2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その10)

 バイトがあるから、と司は夜になる前に帰っていった。僕はまたクッションの、司が寄りかかっていたあたりに抱きつく。司はどうして体をくっつけて来たのだろう。僕とエッチなことをする気なんて全然ないくせに。親愛の情。友達としてごく自然に。
 たぶん司はまだアキラのことが好きだし、それよりもまず心が弱っていて恋愛どころじゃないのだと思う。たわいない恋の歌を耳にしただけで血の気が引くという人が、本当の恋なんて出来るはずがない。
 身代わり、かもしれない。その言葉は鋭く僕を刺した。本当はアキラと肌を触れ合わせたくて、それが出来ないから、僕の肩で欲望を満たそうとした。家に来るのも同じこと。司は僕の家じゃなく、アキラの家に行きたいんだ。
 利用されている。もしそうだとしても、すでに僕は司を遠ざけられない。不安定な司の精神は甘く、愛おしく、それとは別に友達として司を守らなければいけない。
 いつか司が回復し、アキラのことも諦めて、
「好きな人が出来たよ」
 と僕の知らない人を紹介してきたら、肩の荷が下りて僕はきっとラクになるだろう。その後で気が狂ったように泣けば良い。
 僕は傷付くのを先送りにした。

 司の話を聞いてから「物語」を意識して暮らすようになった。世の中には物語があふれ返っている。コンビニには漫画雑誌が並び、駅には映画のポスターが貼ってあり、交差点の大型モニターではミュージックビデオが流れている。その多くが「恋愛」についての「物語」だ。改めて考えてみると「こんなに必要なの?」と首を傾げてしまう。
 これら全てを「怖い」と感じるのだとしたら、外出するのも嫌になるに違いない。病院の精神科に行って相談した方が良いのだろうか。いや、もしそうなれば、司は医者にアキラの話をすることになる。それを隠して治療を受けられるほど司は器用じゃない。ゲイに対して偏見のない医者を見つけなければいけないし、たとえ相手が公正であっても、見ず知らずの人にカミングアウトするのは今の司にとって負担が大き過ぎる。

 僕は久々に光一のブログを見た。変化なし。去年の三月から更新されていない。ハンドルネームは「こーいち」元気でいるなら今年で四十歳になる。
 光一に司のことを相談したかった。まさか僕を忘れてはいないと思う。でももしかしたら、すでに新しい恋人がいて、僕からの連絡を迷惑に感じるかもしれない。
 光一の冷たい声を想像し、とても耐えられないと頭を振った。光一は僕に、何もかも許すような優しい声で話しかけなければいけない。光一がいつもそんな風にしてくれたのは、僕が高校生だったからだ。二十歳の僕を光一がどう扱うのか、あまり考えたくなかった。
 光一は僕の肩を抱いて、エサを与えるように鳩サブレーを僕の口元に近付ける。僕はわざと扇情的な顔をして、鳩の首のくびれのあたりを舌先でちろちろ舐める。僕が食べたいのはこれじゃないよと視線で訴えてから、鳩の頭を口に入れて噛み砕いた。
 光一は幸福そうに微笑んでその様子を見つめていた。口の中のものを飲み込むと、光一は僕の唇をティッシュで拭いた。
「粉を取ってるの?」
「うん」
「舐めれば良いのに」
 光一が軽くキスをしてきたので、僕は光一の体にしがみついてもっと深いキスをした。やりたくてやりたくてたまらなかった。
 僕は光一を愛していただろうか。光一は僕を愛していただろうか。僕はその答えを必要としていない。
 ただ、僕が身も心も欲望でいっぱいにしてどうしようもない恥知らずになっていたあの日、光一は僕よりずっと冷静だった。司が唇に米粒を付けているのを見てようやく気付いた。鳩サブレーを食べて唇を粉まみれにしていた僕を、光一は「可愛い」と思っていたのだ。
 そういう煮え切らない態度に僕はいつも腹を立てていた。理性や愛情などどこかに打ち捨てて、ひたすら快楽に溺れて欲しかった。自分だけでは処理出来ない激しい性欲の中で、僕は独りぼっちだった。隣に光一がいても。隣に光一がいるからこそ。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:43| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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