2007年08月17日

夕闇にのぞむ窓辺(その3)

 今思うと、あの日彼女がカレー南蛮を残したのは食欲がなかったせいではなくて、ただ単にしゃべるのに忙しく食べる暇がなかっただけなのではないだろうか。それなのに僕は大枚はたいてわざわざきゅうり(しかも何故きゅうり?)を仕入れたりして、一体何をあんなに必死になっていたのだろう。
 あの時の事を考えると、小説と「かず」という男(本名は「和己」だと後で知った)の話をする彼女の悲しそうな目と、きゅうりを食べながら笑う彼女の顔が交互に思い浮かぶ。
 僕がした事は、たぶん間違っていなかったのだ。

「この間の胡麻豆腐のお礼に、おにぎり作って来たの。食べて食べて。」
 今日も彼女は僕の家にいる。
 僕は本業の論文書きに集中するため数ヶ月前にバイトを辞めた。それでも彼女は変わらず僕の家に通いつめている。彼女の態度にはますます親しみがこもり、舌足らずな話し方はさらに子供っぽくなっていく。
「なつみさんが作ったの?」
「ううん。お母さんとお姉ちゃんが作った。私は見てただけ。」
大きめの平たいタッパーを開けると、すっかり左側に寄って崩れている十個のおにぎりがそこにあった。どのおにぎりも事前に相談したかのようにぱっくりと口を開けており、そこから真っ赤なイクラが零れていた。米粒は赤い汁に浸り固形化の能力を奪われ、半分おじや状態だった。
「ありゃ、イクラをおにぎりに入れたのが間違いだったか。」
「それ以上に運搬方法に問題があったように思う。左を下にして来たでしょう。」
「うん。しかも自転車でガタガタやった。ガタガタ。」
どうしてこの人はこんなに考えなしなんだろう、なんて僕は考えない。もう慣れた。彼女は失敗を後悔せずに喜ぶのだ。この崩壊したイクラおにぎりにしても、赤い色は綺麗だなあ、なんて事を思っているだけに違いない。
「これじゃ手で持って食べられないね。」
と言って僕が箸を取りに行く間、彼女は「イクラおにぎりの歌」(作詞・作曲なつみさん)を歌っていた。どうやら「おあずけ」の状態でじっと待ってはいられないようだ。
「赤い目の玉のような〜 イクラ〜 口の中で〜 潰れなかったら〜 怖い〜 イクラ〜 しかもおにぎり〜♪」
僕は朱塗りの箸を彼女に差し出した。
「これでつついて食べよう。」
「わーい! イクラ〜 イクラ〜」
楽しかったのは最初だけだった。大量の(何と言ってもおにぎり十個分の米がおじや化しているのだ)赤々と染まったごはんばかりを食べ続けるのには限界がある。おまけにそのイクラは特別塩辛く、僕も彼女も「お米を粗末にすると目が潰れる」という古臭い倫理観だけを動力にして、黙々とおにぎり(だったもの)をつつき続けた。修行のようだった。
 元の三分の一の量になった所で彼女はおにぎりとの戦いを放棄した。僕はその後もかなりの奮闘ぶりを見せたが、やはり残り全てを胃に入れるのは諦めた。「食べ疲れ」と言っても良いような気だるさと、こなれない腹を抱えて、僕達は一言も口をきかずにいた。互いに別々の一点を無心に見つめて、身動ぎ一つしなかった。
 彼女は、窓のそばに座って空を見ていた。

 ようやく多少の活動ならしても良い、という気分になって来たので、僕は倒し気味にしていた姿勢を立てた。 
「なつみさんは家で料理作ったりしないの?」
彼女は外を見たまま答えた。
「全然。ぜーんぶお母さんとお姉ちゃんがやってくれるもの。」
「作りたいとは思わない?」
「危機感は多少あるのよ。だって大自然に例えるなら、私は狩りの能力がないのと一緒でしょ? 自分が暮らせるだけのお金を稼いで、自分が食べる分の食事を用意するっていうのは、動物がエサを獲るのと同じくらい基本的な事だと思わない? それが出来ないというのは、何かとんでもない欠陥なんじゃないかしらって、たまに、思うの。」
「そんな事言ったら、僕だって親の仕送りで生活しているし・・・」
僕は彼女が暗に僕のスネかじりを批判しているのかと思ったが、全くそういう気はないようだった。
「でも葛原君は学校を卒業すれば何かしらの仕事をするようになるんだから。そうしたらお金も稼げる、料理も作れる人間になるのよ。すごいわ! 完璧だわ! 羨ましい。」
「なつみさんも一人で暮らしてみたら? 嫌でも料理の一つくらい作れるようになるよ。」
「一人になったら私、何も食べなくなっちゃうよ。」
そんなの決まってるじゃない、という顔で彼女は笑った。
「問題は、料理を作る技術がないって事じゃないのよ。作ろうとする意欲がない事なの。牙があっても噛み付く気力がなかったら死んじゃうでしょ? そういう感じ、分からない?」
「うーん」
お腹が空けば、自然に食べ物を調達しようとするんじゃないか? と思うのと同時に、彼女には拒食癖があったんだっけ、と思い出す。まさか。ついさっきまで美味しくもないしょっぱいおにぎりをたらふく食べていたじゃないか。
「むかしはこんなんじゃなかったんだけどなあ。」
彼女は窓にもたれて目を閉じた。彼女がうっすらと目を開けるまでのほんの少しの間、日の落ちる気配だけが感じられる、静かな時間が流れた。
「かずちゃんと付き合っている頃ね、私も料理を作っていたんだよ。お姉ちゃんに頼んでオーブンを買ってもらって、バナナブレッドを何度も焼いたの。」
僕は彼女が和食しか食べないものと勝手に考えていたから、彼女の口から「ブレッド」なんて言葉が出て来た事に驚いた。
「随分なつみさんらしくないものを作っていたんだね。」
「私も菓子パンなんて大して食べたくなかったんだけどさ。ほら、ロマンチックで乙女チックな乙女だった私としては、愛する人に食べさせるものは、やはり横文字の名の付いた西洋菓子でなきゃならん! と思い込んでいたのよ。」
「そんなものかねえ。」
何の根拠があってそんな考えを持ったんだか、と僕は半ば呆れた。
「そんなものなの。」
少し強めにそう言ってから、彼女はこちらを向いて微笑んだ。西から射す強い日の光が彼女の頬に影を作った。
「それに、バナナブレッドは熟れ切ったバナナを大量に使うから、焼き上げた時、家中に甘い香りが立ち込めるの。バナナって、一分の隙もなく徹底的に甘いでしょ? イチゴとか柑橘類なら酸味が加わるけど、バナナにはそういうじゃま者は入らなくて、もうただただ甘いの。あとは腐っていくだけなんだな、って瀬戸際の、どうしようもない甘い香り。それがね、かずちゃんと私のいる空間に一番相応しく感じたの。」
彼女はまた外を見た。今度は頬杖をついて空に笑いかける。
「でもね、何度も挑戦したんだけど、何故か私が焼くと生地が膨らまないの。香りはもうもうと台所に満ちるのに、オーブンを開けてみると、かろうじて火だけは通ってる茶色いかたまりしか出来てないんだよね。そんな出来損ないかずちゃんに食べさせる訳にもいかないから、毎回全部自分で食べていたんだ。でもそんなのをしょっちゅう繰り返していたら、ある時とんでもない下痢になっちゃってね。もう、痛さのあまり起き上がる事も出来ないようなひどいやつ。それに懲りて、バナナブレッド作りはやめちゃった。」
じゃあ結局和己はなつみさんの手料理を食べられなかったんだ、と言おうとしたけれど、彼女の後姿があんまり寂しそうなのでやめておいた。
 本当はとってもとっても食べさせたかったんだよ。甘い甘い、二人の関係そのものみたいなお菓子。
 そういう声が僕にすら聞こえてしまうような、あからさまに悲しい背中。
「クッキーの方が良かったんじゃない? あれなら膨らませなくて良いから簡単だよ。」
「ああ、クッキーも作ったよ。でも歯が折れるくらい堅かった。」
料理の技術がない事が問題なのではない、と彼女は言うけれど、やっぱり技術だって相当重要なんじゃなかろうか、と僕は思った。何というか、料理には失敗を恐れる気持ちが必要なのだ。つぶす、混ぜる、こねる、焼く、と続く全ての過程で、「まあいっか」という適当な気持ちを出すと、小さな誤差が積もり積もって、最終的に大きな失敗を生む。彼女にはそれを回避するだけの几帳面さが欠けている・・・とそこまで考えて、仕事をしている時の彼女の姿を思い出した。彼女は事務員として飛び抜けて優れているという訳ではなかったけれど、何をしてもそつが無く、上司にもそれなりに信用されていた。一度たりとも仕事上の間違いで騒ぎを起こしたりしなかった。
「なつみさん、仕事はちゃんとこなせるんだから、料理だって練習すればいつか作れるようになるよ。」
「仕事だって慣れない内は大変だったよ。でも他の社員の真似をしていたら、いつの間にか覚えちゃった。」
「ほら。」
「ああでも」
思い出そうとするときの癖で少し上を向き、彼女は続けた。
「あの当時は希望に燃えていたから。私、結婚資金を稼ぐためにあの仕事に就いたの。そういうはっきりした目的があると、普段なら出せない力が出るじゃない。その勢いでどうにか乗り切ったんだよ、きっと。」
「結婚って、和己との?」
「もちろん。私もかずちゃんも結婚して一生連れ添うという未来しかないと思ってたの。だから一緒に住む部屋の間取りを絵に描いて、家具や電化製品の配置をどうしよう、なんて毎日話し合ってた。新婚生活のための買い物リストも作ったんだよ。結婚ってお金がかかるのよね。」
そんな命題について考えた事もなかったけれど、とりあえず頷いた。
「あと子供の養育費。私達、明日生まれるかのように赤ちゃんの話をしていてね、名前まで決めてたの。二人とも何でだか知らないけど『女の子が生まれる』って信じていたから、女の名前なんだけど。」
「へえ、何て名前?」
「内緒。」
素早い答えだった。
 赤ん坊の名前なんて知りたくでもなかった。ただ僕は、彼女が言いたくて仕方ないようだったから、聞いたのに。
 内緒。
 その排他的な響きに僕は少しむかむかした。けれど僕の気持ちになんてまるで気付かずに、彼女は思いにふけっていた。
 僕なんて最初からいてもいなくても同じだったのだ。
 彼女の話を聞き取れる耳さえ付いていれば、僕でなくても、誰でも。
「葛原君って良い人ね。」
その言葉に起こされるように我に返ったので、すぐには意味を理解出来なかった。え? という顔をしていると、彼女はゆっくりと大きな声でもう一度繰り返した。
「葛原君って、良い人ね。」
良い人なんかじゃない。ただ、あなたに良い人だと思われたいだけだよ。そんな答えが浮かんだけれど、口には出さなかった。
「何で? 何でそう思うの?」
「かずちゃんの話を怒らず聞いてくれるから。」
「別に怒る必要ないし。」
さっきのむかむかを忘れて僕はそう言った。
「女の子の友達で、かずちゃんの話をすると怒る人がいたの。
『なつみは昔の彼氏の話ばかりして、新しい恋愛をしようとしない。過去に執着してないで、もっと素敵な人を見つける努力をしなきゃだめだ。』
って、私を叱るの。」
しごく真っ当な意見だ。と思ったが言わなくて本当に良かった。彼女はこう続けたのだ。
「私、その友達とは連絡取らないようにしたの。だって、かずちゃんの話が出来ない人となんて、会う必要ないもんね。」
同意を求めるように目を細められても、僕は呆然とするばかりだった。
 親切心?
 おせっかい?
 その友達が何故彼女を叱ったのかは分からないけれど、自分の「友としての存在理由」がそこまで軽いとは、全く考えもしなかっただろう。
 彼女は笑っていた。
 彼女はいつだって、どこででも、悪気なんてないのだ。
 僕は、背骨がひっそりと冷えるのを感じた。
「葛原君は、ハトおじさんになる!」
彼女は僕の鼻をまっすぐに指差して突如叫んだ。
「びっくりした・・・。急に大きな声出さないで。」
「今ぱっとひらめいたのよ。予知能力がある巫女みたいに、葛原君の未来がはっきり見えたの。葛原君はハトお兄さんから、立派なハトおじさんに成長し、その後ハトおじいさんとして惜しまれながら死んでいくのよ。」
「そんな。大体がハトおじさんって何?」
「真昼間に公園とかで鳩にエサあげてる人よ。何でこの人はこんな時間にこんな場所でパン屑撒いてるんだろう? 仕事に就いてないんだろうか? っておじさん、たまに見かけるでしょ?」
「うーん」
僕は不服である事を表現するために大きく唸ってみせた。
「僕はもうちょっとまともな職業を選ぶつもりなんだけどなあ。」
「職業っていうのはどうやってお金を稼ぐかではなくて、生き方の問題なのよ。たとえあなたが高給取りのお偉いさんになったとしても、忙しい商売の合間を縫ってハトにエサをあげ続けるはず。そうよ、そうに違いない!」
そこまで自信たっぷりに断定されると、僕がこれから先どんな努力をしても、結局はハトおじさんとして一生を終える事になる気がして来た。いくら画期的な論文を発表したとしても、もっと年を取って社会的に高い地位を手に入れたとしても、僕は他人からハトおじさんとして認識され、ハトおじさんとしての自分を常に意識しながら生きるより他ないのだ。
 いやもっと言えば、僕はとうの昔からハトお兄さんとして暮らしていたのかもしれない。ただその言葉を見つけられず、気付かなかっただけで、僕はずっと前からハトお兄さんだったのだ。ハトお兄さん・・・。
「大丈夫?」
彼女は、それこそ鳩みたいに目を丸くして僕の顔を覗きこんだ。
「う、うん。」
僕は気持ちを落ち着かせるために大きく息をした。
「自分はどこから来て、どこに行くのか。一度きりの短い人生をいかに生きるべきか。というような日頃なるべく考えないようにしている問題が頭を駆け巡って、くらくらしてしまった。」
「そういう重要な事柄は日夜時間をかけて考えておいた方が良いわよ。でないときっと後で困る。」
心配そうに彼女は僕に助言した。
「とりあえず今のところ僕には鳩にエサをあげる習慣なんてない。」
「そんな習慣持っちゃ駄目。きっと鳩にエサあげるのって楽しいのよ。癖になったら大変なんだから。人間も、鳩も。」
微笑む彼女から目を離して外を見ると、日がすっかり傾いていた。僕の目線の動きで彼女もすぐにそれを察知し、慌てて窓の外に身を乗り出した。
「綺麗な夕焼け!」
その太陽は、燃えるような、と形容するにはあまりにも光が鋭過ぎた。それは遥かに遠い場所で起きている爆発だった。爆音も聞こえず、爆風も届かず、閃光さえも僕達を完全には照らさない、静かな、永遠に止まぬ爆発だった。
「空の色が赤くなるのはまだ納得いくのよ。でも何で夕暮れ時には空気にまで色が付くのかしら?」
僕の心には声にするだけの価値のある答えがなかった。それに彼女はいつでも何か尋ねるように語尾を甘く上げてしゃべるけれど、本当は答えなんて全く必要としていないのだ。
「不思議ねえ。」
僕がずっと黙っていれば、彼女は幸せそうな笑顔を見せてくれる。僕がただ、彼女の傍に佇んでいれば。
 けれど僕は、つい、口をきいてしまった。
「なつみさんは何になるの?」
「え?」
彼女は怯えた瞳で僕を見た。
「何って、私はもう事務員だよ。何になるもないよ。」
「職業っていうのは給料を稼ぐ方法ではなくて、生き方の事なんでしょ? なつみさんはこれから先もずっと事務員として生きるの?」
彼女はうつむいて、分からない、と呟いた。
「小説家になろうとは思わない? そのために賞に応募したんじゃないの?」
「賞に小説を出したのは本当に偶然だったんだよ。かずちゃんに小説突っ返されたすぐ後、会社に置いてある新聞に文学賞の作品募集の記事が載っているのを見つけてね、ヤケで送っちゃったの。どうせ受かるわけないと思っていたし、せっかく時間をかけて書いた物をただ捨てるのも嫌だったから。」
彼女は空中の一点を見つめたまま黙った。彼女は次に出すべき言葉を慎重に選んでいるようだった。何度か口を開きかけては躊躇って言うのをやめるので、彼女が話そうとしている内容が彼女にとってどれだけ大切であるかが僕にも伝わって来た。
 しばらくして、彼女は決心したように僕の方に勢いよく振り向いた。
「頭の中に自分でない誰かが出て来て勝手におしゃべりする現象は、子供の頃からずっとあったんだ。何かを我慢したり、誰かを憎みそうになった時に、新しい『誰か』が生まれる事が多かったように思う。要は、私なりの感情の処理方法だったんだよ。それ以上でもそれ以下でもない。今回初めてそれを文章にして、小説みたいにまとめて、賞まで取って確かにとても良い気分ではあったけれど、それを職業にすべきなのかは分からない。ただ一つ確実に言える事は、」
彼女は一瞬、動きも、言葉も、息さえも止めて、一心に僕を見つめた。
 僕は助けられないよ。
 僕は助けられないよ。
 僕は念仏みたいに何度も心の中でそう繰り返して、彼女から目を背けた。
 彼女はさっきよりずっと小さな声で、続きを言った。
「確実に言えるのは、小説なんか書かなくても満たされる生活を送れたら、それが一番幸せだという事だけ。かずちゃんが隣にいた時は、私も現実世界で生きていたのに。現実だけを見て、それだけで満足していたのに。」
 僕は夕影に焼かれてすっかり赤く染まった部屋の中で、馬鹿のように突っ立っているより他なかった。
 僕を見つめる彼女の瞳が潤んでいるように見えたのは、単に目のふちが夕日に映えていただけだ、と思い込もうと努力しながら。

 それからも、彼女は何度となく僕の部屋に訪れた。そうして飽きもせず、彼女は僕の家の食料を消費し、和己の話をし、辺りが暗くなってから、いけない、いけない、こんな時間、と慌てふためいて帰っていった。
 僕は彼女からうんざりする程和己の話を聞いた。
 二人が付き合っていた頃、お金がなくて遠くに行けず近所の図書館に入り浸り、いくら声を潜めておしゃべりしても彼女は必ず辛抱出来ずに大声で笑ってしまい、その度司書のおばさんに叱られていた話。
 いつも一つのアイスクリームを二人で分け合って食べていた話。そしてある時馴染みのアイスクリーム屋さんが店を閉める事になり、その最後の日に特別サービスしてもらったラムレーズンアイスの量と甘さと香りについて。
 夜の公園でデートしていたら、十人くらいのおじさんがわらわらと集まって来て円陣を組んだ話。意味が解らずとても怖かったそうだ。
 挙げるときりの無い些細な話ばかりだ。それは僕を楽しませようとする行為ではもちろんなく、彼女は一人で話し、一人で懐かしみ、一人で笑うのだった。
 彼女は和己がアレルギー性鼻炎の治療のために飲んでいた漢方薬の名前まで僕に暗唱させた。
 彼女は僕に記憶を共有してもらいたいのだと思った。和己との幸福だった過去の記憶を。彼女がそう望むのなら、と、僕は彼女の記憶を記憶した。
 しかしそれは違うというのが徐々に明らかになっていった。
 彼女はこう告白した。
「かずちゃんの話をしていると安心するの。今の私は完全に独りぼっちなのに、かずちゃんがいないのが嘘みたいに思えるから。『かずちゃん』って言葉は私にとって呪文なの。泣かないで、笑って過ごすためのおまじない。ねえ葛原君には分かる?『いない』っていうのがどんな意味なのか。かずちゃんは今日も私の知っている場所でちゃんと生きているのよ。会おうと思えばあの人は優しいからきっと会ってくれるのよ、でも。それは私の欲するかずちゃんじゃないの。私は私と恋人同士だったかずちゃんにしか会いたくないの。私を愛していないかずちゃんなんて、存在していても私にとって何の価値もない。ねえ、葛原君、私に夢中だったかずちゃんはどこにいるの? どこに行ったら会えるの? 葛原君、ねえ、教えて、お願いだから教えて。私どうしてもかずちゃんに会いたいの。それでもう一度私を真剣に見つめて欲しいの。これが叶わなかったら私生きていけない。私をかずちゃんに会わせて。私だけのかずちゃんに。かずちゃんさえいれば、私他に何もいらないから。何も、何も。」
posted by 柳屋文芸堂 at 10:26| 【中編小説】夕闇にのぞむ窓辺 | 更新情報をチェックする
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