2007年08月17日

夕闇にのぞむ窓辺(その5)

 僕は彼女の小説を読んだ。再び。
 読んでいる間中、身体の震えが止まらなかった。最初の印象とのあまりの違いに、僕は思わず作者の名前を何度か確かめた。もちろんそれは間違いなく彼女の小説だった。
 一般の小説同様、その文章の中には数人の登場人物と緩やかな話の筋があり、かぎ括弧でくくられた会話が連ねられていた。けれどそれは小説の形だけを真似ているように僕には見えた。
 そこには、彼女がいた。
 丁寧に描かれた雑木林や夜空の下には、独りぼっちの彼女が立っていた。おじいさんの姿をしていても、女の子の姿をしていても、それらは全て彼女だった。言葉遣いが、悲しみを伝えようとする直接的で不器用な行動が、全て彼女のものだった。そしてどの場面にも、無理しているような明るさが立ち籠めていた。それこそまさに、彼女を、なつみさんを、なつみさんとして存在させている雰囲気だった。言葉を選びながら懸命に語りかける彼女の声が、目の前に聞こえるようだった。
 僕は何度も読み返した。彼女がそこにいたという事を心に刻み付けるように、繰り返し繰り返し読んだ。
「ねえ、チャイム壊れてる?」
入り口の方で男の声がした。雑誌から顔を上げてそちらを向くと、一瞬の躊躇の間を置いて、二、三度ドアを叩く音がした。戸にくぐもって分かり辛かったが、それは少し上擦った、見知らぬ男の声だった。
 中途半端な返事をし、ドアを開けると、そこには痩せた、色白の、背の低い男が立っていた。その男は僕の顔を一つも見ずに、じっと呼び鈴のボタンを睨んでいる。
「直さないの?」
「ここに来た時から壊れていたから。」
「直さなかったらずっとこのままだよ。」
「そうだね。」
その受け答えに不満だったのか、男は僕をちらりと睨んだ後、右手の人差し指を左手で包んだ。ここに来る人間が誰でもやるように、鳴らない呼び鈴を何度も鳴らしたのだろう。
 男は脇に挟んでいた大学ノート位の大きさの茶封筒を差し出した。
「これ、なつみが置いていった。」
それだけ言って帰ろうとするのを、僕は襟を掴んで引き止めた。
「なつみさん? え? いつ来たの?」
「昨日かな。郵便受けに入っていたからはっきりとは分からない。」
男は迷惑そうに振り返り、答えた。彼が渋々そこに留まったのを確認し、僕は急いで茶封筒の中身を空けた。入っていたのはホチキスで綴じられた、手製の白い冊子だった。そしてその表紙には、「かずちゃんと、葛原君へ」と小さく記されていた。
 僕は彼の顔を見た。薄々そんな気はしていたけれど、どうやらこの人が「繊細で、弱い、和己という男」であるようだった。そう言われてみれば、彼は鼻炎の人特有の鼻にかかった高い声をしていた。彼女が説明した通り、朝、昼、晩と毎食前にアレルギー性鼻炎に効く漢方薬を飲んでいるのだろう。しかし外見は、彼女の見解とは多少異なっているように僕には見えた。細い手足は確かに貧弱そうな印象を与えたけれど、やつれ浮き出た頬骨には、繊細と言うより神経質な感じを受けた。
 物言いは強気なのに、たまに怯えたような表情を見せる所が、彼女に似ている気がした。体つきは彼女にそっくりだった。
「小説みたいだよ。自分で書いた。」
彼にそう言われて冊子をぱらぱらとめくってみると、世間の小説と同じように、全ページが文字で埋められていた。僕は背筋に寒気を覚えて一行も読まずに閉じた。
 今にも帰りたくて仕方なさそうな男の袖を掴まえて聞いた。
「読んだ?」
「読んでない。前の小説も読まなかったし。」
なつみさんの話と違う。僕が不審そうな顔をすると、彼は答えた。
「読まなくたって何が書いてあるかだいたい分かるよ。どうしてこういう無駄な事をするんだろう。」
軽くため息をついて彼は続けた。
「全然分からない。何をしたって、もうどうにも出来ないのに。」
今度こそ本気で帰ろうとドアを開けかけた彼を見て、僕は焦った。何か言わなければ。なつみさんが毎日毎日僕に語っていた事を、彼に伝えなければ。
 僕は未練たらしい女のように、彼の上着を強く引っ張った。
 彼は不機嫌に、気持ち悪そうに立ち止まった。
「何?」
「どうしてなつみさんとよりを戻してあげないの? なつみさん、いつもあなたの事ばかり話していたよ。」
「僕の所では君の話ばかりしていたよ。」
不意をつかれて僕がぽかんと口を開けると、彼は僕を馬鹿にするように軽く笑った。
「家に来ては『葛原君、葛原君、葛原君』ってあんまり騒ぐから、そんなにその男が良いならそいつの恋人にしてもらえって言ったんだよ。そうしたら『葛原君はそういう風に私を見てくれない』って泣かれて、困った。」
「大変だったんだね。」
我ながら妙な返事だったが、それ以外に何を答えたら良いんだろう。
「十八歳のかずちゃんを出せって泣き喚かれたり、急に『気分が悪い』って言い出して、トイレでげえげえ吐かれたり、まあ色々とね。」
「でも」
混乱したまま僕は言った。
「あなたなら何とか出来たと思う。」
「それじゃあ聞くけど。」
言葉に怒りを含ませて、彼は言った。
「君はなつみちゃんを幸せに出来たの?」
入り口の向こうとこちら側、僕と彼のいる空間が、しんと静まった。この静止した感じには覚えがあるな、と思う間もなく、彼はあいさつ一つせず身を翻し帰っていった。
 手許には彼女の新しい小説だけが残された。

 僕はその小説をちゃぶ台に置き、じっと見つめた。
 僕はこの小説を読むだろう。今すぐには無理だけれど、きっとすぐに読まずにはいられなくなるだろう。読んだ後僕はどうなるのだろう。変わるのだろうか。学生としての生活には全く乱れを与えないまま、僕の根本がぐらりと揺らいでそのまままるで違ったものに変えられてしまうのだろうか。
「『いない』っていうのがどんな意味なのか、葛原君には分かる?」
彼女の声が耳によみがえった。いない。彼女はいない。道でばったり会ったとしても、彼女は僕を見ず知らずの人間のように扱うだろう。絶対そうだとも言えなかったが、彼女にはそういう冷たさがあるのを僕は知っていた。いや、知らされてしまった。

 動けなかった。
 彼女の小説を前にして、壊れた物のように、僕は動けなかった。
 日没が近かった。
 窓の外に落ちていく夕日の存在を感じながら、僕はいつまでも僕の名の書かれた表紙を見つめ続けた。

(夕闇にのぞむ窓辺・完)


posted by 柳屋文芸堂 at 10:23| 【中編小説】夕闇にのぞむ窓辺 | 更新情報をチェックする
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