2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その2)

 今度こそ必ず遅刻しないで行くから、もう一度あの店に来て欲しい。

 司からメールが届いた。バイト先である居酒屋が人手不足で忙しく、余裕がなくて、約束をすっぽかすなんて最低最悪のことをしてしまって本当にごめん、言い訳してごめんと、一つのメールに「ごめん」という文字が三、四回出てきた。
 居酒屋で働くの、大変そうだもんな。あの夜は落ち込んだけど、まだ望みはあるのかもしれない。借りを返される側の優越感にひたりながら、

 気にしなくて良いよ。

 と返事を書いて、再び会うために予定を合わせた。
 約束の日、言った通り司は先に来て僕を待っていた。モスグリーンのアーミージャケットを着ていて、司の引き締まった眉と目によく似合っていた。のび太くんみたいな格好をしている自分が恥ずかしかった。
 メールと同じように何度も「ごめん」と繰り返した後で司は、
「翼は甘いもの平気?」
 と聞いてきた。その時に僕が飲んでいたのはストロベリーダイキリで、僕が甘いもの好きなことくらいすぐ分かるだろうにと思いつつ、うん、とうなずいた。
 司は茶色い革のリュックから、小さな黒い紙袋を取り出して僕に渡した。
「お詫びの、チョコレート……」
「わーっ ありがとう!」
「あと、待っている間に使ったお金も払うよ」
「いや、いいって、ほんとに。気にしないで!」
 前回の支払いはアキラがしてくれたのだ。
 司はバイト先の居酒屋の話をし、僕は自分のバイト先である個人指導の塾の話をした。給料は悪くないけど事前に教えることを予習しなければならず、結局時給にしたら五百円くらいなのかも、とかそんな話。
 大変だねと言い合ったら、もう次にするべき会話が見つからなかった。司は前に会った時と変わらずうつむきがちで、僕とは絶対に目を合わせない。サークルに入ってないのはもう聞いた(僕も入ってない)お酒を飲みながら大学の勉強の話をするのもどうかなぁ、と思う。二人とも無言の、気まずい時間がしばらく続いた。
「よぉ!」
「あっ」
 顔を上げると、アキラの顔があった。花火がパンとはじけるような、明るい笑顔だった。
 どうしよう。アキラは何故か店員のように銀の盆を持っており、司の隣に腰掛けた。
「再会を祝して!」
 アキラはテーブルに炭酸飲料の入った三つのコップを置き、僕たちに持つよう促した。
「乾杯〜!」
 飲んでみると、それはジンジャーエールだった。司はストローに口を付け、不審そうにコップを見た。
「どうしたの?」
「これ……」
「まあまあ、気にせず飲んで飲んで!」
 そう言いながらアキラは司の肩に腕を回し、耳元に口を寄せた。キスしたんじゃないかと疑うほどの近さだった。司は跳ねるように腰をずらしてアキラを見た。
 その司の横顔を、僕は一生忘れない。瞳はうるんで上目遣いで、色白じゃないから分かりにくいけど、頬や耳は真っ赤だった。司、こんな顔するんだ。無表情でもクールでもない。可愛い、というのがぴったりだ。
 アキラは司の肩を引き寄せて、再び耳元で何か言った。司はもう飛び退かなかった。アキラに髪や首を触られても、下を向いてされるがままになっている。
 僕はアキラにやめろと言えなかった。司が喜んでいるのがはっきり伝わってきたから。司はアキラの太ももに手をつき、二人でコソコソと話している。僕は完全に蚊帳の外。いないも同然だった。
 このままここでやり始めちゃうんじゃないかと心配させるような光景を存分に見せつけてから、アキラは立ち上がった。もちろん司と一緒に。席を離れる時にアキラは小さく手を振ったけど、司は太い腕に包まれてこちらを見もしない。店の扉がカランと鳴り、閉じる。僕の目の前にあるのは三つのコップと伝票だけ。
 瞬く間の犯行に、僕はしばし呆然とした。盗られた…… 司のコップには半分くらいジュースが残っている。一口飲んだ後に何か言おうとしていた。変な味でもしたのかな。まさか惚れ薬? 僕は化学の授業で習った通り、コップの上を扇いで臭いを確かめた。
 これ、ジンジャーエールじゃない。アルコールだ。考えるのが面倒になってぐいっと飲んだ。やっぱりシャンパン! わざわざジュース用のコップにシャンパンを入れて持ってくるなんて、アキラは最初から司を奪う気満々だったんだ。
 司の態度はお酒のせいだったのだろうか。違う。司はアキラを気に入ったんだ。僕なんて視界から消えてしまうくらい強く。
 会計を済ませて(シャンパン代は請求されなかった)自分の部屋に帰っても、僕は司からもらったチョコレートの袋を開けなかった。捨てるのももったいなくて、パスタ入れの底の方に隠した。見える場所に置いておくのが辛かったから。
 今頃、してる真っ最中だろうな。もし二人がホテルではなくアキラの家に行ったとしたら、すぐ近所なのだ。激しい声が聞こえてくるようで、やり切れなかった。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:51| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。