2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その25)

 会計の後で、周平さんはセロニアス・モンクのCDを何枚か貸してくれた。
「良いんですか?」
「これを返すためにまたお店に来てくれたら僕たちは得するんだから」
 家に帰るとすぐベッドに横たわり、部屋を真っ暗にしてセロニアス・モンクの音楽を聴いた。
「世界は不可解なことで満ちている」
 ピアノを弾く人間だけに通じる言葉でセロニアスおじさんは言う。
「世界は不可解で美しいことで満ちている」
 おじさんは言葉を和音にして追加する。
「そうかなぁ」
 僕はシーツの上で鍵盤を叩いて答える。
「世界は不可解で美しく悲しいことで満ちている」
「そこで僕はどうしたら良いの?」
 訥々とした、優しいピアノソロが始まる。
「世界は愛情で満ちている」
「たとえそうだとしても、誰も僕には愛情をくれない」
「もらえないなら、与える側になれば良い」
 僕の言葉に答えたのは、僕の右手だった。
「でも、それだけじゃ苦しい」
「本当に?」
 セロニアスおじさんのピアノの音はいつの間にか遠くなり、僕の右手と左手の会話が脳内に鳴り響く。いつもの曲よりしっとりと濡れていて、主旋律は収束のあてなく変奏され、気が付けば全く知らない和音を生み出している。
 好きだよ、司。
 夢の中で泣いたのか、実際に涙が流れたのか、覚えていない。

「ありがとう、翼」
 家で使う通信機器を買い換えたいという司に付き合って、新宿にある大きな電気屋さんに行った。
「僕、あんまり役に立たなかったし」
 理系らしいところを見せなくちゃと思って、同じ学科のコンピュータに詳しい人(理工学部には掃いて捨てるほどいる)に相談したり、自分でもネットで検索したり、色々準備して行ったのに、司は買うものをだいたい決めていたので僕の努力はおおむねムダになった。
「買い物は、単に誘う理由が欲しかっただけだよ。翼に会いたかったんだ。最近連絡ないからどうしてるのかと思って」
 そんなに僕が好きなら、やろう! 今すぐ! と心の中で叫ぶ。こういう恋愛じゃない愛の告白に対して僕はどう返事をしたら良いのか。
 答えが浮かばなかったから、何も言わずに電子ピアノのコーナーへ行って適当に弾いた。
「翼、怒ってる?」
「怒ってないよ」
「それなら良いんだけど。何か曲の感じがいつもと違うから」
 僕はピアノを弾くのをやめた。
「いつもと違う? どんな風に?」
「よく分からないけど、音が濁ったというか…… 悪くなったんじゃなくて、籠められている感情が、前と違うのかなぁと思って」
 ここのところセロニアス・モンクのCDばかり聴いていたから、影響を受けたのだろう。僕はちょっとしたイタズラを思い付いた。
「好きな人が出来たんだよ」
「えっ」
 司が少しでも傷付けばと思ったのに、全く表情が変わらず僕の方が傷付いた。
「すごく優しい人で、いつも僕を慰めてくれるんだ」
「ふーん…… おめでとう。付き合い始めたってことだよね?」
「ううん、片思い。相手、奥さんいるし」
「えっ、ダメだよ、そんなの」
「まあ仕方ないよねぇ〜 好きになっちゃったんだから」
「おじさんが好きな人って、大変だね……」
 司が暗い顔して深刻に言うから、僕はとうとう吹き出した。
「僕の家においでよ。好きな人の写真見せてあげる」
 駅ビルで九州物産展をやっていたので「いきなり団子」を買って帰った。
「これが僕の好きな人」
 いきなり団子と緑茶をテーブルに用意してから、セロニアス・モンクのCDを司に見せた。
「外国人なんだ……」
 司はCDを両手でつかんで真面目な顔で言う。
「まだ、だまされてるの?」
「えっ?」
「オレオレ詐欺とかに気をつけてね、司……」
 俺だよ俺、アキラだよ。二百万円振り込んでくれない? 司は何の迷いもなく振り込んじゃうんだろうな。勝手に想像しただけなのに心が疲れた。
 司はCDケースを開けて解説冊子を開いた。
「昔の人?」
「モーツァルトほどじゃないけど、もうずいぶん前に亡くなってる」
「これ空だけど、CDは?」
「プレーヤーに入ったまま。かけるね」
 司は頬杖ついて音楽に集中した。少しまぶたを落としてアンニュイな顔でいると、司は本当に格好良い。単純バカになんて全然見えない。僕はいきなり団子を頬張りながら司に見とれた。
「薄暗いバーでかかってそう」
「確かに最初に聴いたのはそういうお店だった。店員は明るいんだけど」
「俺、翼のいつもの演奏の方が好きだ」
 司は再び解説冊子に目をやった。
「この人、何か悩みがあるんじゃないかな。黒人に対する差別も今より激しかっただろうし、色々つらい思いをしてさ。だから音楽もちょっと歪んでるんだと思う。翼とは全然違うよ」
 僕はセロニアス・モンクに励まされてばかりいたから「悩みがある」という司の指摘は意外だった。セロニアスおじさんに悩みを打ち明けられた覚えはない。けれどももしかしたら、司は彼の音楽から別のメッセージを受け取ったのかもしれない。
「悩み」
「うん。翼みたいに幸せな人じゃないよ、きっと」
 司が僕を悩みも苦しみもない人間だと思いたがっているのは知っている。しかし僕の本当の姿を見てくれないことに、さすがに腹が立ってきた。……もう言ってしまおう。
「僕だって悩みくらいあるよ」
「えっ」
 司は真剣な目で僕の顔を覗き込んだ。
「どんな悩み?」
 僕は大きく息を吸い込んで、言った。
「駅前のコンビニで、アキラに会ったんだ」
 司は数秒固まってから、ふだん僕の前では絶対にしない、アキラに肩を抱かれた時だけ見せたとろける笑顔で、
「アキラ、元気にしてた?」
 と聞いてきた。
「アキラがそんなに気になるなら、着信拒否なんてしなきゃいいじゃん!」
 僕の言葉が司の心をすぱっと切った感触があった。再起不能になるまで司を切り刻んでやりたい。欲望が火柱みたいに立ちのぼる。
「司、エイズになってるかもしれない」
「え?」
「アキラが! エイズだったんだって! だから司も」
「それはないよ。俺、検査したから」
 髪を振り乱して怒鳴り散らす僕に対し、司は冷静に言った。
「アキラと会わなくなって三ヶ月後くらいに病院行った。他にも一度ヤバそうなことがあったから」
 他? 全身の血が変な風に巡るのを感じる。
「アキラと別れた後に、誰かとやったの?」
「アキラの前。その後はない。もう一生ないから心配する必要ないよ」
 僕を安心させるように笑って見せた司を、僕はどう思えば良いのか。うまく立っていられなくなり、気付いた時には膝をついて大声出して泣いていた。
「司は僕を、頭からっぽの人間みたいに思ってるけど!」
「からっぽなんて思ってない」
「ずっと、言わなきゃと思って……僕が教えなかったら、司、病気のこと知らないまま、死んじゃうって……」
 セロニアスおじさんの確信に満ちた和音が、僕の背中をぽん、と叩く。
「翼を悩ませていたのは俺だったんだね」
「アキラだよ! 司をこんなに傷付けて、病気の心配までさせて」
「アキラ、一人で大丈夫かな」
 僕が顔を上げると、司は遠くを見ていた。
「医学が進歩して前ほど怖い病気じゃなくなったみたいだけど、それでも不安だろうなって」
「アキラを気遣う余裕なんかない!」
「アキラが病気で苦しんでいると思うと、俺、何か、うまく呼吸が出来なくなる」
 こちらを向いた司と視線が合う。司は「僕用の」微笑みを浮かべた。
「俺、やっぱりまだアキラのことが好きなんだね。認めたくなくて、必死に頭から追い払おうとしてきたけど、どうしようもないんだ」
「知ってるよ、そんなの。今さらって感じ」
「こんなに好きなのにさ、アキラが困ってる時に助けられないなんて、馬鹿みたいだ」
「助けに行けば良いじゃん」
「出来ないよ。俺、絶対アキラに迷惑かける」
 司は自分のカバンからタオルを出して両目にぎゅっと押し当て、しばらく動かなかった。僕は手持ち無沙汰だったから、食べかけのいきなり団子を頬張った。司は震える声で、
「そのいきなり団子って、ヘルシーで美味しいね」
「ヘルシー」
「団子の概念が関東とは少し違うみたいだけど」
「概念」
 司は瞳を潤ませたまま、いきなり団子をもう一個食べた。僕たちはアキラの話なんて一切しなかった振りをして、その後の時間を過ごした。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:22| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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