2007年08月17日

鳥のいる場所(その3)

三、始まりの香り

 お父さんがバス停に立っていると、そこにトラックが突っ込んだ。その時赤ん坊だった私は、お父さんを写真でしか知らない。

「小鷺、あんた本当に十八歳?八歳の間違いじゃないの?」
入学式の帰り道、凛ちゃんは散々私を馬鹿にした。行きの電車の中で、袋の開け方に失敗し、芋かりんとうをぶちまけたからだ。
「だって、芋かりんとう美味しいんだもん。」
「美味しいからって何でばら撒くのよ。大体普通、電車の中でお菓子の袋なんて開けないわよ。遠足じゃないんだから。」
「早く食べたかったの〜」
「お子ちゃま!他人に迷惑かけないでよね。恥ずかしい。」
本当の事を言うと、私は今日、遠足のような気分だったのだ。生まれて初めての電車通学。初めての定期。中学から都内の私立に通っていた凛ちゃんには分からないだろうけど。
「サツマイモ農家の人に謝りなさい!」
「農家の皆さん、私はあなた達が大切に育てたお芋を、汚して食べられなくしてしまいました。小鷺は悪い子です。ごめんなさい。」
「ま、いくら謝っても地獄行きだけどね。」
「えーっ。いーやーだー。」
高価そうなスーツの袖を引っ張ると、凛ちゃんは立ち止まり、横を向いて目を細めた。
「どうしたの?」
「綺麗ね。」
凛ちゃんが向いた方に目をやると、私の家の入り口だった。山のてっぺんまで続く満開の桜並木。森に生まれた白い筋。
 入学式の後に配られたビラを見ながら、これから入るサークルを検討しようという事になった。凛ちゃんは自分の家のように私の家を使っている。子供の時からずっと。二人とも一人っ子で遊び相手がいなかったから、一日中どちらかの家に入り浸るのが癖になっていた。だからこの家の隅々に、二人の「跡」が残っている。柱の傷はもちろん、凛ちゃんが暴れて空けた壁の穴や、何も考えずに貼ったアイドルのシール、保育園の頃の落書きなどが、そのまま保存されている。格好悪いから直したいのだけど、おじいちゃんがそういうものを宝物みたいに思っていて、修理をさせてくれない。気持ちは少し、分かるけど。
「小鷺の家は良いよね、いつ来ても葬式の匂いがする。大好き。」
宴会場のような私の部屋に入ると、凛ちゃんは深呼吸して笑った。
「朝、昼、晩と全員がお線香を上げるからね。遠くの仏具屋さんから取り寄せた、高級な線香なんだよ。」
「ふうん。律儀ねえ。」
身の周りに高級品しかない人に、線香の高さを力説しても仕方ないな。凛ちゃんはこの地区で知らない人はいない、大きな建設会社の社長の娘なのだ。中高一貫のお嬢様学校を卒業して、今春、私と同じ大学の土木工学科に入学した。
「ついこの間、うちも葬式をやったのよ。葬式は楽しいよね。人が沢山集まって、夜中ずっとおしゃべり出来るから。」
凛ちゃんの家は親戚が多くて、しょっちゅう葬式を出す。
「誰が亡くなったの?」
「ばあちゃんの妹。性格悪くて嫌いだったから、全然悲しくなかった。私が有名な学校に通っているのが気に食わなかったみたいでさ、会う度に「女に学問はいらない」とか言ってくるの。腹立って仕方なかったわ。でもまあ、葬式が面白かったから、許してあげよう。」
凛ちゃんは意地悪な笑顔で指を三本立てた。
「今回起きた事件は、三つ。」
親戚が全くいない私にはその辺の感覚が掴めないのだけど、血が繋がっている大勢の人間が一ヶ所にまとまって何かしようとすると、必ず揉め事が起きるらしいのだ。特に凛ちゃんの家はお金の事とか、難しい問題が色々あるようで、えげつないドラマのようなお話をいつも聞かせてくれる。
「まずお通夜の準備中に、輝子伯母さんと晶枝さん、この人は俊彦叔父さんのお嫁さんなんだけど、この二人がさ、台所の使い方の事で大喧嘩になっちゃって、平手の打ち合い。ほら、輝子伯母さんって、相撲取りみたいな体格でしょう?「やっぱり本場の平手打ちは違うよね。」ってみんな感心していたよ。」
輝子おばさんには私も何度か会っている。お正月に凛ちゃんの家に行った時に、ちょっと驚くような額のお年玉をくれた。全身が貴金属でキラキラしている、頑丈そうな人だった。
「次にお通夜の後のお清めで、隆久叔父さんがお酒を飲んじゃったの。あの人酒乱だからさ、息子の嵩ちゃんに殴りかかっちゃって、大乱闘。嵩ちゃんは今高校生で、文学部志望なのね。隆久叔父さんとしては、うちの会社の経営に関わらせるために、商学部か、せめて法学部に入ってもらいたいと思っているのよ。その事で前から上手くいっていなかったんだけど、お酒で爆発しちゃったみたい。」
私は嵩君の繊細そうな顔貌を思い出していた。きつい目と、赤い唇。
「で、葬式の朝、今回死んだばあちゃんの妹の娘の、玲子さんが、「あんたの旦那のせいでお通夜が無茶苦茶になった」って嵩ちゃんのお母さんを責め始めて、そのうち口だけじゃ済まなくなって、流血の惨事よ。当の隆久叔父さんはいつも通り暴れた記憶を失くしているし、夫婦喧嘩も混ざって、大変だったわ。一番可哀相なのは、嵩ちゃんよね。」
嵩君にだけは本気で同情しているらしく、凛ちゃんは笑顔を消した。でもすぐに声を立てて笑い出した。
「その後直ちに葬式だったから、包帯を巻く暇もなくてさ、みんな血を流しながら坊さんのお経を聞いてんの。可笑しかったよー。」
へー、としか答えられずに、私はガラス戸の向こうの竹林を見た。実を言うと、私はまだお葬式に出た事がない。お父さんのお葬式なんて覚えていないし、おばあちゃんは私が生まれるずっと前に亡くなっている。よく知っている人が死ぬと言うのは、どんな気持ちなんだろう。芸能人が死んだりすると、ワイドショーで涙、涙のお葬式を見せてくれるけど、なんとなく演技みたいで、死の実感が得られない。そういえば、凛ちゃん家のお葬式で誰かが泣いたという話は一度も聞かない。
「人が死ぬってどんな感じ?」
「何でもない感じ。でもまあ、悲しそうにしなきゃ、くらいは思うわね。しんみりした空気を作るというか。そうそう、こういう迷信知ってる?近くで人が死ぬと、カラスが「アーヤ、アーヤ」って鳴くんだって。「カア、カア」じゃなくて。」
「嘘だよ、そんなの。」
「それが、ばあちゃんの妹が死んだ日に、聞いちゃったのよ。カラスの声を。最初は私も、非科学的で馬鹿みたい、と思ったの。でも、動物って、その場の雰囲気を読むでしょう?うちのヌーなんてさ、お母さんが風邪で寝込むと、一緒に具合悪くなっちゃうのよ。」
ヌーというのは凛ちゃんが飼っている犬の名前で、十五歳になるマルチーズだ。凛ちゃんのお母さんにとても懐いている。
「ヌーが「病気の雰囲気」を読むからよ。だからカラスも読むんじゃないかしら。「死の雰囲気」を。」
ヌーは、ガンの宣告を受けてから三年生きている。ヌーの病気が判った時、凛ちゃんは私の家に来て大声で泣いた。でも最近は、「ヌーは長持ちよね。高かっただけあるわ。」なんて酷い事を言うようになった。
「色んな葬式を経験したけど、私も死が何なのかよく分からないわ。」
どうしてかな。死は世の中に溢れているのに。
「ヌーが死んだ時初めて、本当の死を知るのかもしれない。」
 学校帰りに買った椎茸茶を飲みながら、サークルのビラを畳に並べた。運動は絶対にしたくなかったから、「テニス」とか「スキー」の文字のあるビラは全て除けた。
「小鷺は決まった?」
凛ちゃんはまだ何も決められないようで、どのビラにもきちんと目を通していた。
「うーん、やっぱり物理研究会かなあ。」
「おじいさんが物理学者で、お父さんも似たようなもんで、物理学科に通って、物理研究会に入って・・・。そんな人生で本当に良いの?」
「うん。」
呆れられてしまった。いつもの事だけど。
「ちなみに、高校では何部だったの?」
「物理部。」
もう何も言わないよ、凛ちゃんはそう言って椎茸茶を飲み干した。お吸い物みたいで美味しいでしょう。
「興味が湧くサークルが無いよ。どこにも入らないでいようかな。もう少ししたら、忙しくなるかもしれないし。」
二人とも横になって、窓の外を見た。空が赤く染まりつつあった。
「公務員になる勉強をするために、学校に通おうかと思っているのよ。」
「何で公務員の勉強なんてするの?凛ちゃんは家を継ぐんでしょう?」
私は思わず飛び起きてしまった。
「あの会社嫌いだもん。それにこの辺では大きい方だけど、全国的に見たら弱い会社なのよ。いつまでも安定した経営が出来るとは思えない。つまらない会社と一緒に滅びるより、官僚になって国土計画に携わる方が楽しそうだわ。お金より、権力の方が美しいと思わない?」
「わからない。考えた事ない。」
凛ちゃんは、私が決して思い付かないような事ばかり考えている。脳みそが、私の何倍も実用的に出来ている。
「小鷺は大学を卒業したらどうするの?大学院?」
「あんまり考えてないけど、一先ずは、」
「一先ずは?」
「科学好きなお姉さんになる。」
「その後よ。」
「その後は、科学好きなおばさんになる。」
私は自信満々だった。科学。素敵な言葉。
「で、最後、科学好きなおばあさんになるの?」
「そうそうそう。」
「ばか。どうやって暮らしていくのよ。」
暮らす。そうか、ごはんを食べなければ、生きていかれない。
「凛ちゃん家の家庭菜園から野菜を盗んで、生き長らえる。」
「訴えるわよ。」
凛ちゃんが湯呑茶碗を振ったので、もう一杯椎茸茶を入れてあげた。
「何も考えてないでしょう、小鷺は。母親は何か言って来ないの?将来の事とか。」
「なーんにも。」
お母さんは私に何の要求もしない。物理学科に行きたいと言った時も、お母さんが働いている大学を受験すると決めた時も、「あら、そう。」としか答えなかった。結局その大学に入学する事になったのだけど、お母さんの意見はたった一言。「遠いわよ。」確かに遠かった。
「小鷺はきっと研究者になる。血筋から考えても、性格から考えても、それしかないと思う。嵩ちゃんも、小鷺みたいに運命に従順になれれば、楽なのにね。」
運命。ジャジャジャジャーン。そんなに大仰なものなのかな、私が選んだのは。
 気が付くと、もう竹林の中は夜になっていた。朱色の空に、黒い竹の葉が揺れている。日常の中で影絵のような景色が見られる幸運に感謝した。

 凛ちゃんが帰った後、私はほんの少し後悔していた。おじいちゃんの事を相談出来なかった。この二ヶ月間、第一志望の大学に合格するという人生最大級の喜びがあったにもかかわらず、不眠症気味だったのは、おじいちゃんの夢遊病(?)のせいだ。三日に一度くらい、夜中に竹林の中に入っていって、おばあちゃんとお父さんの名前を呼ぶ。一体何の意味があるのだろう。いよいよ本格的なボケかしらとも考えたけど、昼の間は存外しっかりしている。大学を退職した後、おじいちゃんは家から少し離れた所にある商店街に買い物に行くのを日課にしている。商店街の人達は皆おじいちゃんが大学の教授だった事を知っていて、「先生、先生」と声を掛けてくれる。一番優しくしてくれるのは化粧品屋のおばちゃんだ。この前おじいちゃんはそこで口紅を買ってきた。苺のような色だったので、私にくれると確信したのに、口紅は仏壇のおばあちゃんの写真の前に供えられていた。二十代で亡くなったおばあちゃんには、確かに苺色の紅が似合う。隣に置いてあるのはお父さんの怖い顔。こちらもまだ二十代だ。早死の家系。嫌だな。でも私はお母さんに生き写しだから、遺伝子はどんな具合なんだろう。実は母方の祖父、祖母について何も知らない。お母さんは「いないのよ。」としか教えてくれなかった。「いない」というのは「死んだ」と同じだろうか。あまり深く聞けないまま今に至っている。凛ちゃんの一族は、メンデルの遺伝の実験のようだ。親族がどこも欠けていない。「おじいさんの従兄弟の孫」なんてのが凛ちゃんに似ていたりして、とても奇妙だ。凛ちゃんの性格はお父さん譲りで、どちらも私の世話を焼いてくれる。小学生の頃、私は石崎という男子に集中的にいじめられていた。私は極度の運動音痴で、球技やリレーなど集団でやる競技になると、必ず周りに迷惑を掛けた。石崎は体育をするために学校に来ているような奴だったから、私がとても邪魔だったのだ。汚い言葉でなじるのに始まり、顔が狐に似ている事から「女狐」というあだ名を付けられたり、後ろから物を投げ付けられたり(野球が得意なだけあって、いつでも頭に命中した)、私は毎日泣かされていた。一番怖かったのはやはり直接的な暴力だ。髪の毛を引っ張られると、毛が全部なくなってしまう恐怖を感じた。投げ飛ばされて机に頭をぶつけた時は、殺される、と思ったものだ。私を男性恐怖症にした石崎に、凛ちゃんはたまに仕返ししてくれた。凛ちゃんの得意技は「引っ掻き」で、石崎は首に血を滲ませ大声で泣いた。ただ単に喧嘩好きなだけかもしれないけれど、私は凛ちゃんを頼りにしていた。凛ちゃんのお父さんも、とても頼り甲斐のある人だ。昔ながらの「親分」で、父親を早くに亡くした私を不憫に思ったらしく、凛ちゃんと一緒に様々な遊びに連れて行ってくれた。外国に行かせてもらったのも嬉しかったけれど、私は毎年欠かさなかった「梨狩り」が忘れられない。毎回ダンボール箱一杯の梨を持ち帰って、おなかを壊す程たっぷり食べた。凛ちゃんのお父さんは傷があるのや、色の悪いのばかりを選んでもいでいた。あの梨園、潰れてしまったそうだけど。
 私の不幸な境遇(?)は、私に色々なものを見せてくれた。お礼を言うべきなのだろうか。「運命」に。

 目を開けると、私の部屋も夜になっていた。慌てて台所に行くと、お母さんが一人でたこ焼を食べていた。
「小鷺がなかなか来ないから、先に食べ始めちゃったわ。先生はもう終わったわよ。」
お母さんはおじいちゃんの事を先生と呼んでいる。
「どうしたの、このたこ焼。」
「今日、駅前でね、腕に刺青をしたお兄ちゃんが、赤ん坊をしょったままこれを焼いていたのよ。どんな事情があるのかしらと考えたら、居たたまれなくなって、全部買い占めそうになったの。でもうちでは食べ切れない、と理性が働いてね、五パックで止めておいたわ。」
これがお母さんの買い物の仕方だ。質も値段も関係なく、情だけで物を買ってくる。
「うちは三人家族だから、一人5/3パックずつ食べなければいけないのね。」
「先生は一パックしか食べなかったから、小鷺と私は二パックよ。」
たこ焼にはタコが全く入っていなくて、少しお花見の味がした。
「大学はどうだった?」
「入学式だけでは分からないよ。とりあえず遠かった。」
「行きと帰りで一冊本が読めるわよ。」
お母さんが読書家になったのは、ここに住むようになってからだそうだ。「電車ではこれしか出来なくて。」と悲しげに言われた事がある。
「先生が切ったグレープフルーツ、食べるの忘れないでね。」
冷蔵庫を開けると、半分に切って黒糖を散らしたグレープフルーツが三つ、ラップに包まれていた。
 私が二つ目のグレープフルーツを食べ終わると、お母さんはテーブルの上を片付けた。食器を洗うお母さんに、思い切って話し掛けた。
「お母さん、おじいちゃんが最近変なの。夜中に竹林に入って、おばあちゃんを呼ぶんだよ。お父さんの名前も。」
お母さんは何も答えずに洗い続けた。
「ボケちゃったのかな。」
「昔から半分ボケていたわよ。」
お母さんは私の話に少しも驚かない様子で、同じ動作を繰り返した。
「真剣に考えてよ。みの、よしゆき、ってはっきり言ってるの。何度も何度も。ちゃんと聞こえるんだよ。竹林の中から。みの、よしゆき、みの、よしゆきって。」
お母さんは洗い続けた。私の言葉を全く聞いていないかのように、無反応だった。ねえ、と強く言おうとした瞬間、お母さんの頭が不自然なほど下がっているのに気が付いた。そう言えば、今日使った食器は湯呑茶碗だけだ。なぜそんなに時間を掛けているの。
「お母さん」
お母さんは動きを止めた。振り向きもせず、言葉を返そうともしなかった。お母さんの背中だけが、別の空間に行ってしまったような気がした。
「泣いてるの?」

 今日も布団をガラス戸際に敷いた。おじいちゃんが竹林に入るようになってからずっとそうしている。本当は部屋の真ん中で、人間である事を忘れて眠りたいのに、近頃は思考、思考の睡眠になっている。脳は不便だ。問題を解決出来ないのに、忘れる事も出来ない。
 お母さんは泣いていたのだろうか。私は救いようのない泣き虫だが、お母さんが泣いているのは見たためしがない。母親とは泣かないものだと思っていた。でも今日のお母さんの姿を見て、私の心に不思議な感情が起こった。
「懐かしい」
心の奥で、何かが引っ掛かったのだ。言葉になんて出来ない、色も匂いも分からない、雰囲気の断片のようなもの。
 お母さんは子供の頃からあまり変わらない。たまに馬鹿馬鹿しいダジャレを言って、家中をしんとさせたりする他は、大抵いつもぼんやりしている。普通のお母さんは、成績や生活態度などに文句をつけたりするそうだけど、うちのお母さんは私に何も求めない。一度、
「どうしてお母さんは、私に「勉強しろ」と言わないの?」
と聞いた事がある。すると、
「言わなくたって、小鷺は勉強ばかりしているじゃないの。」
と言われた。確かに私は勉強好きだ。他に何も出来なかったせいもあるけれど、これはおじいちゃんの影響だと思う。おじいちゃんは家にいると、朝から晩まで勉強している。その隣で漢字の練習をしたり、算数の問題を解いたりするのが好きだった。塾になんて行かなくても、おじいちゃんが勝手に授業をしてくれた。おじいちゃんの教え方は、学校の先生とは全然違っていた。説明は巧くないのだけど、学問に対する愛情が強く伝わって来て、胸が無性に熱くなる。一番激しかったのは「微分」の解説だ。私はまだ微分の最初を習ったばかりで、微分の計算は出来るけど、微分の意味がよく解らないという状態だった。おじいちゃんはまず、
「小鷺も微分を習うような歳になったか。」
と涙ぐんだ。それから、微分は色々な所で使われるんだと言って、車の速度・加速度の話から、電気の話、放射性物質の話などへと続き、経済学の話でようやく終わった。半分も理解出来なかったけれど、瞳を輝かせながら話すおじいちゃんがとにかく可愛らしかった。熱烈に、でも少し照れながら。まるで初恋の話をしているみたいだった。この時から、微分を勉強すればきっと良い事があるのだろうと思うようになり、受験勉強も頑張れた。
 私が物理学科に入ったのは、おじいちゃんが書いた論文を読んでみたかったからだ。おじいちゃんが自然に向かって書いた文章。恋文のような文面に違いない。
 こんな理由で大学を選ぶのは変なのだろうか。ふと、「女に学問はいらない」という言葉を思い出した。真実かもしれない。凛ちゃんは男女差別に反発したのだろうから、「人間に学問はいらない」と言い替えたらどうだろう。学問が起こす問題は多く、解決するものは少ない。学問は純粋に楽しむのが一番健全なのではないだろうか。学問に頼らなくても、人は救える。
 お母さんの昔の写真を見た事がある。品の良いほっそりした体と、腰まである黄金色の髪。背が高い事もあって、周りが霞むほど綺麗だった。おじいちゃんが言うには、学生はもちろん研究者の間でもとても人気があり、お父さんとお母さんが結婚した時には大勢の男の人が嘆き悲しんだそうだ。まだ女子学生が少なかった頃。お母さんはそこに存在するだけで他者を幸福にしていたのだ。
 お母さんに顔も姿もそっくりなのに、私はちっとも男子にもてない。形は同じでも、お母さんと私は「感じ」が違う。田舎臭いと言うか鈍臭いと言うか、私は何をやっても垢抜けない。山育ちのせいか、それともこれが父の遺伝子か。
 私の存在は誰かを幸福にしているのだろうか。前から気になっている事がある。まだお母さんの髪が長かった頃、お母さんは私を妙な場所に連れていった。繁華街に近いアパートで、ひげもじゃの愛想の悪いおじさんが待っていた。私はそのおじさんが怖くて怖くて、大声で泣き喚いた。多分そのおじさんは、子供をどう扱ったら良いのか分からなかったのだろう。私に話し掛ける事もなく、静かにギターを弾いていた。その音色はとても優しかったので、私は目の前にいるのが「ひげもじゃ」であるのを忘れて眠り込んだ。
 目を覚ますと電車の中だった。お母さんは何を話しても上の空で、帰り道はとても寂しかった。
 今思えばあのおじさんは、お母さんの恋人だったのではないだろうか。お母さんは再婚したかったのに、私がいたために駄目になったのではないか。あの時私が泣き喚かなければ。
「みの」
私はすぐに目を見開いた。竹林はいつの間にか風に荒れ狂っている。嵐の海のようなざわめきと共に、おじいちゃんの声が途切れ途切れに聞こえてくる。
「よしゆき」
 お母さんはどうして相談に乗ってくれなかったのだろう。こんな事は今まで無かった。おじいちゃんも、お母さんも、私の願いなら何でも聞いてくれた。私が「どんぐりのお団子が食べたい」と言えば、籠一杯に椎の実を拾い集め、食べ切れない程の団子を蒸し上げてくれた。私が学校から泣いて帰れば、何時間でも私の話を聞いてくれた。友達と喧嘩した時も、泣いた理由をはっきり言えない時も、いつだって二人は私の味方をしてくれた。
 世界全てが敵になっても、二人は一緒に戦ってくれる。そんな確信があった。
 私はこの無闇に広い箱の中で、大切に大切に育てられた、お姫様だった。それはいつでも絶対だった。疑いなんて何も無かった。
 だから、こんな歳になるまで気付かなかったのだ。
 この空間が、本当はとても、脆いという事に。
 脆いという事は、壊れるかもしれない、という事だ。ここが壊れるとはどういう事だろう。家が崩れる?それは違う。私が恐れているのは、家族の崩壊だ。でも私達の心はバラバラになったりしない。家族が壊れるという事は。
 誰かがいなくなるという事?
 それは、死ぬという事?
 おじいちゃんもお母さんも私も、死ぬ程健康だ。風邪一つひかない。なら何が怖いの?おじいちゃんが死者を呼ぶ。お母さんが涙を流す。それに対して生じる、このどうしようもない不安の理由は。
 心の死。魂の死。体の死なんて問題じゃない。人間は精神で生きている。
 そして今、おじいちゃんの精神は、死に向かって歩き始めているのだ。
 私は布団を剥いで立ち上がった。
「みの」
おじいちゃんの声はまだ聞こえている。私は寝巻のまま自分の部屋から飛び出した。庭にあったつっかけを履いて、竹林を睨み付けた。風は思ったより強く、竹は互いの葉を叩き合っている。その激しい音は、人を拒絶しているようでも、誘っているようでもあった。竹林の中は真の闇で、先に何があるのか全く見えない。夜空が奇妙に明るく感じられた。
「救う」
何故かこの言葉が心に現れ、私の胸を何度も打った。救う。それは甲高い鐘の音のように私を焦らせ、私の足を動かした。おじいちゃんの所に行かなければ。藪の中へ。闇の中へ。
 一歩踏み出した途端に、頭を竹にぶつけた。い、痛い。二歩目、足が何かに引っ掛かり、転んでしまった。再び頭を打った。起き上がれない。これは困った。どうしよう。
 竹林の入り口で寝そべったまましばらく暴れていたが、すぐに冷静になった。何をしているんだ私は。明るい所と同じ感覚で暗がりを歩くからいけないのだ。私は目を瞑った。私は目が見えないんだと自分に言い聞かせる。耳と皮膚の感覚を尖らせた。嵐の音。それと同質の乾いた音が、体の下で生じている。枯れた竹の葉が割れる音だ。すぐに寝巻に何かが刺さっているのが分かった。細い棒のようなもの。指で触れると、折れた竹だった。
 どうにか竹の拘束から逃れ、起き上がり目を開けた。
「よしゆき」
おじいちゃんの声は風に消されて、近くなのか遠くなのか感知出来ない。私は空を見上げた。弓のようにしなって揺れる竹と竹の間に、粉のような星が散っていた。弱く、小さな光。ずっと、ずっと遠くの。
 どこに向かって進めば良いのか考えずに、とにかく私は足を前に出した。また転ぶのは嫌だったから、掴める竹を探しながら、慎重に枯葉を踏んでいった。足の下の寂しい響きは、竹林の轟音に溶けていく。
 足取りは落ち着いて来たのに、胸は苦しくなる一方だった。今まで形にならなかった感情が、言葉に変化していった。幼い頃にもはや生じていた、罪の意識。
私がいなければ、お母さんはもっと幸福になれたかもしれない。
小鷺がいつも泣いてばかりで、おじいちゃんも悲しかったはず。
父のない子を不幸にしてはいけないと、必死だったでしょう。
宝物みたいに育ててくれて。
ざわめきが私に問い続けた。私という存在の意義。罪に対して私が為すべき事は。
救う。私が救う。私しかいない。救わなければ。
やれるかどうかは問題でなかった。方法も考えていなかった。救うという言葉の、訳の分からない力に突き動かされていた。救う。その意味は?
「おっ。」
 前にいるとばかり思っていたおじいちゃんの声が後ろから聞こえたので、何かに化かされているのかと一瞬疑った。しかしすぐに、道のない藪の中で、出会わずに追い抜くのは容易いと気が付いた。「小鷺か、ハハハ。」とか、「びっくりさせるな。」という言葉が続くと思っていた私は、その場でじっとしていた。
 いくら待っても、何も起こらなかった。おじいちゃんの声はもう聞こえず、気配もなくなってしまった。私は一本の太い竹に寄りかかり、竹の葉の間から覗く空を見続けた。
遠い星。小さい星。弱い星。
 私は自分の髪を星にかざした。これほどの暗闇の中でも、私の髪は金色だった。日本人なのに。私もお母さんも、本当は狐なのかもしれない。何かの間違いで、もしくは何か目的があって、人間の世界に紛れ込んだ。そして狐は本来の姿を忘れ、科学者を目指している。変なの。
 お母さんはずいぶん前に髪を切ってしまった。「懐かしい」という感情は、お母さんの長い髪の思い出から滲み出ている。
 暗い台所。私の目の位置は限りなく床に近い。テーブルから垂れ下がるお母さんの髪は、光を失ったまま絡まり合っている。お母さんの表情は見えないのに、心の湿りが伝わってくる。私は幼心に甘味を感じた。非現実的で、半分夢だと信じていた、私の最初の記憶。
 上ばかり見ていたので首が痛くなった。最後には疲れで目眩を起こしてしまった。暗いはずの竹林が白く見え、空の星が動いた気がした。
 流れ星?
 幻だったのかもしれない。

 その夜以降、おじいちゃんの夢遊病(?)はすっかり見られなくなった。あれは何だったんだろう、と思い悩む暇もなく、私は理系学生特有の忙しさに飲み込まれた。実験とそのデータ処理。最初の週からレポート十枚出せと言うのだから、信じられない。大学生は楽だなんて、誰が言ったの?
 物理学辞典を借りにおじいちゃんの部屋に行ったが、おじいちゃんはいなかった。家中探しても姿を見つけられなかったので自分の部屋に戻ると、おじいちゃんは私の部屋に付いている縁側で、日向ぼっこをしていた。
「ずっとここにいた?」
「うん。」
小さくて分からなかったのかな。それとも髪の無い頭のてっぺんが、日光と同化しているからだろうか。
「物理学辞典借りても良い?」
おじいちゃんはこちらを向いて頷くと、再び体を太陽にさらした。
「何に使うの?」
「実験のレポート。結果をまとめた後に、考察を書かなければいけないの。」
 部屋の畳も光を浴びて、暖まっていた。おじいちゃんの傍に辞典とレポート用紙を広げて、寝転がった。
「学校は楽しいか?」
「女の子が少ないの。土木工学科は凛ちゃん一人だって。うちは五人いるけど、まだ話し掛けられない。」
私は初めての人が苦手だ。新しい場所に慣れるのに、とても時間が掛かる。
「実験の班はね、私以外みんな男の子なの。私の話なんて聞いてくれるのかな、と思うと不安でね、何も話せないでいるの。これからずっとこのままかも。」
十八にもなって男の子が怖いなんて言っていると、凛ちゃんに殴られそうだから、努力しようと思っている。思っているけど。
「この間はエレベーターの中で貧血を起こしたの。」
おじいちゃんは私の顔を見た。目を大きく開けて。
「男の子に囲まれて怖かったのもあるけど、エレベーターに男の子の匂いが充満していてね、それがすごく嫌だった。」
あれは本当に、吐き気がした。男の子はどうして変な匂いがするんだろう。他の人は平気なのだろうか。それ以来、私はエレベーターに乗っていない。
「そうか。」
おじいちゃんは再び竹林の方に体を向けた。何だかおじいちゃんを悲しませる事ばかり言ってしまったと、反省した。これは私の戦いなのに。大人になるための。
春風にそよぐ竹林の葉は陽を反射して、無数の光の粒に見えた。通学途中にある川の水面に少し似ている。
「おじいちゃん、あの時どうして声掛けてくれなかったの?」
「あの時?」
「竹林の中だよ。真夜中の。おじいちゃん、私を見つけて「おっ。」って声を上げたじゃない。」
 おじいちゃんは古いコンピューターのように固まったまましばらく考え込んでいたが、ようやく全て理解したらしく、ほのかに顔を赤らめた。
「あれは小鷺だったのか。」
「気付いてなかったんだ。」
おじいちゃんは頷いて、恥ずかしそうに微笑んだ。
「どうしておばあちゃんの名前なんて呼んでいたの?お父さんの名前も。」
おじいちゃんは話すのをためらっているのか、光に溶けたまま動かなかった。レポート用紙の白が眩しい。
「面白い本を読んだんだよ。」
私は関係ない話をし始めたのかと思った。やっぱりボケちゃったの?
「おじいちゃんより年寄りの、女性の作家が書いた身辺雑記でね、「最近幽霊を見るようになった。」と書いてあるんだよ。幽霊なんてのは、特殊な能力がある人とか、ちょっとおかしい人とか、とにかくおじいちゃんと何の係わりもない人達が見るものだと思っていた。」
私は狐だけどね、と思いながら部厚い物理学辞典のページを繰った。
「その作家の書き方が上手でね。この世に執着を残して死んだ先祖が、とても些細なやり方で、彼女に助けを求めるんだ。幽霊が、恐ろしい化け物のように描かれていたら、一笑に付していたと思う。でも彼女は幽霊を弱いものとして書いていた。怨みや欲望を捨て切れず、かと言ってその源を壊す事も出来ずに、ふらふらするんだ。幽霊は人間の精神そのものなんだよ。人間は死んでも人間なんだと、妙に納得した。そして、幽霊は本当にいるのかもしれないと、信じそうになったんだ。」
風は暖かく、幽霊の話に似つかわしくないように感じた。竹林の葉の擦れる音の爽やかさ。
「しかしそこで、確かめずに信じるのは良くないと、学者根性が出てきたわけだ。」
「それじゃあもしかして、おばあちゃんとお父さんを呼び出して、幽霊の存在を確かめようとしたの?」
おじいちゃんは本当に恥ずかしそうに、禿げ頭を掻いた。
「二ヶ月経っても現れなかった。なに、研究は「鈍」が大切なんだ、結論を急ぐのはいけないと、あと一年位は頑張るつもりでいた。ところがあの日、いつも通り竹林を歩いていると、「人の気配」が近付いて来るのが分かったんだ。自分以外の何者かが、この地面を力強く踏みしめている。おじいちゃんは戦慄した。」
私の足音はそんなに大きかったのだろうか。無我夢中になっていた自分を思い出した。泥まみれの。
「おじいちゃんはそれが何なのか確かめるどころか、もう少しで卒倒しそうだったよ。どうにか意識は失わずに済んだけど、小鷺が一番近くに来た時に、腰を抜かしてしまったんだ。全く情けない。幽霊の研究をするには、おじいちゃんは度胸が無さ過ぎるんだ。資格がないんだよ。」
おじいちゃんはわざとらしい程の大声で笑うと、急に静かになってしまった。庭も、畳も、全てが明るく暖かいのに、おじいちゃんの背中は悲しくなるくらい寂しかった。おじいちゃんの背中は昔から変わらない。多分、私が生まれるずっと前から。
 おじいちゃんの心細さが伝わって来て、私は泣きそうになっていた。聞いて良いのか分からなかった。でもそうとしか思えなかった。
「会いたかったの?」
「ミノも、好幸も、他人が困っていたら必ず助けようとする人間だったよ。だから、出て来てくれるかもしれないと、思ったんだ。」
 優しい風だった。おじいちゃんと私がいつまで黙っていても許される空気だった。私は岩の前に佇む僧侶の気分で、絶望を味わっていた。あの夜、「救う」という単語に叩かれていた自分が、滑稽に思えた。
「もしおばあちゃんが出て来たら、あの口紅をあげようね。苺色の。」
おじいちゃんの表情は石のままだ。体も、中身も。
「いつもグレープフルーツが一つ余るの。お父さんはあの味好きかな?」
お父さん。白々しいな。呼んだ事もないのに。
 これは何だろう。自分の力では決して動かせない、この感じ。逆らう事が出来ない、神とか定めの力の強さ?いや違う。これは、人間の心の重みだ。沈むのは簡単なのに、なかなか浮き上がって来れない、哀れな重みだ。
「春は、良い匂いがするね。」
私はこの世を地獄だとは思いたくなかった。現に、この山には美しい竹林があり、立派な木は花や実を生み、私達を楽しませている。しかも今は春だ。日差しはまるで、天国のそれではないか。
「小鷺はどんな匂いを感じるんだ。」
おじいちゃんが口を開いてくれたので、私は明るい声で言葉を続けた。
「まず花が咲いているから、甘い匂いがするでしょう?あとは、湿気と土の匂い。それから暖まったイグサの匂い。」
私はこの広い部屋を転がり回って、全ての畳に挨拶したい気持ちだった。私が唯一安心して子供でいられる、この空間に。
「あとはね、「あったかい」の匂いがする!」
おじいちゃんは少し笑った。
「そうか、これは、あったかいの匂いか。」
おじいちゃんの顔が光って見えたので、私は心の底からの笑顔で、おじいちゃんの瞳を覗き込んだ。
よかった。
私は、無邪気に、そう思っていた。

(鳥のいる場所・完)
posted by 柳屋文芸堂 at 01:18| 【中編小説】鳥のいる場所 | 更新情報をチェックする