2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その30)

 母親が電話口で息を切らし、
「木山先生が」
 と言った瞬間、僕の体は次に続く言葉を勝手に予測し、心臓がきゅうっとなった。
「施設に入らすて」
「死んだんかと思ったー!」
「体はお元気そうばってんが……」
 母は少し考えるような間を置いた。
「死って何だろか」
「そぎゃん急に哲学的なこつ聞かれても」
 母は再び無言になる。さっきより長い。
「木山先生の心臓はまだ動きよる。足腰も丈夫で、買い物に行こうとして迷子になってしまうとよ」
「認知症、悪化してしまったとね……」
 会うたび話のつじつまが合わなくなっていくのは感じていた。でも最後に会った時にはまだ一人で生活出来ていた。
「顔つきも変わってしまわして、いつもぼんやりしとって、不安そうで…… かつての木山先生はもうおらん気がする」
「心が先に死んでしまったってこと?」
「死んだというか、別のもんに入れ替わりよるごた…… ばってん」
 母は急に笑い出した。
「木山先生、翼んこつは忘れとらんばい」
「僕の話ばしとったと?」
「夜になっと翼さんが窓から入って来て、ピアノば弾いてくるるて。何の曲ば弾いたと?」
「ベートーヴェンの『月光』」
 母親は大笑いした。
「サンバを踊り始めるベートーヴェン!」
「僕、木山先生の家になんて行っとらんよ」
「分かっとるばい。先生ん頭ん中ではもう、現実と幻想ば隔てる壁が壊れてしもうて、だけんあたにも羽根が生えて、距離も気にせんで東京から熊本まで飛んで来る」
「先生、ピアノん弾き方も忘れてしもたっだろか?」
「それは大丈夫。遠い、たどり着けん場所への憧れに満ちた音楽が、いつでん聞こえてくるけん。前より弾く時間が増えたかもしれん」
「良かった」
「私、家族ん顔も自分ん名前も全部忘れてしもたとしても『熱情』の弾き方は体から消えんと思う」
「僕も『熱情』ば弾けんお母さんなんて見たくなか」
「木山先生の入る施設に、ちゃんとしたピアノはあっとだろか?」
 母の声は震えていた。木山先生がピアノのない暮らしをすることになるかもしれないと思うと、僕も泣きそうだった。

 木山先生のところに通っていた生徒はそれほど多くない。僕と、木山先生と同年代のおばあさんと、不登校らしい年上の女の子。お姉ちゃんは最初から別の教室だった。
 僕はよく木山先生とおばあさんの前でミニコンサートをした。
「モーツァルトんごたるね」
 と二人がはしゃぐから、僕はウィーンの宮殿に呼ばれた天才少年になり切って「トルコ行進曲」や「きらきら星変奏曲」を弾いた。
 女の子とはほとんど会わなかった。偶然同じ日にレッスンがあっても、僕が部屋のドアを開けた途端にぴたりと演奏をやめて、逃げるように帰ってしまうのが常だった。
「神経の細か子だけん。悪気はなかけん気にせんで」
 僕はその時「神経」と「悪気」という言葉を覚えた(しかし今でも不思議な単語だと思う)
 それから僕は、彼女がレッスンに来ていると気付いたら物陰に隠れるようになった。体が小さかったからどこにだって入り込めた。観葉植物の裏とか、掃除用具が収納されている棚の中とか。
 壁を挟んでくぐもったピアノの音が聴こえる。「トロイメライ」彼女の演奏はぎこちなく、どこかに帰りたくなるような旋律の空気を表現出来ていなかった。
「気に入った音だけ弾いてみなっせ」
 木山先生がそう言うと、彼女はトロイメライで使われていた音を分解し、前後もリズムもバラバラにして、別の音楽を奏でた。音楽と呼ぶには滑らかさが欠けていたかもしれない。しかしそれは元の曲とは比べ物にならないほど、彼女の心を表していた。顔を見るよりくっきりと、彼女の輪郭が浮かび上がった。
 こんな風に好きな音だけ鳴らして良いんだ。ピアノでは必ず知っている曲を弾かなければいけないのかと思っていた。心の中で暴れているこのうねりを、音の形にして外に出しても構わないんだ。
 僕は作曲のやり方を知ったというより、まだこの世に存在しない音楽を奏でても良いと、木山先生に許してもらったのだ。おそらくそれは、クラシックの名曲に魂を捧げているお母さんやお姉ちゃんには、絶対に出来ないことだった。

 大学卒業後、僕は大学院に進学し、司は飲料メーカーに就職した。お互い新しい環境に慣れた頃に、司の会社のそばにある店で一緒に食事をすることになった。スーツ姿というだけで眩しくて直視出来ないのに、
「翼に好かれるようにおじさんっぽくしたよ」
 なんて言っていたずらっぽく笑うから、顔がかぁっと熱くなって言葉を返せなかった。
「どこがおじさんなのか分かる?」
「え?」
「背広の裾を長くしたんだ。最近は短いのが流行りですよってお店の人に言われたんだけど、父親に似たシルエットじゃないと納得いかなくてさ」
 なんだ。それ別に僕のためじゃないじゃん。僕はがっかりしつつホッとした。
「司のお父さんはサラリーマンなの?」
「そうだよ。証券会社だからバブルの頃は良かったってよく嘆いてる」
 僕は子供の頃から「サザエさん」に出て来るマスオさんとアナゴくんが会社で何をしているのか知りたくてたまらなかった。机の上の紙には何が書いてあるのだろう。彼らはそれをどんな風に使ってお金儲けをしているのか。
 マスオさんが勤めているのは商事会社だっけ、と尋ねたかったが、司は「サザエさん」も怖がると思い口をつぐんだ。
「翼のお父さんは学者さんなんだよね」
「そう。だから背広を着てもサラリーマンみたいにパリッとしない」
「サラリーマンに憧れるって面白いよね。会社なんて仕方なく勤めるものだとばかり思ってたよ」
 僕は司の、まだ新しい灰色のスーツの袖口を見た。司は毎日嫌々ながら働いているのだろうか。
「仕事、大変?」
「大変になるようなことまださせてもらえないよ。バイトしてた時より貯金が増えて嬉しい」
 司は「いつもお世話になっているから」と言ってその日は奢ってくれた。スーツ姿の司は明るく元気そうに見えた。


posted by 柳屋文芸堂 at 02:17| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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