2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その8)

 次の朝、司にはシャワーを浴びるように言って、僕はトマトときゅうりのサラダを作り、なしをむき、スパゲティを茹でて明太子とバターで和えた。
「辛いの大丈夫だった?」
「うん、美味しい」
 司はフォークにスパゲティをからめて食べながら、泣いた。
「やっぱり辛いのダメだった? 無理して食べなくて良いからね!」
 司は涙をぬぐって少し笑った。
「辛くて泣いたんじゃないから。心配させてごめん」
 僕が出した料理を残らず食べた後、司はまっすぐ僕の目を見た。真剣な決意が感じられて、ドキドキするけど受け止めなければと思った。
「もうアキラとは会わない」
「その方が良いと思うよ、悪いけど」
「……うん」
「なし持って帰る? 干物もあるよ」
「ううん、無駄になっちゃうから」
 無駄? なし、沢山食べてたのに。魚は好きじゃないのかな。司にしては失礼な言い方で、奇妙に感じた。司は基本的に礼儀正しい人だと思う。恋にさえ狂わなければ。
 司を見送ろうと玄関に立つと、司はまた僕を見つめた。
「迷惑かけ過ぎて、もうチョコなんかじゃ埋め合わせ出来ないね」
「あーっ そうだ! お礼言うの忘れてた。高級な味で僕にはちょっと苦かったけど、美味しかったよ。ありがとう」
 司が目を細めた瞬間、僕の脳内で凄まじい不協和音が鳴り響いた。何これ、楽器じゃない。急ブレーキをかける電車の金属音。警笛。目撃者が次々発する叫び声。パトカーと救急車のサイレン。それらが全て重なって聞こえる。
 司、線路に飛び込んで自殺するつもりだ。
「家まで送ってくよ!」
「え?」
「今日バイトないし、学校もまだ始まらないし、ヒマなんだ。ねえ、なしと干物持って行きなよ。司のお母さんもきっと喜んでくれるから!」
 僕は司の家族の人数を尋ね、なしと干物を四つずつ紙袋に入れて、司と一緒に家を出た。
 電車の中で僕たちは、終始無言だった。二回家に泊めて慣れたせいか、気まずい感じはしない。
 目黒駅から十五分ほど歩いたところで、
「ここ」
 と司は小声で言った。そこは熊本出身の僕でも名前を知っている、お金持ちの住む街だった。都心にしては大きい一軒家に、膨らんだ紙袋を持った司が吸い込まれていく。大丈夫かな。
 司の家を見て、僕の頭には「世間知らずの坊ちゃん」という言葉が浮かんだ。そう考えると色々納得がいく。僕も熊本では坊ちゃんの部類だと思うけど、うちの収入ではこのあたりに家を買うことは出来ないと思う。東京は信じられないくらい土地代が高いから。
 僕に輪をかけた「箱入り」の司。アキラみたいな男には絶対かなわないよ。今は辛くても、どうにか心の痛みに耐えて生き延びて欲しい。僕は街路樹にいる弱々しいセミの声を聞きながら、祈るような気持ちで家に帰った。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:45| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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