2007年08月17日

横曽根迷宮(その2)

 前進しても戻っても変わりがないような気がしたが、惰性で今までと同じ方向に向かっていた。シャッターの下りている「長蔵米店」の壁から屋根にかけて、フウセンカズラのつるが巻き付き、ふとん屋「みやざき」の二階の住居の木枠の窓は、割れたガラスがガムテープで留められ、そのままになっていた。
「あっ、雨。」
 おでこに当たった水滴をぬぐい、空気中で光る雨粒に気付いて、秀子は空を見上げた。暗く分厚い雲は、秀子の真上の部分だけぽっかりと丸く穴が開き、そこから覗く空があまりにくっきりと青かったので、秀子は何度もまばたきした。
「天気雨だ。」

 龍はこの上空にいる。

 日に照らされ輝く雨は、気が遠くなる程美しかった。空の上の方では風が強いらしく、綿のような雲が形を変えながら素早く動き、穴を埋めていった。
 穴が完全に閉じるのを見届けて、秀子は再び商店街の奥へ顔を向けた。すると今しがたまで誰もいなかった道の先に、白くぼんやりと何かが見えた。
(犬かな?)
最初、秀子は何故かそう思った。しかし近付いてみると、細く長いふくらはぎが印象的な、ほっそりとした少女の後ろ姿だった。
 あの、という声が口から出るより先に、少女は秀子が来る事を知っていたかのように振り向いた。
 鈴の音が、聞こえた気がした。
 秀子は白く柔らかな、クチナシの花びらのごとき少女の肌を見て、胸の奥が痛むような、妙な心地を味わった。その秀子の様子を確認すると、少女の刀痕に似た鋭いつり目が、小さ過ぎる顔の中で強く光った。
 次の瞬間、秀子は少女に手首をつかまれ、森の中を走らされていた。それは肉体的な力というより、妖術や金縛りに近いものだった。もともと秀子は頑固な所がある割には、強引な人間に対してあまり抵抗しないたちだった。だから少女の行動をそれ程嫌とも思わずに、めくるめくばかりの速度で後ろに流れていく森の風景を、先刻の原生林と比べ考えていた。
 決して新しくはないけれど、ここの植物は人の手が整えたものに違いない。もやで枝先の見えない杉並木は、かつてこの道に人の通りがあった証拠だ。この杉は原生林の巨木のように表面が凸凹しておらず、皮もむけてはいなかった。人一人が抱きつける位の太さで、門番のように直立不動でそこに並んでいた。
 この森が越した年つきは、恐らく数百年。
 あるいは、千年。
 足裏に当たる感触が、草と土のやわらかさから粗く削った石の硬さに変わり、秀子は自分が石段を駆け上がっているのを知った。足元を見やると、少女と秀子の四つの足は俊敏な獣のそれのように、一体となって跳ねていた。驚いて天を仰ぐと、隙間なく重なり合って立つ朱色の鳥居が視界を占めた。
「千本鳥居だ……」
 いつまでもいつまでも、鳥居は尽きなかった。一本一本に塗られた鮮やかな朱は、秀子の頭の中で混ざり、赤い空に浮いていく気分だった。進んでいるのか戻っているのか、走っているのか止まっているのか、起きているのか寝ているのか、生きているのか死んでいるのか、分からなくなっていった。

 そして、忘れてしまった。
 常日頃、大切だと思っていた事。
 本当はちっとも大切でなかった事。

 気が付くと、秀子は見知らぬ神社の境内に立っていた。少女は秀子の手首から手を離し、社の後ろに先にまわって、手招きで秀子を呼んだ。
「聞いてみてよ。」
社の裏の羽目板に耳を押し付けたまま、少女は小声で言った。秀子は少女と向かい合い、同じ姿勢で耳を付けた。
 暴れまわる猛獣の、荒々しく乱れた息に似た響き。
 喜ぶような哀しむような、高く震える女の声。
「この中に誰かいるの?」
「あたしのお姉ちゃんよ。」
「何してるの?」
「神社の中でする事なんて決まってるでしょ。」
おはらいでもしてるのかな、と秀子はのん気に思いながら、なるたけ耳をそばだてた。
 二つの音は色が全く異なっていたが、同じ律動に乗って重なっていた。喘ぎは言葉を使わず何かを伝え、それに溜息が不安げに応じる。激しい息遣いを伴奏にして、女が歌っている風にも思えた。
「恥知らず!」
少女はますます瞳をつり上げつぶやいた。
「お姉ちゃんがあのよそ者と出来ちゃったもんだから、あたしまで巻き添え食って村八分よ。あたしは何も悪い事してないのに、みんなで無視するんだもの。」
「それは酷いね。」
「酷いなんてもんじゃない。でも一番許せないのはお姉ちゃん。二人で頑張っていこうってあれだけ言ってたのに、あたしを裏切って、あんな卑しい男と仲良くなるなんて。」
「そう。」
詳しい事情は分からなかったが、少女が置かれている辛い状況に、秀子は心底同情した。その心を読み取ったのか、少女は秀子の目を見て微笑んだ。
「ここんとこしばらく誰とも口きいてなかったの。だからあなたが来てくれた時、とても嬉しかった。」
 社の中の物音が突然止んだ。少女は首をぴんと立て身をひるがえし、社の正面に駆けていった。秀子も慌てて追いかけた。
 戸を開け放ち仁王立ちする少女の脇から、社の内側を覗いてみた。
「醜い格好。いやらしい!」
少女が怒りを込めてにらむ先には、裸の女が足を広げて四つん這いになっていた。その肌は暗がりの中で白く浮き上がり、長い髪は床板に流れ波打っていた。
「お姉ちゃん達がここで何をしてたのか、あたし、全部知ってるのよ。汚らわしい叫び声を上げて、どれだけ不潔な交わりをしたか。空虚な約束を交わして、あたしを捨てる計画を立てていた事も。」
 女は気だるそうに顔をこちらに向けた。面長で、目鼻は少女にそっくりだったが、裸であるのを抜きにしても、どこかあだっぽい雰囲気があった。
 ふと、女の体の輪郭が所々欠けているのに気付き、不思議に思ってじっと見た。するとだまし絵に描かれているものが急に分かるように、肌にかぶさる深い剛毛から、女に寄り添う存在を知った。
 そこには巨大な狼が、女の全身を包むようにして横たわっていた。
「十五になれば、あなただって分かるわ。あなたはまだ子供だから、私達を理解出来ないのよ。」
少女は答えずに、下を向いたまま強く拳を振った。その力は炎を生み、周囲は神社もろとも火の海と化した。
 奇妙な事に、いくら猛々しく燃え盛っても、秀子は熱さを感じなかった。いやむしろ火の勢いが増せば増すほど、寒さに身動きが取れなくなっていった。少女の悲しみが乗り移って、まるで自分が見捨てられるかのような心細さだった。やるせなく、胸が痛かった。
「人間に火傷一つさせないなんて、随分気を使うのね。」
全て消え失せた焼け野が原で、女はくすくすと笑った。女も秀子も無傷だったが、狼の尻尾の先だけがくすぶっていた。狼は表情も変えず土に尾を打ち付けた。
「何をしたって無駄。」
女は狼の胴に顔をうずめ、いとしそうに黒い毛を撫でた。
「さよなら」
「行かないで!」
疲れ切った少女の目から涙の雫がこぼれ落ちても、女と狼はためらいもせず旅立っていった。
「置いていかないで。独りぼっちにしないで。あたしはお姉ちゃんみたいにはならない。ずっと綺麗なままでいる。十五になんて、大人になんて、絶対にならない。」
泣きじゃくる少女の体は白く透いてゆき、慰める間もなく闇に溶けた。
 鈴の音と、遠吠えが、聞こえた。
 首筋に刺すような冷たさを感じ、すっかり暗くなった空を見上げると、月に照らされて粉雪が舞っていた。焼け野が一面雪におおわれると、どこからか紺色の地下足袋を履いた若い衆が現れ、神社跡にやぐらを組み始めた。
「揚げ立ての油揚げだよ! 毎回すぐ売り切れちゃうんだから、並ばないと買えないよ!」
呼び込みの声に驚いてそちらを見ると、露天商が大鍋三つに油を張って、油揚げを揚げていた。「本場の味 本物の味」と書かれた横断幕に惹かれるのか、即座に長蛇の列が出来た。
 その隣ではお面屋が、人の面と狐の面を交互に吊るして売っていた。綿菓子、あんずにりんご飴、かき氷に金魚すくい。屋台の上に揺れているあの商店街の万国旗は、次々と紅白のちょうちんに化けていき、順ぐりに燈が灯っていった。
 やぐらでは、笛に合わせて鉦や太鼓が打ち鳴らされていた。踊りの輪は二重、三重に広がって、油揚げをくわえた少年達が、その周りで追いかけっこしていた。
 秀子は祭りを楽しみもせず、少女の言葉について考えていた。
 私は十五の時に、一体何をしていただろう。ああ、受験勉強だ。きちんとした高校に合格し、きちんとした大学に入学し、きちんとした会社に就職し、きちんとした生活を送っていくために、私は全てを、自分のためになるもの全てを、その時捨てた。そうだ、私は十五の時に死んだのだ。
 すっかり忘れていた。
 今ようやく、思い出した。
 秀子は人々を掻き分け掻き分け、踊りの中心に向かっていった。そこにいるのが皆人間ではなく狐だと気付いても、秀子は止まろうとしなかった。
 雪が厚く積もり、狐達は目一杯はしゃいでいた。
 幾千の銀の尾が、光を散らす。

 龍はこの街を去った。
 後ろ髪引かれる事は何もない。

「弓美ちゃん、さっきの電話の相手はまだいらっしゃらないの?」
「奥さん。」
 弓美は仕事中の長電話を全部聞かれていたと知り、ばつの悪い思いをしたが、医院長夫人は全く意に介していない様子だった。
「駅から歩いて来るらしいんですけど、十五分位経ちましたね。」
二人は待合室にある丸い壁掛け時計に目をやった。
「このあたりの道は迷いやすいからタクシーで来るよう言ったのに、全然言う事聞かないんだもん。」
「大丈夫よ。もし迷子になったらもう一度電話をかけて来るでしょうし、途中でタクシーを拾う事も出来るのだから。」
それとも、そう言って医院長夫人はいたずらっぽく微笑んだ。
「とっくに迷宮入りしちゃった後かしら。」
「秀子ならあり得るかも。」
 二人の笑い声が、患者のいない待合室にしばらく響き渡っていた。 

(横曽根迷宮・完)
posted by 柳屋文芸堂 at 10:03| 【短編小説】横曽根迷宮 | 更新情報をチェックする