大学は夏休みに入っていた。僕は塾のバイトのために熊本には帰らず家にいた。サークルの合宿や旅行に行く人が多く、僕はいつも見ていない生徒まで教えなければいけなくなって、中学三年生の国語の問題集を解いていた。理系の学生が古文の指導なんかして良いの? って冷や汗かきながら。
だんだん飽きてきて、シャワーを浴びて寝ようかな、と考えていた午後十時。携帯電話の着信音が鳴った。
会いたい。
どこにいる?
司からだった。唐突な文面が何だか怖い。でもまあ司は基本的にぶっきらぼうな人だし、会いたいと言ってくれたのは嬉しい。僕は「自宅にいるよ。来たければ来れば?」と住所を添えて返信した。
五分もしないうちに玄関のチャイムが鳴ってゾッとした。何で…… ああ、司はアキラの家にいたんだ。アキラの家ってここからそんなに近いの? 嫌だなぁ。僕は顔をしかめたまま玄関のドアを開けた。
司は夏休み中の大学生にしてはずいぶんきちんとした格好をしていた。鈍く光る真鍮ボタン。ネイビーブルーのシャツにいくつも染みを作って、司は泣いていた。
「どうしたの?」
うつむいたまま何も答えない。腕を引っぱって家に入れると、司は靴を脱がないうちにしゃがみ込んだ。
「翼、助けて」
「アキラに何かされたの?」
司は頭を抱えてしゃくり上げる。
「とにかくさ、こっち来て座りなよ」
僕は司を無理に立たせて靴を脱がせ、椅子にもなる大きなクッションのところに連れてきた。お姉ちゃんから「分厚くて使いにくい。あげる」と押し付けられたタオルがあったのを思い出し、司に渡した。ふかふかし過ぎて本当に使いにくいのだけど、涙を拭くにはちょうど良さそうだった。
クッションの前に片膝をついて司の顔を覗き込む。
「落ち着いた?」
目からタオルを離すと再び涙があふれてはらはらこぼれる。
「何があったの? 警察を呼ぶようなこと?」
司は首を大きく横に振った。服装や髪に乱れはなく、暴力を加えられた気配はない。
「俺のわがままなんだ」
司がタオルを顔に当てたまま震える声で言った。
「アキラとケンカしたの?」
司はまた首を横に振る。これは長くなりそうだな。僕はテーブルの椅子を移動させて司の前に座った。
「あの後、毎週会ってたんだ。アキラと」
「あの後って?」
「翼がアキラを紹介してくれた夜」
紹介なんかしてないよ! シチュエーションが勝手に改変されてる〜 司の記憶、どうなってるの? お酒のせい? 忘れかけていたムカつきが一瞬でよみがえる。けれども僕は無言で耐えた。司があまりにも悲しげに泣き続けるから。
「もう恋人みたいなものなのかな、って思って…… でも、はっきり確かめるのが怖くて…… アキラに『恋人いるの?』って尋ねたんだ」
いる訳ないじゃん! アキラは特定の相手と付き合うタイプじゃない。一回きりで終わらなかったのが不思議なくらいだ。僕はすっかりあきれてしまった。司、ほんとに何見て何考えてるの。
「そうしたら、
『俺は恋人という制度が嫌いなんだ』
って言われた」
「制度?」
結婚が制度なのは分かる。恋人も制度なんだ。言われてみればそうかもしれない。あのチャラチャラしたアキラが「制度」なんて堅苦しい単語を使ったのが意外だった。
「仲良くしていた二人が、恋人になった途端にケンカばかりするようになったのをいっぱい見てきたって。お互い束縛して、浮気したって騒いで。アキラはもっと自由にやりたいみたい」
「まあそうだろうね……」
「それでアキラこう言うんだ」
急に強まった雨のように、司の瞳から大きな滴がポタポタ落ちる。
「『司も、俺の誘いを断って、別の奴と会っても構わないんだからな』って」
にっこり笑いかけるアキラの顔が見えるようだ。良い人ですね〜 僕はため息をついた。
「それってさ、アキラも俺以外の奴と会う可能性があるってことだよね……?」
当たり前! どうしてこの人はそんなことも分からずにアキラとやっちゃったんだろう。
司は急に腰を上げて僕の太ももにのしかかり、Tシャツの裾をつかんできた。
「助けて、翼。アキラを誰にも取られたくない! 取られたくない!」
駄々をこねる子供みたいに大声で泣き叫び、司の涙が僕の肌を濡らす。何て馬鹿な人。あのアキラを本気で好きになるなんて。僕にどうにか出来ることじゃない。さすがの司もそれくらい分かっているはず。だからこそこんなに泣くんだ。泣いたって仕方ないから泣くんだ。
「ねえ、司。寝ちゃいなよ。寝たら辛いことも遠くなるよ」
僕は司の服を脱がして自分のパジャマを着せた。司の裸は均整が取れていて綺麗だった。スポーツをやっているのかな。元気になったら聞いてみよう。いつ元気になるのか知らないけど。
僕のベッドに横たわらせても司はまだ泣いている。病人にするみたいに僕は司の手を握った。
「アキラのことを考えると体が痛くなるんだ。心のことなのに、全身がズキズキする」
「今はアキラを思い出さないようにしなよ」
「アキラのことしか考えられない」
でしょうね〜 僕のことなんか全っ然考えてないのはよく存じております。白々と醒めた気持ちと、それでも司を可哀想に思う気持ちを行ったり来たりしながら、僕は司に付き添い続けた。
しばらくすると司は寝息を立て始めた。僕はベッドの横に冬用の掛け布団を敷いてその上に寝た。
2020年03月03日
翼交わして濡るる夜は(その4)
posted by 柳屋文芸堂 at 10:49| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は
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