2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その18)

 司が泣いている。隣の布団の中からしゃくり上げる声と、全身の震えが伝わってくる。
「アキラに会いたい」
 祈るように、呪うように、何度も同じ言葉が繰り返される。アキラに会いたい。アキラに会いたい。アキラに会いたい!
 どうして誘われた時に気付かなかったのだろう。司はアキラとスキーに来たかったのだ。二人で上級コースを気持ち良くすべって、夜は浴衣なんて早々に脱ぎ捨てて、いつもと違う環境に興奮しながら痛くなるまで粘膜を刺激し合って、発情し完全に動物になった司のいやらしい叫びが和室の薄い壁を越えて宿じゅうに響き渡る。司はもう他人のことなど考えられない。頭の中も体の中もアキラで満たされて、僕がこの世に存在することにさえ気付かない。
 司の背中にのしかかって激しく腰を打ちつけるアキラを引き剥がしたいのに、体が固められたように動かない。その人は、僕の! 怒鳴りたいのに声も出ない。その人は、僕の。その人は、僕の……
 泣くことだけは何故か出来て、あたたかい涙が皮膚の上を流れてゆくのを感じる。アキラ。司から離れて。司が欲しくてたまらないんだ。理解ある優しい友達のふりなんてもうしたくない。司の敏感な場所を指と舌で支配して、僕のことが好きだと絞り出すような声で言わせたい。
 司の手首をつかんで布団に押し付ける。司は子供みたいに顔をグシャグシャにして泣きながら、
「したくない」
 と言った。
「殺して。こんなに悲しくて苦しいなら死にたい」
 僕の体は司が寝ているのとは反対の方向にすべっていく。楕円軌道を描く惑星のように静かに、確実に、僕は司から離れてゆく。嫌だ。司と一緒にいたい。僕の体と唇は固まったままだ。僕と司の間の距離はぐんぐん開いていく。司! 手を伸ばそうと限界まで腕に力を入れる。どんなに頑張っても僕の体は動かず、見えないベルトコンベアーは僕を運び続ける。司から遠い場所へ。決して声にならない声で僕は泣きながら呼びかける。司、司、司!

 目を覚ますと、まず見慣れない天井に混乱した。ここ、どこ? ああ、司とスキーに来たんだっけ。隣を見ると、司は先に起きていたらしく、布団の上で正座している。
「おはよう、司」
「ごめん、起こした?」
「自然に目が覚めたんだと思うけど…… 今、何時?」
「六時半。朝食は七時からだから、まだ寝ていて大丈夫だよ」
 睡眠時間は充分取れたはずなのに、頭が妙に疲れている。何だろう、これ。夢を見た気がする。ひと続きのまとまった話ではなく、細切れの場面をたくさん詰め込んだような。内容はぼんやりとして思い出せない。
「すごい嫌な夢を見たんだ」
 司はうつむいたまま言った。僕は司のひざの所まで匍匐前進し、ころんと転がって司の顔を見上げた。新しい朝が来たとは思えないほど、瞳がどんより暗い。
「アキラの夢?」
「うん。よく分かるね」
「何となく」
 下着汚した? とはさすがに可哀想なので聞かない。ちょっといじめたい気分ではあるけれど。
「俺、病気なのかな」
「熱っぽいの? 風邪引いた?」
「そうじゃなくて。アキラのことが頭から離れないんだ。もう何ヶ月も会ってないのに」
「仕方ないじゃん。好きなんだから」
「俺の頭の中にいるのは、もう本当のアキラじゃない気がする」
 下から眺める司の涙は、僕に向かって降る雨みたいだ。
「アキラは悪くないのに、俺が色んなこと考え過ぎたせいで、アキラは心の中で化け物になっちゃったんだ」
「悪いのはアキラだって! 傷付けられたこと自覚しなよ!」
 司は頭を抱えて首を振った。
「怖い…… 翼ごめん。ごめんなさい……」


posted by 柳屋文芸堂 at 10:33| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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