2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その23)

「普通の手なのに……」
 司は僕の手を両手で優しく包んでしげしげと眺めた後、自分の右手を開いて僕のてのひらにくっつけて、指の長さを比べた。
「俺の方が大きいくらいだ」
 やらしい想像をしちゃうよ、どうしても。もしあれを比べるとしたら、司はどっちが大きいとか小さいとか言わないと思うけど。まず僕たちがそんな状況になることなんてないのだろうけど。
「どうして音大に進まなかったの?」
 近所迷惑にならないよう音量を調節して、僕の部屋にある電子ピアノで演奏を聴かせた後だった。
「サラリーマンになりたいから」
 司は僕を見つめて三秒ほど固まった。
「ネクタイ姿のおじさんを求めて……?」
「確かにスーツの似合う人って格好良いな〜って思う」
「翼は年上が好きなんだもんね」
 司は嬉しそうで、僕は複雑な気持ちで、でも「翼はおじさんマニア」ということにしておいた方が、司は安心出来るのかもしれない。
「もったいないな。ピアニストになれば良いのに」
「司さ、ピアノが弾ければピアニストになれると思ってない?」
「ただ弾ければ良いって訳じゃないことくらい分かるよ。翼みたいにピアノで人を感動させられたら、ピアニストになれると思う」
 僕は首を振った。
「ピアニストになるには、ピアノで戦って勝たなきゃいけないんだよ。色んなコンクールに出てさ」
「出れば良いじゃん」
「ピアノで戦いたくないんだ。音楽って、勝ったり負けたりするものじゃないと思う」
「格好良い、翼」
「格好つけてるんじゃなくて、そういう性格なんだよ。闘争心が足りないんだ」
 お姉ちゃんはピアノの腕前を競うことに一ミリの疑問も抱いていなかった。というより勝つことが全てだった。ピアノが上手いという上級生の家に乗り込んでいって自分の方が難しい曲を弾けるのを見せつけたり、ピアノ教室で「一番」になってしまうと「もっと良い先生のところに行きたい」と親にせがんで、またそこで一番を目指した。
 コンクールでは意外と賞を取れなくて、それでもやさぐれることなく帰宅後すぐに次の戦いのための準備(練習や音楽の勉強)を再開した。
 そういうスポ根漫画みたいなピアノの弾き方を見ていると、僕も同じように戦いたいとはとても思えなかった。お姉ちゃんは努力すればするほど、音楽の本質から離れていく気がした。
「まあピアニストにならなくたって、俺はいつでも翼の演奏を聴けるんだから」
「そうだよ」
「もっと弾いて」
 胸が痛くなるような笑顔で司は言う。
「良いよ」
 僕は心で鳴り響いているメロディをそのままピアノで追いかける。司は激しい曲より甘く悲しい音楽の方が好きみたいだから(聴いている時の表情を見れば分かる)なるべく司が喜ぶように、ためらいの間を含ませてアルペジオを展開する。うつむいてじっとしたまま耳を澄ましている司、その瞳が、かすかに細く、とろけるようになるのを僕は見逃さない。司は今、気持ち良くなっている。耳たぶ、首すじ、鎖骨、胸、わき腹、太もも、膝小僧と、司の感じる場所を探っていく僕のてのひら。僕はちゃんと見つける。この旋律だね? 司は小さく眉根を寄せて、でもそれは嫌だからじゃない。皮膚に歯を立てるようにとびきり不安定な和音を紛れ込ませ、もちろん本当に痛くはしない。すぐに分厚い長調の和音で包み込む。僕だって気持ち良くなりたい。司の好みは考えずに、指の動きにまかせて僕は……
 司が急に顔を上げた。視線がばちっと合って、心臓が止まりそうなほどびっくりした。
「な、何?」
「翼、鍵盤見なくてもピアノ弾けるの?」
「う、うん」
「へえ〜 すごいね」
「いちいち目で確認してたらピアノなんて弾けないよ」
「そうなんだ。翼の視線を感じて、あれ? って思ってさ」
 ピアノを弾いている時、僕はどんな表情をしているんだろう。今まで考えたこともなかった。エッチの最中みたいだったら恥ずかしいな。どっちの顔も自分では見たことないけど。
「弾いてくれてありがとう。俺、翼のピアノ、本当に好きだ」
 僕はつくづくピアノしか取り柄がないんだと思い知る。子供の頃から飽きるほど褒められていて、正直何とも思わない。司にはピアノではなく僕自身を好きになってもらいたい。……僕自身って何だろう? 僕の体? 心? 脳みそ?
「アキラと会わなくなってから、ずっと苦しいんだ。胸のあたりがもやもやして、時々発作みたいに全身が痛くなるし」
「それってさ、病院……」
 司は激しく首を横に振った。
「翼のピアノを聴くと治るんだ。だから家でも聴けるようにCDが欲しい」
「作ったことないよ」
「そのピアノ、音のデータ取れるんじゃないの?」
「さあ……」
「理系なのに機械に弱い」
 司が笑うので、僕はふくれた。
「必要ないから使ってないだけ! ねえ司、録音するの面倒だし、僕の演奏を聴きたくなったらうちに来なよ」
「翼にも会えるし」
「ご飯も食べられる」
「翼、優し過ぎるよ」
 だって、司のことが好きだから。僕はしばらくふくれたままで、司は僕を見つめて微笑んでいた。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:26| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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