2013年03月23日

オカマ板前と春樹カフェ(1/49)

 高校を卒業してすぐ、あたしは魚河岸近くの大きなお寿司屋さんで修行を始めた。実家が日本料理店をやっていたから、ゆくゆくは父親の仕事を継ぐつもりだった。一緒に入ったのは中学もまともに通わなかったというヤンキー上がりの男の子で、初日から髪が黄色いという理由で先輩に殴られていた。
 しばらくの間、みんなその子の幼さを「矯正」するのに夢中で、あたしに注意を向けなかった。その子は不貞腐れたり、仕事をサボったり、また戻って来て殴られたりしながら、気がつくと先輩たちのコピーみたいになっていた。きびきびして乱暴な、職人の男らしい男に。
 そうなると俄然あたしが目立つようになってしまう。
「キャッ、ごめんなさい」
「キャッ、じゃねえよ。気持ちわりぃな」
 その時、仕事の流れを止めていたのは明らかに先輩だった。でもあたしはすぐに謝る。厨房の外ではお客さんたちが今か今かと料理が出てくるのを待っているのだ。あたしは雑用係として一番効率の良い動き方を常に考えていたし、それを実行するには先輩の機嫌を損ねないことが何より大切だった。
「お前ってさ、要領良いよな」
「慣れてるだけです。子どもの頃から父親の仕事を手伝っていたんで」
「ナヨナヨしたところが治ると良いんだがな」
 それは絶対に無理だ。小学校や中学校のいじめっ子たちが寄ってたかって「矯正」に失敗していた。あたしだって治せるものなら治したかった。外では自分を「俺」と呼ぶようにしていたし、なるたけ荒っぽい言葉遣いをするよう気をつけていた。でもそうすると、自分の内側と外側がどんどん離れてゆく。
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オカマ板前と春樹カフェ(2/49)

 中学二年の頃に、家族の前で大声上げて泣いたことがある。特別酷くいじめられた訳ではなく(あたしに対するいじめは日常の中に組み込まれていた)もうそういう他人の行動はどうでも良くて、分裂した、自分を嫌っている自分に耐え切れなかったのだ。
「手に職さえつければ、男っぽいか女っぽいかなんて関係ないんだよ!」
 そう叫びながら母親は、ぽたぽた涙をこぼした。父親はもっと冷静で、母の言葉を丁寧に説明し直した。
「魚を獲ってきてくれる漁師さんや、イモやニンジンを作ってくれる農家の人たちが大切なのはよく分かるだろう」
「うん……」
 あたしはしゃくりあげ、ハンカチで涙を拭きながら考える。
「魚とか……野菜がないと……みんな飢え死にする」
「ところが人間はわがままというかなんというか、そのままでは魚や野菜を食べられないんだな。口に入れやすい大きさに切ったり、熱を加えて味噌や醤油で味つけしなけりゃならない。それもとびっきり美味しく」
 父さんはそこでパッと花の咲くような、誇り高い笑みを浮かべた
「人間が急に草だけ食べて生きられるようになったら、俺たちは商売上がったりだ。でも決してそうはならない。誰に馬鹿にされようが、美味いものを食わせた奴の勝ちさ」
 ほとんどそれは宗教といっても良かった。しかし納得しやすい教えでもあった。あたしはその日から父親の仕事を真剣に目で盗むようになった。ただの「家の手伝い」ではなく、プロの料理人になるための勉強として。
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オカマ板前と春樹カフェ(3/49)

 あたしは毎日生ぬるく笑われながら、お寿司屋さんで下働きを続けた。ヤンキー上がりの男の子が先に包丁の使い方を教わったって気にしない。あたしがいつも考えていたのは、口先ばかりで手が動かない先輩のことでも、不公平な板長のことでもなく、お腹を空かせて待っているお客さん、ただそれだけだった。
 注文が入ると、厨房でこれから誰が何をするか、全て予測する(予知能力がなくたって、調理の段取りを理解していれば出来ることだ)そして道具や食材を最も的確な場所に配置してゆく。先輩たちがあれが無い、これが無いと怒鳴り始める前に。一分一秒でも早く、少しも味の落ちていない最善の料理を、お客さんに食べてもらいたかった。
 まかない以外の料理を作らせてもらえないまま三年が経ったある日、父親から電話が来た。
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オカマ板前と春樹カフェ(4/49)

「うちの店、閉めることにしたよ」
「えっ……」
 あたしはその場でへたり込んでしまった。
「どうしてなの?」
「相談せずに決めて悪かったなぁ」
「身体の具合でも悪くした? あたしが帰って店に立とうか?」
「いやそうじゃない。この土地がな、もうダメなんだ」
 実家の店は工業団地の端にある。そこで働く人たちが昼食や忘年会や新年会でうちを使ってくれるから、都会に近くなくても繁盛していたのだ。その工業団地が、すでにもぬけの殻だという。
「今はどの会社も外国に工場を移すだろ。近所は『テナント募集』の看板だらけだ」
「生活は大丈夫? 借金が残ってたりする?」
「それは心配するな。借金はない。微々たるもんだが蓄えもある。それよりお前に申し訳なくて」
 一瞬の沈黙の後、父さんははっきり言った。
「板前の世界なんて向いてなかっただろう」
「向いてる部分だって……あ、あるよ」
 悔しくて涙が止まらなかった。
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オカマ板前と春樹カフェ(5/49)

「いや、泣かせるつもりで言ったんじゃなくてな……」
 一度電話を切り、ひとしきり泣きじゃくって鼻をかんで、こちらから再びかけ直した。
「お前が板前に向いてないんじゃなくて、がさつな男たちの間で生きるには神経が細過ぎるっていうか」
「言いたいことは分かるからいい。泣いたりしてごめん」
 父さんのため息が聞こえる。
「店を継ぐって張り切ってたのにな。しかしこう街がガラガラじゃしょうがない」
「これからは年金暮らし?」
「まだ働くよ。老人ホームの調理場へ行くことになってる」
「おじいちゃん、おばあちゃんに美味しいものを食べさせてあげてね」
「おう」
 明るい声を出すよう努めたけれど、頭の中では「向いてない」という言葉がぐるぐる回り続けていた。
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オカマ板前と春樹カフェ(6/49)

 工業団地ががらんどう、ということは、須本くんも引っ越してしまったのだろうか。須本くんのお父さんは、工業団地の中で一番大きな工場を経営していた。
「僕の本当の名前を教えてあげる」
 小さな紙切れに書かれた名前は、韓国か中国か判別出来ないけど、日本人の名前ではなかった。
「どうして自分に二つ名前があるのか、謎が解けたんだ」
 須本くんはカバンから分厚い本を取り出し、小さく振ってみせた。
「相手に本当の名前を知られてしまったら、魔法をかけられる危険がある」
 急に何を言い出すんだろう。魔法?
「僕にはまだ力がないから」
 須本くんとは小学校と中学校で何度も同じクラスになった。抜群に成績が良くて、休み時間には必ず本を読んでいた。校庭へ遊びに出たりせず、友だちとおしゃべりすることもない。あたしがいじめられていても助けてくれなかったし、誰かのいじめに加わることもなかった。
 本のページをめくりながら、楽しそうに微笑んでいるのをよく見かけた。教室にいながら、一人でどこか別の世界に住んでいるみたいだった。
 彼と交わした会話は手で数えられるほど少なく、そのどれもが唐突で噛み合わなかった。
 社会に出て、ちゃんとやっていけてるのかな、須本くんは。他人の心配をしている場合じゃないけど。
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オカマ板前と春樹カフェ(7/49)

「今月いっぱいで辞めさせてください」
 板長はちらりとあたしの顔に視線をやり、読んでいた新聞を畳みながら言った。
「ここにいても学ぶことなんて何もなかっただろ」
 どう答えたら良いのか分からず黙っていると、
「お前のまかないが食べられなくなるのは寂しいな」
 そうしてまた新聞を開き、勝ったとか負けたとか、いつも通りのスポーツ記事を真剣に眺め始めた。
 何それイヤミ? 皮肉?
 三年間をまるまる無駄にしたような徒労感を抱えて、あたしはその仕事場を後にした。
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オカマ板前と春樹カフェ(8/49)

 もう何がなんでも板前になる必要なんてないんだ。次は男らしくしなくて済む職業を選ぼう。そう決心したはずなのに、寿司屋や料亭のスタッフ募集のポスターばかりが目につく。未練たらたらだった。
 ある時偶然、オカマバーの調理場の求人を見つけた。ここなら女っぽくても目立たないのではないか。落ちたって話の種になると、軽い気持ちで面接の申し込みをした。
 思いのほか狭くて地味な事務室に、背中の曲がったオカマのおばさん(おじさん?)が座っていた。しわしわの顔を真っ白に塗っていて、三百歳くらいに見える。
「調理希望……」
「先月まで寿司屋にいました」
「若いんだし、フロアで働きましょうね」
 働きませんか、ではなく、働きましょうね、ってどういうことだ。
「でも、あた……自分は料理するしか能がなくて」
「すぐ慣れるわよ」
「それにもう二十一で、若い訳じゃないし」
 おばさんの両目がビカッと光った。本当に光った!
「二十一で若くないなんて言ったらね、二丁目から生きて帰れないよ!」
 魔女だ。迂闊にも、本当の名前はもちろん学歴や職歴に住所まで書いてある履歴書を渡してしまった。魔法をかけられちゃうよ、須本くん。
 おばさんはまっすぐあたしの目を見る。
「あなた、家で女装してるでしょう」
 息が止まるかと思った。
「女性用のパジャマを着ているだけです。可愛いものを着ると、心が落ち着きます」
 おばさんはあたしの馬鹿正直な答えに感心したらしく、何度か深くうなずいた。
「服と化粧品はお店のを使えるから。角刈りも素敵だけど、カツラをかぶってもらうわ。それじゃあ明日から来てね〜」
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オカマ板前と春樹カフェ(9/49)

 話が違うと言って断ることも出来た。しかし「女の子の格好をしてみたい」という気持ちも、無視し切れないほど膨らんでいる。間違った場所で間違ったことをし続けているような違和感から、今度こそ逃れられるかもしれない。
「女装を始めた途端に夢中になって基礎化粧品を使い出す人がいるけど、かえって肌が荒れることもあるのよ。あなたはもともと肌が綺麗だから、スキンケアは今まで通りで良いと思う」
 ナナさんという先輩が、あたしにお化粧をしてくれた。声がハスキーだし、オカマバーで働いているってことは男の人なのだろう。ゾクゾクするような大人っぽい美人で、外を歩いていてもみんな女だと信じて疑わないはずだ。
「ヒゲの永久脱毛もしないで。ずっとここで働くつもりじゃないでしょ」
「すみません」
「あんまり長くやってると化け物になっちゃうから」
 奥山に猫又というものありて、と呪文のようにつぶやきながら、ナナさんはあたしの唇に口紅を塗る。
「こうやってティッシュを口にはさんで」
 ナナさんがやった通りにすると、オレンジがかったピンクの口紅がティッシュにべったりついた。もう一度紅筆で口紅を載せてゆく。
「面倒だけど、重ね塗りした方がメイクが長持ちするの。早く一人で完璧にお化粧出来るようになってね」
「見て覚えます」
「良いお返事」
 ナナさんがふふふと笑って目を細める。
「あなたが元板前だってことは思いっきりネタにするからね」
「でもあたし、本当は板前じゃなかったんです。下働きだけで辞めちゃって……」
 泣いちゃダメだ。せっかく丁寧につけてくれたマスカラが落ちてしまう。ナナさんは紅筆であたしの口をふさいだ。
「三年も修行に耐えたら十分」
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オカマ板前と春樹カフェ(10/49)

 ロングスカートのスーツに、ゆるいウェーブのかかった黒髪のかつらをかぶって、どこを見たら良いのか分からずきょときょとしているあたしが、鏡の中にいる。
「その子、二十一だってぇ?」
 ガラガラ声の、赤鬼のコスプレをしている(ようにしか見えない)おじさんが、目をキラキラさせてナナさんに言った。
「若さっていうのは失って初めて価値が分かるのよねぇ…… あたしが二十一の時には」
「考古学の講義はよそでやって」
「何よっ 人をシーラカンスみたいにっ」
「今、上野の東京国立博物館に行くとね、埴輪と土偶の間におネエさんの二十一歳の時の顔が陳列されてるから」
「あんたの毒舌は設定が細か過ぎるのよ!」
 赤鬼さんは笑いながら自分のメイクに戻っていった。
「あたし、そういう風に言葉も出て来ないし……」
「口下手は武器になるから大丈夫」
「お客さんとおしゃべりするのが仕事なのに?」
「やろうと思えば何だって武器になるのよ。そうね、もう少しほっぺた赤くして純情さをアピールしようか」
 ふわふわの刷毛でほお紅を塗ってもらうと、ちょっと冷たいような感触があってドキドキした。ナナさんの形の良い大きな目があたしをのぞき込んでる。男の人にしか興味がなかったはずなのに、ナナさんに憧れるのは変かな。ナナさんも男の人なんだからおかしくないか……
 あたしの心を読んだみたいにナナさんは、
「惚れるなよ」
 とドスの利いた声で言った。
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オカマ板前と春樹カフェ(11/49)

 生まれて初めて、自分のことを可愛いと思えたのは嬉しかった。けれども女装したあたしが本当の「あたし」かといえば、やっぱりそれは借り物の「あたし」だった。世界はまるで、自分の席が用意されていない教室みたいだ。誰もあたしの隣に座ってくれなかった遠足のバスを思い出す。先生は仕方なく補助椅子を出した。座り心地の悪い補助椅子。
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オカマ板前と春樹カフェ(12/49)

 オカマバーでまず一番にあたしを気に入ってくれたのは、カップル客の女性だった。ジュースとお酒を持ってゆき、震える声で自己紹介すると、
「おう、もっと近う寄れ」
「は、はい」
「やーん、その恥じらいがたまらないー」
 いきなり抱きつかれた。
「怯えてるだろ! すみませんね、こいつオッサンで」
「オッサンではない! 殿様じゃ!」
「酒飲まないでこれだもんなー」
「オカマがいれば酒などいらん!」
 何だか仔犬のようにもてあそばれて、二人は大満足で帰っていった。
「あんなで良かったんですか」
 とナナさんに尋ねると、
「女って不思議なくらいオカマが好きなんだよな」
 と言って首を振った。答えになっているのかよく分からない。
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オカマ板前と春樹カフェ(13/49)

 寿司屋では若さに何の価値もなく、年長者が無意味にいばっていた。この店では「ウブさ」も金になる。だからといって経験豊かな人がないがしろにされる訳じゃない。たとえば赤鬼さん(後で「ゆめこ」という源氏名だと知った)は、タロット占いをして場を盛り上げるのが上手かった。良い結果が出ても悪い結果が出ても、みんなを気持ち良く笑わせる。
 家族の問題で悩んでいるお客さんが相談に来て、二人きりで三時間も話していたこともあった。そうなるとほとんどカウンセラーの域だ。あたしはとてもそこまでにはなれそうにない。
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オカマ板前と春樹カフェ(14/49)

「この子、こう見えても板前だったの! 最初ここに来た時は角刈り」
「えーっ」
 いつもあたしをからかうのはナナさんだ。
「中卒のヤンキー上がりの男の子と一緒に入ったんだって。昇り龍の刺繍が入ったジャンパー着てるタイプ。黒地に金色の糸でばーんと」
「今時、龍!」
 龍の話なんてしたっけ、とぼんやり考える。お客さんは酔っ払っているし、ゲラゲラ笑う。
「この子はおとなしく見えるけど、スカートの中に素晴らしい伝家の包丁を隠し持ってるからさ、そのヤンキーも美味しく頂いちゃったのよ。板前だけに!」
「た、食べてません」
 寿司屋の厨房は男だらけの秘密の花園、あたしはそこをハーレムにして食べ放題、というストーリーをナナさんは勝手に作ってしゃべりまくった。お寿司屋さんには嫌な思い出しかなかったから、空想の中で仕返ししてもらっている気がした。せいせいした。
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オカマ板前と春樹カフェ(15/49)

 団体客が来ると必ずその中で一番格好悪い男に好かれてしまって「雑魚殺し」という二つ名がついたり、泥酔した雑魚におっぱいを揉まれてシリコン製の詰め物がずれたり、わあわあ働いているうちに夏が終わって秋が来た。女の子みたいな可愛いコートを買っちゃおうかなー なんて乙女な悩みでぼんやりしていた時に、ナナさんにぽんと肩をたたかれた。
「角のヴェローチェに行ってくれる? 小太りおじさんが待ってるから」
 二秒ばかり考え込んでしまった。
「こぶ取り……じいさんではなく?」
「あんた、老け専だっけ」
「違います! 待ってるって、お客さんですか」
「ううん、個人的な知り合い。デブ専にモテるには痩せてるし、老け専に愛されるには若過ぎる、中途半端な感じの男よ。行けば向こうから声をかけてくるはず」
 それだけ言うとナナさんはフロアの方に出ていってしまったので、あたしは訳も分からずヴェローチェへ向かった。伸ばしかけの髪型が恥ずかしく、毛糸の帽子を深くかぶったまま、店内に入っていった。
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オカマ板前と春樹カフェ(16/49)

「こっち、こっち!」
 声のした方を見ると、背広を着た男の人が手を振っている。
「七瀬から聞いてるよね」
「ななせ……? ナナさんのことですか」
「あいつの源氏名『吉本なな』だっけ。本名は七瀬耕一っていうんだよ。僕のことボロクソに言ってたろう」
 男の人は何故かニコニコして、嬉しそうだった。丸い眼鏡とふっくらした顔の輪郭が、穏やかな印象を与える。ナナさんはおじさんと言っていたけど、肌につやがあるし、意外と若いんじゃないか。
「大学の同級生でね」
「じゃあナナさんと同い年ですか!」
 驚いてしまった後で、失礼だったと気づく。
「すみません」
「いいんだよ。昔からあいつは若く見えたし、僕は十代の頃からおじさんだった」
 渡してくれた名刺には「隅田周平」とだけ書いてあった。会社名も役職もなし。裏を見ると、郵便番号と住所と電話番号が手書きしてある。
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オカマ板前と春樹カフェ(17/49)

「君は板前だったんだって?」
 急に、オカマバーに勤める前の、心細い気持ちが戻ってくる。
「いえ、下働きで辞めちゃったんで、本当は板前じゃないんです。ナナさんは冗談によく使うけど」
「もう料理の仕事はしたくないのかな」
 あたしは顔を上げて、男の人の顔をじっと見た。
「実は、店を出そうと思っているんだ。二丁目か三丁目のどこかに。最初に考えていたのは、マンガ喫茶の小説版みたいなカフェだ。僕は村上春樹のファンだから、彼が若い頃やっていたバーみたいな内装にして、本棚に小説を並べて自由に読めるようにして。文学青年のゲイたちがそこで趣味の合う友だちや恋人と知り合えたら素敵だろうな、と」
 そこで一息つくようにアイスティを飲んだ。
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オカマ板前と春樹カフェ(18/49)

「声に出して説明すると、自分がいかに夢見がちな人間か分かって呆れてしまうな」
「いえ、素敵だと思います」
 周平さんは安心したのか微笑んで、話を続けた。
「しかし事業計画としてはいかにも弱い。店として成功させるには、村上春樹の小説に出てくるような食事も出したい。と思っている時に、七瀬から板前さんの話を聞いた」
「村上春樹って、お寿司屋さんの小説を書いているんですか」
 沈黙。テーブルの空気が固まる。
「あったかなぁ、寿司屋の話。水丸さんとの対談で出てきた気もする」
「ごめんなさい、あたし小説はほとんど読まないんです」
「いや、いいよ。村上春樹の作品に出てくるのは、軽食が多いね。スパゲティとかサンドイッチ。あとドーナツ」
「あたし、洋食の勉強はしてないですよ」
「調理師の免許は」
「持ってます」
「十分!」
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オカマ板前と春樹カフェ(19/49)

 調理師の免許にそれほど意味はなくて、とか弱気な説明をしそうになったけど、また料理の仕事が出来ると思ったら、この人の好いおじさんを騙したって構わない気がし始めた。
「和食じゃないと作りたくない?」
「いえ、そんなことないです!」
 あたしは手帳の紙を一枚破って、郵便番号と住所と電話番号を書いて渡した。
「そうすぐって話じゃない。まだ僕は勤めも辞めてないし。また連絡するよ」
 七瀬によろしく、と言って周平さんは帰っていった。
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オカマ板前と春樹カフェ(20/49)

 一週間後、住んでいるアパートの郵便受けを開けたら、ぷっくり膨らんでいる小さな封筒が入っていた。周平さんにとって「連絡」は電話ではなく手紙なんだ。名刺に書かれていたのと同じ字を見て心が和んだ。水色の便箋と、三枚のコピー用紙が同封されている。

 この間は急に変なおじさんが会いにきてびっくりしたでしょう。でも君も料理の仕事に興味を持ってくれたみたいで良かった。
 村上春樹の小説の、食べ物が出てくる場面のコピーです。付箋の貼ってあるところを見てください。もっと具体的なレシピが書いてあった気がしたのだけど。僕は小説が好きなのに、読み方が雑だと七瀬にいつも怒られている。だから本当は別のページに役に立つ文章があるのに、見つけられてないのかもしれない。


 あたしは厚く畳まれたコピー用紙を広げ、付箋の下を読んでみた。
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オカマ板前と春樹カフェ(21/49)

「わかりあえる?」
「気持ちがよ」
 僕は戸口から首をつきだして台所をのぞいた。スパゲティーの鍋からは白い湯気が立ちのぼり、アバドは『泥棒かささぎ』の指揮をつづけていた。
「悪いけど、今スパゲティーをゆでてるんです。あとでかけなおしてくれませんか」
「スパゲティー?」、女はあきれたような声を出した。「朝の十時半にスパゲティーをゆでているの?」


 コピー用紙の端から端まで読んでも、このスパゲティが何味なのか全く分からない。たらこか、きのこか。それともオリーブオイルだけのあっさりしたものなのか。
 スパゲティを茹でている男の人は、失業中だと書いてある。女の人は何者なのか分からない。分からないことだらけだ。
 二枚目の文章は、細かく材料が書いてある。これなら作れるかもしれない。

 彼の勧めるサンドイッチは見るからにおいしそうだった。僕は礼を言って、それを受けとり食べる。柔らかい白いパンにスモーク・サーモンとクレソンとレタスがはさんである。パンの皮はぱりっとしている。ホースラディッシュとバター。
「大島さんが自分でつくるんですか?」
「ほかに誰もつくってくれないもの」


 ホースラディッシュって何だろう。後で調べてみよう。この大島さんという男の人は、食べ盛りの男の子を心配して、サンドイッチを作ってきたのだ。この二人はこれから恋に落ちるんだろうか。ちょっと先が気になる。
 次の紙の左半分はイラストだ。羊の着ぐるみを着た男が、公園でドーナツを食べている。絵本かな。とても可愛らしい。

「本当じゃよ」と羊博士は言った。「夕方の六時に私の家に来なさい。良い方法を教えてあげよう。ところでそのシナモン・ドーナツもらっていいかね?」
 そして羊男が「いいですよ」とも「どうぞ」とも言わないうちに、ドーナツをつかんでむしゃむしゃと食べてしまった。


 あたしはこのドーナツの食感が分かる気がした。「サクッ」ではなく「ムチッ」だ。かじったあと唇に残る、甘い香りのシナモンシュガー。
 小学校の国語の授業で習った「注文の多い料理店」を思い出した。どんなストーリーだったか全然覚えてないけど、すごく美味しい牛乳のクリームが出てくる。あたしはそれをぺろりと舐めた。言葉として読んだだけなのに、実際に口の中で溶けていったのだ。
 周平さんも、村上春樹の料理を何度も食べたはずだ。きっとその味を覚えている。あたしがどんなものを作っても、
「これじゃない!」
 と叫ぶかもしれない。それなのに何故か、不安を感じなかった。成功するかなんてどうでもいい。胸の中で闘志が燃えるのを感じる。とにかくやってみたい。
 作ってみせようじゃないの。
 最高の、春樹カフェの料理を。


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スパゲティは「ねじまき鳥クロニクル」
サンドイッチは「海辺のカフカ」
ドーナツは「羊男のクリスマス」
からの引用です。
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オカマ板前と春樹カフェ(22/49)

 来月最初の日曜日、空いてますか?
 もし用事がなければ、夕方の六時に私の家に来てください。お店で出す料理を作ってみます。


 羊の絵が描いてあるカードを買って、招待状にした。すぐに「楽しみにしています」と書かれたハガキが返って来た。周平さんと手紙でやり取りしていることをナナさんに伝えると、
「平安貴族か!」
 とつっこまれた。もう外はずいぶん寒く、街路樹の葉がはらはら落ちていたけれど、あたしは人生で一番あたたかくなっていた。
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オカマ板前と春樹カフェ(23/49)

「休日出勤になっちゃって」
 約束の時刻、周平さんは背広でやって来て言った。ベージュ色の薄いコートを受け取り、ハンガーにかける。
「すみません。仕事、大丈夫でした?」
「うん、ちゃんと終わらせて来たから大丈夫。そうだ、今日の材料費と手間賃払うね。食後にレシート見せて」
「そんなのいいですよ」
「そこはきちんとしておかないと。お腹空いたなぁ」
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オカマ板前と春樹カフェ(24/49)

 小さなちゃぶ台の前に座ってもらい、あたしは台所に戻る。パスタは時間が勝負だ。時計をにらみながらスパゲティを茹でる。ソースをからめる。とにかく手際良く。
 ことりとお皿を置く音を聞き、周平さんは読んでいた文庫本から顔を上げた。
「説明は後でします。伸びたら台無しなんでどんどん食べてください」
「はいはい」
 基本はトマト味だ。枝豆とソーセージを載せ、バジルと松の実のペーストをかけてある。一口目。反応は悪くない。二口目、三口目と速度が上がっていく。
「枝豆とバジルって合うんだ。意外だなぁ」
「いつもの枝豆じゃないみたいですよね」
 ソーセージをかじった瞬間、微笑んでいた顔が急に真剣になった。
「これ、どこで買ったの? こんな美味しいソーセージ初めてなんだけど!」
「自分で作りました」
 周平さんの目がまん丸になる。
「何それ、新手の性欲解消法?」
「ち、違います! 肉の加工品って市販のものは美味しくないから、全部手作りしてるんです。ソーセージも、ハムも、ベーコンも」
 周平さんは信じられないものを見るようにあたしの顔をながめ、五秒ほど固まっていた。
「ほら、伸びちゃう」
「んん」
 かっ込むように残りを食べて、ようやく二人とも落ち着いた 。あたしは送ってもらった小説のコピーを出す。
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オカマ板前と春樹カフェ(25/49)

「このページだけ読んでも、どんな味なのか分からなくて。もっと先に書いてあるんですか?」
「いや、僕は見つけられなかった。でもこの場面のスパゲティが印象的で忘れられないんだ」
「正解は分からないけど、とりあえず自分で考えてみようと思ったんです。失業している男の人が朝の十時半に作るスパゲティに、いったい何が入っているのか」
 周平さんは居住まいを正してあたしの話に聞き入った。
「まず、わざわざ材料を買いに行かないと思います。家にあるものでどうにかする。トマト缶は安いし、常備しているんじゃないか。会社に行かなくていいと思うと、つい昼間からビールを飲んでしまう」
 あたしは想像上の冷蔵庫を開け、手を伸ばした。
「つまみの枝豆とソーセージが残ってる。奥の方には開封済みのバジルソースのビンが。よし、これも使っちゃおう」
「なるほど」
 周平さんは腕組みしてうなずいた。
「そういう設定ですがバジルペーストは手作りです。すり鉢でつぶしました」
「うん、香りが良いもんね。分かるよ」
「どうですか? 読書中に食べた味に少しは似てますか?」
 ドキドキして顔が熱い。
「自分が色んな物事を侮っていたのに気づいたよ。食べ物も、君のことも」
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オカマ板前と春樹カフェ(26/49)

 改まった態度でそう言われ、きょとんとしてしまった。
「スパゲティなんて簡単だし、自分で作って出そうかとも考えていたんだ。料理担当の人がいれば、自分は飲み物と接客に集中出来て良い。君をその程度の存在に考えていた」
「それで問題ないですよ?」
 何しろお寿司屋さんでは客向けの食事を一切作らせてもらえなかったのだから。
「いや、この店は君の店になる。美味しい料理は万人にとって善だ。ゲイにとっても、文学青年にとっても」
 周平さんの視線と言葉がまっすぐあたしを貫き、発熱で頭の中が真っ白になった。何も答えられず、逃げるように台所へ向かう。
 あたしはそれまでの人生で、親にしか褒められたことがなかった。父さんと母さんはあたしが世間で上手くやっていけないことをよく理解し、せめて家では自信を失わせないようにと、あたしの良いところをたくさん見つけて言葉にした。端的に言えば溺愛した。
 親の優しさだけを頼りに生きている自分が嫌だった。まるで子どもじゃないか。もうじき二十二になるのに。
 褒められようと貶されようと平然としていられるのが、本当の大人なのだろう。自分自身の評価だけで自分を立たせること。あたしはダメだ。周平さんの「美味しい」という言葉が心の中で渦を巻き、台風の時の街路樹みたいに激しく揺れている。
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オカマ板前と春樹カフェ(27/49)

「突然いなくなって、どうしたのかと思った」
「ごめんなさい。次の料理を早く出したかったの」
 真実じゃないけど嘘でもない。あたしは大島さんのサンドイッチを周平さんの前に置く。スモーク・サーモンとクレソンとレタス。
「最初、ホースラディッシュが何だか分からなかったんです。調べてみたら西洋のわさびでした」
「へー 僕はてっきり赤かぶのことだと思ってた」
 周平さんは大きく口を開けてパクパク食べてゆく。
「このホースラディッシュを手に入れられなかったので、代わりに伊豆のわさびをバターに練り込んでみました」
「えっ」
 口の動きがゆっくりになる。その時初めて味を気にしたみたいだ。
「違和感がない」
「鮭ですから。魚とわさびの組み合わせは無敵です」
「確かに」
 全て食べ終え手を拭きながら、
「夢中で食べちゃったな。これじゃただの客だ」
 とつぶやいて苦笑している。あたしは昼間のうちに揚げておいたシナモン・ドーナツを持ってきて、紅茶を淹れた。
「ドーナツにはベーキングパウダーで膨らませる『サクッ』としたタイプと、イースト菌で発酵させて作る『ムチッ』としたタイプがあります。羊博士が食べたのは『ムチッ』の方だと思うのですが、イメージ合ってます?」
「ごめん、今は目の前のドーナツのことしか考えられない」
「おあずけ」をさせられている犬の目で周平さんは言う。経営者として振る舞うのは諦めたらしい。あたしは自分のコップにも紅茶を注ぎ、ドーナツを手に取った。周平さんも一緒に食べ始める。
「幸せだなぁ。本当は批評しなきゃいけないんだろうけど、もう『美味しい』しか言えないや」
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オカマ板前と春樹カフェ(28/49)

 周平さんの柔らかい笑みを見て、あたしも嬉しくなる。全ての料理を出し終わり、緊張が解けた。周平さんは齧りかけのドーナツを眺めながら言う。
「ねえ、もしかしてさっきのサンドイッチのパン」
「自分でこねて焼いてます」
「徹底してる」
「いつもやってることですから。作れるものは買わないんです」
 ドーナツの真上で視線がぱちんと合った。
「僕は君から多くのことを学ぶ気がする」
 あたしは耐え切れず下を向いた。
「君の料理を引き立てられるよう、店作り頑張るよ」
 その日から周平さんは春樹カフェを「僕たちの店」と呼ぶようになった。単なる雇われ料理人ではなく、共同経営者みたいに扱ってくれる。でも勘違いしちゃいけない。出店費用は百パーセント周平さんが出すんだから。
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オカマ板前と春樹カフェ(29/49)

 周平さんは喫茶店で二冊の通帳を見せてくれた。それぞれにきっちり一千万円ずつ入っている。
「今までいかに会社の名前で仕事をしていたか思い知るよ。君に信用してもらうために、これくらいしか証明になるものがないんだ」
「別に、会った時から信用してますよ?」
「あんな自宅のプリンターで印刷したぺらぺらの名刺を渡す奴を信じちゃいけない」
 あたしは首を傾げる。周平さんは大人っぽい歪んだ微笑みを見せる。
「そんなに貯めるなんてすごいですね」
「真面目に働いてケチケチ暮らせばそう難しくない。僕には何の才能もないし、せめて手堅い生き方くらい守らないと」
 あたしに払うつもりのお給料がいくらなのかも教えてくれた。あたしは無給でもやる気でいて、生活より料理優先の自分が可笑しかった。
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オカマ板前と春樹カフェ(30/49)

 年末年始の休み、実家に帰って周平さんの話をした。オカマバーで働いているのはさすがに内緒にしている。バイト先の先輩の友達が始める予定の、図書館風のカフェ。ゲイの店とは言わなかったけど、新宿二丁目あたりで物件を探していると伝えたから、何となく察してくれたと思う。
「使えそうなものは全部持っていきな!」
 と母さんが厨房を指差した。
「店を閉めた後も道具は綺麗にしてあるよ」
「ありがとう」
「あとその周平って……」
 母さんは何故か顔を赤くしている。
「とっても優しい人だよ」
「じゃあまあ、好きにすればいい。変な病気に気をつけるんだよ」
「何の話?」
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オカマ板前と春樹カフェ(31/49)

 年が明け、一人暮らししているアパートに戻ると、周平さんから年賀状が来ていた。印刷された干支の絵の横に、手書きで、
「去年、最も素晴らしかったのは、君と出会えたことです」
 と書いてあった。そんな風に手放しに褒められると、あたしは喜ぶ前に苦しくなってしまう。もちろん嫌われたくはない。でもこれ以上心を揺らさないで欲しい。周平さんの書いた文字を見つめ、あたしは床に座りこんだまましばらく動けなかった。
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オカマ板前と春樹カフェ(32/49)

「恋の悩みねっ」
「うわーっ びっくりしたっ」
 化粧し終えてボーッとしている時にゆめこさんが耳元で囁くものだから、つい大声で叫んでしまった。
「ち、違います。仕事の悩みです」
 しまった。オカマバーを辞めて春樹カフェを始めようとしている話は、ナナさんにしかしていない。仕事と言えばここのことだと思われる。みんな親切にしてくれるのに、何が不満なのかと問い詰められたらどうしよう。
 しかしゆめこさんは、あたしの戸惑いを丸々無視した。人差し指をぴんと立てて言う。
「ゆめこを騙そうったってムダよ! 一目瞭然なんだから。恋に悩んでる時は、顔が赤くなるの。仕事で悩んでる時は顔が青くなる」
「そんな赤鬼青鬼みたいに……」
 ゆめこさんは鬼より化け猫に近い、意地の悪い笑顔を浮かべて、
「占ってあげようか」
「やめてください!」
 もし悪い結果が出たら、春樹カフェがうまくいかなくなって周平さんとの関係が崩れてしまうとしたら、あたしは今度こそ立ち直れない。
 半泣きのあたしを見てゆめこさんは、
「全く若いっていうのは憎たらしい。あたしなんて『夕飯何にしよう』くらいしか悩みがないのよ。まあそれも幸せだけど」
 と言って笑った。
 あたしの悩みも食べ物の悩みです。たぶん。
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オカマ板前と春樹カフェ(33/49)

 一月の終わりの風の強い日、周平さんと一緒に不動産屋めぐりをした。
「こんな条件の良い場所、滅多に出ませんよ」
「確かにそうだね。それに紀伊國屋書店に近いのも嬉しいな。二丁目中心に探してもらったけど、実は第一希望は三丁目なんだ」
「じゃあまさにぴったりですよ!」
 不動産屋のお兄さんは「これで決まり」とほくそ笑んだだろう。あたしもその物件で契約するものとばかり思っていた。
 書類を挟んで向かい合った途端、周平さんは渋い顔をした。
「実を言うともう一軒気になっている所があってね、条件はこっちより悪いんだけど、賃料が安いんだ。向こうの方が自分の身の丈に合ってるかなぁ」
 お兄さんは小声になる。
「……大家さんと交渉して、もう少しお安くすることも出来ますよ」
 周平さんはにっこり笑って強めの声で、
「最近は空きテナントが多くて借り手市場なんですよね」
 お兄さんは電話したり店の奥の方へ行ったり慌ただしく動いた後、小さいメモ紙に金額を書いて周平さんに見せた。
「うーん」
「それでギリギリです」
「そうか…… 今日は決められそうにないな。一応電話番号を置いていきます。何かあれば連絡ください」
 これと似たようなやり取りを、三か所の不動産屋で繰り返した。対応した人たちはぬか喜びと失意でヘトヘトになっただろう。
「家賃はこっちが赤字か黒字かに関係なく勝手に引き落とされちゃうからね。なるたけ安く抑えないと」
 心がざわざわしていた。何だろう。周平さんの笑顔が気になる。穏やかで、あたたかい、邪気のない顔。それは本当なのかな。化けの皮を剥いだら、どんな表情が現れるのか。
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オカマ板前と春樹カフェ(34/49)

「今日は口数が少ないね。元気ないの? 風邪ひいたりしてない?」
「あたしへの褒め言葉も、全部ウソだったんですか」
「え?」
「今日見に行った空き店舗と同じように、自分の商売のためにあたしの料理も美味しいって言ったんですか」
「いややや、君の料理が不味かったらそもそも雇おうとしないし」
 涙が流れて、鼻水をすすって、自分でも何が言いたいのか分からなくなる。
「感動してるふりをしたんですか」
「そうじゃない。家賃を値切るのは、君のためでもあるんだよ。僕は料理を最優先したいんだ。君が望む食材を、値段を気にせず仕入れたい。結局それがお客さんのためになるし、店のためにもなる」
 分かってる。頭では分かってるんだ。でも泣くのをやめられない。濡れたほおに冷たい風が当たって痛い。あたしは周平さんが止めるのも聞かないで、地下鉄の階段を駆け降りた。改札を通って振り向くと、機械の向こうに周平さんがいた。悲しそうな顔をして、こちらを見ている。あたしはホームに逃げた。周平さんは追いかけて来なかった。
 ベンチに腰かけ、お尻からしんしんと伝ってくる寒さに耐える。臙脂色のコートに涙が転がって染みていく。周平さんの隣を歩くことを考えて選んだ、甘過ぎない中性的なデザインのコート。
 きっとあたしはクビにされる。こんなわがままで扱いにくい料理人、あたしが経営者だったら絶対使いたくない。春樹カフェに立ちのぼるスパゲティを茹でる湯気を思い浮かべて、自分を心底恨んだ。何より強く欲していた場所を、自ら捨てようとしている。
 子どもっぽい、揺れやすい、我慢のきかないこの感情がいけないんだ。大事なものほど、冷静にならなくちゃいけないのに。
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オカマ板前と春樹カフェ(35/49)

「都会の真ん中で痴話喧嘩したってぇ」
 ナナさんがさも可笑しそうに言う。
「周平さん、まだ怒ってます?」
「怒ってない。弱ってる。
『汚れた大人なのがバレて嫌われたー』
 だってさ」
「周平さんは、本当に汚れた大人なんですか」
 あたしは真剣に尋ねているのに、ナナさんはギャハハと下品に笑う。
「見たまんまだから安心しろ。一皮剥けば世渡り下手な文学青年だ。しかし不動産屋で値下げ交渉するなんて成長したなー 大学時代は新聞屋の勧誘も断れなくて、朝日新聞と読売新聞を両方取ってたんだぞ。あの二つの社説を読み続けたら頭が分裂しそうだ」
「きっと周平さんはそうやって新聞をいっぱい読んで、立派な大人になったんです!」
 あたしが両手のこぶしを振って力説すると、ナナさんは再起不能になるほど笑った。腹が痛い、腹が。産まれる〜 とか叫んで。
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オカマ板前と春樹カフェ(36/49)

「とりあえず俺は仲人やりたくないから二人でどうにかしてよ」
 あたしはずっと気になっていたことを尋ねた。
「周平さんとナナさんって、恋人同士だったことがあるんじゃないですか」
 ナナさんの目がキラッと光った。
「ちょうど良い。同じ質問を周平にしてみなよ。あたしをどう思っているか聞いてお・い・て」
 最後は完全なおネエ声だ。素早い化けっぷりについていけない。
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オカマ板前と春樹カフェ(37/49)

 あたしは初めて周平さんに電話をかけて、
「会いたいです」
 と言った。予定を確認し合い、二人とも休みの日を見つけ、午後二時に紀伊國屋書店で待ち合わせた。
 地下鉄から直接つながっている入り口に現れた周平さんは、寒いのに汗をかいて、すでにぐったりしていた。朝から不動産屋さんを回っていたんだ。罪悪感と寂しさが胸を刺す。物件を一緒に見れば、相談に乗ったり意見を言ったり出来たかもしれないのに。
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オカマ板前と春樹カフェ(38/49)

「僕はね、生きている作家の本は、古本じゃなく、新しいのを買うようにしているんだ」
 外国文学の棚の前に立ち、周平さんはゆっくりした口調で言った。
「節約してる身には出費がこたえるけど、少しでも応援したいからね」
 本から目を離しこちらを向く。今日初めて視線が合った。
「お金の話ばかりする僕を軽蔑してる?」
「そんなことないです! あたしのうちも料理屋だったから、売上げや経費が大事なのは知ってます。味のことだけ考えていたんじゃ店が回らないって。でも」
 でも、何だろう。周平さんは、後を続けられないあたしの方を向くのをやめた。棚から白い表紙の薄い本を出し、裏の値段を見て、棚に戻す。
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オカマ板前と春樹カフェ(39/49)

「そうだ、あの、周平さんとナナさんって、恋人同士だったことがあるんですか」
「はっ? 何それ、七瀬の冗談?」
 周平さんが笑顔になり、あたしはちょっとホッとする。
「ナナさんは答えを教えてくれなくて、周平さんに聞くようにって」
「あいつゲイじゃないし。本当の意味ではおネエでもない。迫真の演技だ」
 あたしは軽くショックを受けた。実のお姉さんだと思っていた人が、赤の他人だと告げられたような。
「まあそんな事情に関係なく、ノンケの七瀬に熱く片思いしたって良かったんだな。しかし幸い、僕は七瀬に恋をしたことはない。友達だよ、大切な」
 落ち込んでいるあたしを見て、周平さんは慌てて言った。
「もしかして七瀬のこと好きだったの?」
「違います!」
「あいつ下町のおばちゃん並みに世話好きだからさ、若い子を勘違いさせてるんじゃないかとハラハラするよ」
 勘違いという言葉に、びくりとする。
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オカマ板前と春樹カフェ(40/49)

「……ナナさんは、憧れてるし尊敬もしてるけど、恋愛の『好き』ではないです」
「そうだね。僕も七瀬を尊敬してる。頭が良い上に努力家だ。あのオカマバーで働きながら、大学院に通って博士号を取ったんだよ」
 あたしは口をあんぐり開けてしまう。
「そんな話、誰もしてません!」
「内緒にしてるはずだ。『オカマ博士』なんてネタにされたらたまらないじゃないか」
「あたしのことは『オカマ板前』ってさんざんいじり倒したのに」
 周りのお客さんの迷惑にならないよう、二人で声を殺して笑った。
「二丁目で働けそうな女顔、とからかったら実行しちゃって驚いたよ。あいつの専門は歌舞伎でね、実際に女形になって研究に生かしたかったのかもしれない」
 ナナさんの完璧な美しさを思い出す。虚構の美。お客さんを必ず笑わせる荒唐無稽な作り話。
 すっかりリラックスして、その後はいつも通りおしゃべり出来た。周平さんは文庫本、あたしは料理の本を買い、店を出た。
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オカマ板前と春樹カフェ(41/49)

「僕のうちに来る?」
 足が動かなくなり、きゅっと体が縮むような気がする。
「狭いし散らかってるし、人を呼べる部屋じゃないんだけど。また君の機嫌を損ねて、逃げられたら辛いから」
「そんな駄々っ子みたいに言わないでください」
 いや、どう見ても駄々っ子だろう。と自分でも思ったし、周平さんだってそう感じているはずだ。顔を見ると、優しく微笑んでいた。
 私鉄の、急行の停まらない小さな駅から十五分歩いた所に、周平さんの住んでいるアパートはあった。ドアを開けると、玄関先まで本が積み上がっている。
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オカマ板前と春樹カフェ(42/49)

「店が完成したら全部持っていくんだ。今は足の踏み場もなくて申し訳ない」
 本をどかし、ベッドを背もたれにして床に座った。電気ストーブのスイッチを入れる。
「焦げ臭いね」
「ほこりが焼けてるんじゃないですか」
「危ないから消そう。あんまり使ってないんだ。しかしこの家の暖房器具はこれだけでね……」
 周平さんは押入れから紺色のはんてんと分厚いマフラーを出してくれた。
「想像以上にもてなしに向かない家だな。駅に戻って喫茶店行く?」
「いえ、ここが良いです」
 周平さんの服を着られる喜びに、じんとしていた。見上げると、天井まである本棚に本がぎっしりつまっている。周平さんが読んだ物語。周平さんの体と心。
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オカマ板前と春樹カフェ(43/49)

 しばらく何も言えず、二人とも黙っていた。はんてんは始めのうち暑いくらいだったけど、冷たい床に体温を奪われ、気がつくと震えるほど寒くなっている。
 発熱しているものが欲しかった。周平さんの方を見ると、鼠色のモコモコしたセーターを着込んで腕をさすっている。あたしは飛び込むように周平さんに抱きついた。拒まれなかったから、背中に腕を回してぎゅっとする。毛糸がほおに当たってチクチクした。
「好きになってごめんなさい」
「どうして謝るの」
「周平さんが一生懸命お金を貯めて開く念願のカフェなのに、あたしは迷惑ばかりかけてる」
 セーターの奥のあたたかさが恋しくて、涙が出た。周平さんの肌の匂いを感じる。もっとそばに寄りたい。けれど帽子を取られそうになり、あたしは腕を離した。
「髪型が変なんです」
「頭を撫でたいんだけど」
「えー」
 周平さんに頭を見られないよう、上の方に抱きつき直した。中途半端な長さの茶色い猫っ毛に、周平さんの指がざっくり入る。全身が反応し声が漏れた。
「恥ずかしい。おかしい。どうしよう」
 心臓がドキドキして、もう我を失いかけている。
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オカマ板前と春樹カフェ(44/49)

「暖まる方法が大学時代と変わらないのが情けないなぁ」
「え?」
 お尻を軽く持ち上げられ、布団の中に引っ張り込まれた。
「あの、あたし」
「経験ないのかな」
 それで嫌われるのか好かれるのか分からず不安だったけど、嘘をついても仕方ないのでうなずいた。
「服を着たまま抱き合ってようか。それでもあったかいよ」
 あたしは周平さんの目をじっと見つめ、首を横に振る。
「そうだよね」
 背中に冷たいてのひらが入って来て、骨の上を、肩から腰までじっくりなぞってゆく。あたしは周平さんにキスをした。唇を何度も触れ合わせ、体を熱くしながらお互いの服を脱がせる。二人とも裸になった時、布団の中はあたたかく湿って温室みたいだった。
「痛いことするんですか」
「いや、もっと単純で子どもっぽいことをしよう」
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オカマ板前と春樹カフェ(45/49)

 周平さんがあたしの上に覆いかぶさり、硬くなっている場所をくっつけ合った。深く口づけしながら腰を揺らす。当たる位置によって、意識が飛ぶような気持ち良さを感じた。
「ちょっとお休み」
「えっ、何でですかっ」
 快楽をねだって、下半身が独りでに動いてしまう。
「君を焦らすためだよ」
 首筋と耳を撫でられ、小さく声を上げる。
「あたしが上になってもいいですか」
「いいよ」
 同じことをしようとしてるのに、感じる所にぶつからない。
「周平さんみたいに、上手に出来ない」
 焦って腰を激しく上下させるあたしを、周平さんはいつも通りの穏やかな表情で見ていた。がむしゃらになっているのは自分だけだと思うと切なかった。
「あ、ごめん。動かないで」
「意地悪!」
「いや、出そうになっちゃって。困ったな、近くにティッシュある?」
 何でそんな状態なのに普通の声なんだ。あたしは悔しくて布団にもぐり、周平さんのを口に含んだ。舌を使うと、ようやくため息が聞けた。顔も見たかった。ごくんと飲み込んで、布団から顔を出す。
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オカマ板前と春樹カフェ(46/49)

「嫌じゃなかった?」
 強く首を振る。嫌な訳がない。こんなに好きなのに。周平さんは腕枕をして、全身を撫でてくれた。もう焦らさずに、指先と舌で刺激する。周平さんがそんな風にしてくれていると思うと、声を出さずにはいられなかった。後で思い出すと恥ずかしくて立ち直れなくなりそうな、動物っぽい淫らな声で。
 終わった後、周平さんはあたしをきつく抱き締めた。絶頂の反動で深い悲しみが押し寄せ、泣き出してしまった。
「春樹カフェが完成しても、恋人を連れて来ないでください」
「何言ってるの?」
「あたしきっと、苦しくて包丁を持てないと思います」
「恋人なんていないよ。君以外には」
 涙を拭いて周平さんを見る。ちっとも乱れない、出会った日と変わらない笑顔。
「あたし、セフレっていうのになるのかと思ってました」
「僕、セフレって金持ちのことだと勘違いしてたんだよね。かなり長い間」
「それセレブですよ。セしか合ってません」
 笑った後で、もう一度周平さんはぎゅうっとしてくれた。
「好きになってくれてありがとう。照れ臭くて言えなかった」
 嬉しいのに、あたしは何故か幸せに浸れない。
「でも、あたしなんて好みじゃないでしょ? 女っぽいし、小説の話も出来ないし」
 否定して欲しい。あたしを落ち着かせるように、背中をさすりながら周平さんは話す。
「十代の終わりから二十代の初めに、五年間付き合っていた人がいたんだ。その人との関係が壊れた時に、自分の人生の恋愛の機会は完全に失われたんだと思った」
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オカマ板前と春樹カフェ(47/49)

 見つめ合って、軽くキスをする。
「君は僕を好きになってしまったんだね」
「気づいてないの、周平さんだけでしたよ! あたしはオカマバーでさんざんからかわれてっ」
「僕も少しは考えたよ。でも自分を好きになってくれる人がまた現れるなんて、上手く信じられなかったんだ。見ての通り僕は全然かっこよくないし、面倒臭がりでモテる努力をしないからね。そんな暇があったら本の一冊でも読みたいと感じてしまう」
「でも優しい」
「それだけだ」
 頭を撫でられて、ふと思いつく。
「角刈りに戻しましょうか?」
「伸ばしたいんでしょ」
「自分の髪でポニーテールにしたいんです。でも」
「きっと君は女性的になった方が落ち着くんだ。無理せず好きな自分になればいい。それにポニーテールは清潔感があって料理にも向いてる」
 あたしは周平さんを好きになった本当の理由を理解した。優しさだけじゃないんだ。
「これからもよろしくお願いします」
 真面目に言ったのに、周平さんは大笑いした。
「こちらこそよろしく」
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オカマ板前と春樹カフェ(48/49)

 借りる店が決まり、周平さんは会社を、あたしはオカマバーを辞め、開店準備に追われていた三月末。郵便受けをのぞくと、須本くんからハガキが来ていた。
「引っ越しました」
 という言葉と、新しい住所が印刷されている。どこかの会社の寮らしかった。子どもの頃に教えてくれた本当の名前の下に(須本)と添えられている。簡単に魔法をかけられたりしない力を身につけたのだと思うと、遠くから祝福したい気持ちになった。
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オカマ板前と春樹カフェ(49/49)

「ねえ、周平。あたしに新しい名前をつけて」
「何で?」
「生まれ変わるから。村上春樹の小説に良い名前ないの?」
「五反田くん」
 即答だった。
「そんな野暮ったい名前イヤッ」
「えー 大好きなのに、五反田くん。あとはシナモンとナツメグとか……」
「そうだ、メグにしよう」
「恵は男でも女でも使う名前だし、君にぴったりだと思うよ」
 春風が吹いて、スパゲティが茹で上がり、お腹がぐう、と鳴った。


(終わり)
posted by 柳屋文芸堂 at 00:17| 【中編小説】オカマ板前と春樹カフェ | 更新情報をチェックする