2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その7)

 福岡から帰ってきたのに辛子明太子を買い忘れたことに気付いて絶望し、駅前のスーパーに行ってみたら普通に売っていた。「なーんだ、ありがたみがないなぁ」と思いつつ一パック買う。僕を追いかけるように母から野菜と肉、祖母から魚の干物が届く。大量の食料を前に「僕、一人暮らしなのに」と苦笑した。
 だから司がまた夜中に突然玄関のチャイムを鳴らした時には、ニコニコと笑顔になってしまいそうな気分だった。もちろんそれは隠して神妙な顔で迎える。司は予想通り心を乱して泣いていたから。
「アキラにひどいことを言った」
 司は泣きじゃくってそう繰り返した。「ひどいこと」が何なのか尋ねても答えない。僕は前回と同じように着替えさせて自分のベッドに司を寝かせた。
「言わないように我慢してたんだ。でも」
 僕の手を強く握りしめ、涙をポロポロ落とす。
「司はきっと、頑張ったよ。そうじゃなければこんなに苦しくなるはずない」
 司のことを馬鹿だなぁと思うのに、軽蔑する気持ちにはなれない。遊び人にだって十分なれるくらい格好良いのに、器用に恋愛出来るタイプじゃないんだ。駆け引きすることも疑うこともなしに、ただただ一途にアキラを好きになってしまった。やっぱり馬鹿だ。
「おやすみ」
 僕は母がよく鼻歌で歌っていた、シューベルトの「グーテナハト」を小さな声でハミングした。
 司が寝息を立て始めたのを確認し、自分も寝ようと目覚まし代わりの携帯電話を見た、ら! カッと目が開き、髪まで全部逆立つような気がした。妖気!

 司から連絡があったら教えて欲しい。

 アキラだーっ! この諸悪の根源めっ。僕は即座に返事を打った。

 うちにいるよ。
 あんなに傷付けてどうするつもり?
 遊ぶ時は相手をちゃんと選びなよ。

 怒りで指先が震える。アキラは司だけでなく僕のことも傷付けたのだ。自分で思うより深く。
 すぐに返信が来た。

 あ〜 それなら良かった。
 あとよろしく〜

 文末に笑顔マークが付いていて、僕は自分の携帯電話を危うく壁に投げつけそうになった。アキラのを投げるならともかく、自分のを壊したってしょうがない。
 こんな奴が徒歩五分のところに住んでいる。こんな奴が恋しくて司は泣き暮らしている。東京なんて嫌いだ。練馬区なんて大嫌いだ!


posted by 柳屋文芸堂 at 10:46| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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