2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その26)

 司に片思いし続けるのも、アキラに伝言を頼まれるのもうんざりだった。司とアキラから離れるにはどうすれば良いのだろう。司がアキラに対してしているように、僕も司からのメールや電話を着信拒否して、アキラと会わないように別の街へ引っ越そうか。
 引っ越すのは簡単だ。母親に、
「ピアノの弾ける部屋に住みたい」
 と言えば良いのだ。喜んで防音設備のあるマンションを見つけてくれるはずだ。僕が電子ピアノしか弾けない部屋に住むことに、母は猛反対していた。
「翼がピアノんなか家で暮らすなんて、海に沈めらるるごた気持ちたい」
 と半泣きになっていた。でも僕は音大に通う訳ではないし、ヘッドホンを付けて自分一人、音の世界に閉じ籠もる感覚が好きだったから、大学からの近さを優先して、演奏禁止の部屋を選んだ。
 実家と同じように居間の真ん中にグランドピアノがあれば、音量なんて気にせずに好きなだけ鳴らせるなら、司を呼んで、司が喜ぶようなメロディを次々奏でて、ピアノの音色を模した電子音なんかじゃなく、僕の打鍵の振動が直に震わせる、瞳を閉じた司のまつげと唇を思い浮かべて、想像なんだから裸にしちゃったって構わないよねって……司と縁を切る方法を考えていたんじゃなかったっけ?
 僕が着信拒否したら司はどう思うのだろう。傷付くのか、大して気にしないのか。孤独に苛まれて本格的に壊れる司が見えるようで、でも実際に壊れるのは僕の方なのかもしれない。

 結局僕は司と連絡を取るのをやめられなかった。時々会ってごはんを食べたり、うちに来てもらって一緒に勉強したり、ピアノを聴かせたり、清く正しく「友達」であり続けた。
 アキラとは不思議なほど会わなかった。久々に再会したのは大学四年の梅雨の日曜日。僕はまたメグさんのスパゲティが食べたくなって、ランチの時間に春樹カフェへ向かった。
 店内に入ると、
「あっ」
 サンドイッチをむしゃむしゃ美味しそうに食べているアキラと目が合った。
「何でここにいるの?」
 僕の声は明らかにアキラを非難していた。アキラは首を傾げ、のんびりと、
「まあ話し始めたら長くなる事情があれこれあるんだが…… とりあえず俺が今ここにいるのは、腹減ってるからだな」
「少し前までは空腹で、今現在は満腹になりつつある」
 アキラの前に座っている人が付け加えた。
「まあ正確に言えばそうだ。それにこの店の食いもんはどれもハズレなしだから」
 頬いっぱいにサンドイッチを詰め込んで、アキラはにっこり笑う。そうだった、この人は性欲だけでなく美味しいものへの欲望もけっこう強いのだった。メグさんの店を見つけて常連になってもおかしくない。自分のサンクチュアリに踏み込まれたようで絶望したが、メグさんの料理は僕だけのものではなくみんなのものだ。仕方ない。
「ねえ、アキラが傷付けたのってこの子?」
 アキラの前の人が頬杖ついたまま僕を指差して言った。
「バカバカバカ、違う違う違う!」
 アキラは焦った様子でその人と僕を交互に見た。深緑色のジャンパーを着た、アキラと親しいらしいその男は、小さな肩を震わせて笑った。
 アキラを本気で好きになってしまった司のことを、この二人は笑いものにしているんだ。怒りで血の気がすうっと引く。殴ってやりたかったがメグさんのお店で騒ぎを起こしたくないし、そもそも僕にはアキラをやっつけるだけの力がない。僕はジーパンをがりがり引っ掻いて耐えた。
「君、可愛いね」
 男の顔を見て、別の意味で血の気が引いた。目の下のくまが酷い。痩せているというより「やつれている」髪も肌もパサパサだ。何よりゾッとしたのは、その賞味期限切れの顔面に、美少年の面影があるところだった。何歳なのか分からないけど、たぶん若くはないのだと思う。格好良いおじさんにも普通のおじさんにもなれず、キラキラ輝いていた過去を想像させながら、どこにもたどり着けない。最初から不細工ならこんなに哀しい気持ちにはならなかったはずだ。
「自分の感情を全然隠せないんだね。大好きな友達のことを思い出すよ」
「七瀬さん? イタッ」
 醜い小男はアキラのおでこを指先でパチンと弾き、僕の方に向き直った。
「失恋したのが君じゃなくて良かった。こんな奴を好きになって傷付くなんてさ、末代までの恥って感じ」
 司を馬鹿にされるのは嫌だったが、末代までの恥には激しく同意だった。
「もしかして君、理系?」
「はい。何で分かったんですか?」
「服がダサいから」
 痛いところを突かれて、僕の顔は真っ赤になったのだと思う。小男はギャハハと嬉しそうに(メチャクチャ腹立つ感じに)笑った。
 僕は男が着ているジャンパーを見た。深緑色の布地は白っぽく色褪せて、袖口は伸びて広がり擦り切れている。僕の水色のパーカーは確かにダサいかもしれないけど、古くもないし破れてもいない。
「優しい顔してるから、生物系かな。ショウジョウバエにバナナ食べさせてそう」
「ハエなんか育ててません! 物理学科です」
「へえ。おれ電子工学科だったから、量子力学好きだったよ。懐かしいな。虚数がないと成り立たない世界」
 目を細めて微笑むその人の顔を、アキラがじっと見つめているのに気付いた。
「克巳。追加で何か頼む?」
「ううん、もう帰る。さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの 人間の世紀末」
 カツミと呼ばれた小男は独り言をつぶやきながら立ち上がった。アキラが二人分の荷物を持って後ろを付いてゆく。身長差があり過ぎて、まるで大人と子供だ。
 支払いをしたのはカツミだった。
「少なくとも僕の店では暴力を振るわないで欲しい」
 周平さんがいつもより低い声ではっきり言った。
「暴力?」
「アキラさんのおでこを叩いただろう」
「は? ただのデコピンじゃん」
「軽い気持ちでやったんだろうけど、相手はちゃんと痛みを感じるんだよ」
 カツミは下を向き、ガンッと音を立ててレジの下の板を蹴った。
「俺、ほんと大丈夫ですから!」
 アキラはへらへら笑いながら扉を押さえ、カツミは高慢ちきなお嬢様みたいに店から出て行った。
 周平さんはすぐに走り寄って来た。
「ごめんね、何か嫌なこと言われたでしょう」
「いえ……」
 遺伝子と電子工学って語呂が良いな。僕はぼんやり関係ないことを考えていた。
「アキラさんと知り合いなの?」
「はい。顔見知り程度ですけど」
 好きな人の好きな人、ではある。しかしアキラがどんな人間なのか、実際のところ全然知らない。
「アキラ、あのカツミって人の下僕みたいでしたね」
 周平さんは叱っていたけど、僕はアキラがデコピンされて清々したのだ。
「恋人同士らしいよ」
「えーっ あの二人が?」
 周平さんは何故か暗い顔でうなずいた。
「アキラのことだから、今だけなんじゃないですかね」
「それなら良いんだけど」
「気になるんですか?」
「見ていて何か感じなかった?」
 僕はあごに手を当てて、カツミの青白い顔と、ボロボロのジャンパーを思い浮かべた。
 周平さんはため息をついて言った。
「普通じゃないんだ、あのカツミという子は」


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「さよなら 遺伝子と電子工学だけを残したままの 人間の世紀末」は田村隆一の詩集「1999」からの引用です。


posted by 柳屋文芸堂 at 10:20| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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