2007年08月17日

泥の小舟(その2)

二、バナナ友達

 最近、教育実習の夢ばかり見る。

「先生、この学校で昔、自殺した生徒がいるって本当ですか?」
五年後には相当な美人になるであろう、色の白い愛らしい女生徒が、瞳を輝かせて聞いて来た。
「知らないなあ。」
ごまかしではなく、本当に聞いた事が無かった。女生徒はがっかりしたようすで、再びうつむいてしまった。それを見ていた別の女生徒が、元気づけるようにこう続けた。
「体育館の裏にある合宿所でねえ、合宿中に先生が死んだ事があるんだって。自殺じゃなくて、自然死だったみたいだけど。」
その子に続き他の子も、学校にまつわる死の噂、芸能人の死、あげくの果てには道路で腐るネコの死骸の詳細な様子まで、熱心に話し始めた。
「みんな、死に興味があるの?」
私は平静を装い笑顔で尋ねた。
「一番興味がありますよー!」
生徒達の表情は真実光っていた。
「死にたくなる時とか、ある?」
「しょっちゅうですよ。」
「どんな時?」
一人の女生徒が、全く迷わずに明るい大きな声で、告げた。
「ヒーローになりたい時」

 雨のせいだ。教育実習は六月だったから、毎日雨の中出身高校に通っていた。卒業してから三年と少ししか経っていないのに、生徒の考えは私達の頃とまるで変わってしまっていた。私には、理解出来なかった。
十日続いた雨が止み、久々に星の見えた夜、私と啓は外で夕飯を取る事にした。
「まったくこの会社は何を考えているのかしら。」
生ぬるい麦茶を飲みながら、啓が唇を尖らせた。
「仕事に計画性が無いんだもの。今日なんて、立花さんが帰ったの午後七時よ。ラヴィアンローズの人達は家で子供が待っているんだから、残業させちゃダメよ。」
私は啓の文句に共感も反感も感じずに、ただ望月母娘に共通の、知的な雰囲気のある横顔を見ていた。
 啓と出会ったのは今年の二月、岡田工業のバイトを始めてすぐの頃だ。大学四年の授業が全て終わり、就職を決めていなかった私は、とりあえず家でぶらぶらしていても気が滅入るので、岡田工業の求人広告に応募した。社長や弓子さん、そして家族を含めた周囲の人達には、「バイトをしながら教員採用試験の勉強をするつもりだ」と言っておいた。それは便利な言葉だった。
 最初の一週間、私は一人で夕飯を食べていた。おばちゃん達のいない岡田工業は静かだった。冷たい蛍光灯の光の中、私の食事は安らかだった。
 それまでゆったりと進んでいた業務が急に慌ただしくなり、内心不安になっていた夜の事だ。夕飯を食べにテーブルの所まで行くと、見知らぬ女が座っていた。所々色の抜けたオーバーオールの下に、形の崩れた薄いセーターを着ている。妙に座高が低い。服からのぞく首や腕の細さから、その体が異常と言っても良い程にやせこけているのが分かった。
「あなた誰?」
そう声には出さなかったが、その瞳の強い光は、私の全てを透かし見ようとする意志に満ちていた。食われる。現代社会では存在するはずのない原始的な恐怖が、私の体を固めてしまった。
 一瞬間後、女の視線が外れた。私はそのまま走って逃げたかったが、意外なものが私を引き止めた。
「お弁当?一緒に食べようよ。私はねえ、メロンパン。表面の甘いところを少しあげるー。」
女の視線の移った先はテーブルの上の私の弁当だった。媚びるような、演技じみた幼い話し方が、相手もまた私のように緊張している事を知らせた。
「望月っておばさんがここで働いているんだけど、分かる?私の母親なんだけど。」
その言葉で、何もかもがつながった。
 望月さんは「おばさん」よりは「おばあさん」に近い感じの落ちついた人で、育ち盛りを抱えたラヴィアンローズのおばちゃん達より相当年上のように見えた。働き始めてすぐに何かと私の世話を焼きたがった他の人に比べ、望月さんの態度は冷たいと言っても良い程であった。新人が来ようと誰かが辞めようと彼女には関係なく、ただ、自分に与えられた仕事に最善を尽くす。そんな無駄のない実直さを、望月さんに感じていた。それは全く「おばちゃんらしくない」姿であり、私はそこに好感と寂しさを感じていた。
 業務時間内か休憩中か忘れたが、いつも遠くに眺めるだけだった望月さんが、普段の私なら決して他者に許さないであろう非常な近距離に居た。しかも私を真っ直ぐに見つめていた。今思うと望月さんは狙っていたのだろう。浅はかな若者の心を覗く機会を。
 海も空も、夜でさえもかなわぬような、深く悲しい目だった。それでいて何も語らなかった。一瞬より短い時間の内に、私の精神のうすっぺらな部分を全て数え上げられたような気がした。未経験や偽善や弱さを。私は土下座して謝りたかった。
 許して下さい。本当の人間になるまで努力し続けますから、何が努力なのかまるで分からないけれど、穴から抜けられるまで苦しみあがき続けますから、どうかどうか、哀れな私を許して下さい。許して下さい・・・
 表情を崩すのは娘の啓より望月さんの方が早かった。その微笑みは少女のように愛らしかった。望月さんはそっとささやいた。
「きっとみんな、色々な事を聞いてくるでしょう?気にしないで適当に答えておけば良いからね。」
「色々な事って何ですか?」
今度はあからさまに「世間知らずねえ、この娘は。」という苦笑を浮かべながら、望月さんは説明してくれた。
「行っていた学校の名前とか、この会社に来るまでの経緯とか、家族構成とか、親の職業とか・・・理由もなく知りたがる人がいるのよ。そう言うの、あまり愉快ではないでしょう。」
ええ、と実感を伴わない返事をすると、望月さんはすぐ「遠い人」に戻ってしまった。去り際、望月さんの白髪の少ない黒髪に気付き、案外この人は若いのかもしれない、と思った。

「ねえ、どこの大学出たの?」
メロンパンの皮を私の手のひらに押し付けると、まるで「そのパンを食べた分だけ話させるからね」と言わんばかりに、啓は私を質問攻めにした。
「Y大学の、教育学部。」
「へえええ。すごーい。頭良いんだねえ。あれ?教育学部って事は、先生になるんじゃないの?」
「教育学部だからって、みんな先生になれる訳じゃないんだよ。少子化で先生の募集少ないし、それに・・・・」
私を見上げる啓の瞳は美しかった。啓の内部で燃えている好奇心は決して褒められる種類のものではないはずなのに、啓の興味は他の噂好きなおばちゃんのものと違い、清流の岸に張った氷のごとく澄んでいるように思われた。それゆえ、私は迷いもせずに真実を、苦悩の中心を話してしまった。
「それに、先生になる自信がないの。今の学校が、先生も生徒もグチャグチャになっているのを教育実習で見て来たんだけど、私には直せないのよ。自分の手でどうにかしたいのだけど、その能力がまだないの。」
「グチャグチャって?」
「生徒がね、ひどく不健康なのよ。病的と言っても良い。生徒を病気にしたのは、無神経な教育制度と教師達・・・」
啓は目をすっと細めた。しかしすぐに何も理解出来ないような表情をして、ふうん、とかすかな相づちを打った。話が続かなかったので私は少し空しくなり、自分の弁当を広げた。不器用に詰めた目玉焼きに箸を入れようとして、ふと、啓が先の会話からずっと私を見ているのに気付いた。私が振り向くのと同時に、啓は言った。
「あなたは元気なの?」
その言葉には私を責める響きがあった。
「自分の病気に気が付かない人間が、他人の病気を治そうとするなんて、滑稽よ。」
私は動けなくなった。鉛を心臓に打ち込まれたようなものだった。
「私、病気のように見える?」
やっとの事で私は尋ねた。恐らくみっともない程青い顔で。
「妙に暗い目をしているんだもの。なんて言うのかしらね、「誰も自分を理解出来ないに違いない」って最初から決めつけている顔よね。瞳の反射が悪いのは、心が閉じ切っている証拠。」
何故初対面の人間にここまで言われなければならないのか、という怒りより、自分が今まで気にしつつも見ないように、言葉にしないようにしていたものを突如投げつけられた驚きの方が大きかった。
「ね、私と仲良くしようよ。このまま突き進んだら、あなた教師どころか真っ当な大人にもなれないわよ。気が付いたら自分が一番軽蔑するような人間になっていたとしても、もう一度生き直したり出来ないんだから。」
啓の言葉はこれ以上無い程失礼だったが、「友達になるための指切りげんまん」をねだる姿は人懐っこく憎めなかった。
「友達やめたら針千本飲ーます!」
声を立てて笑いながら小指で私の腕を振る啓を見ながら、本当に針千本飲まされるかもしれない、と思った。
 啓は腕を組み不機嫌そうに言った。
「私の最終学歴はK市立H中学校。自慢にならなくてつまらないわ。」
「え?H中学校?私もH中だよ。」
大学一年くらいかな、と勝手に予想していたので、中卒と聞いた途端に啓の経歴が何も見えなくなった。
 啓は私より一つ年下で、中学を出てすぐ工業団地内で一番大きなM電機の流通センターに勤め始め、今も朝七時から夕方の三時まで働いていると言う。岡田工業には弓子さんに呼ばれた時だけ、手伝いに来るそうだ。
「他の会社で働いた後、こっちの会社にも来るなんて、働き者だねえ。私には真似出来ない。」
「あら、私はあなたの無気力な感じ、好きよ。私には真似出来ない。」
そう言って啓は私の手を握った。まるで私を褒めているかのような振る舞いだった。私は期待に応えるつもりでもなかったが、「無気力に」弱く笑った。啓は大層満足なようだった。
「友達になって早速頼みたい事があるのだけど、私、毎日夕御飯を買うのが嫌で嫌で仕方ないの。せっかく一生懸命働いてもらったお金がどんどん消えていくのよ。悔しくてならないわ。このメロンパンだって百二十五円!」
啓はメロンパンの最後の一かけらと共に私の指をにらみ付けた。その目は明らかに「さっきの皮だって十五円位になるわよ!」と怒鳴っていた。
 私はもはや啓の命令なら何でも聞く人間になっていた。失礼な言葉とメロンパン(皮のみ)で買われたようなものだ。
「そこで考えたのよ。今世の中で一番安くて栄養価が高いのは、バナナだと思うの。だから共同でバナナを房で買って、夕御飯にしようよ。私、これからしばらく岡田工業で働く事になりそうだから。ねっ。」
もしや毎日バナナ?まさかねえ・・・と思いながら、私の内部には何の反論の言葉も無かった。深く考えもしない内に、私の状況がまるで変わって、いや、「変えられて」しまった事に、ようやく気が付いた。望月さんが注意するよう促したのは、啓のような人物の事だったのかもしれない。
「望月さんと、一度だけ話したわ。とても親切な人ね。」
「あの人もさあ、あなたみたいな所あるから、同情したんでしょうよ。」
啓はパンを口に入れたまま、不明瞭な声で説明を始めた。
「うちの母親、S女子大出てるのよ。昔はお嬢様だったの。そうね、つい十年前までお嬢様だったと言ってもおかしくない。でもあれはバブルの頃・・・」
啓はわざとらしく遠くを見た。私は冗談を言うのかと思った。それくらい啓の態度はふざけていた。
「私は小六、小学校最後の冬だった。夕方から塾に行っていたの。ちょうど今着ているこのズボンでね。耳が切れそうに痛む寒い夜で、」
啓は口の中のものをきれいに飲み込んだ。歯と歯の間が気になる様子で、舌で何度か探った。私は啓の長いまつげに見入っていた。
「家に帰ったら、父親もろとも家財一式がぜーんぶ燃えちゃってたの。」
啓はうっすら笑いながら目を輝かせた。まるで自分が持っているたった一つの自慢話であるかのように、その不幸を見せびらかした。
「会社の経営が上手くいかないからって自殺する事ないじゃないねえ。」
「お父さん、自殺だったの?」
啓はうなずき、死ぬなら一人でひっそり死ねば良いのに、とあっさり感想を述べた。
「私は人生の半分が貧乏だから全然平気なんだけど、うちの母親は子供の頃からあの火事までずっと良い暮らしをしていたからね。子供抱えて往来に一人ほっぽり出されて、まあ私の想像だけど」
啓はにっこり笑って言った。
「地獄よね。」

 あれから半年近く経った。あの会話の次の日から、本当に「夕御飯バナナ」が始まってしまい、実は今でも続いている。
「バナナは美味いー!」
啓はそう叫んで食べかけのバナナを月にかざした。三日月にバナナはよく似合う。ここは空気が悪く、隣町の繁華街が夜空を明るく照らすので、どんなに晴れても星は数える程しか出ない。月と太陽は汚れた地に住む私達の友人だ。決して裏切らずに姿を現わすのは彼らだけだ。あとは全てどんよりくすんでいる。何もかもが。
「バナナばかりの暮らしを後悔している?」
啓は何故か最近この質問を繰り返す。強引な自分の性格にようやく気が付いたのかと安心しそうになったが、おそらく啓自身がバナナ暮らしに飽きて来たのだろう。自分で言い出しただけにやめるにやめられず、私が「やめよう」と言うのを待っているのだ。
「私、贅沢するの嫌いだから、別にかまわない。」
バナナに対して愛がある訳ではなかったが、やめる理由も無かった。
「これだから仙人は。」
私のあだ名が「仙人」であったのを知って、何かと言うとこうからかうようになった。高校時代、私の弁当を見た友人がふざけてこの名を付けたのだ。その頃私は朝昼晩と狂ったように生野菜ばかり食べていた。少しでも速く走れるようになるために。私は陸上部の長距離走者だったのだ。タイムを縮めるのに野菜が役に立ったのか分からないが、この偏った食生活は私の身体をすっかり細長くしてしまった。この話をした時、啓は
「「馬」ってあだ名にならなかっただけ良かったじゃない。」
と大笑いした。本当に霞を食べて生きていられるなら、世界はもっと違った形をしていただろうに。
 火事の話を聞いたせいかもしれないが、啓の姿に多くの二面性を認めるようになった。色黒の、私より頭一つ半分小さいその身体。大きな目と分厚い唇。相変わらずの古いボロ服。啓は貧しい国の道端で日々飢えている孤児にも見えたし、南国の王家の姫君にも見えた。目の光に知性が、立ち居振る舞いに品格があるせいだ。外見は全く望月さんに似ていないのだが、二人の雰囲気は常に強くつながっていた。私は火事の前の二人の生活を度々思った。
 バナナの皮をたたみ、麦茶を飲み干してから啓はつぶやいた。
「おしろい花が咲く頃に、うちに遊びにおいでよ。一度、仕事以外で会いたいと思っていたんだ。」
「どうして今じゃないの?今週末だって良いじゃない。」
前々から啓の家に興味があったので、すぐに実行に移して欲しかった。
「うち、と言うかうちのアパートの周りに、赤いおしろい花がたーくさん咲くのよ。私ね、うーん、言おうかな、どうしようかな。」
啓は私の長袖Tシャツの裾をつかんだ。こんな時、黙って放っておけば勝手に話し出す。
「言っちゃう!私ね、自分に一番似合う花はおしろい花だって信じているの。」
紫がかった赤い花。やわらかな葉と花びらは秋に消えるが、次の夏には必ず再生する。あの黒く堅い種のせいだ。真っ白い粉の詰まった。確かに共通点はある気もするが、もう少し高級な花を選んでも良いように感じた。
「私ね、ハギちゃんに似合う花も考えたの。」
「何?」
自分に似合う花なんて考えた事も無かった。大体私は最初から花に例えられるような人間ではないのだ。せいぜい背格好から割り箸に見える位のものだ。
「・・・どくだみの花。あ、怒った?」
「どの辺が似ているのよ。」
やはりその程度か。どくだみなんて、臭いじゃないか。自分が必要以上に期待していた事に気付き、恥かしくなった。
「あのね、白い十字架みたいな花の咲くところ。」
啓はそう言うと、私の指をつかんで顔を伏せた。そうして体全体を私に押し付けた。これは啓の愛の告白なのだと素直に思った。そして何故か、啓が私を愛するのを当然のように感じた。啓は泣くような小さな声でつぶやいた。
「ここの会社に来る途中、大きな道路があるでしょう?重たそうなトラックが通る度に、今飛び出したら事故の振りして死ねるなあ、って思うの。でも会社にはあなたがいるはずだから、今日は我慢しよう、今度にしようって思うの。」
啓がこんな事を言ったのは初めてだった。裏切られたというショックと共に、啓の濡れたまつげの語る言葉を聞いた。あなただって考えているんでしょう?あの道路を通る人みんなが、いや世界中の人間全てが、死にたいと思っているんでしょう?私は教育実習中の苦痛を思い出し、背中に雨の冷たさを感じた。
 今頃になって私は啓に質問する。
 啓、あなたは元気なの?
posted by 柳屋文芸堂 at 09:55| 【中編小説】泥の小舟 | 更新情報をチェックする