めていた。
「私、だましてるんです。山口さんも、会社の人も。名前だって偽名なんです」
「えっ、本当は『香川さん』じゃないの?」
「いえ、苗字は香川です。下の名前が『高彦』」
 涙がぽろぽろこぼれてゆく。
「性同一性障害ってやつ?」
「たぶん」
「じゃあさ」
 さすがに二秒ほどためらった。
「見せてみてよ」

 ひっぱたかれてもおかしくない状況だった。しかし香川さんは、
「山口さんって、やっぱり変ですよね」
 と言って涙をふき、一緒に店を出た。
「今晩泊まれる?」
「……はい」
 携帯で近くにあるホテルの部屋を取る。今日一日で一月分の食費が吹っ飛んだな、と思うといっそ清々しかった。
「私が男だって、気付いてました?」
「全然」
「何で驚かないんですか」
「まだ男だって信じてないし」
「えっ……」
「俺を振るために嘘ついてるのかもしれない」
「そんな回りくどいことしませんよ」
 高級でもないが、清潔でこざっぱりした良い部屋だった。香川さんはヘアバンドを見つけて顔を洗い始める。ベッドにもぐり込んで待っていると、香川さんがフラフラしながらやって来た。
「大丈夫? お酒飲まなかったよね」
「緊張してるんですよ!」
 明るい光の中で、香川さんはカーディガンを、ブラウスを脱いでゆく。ブラジャーを外すとその下は真っ平らで、ショーツは小さく膨らんでいた。
「まあ寒いから入りなよ」
 手を引くとすんなり腕の中におさまった。痩せて軽い身体だった。
「何で山口さんも裸なんですか!」
「スーツのまま寝るわけにいかないし」
 きめの細かい綺麗な背中を撫で下ろしていく。腰はちゃんとくびれていて、お尻はふんわり大きい。
「こんな身体でも、反応するんですね」
「だって裏っかわ完璧に女の子じゃん」
「表は男ですみません」
 ショーツの中に手を突っ込んで確認する。
「本当だ」
 香川さんの耳が真っ赤になった。
「嫌でしょう? 顔だって、化粧を落とすと男の子っぽくなっちゃう」
「そばかすがあるんだね」
 濡れてほおに張り付いた後れ毛をかき上げる。いつもてきぱき働く姿ばかり見ていたから気付かなかった。香川さんはとても可愛い顔をしていた。吸い寄せられるようにキスをしてしまって、香川さんも拒まなかった。
「山口さんはゲイなんですか」
「香川さんはゲイの人にモテるには女の子過ぎると思うけど」
「そうなんです。でも普通の男の人はこんな身体じゃ嫌でしょう?」
「今のところ、そんなに嫌だとは感じないな」
 香川さんは消え入りそうな声で言う。
「セックス出来ないんですよ」
「色々やりようはあるんじゃない?」
「赤ちゃんだって産めないし」
「それはむしろ好都合。うちの会社の給料じゃ、とても子育てなんて出来ないよ。前に坂下さんの明細見ちゃってさ、絶望的な気分になったよ」
「上がらないんですか」
「あの人が無能なせいかもしれないけど。俺だって無能だ」
「違いますよ!」
 急に仕事中の声に戻った。
「うちの会社は悪循環に陥っているんです。給料が安い、みんなのやる気が出ない、お客の満足度が低くなる、良い仕事が来ない、給料が安くなる。デフレスパイラルみたいなものです」
「うちの会社で元気に働いてるの、香川さんだけじゃない」
「みんな目標を持ったら良いんです。
『スカートをはいて職場に行けるようになる』
 とか」
 香川さんのこれまでの苦労を思うと切なかった。抱きしめる腕に力をこめる。
「あのっ、いつの間にかこんな風に裸で抱き合ってますけどっ」
「うん」
「山口さんは私のことどう思ってるんですか」
「俺、何も信じてないんだ。会社も、国も、愛情も。今日は確実にあったとしても、明日には消えてるかもしれない」
「ずるい答え」
「でも結婚願望はあってね。香川さんと結婚出来たらいいなぁと、前から思ってた」
 無茶な理屈を飲み込みかねたようで、しばらく言葉が出なかった。
「じゃあやっぱり私じゃダメですよ。結婚出来ませんから」
「何で」
「法律で」
「あれ、性同一性障害の人って好きな人と結婚出来るようにならなかった?」
「性転換手術をした場合だけです。法律上、私も山口さんも男で、同性同士の結婚はまだ認められてません」
「手術はしないの」
「した方がいいですか」
「いや」
「私、自分の身体がそんなに嫌いではないんです。だから正確な意味では性同一性障害ではないのかもしれない」
「似合う服を着て会社に行けない症候群?」
 腕の中で香川さんがふふふと笑う。
「好きな人と結婚出来なくて困る病、とか」
「俺のこと好きなの」
「好きにならないよう頑張ってました。ずっと。これからも頑張り続けた方がいいですか」
「いや」
 香川さんが深く口づけしてくる。二人とも我慢し切れない。熱が伝わってくる。
「明日捨てられてもいいです」
「そんなすぐ捨てないけど」
「だって結婚願望が強いって」
「一緒に生きていきたいだけ。国を信じてないんだから、戸籍なんてどうでもいいでしょ」
「確かに」
「それに『結婚、結婚』言い過ぎて振られたことがあるんだ」
「意外!」
「十代の頃だよ。早く自分だけのものにしたくて焦ってた」
「可愛い」
 香川さんの指先がいやらしいことをし始める。山口も同じことをする。二人とも夢中になって、部屋はため息とかすれた声で温められた。

「男の人ってこうやって落とすんですね」
 男の子みたいないたずら顏で香川さんは笑う。
「他の人でも試してみようかな」
「ダメだよ!」
「山口さんってからかい甲斐がありそう」
「その若い頃付き合った彼女もさ、わざとやきもち妬かせるんだ。さんざん苦しめられた挙句振られて、かなり悲惨だったよ」
「もてあそびたくなる気持ちは分かります」
「ひどいな」
 香川さんは愛おしそうに山口の髪を撫でた。
「真面目なんだもん。仕事はあんなに不真面目なのに」
「軽蔑してるのかと思ってた」
「私、あの会社が好きなんです。みんなやる気ないけど、その分のんびりしてて。いつか私が本当のことを言った時に、許してくれそうな予感がある」
「許すも何も、じきに香川さんがいないと回らなくなると思うよ」
「担当した客が全員『次も香川さんに』って言ってくれるのを目標に頑張ってますから」
「かなわないな……」
「山口さんも目標を持ちましょう」
「……香川さんと結婚する」
「法律を変えないといけませんね」
「じゃあその前に同棲する」
「家借りないと」
「お金貯めて」
「無理だ」
「諦めないで〜」
 香川さんは楽しそうだった。さっき泣いていたのが信じられない、明るい笑顔だった。
「ボーナスを目標にしてみたらどうでしょう」
「えーっ 出るかなぁ」
「単価の高い客を増やせば難しくないはずです。二人で相談して工夫して、会社の良くないスパイラルを断ち切りましょう」
 目が輝いている。やっぱり香川さんは仕事が好きなんだ。会社にやきもちを妬きそうになるのをこらえて、山口は香川さんの腰を引き寄せた。
「とりあえず来週にならないと。今週末はダラダラさせて」
「もう〜」
 会社は潰れるかもしれない。国も滅びるかもしれない。愛情は失われるかもしれない。
 それがどうした、と今なら言える。
 香川さんはくすくす笑い続ける。

(終わり)


posted by 柳屋文芸堂 at 15:31| 【短編小説】秘密 | 更新情報をチェックする