2007年08月17日

夕闇にのぞむ窓辺(その2)

 彼女とはバイト先の会社で出会った。今思うと奇妙な感じがするが、最初の頃、彼女は僕よりずっと年上だろうと思っていた。正規社員として事務用コンピュータの使い方や電話の取り方を教える様子は、長い事学生をやっている僕とは比べものにならないくらいしっかりしていた。
 彼女に対する認識がずれ始めたのは、会社の引越しの時だった。手狭になった古い社屋から隣の新しいビルに事務所を移すのに、会社は引越し屋を頼んでくれなかった。仕方なく社員総出で荷物を移動させる事になり、男性は机やコンピュータなど大型のものを、女性は書類や小物の詰まったダンボール箱を運び始めた。
 他の男性社員と一緒に本棚を動かしている間、僕は彼女と何度もすれ違った。そのうちに、僕はある事に気が付いた。彼女の腕に抱えられたダンボール箱が、他の女性社員の運ぶそれより数倍大きいのだ。薄茶色の大箱は、彼女の小さく華奢な身体をまるっきり隠してしまっていた。
 驚いた僕は、本棚を移し終えた後、すぐに彼女を呼び止めた。
「なつみさん、何でそんなに大きな箱を運んでいるの。二人で運ぶか、男の人を頼めば良いのに。」
彼女は初め、何を言われているのか分からないように、表情を失くしていた。
「もっと頑丈そうな人が沢山いるんだから。僕だって言われれば手伝うし。」
彼女はふっと何かを思い付いたらしく、自分のお腹や腕をさすった。
「私、もしかして、か弱そうに見える?」
「ええ。手とか足とか、全体的にほっそりしているし、身長も大きい方ではないでしょう?」
彼女は静かに笑った。
「十八の時に急に痩せちゃったもんだから、まだあんまり自覚が無いの。」
そしてその後、深い意味を持った彼女の笑顔を、僕は見てしまった。確かに笑ってはいた。けれどその目は確実に「助けて」と言っていた。一瞬、見なければ良かった、と思う程、彼女の瞳の光は強かった。涙が潮のように満ちて、すぐさますっと退いていった。
 冗談を言うような軽い口調で彼女は続けた。
「二、三ヶ月で十六キロも減っちゃうんだもの。驚いちゃった。男の子に振られただけなのに、馬鹿みたい。」
「拒食症になったの?」
「さあ、病院に行った訳じゃないから分からないけど。とにかくしばらくの間、ごはんを美味しく食べる事が出来なかったの。食欲が全然無くなってね、でもやっぱり体のために食べなくちゃ、と思って食べ物を口に運ぶんだけど、味がよく分からないの。大好物だったはずの物を食べても、何も感じなくなった。「おいしい」っていうのがどういう感触だったのか、思い出せなかったのよ。」
そう説明する彼女には先ほどまでの痛々しい感じはまるで無く、自分が体験した興味深い出来事をどうにか伝えようとする懸命さでいっぱいだった。
「もうそこまではひどくないんだけど、まだやっぱり調子の悪い時には同じような状態になる。元気な時でも食べる量はすっかり減っちゃったしね。昔は筋肉が沢山あって、とっても強そうだったんだから。今だって力持ちなのよ。」
そう言って彼女は、その日一日大きなダンボール箱を運び続けた。

 彼女が小説で賞を取った話は、バイトを始めてすぐ耳にした。僕と彼女が所属している部署の上司が、彼女がもらった賞金や、彼女の名前が新聞に載った事を、自分の事のように自慢していたのだ。
「でもあの人、私の小説読んでないのよ。」
それが当然であるかのように淡々と彼女は言った。
「なんだか社内で妙に騒がれちゃってね。でもその割にちゃんと読んだ人はいないみたいだから、良いんだけど。」
「僕、なつみさんの書いた小説が読みたいと思って・・・」
彼女は目を見開いて、僕の顔を見た。彼女の鳩に似た驚き顔に、僕の方が焦ってしまった。
「いや、みんなも読んだのかと勘違いしていたから、僕も話に遅れないようにと思ったのだけど。もし嫌なら別に構わないよ。」
「嫌じゃないのよ。読んでもらえるのはすごく嬉しいの。でもあんまり面白くないと思う。血沸き肉躍る冒険活劇とかじゃないし。それに、」
不意に彼女は言い淀んで僕から視線を逸らし、床に目を落とした。
「その方が良い。僕は静かな物語が好きだから。」
なら良いの、と微かに声を響かせて、彼女は小説が掲載された雑誌を持って来る事を約束してくれた。

 僕は彼女の小説を読んだ。
 確かに僕は彼女の小説を読んだ。一字一句洩らさずしっかりと、丁寧に。
 しかし。
「登場人物が、林の中でおしゃべりする」
 僕がはっきりと理解出来たのはそれだけだった。不安になって二度も三度も読み直したが、結果は同じだった。

 雑誌を受け取った次の日から、彼女はやたらに話し掛けて来るようになった。彼女が感想を聞きたがっているのは十分分かっていたが、僕はなるたけ小説の話を出さないように心掛けていた。けれど僕の努力も虚しく、とうとうお昼休みに僕は彼女に捕まってしまった。
 僕と彼女は食堂でカレー南蛮を注文した。
「わあ、おそろい。」
 熱い、辛い香りが、僕たちのテーブルに満ちた。二人が同じ料理を選んだのが嬉しかったらしく、彼女ははしゃぎながらうどんをすすった。
「ねえ、小説どうだった? ずっと気になって気になって仕方なかったんだけど、仕事が忙しくてなかなか話せなかったね。」
僕は軽い罪悪感で頭がぼんやりした。けれど何も答えずに薄ら笑いを浮かべている訳にもいかないので、どうにか小説に対する誉め言葉を絞り出した。
「舞台になっている雑木林の描写が綺麗だった。」
「近所の林を見ながら書いたの。そこはお話に出て来る雑木林よりずっと雑然としていて、人が入れるような場所じゃないんだ。でも、木々のざわめきや虫の声を聞く事は出来たから、そこから色々想像したの。揺れる葉と葉の間から覗く夜空の星は、流れ星みたいに見えるんじゃないか、とか考えたりして。」
「あとは、登場人物の描き方が上手だった。それぞれの個性が分かったよ。」
「わあ、それは最高の誉め言葉だよ。」
彼女が顔を赤くして喜んだので、僕の心はますます重くなった。僕は登場人物の違いを見分けられただけであって、彼らが何を訴えたいのかはまるで理解出来なかったのだ。
「あとは・・・」
僕が言葉に詰まると、彼女は引越しの時と同じように、少しだけ涙ぐんだ。僕は何とかして彼女が一番言ってもらいたいと思っている事を見つけたかった。けれど僕は彼女の期待に添えなかった。全然駄目だった。
「作品全体に漂っている雰囲気がすごく良かったよ。うん、どこがどうって上手く言えないけど、とにかく良かったよ。本当に。」
「そう」
彼女は悲しそうに笑って、カレー南蛮のうどんを割り箸で弄んだ。つゆに浮いた油が七色に光りながら、ゆっくりと丼を回っていった。
「葛原君って、文学賞の選考委員みたいな感想を言うのね。」
それは良い事なのだろうか、悪い事なのだろうか。少なくとも僕が「作品の中で最も重要な何か」を読み落としたのは確かなようだった。彼女はあからさまに落胆していた。僕と同じくらいに。
「授賞式の時、おめでたい席だから当たり前かもしれないけど、文章力とか、表層的な事はいっぱい誉められたの。でも、私が一番伝えたかった気持ちについては、誰も何も言ってくれなかったんだ。」
彼女は寒気に耐えるように両腕を抱えて縮こまった。うなだれた首はしばらく動かず、その表情を窺い知る事は出来なかった。
 僕は何も言わなかった。言えなかった。何か言わなければと気は焦ったが、気の利いた言葉どころか、打つべき相槌すら思い付かなかった。
 次の瞬間、急に頭を上げた彼女はぼんやりとした曖昧な笑顔を浮かべていた。風に吹かれる草のように、ゆったりと首を揺らしながら、つまずきそうな早口で彼女は続けた。
「私ね、かずちゃんに読ませるために、あの小説を書いたの。かずちゃんっていうのは、その、私を痩せさせた男の子なんだけど・・・・私達、恋人同士としてはとっくの昔に別れたの。でもまだ、変な形で関係が続いているのよ。」
「変な形?」
「私達、『友達』なんだって。」
破局を迎えた男女がその後どうなるかなど僕の知った事ではなかった。けれどかつて愛し合っていた二人の熱情が冷めて友情に変化するというのは、経験の浅い僕でも想像のつく、ごく自然な事のように思えた。
「良いんじゃない?」
「良くない。良くないの。私、『友達』って言葉大嫌いよ。世界で一番嫌いな言葉。」
彼女が耳まで赤くして怒るので、僕はまるで自分が責められているような気分になった。僕はまた黙った。
「かずちゃんったらね、なつみちゃんのためなら何でもするけど、愛する事だけは出来ないよ、なんて言うんだよ。ひどいと思わない?」
「さあ・・・」
僕がはっきりと同意しないものだから彼女はむっとして僕を睨んだ。僕は慌てて尋ねた。
「なんでその『かずちゃん』とやらはそんな事言うの?」
彼女は一瞬、力の抜けた悲しい顔をして、続けた。
「別れる時にお互い沢山傷つけ合ったから、もうそういうのが嫌になっちゃったんじゃないかな。私の何倍も、繊細で弱い人だから。」
彼女は何故かうっとりと酔ったような表情を浮かべていた。繊細で、弱い、「かず」という名の男。僕は何の感情も抱かずにその情報を反芻した。
「かずちゃんはそういう気持ちでも、私は別れてからずっと、かずちゃんと元通りになる事ばかり考えていたんだ。かずちゃんに対する愛情を消せなかったの。友達同士の間にある愛情ではなくて、恋愛感情としての愛情を。」
僕には恋愛に関する知識なんてほとんど無いのだから、そんな相談をされても何の役にも立たないよ、と言って、この話を切り上げてもらいたかった。けれど彼女の唇はもはや誰にも止められなさそうだった。気が付けば彼女はしっかりと僕の手首を握っていた。
「毎日悲しくて仕方なかったの。会えなければ寂しいし、会ったら会ったで恋人でないかずちゃんを見るのが辛いし、泣いてばかりいたんだ。泣きながら眠ると、ほどよく疲れてよく眠れるのよ。」
僕は毎日昼寝するせいでなかなか眠れないよ、と言いそうになったが、あんまり関係なさそうなのでやめた。僕はなるたけ真剣そうな顔で頷いた。
「そんな状態で何年も暮らしていたら、私の心も耐え切れなくなったみたいで・・・ちょっと病的な事を言うけど、変に思わないでね。」
彼女は恥ずかしがるような、自慢するような微妙な調子で、告げた。
「頭の中に、おじいさんが出て来たの。」
「おじいさん? 出て来るって、どんな風に?」
「何て言ったら良いのかなあ。思い浮かぶ、ってのに近いのかな? 姿が見えるんだよ。おじいさん、ぽつん、と一人で座っててね、いつも泣きべそかいてるの。それはそれは寂しそうなのよ。行って慰めてあげたくなるくらい。祖父は私が生まれるずっと前に亡くなっているし、親戚にも知り合いにもおじいさんなんていないから、多分実在の人物じゃないの。でもすごくリアルに悲しみが伝わって来るのよ。妙でしょう。」
僕はそこはかとなくぞっとした。これは聞いてはいけない話なんじゃないだろうか。戻る事の出来ない道に入り込んだ気分だった。けれどもう、僕は彼女から目を離せなかった。それを知っているかのように、彼女は僕の目を真っ直ぐに見て微笑んだ。無邪気な笑顔だった。
「そのうちにね、おじいさんに一生懸命話し掛ける女の子が現れたの。現れたって言っても、もちろん頭の中の話なんだけど・・・私は耳を澄まして、二人の会話を聞き取ったんだ。ちゃんと聞こえたのよ。その内容から、おじいさんが大切な人を次々に亡くして、それでも諦めきれずにその人達を待っているのが分かった。女の子はそんなおじいさんの事が心配でならないんだけど、幼過ぎておじいさんの悲しみを完全には理解出来ないの。そこまで見えたら後はあっと言う間よ。おじいさんと女の子の住んでいる世界が目の前に広がったの。色つき、匂いつきで。」
僕ははっとした。おじいさんと女の子、という組み合わせでようやく思い出した。それは彼女の小説の登場人物だった。
「それが、あの雑木林?」 
「そう。そこには二人以外にも人がいっぱいいた。それぞれに固有の性格があって、私が朝起きて、夜寝るのと一緒に、その人達も私の頭の中で生活を始めたの。ああ、今私すごい変な事言ってるねえ。」
僕は彼女が安心するように、大きく首を振った。病的だろうと何だろうと、彼女の存在は非常に興味深かった。自分と全く違う、他人の頭の中身を覗く面白さに、僕は興奮した。酔うように。
「頭の中で色んな人がおしゃべりしたり泣いたり笑ったりするものだから、現実の私の生活の方がお留守になっちゃってね、ぼんやりしてる時間が増えてきたの。なんとなくこれじゃいけないような気がして来て、その人達を外に追い出す事を考えたのよ。その別世界の記憶を消して、忘れ去ってしまう事なんてとてもじゃないけど出来なかったから、その代わりに紙に断片を書きつけたの。会話とか、風景とか、状況とか、人物同士の関係、どの人が誰に対してどんな感情を抱いているのか、とか。」
子供の頃から、小説を読むのは好きだった。けれど僕自身は小説を書こうなんて考えた事もなかった。僕にとって小説とは、完成された物語として、ぽん、と目の前に現れ、そして消えていくだけのものだ。作者の感情や、ましてやその作品の生まれる工程になど、全く関心がなかった。
 彼女の説明は、手品の種明かしに似ている。寂しがり屋の奇術師が、ただ楽しむためにやって来た客に無理やり秘密を暴露する。
「満足いくまで、頭と心がからっぽになるまで書いてみたら、すごくすっきりしたのよ。それに、書き終わって、それを読み直した時に気付いたの。この人達はみんな私だ、って。私の中の、寂しい気持ち、それを慰めて欲しい気持ち、諦めたい気持ち、諦めきれない気持ちが、我慢出来ないくらいに溢れて、人物という形をとって現れたのよ。本当は、かずちゃんを憎みさえすれば解決出来る簡単な問題なのかもしれないのに、人間の心って不思議ね。複雑ね。」
不思議なのはあなただけで、僕はもっと単純な暮らしをしているよ、と言いたかったが、やめた。彼女は僕を仲間として見ているような気がしたから。その安心感と幸福感に、僕はその錯覚がいつまでも続くように願った。
「最初はね、誰にもその文章を見せるつもりはなかったのよ。でも、どうしても、かずちゃんに読ませたくなっちゃったの。だってもともとは全部かずちゃんに対する気持ちから生じたものなんだから、伝えるべき人に伝えなきゃ意味が無い、って思ったんだ。読みやすいように断片を組み合わせて、不必要な部分を削って、明瞭でない表現があったら書き直した。かずちゃんの頭の中にも私と同じ風景が浮かぶように、雑木林を見に行ったりして、写実的に描くよう心掛けたの。努力したのよ、とっても。」
「うん。分かるよ。努力の跡を僕も見たよ。」
だからこそ、僕の脳裏には美しい景色が広がったのだし、各場面で何が起きているのかも理解出来たのだ。そう、見えるものだけ。
「でもね」
彼女は骨ばった指で僕の手首を強く絞めた。その力はぎりぎりと決して緩まず、僕は痛みを訴える叫びをのど元で抑えなければならなかった。
 怪力とは裏腹なか細い声で彼女は言った。
「かずちゃん、小説渡した次の日に、
『分からない。全然分からない。』
って言って来たの。あんなに頑張って書いたのに。自分がやった事は無駄だったんだと思って、それ以来小説書くのやめちゃったの。ううん、書けなくなっちゃったの。」
昼休みの終わりを告げるベルが鳴った。彼女は、あらこんな時間、と掛け時計を見ながら立ち上がった。彼女の横顔はすっかり元の事務員的な表情に戻っていて、正直僕はほっとした。その頃の僕は、「まともな」彼女の方が好きだったのだ。
 いかにも満腹であるようにお腹をさする彼女と一緒にテーブルから離れる間際、僕は何の気なしに彼女の丼に目をやった。
 彼女のカレー南蛮は、運ばれて来た時と同じ量のまま、残されていた。
 軽い眩暈と共に、彼女がはしゃぎながらすすっていた最初のうどん一本、おそらく最後の一本が僕の心を掠めた。と同時に、舌を噛むような不確かな発音で、彼女の言葉が耳元によみがえった。
 調子の悪い時
 おいしい、って感覚がどんなものだったのか、分からなくなるのよ。
 僕は流れ星が流れる間に三つのお願いをするのと同じ速度で、その日の午後のスケジュールを立てた。そして即座に実行に移した。
 まず、僕は嘘をついた。
「僕の家に、田舎から送られて来たきゅうりがいっぱいあるんだ。一人じゃ食べ切れないから、うちに来ない?」
「きゅうり?」
「そう。マヨネーズと味噌つけて食べるんだ。美味しいよ。」
 実際、心配性の母が定期的に届けてくれる大量の食料のおかげで、僕は平均的な一人暮らしの男よりずっと豊かな食生活を送っていた。けれど残念な事に、その日僕の家にあったのは金銀の和紙に包まれた無闇に高級そうなそうめん二箱と、即席のカレーだけだった。そのどちらもカレー南蛮を連想させて、断じて彼女は口にしない気がした。
 時間もなく、断るのが面倒だったのか、彼女はそっけなく、うん、と言った。
 僕は仕事が終わり次第すぐ自転車を飛ばし、駅前デパートに向かった。目的は地下食品売り場だ。僕はそそくさと持参したタオルで買った物を包み何かの競技に出場しているかのようなスピードで家に引き返した。
 近所のスーパーの四倍の値段のついたそれは、棘が多くなかなか理想的な形をしていた。
 そう、まさに絵に描いたような正しいきゅうりだった。これなら彼女も「田舎からやって来た」とすんなり信じてくれるはずだ。僕はほくそ笑んできゅうりを冷蔵庫に入れた。
 しばらくすると、少し迷っちゃった、と言いながら彼女が僕の部屋を訪れた。僕は西日の当たらない場所に座布団を敷いて、彼女を座らせた。彼女はきゅうりの支度をする僕をじっと眺めていた。
 ちゃぶ台に食事、と言ってもきゅうりと味噌とマヨネーズ、が整うと、彼女は僕が座るのも待たずにきゅうりに齧り付いた。そうしてすぐに、
「おいしい! こんなにおいしいきゅうりを食べたの生まれて初めて!」
と叫んだ。僕も慌てて彼女と同じようにきゅうりを齧った。
 本当に美味しいきゅうりだった。若い木の幹を思わせる程実が締まっていて、香りも濃縮されたように強かった。歯ごたえも味も、以前食べていたあの水っぽい緑の棒は何だったのだろう、という疑問が湧く位の凄さで、革命的と言っても誇張ではなかった。
 僕もこんなきゅうり初めて、という言葉をぐっと抑え、落ち着いた態度のまま彼女にもっと食べるよう勧めた。
 結局、僕と彼女は河童かキリギリスのように飽きるまできゅうりを食べ続けた。彼女は大いに満足し、僕もその幸福そうな顔を見て満足した。
 彼女の「通い」は、こんな風に始まってしまったのだ。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:27| 【中編小説】夕闇にのぞむ窓辺 | 更新情報をチェックする
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