2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その22)

 アキラに司を盗られたゲイバーには二度と行きたくなかったので、他に良い店がないかネットで探してみた。一つ、飛び抜けて料理の美味しそうな店があった。トップページに載っている「かえるくんの芽キャベツパスタ」がまず目を引いた。つやつやした黄緑色の芽キャベツに、てっぺんに載っている赤い唐辛子。サンドイッチやドーナツ、パイにもいくつか種類があって、全部食べてみたい。けれども価格設定が高めで、僕にはちょっと贅沢だ。
 お店のブログを見てみると、店長と料理人の写真があった。優しそうな眼鏡のおじさんと、女装している若い男の人で、頭をくっつけて寄り添っている様子から、説明がなくても二人が愛し合っているのが分かる。

 文学青年が集まるゲイバーにしたかったのに、メグの料理が美味し過ぎて美食クラブみたいになっています。本好きな人はもちろん、メグの料理を食べてみたい人はぜひ新宿三丁目の春樹カフェへ!

 文学青年ということは、光一のようなタイプがけっこう来るのかもしれない。水曜日は学生証を見せると料理が三割引きになるらしい。その日はきっと、学生目当てのおじさんも多いのではないか。そこに狙いを定めれば、やれる……!
 そこまで考えて、司以外とは誰ともやりたくない自分に気付く。もう何でも良い。やれるやれないに関係なく、メグさんの料理を食べてみたくて仕方がなかった。

「メグさんに会いに来ました」
「キャーッ! いきなり口説かれたーっ」
 春樹カフェは想像していたより落ち着いた雰囲気の店だった。壁や床には年季の入った焦げ茶色の木材が多く使われており、暖色の光が物静かなお客たちをほのかに照らしている。その中で、調理場だけがステージのように明るいのが面白い。そこで立ち働く料理人のメグさんも、その光に負けないくらい明るかった。
「ネットで料理の写真を見たんです。どれもすごく美味しそうだったから」
「あれ全部、周平が撮影したんだよ。カメラのことなんて全然知らなかったのに、専門書を何冊も買って、料理を美味しく撮る方法を研究して」
「周平さんっていうのは、あの眼鏡の店長のことですか?」
「そう! 努力家なの。すごいよね!」
 のろけだ…… メグさんは幸せそうに微笑みを浮かべたまま、手際良く牡蠣を揚げたりパスタを茹でたりレタスを千切ったりする。顔は綺麗な女の人なのに、メグさんの腕の皮膚の下では職人仕事で鍛えられた筋肉がうねっていて、ドキッとするほど男らしい。
「僕の宝物なんだ」
 周平さんはメグさんを見つめて目を細め、僕の方を向いてニコッと笑った。
「口説いても良いけど、口説き落としちゃダメだよ」
「大丈夫です。僕、うんと年上の人が好きだから。店長みたいな」
 周平さんは目をむいて、福々としたほっぺたを少し赤くした。
「僕も君のこと、初恋の人に似てるな、って」
「こらそこ、口説き落とされてるんじゃない!」
 メグさんは眉をつり上げて店長に包丁を向けた。
「可愛い男の子に口説かれたことないもんで、つい」
「あたしはっ! 可愛い男の子ですっ」
 夫婦ゲンカを見上げていたら、肩をぽんぽんと叩かれた。振り向くと、さっきまで誰も座っていなかった隣の席に、おじさんがウィスキーを持って移動しているところだった。
「君は純真そうな見た目に似合わず恐ろしい男のようだね」
 僕は遠慮せずにおじさんの品定めをする。ざっくりと伸ばしたヒゲはうっすら白く、たぶん三十代後半くらい。襟のないシャツにジャケットという格好で、会社勤めをしている人には見えない。でもだらしない感じはしなかった。
「迷惑なら元の席に戻るけど」
「いえっ そんなことないです」
「良かった」
 口説きに来たのかな? アキラみたいに馴れ馴れしく体に触ってきたりすることはなく、氷をカラカラ鳴らして琥珀色のお酒を飲んでいる。
「大学生?」
「はい」
「理系?」
「そう見えますか?」
「アサガオの観察するような目で俺を見るから」
「すみませんっ!」
 おじさんは肩を震わせて笑った。僕がおじさんを点検するように見たのは理系だからではなく、ここがゲイバーで、相手が自分の好みに合うかあからさまに判定しても構わないと思ったからだ。もしかしたらこの春樹カフェは、そういう場所ではないのかもしれない。
 文学青年が集まる店にしたかった、というネットの紹介文を思い出す。ここにいる客はみんな、光一やうちの父親のような人間なのだろうか。現実の世界におびえ、何かあるとすぐ言葉の森に逃げ込んでしまう人たち。
「君はどんな本が好きなの?」
 おじさんは僕の目を優しく見つめて言った。
「僕、小説はあんまり好きじゃなくて……」
「そう」
 おじさんは僕に気を遣って表情を変えなかったけど、失望したのが伝わってきた。僕はちょっとムキになってこう続けた。
「でも漫画は好きで、水木しげるの本はだいたい全部持ってます」
「水木しげるか。俺も戦争の話はあらかた読んだよ。ラバウルのエビ」
 おじさんが僕を試すようににやりと笑うから、僕は早口で返した。
「噛みしめても水しか出てこない」
「そう。あれは忘れられないな。戦争と命の虚しさをあれほど端的に表した場面を俺は他に知らない」
 おじさんはつげ義春とますむらひろしと吾妻ひでおの話をし、僕が全部読んでいるのを知って目を丸くした。
「渋いね。もしかして俺より年上だったりする?」
「古本屋で買えますから。文庫にもなってるし」
 僕に話を合わせてくれたからだと思うけど、おじさんとのおしゃべりは楽しかった。二人で声を立てて何度も笑った。
「物語って、こうやって人と話すネタにするために存在するんですかね?」
「いや、今日はたまたま二人とも知っている漫画があったから出来ただけで、世の中の人全てが『不条理日記』を読んでいる訳じゃない」
 吾妻ひでおの馬鹿馬鹿しいギャグを思い出し、また一緒に笑う。
「僕の好きな人、物語を読めなくなっちゃったんです。漫画も小説も昔話も、全部怖いって」
 司は僕の好きな人、なのか。もちろん分かっていたけれど、改めて言葉にしてみると、出口のない空間に追い詰められた気分だった。
「好きな人がいるんだね」
 おじさんの声が低く小さくなってハッとした。
「もしかして、僕のこと狙ってました?」
「気にしなくて良い。好きな人は俺もいるから。絶望的な相手だけど」
「ノンケの人?」
「いや、オネエ」
「へー」
「オネエなんだが、奥さんがいる」
 スパゲティを食べている最中だったから、思わずむせた。
「オネエで異性愛者という人もいるんですね」
「男しか好きになったことがないと言っていた。それなのに、俺のことは好きになってくれなかった」
 僕はおじさんの容姿を改めて確かめた。美男子ではないけれど、醜男でもないし、きっとこれまでに沢山の物事を考えてきたのだろうと思わせる、静かな目元が魅力的だった。
「その人の理想のタイプはオスカルなんだ」
「オスカルは女じゃないですか」
「さすが漫画オタク、話が早い」
 おじさんはコップに残っているお酒を一気に飲み干した。
「で、現れちゃったんだな、オスカル様が」
 頬杖ついてこちらを向いたおじさんの目は、酔いで潤み、座っている。
「君の好きな子は、こんなくだらない俺の話も怖がるのかね?」
「最もダメだと思いますよ。悲しい恋の話なんて」
「幸せなんだけどな、俺」
 僕はおじさんにシナモンドーナツを分けてあげて、二人で同じポットのお茶を飲んだ。紅茶を頼んだはずなのに、ほうじ茶みたいな和風の味がした。
 おじさんは別れる時に名刺をくれた。
「中嶋さん」
「そう」
 名前の他にはメールアドレスしか書いてない。
「お仕事は何をされてるんですか?」
「文化的雪かき」
 僕が首を傾げると、中嶋さんは満足そうに微笑んだ。

 司の話さえしなければ、中嶋さんとやれたのかもしれない。かなり好みだと感じたし、向こうも僕を気に入ってくれたと思う。何より中嶋さんは寂しそうで、僕も寂しくて、慰め合うのにぴったりだった。
 でもきっと僕は抱き合っている間ずっと司のことを考えてしまうし、おそらく中嶋さんもオネエとオスカルが頭から離れないだろう。
 オネエとオスカル。中嶋さんには悪いけど、楽しそうなカップルだ。想像すると笑みが浮かんでしまって、真剣に同情出来ない。
 中嶋さんは幸せだと言っていた。オネエに片思いして、オスカルにやきもちを焼いて。確かに幸せかもしれない。
 僕は司に「会おうよ」とメールした。やれなくても、オスカルの話を聞かせられなくても、会いたい人に会うことしか僕には出来ない。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:28| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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