2007年08月17日

夕闇にのぞむ窓辺(その4)

 ある日の事、もう日が暮れ掛かっていて、さすがに今日はなつみさんも素直に家に帰っただろう、などと考えている時。入り口の方から小さな物音が聞こえて来た。衣擦れのような響きと、微かなドアの振動。そして動物の鳴き声に似た、物悲しい掠れた音。
「なつみさん?」
彼女がこんなに慎ましく登場するはずがない、と思いつつも、僕には他に誰も来客の当てが無かった。
「こんな時間にどうしたの? もう日も落ちるよ。」
いくら呼びかけても何の反応もなかった。僕は仕方なく立ち上がり、痺れた足を振りながら戸に向かった。
 ドアを開けてみると、予想通り彼女が立っていた。しかしいつもの明るい笑顔はそこにはなく、彼女は口を開けたままどこか分からぬ一点を見つめ、放心していた。
 そして頬には太い涙の跡が乾き切らずに残っていた。
 僕は驚いた。と同時にすぐ思い当たった。和己。彼女をこんな姿にするのは奴しかいない。僕は彼女に声を掛けたいと無性に思った。優しい言葉で彼女を慰められたらどんなに良いだろう、と。けれど当然僕にそんな高等技術があるはずもなく、ただただ彼女の前に立ち尽くした。困惑の色だけを発散させて。 
 そんな僕などまるでいないかのように無視し、彼女はすっと僕の部屋に入っていった。足音はなく顔の生気もすっかり抜けていて、その動きは限りなく幽霊に近かった。そしてその雰囲気を纏ったまま折り畳んであったちゃぶ台をてきぱきと開いて立てたから、僕は可笑しくて笑いそうになった。首から上の死人の顔とその下の働き者の身体がひどく不釣合いで、それはとても彼女らしい事に思えた。
 彼女は自分で敷いた座布団に、水中に飛び込む時の勢いで腰を落とした。
 僕がそろそろと臆病な足取りで近寄って行っても、彼女は全く僕に関心を示さなかった。彼女は一体どこを見つめているのだろう。彼女の視線は一つの位置に縛られ固定されていたけれど、その目標となるべきものはどこにも見当たらなかった。
 何も見えてはいないのかもしれない。
 幸福だった和己との日々の中のある一点を見つめているのかもしれない。
 あるいは、幻を。ありもしない彼女の中の幻を。
「はだかになったの。」
「え?」
彼女が急に言葉を発したのでつい僕は聞き返してしまった。
 彼女は再び黙り込んだ。瞳は何も映さずに、淀んだ沼の静けさで、僕には見えない何かに向けられている。頑なに。
 僕は彼女を見た。見つめる事しか出来ないと分かったから、それはもう強く強く、僕の眼差しで彼女が焼けてしまえば良い、と思う程、彼女を見た。
 僕は彼女を見る。彼女は幻を見る。
 必死で別々の場所を見る二人。
「かずちゃんに、会って来たの。会わないって決めていたのだけど、どうしても耐えられなくなって、行っちゃった。怒られるかと思ってドキドキしたのに、かずちゃんは嘘みたいに優しくしてくれたの。私、嬉しくって嬉しくって、一生懸命かずちゃんの身体を触ったの。大好き、大好きって口でも言っていたかもしれないけど、とにかくこの気持ちが私の指先からかずちゃんの全身に広がっていくように、大好き、大好き、って伝わるように、心を込めて触ったの。」
ずっと動かずにいた瞳から、数粒の涙が流れ出た。悲しくて泣いたと言うよりは、和己への思いが溢れほとばしったように僕には見えた。
「そうしたらかずちゃん、私をはだかにしてくれたの。私は何年か振りに幸せな気持ちになって、かずちゃんに抱きついたの。とっても安心した。もう一生手に入らないと思っていたよ、あんな安らかな心地。」
彼女は涙を手で拭って、少し笑った。そして近くにあった箱入りのちり紙を引き寄せ、大きな音を立てて鼻をかんだ。僕は彼女がすぐに泣きやむのだと思った。
「でもね。」
彼女はようやく僕を見た。僕は油断していた。彼女がこんなあっさりした報告で満足するはずがないのに。
 涙に滲んだ目の縁。その周囲は赤くうっすらと腫れ上がって、睨むように僕に焦点を合わせようとしても、溜まった涙に光が反射して視点が泳ぎ定まらない。
 ごめんね、だから僕には何も出来ないって。
 彼女はぐっと僕の服を掴み、ぼろぼろと泣き始めた。
「全部終わった後で、かずちゃんは私を可哀相なものを見るみたいな目で見たの。ねえ、私って可哀相なの? 葛原君も私が可哀相だと思う?」
確かになつみさんも可哀相だけど、僕もかなり可哀相なんじゃないだろうか、と思いながら戸惑っているうちに、彼女の泣き方は激しくなっていった。言葉は叫びに変わり、その声は瞬く間に幼児の頃に戻っていく。
 目の前でしゃくり上げる彼女はもはや、幼稚園の門の前でぐずる園児とそう違わなかった。こんなに大きくなったのに、どうしてこんなに泣かなければいけないのだろう。しかもわざわざ自分から、自分を苦しめるであろう状況に飛び込んで行くのだろう。
 僕は居た堪れない気持ちになり、気が付けば眉間に皺が寄っていた。とにかくどちらの方向でも良いから、彼女から少しでも離れられる場所に移動したかった。僕はじりじりと後退り、ある程度進んだらひらりと身を翻して、冷蔵庫に駈け寄った。
 扉を開け、薄明かりの中雑然と並べられた食品を見ると、僕は多少落ち着きを取り戻した。そこには日常があった。好ましい、平坦な生活が。弱い照明は暖かささえ感じさせた。しかしそんな事はもちろん錯覚で、冷蔵庫からは冷ややかな風が乱れもせずに送られて来た。僕は寒気に身を震わせ、温泉玉子の六個入りパックを掴み戸を閉めた。温泉玉子がどんな物なのか一度食べてみたいと言っていた彼女のために、用意しておいたのだ。
 温泉玉子の正しい食べ方を僕は知らない。いつも付属のだし汁と一緒に温かいご飯にかけて、つまりは生玉子と同じ扱いで食べてしまうのだが、もしかしたら温泉玉子発祥の地(温泉街か?)に伝わる正統な「温泉玉子道」では禁止されている手なのかもしれない。けれど僕はこの食べ方が好きだった。生玉子より温泉玉子の方がずっと好きだった。彼女が温泉玉子を知らないと聞いてから、早く彼女に食べさせたくてむずむずと体がかゆくなったくらいに好きだった。
 温泉玉子を食べさえすれば彼女はたちまち元気になるだろう。そんな事はあり得ないと分かっていながら、昔から病人には玉子を食べさせると言うじゃないか、などと納得して。
 僕は小鉢と御飯茶碗を二つずつ用意した。彼女に聞いてみよう。そのまま食べる? ごはんにかけて食べるともっと美味しいよ、と。
「なつみさん」
 振り向くと、そこに彼女はいなかった。
「トイレかな?」
呼び掛けるように独り言を言いながら食器と温泉玉子をちゃぶ台まで持って行ったが、返事はなかった。いつの間にか彼女の姿は部屋から消えていた。僕はそれ程深刻に受け止めずに、二つの小鉢に温泉玉子を割った。
 その時。
 突然だった。背中に何かが勢い良くのし掛かり、全身を使って力強く僕の身体を締め付けた。細い腕を見てすぐそれがなつみさんだと判ったけれど、その行動の意味が分からなかった。
 何か呼び掛けようにも声が出ない。傍からすれば僕が彼女をおんぶしているのん気な光景のように見えるのだろうけれど、彼女の力の入れ具合は尋常でなかった。
 僕の体には彼女の全体重と全ての力がかけられた。その重さ。その軽さ。僕は彼女が予想以上に痩せているのを知り驚いた。僕の背と腕は彼女の骨を鋭く感じ、その硬さは痛みとして苦しく僕に伝わった。そしてその感触は僕の中にあった幻想を一瞬で打ち砕いた。
 女性的なもの、という幻。

 やわらかい
 あたたかな
 やさしい

 おおらかな
 ゆたかな
 あかるい

 幸福な
 
 意識が遠のいていった。僕を地に立たせ、動かし、考え感じさせていた生の気力とでもいったようなものが、軟弱にも簡単に消えていくのが分かった。僕は無に向かっていた。明日もなく今もなく過去もない。無へ。
 完全に気を失う一歩手前、彼女は両腕の力を緩めずに僕の耳に唇を押し当てた。そしてそのまま低い掠れた声でつぶやいた。
「葛原君くらい私によくしてくれた人はいなかったよ。でも、葛原君もかずちゃんと一緒。」
 つかれちゃった。
 その瞬間、宙に浮くように体が軽くなった。そして目の前に現実の部屋の風景はなく、僕はほのあかるい光に包まれていた。薄紅がかっただいだい色の、優しく温かな光だった。僕は最初、夕日の中に飛び込んだのかと思った。四方八方を夕焼け空に囲まれて、囚われたような心持ちだったから。しかしすぐに気付いてしまった。光に浮かぶ無数の傷に。刃物で作った切り傷のような、幾百、幾千かの白く細い筋。そこからは強い光が漏れていた。傷は光り輝いて僕に訴える。この痛みを知りなさいと訴える。
 これは彼女の心だ。色と光を持った心の形だ。その考えは奇妙にしっくりと僕の奥底に収まった。
 どうして空気にまで色が付くのかしら。
 どうして心にまで色が付くのかしら。
 どうして心には傷が付くのかしら。
 どうして?
 ねえ、どうして?

 目を開けると、部屋はすでに真っ暗だった。そして今度こそ本当に彼女は消えていた。
 ちゃぶ台には割ったままになった温泉玉子二つが置かれ、残りの四個は冷蔵庫に返されていた。
 仕方なく、僕はその割られた二つで夕飯を食べた。
 なつみさん、温泉玉子くらい食べて帰れば良かったのに。

 次の日も、僕は温泉玉子で夕飯を食べた。
 残りは三つ。

 次の日も。残りは二つ。

 次の日も。残りは一つ。

 次の日も。空になったパックを捨てて、もう一パック買いに出た。どうも凝ってしまったようだ。

 体に悪いのを承知で二つ食べてしまった。

 だから次の日は一回休み。

 その次の日もまだ飽きない。残りは三つ。

 次の日も。残りは二つ。

 次の日も。残りは一つ。

 最後の一つをご飯にかけて、さあもう一パック買うか、しばらく玉子は控えようかと悩むうち、
 ふっと。
 最近なつみさん来ないな、と思った。
 確かに最後に訪れた時の様子は奇妙だったが、僕はそれ程気にしていなかった。奇妙と言えば彼女のやる事なす事僕にはいつも不可解だったし、何をしたって当然と言えば当然だった。
 僕は本当に気にしていなかった。



 幾日か経っても彼女は来なかった。



 彼女は来ない。



 ずっと来ない。
 さすがに少しむずむずして来た。温泉玉子もまだ食べさせてない事だし。



 追憶の中の言葉。
「付き合い始めの頃にかずちゃんは言ったの。
『ずっとずっとなつみちゃんの事を好きでい続けるよ。たとえなつみちゃんが心変わりをして他の誰かを好きになったとしても、僕はいつまででもなつみちゃんを好きでいるよ。』
 だからかずちゃんが私を好きでなくなった今も、私はかずちゃんを愛し続けるの。」
 矛盾している、と思いつつ上手く指摘出来ない。



 鳩の夢を見た。
 雲も太陽もない、ただ青いだけの空の下、鳩が群れをなして蠢いている。一羽として羽ばたくものはいない。目的があるのかないのか、ただせわしなく首と足を動かしている。



 夢だとばかり思っていたけれど、もしかしたら夢ではないのかもしれない。



 鳩。灰色の鳩。まだらの鳩。歩く歩く。どこに行くのやら。



 鳩と空の像が常に頭から離れない。この鳩のいる空間が、彼女が言うところの
「自分でない誰か、の生まれる場所」
なのだろうか。
 たとえそうだとしても、僕の中で物語は育たない。
 ただ鳩がぽつぽつ歩くのみ。



 頭の中の鳩を眺めていたら、急に血の気が引いた。
 思い出してしまったから。
 僕が鳩おじさんになれない事に。
 幼稚園に上がるより前、僕がほんの小さな子供だった頃。僕は公園の鳩と遊んで高熱を出し、三日三晩寝込んでしまった。鳩が悪かったのか鳩の立てた埃が悪かったのか、原因不明のまま母親から鳩遊び禁止令が出された。
 それ以来、僕は鳩に近付いていない。
 これから先も、永久に鳩には近寄れない気がする。
 何となく。



 背中が寒い。
 彼女が部屋から消えたその日から感じていたのだが、気付かぬ振りをしていた。しかしもう誤魔化せない。彼女の身体がかぶさった部分に、すうすうと風の吹き抜けるような心地がする。彼女の骨が当たった痛みもまだ残っている。
 四六時中、彼女と身体を合わせたままのような気持ち。



 鳩の交尾を見た事がある。
 雄しべと雌しべの性教育を受けるより前の何も知らない頃だったから、小さな鳩に乗りかかってばさばさと激しく羽を羽ばたかせる大きな鳩を、意味も分からずじっと見つめた。
 はじめ、下になった鳩がいじめられているのかと思った。もしそうならすぐに助けよう。熱を出したって良いから。お母さんに怒られたって構わない。そう決意しても、どうもその二羽には近付き難い雰囲気があった。側にも行けず、かと言ってそこから離れる事も出来ず、僕は最後までただ、見ていた。
 ひとしきり羽ばたき終わると、大きな鳩は小さな鳩からぴょんと飛び下りた。
 小さな鳩は押しつぶされたままの形でうずくまった。大きな鳩も数歩歩いてすぐ立ち止まり、自分の羽の中に首をうずめて座り込んだ。
 二羽はそのまま動かなかった。
 僕も動けず、いつまでも見つめ続けた。



 鳩が飛び立つ。音立てて。
 灰色の羽に隠された、白い翼を、見せて。



 このままでは頭がおかしくなる。そう感じたのは、彼女の使っていた食器をちゃぶ台に並べ、彼女に関わる物品がそれしかない事に愕然とし、彼女が前は何日置きに訪れていたかを思い出そうとしてちっとも覚えてない事に茫然とし、あるはずもない彼女の持ち物か残した物を探そうと家中の引き出しを全て引き抜いてしまった時、だった。
 体調に乱れはなかった。論文書きも順調に進んでいた。それでも体の中から突き上げて来る強い不安感が、僕の行動を狂わせていた。頭の中では常に鳩が舞っていた。
 本当の事を言うと、彼女が残したのは食器だけではない。一つ重要な物を彼女は持ち帰り忘れた。いや、多分わざと置いたままにしたのだろう。
 それは、例の小説の載った雑誌だった。彼女がしょっちゅう来ていた時には、いつでも返せると思って本棚にしまったままにしてあったし、たまにふと思い出していつまでも返さずにいるのを詫びると、
「もういらないものだから。」
などと言って笑うので、僕は返しそびれてしまった。
 小鉢や朱塗りの箸よりも、よっぽどこの雑誌の方が彼女に関わりの深い物だったが、僕は意識的に避けていた。彼女の書いた文章がぎっしりと両ページに詰まっているかと思うと、恐怖で背表紙に手を伸ばす事すら出来なかった。
 けれどもう限界だった。
 鳩が青空の高い所をくるくると回るように飛んでいた。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:24| 【中編小説】夕闇にのぞむ窓辺 | 更新情報をチェックする
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