2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その9)

 後期の授業が始まって忙しくなっても、僕はこまめに司へメールを送った。返事が返ってくるたび「生きてる!」と嬉しくなった。
 十一月の学園祭の期間は授業が休みで、参加するべき催しもない。僕にとっては単なる連休だ。司も同じような状況らしいので、一緒にお昼ごはんを食べることにした。
 久々に会う司はそれほど変わりがないように見えた。
「これからどうしよっか」
 新宿の駅ビルにある鳥料理屋で親子丼を食べて(アキラと偶然会ってしまったら可哀想だと思い、自宅には誘わなかった)デザートの柚子シャーベットを崩しながら尋ねる。
「映画でも見る?」
 僕は今やっている映画のタイトルを挙げた。爆発シーンの多そうなハリウッド映画で、僕の好みには全然合わないのだけど、何も考えずに楽しむにはちょうど良いかなと思ったのだ。
 司の、シャーベットをすくうスプーンの動きが止まる。
「ごめん」
「ん?」
「映画見るの、無理だと思う」
「バイトに間に合わなくなっちゃう?」
「それは大丈夫なんだけど…… ごめん」
 司は瞳を潤ませ眉を曇らせ、おびえる視線で僕を見た。
「いや別にどうしても見たいってほどじゃないし」
「食べ物は俺が買って、お茶もペットボトルで良いから、翼の家に行きたい」
「良いよ! お茶くらい出すよ。淹れたてのあったかいの飲みたい」
「前みたいに色々させたら悪いと思って……」
 なーんだ、それなら最初から家に呼べば良かった。司が好きなお菓子を選んで良いと言うのでバウムクーヘンを買ってもらい、一緒に電車に乗った。僕の家の最寄り駅(大変不本意ながら、アキラの家の最寄りでもある)に着くと、司はキョロキョロと前後左右を見た。
「アキラには会ったことないよ。学生と社会人じゃ生活リズムが違うのかもね」
「そっか」
 司は残念そうだった。アキラに会いたくて僕の家に来たいと言ったのかもしれない。まだ好きなんだ。少し寂しくなった。
 家に着くと、僕はバウムクーヘンを切って緑茶を淹れた。
「このバウムクーヘン、しっとりしてて美味しい。切って袋に入って売ってるのは、もっとパサパサしてるよね。上等なの買ってくれてありがとう」
「翼が選んだんだよ」
「ごめん、値段見なかった! 高かった?」
「そうでもなかったと思うよ」
 バウムクーヘンを食べ終わると眠くなってきた。
「クッションの方に行って良いかな」
「うん」
「司もおいでよ。一緒に寄りかかろう」
 大きなクッションだから、十分二人の背もたれになる。司と向き合わずに済むのが心地好い。司を正面から受け止めるのは重たくてしんどい。僕の左肩に司の右肩が当たり、わざと狙ったんじゃない、と心の中で言い訳する。体が熱い。司とは絶対そうなれないと確信しているのに、幸せになるのを止められない。
「物語が怖いんだ」
 僕は振り向いて司の横顔を見た。
「せっかく映画に誘ってくれたのに、行けなくてごめん」
「流行ってるから聞いてみただけで、興味があった訳じゃないんだ。だからほんと、気にしないで。それよりどういうこと? 怖い物語が怖いの?」
 自分でもおかしなことを言っているなと思う。司は首を振った。
「物語全部が怖い」
「桃太郎も?」
「桃太郎は結末知ってるからまだマシだけど、翼が桃太郎の話をするとしたら聞きたくない」
 司は怒っているような声できっぱり言った。
「しないよ」
「桃太郎って何か、痛い思いするじゃん」
「鬼がね」
「そういうの考えると、すごく嫌な気持ちになる」
 司は握りこぶしで額を押さえた。
「昔からそうなの?」
「ううん。アキラと会わなくなって少ししてから」
 きっかけはテレビドラマだったという。家族と食事をしている時に、つけっぱなしにしているテレビで男女がケンカを始めた。途中から見たので彼らが夫婦なのか恋人なのかは分からない。でもとにかく「恋愛が原因のケンカ」であることは伝わってきた。それで司は、
「怖くなって、ごはん食べるの途中でやめて、自分の部屋に逃げた」
 ああいう場面が出てくるかもしれない、と思うと、ドラマも、映画も、漫画も、アイドルの歌さえも恐ろしく感じて、何も見えない、何も聞こえない場所に逃げ込みたくなるという。
「確かに流行ってる曲ってだいたい恋愛の歌だよね」
「恋愛だけじゃないんだ。暴力振るったり、悲しい思いをしたり、何て言ったら良いんだろう…… そこで『マイナスなこと』が起こるかもしれない、そういうものが全部怖い」
 鬼太郎はどうだろう。ねずみ男が砂かけばばあにビビビビって殴られたりするから「マイナス」だろうな。可愛い妖怪が出てきたり、笑ったり出来る分、僕には「プラス」なんだけど。
「司、大学で何を勉強してるんだっけ?」
「経営学…… なのかな。とにかく経営学部に行ってる」
「文学部じゃなくて良かったねぇ! 物語を読めなくなったら単位取れなくなっちゃうじゃん!」
 父親がドイツ文学を教えているせいで、文系というと文学部を思い浮かべてしまう。でも文学以外にも文系の学問は色々あるし(詳しくは知らないけど)司はその「その他」であるらしい。僕はホッとして、嬉しくなった。
「翼の顔を見てるとさ、自分の深刻さが馬鹿馬鹿しくなってくるよ」
 司は少し笑って言った。
「いつもおびえて、必死で逃げまくって、相当情けない生活してるのに『良かったねぇ!』って満面の笑顔で言うんだもんな」
「いやでも、学生の本分は勉強することなんだから、それさえ出来れば困らなくない?」
「映画の誘いを断るの、辛かったよ。ただでさえ人付き合い苦手なのに、どんどん孤独になる」
「司が怖がるものは分かったから、怖くない、別の遊びをすれば良いよ。ねえ司、次に会う時には一緒に勉強しよう!」
 司は肩を震わせて笑った。
「それ遊び?」
「勉強楽しくない? 文系の人はそうでもないのかな」
「少なくとも恐ろしくはない」
 司は腰をずらして僕の方に近付き、僕の肩に頭を乗せた。耳に司の髪が触れて、息が乱れそうになるのをどうにか抑える。
「ここは天国だね」
 僕には地獄だよ、と心の中で答えた。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:44| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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