2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その19)

 着替えて食堂に行っても、司は精神の暗闇から戻ってこない。僕たちは無言でご飯と塩鮭を食べた。
「あっ」
「ん?」
 司が顔を上げる。
「今朝見た夢、思い出した。すべっていくんだ。つつーって」
「ああ、スキーをやったせいだね」
「スキーとは進み方が違ってたな。司と反対の方向に等速直線運動」
 僕が後ろを指差しながらそう言うと、司はようやく笑った。僕はどうしてか分からないけど、すごく寂しくなった。
「もしこの世界に摩擦がなくて、何もかもツルツルしてたら、僕たちどこにも行けないんだね」
「どこにでもすべって行けて便利なんじゃないの。スキーみたいに」
「摩擦がなかったら歩けないよ。ずっと右足と左足を交互に出すだけになるはず」
「誰かに背中を押してもらえば?」
「その人とは二度と会えない」
 朝食に付いていたヤクルトを飲み始めて、すぐにお茶碗に吐いた。
「翼、どうしたの? 大丈夫?」
「ヤクルトって、炭酸入ってたっけ?」
 司は自分のヤクルトのフタを開けて臭いを嗅いだ。
「発酵が悪い方向に進んだらしい」
「腐ってるって言いなよ、素直に」
「ここに着いた日、暑かったからさ、うっかり日の当たる場所に置いておいてダメにしちゃったのかもね」
「ウェアもボロボロだし、雑な宿だなぁ」
「次に旅行する時はもっと高級なホテルに泊まろう」
 そんな所へ行っても、司とやれないんじゃなー やることばっかり考えている自分が可哀想だった。
 朝から降り続いていた雪は止むどころかひどくなり、真っ白く吹雪いて数メートル先も見えない。
「今日はスキー無理だね」
「ホレおばさん頑張り過ぎ」
 司は窓の外をじっと見た。
「宿のおばさん? こんな雪の中で働いてるの?」
「違うよ。グリム童話の」
 そこまで言ってさっと血の気が引いた。司は物語が嫌いなのに。しかもグリム童話は子供向けとは思えないほど残酷なのだ。
「ごめん。うそ。ホレおばさん頑張ってない」
 司は肩を震わせて笑った。
「良いよ。翼が話す物語は平気だから。教えて」
「ドイツでは雪が降ると『ホレおばさんが布団を振っている』って言うんだよ。中の綿が飛び出るのが雪みたいでしょ」
「ホレおばさんって誰」
「魔女の一種じゃないかなー」
 グリム童話では、ホレおばさんは怠け者の娘にタールをかける。司が心を痛めたら大変なので、そんな話はしない。やり過ぎだろ、って僕も思うし。
「ドイツにはいっぱい魔女の話があるんだよ。ブロッケン山のヴァルプルギスの夜とか」
「嬉しそうだね」
「魔女、悪魔、妖怪。そういうの大好きなんだ! 司が怖がると思って話さないけど」
「ごめんね、話聞けなくて」
「いいよ。他の人にもあんまりしないし」
「天使の話なら聞けると思うけど」
 パッと光一の顔が思い浮かび、再び犯そうとしている罪を突き付けられた気がした。自分がどれだけ酷い人間で、それをいかに必死で隠して司と接しているか。
 全部懺悔してしまいたい。ダメだ。今の司には優しい友達が必要なんだ。「本当に」優しい友達でなくたっていい。
「どうしたの、固まって」
「ふ、古傷がうずいて」
「前の彼氏に『エンジェル』って呼ばれてたとか?」
「うわ、寒ぅ〜! それはないよ! ひぃ〜!」
 二人でお腹が痛くなるほど大笑いして、あれ、司と話せることが前より増えたかも、と気付いた。旅行に来て親しくなったせいなのか、司が回復してきているからなのか、分からないけど。
「今日一日、何しよう」
「この雪じゃ、外出ると遭難するね」
「ゲームでもやろうか。鹿のくん製のそばにあった気がする」
 受付の横、普通のホテルなら「ロビー」と呼ばれるであろう場所には、暇つぶしのためのおもちゃが散乱している。ゲーム機、トランプ、麻雀、将棋、オセロ、タンバリン等々。すでに先客がいて、たぶん僕より歳下の女の子たちが、人生ゲームをしながら酒盛りをしている。
「あっ、ピアノ!」
 壁際に国産のアップライトピアノが置いてあった。どうせ調律もされずとんでもない音程になっているのだろう。悪口を言うためにショパンのエチュードを弾いたら、一つのキーも狂ってない。安っぽい、軽やかな音がする。グランドピアノの重厚な響きより、僕はこういう音色の方が好きだ。作品十の一番を最後まで弾き終える。
「すごいよ、司! この宿には、ピアノに対する意識の高い人がいるんだ。ヤクルトへの意識はあんなに低いのに」
 椅子に座ったまま振り向くと、司は目を見開いて僕を見ていた。
「翼…… 何者?」
「え?」
「音大、じゃなかったよね?」
「うん。理工学部だよ」
 司は真剣な眼差しで僕を見つめ続ける。ドキドキしてしまって、せっかく友達でいられたのにと悔しくなりながら、視線をそらした。
「趣味でピアノやるの、そんなに変?」
「いや、趣味の域じゃなくない?」
「これくらい弾ける人、いっぱいいるよ」
「もっと聴きたい」
「良いよ」
 トランプをやっているヒゲ面の男が、
「革命!」
 と叫んだので、僕はショパンの「革命」を弾いた。
「ブラボー!」
 酒盛りをしていた女の子のうちの一人が叫び、周りの子たちは、
「もうバカ、酔っ払い! 恥ずかしい!」
 と笑いながら拍手してくれた。
 ポニーテールのブラボー女子はこちらに近付いてきて、
「リストのラ・カンパネラ、弾ける?」
 と目を輝かせた。
「もちろん」
 僕はこの曲の切迫した雰囲気を完全に消して、ダンス音楽のように明るく楽しく弾いた。その方が彼女に似合う気がしたから。
 弾き終えると、いつの間にか真後ろに立っていた茶髪のお姉さんが、
「普通の曲は弾けないの?」
 と聞いてきた。
「普通……?」
「BUMPが好きなんだけど」
 ああ、この人にとってはポップスが普通の曲なんだ。僕は派手な装飾をたっぷり付けて「天体観測」を弾いてみせた。
「きゃりーぱみゅぱみゅ!」
「となりのトトロ!」
「チャイコフスキーのピアノ協奏曲!」
「津軽海峡冬景色!」
 僕は次々とリクエストに応えてゆき、最後に、司と一緒にいると必ず心の中で鳴り響く、あの曲を弾いた。言葉にさえしなければ、いくらでも愛を表現して良い。そのことに救われる。よどんだ感情がメロディに変換されて体の外に出てゆき、僕は一時的に空っぽになった。
「お腹空いたからおしま〜い!」
 そう言って立ち上がると、ピアノの周りにはいつもと同じように人がぎっしり集まっていて、鳴り止まない拍手を聞きながら、僕は司を引っぱり部屋に戻った。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:31| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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