2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その34)

 外で夕飯を食べてくれば良かったと、家に着いてから後悔した。母親が送ってくれた野菜でアイントップを作ることにした。実家でそう呼んでいただけで、単なる具沢山スープだ。じゃがいも、ソーセージ、にんじん、ベーコン、カリフラワーを切り刻み、大きな鍋に湯を沸かして次々投入してゆく。これを作っておけば数日間はパンを買ってくるだけで生きてゆける。飽きたらカレー粉で味を変えれば良い。
 これ以上具を入れたら煮こぼれるなというところでフタをし、火を弱火にした。テーブルの椅子に座り、時々アクを取ったりしながらぼんやりする。
 玄関のチャイムが鳴った。司だ。ふだんは聞こえない自分の心臓のドキドキが教会の鐘みたいに響き渡る。チャイムは短い間隔で三回、四回と繰り返され、宅配便の可能性は消える。あんなに強く言ったのに。きっと僕は心の奥で司を待っていた。だから空腹で力が出ないのに、二人で食べられるアイントップなんか作ってしまったんだ。
 居留守を使うべきだろうか。司に会いたかった。司と離れたくなかった。でもここでドアを開けたらカツミさんがくれたチャンスが水の泡になってしまう。
 一つの可能性が心をよぎる。僕がドアを開けなかったせいで、司が自殺をしたら。アキラのところへ行ってやれたとしても、アキラの心はカツミさんのものだ。そのことに司が耐えられなかったら。司はきっと冷静さを失う。恋をしているから。
 僕はあくまで人道的な見地によって、玄関のドアを開けた。はたして司は怖い顔をしてうつむき立っていた。
「もう、来ちゃダメだって……」
 次の瞬間、自分がどうなっているのか分からなくなり混乱した。僕は壁に体を押し付けられてキスをされていた。いやキスというより唇で唇を圧迫しているという感じだ。司は舌を前歯に引っ掛けて口を開けようとしてくる。僕は自分の歯で司の舌を傷付けるのが嫌だったから大きめに歯と歯の間を開いた。司の舌が僕の口の中でがむしゃらに暴れる。
 何なのこれ? アキラを犯せと言ったのに、家、間違えてる? これはキスなんだろうか。鼻が詰まっていたら窒息していた。風邪ひいてなくて良かった。僕の頭が「?」と雑念でいっぱいになっている間に、司は僕のベルトを外し(恐ろしく手際が悪い)ズボンと下着を下ろし、口に入れた。
 こちらはそんな気分じゃない上に火にかけたままの鍋も気になり舐め方も下手で全然反応しない。司は小さな声で、
「なんで……?」
 とつぶやいた。いや、こっちが聞きたいよ! 試しに司のを触ったら硬くなっている。もしかして、アキラの家で性的に興奮するドラッグを使ったのでは。
「仕方ないなぁ、もう!」
 僕は(手際良く!)司の服を脱がせ「昔取った杵づか」でささっと口でいかせた。司は泣き出すようなかすれた声を上げた。抱き締めると手足をきつくからめてきて、すぐに寝息を立て始めた。
 いったい何なんだこの人は。僕は服を着て手を洗い、鍋を見に行った。吹きこぼれることなく泡立ちながら野菜は平和に揺れている。ベッドから布団を持ってきて、下半身丸出しで床に寝ている司にかけた。
 いったい何が起きたのだろう? 司がアキラとやってからここに来たのだとしたら…… 気持ち悪くなって顔をしかめた。口でしたのは軽率だった。手を使えば良かった。エイズの心配もある。どうやって感染するんだっけ。
 司とやりたいとずっと願っていた。僕が寂しい夜に何度も何度も空想したのはこんな行為じゃない。カツミさんのクスクス笑いが聞こえる気がした。セックスなんて一人でするのが一番だよ?
 鍋に塩を入れて黒胡椒を振り、洗面所へ行って歯を磨いた。うがいを口が痛くなるほど繰り返しているうちに涙が出てきて止まらなくなり、顔も洗った。唇や舌が麻痺し、アイントップの味見をしても、それが正しい味なのか何なのか分からなかった。
「翼」
 突然、後ろから抱き締められ、ギャーッと叫んだ。
「火を! 使っている人を! おどかさない!」
「ごめん」
「パンツはいて!」
「あっ」
「手も洗って!」
 布団をめくり自分の服を探す司の背中に向かって、僕は、
「出て行け!」
 と、言うことが出来ない。
 僕が泣いてることなんかお構いなしに、司は馬鹿みたいな笑顔で聞いてくる。
「何作ってるの?」
「ドイツ風だご汁」
「何それ! でも良い香りしてる」
 全く納得いかなかったけれども、アイントップをおわんに注いでテーブルに並べた。
「野菜がやわらかくて美味しい」
「長く煮てたから……」
 味見で調節しなかったのに、ちょうど良い塩加減だった。舌の感覚は元に戻っていた。
「司、良くないよ。ドラッグなんて」
「ドラッグストアには寄らなかったよ。電話で色々買っていくよう言ってたけどさ」
 話がかみ合ってない。そもそもこの人と話がかみ合ったことがどれだけあったろう。
「アキラには会ってきたよ。意外と普通に話せるものだね。あんなに長い間、悩んでいたのに」
 司はスプーンにアイントップの具を山盛りにし、目を細めた。
「それで、アキラとやったの?」
「たぶん人に言っちゃいけないことだから、アキラ本人にこの話はしないで欲しいんだけど」
 僕は顔を上げた。司はおかわりして二杯目のアイントップを見ながら言う。
「アキラ、もう勃たないんだって」
「カツミさんが亡くなってから?」
「ううん、病院でHIVに感染してるって言われて、その後ずっと」
「薬の副作用?」
「分からない。治療しないのか尋ねたら、治したいって気持ちもないんだって笑ってた」
「事実上の引退宣言」
 司は吹き出した。
「翼って急に変なこと言うよね。スープ飲んでるのに」
「ごめん。アキラ、そんなに落ち込んでなかったんだ」
「ううん」
 司はテーブルの端っこの、何もない空間を見つめた。
「カツミさんの写真が飾ってあったんだ。自分には出来なかったことが、この人には出来たんだ、と思ったら悔しくなって、ちょっと乱暴にその写真を手に取ったんだ。そしたら」
 司の目が、見たことのない感じに潤んだ。
「『破らないでくれ!』って叫んで、泣き崩れて『カツミの体、まだこの世にあるのに、会いに行けない』って」
「カツミさんの」
 死体、と言いそうになり、慌てて適切な言葉を探す。
「遺体は部屋になかったの?」
「たぶん家族のところだよ。アキラとは結婚している訳じゃないし」
「僕たち、差別されてるんだねぇ」
「しみじみ言うことじゃないよ」
「ふだんあんまり気にしないから」
「翼はそうだろうね」
 僕が首を傾げると、司は僕の目を見て微笑み、アイントップを飲み干した。
「どうにかしてあげたかったけど、解決方法を思い付かなくてさ。前に翼が俺にしてくれたように『寝れば辛いことも遠くなる』って言ってベッドに寝かし付けたんだ。それからここに来た」
「僕の所に来ちゃダメじゃん」
「そうだね。アキラ、目を覚まして一人だったら余計に寂しいね」
 いや、そういうことじゃなく! 司との会話にイライラしつつ、僕もアキラのことが少し心配になってきた。
「二人で会いに行こうか」


posted by 柳屋文芸堂 at 02:10| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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