2007年08月17日

鳥のいる場所(その2)

二、青い鳥

 朝焼けの残る空。薄紅色の雲の隙間から伸びる、光の筋。私鉄の窓の風景は、鶯の心に一つの言葉を与えた。
 神様
 彼女は強く思った。もし本当に神がいるとしたら、相当根性の悪い奴に違いない、と。
 若く美しい姿に似合わない、険しい表情で。

 鶯は都内のある工科大学で、経理の仕事をしていた。男子学生が九割を占める地味な構内で、鶯は誰より目立っていた。色白で華奢な体。並の男性より高い背丈。切れ長の目と、優しく光を通す蜂蜜色の長い髪。鶯は日本の民話に登場する狐のような、異界の者の雰囲気を持っていた。
 鶯にはここ一週間、気になっている事があった。昼休みになると事務室に必ず現れる男子学生がいるのだ。受付の前に置いてある長椅子に座り、鶯の動きを目で追うのだが、決して話しかけて来ない。人に見つめられるのには慣れていた。しかし、その学生の深刻な顔は、どう考えても鶯を睨み付けていた。何か恨まれるような事をしただろうか。何も思い当たらない。その学生の服装が毎日全く変化しない事も、心配だった。一本黒い線が入っている灰色のセーターに、こげ茶色のズボン。ちゃんと下着は替えているのか。
「田仲さん、また来てるよ。」
先輩に言われて窓口を見ると、また同じ洋服で、怖い顔をこちらに向けている。
 鶯は自分から話し掛ける事に決めた。
「何かご用ですか?」
学生は、鶯の方から声をかけて来るとは思っていなかったようで、幾分錯乱し、上擦った声でこう答えた。
「僕は、物理の富川の息子の、物理の富川です。田仲さんですよね?田仲鶯さん。」
妙な日本語を頭の中で分解し、ようやく学生の正体がわかった。鶯は以前、物理学科の富川という教授と御昼を食べに行った事があった。その時に、息子もこの大学で、自分と同じような研究をしているのですよと、嬉しそうな顔で話されたのを思い出した。
 富川は、事務室の人間を一通り睨んだ後、こう続けた。
「ここではあれなんで、来てくれませんか。」

 富川と鶯は、三つある学食のうち、一番まずいと評判の食堂に入った。食事時にもかかわらず、客はまばらであった。
「父に、これを田仲さんに渡してくれと頼まれまして。」
富川は鶯に、リボンの飾りが付いている薄い箱を差し出した。鶯がその場で包装を破くと、あやめの花が描かれている絹のハンカチが入っていた。
「父は「貴金属をあげたい」と騒いだのですが、あまり親しくない人に高価な物を贈るのは迷惑になると思って、説得しました。」
「一体何だっていうの?」
「あなたのファンだそうです。本当は自分で直接渡したかったらしいのですが、「勇気が出ない」なんて言って。だから僕が。」
そこまで言うと、富川は少し顔を赤くした。そして、味が無い事で有名な「肉そば」を食べ始めた。
 鶯は、富川の父と食事をした時の事を思い出していた。変わり者の多い大学教授の中で、富川はこれといった特徴がなく、教壇から降りた途端に学者である事を忘れられてしまうような男だった。しかし鶯はいつも富川の事を気に掛けていた。鶯は、昼時になると富川が事務室前で「待ち伏せ」するのを毎日見ていた。富川はそこで教え子か、知り合いの研究者を見つける。そして偶然を装い、食事に誘うのだ。ある日、鶯が事務室内で弁当を食べていると、懸命に誰かをつかまえようとしている富川が見えた。しかし昼休み開始から四十分が過ぎても、富川の要求を聞いてくれる者は現れなかった。断わられる度に、富川の目は潤んでいった。鶯はもう耐えられず、話した事もない富川を、学校の裏にある喫茶店に連れていったのだ。
「私ね、この職場がとても気に入っているの。大学の先生って可愛いでしょう。世間の毒に汚されていない感じで。もともとお金持ちのお坊ちゃまが多いのかしら。物腰が穏やかで。穏やか過ぎて生きているのか心配になる人もいるけど、みんな好きよ。教授の部屋が並んでいる所へ、用も無いのに行ったりするの。あそこだけ、別の時間が流れているように思わない?」
富川は、いくら噛んでものどに入っていかない硬い肉を口に含んだまま、首を傾げた。
「あなたもあの時間の中に住んでいる証拠ね。」
鶯は髪を揺らし、目をすっかり細くして笑った後、富川の目を真っ直ぐ見つめた。
「私はきっと、象牙の塔のファンなのよ。大学の先生が、ただ薄ぼんやりしているだけだったら、興味なんてわかなかったと思う。自分の研究に誇りを持っているから、純粋な空間で生きられるのだわ。あなたのお父さんも、研究者として優秀だと聞いてる。それなのに、何故堂々と暮らしていないの?」
富川は、鶯の視線から逃げるように遠くに目をやり、小さな声で
「それは、あの人の本当の目的じゃなかったから。」
と言った。
「どういう事?」
富川は不機嫌そうな顔で、話題を変えた。
「あの、その髪の毛、染めているのですか?」
「染めてない。生まれた時からこの色よ。」
鶯は、奇妙な程色の薄い自分の髪を、指に絡めた。
「外国人なのですか?」
鶯は一瞬、全身の動きを止め、目を大きく開いて富川を見た。そしてすぐに、大声で笑い出した。
「そんなにはっきり言って来た人、初めてよ。みんな思っていても口に出さない。」
「すみません。疑問に思ったものだから、何も考えずに聞いてしまった。」
いいの、いいの、と言いながら、鶯は笑いを止めた。
「母親は日本人よ。でも父親がどこの国の人か判らないの。会った事がないから。」
富川は箸を置いて、鶯の方に顔を向けた。
「片親で育ったのよ。あなたと同じ。」
「知っていたんだ。」
「富川先生が「妻に先立たれまして。」と繰り返し言うのだもの。でもあなたは少しお母さんの記憶があるのでしょう?」
「ええ。母が亡くなったのは、僕が小学校に上がる少し前だから。」
「私はちゃきちゃきの片親っ子よ。物心ついた頃にはもう、父親はいなかったの。母親は何も話してくれないし、それらしい男の写真も残ってないわ。でもその方が色々想像出来て楽しいわね。」
富川は、鶯の嬉々とした表情を、半ば呆れながら見続けた。
「私ね、お父さんがオランダ人だったら良いなと思うの。」
「長崎に出島がありましたからね。」
富川は丼の底を箸で探りながら、適当に答えた。
「チューリップを持って会いに来て、私を指差してこう言うの。「この娘は誰の子だ?」「おらンだ。」」
学食のテーブルはどこまでも静かであった。
「真面目に考えてないでしょう。」
「最初からいないと、親なんてそんなものよ。」
富川が少し怒っているように感じたが、鶯は気にせずに微笑んだ。髪の光が波打った。
「いなくなる事で、誰かを不幸に出来る人は、幸福なのよ。あなたのお母さんは物凄い幸せ者ね。」
言葉の真意が掴めないまま、富川は悲しむような、中途半端な笑みを浮かべた。その笑顔の作り方が、父親にそっくりだと気付いた。
「うちの父親に声を掛けてくれてありがとう。父さん、本当に嬉しかったみたいだから。あなたは変な人だけど、優しいですね。」
「優しくなんてない。」
「どうして?」
「それは」
その後が続かなかった。鶯の目に急に涙が溢れて、さっきまで微笑んでいたのが嘘のように、唇が歪んだ。その泣き顔はすぐに、飾り気のない細い手のひらに隠されてしまったが、富川は汁の残っている丼をひっくり返さんばかりに動揺した。
「どうしたんですか!」
鶯は指で頬を拭いながら、富川の顔を見上げた。
「私、今日、帰る家がないの。」

 仕事を終える頃には、もう外は真っ暗だった。鶯は大学近くの駅のロッカーに入れておいた荷物を取り出し、ホームで富川と待ち合わせた。「僕の家に来ませんか。」という富川の誘いに、簡単にうなずいた自分が可笑しかった。勧めておきながら富川も、戸惑っていた。
「遠いですよ。覚悟して下さい。」
富川の家の最寄駅に着くまで、鶯は何度も「まだ?」と尋ねた。電車が進むにつれ、窓から見える景色に灯りがなくなっていくのが分かった。最後には、田んぼと木の影しか見えなくなった。
 結局、目的の駅まで一時間半もかかった。ここからバスに三十分も乗らなければならないと言う。
「あなたも富川先生も、こんな所から通っているの?信じられない。」
バスの席で鶯は大声をあげた。
「あなたも明日はここから仕事に行くのですよ。」
「五時起きね。」
鶯は疲れた様子で薄汚れたガラスに髪を押し付けた。
「明日家に帰るのだから、今日一日旅行のつもりでいれば良いでしょう。」
「帰らない。」
慣れない拗ねた女の顔に気付かない振りをして、富川は口をつぐんだ。鶯は我慢出来ずに、自分から話し始めてしまった。
「私ね、今朝まで男の人と一緒に暮らしていたの。名前は思い出したくないから「K」って呼ぶわね。そのKがちょっと馬鹿でね、歌手を目指しているのよ。音楽を自分で作って歌うやつ。彼の頭の中の予定では、あっという間に曲が売れて、芸能人になれるはずだったのに、全然駄目なの。他人に聴かせるどころか、自分自身納得いくものすら作れない。その事で当たり散らすのよ。病的なくらいに。」
鶯が顔に手を当てたので、また泣き始めたのかと富川は勢いをつけて鶯の方に振り向いたが、それは頭を抱える仕草だった。
「元々神経の細い人だから仕方ないと思っていたのだけど、そのうちKの病気が私にも伝染してしまって。気が付いたら、怒鳴り合い泣きわめくだけの生活になってしまった。このまま家を病気の巣にして置く訳にいかないから、通帳と着替えだけ持って出て来たの。」
鶯は窓ガラスを上着の袖口で擦った。地面に明るいものは何もなかったが、空は都会の何十倍も美しかった。
「簡単に言えば、逃げたのね。やっぱり私は優しくないわ。」
 バスから降りた後がまた大変であった。街灯が全く無い、森沿いの小道をひたすら歩かされた。鶯は不意に、富川も男である事を思い出した。こんな所に二人きりでいるなんて、危険なのではないか。もし変な事をされそうになったらどうしよう。富川は顔は怖いが、体は貧弱そうだから、戦えば勝てるかもしれない。
「ようやく入り口に来ました。ここの上に家があるので、もうすぐです。」
富川の声で我に返った鶯は、森の間に作られた、細い坂に気付いた。ただ木を抜き土を固めただけの原始的なその坂道の両脇には、黒い裸の木が並んでいた。
「桜?」
「そうです。春はきれいですよ。」
富川と鶯は縦に並んで上っていった。
「この桜はあなたの家のものなの?」
鶯は、見た目よりずっと急な坂道に息切れしながら言った。
「桜だけではなくて、この森全部がうちのものですよ。」
「昔からこの辺の地主だったの?」
「いや、父親が若い頃、論文で賞をもらったのですよ。その賞金を使って、ここの土地と、家を買ったんです。家を見ると、驚きますよ。」
 坂を上りきると、そこには古い木造の大きな家が立っていた。旅館だと言っても不思議に思わない程、立派な造りをしていた。
「あなた、何人家族?」
「父と二人ですよ。」
鶯はしばらく口を開けたまま、一ヶ所だけ明りが点いているガラス戸を見ていた。
「何を考えてこれを買ったの?」
「父親に聞いて下さいよ。」
富川は寂しく笑って、家の中に入っていった。

 富川家三つの約束
その一、家の中でも上着を脱いではいけない。
隙間風がひどいので、室内の温度が外と全く変わらないのだ。
その二、台所、台所の隣の部屋、風呂及びトイレ以外の部屋には、なるべく入らない。
掃除を全くしていないし、電気が引かれていないから、使えない。
その三、トイレは風呂の隣以外に、あと二つあるが、そこには絶対に入ってはいけない。
ここに富川一家が越して来て以来、一度も扉を開けた事が無い。もしかしたら人間以外の何かが住んでいるかもしれない。
 要するに、部屋の数は多くても、活用している面積は鶯とKのアパートと同じだった。
 富川の父は何も聞かずに鶯を歓迎した。次の日にはもう、日常が始まっていた。

 日曜日、富川は縁側で膝を抱える鶯を見つけた。曇り空の下でも鶯の髪は充分に光をためて、庭の土に向かって流れていた。
「そんな所に座っていると、体が冷えますよ。」
振り返ると、富川が黒いトレーナーとジーパンという姿で立っていた。
「あら、服替えたのね。」
「二週間に一回、日曜日に洗濯するんですよ。」
「下着はもっと頻繁に替えているんでしょうね?」
「多少は。」
多少、そう呟いて鶯は、膝に顔を埋めた。
「座布団持って来ますね。」
富川がお茶と座布団を持って戻って来ても、鶯は顔を隠してうずくまったままだった。
「大丈夫ですか?」
返事は無かった。富川は空に目をやり、薄い雲の間から太陽が現れるのを待った。
「あなたが毎日泣いているような気がして。」
「平気よ。昨日は富川先生とトランプで遊んだわ。」
「トランプで何を?」
「七並べ。」
二人で七並べやって楽しいかなあ、富川が馬鹿にするように言うと、鶯も困ったように微笑んだ。
「すみませんね。父さんの相手をさせちゃって。父さん、嬉しくて仕方がないんですよ。あなたがこの家にいる事が。」
「こっちこそごめんなさい。いつまでも泊めてもらって。病人がいるみたいで迷惑でしょう。」
「構わないですよ。この家もあまり健康的とは思えないし。」
鶯は庭の前の竹やぶを見た。風が無いのに竹の葉全てが微妙に揺れ動いている。
「帰りたいですか?」
「わからない。すごく帰りたい。でも絶対に帰りたくない。頭が混乱していて、何が一番自分にとって正しいのか判断出来ない。」
「いつまででもいて下さい。あなたが泣かないで暮らせるまで。」
鶯は竹やぶから目が離せなかった。この感じは何だろうと考えて、そうだ、たき火、と呟いた。
「たき火?山火事が起こるといけないから、ここでやった事はないですよ。やりたいですか?」
「違うの。ここの竹を見ていたら、たき火を一日中見つめていた時の事を思い出したの。何故かしら。」
富川も竹を見た。それぞれ勝手に動いていた葉が、一陣の風のせいで、いっせいに同じ方向へなびいた。風がやむと、竹の葉は何もなかったように元の位置に戻って、ささやかな自己主張を繰り返す。
 鶯は学食で見せたような笑顔を竹やぶに向けた。
「たき火は人を留まらせるでしょう。竹も同じね。」
富川はもう鶯の笑顔が信じられなかった。鶯が明るくすればする程、心は遠くに落ちているようで、たまらなかった。
「Kってどんな人ですか?」
「自分勝手で、弱い人。」
「もっと具体的に。」
あら、興味あるの?と言って鶯は意味深い笑いを浮かべたが、富川はその意味が全然解らなかった。
「ギターが上手なの。自分で作る曲はどうしようもないんだけど、他人の曲は器用に弾くのよ。声も色っぽいの。特技はそれだけ。」
「どんな曲を作るのですか?」
鶯は思い出し笑いをしながら、愛してる!愛してる!って叫ぶようなやつ、と言った。
「愛してるぅ〜愛してるぅ〜と歌うのですか?」
「そうじゃなくて、とにかく表現が直接的なのよ。ひねりも何もないの。」
富川は首をひねった。
「そう言われても想像がつかない。歌詞を教えて下さいよ。」
「嫌よ。だって全部私についての詞なんだもの。」
突然表情が変わる目を褒めたりするのかな。富川は自分なりに解釈した。僕はあの急な変化が怖いけど。
「例えば、彼女が浮気して悲しい気持ちを歌うとするでしょう?
「彼女がぁー、俺より背の高い男とぉお、密会してたァァ」
と叫んでも、みんな同情するだけで感動はしてくれないのよ。」
「そうでしょうねえ。そんなにひどい詞なのですか。」
ここまでアホではないけどね。鶯は笑った。
「Kが人の心を動かす歌を作る日が来るのかしら。」
風が鶯の髪と竹の葉を撫でた。遠いざわめき。雲には太陽の白い影が揺れている。
「かわいそうな人。才能も無いのに、夢なんて見て。」
鶯が振り向くのと、富川が飛び退いたのは同時だった。予感通り、鶯の目からは音を立てるような涙が流れていた。
「貪欲なのよ。どうして私だけでは駄目なの?自分に夢中になってる女が隣にいるのよ?それだけで満足したっていいじゃない!どうして他のものを求めるの?なんで不幸そうな顔をするの?」
最後の言葉が、家中に響いたように感じた。鶯はその後も何か言い続けようとしたが、唇が震えるだけで声にならなかった。
 富川は何を思ったか、今まで閉めたままにしていた雨戸を、突如開け始めた。立て付けが悪く、蹴ったり押したり引いたりしながら全ての戸を戸袋にしまい終えると、富川は力を使い果たして座り込んでしまった。だが鶯は、汗だくで目の焦点を失っている富川は全く無視して、そこに広がったからっぽの和室に、心を奪われていた。数えきれない古い畳。向こう側の壁が小さく見える程大きな部屋。家具も何もない。この存在を初めて知った。
「僕は夏と秋だけこの部屋に入るんです。セミと、秋の虫の声を聴くために。」
昼間なのに、部屋はどうしようもなく暗い。竹やぶの闇のような気品もない。夏には湿り気が淀んで、富川の体を畳に張り付けるのだろう。
「森に囲まれてますからね。夏の間は夥しい数のセミが鳴くのですよ。セミに勢いがなくなると、今度はは秋の虫が盛りになる。目を瞑ってそれを聴くのが好きなんです。巧く言えないけれど、この世の外に連れていかれるような感覚がして。この心の動きが何なのか、ずっと知りたかった。」
突発的な強い風。背中で竹やぶが鳴った。夏にはセミに消されてしまう、実在感のない響き。
「ある時気付いたんです。これは虫のための声だ。人の耳に届く必要がない、虫だけに聞こえればいい声なんだと。」
無表情のまま富川を見つめる鶯は、虫の声そのもののようだった。夏と秋の、頭の中に虫が住んでしまいそうな、喧しい鳴き声。絶対にそこにいる感触。でもいつの間にかいなくなってしまう。秋の終わりには確実に。今、虫はどこにいるの?
「聞こえなくても良いのに、感じなくても良いのに、どうして気付いてしまうんだろう。」
富川は思い出していた。ついこの前、季節はずれの鈴虫が一匹、天井裏で鳴いていた。三日で声がしなくなったけれど、仲間のもとに帰ったのだろうか。それとも。
「僕はこの家が好きだ。人間が大勢いる所なんかより、ずっとここの方が良いと思う。でもうちの父親はそう考えられないんだ。前にあなたが、何を考えてこの家を買ったのかと尋ねたでしょう。」
鶯は少し震えながら頷いた。ここは寒い。こんな格好で座ってはいけない場所なのだ。
「うちの父親は、子供を沢山儲けて、この家を人だらけにするのが夢だったのですよ。何でそんな大家族願望があるのか知らないけど、家中から笑い声が聞こえたら、「寂しい」という感情を捨てられると思ったのかもしれない。それならわざわざ体の弱い人と結婚しなくても良いのに。」
鶯には富川の父の夢が見えた。子供達が広い畳の上でかけまわる。甲高い、明るい叫び。全員が部屋の真ん中に集まり、じゃんけんぽん。鬼は決まった。急に静かになって、かくれんぼが始まる。一人は押入れの中へ。ある子は台所の隣の小部屋に。障子の裏に隠れた子は、影ですぐに見つかってしまった。一番上のお姉ちゃんは、隠れる振りをしてお父さんの部屋に忍び込む。もうかくれんぼで楽しめる歳ではない。本棚から溢れる専門書の山から、彼女は一番部厚い本を選ぶ。前から憧れていたのだ。なのにどうしてだろう。文字は読めるのに、内容が全く理解出来ない。見た事のない記号。解るのは+、−、=。大人の手付きでページをめくる小さな背中を父親は見つけ、とろけそうな微笑みを浮かべる。肩を叩くと、少女は驚きで涙ぐむ。君がした事はちっとも悪くない。頭を優しく撫でながら、少女にふさわしい本を探す。そして有名な物理学者が書いたものだよと、リチャードP.ファインマンの随筆を渡す。君の心は痛むだろうか。死ぬ事を運命付けられた妻と、人間の無力さを知った科学者の愛の物語に。ノーベル賞は妻を生き返らせない。
「教授になりたい人が、全員なれる訳ではないんです。企業が望む研究しか出来ない、不自由な学者の方が世の中には多いんだ。父さんは本当に恵まれている。それなのにくだらない夢なんか見て。」
「くだらないなんて言わないで。」
「僕だって言いたくない。でもそうしないと」
僕も陽だまりの夢を見てしまう。闇のない、暖かな空間を。そして得られずに涙目で人を待つのだ。いつまでも、いつまでも、いつまでも。
「泣いてるの?」
鶯は、背を向けて縮こまる富川の側に寄っていった。富川は静かに顔を上げて、独り言のように囁いた。
「あなたもきっと帰ってしまうんだ。」
何も答えずに、鶯は富川の髪に触れた。硬い、男の髪の感触を手のひら一杯に感じながら、溜息をついた。逃げて来たはずなのに、また見つけてしまった。どうしてこうなるのだろう。諦めるしかない。こんな言い方は嫌いだけど、私はこういう星のもとに生まれてしまったのだ。
 冷たい竹林のざわめきを聞きながら、鶯は何かを信じ始めていた。
posted by 柳屋文芸堂 at 01:25| 【中編小説】鳥のいる場所 | 更新情報をチェックする