2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その24)

 大学からの帰り、駅前のコンビニで買い物をしていたら、
「おい!」
 と声をかけられた。
 振り向くと、スーツ姿のアキラがいた。背が高い上にアフロだからインパクトがすごくて、でも限りなく黒に近い灰色のスーツは意外と似合っており、普通の人に見えなくもなかった。
「目を見開いて固まるなよ。妖怪に襲われた村人その一みたいだぞ」
「村人にもなるよ!」
 近所に住んでいるのにこれまでばったり会わなかったことの方がおかしいのかもしれない。しかしいざアキラの顔を見ると、色んな感情がぐちゃぐちゃになって、逆に頭が真っ白になってしまう。
 僕は奇妙な違和感を感じた。アキラの雰囲気が、ゲイバーで最後に見た時とずいぶん違う気がしたのだ。髪型と体型は変わっていない。スーツのせいでもないと思う。何だろう、アキラはもっとギラギラしていたはずなのに。
「お前、まだ司と連絡取ってる?」
 僕は黙ってうなずいた。アキラは周囲を気にするようにキョロキョロと左右を確認した。
「悪い。五分ばかり付き合ってくれないか。相談がある」
 コンビニを出て、アキラの早歩きを小走りで追いかけた。
「駅前にひと気のない場所というのはなかなかないもんだな」
「アキラとひと気のない所になんて行きたくないんだけど」
「もうおかしなことをしたりしないよ。俺の家に来るのも」
「イヤです!」
「だよなぁ」
 アキラは歩みを止めてアフロヘアの後ろをぽりぽり掻き、こちらに振り向いた。
「内緒話がしたいんだ」
「通行人は誰も僕たちの話なんて聞いてない」
「それもそうだな」
 アキラはうつむいて、逡巡するように何度もまばたきしてから、僕を見た。
「俺、病気になったんだ」
 悪い予感がした。地べたがぐらりと揺れる。
「エイズ」
 その単語を聞いた瞬間、僕はアキラの胸ぐらをつかんでいた。突き飛ばしてやりたかったのに、アキラの体は頑強でびくともせず、悔しさに顔が歪んだ。
「司も感染させたのかよ!」
「いや…… それより後だと思うんだ。でも一応検査するよう伝えたくて。あいつ、俺のメール着信拒否してるみたいだから」
 司の心を壊しておいて、アキラは平気で他の男と遊んでいたんだ。そんなの分かりきっている。この人にとっては当たり前のこと。それでも体の中心が煮え繰り返って爆発しそうだった。
「殺してやる」
 僕を見下ろすアキラの顔は寂しそうで、無力なくせにいきがっている僕をあわれんでいるようにも見えて、本当に今すぐアキラを殺したくなった。
「人が人を殺すのは腕力だけじゃない。……プルトニウムを飲ませてやる」
 冥王の名を持つ放射性物質。物理学科だからといってそんなもの自由に扱える訳がないのだけど、どうにかアキラをおびえさせたかった。痛みさえ感じる憎しみを、何がなんでもぶつけてやりたかった。
「体の中からお前をズタズタにするんだ」
「イヤな死に方だな、それ」
 アキラは怖がっていなかった。寂しげな顔が、悲しみの色に染まっただけだった。
「こんなくだらない男を殺して警察に捕まるのも馬鹿馬鹿しいだろ」
 僕はアキラの服を放した。悔しかった。二十歳を過ぎても僕は子供で、力でも心でもアキラには勝てなくて、僕がどんなにみっともなく優しいふりをして見せても、司はアキラに恋い焦がれて泣いている。
「治療さえすればエイズはもう死ぬ病気じゃないって、司に伝えてもらいたいんだ。たぶん大丈夫だと思うし、悩まないで検査して欲しい」
「勝手だよ。悩むに決まってる」
「お前も一緒に検査したらどうだ」
 良いこと思いついた! とでも言うように、アキラはニコニコして僕を見た。
「司が感染してたらお前だって危ないだろ?」
 ケンカに負けた犬そのままに、僕はその場から走って逃げた。アキラは僕と司がやっていると思い込んでいる。ゲイが二人いたらセックスするのが当然と……いや違う。僕が司を好きなのがバレバレなんだ。好きなんだったらやるだろ? しかも相手はあんなに落とすのが簡単な司だよ? アキラの声と僕の声が混ざり合って僕を責める。
 助けて。僕は家に帰って布団にもぐり込んだ。誰か助けて。東京に、僕を助けてくれる人なんていない。司に検査の話をしなければ。でも司に会いたくない。司は僕を苦しめるばかりで、僕を助けてはくれない。友達なんかじゃない。
 少し泣いて、少し眠った後で、春樹カフェのメグさんの顔が思い浮かんだ。メグさんが茹でた、オリーブオイルでつやつや輝くアルデンテのスパゲティが食べたかった。僕もパスタはよく作るけど、食材の切り方や加熱時間が雑で、やっぱりプロとは全然違う。メグさんはブロッコリー一つに対しても微笑みを向けて調理する。包丁を動かす親指や、鍋を持ち上げる二の腕にも無駄がない。
 あの人は芸術家なんだ。客の口の中に消えてしまう儚い存在のために、持てる技術と情熱をありったけ注ぎ込める人。
「お腹空いた〜!」
 アキラと司の問題はとりあえず脳内から消去して(この決意をするの、二度目だ)夕飯を食べに春樹カフェへ行くことにした。
 まだ日が落ちる前で、お店には夜の営業の準備をするメグさんと周平さんしかいなかった。
「料理頼んでも良いですか?」
「もっちろん!」
 僕は調理の様子が一番よく見えるカウンター席を選び、厨房の中を楽しそうに飛び回るメグさんを眺めた。周平さんが運んできてくれた紅茶のカップと受け皿には、可愛い羊のイラストが描かれている。
 唇がカップに触れたところで、肩をポンと叩かれた気がした。振り向いても誰もいない。何だろう。あっ!
 それは店内に流れている音楽の、ピアノの音だった。メロディとメロディの隙間に合いの手のように入る不協和音。楽しげな曲なのに、ピアノだけが奇妙で不可解な、クラシックではあり得ない音の選び方をしていた。ジャズだと思うけど、現代音楽かもしれない。どちらにしろ僕には馴染みのないジャンルだ。
「今かかっている音楽は何ですか?」
 周平さんはCDのケースを持ってきてくれた。
「セロニアス・モンク」
 ぼんやりと物思いに耽る、黒人のおじさんのモノクロ写真。つまずくような、ぎこちないピアノソロ。いや違う。複雑なステップを完璧に踏んでみせたんだ。これが彼にとっても曲にとっても正解なんだと気付いて、自分の知らない音楽の扉が開くのを感じた。
「この曲のピアノ、すごいですね!」
 周平さんは瞳だけを天井に向けて、しばらくセロニアス・モンクの音楽を聴いていた。そしてCDのケースを開けて解説が書いてある冊子を開いた。
「このピアノを弾いているのが、セロニアス・モンクなんだよね?」
「僕に聞かれても困りますけど」
「うん、そうだ。ここにも書いてある。この人こんなに下手で、よくクビにならなかったね」
「下手というのとはちょっと違う気が……」
 確かに滑らかな弾き方じゃない。クラシックのコンクールだったら一小節弾き終えないうちに会場から追い出されるだろう。けれどもただ楽譜通りに音を出しているだけの演奏に比べたら、こっちの方が断然「音楽」だ。そういう「棒読み」の演奏は世の中に不思議なほどあふれていて、街の騒音の一つだと思っている。音楽もどきの音の連打は僕の耳を通過してゆき、心に何も残さない。
「お待たせ〜」
 メグさんは枝豆がたっぷり載ったパスタの皿をことりと置いた。
「メグさんはどう思います?」
「えっ 何が? 枝豆について?」
「このピアノ」
 僕が上を指差すと、メグさんは周平さんとそっくりの表情で音楽に集中した、と思ったらすぐに僕をにらんだ。
「早く食べて! 伸びちゃう!」
「は、はい」
 バジルソースと枝豆が意外に合っていて美味しい。僕が勢いよく食べ始めるとメグさんは安心したらしく、目を細めてしばらく無言になった。
「これは、シャンツァイみたいなものなんじゃないかしら」
「えっ、バジルじゃないんですか?」
 思わず口から枝豆を飛ばしそうになる。
「それはバジル。落ち着いて食べて」
 メグさんはクスクス笑って人差し指で天井を指した。
「シャンツァイはこのピアノのこと。たとえば白いご飯にシャンツァイだけかけて食べろって言われたら」
「不味そう」
「ご飯への冒涜だよ」
 周平さんはよっぽど嫌だったらしく、眉根を寄せて首を振った。
「でもお米の粉で作った麺に、鶏肉とナンプラー味のスープをかけて、ライムをしぼってシャンツァイを添えたら」
「美味しいですよね、フォー」
 春樹カフェではなくベトナム料理屋に行くべきだったかと一瞬思ってしまった。
「要はバランスなのよ。ご飯にシャンツァイだけだと青臭さが強く出ちゃう。フォーの中ならシャンツァイはうまみとつり合って目立ち過ぎない。全体で見たら丸く収まる」
「枝豆とバジルも美味しいです」
「美味しく作ってるもの。この曲だって音楽のことをよく分かってる人が上手い組み合わせを考えて演奏してるんでしょ」
「そうだと思います」
「ピアノだけ聴くとちょっと変な気もするけど、他の音と混ざるとけっこう心地好い気がするんだ」
 周平さんは腕組みして言う。
「メグが音楽を語れるなんて全然知らなかった」
「あたしも店でこんな曲がかかってるなんて全然知らなかった」
「えっ」
 僕と周平さんは同時にメグさんの顔を見た。
「料理と接客で音楽に耳を傾ける余裕なんてないわよ!」
「ごめん」
「すみません」
 僕たちは、家事で忙しいお母さんにわがままを言ってしまった子供みたいに縮こまった。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:23| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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