2007年08月17日

夕闇にのぞむ窓辺(その1)

 Kちゃんと、K君へ



 僕は彼女を知っている。
 彼女が十八の時に和己という男と付き合って、すぐに別れたという事を知っている。そしてもうすぐ二十四になるというのに、彼女が未だに和己とよりを戻そうとしては失敗している事を知っている。
 数年前、彼女が書いた小説が地方の新聞の出している小さな賞に入選した事を知っている。けれど今ではすっかり小説が書けない事も知っている。
 彼女が今までにして来たこれらの行為の詳細を知っている。何故知っているかというと、彼女が事細かに何度も何度も僕に話して聞かせるからだ。
 彼女が僕にこんな話を繰り返す理由を僕は知っている。もうそれは心臓が痛くなるほどよく知っている。
 けれど、彼女を知っている事と、彼女に何かするという事は、また別の問題だ。
 僕は彼女に何もしていない。

 彼女は何の前触れもなく僕の部屋を訪れる。半永久的に壊れている呼び鈴を押し疲れた彼女は、まるで太鼓を叩くかのように両手でドアをノックする。
「今日のうちの夕御飯、おでんなんだって。私おでん嫌いなのよ。ダイコンも昆布も玉子も全部同じ味がするんだもの。あんなもの食べたって
『ああ、おでんの味がするねえ』
としか感想が言えないじゃないの。表現力が乏しくなるわ。」
 僕が戸を開けると、彼女は靴を放り出すようにして上がり込んで来て、これだけの長い台詞をつかえもせずに言いながら、まっすぐ冷蔵庫に向かって進んでいった。
「それですぐに葛原君の家に胡麻豆腐があったのを思い出してね・・・よしよし、あったあった。」
そして何のためらいもなく他人の家の冷蔵庫を開けて、田舎から送られて来た胡麻豆腐二つを大切そうに取り出した。
「一緒に食べようね。」
 ようやく彼女は僕に顔を向けた。夕焼けの逆光でよく見えないけれど、それは嬉しそうな笑顔を浮かべているようだった。僕は何を言ったら良いのか分からなくて、
「食べずに取って置いて、良かった。」
と小さく呟いた。
 小皿に載せた胡麻豆腐と、彼女用の朱塗りの箸を、僕は小さなちゃぶ台に並べる。頬杖をついたまま彼女は見つめる。
「ごはんも食べていく?」
「ううん。一応おでんも食べないと、お姉ちゃんにしかられるから。」
 彼女は年の離れたお姉さんと、お母さんと一緒に住んでいる。二人とも彼女の食の細いのを心配していて、何が何でも沢山食べさせようとするらしいが、僕は彼女が小食である事を信じられない。僕の家では図々しいくらいよく食べるのだ。
「おいしいー!」
さっきは表現力うんぬんと言っていたけれど、彼女が食べ物に対して「おいしい」と「まずい」以外の言葉を使ったのを聞いたためしがない。少し大袈裟に、おいしい、おいしい、と連呼して、あっという間に胡麻豆腐は無くなってしまった。
「これで我慢しておでんを食べられるよ。葛原君の家はいつでもおいしい物があるから大好きよ。」
彼女は僕の手首をきつく握って、じゃあね、と言って出ていこうした。
「なつみさん」
後に続く言葉がなかなか出て来なくて、僕はしばらく無言でじっとしていた。彼女は不思議そうに首を傾げて、僕を見ていた。静止した空間の中で夕日だけが着実に落ちていった。もうすっかり薄暗かった。
「無理しておでんを食べる事はないよ。夕御飯を少し多めに作っておくから、後で食べにおいで。」
彼女は安心したように微笑むと、
「ありがとう。」
と言って帰っていった。
 その晩彼女は来なかったので、僕は多めの夕飯をひとりで平らげた。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:28| 【中編小説】夕闇にのぞむ窓辺 | 更新情報をチェックする
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