2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その20)

「お昼、何食べよっか」
「いやいや昼飯どころじゃないよ! さっきの何? あれ」
 僕のお腹がギュゥ〜っと鳴る。
「今は食べることしか考えられない!」
 司が宿のおじさんにおすすめの店を聞いてくれて、僕たちは宿から徒歩五分ほどの所にある定食屋さんに行くことになった。スキーウェアを着て、新しい雪にずぶずぶと足を踏み入れ、大変な行軍だった。わーとかキャーとか叫んで楽しかったけど。
 僕は豚の味噌焼き定食、司はコロッケ定食を頼んだ。
「あぁ〜 肉が! 胃に沁み入る!」
「お米も宿のより美味しい気がする」
「ほんとあそこ、ピアノの音が合ってる以外、良いとこないよ」
「ピアノの音が合ってるのって、そんなにすごいことなの?」
「調律師を呼ばないと出来ないから。お金もかかるし。もしかしたら宿泊客に調律師がいて、暇つぶしに音を合わせたのかもしれないね」
 そう考えなければ納得いかないくらいの、見事な狂いのなさだった。僕はちょっと甘みのある豚肉を噛みしめながら、さっきの気持ち良い演奏を思い出した。
「最後に弾いた曲の名前を教えて」
「えっ」
 司のテーマ、という何のひねりもない単語が浮かび、言うわけにいかないなと苦笑する。
「動画サイトで検索したら聴けるよね?」
「聴けないよ」
「CDならある?」
「ない。あれ僕が勝手に弾いてるだけだから」
「勝手に?」
「心の中で鳴ってるメロディに、適当に音を付けるんだ」
「翼が作曲したということ?」
「そんな大袈裟なものじゃないと思う。譜面に書いたりしてないし」
「すごく良かったよ。音楽に感動するってこういうことなんだね。うまく言えないけど、生まれて初めて、自分のための音楽を聴いた気がした」
 僕は思わずお茶を吹きそうになった。そりゃそうだよ。あれは司が作り出している音楽なんだから。
「何々っていうバンドが好きだとか、誰々っていう歌手のファンだとか、みんな当たり前みたいに言うじゃん? 俺、ああいうの全然分からなくてさ。俺には音楽を理解する才能がないんだと思ってた。でも違う。俺は今まで本当に素晴らしい音楽に出会ってなかったんだ」
 司は熱のこもった瞳で僕を見つめて言った。
「俺、翼のファンになる!」
 今度こそお茶吹いた。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:30| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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