2007年08月17日

泥の小舟(その1)

 泣きながら暮らしている人へ

一、五月二十八日

 今年も教員採用試験に出願しなかった。

 家から岡田工業までの道のりは自転車で十分程である。そのちょうど中頃、「飼い主はマナーを大切に」という看板のすぐ下に、三、四日前から犬の糞が放置されている。その大きさから考えると、健康な大型犬のものに違いない。これだけの時間風にさらされているのに、まるで形が崩れていない。色といい姿といい、あまりの立派さに手を合わせたくなる。たかが糞であるが、何か重大な意味でも含んでいるように感じられなくもない。
 神は私に何を伝えようとしているのだろう?
 通勤途中、他に目に付く物は何も無い。本当に何も無い。
 私は午後から出勤する事に決まっているので、岡田工業に着くと昼食後の歯磨きをしている弓子さんにまず会う事になる。私が軽く会釈すると、弓子さんは唇の泡をぬぐって笑顔を作った。弓子さんは経理担当のお姉さんで、バブルの頃に青春を送った人特有の、根拠の分からない明るさと華やかさを常に漂わせている。私はこの会社で、弓子さんの指示に従い、雑務処理に徹している。
 午後の業務開始まで、タイムレコーダーのそばにあるテーブルでぼんやりしていると、午後出勤のおばちゃん達が次々やって来る。
「ハギちゃん、ほら、ボーッとせずに頑張りな!」
その内の一人、立花さんがそう言って背中を叩いた。予想以上の怪力にひ弱な私はひっくり返りそうになる。総勢十六名の労働者のうち十二人がパートタイマーで、そのほとんどがラヴィアンローズという甘ったるい名のマンションに住む主婦である。ラヴィアンローズは工業団地内にある唯一の住宅で、そこの住人は住宅ローンと子供の教育費のために世界中の誰よりも必死に働いている。彼女達に較べると、私の労働意欲は百分の一以下である。
 ここの会社には始業を告げるベルが無い。隣の大きな工場から漏れ聞こえるかすかな放送を頼りに、私達は仕事を始める。私は灰色の机に座り、伝票整理に精を出す。いくら気持ちは焦っても、精神の混濁により、進行はのらりくらりだ。
「社長と京介さんは外出ですか?」
京介さんは社長の息子で、弓子さんの旦那でもある。
「二人とも仕事もらいに外回り。不景気だから、なかなか難しいわよ。」
「大変ですね。」
弓子さんの暗い真剣な表情に、私は心にも無い応答をする。景気なんてどうでも良いのだ。私の心の荒れに比べれば。
 製品の出荷を頼みに作業場に行くと、機械工の五十嵐さんが左右に揺れつつダンボール箱を運んでいる。五十嵐さんの右足は義足なのだ。パキスタン人のスゥがそれを手伝っている。岡田工業はスポンジやプラスチックを機械で加工して売っているのだが、なにしろ男手が少ないので、機械をいじるだけでなく力仕事も任される。機械職人も油断ならない。
「そのダンボール箱全部にこれを貼って下さい。」
そう言って運送会社のシールを渡すと、二人はけだるい笑顔を見せた。五十嵐さんの白髪を見たら私も何だか安心して、思わず二人と同じ表情を返してしまった。
 ラヴィアンローズのおばちゃん達が帰った後、私は鉄格子付きの窓から漏れる薄紅の光に染められながら、夕飯の用意をしていた。用意と言っても茶を沸かすだけだが。啓の湯飲み茶碗を戸棚から出そうとしていると、通りかかった弓子さんに止められた。
「啓ちゃんね、今日は忙しいから御飯食べないで仕事をするって言ってたわ。」
作業場の扉が開いていて、笑いながら製品の梱包をする望月さんと啓の姿が見えた。
「あの母娘は本当に働き者よ。」
弓子さんも作業場に行き、私は一人残された。テーブルの周りは妙に暗かった。電球の光に照らされた啓のてきぱきとした動きだけが、私の視界の中で浮かんでいた。
 どうして今日に限って―――。
 私は祈っていた。救いようのない祈りだった。

 教員採用試験願書受付締切日である五月二十八日は、こうして過ぎていった。
posted by 柳屋文芸堂 at 09:57| 【中編小説】泥の小舟 | 更新情報をチェックする