2007年08月17日

横曽根迷宮(その1)

 重たい、鈍色の雲が、東の空からこちらに向かって勢いつけて進んでくる。
 天空を埋める程の巨大な龍が、この街を渡ろうとしているのだ。

 公衆電話の受話器を肩に挟んで、秀子は鞄の中にあるはずのテレホンカードを探した。ほおに当たる手垢のベタつきの不快感を無視しながら、カードと共に小さな紙切れを引っ張り出し、間違わぬようゆっくりと、その番号のボタンを押した。
「笠原耳鼻咽喉科です。」
「わたくし、これからそちらで診察を受けようと思っております、棚田秀子と申しますが、そちらで事務を担当されている、岩井弓美子さんはいらっしゃいますでしょうか。」
「アンタ、あたしだって分かってて言ってんの?」
「弓美かなぁ、とは思ったけど、一応礼儀だから。」
「相変わらずねえ。なに、これから来るの?」
「うん。今混んでる?」
「全然。医院長と奥さんと私しかいないわよ。日曜の午後なんて、患者さんほとんど来ないもの。駅前でタクシー拾うの?」
「ううん。歩いて行くつもり。」
「ええっ、歩いて?」
「だって先々週タクシーで行った時、ワンメーターで着いたもの。一本道を真っ直ぐだったし、車に乗るなんてもったいないよ。」
「アンタよしなよ。ここはラビリンスだよ。」
「ラビリンス?」
「迷宮って事。昔に作られた街だからね、真っ直ぐに見えても道は少しずつ曲がっているのよ。来た道を戻っても元の場所には帰れずに、途方に暮れたおばあさんやおじいさんが、朝となく昼となく救いを求めてやって来るのよ。」
「それ、ただ単に弓美のとこに通っている患者なんじゃないの?」
「まあほとんどそうだけどさ。でも本当に隣の駅から散歩に出て、そのまま迷子になっちゃったおばあちゃんを助けた事あるのよ。道を聞きに来る人も多いし。」
「大丈夫よ。八十三歳になるまであと五十七年あるんだから。」
「どうしてもそうしたいなら、好きにすれば良いよ。しかしアンタも大変ね。わざわざ電車に乗って病院に来るなんて。」
「日曜にやってる耳鼻科なんてうちの近所にはないもの。平日休む訳にいかないし。」
「土曜は?」
「ここんとこずっと仕事が入ってる。」
「そんなに忙しくて平気なの?」
「日曜働いている人にそう言われてもね。」
「私は平日に休めるから。身体、壊さないようにね。」
「今の所壊れてるのは耳だけ。それじゃ、そっちに向かうよ。」
「気を付けて。」
 大きな音が立たぬようそっと受話器を置き、秀子は線路沿いの道に降りていった。

 耳の異変に気付いたのは一ヶ月前、ちょうど職場全体が次の納期に向けてラストスパートをかけ始めた頃だった。
 最初は、耳の奥に痛痒いような奇妙な疼きを感じるだけだった。時刻も大体決まっており、帰りの電車の中で「疲れたな、頭が重たい気がするな」と思うと、その気持ちに対する反応のように、微かに、ひっそりと、痛みが返って来るのだった。
 そんな密やかな痛みとの交流の時期はあっという間に過ぎ去り、病状は見る見るうちに悪化した。一週間もすると家や仕事場で、
「いったーいっ! 痛ーい!」
とまるで殴られたかのように耳を押さえて大騒ぎする程になってしまった。
 同僚も上司も同情はしても「休め」とは言ってくれなかった。泣く泣く記憶の底から弓美の「日曜出勤の愚痴」を思い出し、彼女の勤め先が病院である事は確かだったから、この際医者なら何でも良い、と早急に連絡を取った。
 日曜、しかも午後までやっている耳鼻科を素早く見つけられたのは不幸中の幸いだった。暇そうなお医者さんは、中耳炎でしょう、と簡単に結論を出し、そこでもらった抗生物質は耳の激痛を嘘のように消し去った。
 完治、そう喜ぶ間もなく、次の異変が始まった。耳鳴りである。炎症が治った途端に聞こえるようになった気がしたが、もしかすると、それまで痛みに紛れて気付かなかっただけかも知れない。「病み上がり」であるし、仕事場がしんと静まった時など多少集中力を削がれるように思うから、一応診察を受けに来たけれど、本当の事を言うと、耳鳴りは治さずこのままにしようかと考えていた。
 途切れ途切れに聞こえる高く小さなその音は、宇宙の果てから送られて来る信号のように美しかった。そこにはどんな意味が織り込まれているのだろう? 世界征服を企む宇宙人の、人類を操る暗号か、はたまたこの世とあの世の存在理由、全てに答える火・水・星の真理か―――。
 線路脇に立っている枯れかけの木から、油蝉の鳴く声がする。そして東の空からは、遠い雷鳴。どちらも現実だった。しかし耳鳴りと混じり合って、空耳でないと言い切る自信が無くなりつつあった。
 高い湿度のために全身がひどく汗ばんでいた。けれどもその皮膚の下は、どこまでも冷えていた。立ち止まり腕をさすると、下りの各駅停車と東京行きの特急が、すぐ横ですれ違った。
 重なり合う轟音、蝉、遠雷、耳鳴り。反射的に目を閉じる。
 見えない。
 聞こえない。
 何も。

 目を開くと、そこは横曽根商店街の入り口だった。

 秀子がタクシーを使わなかったのには、「もったいない」以外にもう一つ理由があった。前回車で通り過ぎるだけだったこの商店街を、じっくり見てまわりたいと考えたのだ。その時は車窓に顔を押し付け数分眺めただけだったが、秀子はその風景にすっかり惹き付けられた。どの店も古く、寂びれていて、営業しているのかどうか定かでない。そして商店街の端から端、笠原耳鼻咽喉科よりずっと奥まで張り巡らされている薄汚れた万国旗が、その侘びしさを強調していた。その様は十数年前の正月のようだった。秀子が子供の頃、盆と正月には街中のどの店も、眠り込むようにシャッターを下ろしていたものだった。賑わっているのは神社のみで、繁華街を歩く者などほとんどいなかった。
 秀子は想像した。この街の正月が明け、細く長い道に人々が溢れるところを。客を手早くさばくおかみさんの、荒っぽい言葉、丁寧なお辞儀。ガラスケースに顔をぺったり張り付けた子供の、鼻、おでこ、てのひらの色。ザルに次々積み上げられる、千円札と小銭の立てる音。みんなの頭上を吹き抜ける風、はためく原色、幾百の旗。
 しかし今は正月ではなく、盆もとうに過ぎていた。本来なら商店が最も活気づくべき、日曜の昼下がりなのだ。秀子は駅からここに来るまでに、たった一人としかすれ違わなかった。その人は縮れ毛の太ったおじさんで、赤と白のストライプのパジャマを着たまま自転車を漕いでいた。そして紅白の後ろ姿が見えなくなった後は、駅の方や横曽根商店街の中心部に向けていくら目を凝らしても、人間どころか猫一匹の姿も見つけられはしなかった。秀子はその無人の空間に吸い込まれていくように、奥へ奥へと進んでいった。
 よくよく観察してみて分かったのだが、シャッターが下まで完全に閉じられているのは通りのうちの約半数で、あとの店は屈んでくぐれる程度には入り口を開けており、ガラス戸がピカピカに磨かれて今にも店員が「いらっしゃいませ」と飛び出て来そうな所も何軒かあった。そんな中の一つ、「しわすだ屋」という和菓子屋に入ってみた。すあまでも買って道すがら食べようと思ったのだが、障子の向こうの奥の居間に、人のいる気配は無い。
「すみません。」
しばらく待ったが何の反応もない。
「すみません。誰かいませんか。」
 ガラス棚に並ぶ大福やまんじゅうは、黴びる様子も無く新鮮そうに見えた。棚も手入れが行き届いていて、ほこりも指紋跡も見せずに、甘辛団子のタレ同様つやつやと輝いていた。
 呼びかけを数回繰り返してみたものの、あまりの静けさに耳の痛みが再発しそうだった。秀子は未練たらしく桃色のすあまをじっと見つめた後、その店を後にした。

(すあまを見たら急にお腹が空いちゃったよ。)
秀子は笠原耳鼻咽喉科に向かってふらふらと歩き続けた。もし途中にコンビニでもあればカニパンと牛乳を買いたいと強く思い始めていたが、当然ここにそんなものは無く、戸の閉まった駄菓子屋の他食品のありそうな場所は目に入らなかった。
 加山竹材店、エビナ金物、草間印刷、こばやし洋品…… どの店にも古めかしい大きな看板が掛けてあり、職人が手書きしたであろう黒く太い文字は、錆び、かすれつつも立派だった。
(もうそろそろ着いても良い頃なんだけど。)
タクシーで来た時は、この商店街をするりと抜けて、ものの五分とかからなかった。
(まさか道に迷った訳じゃないわよね?)
弓美はやけにおどしていたけれど、本当に、絶対に、ただの一本道だった。その証拠に、無人のまま長靴・ぞうり・サンダル・革靴等をずらりと並べている「横曽根はきもの」という店には見覚えがあった。……ような気がした。
(あれ?)
商店街の先の方から微かに甘い香りが漂って来た。誘われるように歩を速めると、その甘さは強く、生々しいものへと変化していった。
「これか!」
商店が途切れ、雑草の生い茂る広い空き地の真ん中に、濃い水色の建物が立っていた。どうやらお菓子の工場らしく、あたり一帯には吐き気を催す程の甘ったるい空気が充満していた。
 秀子の頭の中には行儀良く一列になった桃色のすあま達が、ベルトコンベヤーに乗って運ばれて来た。すあまだけではない。もみじまんじゅうが、豆大福が、黒・赤・緑色のあんこ玉が、とてつもないスピードで流れて来た。
 冷静であればすぐ気付くはずだが、ここに満ちているのは焼けるバターの香りの混ざった洋菓子の甘さで、おそらくクッキーやマドレーヌを大量生産する工場なのだろう。しかし秀子の内部に流れ込んで来るのは和菓子ばかりだった。その表面が唇に当たる時のやわらかい感触が、粉に包まれたさらさらの手触りが、薄い寒天膜の透明さとその光が、まさに目の前にあるように感じられた。
「食べたーい!」
あの和菓子屋、人がいないのだから万引きしてしまえば良かったか、いやいやそれはまずい、でもお金を置いてすあまをもらって来る事は出来たはずだ……。秀子が来た道を戻ろうかと思案していると、工場の向こう側から、微かに電車の音がした。目を凝らすと、空き地の端に立っているプレハブとプレハブの間から線路が覗いており、電車の車窓が無数に横切っていくのが見えた。
 あそこまで行けば、先程歩いた線路沿いの道に戻れる。そしてそのまま駅に帰れば、コンビニはもちろん、レストランや、地下食品売り場付きのデパートだってある。
 規則正しくレールを打つ電車の音に吸い寄せられるように歩を進めようとした、その時。軽い痛みを伴なって、今までに感じた事のない高く、強力な耳鳴りが、秀子の脳の中に大きく響き渡った。
「行かなくちゃ……」
見えない糸が、秀子の足を引いた。横曽根商店街が、秀子の身体を強く強く、引き寄せた。

 ようこそ! ウェルカム! めんそーれ!

 秀子は空き地を突っ切り、万国旗が幾重にも重なって揺れる、商店街の奥へとつながる細い道に、飲み込まれた。

 一体いつになったら笠原耳鼻咽喉科に着けるのだろう? 道に迷うと言っても、こんな一本道、間違いようがないじゃないか。弓美の説明通りこの道が少しずつ曲がっているとしても、一本である事に変わりはないのだ。それとも一本に見せかけて、実はいくつもの似たような商店街が微妙な角度で交叉しながら存在しているのだろうか……。
 相変わらず人の姿はなかった。小さな稲荷神社の横を通り過ぎ、一分の隙もなく全面的に錆びついたトタン板で覆われている、「創業より八十年」(看板に書いてあった)の鉄工所を見学した後、入り口の見当たらない「源左衛門風呂」という名の銭湯の長いエントツから煙の上がっていくのを眺めた。
 「人の暮らしの匂い」はあちこちで感じられるのに、人気だけが全くないというのが、秀子の不安をかき立てた。中でも一番奇妙だったのが、天井のひしゃげた「本田書店」だ。身を屈めなければ入れない、つぶれた形の店内には、嵐か泥棒の去った後のように雑誌や本が散乱している。棚も、台も、床も、「よくぞここまで」と感心する程乱れているのだ。しかしよく見ると、散らばる雑誌はどれも最新刊で、本は最近流行中のベストセラーばかりだった。
 意味を考えてはいけない。きっとこれがこの本屋の販売形式なのだ。新しい本が入荷するたび、それを適当な場所に投げつける店主を想像し、秀子は体を縮めて店を出た。
 日頃の運動不足がたたって、大して歩いてもいないのにもう足がだるかった。商店街を満喫出来たので後悔はしていなかったが、早く着けるに越した事はなかった。
(ん?)
ジグザグに万国旗の張られた三角形の空の下遠く、人影らしきものが見えた。秀子は重たい足を地べたにこすりつけながら、もたもたと走り近付いた。
「あの、すみません。」
よれよれと形の崩れたポロシャツの下は、色のあせたズボン。短く切りそろえられた白髪まじりの後頭部に、秀子は何の考えもなく大きな声で呼びかけた。
「このあたりに、笠原耳鼻咽喉科という耳のお医者さんがあるはずなんですけど、知りませんか?」
「耳の医者?」
 くるりとこちらを向いたその顔には、目が三つ、ついていた。
 秀子はもともと「この人は高そうな服を着ているからお金持ちに違いない」とか「この人は顔が青白いからきっと病弱なのだろう」とか「この人は体中に刺青がある。怖い怖い、近寄らないようにしなきゃ」というような、「外見からその人の性質を判断する」能力に欠けていた。だから三つ目のおじさんの顔を見てもさして不思議とも思わなかった。(たぶん普通の人とどこが違うのか、とっさには気付かなかったのだろう。)
 それより秀子が驚いたのは、おじさんの右手に広がる深い森の方だった。時計屋と畳屋の間に店二軒分くらいの空間が空いており、その奥に、太い木々と厚い枝葉に光を奪われた、暗く湿った森があった。
 秀子は思わず道を尋ねるのも忘れてつぶやいた。
「なんか……、不自然な感じがしませんか?」
「何が?」
「この森。」
 森の入り口に立つ杉の巨木の胴回りは、子供が十人腕を広げて取り囲んでも、まだ囲い切れない程に太かった。その幹は内側にこぶを含み、無数の筋に沿って波打っている。表皮は白くささくれ立ち、そちこちに赤銅色の地肌が覗く。コケの生えた根は何重にも絡まり合い、その隙間から若々しい緑色のシダが、大小同じ形で顔を出していた。
 さらに奥深い所にはがじゅまるが、おのれの幹を束ね束ね、どこまでが一本の木なのか分からないくらい巨大化していた。空を抱くように伸びる力強い枝からは、縮れた茶色のひげが地面の方まで垂れ下がり、その木の過ごした年月の長さを思わせた。
 それは、人の手の入っていない、紛れもない原生林だった。
「だってこんな木、街中にあるはずないじゃない!」
秀子は三つ目のおじさんの目をじっと見つめて力説した。
「森がある事は別に問題ないと思うの。うちの近所にも雑木林がいっぱいあるし、変だとは思わない。でもこの木の太さはないでしょ? 文明発祥以前から一度も切ってない、って状態よ、これは。今見て来た限りここは商業と工業の町のはずなのに、ここだけ原始時代から手付かずなんて、絶対おかしいわよ。」
「さあ……、地主がものぐさだったんじゃねぇか?」
おじさんは口の広がった胸ポケットから煙草を一本取り出し、それに火を点けてから、ゆっくりと続けた。
「それに人間のする事なんて昔っから不自然な事ばっかりだ。生まれて来た子供に言葉を教えるのも不自然、糞をするのに便所に行くのも不自然、病気を治すためにわざわざ医者に行くのだって不自然だぞ。」
「そうかなあ……」
秀子は病院を探していた事を思い出し、改めておじさんの顔を見た。おじさんも秀子の真面目な視線につられて、こっちを向いた。
「でも予約を入れちゃったし、とりあえず一回はその笠原耳鼻咽喉科という所に行かなきゃいけないんだけど、知りませんか?」
「この商店街には無いよ。ここは一本道だから、森を抜けて別の道に出るしかないね。」
森には当然通路など存在せず、アスファルトの道さえまともに歩けなくなっている秀子の足では、コケと根っこに行く手を阻まれ、一歩も進めないのは確実だった。
「絶対転びます。」
「俺もそう思う。」
三つ目のおじさんは嬉しそうに声を立てて笑った。
「医者に行くのなんてやめちゃえばいいんだ。俺の友達にもおせっかいな奴がいて、
『お前は結膜炎の気があるから、一度目医者に行って来い』
なんて言うんだけど、俺は絶対行かないよ。」
そう言われてみれば、おじさんの左目と、三つ目の目は、少し充血しているように見えた。話に上ってかゆみが出て来たのか、おじさんはその二つの瞳をてのひらで交互にたたいた。パシパシ、パシパシと気合を入れるような音を立てて。
「約束しちゃったから、もう一度探してみます。ありがとうございました。」
秀子が深々とお辞儀するのを見るとおじさんは、義理堅そうな顔してるもんなぁ、とあきれたような笑みを浮かべて、どぶ板の穴に煙草を放り込んだ。
「役に立てなくて悪かったね。」
手を振り見送るおじさんを振り返り見ながら、ちょっと変な感じがしたけど良い人だったな、もっとこの街の人に会えたら楽しかったのに、と秀子は残念がった。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:05| 【短編小説】横曽根迷宮 | 更新情報をチェックする