2007年08月17日

ど素人料理談義(その3)

三、魚のある食卓

「この家に来ると、必ず焼いた塩鮭があるんだよな」
 伯父はちゃぶ台の前に座ると、なかば呆れ、なかば懐かしむような不思議な笑顔でそう言った。私はその頃、どこの家の食卓にも必ず魚が載っていると信じていたから、伯父が何故わざわざそんな事を言うのか全く分からなかった。
 伯父はいつも予告なしでふらりと私の家に来た。そして数日間滞在し、またふらりとどこかに行ってしまう。伯父が普段どんな暮らしをしているのか、子供の私は知る由もなかったけれど、おそらく毎日食卓に焼き魚が用意されているような日々ではなかったはずだ。伯父は生涯独身だったから。
 伯父が亡くなったという知らせが来たのは、ひどく寒い日だった。小さな小さなお葬式が済んでしばらく経った後、私の家に新巻鮭が送られて来た。それは伯父の恋人だった人からで、丁寧な手紙が添えてあった。
 手紙の内容は覚えていない。
 彼女が鮭を選んだのには、何か深い理由があったのだろうか。それとも……

 はっ。何故か私小説風に始めてしまった第三章。ここの所ずーっとエッセイ的文章ばかり書いていたから、私の中の「小説書きたい病患者」が我慢出来ずにむっくり起き出してしまったのだ。
「ちょっとぉ! 私にも書かせてよ!」
 でも私はキーボードを叩きたがるその人を後ろから羽交い締めにして、「それとも」の後を無理やり書き継いでしまう。
「単に『柳田家には鮭さえ与えておけば大丈夫』と知れ渡っていただけなのだ!」
 とにかく私はそういう家で育った。そしてその事に反発したりせず、素直に大の魚好きになった。幸いダーリンも魚が好きなので、「毎日魚」とまではいかないまでも、「肉と魚を一対一」くらいにはしようと心がけている。
「魚料理なんてしないよ」
 私より数ヶ月先に結婚した友人が、当然のようにそう言うので、私はびっくりした。
「家中臭くなっちゃうんだもん。魚は実家で食べるもの、って決めてるの」
 確かに魚料理には苦労が多い。焼いた時の煙もすごいし、黒こげになった網を毎度洗うのも面倒だ。それほど魚が好きでなかったら、避けたくなるのも分かる気はする。けれども私は、実家に帰るまで我慢出来ないくらい、あの味が好きなんだよなぁ。
 料理を始めて二週間経った頃の事だ。サンマはすでに一度塩焼きにしていたので、次はアジを焼いてみようと、スーパーへ買いに行った。
 最初はパック入りのアジを手に取った。しかしすぐ横に、発泡スチロールの箱がいくつか置いてあるのに気付いた。それらには氷水と一緒に魚が入っており、
「アジ」
 と油性マジックで書かれた板も見える。
「こっちの方が新鮮そうだな」
 私はパック入りアジを元の場所に戻し、パン屋でパンをはさむ時に使うような道具で、その魚をぐっとつかんだ。
「落としませんように、落としませんように……」
 売り物の魚を床にツルン! なんてやってしまったら、恥ずかしさと申し訳なさで具合が悪くなってしまう。全神経を指先に集中させ、慎重に、慎重に、祈りを込めて……
「ふぅ」
 二尾、無事ビニール袋に収めると、何か立派な事を成し遂げたようなすがすがしい気分でレジに向かった。
「パック入りよりずいぶん大きいなぁ。慌てずに周りを見て得したよ」
 店員さんはカゴの中の物を次々取り出し、ピッ、ピッと手際良くバーコードを読み取ってゆく。そのたびレジの上の小さな黒い画面に商品の名前がカタカナで表示される。「ダイコン」「マヨネーズ」「アブラアゲ」「サバ」……
 サバ?
 サバなんて買った覚えはない。今日買った魚は先ほど自分でビニール袋に入れたアジだけだ。さては店員さん、バーコードなしの手入力だから間違えたか?
 頭の上に五秒間「?」を出した後、ようやく理解した。パック入りのアジと、目の前の魚の大きさがかなり違う意味について。
 間違えたのは、私だー!
 白状してしまうと、私はそれまでアジというものをほとんど「開き」でしか食べた事がなかった。結婚するまで自分で生の魚を買ったりしなかったから、サバも二枚か三枚におろして調理された形しか記憶にない。世事に疎い、乳母日傘のお嬢なのだ(ドサクサにまぎれて何を言う)
 いや、それでも。
 大きさで気付けよー! 私のバカー!
「サバ…… サバ買っちゃった……」
 呆然としたままレシートを確認すると、くっきりはっきり「サバ」という文字。レジの画面を見間違えたのかも、という小さな希望はあっさり消え去った。
「サバって事は…… アニー! アニーがいるかもしれない! ひ〜」
【アニー】とは魚に付く【アニサキス】という寄生虫の愛称だ。高校時代に『寄生虫館物語』を読んで以来、寿司や刺身を食べられなくなった私にとって、それは残酷な魔女の名のように響く。この文章を書くために調べてみると、どうやらサバだけでなくアジにもいるそうだが(要はどっちを買っても危険度は同じだった)私は、
「サバと言えばアニー、アニーと言えばサバ!」
 と呪文かことわざのように信じていた。おそらく〆サバで感染する例が一番知られているからだろう。
 サバにアニーがいたとしても、塩焼きにするのだから当たる可能性はほとんどない。しかし体の中にこっそり忍び込んで、思う存分人間を苦しめる小さなニョロニョロ(ひ〜)に手が触れてしまうかもしれない、と思うと血の気が引く。
「どこかに使い捨ての手袋があったはず。もったいないけど使わせてもらおう。とてもじゃないけど素手でなんて触れないよ」
 帰宅後、買った物を冷蔵庫に放り込み、すがり付くように『決定版 はじめての料理』のサバのページを開いた。
「アジなら内臓とぜいごだか何だかを取るだけで済んだのに、サバはさばかなきゃいけないんだよなぁ……」
 本には綺麗にさばかれた「二枚おろし」「三枚おろし」の写真が載っている。ここまでやるのは当然無理だとしても、どうにかこうにか食べられる形に仕上げなければ。
 全っ然、自信がなかった。
「でも、ダーリンが夕ごはんを食べられるかどうかは私の手にかかってるんだ。頑張らなくちゃ」
 くじけそうな心を愛で補強し、大きく息をついて『決定版 はじめての料理』を読む。
「(魚の)下処理は古新聞を敷いて行うと汚れない」
 まず、新聞がないよ……!
 恐ろしい事に、我が家にはテレビも新聞もない。友人たちに言うと必ず驚かれるが、
「ネットさえ出来ればどちらもいらないだろう」
 と新郎新婦の意見が一致しただけだ。決して貧乏なせいではない。実際「情報を得る」という意味ではほとんど困っていないけれど、「紙としての新聞」はたまに必要になる。
 そしてこの「サバさばき事件」が、結婚して最初の「必要」だった。
「アジならキッチンペーパー一、二枚で間に合っただろうになぁ」
 血が付くのを防ぐため、まな板をラップで包み、その上にキッチンペーパーを四枚ほどしく。そして使い捨て手袋をはめ、いざいざ、い〜ざ〜!
「まずは首に包丁入れて骨を切るのね。ええっと……」
 ごりごり。ごりごり。ごっ。
「切れたのかなあ?」
 裏返してもう一度首(ひれの後ろあたり。魚の首、というのも変な言い方だが、頭を落とすために切るのは首だろう、という事で)に包丁を入れると、肉を切るだけで首が離れた。
「ふー」
 これで一安心、な訳がない。怖いのは内臓だ。色んな意味で。しかしためらっていてもサバが傷むだけ。エイヤーッと気合を入れ、お尻の穴の所までざっくりと腹をかっさばく!
「うわぁ〜」
 ありがたい事に、アニーの姿は見えなかった。それでもサバの内臓には迫力がある。それぞれの臓器がはっきり見えて、理科の解剖実験みたいだ。そう考えると何だか楽しい気分になって来た。
「そうよ、私は理科大好き人間。理科教諭の免許だって持ってるのよー!」
 アジとサバの区別も付かない奴にそんなもの与えちゃいけない気もするが。
 包丁でかき出した血まみれの内臓をまじまじと観察してしまいそうになるのをぐっとこらえて、サバ本体に気持ちを集中する。これを水洗いし、いよいよ二枚か三枚におろさなければならないのだ。
「三枚は大変そうだから、二枚で良いや。塩焼きなんだし」
 手が使えなくても見られるように開いておいた『決定版 はじめての料理』を再び読む。
「中骨の上に包丁の刃先を入れ……」
 文章の通りやってみるが、き、切れない。どうしても硬い骨が当たってしまう。これも切れというのか?
「う〜ん」
 包丁を一度抜き、先ほどまで内臓があった空間をじっと見つめていたら、ふと思い出した。実家でイワシの香草焼きを作った時の事を。オーブンを扱えるのが私だけだったので、本当に本当に本当に珍しく(年に一回あるかないか)私が調理した。
「あのオーブン、あんまり使わなくてもったいなかったなぁ」
 いやそんな事、今はどうでも良い。あの時私はイワシを手で開き、ケガをするんじゃないかとドキドキしながらも、ちゃんと骨を取り出した。少々気持ち悪くはあったけれど、それほど難しい作業ではなかった。
「もしかして、サバも手で開けるんじゃ……」
 骨と肉の間に親指を差し込む。使い捨て手袋のおかげで何も怖くない。私は大胆に力を入れる。ぐい、ぐい、ぐい。
「い、いける!」
 包丁では切れなかった骨たちが、肉から抜けてあっさり離れる。
「出来た〜! しかも三枚!」
 三枚というよりは、二枚と骨。身の表面は当然なめらかでないが、包丁でやったとしても綺麗に仕上がるはずがないから同じだろう。私は嬉々としてそれらを皿に並べ、塩を振った。
「それにしても、デカいなぁ」
 何故これをアジと思ったのか。おろされた姿を見るといよいよ分からなくなる。でもまあ良い。夕ごはんに焼き魚を食べられる事が確定したのだから。
 ガス台のグリルにサバを入れる所を見て、ダーリンは立ち止まった。
「何それ。ずいぶん大きいねえ」
「サバ。自分でさばいたんだよ」
「へえ。何でまた」
「……色々あったのよ」
 その日あった大冒険(?)を語りながら食べたサバの塩焼きは、今までの人生で一番、と言っても良いくらい美味しかった。
 と、綺麗に締めたい所だが、実を言うと、焼く前に振った塩が多過ぎたんだよね〜 塩辛かった。とっても。料理は最後まで油断大敵。どんな苦労も塩の量一つで水の泡。
 ああもう、私ってば、どんどん賢くなっちゃうなぁ(錯覚)

☆サバその後☆
 残ったサバの塩焼きを、次の日、お茶漬けにしてみた。
「な、なんじゃこりゃあ! 美味〜〜い!」
 かけ過ぎた塩がお茶に溶け、ちょうど良い味になっている。魚の油が表面にゆらりと浮かび、全体がだし汁のように濃厚。でも全くくどくない。
 これはもう本当に「人生で一番美味しかったお茶漬け」だと断言出来る。
 ダーリンにも食べさせたかったけど、あいにく一人分しかなかったんだよね。お茶漬けのために「塩かけ過ぎサバ」をまた作る訳にもいかないし。
 残り物には福がある。主婦の特権を思う存分行使しちゃって、ダーリン、ごめんなさい!

★魚話おまけ★
 サバにはすっかり懲り懲りし、その後一度もさばいてないが、サンマは旬のうちに何度も食べた。内臓を取って真っ二つにするだけだから、サバよりずっと簡単だ。最近はさらに手抜きになって、切り身魚ばかり買っている。季節のせいもあるけれど(これを書いているのは冬の終わり。タラ・ブリ・かじきと旬の魚は切り身ばっかりだ)包丁を血まみれにする事なしに魚が食べられる便利さに、ついつい甘えてしまう。
 丸のままの魚を調理し、血の臭いをかぐと、
「生き物の命を食べて、私たちは生きているんだ」
 という感じが強くする。切り身魚やパック入りの豚肉・鶏肉は清潔過ぎて、そういう当たり前の事を忘れそうになってしまうから、
「たまにはサバの一つもさばかないと」
 と思ったりもするのだけれど、なかなかねぇ〜
 アジを買おうとしてサバをつかんだのは自分の過ちだが、赤の他人のせいで夕ごはんの魚を変更せざるを得なくなった事が、一度だけある。
 季節は秋。素直に旬の魚を選べば良いのに、私はどうしてもブリが食べたかった。
「皮のそばの黒い部分が美味しいんだよねぇ」
 実家のちゃぶ台のレギュラーメンバーだったブリの味を思い出しつつ、スーパーの魚売り場に行くと、サバとサンマが一番目立つ場所にででーんと置いてあった。あの憎き発泡スチロールの箱に入って。
「悪いけど、今日は血まみれにならないからねっ。今日はブリ。ブリなんだから」
 ……ない。もしかして、今はブリなんて一切れたりとも仕入れられないような時期? 無知が生み出す不安とともに、パック入りの魚を一つ一つ見ていく。
「あったー! でも」
 それは生のブリではなく、しょうゆ漬け(熱は加えられてない)のブリだった。
「しょうゆだけなら良いけど、変な添加物が入っていたら嫌だなあ」
 原材料は書いてあるかしら、とパックを手に持って調べていると、すぐ近くで男の人の声がした。
「ブリはよしなさい」
 とっさに振り向くと、見知らぬおじいさんが明らかに私に向かって話しかけている。まさか、変な人に捕まった? 私が軽い恐怖と驚きで何も答えられずにいる事などまるで気にせず、おじいさんは淡々と続けた。
「しょうゆ漬けはやめなさい。売れ残りを漬け込んでいるんだから。生のブリを買って来て、自分の家で漬けるならかまわないよ。でもこの店でこれを買うのはよしなさい」
 その理路整然ぶりに「危ない人かも」という疑惑は減ったが、丁寧過ぎる説明に驚きは増す。迷子のようにフラフラと売り場を歩き回る私の姿が、よっぽど頼りなく見えたのか。
「ありがとうございます」
 どうすれば良いのかよく分からず、とりあえずお礼を言うと、おじいさんは満足そうに去っていった。
「困ったなぁ」
 私はブリが食べたかったのだ。ブリがなかった場合の事なんて考えてなかったし、何より売れ残りのしょうゆ漬けとはいえ、ちゃんと目の前にモノはあるのだ。
「焼いてしまえば古くても大丈夫なんじゃ……」
 けれども、もう一度パックをにぎった途端、再びあのおじいさんが飛んで来て、
「ブリはやめろと言ったじゃないか!」
 なんて怒鳴られそうで、とても買えそうにない。
「う〜ん」
 困った困った困った。魚売り場の周りをくるくると無意味に回る。すると、サバとサンマの入った箱のそばに大量に積み上げてある塩鮭が目に入った。
「仕方ない。鮭を焼くか……」
 鮭も実家の味ではあるが、今日はブリの気分だったのに。
 だったのにぃ〜!
 恨むぜ、見知らぬじいさん。
「あれ? 今日はブリにするって言ってなかった?」
「……色々あったのよ」
 本日の大事件(穏やかな主婦の暮らしの中では、どえらい事件だ)について語りながら、焼いた塩鮭を食べる。味なんて気にせず熱弁を振るう私。しかしきんぴらごぼうの時と同じように、ダーリンの顔がすっと曇った。
「何かこの鮭、生臭くない?」
「えっ、ごめん! ちゃんと焼けてなかった?」
「いや、たぶん、鮭があんまり良くないんじゃないかな」
 ブリだけでなく鮭もダメなのかよー!
 その後、野菜でも似たような事が続き、そのスーパーは二度と使わないと決めた。特別気に入っていた店でもないし(単に家から近かっただけ)何の未練もないけれど、「ブリはよしなさいおじいさん」がどうしているかは、ちょっと気になる。
 たまには行ってみるかな、古くなった魚を買いに。
 ……やっぱり、古いのは嫌だ(当たり前)
posted by 柳屋文芸堂 at 10:40| 【エッセイ】ど素人料理談義 | 更新情報をチェックする