2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その33)

 就活用のスーツは恐ろしく似合わなかったけれど(まるきり七五三だった)幸い採用担当者は外見以外も見てくれたようで、修士二年の春のうちに内定が出た。司にもらったネクタイピンを付けて、時々相談にも乗ってもらって、僕は先に社会人になっていた司をずいぶん頼りにしていた。
「決まったよ」
「マジで? 理系すごい」
「頑張った僕を褒めてよ」
「院卒すごい」
「まだ卒業してない」
「いやほんと、俺の就職活動はもっと時間かかって大変だったよ。日本は科学技術の国なんだなぁ」
 司が「おめでとう」と言ってくれなかったから、僕も「ありがとう」と言えなくて、ちょっとムッとした。僕の就職活動だって僕なりに大変だったし不安だった。日本の主要産業なんてどうでも良い。
 就活中に何度か七五三の格好(紺のスーツ)のまま春樹カフェに行った。周平さんとメグさんは何も聞かず、見た目をからかうこともなく、いつも通り美味しい料理を出してくれた。二人に内定を報告したらきっと喜んでくれる。僕は春の終わりの夕暮れに、店のドアを開けた。
 メグさんが厨房ではなく客側のカウンター席に座って、泣いていた。高めではあるけれど男の声で、泣き方は過剰に女性的で、僕は知らない楽器を見るように、ほとんどにらむくらいの強さでメグさんを凝視した。
 周平さんが駆け寄ってきた。
「ごめん、そのうち落ち着くと思うけど、料理をすぐ出すのは難しそうだ。飲み物なら」
「メグさん、どうしたんですか」
 周平さんは暗い顔で言い淀んだ後で、何かに気付いたらしく僕の目を見た。
「君は克くんに気に入られていたね? アキラさんの恋人の」
「はい。……え?」
 カツミさんのパサパサな髪や、目の下の青黒いクマが頭に浮かんだ。擦り切れたジャンパーの袖口。遺伝子と電子工学。
「あの子が死んだんだよ」
 僕は一拍置いて叫んだ。
「用事を思い出したので帰ります!」
 店を飛び出て新宿三丁目の雑踏の中を、どうにか電話で話せる静かな場所はないかと小走りで探し回りながら、春樹カフェでかかっていた音楽のことを考えていた。終わりのない階段を延々と下り続けるような曲。ああ、あれは「ノルウェイの森」だ。いつもはジャズをかけていることが多いのに、何でビートルズなんか。
 空き店舗のシャッター前に小さな空間があるのを見つけ、僕は司に電話した。
「千載一遇のチャンスだよ!」
「せんざい? 洗剤がどうかしたの?」
「馬鹿! そこはどうでもいい! チャンスなんだよ。アキラの恋人が死んだんだ!」
 自分の声がらんらんと明るく響くのを感じる。
「恋愛にテクニックというものがあるとすれば、傷心に付け込んでかっさらうのは基本中の基本だよ」
 僕は出来なかったけど。司は何も言わない。
「さすがのアキラも絶対傷付いてる! カツミさんのこと、メチャクチャ愛してたんだ。見てれば分かった。世界にたった一つの宝物みたいに大切にしてた。そんな人が死んだんだよ? 今なら大魔王だって犯せる! 病気がうつらないようにさ、行きにコンドーム買っていきなよ。ローションも!」
 一息で言ったから苦しくて一回深呼吸した。
「聞いてる? ただ泣き続ける方が司はラクなのかもしれないけど、やっぱりこのままじゃダメだよ。この先何十年も『恋愛怖い』って言いながら、セックスしないで生き続けるなんて虚し過ぎる。少なくとも僕は嫌だ。ちゃんとアキラに好きだって言って、やってきな! あの日みたいに!」
「なんか…… よく分からないんだけど、アキラの恋人が亡くなったんだよね」
「そうだよ!」
「じゃあアキラ、落ち込んでるだろうね」
「心配してるふりして、優しいふりして、ぎゅうっと抱き締めるんだ。後のやり方は自分で考えて」
「でも俺」
「臆病風に吹かれて僕の家に来たりしちゃダメだからね。間違いなくアキラの家に行くんだよ。もう二度と、僕のところには来ないで」
 返事は聞かずに通話を切った。

 これは司のチャンスであり、僕のチャンスだ。アキラの隣に強力なマイナスの席が用意されたのだ。
「ここ空いたよ」
 ひらりと椅子から立ち上がるカツミさんが見える気がした。その席に司をなんとか押し込めて、僕は自由にならなければいけない。
 司と会えなくなった後、自分はどうなるのだろう。考えてみても上手く想像出来ない。司と頻繁に連絡を取り合い、会いたくなったらすぐ会う日々が当たり前になっていた。寂しい・苦しい・悲しい、という単語を頭に浮かべてみても、それはただの言葉でしかない。未来の日々は真っ白で、誰も、自分さえもいなかった。
 自宅に向かう電車の中でようやく落ち着いて、カツミさん、亡くなったんだな、と思った。最後に春樹カフェで会った時には、生きていて、笑ったり歩いたりしゃべったりしていた。当たり前だ。でももう心臓は止まり、体は動かない。呼びかけても何も答えない。
 メグさんはどうしてあんなに大泣きしていたのだろう。カツミさんと特別仲良くしていたか、思い出せない。僕の目からは全く涙が出そうになくて、僕は本当に冷たい人間なんだと思った。みんな僕が優しいと勝手に勘違いする。顔がのんきなのは性格と全く関係ないのに。
 カツミさんはいつ会っても不健康そうだった。何か病気……エイズ? アキラがうつしたのか、カツミさんがアキラにうつしたのか……


posted by 柳屋文芸堂 at 02:12| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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