2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その28)

「ねえ、これどういう意味かな」
 司はノートを開いて指差した。ちょっとカクカクした司の字が、罫線の上にびっしり並んでいる。神経質なのが一目で分かる書き方だ。

 あるものをXとして見ることは、それがXが行うあらゆる仕方で振舞うことを期待しうるだろうということを見ることなのである。その振舞いがXに期待されていることと一致しないことがわかれば、これ以上それをXとして見ることは難しくなる。

「回りくどい文章だね。何これ」
 僕はテーブルの反対側に座っている司にノートを返した。
「卒論を書くために前に取った授業の復習をしてるんだけど、ややこしくて」
「卒論、何やるの?」
「ブランドの分析」
「ブランドって、洋服とかバッグとかの?」
「高級ブランドだけがブランドじゃないよ。きのこの山もガリガリ君も全部ブランドだよ」
「ふーん……」
 経営学部と理工学部では勉強する内容がずいぶん違うんだ、ということしか分からない。しかしXを使っている所は数学みたいで親しみやすかった。
「一般化されているものは具体的な例を考えると理解しやすくなるよ。例えばXを『きのこの山』に置き換えてみたら?」

 あるものを「きのこの山」として見ることは、それが「きのこの山」が行うあらゆる仕方で振舞うことを期待しうるだろうということを見ることなのである。その振舞いが「きのこの山」に期待されていることと一致しないことがわかれば、これ以上それを「きのこの山」として見ることは難しくなる。

「『きのこの山』の箱を開けたのに、たけのこの形のチョコが入ってたら、もうそれを『きのこの山』として見ることは出来ない、ってことなんじゃないの」
「きのこ派の人たちは怒り狂うだろうね……」
「僕はどっちも好きだけど」
「食べたくなってきた」
 僕たちは勉強をやめて駅前のコンビニに向かった。夏の終わりの涼しい風が吹いていた。
「前にここでアキラに話しかけられたんだ」
「今日は平日だから会わないよ。仕事してる」
 司は「きのこの山」と「たけのこの里」のどちらにするか少し悩み、たけのこの方を手に取った。
「アキラってどんな会社に勤めてるの?」
「公務員だよ。練馬区役所の職員」
 一拍置いて、
「ええーっ!」
 僕は大声で叫んでいた。
「あのチャラチャラしたアキラが公務員! 僕の税金が!」
「翼、税金払ってるの?」
「消費税とか! 巡り巡ってアキラの給料になってるんじゃないの? よく知らないけど……」
 社会の仕組みについては小学生より無知だ。興味のないものは聞いてもすぐに忘れる。
「俺、そんなに驚かなかったけどな。アキラが区役所に勤めてることを教えてくれた時」
「あのアフロヘアで区役所に通ってるんだ……」
「天然パーマなんだよ。切るとパンチになるって」
 アキラの話をすると、司の声と表情はどんどん甘ったるくなっていく。
「性格も真面目だし」
「どこが!」
「恋人を作らないのも、考えようによっては誠実だと思うんだ。相手を束縛しないで、お互いの自由を尊重しながら関係を保とうとするんだからさ。俺は合わせられなかったけど……」
 僕は一度取り出したハーゲンダッツのいちご味を、冷凍庫に戻した。
「やっぱりアキラは誠実じゃないよ」
「俺を傷付けたから?」
「ううん」
 目をつむって深く息をし、言った。
「アキラには恋人がいるんだ」


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「あるものをXとして見ることは……」は田中洋「企業を高めるブランド戦略」の中で引用されている、ノーウッド・ハンソン「知覚と発見」の文章の引用です(ややこしい)


posted by 柳屋文芸堂 at 02:20| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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