2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その6)

 飛行機代が高くなるお盆は避け、熊本へは八月の終わりに帰った。
「こん夏、お姉ちゃんも帰ってきたと?」
「帰る訳なか! 連絡一つなかたい。生きとっとか、死んどっとか」
 娘の安否の話なのに、お母さんは明るく歌うように言った。
「ピアノんことしか考えとらんばい。私もドイツにおった時は日本んことなんていっちょん思い出さんかったもんね」
 お姉ちゃんはドイツに留学して音大に通っている。お父さんとお母さんも若い頃、ドイツに留学していた。
 お母さんはくるりと振り向き、真面目な顔で僕を見た。
「木山先生に会いに行きなっせ」
「最初からそんつもりたい」
「先生少しね…… 認知症になりかけとる感じがすっと」
 僕はぶどうの皮をむくのをやめて顔を上げた。
「道で会うた時に、私を見て『誰やろう』って顔しとらした」
「老けたせいで分からんくなったんじゃなかと?」
 お母さんは眉をつり上げる。
「女の子にそぎゃんこつ言うたらいかんばい!」
「周りにおる女の子はまだ誰も老けとらんもん」
 翼が意地悪になった…… 東京になんてやるんじゃなかった…… とお母さんは大袈裟に嘆いてみせる。
「で、木山先生ん話は?」
「そうそう、私の顔は忘れたごたるばってんね、『翼は東京で元気にしとります』て言うたらすぐ分かってくれて、嬉しそうに笑っとらしたよ。だけん早めに行ってきなっせ」
 次の日、僕は木山先生の家に行き、ドビュッシーの「喜びの島」を弾いた。木山先生は子供の頃から高校を卒業するまで習いに行っていた、僕のピアノの先生だ。すぐ近所に住んでいる。
 木山先生はショパンやシューマンが好きで、僕はロマン派より後の作曲家の作品を全く教わらなかった。譜面だけ買って自己流で練習した曲を聴かせたらがっかりするかなと不安だったけど、木山先生は昔と同じように拍手してくれた。
「翼さんの音は、いつでん一つ一つ輝いとるようねぇ。曇り空なのに、こん部屋だけ太陽がさんさんと照らしとるごたる」
 色んな人に何度も言われていることだから、僕はお礼も言わずにただ微笑む。高校の音楽の先生に「南米からの帰国子女?」と聞かれたのは面白かった。とにかく僕のピアノの音は、光や熱や陽気さを感じさせるらしい。
「東京には立派な先生が沢山おんなはっとでしょ」
「先生て、大学のですか?」
「ええ。上手にならしたけん、よう分かります」
 いや、大学ではピアノなんか全然弾かないで、超伝導体を液体窒素で冷やしたりしてるんだけど…… 話のつじつまが合わなくて、どうやら先生は僕が音大に進学したと信じ込んでいるのだと気付いた。音楽の道には進まず、理工学部に入学したと報告したし、その時には残念がりつつも門出を祝福してくれたのに。
 否定したら先生が混乱するだろうと思い、適当に話を合わせて、僕が持っていった鳩サブレーを一緒に食べた。薔薇の絵の付いた金縁のカップに注がれた紅茶は、昔と変わらず優しい香りがした。

 高校時代の友人が僕の帰省に合わせて飲み会を開いてくれて、同級生が二十人ほど集まった。みな学生で、恋人同士もいれば、別れてしまった元カップルもいる。今日がチャンスと狙っている様子の人もちらほら。僕が加われる恋愛でなくても、見ているだけでワクワクする。
 隣の席は、高二の時に仲良くしていた漫画好きの女の子だった。短大卒業後に東京の会社に就職することが決まったと言う。
「東京恐ろしか〜 今から震えとる」
「そぎゃんお化け屋敷んごたっとこじゃなかよ」
 と笑ったのだけど、すぐにアキラのことを思い出し、東京は噂通り恐ろしい場所で、僕は油断してしまったのかなと反省した。
 東京に戻る前に柳川の祖母の家にも寄った。
「そこんにきのおばんば、みんな呼んで待っとるげな!」
 と楽しみにしていてくれて、はたして僕が到着すると、祖母の家はおばあさんたちでぎゅうぎゅうになっていた。僕は居間にある古いオルガンでバッハを何曲か弾いた。
 母方の親戚の家に行くと必ず何か演奏することになる。それは構わないのだけど、お姉ちゃんが日本にいた頃は大変だった。たとえ相手が子供であっても「男を立てる」気風が残っていて、必ず僕が先に呼ばれた。お姉ちゃんと僕とではピアノに対する意気込みが全然違うのだから、そこを汲み取ってくれないと困る。その後どれだけ憎々しげににらまれるか考えてみて欲しい。まあ、闘争心丸出しになったお姉ちゃんの演奏は迫力があって、嫌いじゃなかったけど。
 僕はおばあちゃんたちに安らかなお迎えが来ますようにと願いながら「主よ、人の望みの喜びを」を弾いてミニコンサートを終えた。大箱で買っておいた鳩サブレーを配ったら、
「愛らしか〜」
「うまか〜」
 と大好評だった。
 柳川から電車で博多の方に出て、福岡空港から東京行きの飛行機に乗る。さようなら、にぎやかな僕のふるさと。こちらから何かしなくても、ただそこにいるだけで僕を大切にしてくれる親しい人たち。
 僕はそういう温かい場所で生きてきたから、東京に出てくるまで、友達を作るのが下手だということに気付かなかった。
 誰かを信じるのも頼るのも、今の僕には難しい。東京だから? 僕も周りも大人になってしまったから?
 あの時はすごく簡単だと思ったのにな。僕は窓側の席でウトウトしながら、鳩サブレーを最初に「食べさせて」くれた男を思い出していた。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:47| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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