2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その35)

 家を訪ねても良いかメールで確認すると「今、この店に向かってる」と住所と店名が送られてきた。ネットで検索してみたら、ゲイバーではない南欧風のバルだ。
「隠れ家系の雰囲気」
「気晴らしに出かけたのかな」
「それにしてはちょっと遠いね。新宿で乗り換えなきゃいけない」
 最寄り駅は代々木上原。僕たちも電車で向かうことにした。さっきの変なキスみたいのは何だったの、と尋ねたくても外では出来ない。
「翼が来たらアキラ、きっと喜ぶよ」
「そうかなぁ……」
「俺と二人だとほんと、お通夜で。戦場で死体があちこちに折り重なっているのを見ても、翼だけはニコニコ笑ってそう」
「それはもはや敵だよね」
 バルは駅から十分ほど歩いた場所にあった。入り口の木の扉は潮風にさらされたようにざらっとしている。海辺の店というコンセプトなのだろう。
「住宅街で浮いてるね」
「隠れ家なんだか目立ちたいんだか」
 扉を開けると、薄暗い空間にソファーが並んでいる。しかしそこではなく、カウンター席の方にアキラの背中があった。近付いてゆくと、アキラより先に、隣に座っている人がこちらを向いた。
 僕はその瞬間まで「一目惚れ」というのは都市伝説か何かだと思っていた。見ただけで恋に落ちるなんて、実際にはある訳ないと。しかしその人は、筋肉質で背が高いとか、顔が渋くておしゃれだとか、そんな相対的でたわいない長所など吹っ飛ばしてしまう、絶対的に光り輝くおじさんだった。
 僕はそのままひざまずいて、爪先にキスをしたいくらいだった。そういう芝居がかった動作が似合う、派手な美男子なのだ。
「お前、他のことなんてもうどうでも良い、って顔になってるけど、この人、奥さんいるからな!」
 焦った声でアキラが言う。
「覚悟の上です」
「覚悟まで決めてる!」
 男は足を組み直し、頬杖をついて微笑んだ。全ての動きが計算されたように美しい。
「悪いな、お前の取り巻きを奪ってしまって」
「取り巻きじゃないです。友達ですよ。二人とも俺のこと心配して来てくれたんです」
 アキラと僕は友達だっけ、と一瞬思うが、そんなの本当にどうでも良い。僕の視界には隣の美しいおじさんしかいない。
「俳優さんですか?」
「テレビドラマや映画に出たことはない。演じることは時々ある。生きるために」
「こちらは七瀬さん。カツミの大学時代の同級生で、本業は研究者なんですよね」
「僕の父と母も、熊本大学で教授をしています!」
 共通の話題! 僕は七瀬さんに気に入られたくて必死に食い付く。
「ほう、すごいな。俺は一生教授にはなれないかもしれない。講師になれただけでもありがたく思ってるんだ」
「何を研究されてるんですか?」
「日本の伝統演劇。専門は歌舞伎だが、能の方が性に合っていて好きだ」
「僕、子供の頃、父親に連れられて水前寺公園の能を見に行ってました。外国で日本オタクに出会っても困らないように」
「翼、ここに何しに来たんだよ?」
「え? 七瀬さんを口説きに」
「残念ながら今日は時間がないんだ。アキラをカツミの家に連れて行かないといけない」
「アキラ、カツミさんに会えるんですか?」
 この店に来て初めて司が声を出した。
「俺が会わせる。母親は大体の事情を理解している。他の親戚がどう考えているかまでは分からない。侮辱を受けるかもしれない。それでも構わないんだな?」
「はい」
「俺の副業の話はするな。俺のためじゃなくお前のためだ」
「はい」
「七瀬さん、時間が出来たら一緒に能を見に行きましょう!」
 どうして僕はこんなに必死に七瀬さんを誘っているのだろう? ああ、七瀬さんの隣にも強力なマイナスの席があるのだ。そこは座っちゃダメ、というカツミさんの声が聞こえる。知るか。死んじゃった方が悪い。
 七瀬さんは黒い大きなカバンから名刺を取り出し、僕にくれた。かつて第一志望だった(でも落ちた)大学の名前が、古めかしいフォントで印刷されている。真ん中には「七瀬耕一」
 こーいち。
「前の彼氏と同じ名前だ」
「もしお前が嘘つきでないなら、そこに書いてあるアドレスにメールをくれ。ここの店のレモンチェッロは美味いから飲んでいくと良い。じゃあな」
 七瀬さんは一万円札をテーブルに置き、キャラメル色の薄いコートを羽織ってアキラと店を出て行った。コートの裾が描いた乱れのない楕円軌道と、形の良い大きな瞳が僕に送ったウィンクが、残像としてしばらく胸に残った。
「ウィンクする人って…… 現実にいるんだ」
 司が呆然とした声で言った。
「講師ってそんなに給料良くないんだよ。この一万円には十万円くらいの価値がある!」
「副業…… あの人、ホストなんじゃないかな」
「そっか。おばさんたちからお金巻き上げてるなら心配いらないね」
「いやいやいや」
「とりあえず注文しようよ」
 奥の団体客の相手をしていて僕たちの入店に全く気付いてない様子の店員さんに声をかけ、司はレモンチェッロ、僕はオレンジチェッロを頼んだ。
「翼、あのホストみたいな男にメールするの?」
「うん。デートしてくれるのかなぁ」
「お金を取られるかもしれない」
「バイト頑張るよ。ちょうど就職活動も終わったところだし」
「翼は田舎育ちのお坊ちゃんだから知らないだろうけど、東京には怖い人が沢山いるんだから」
「全くだよねぇ……」
 どんな凄腕のホストだって、司ほど深く長く僕を苦しめたりはしない。オレンジチェッロは甘く、香りが良くて、でもしっかりとお酒だった。飲みやすいからとぐいぐい飲んだら危ない味だ。
「ダメだよ、翼。あんな人のところに行っちゃダメだ……」
「レモンチェッロ美味しい?」
「美味しい。言われた通り美味しいのが腹立つ……」
 深刻に言う司がおかしくて、僕はきまぐれな猫みたいに体を寄せて、笑った。


posted by 柳屋文芸堂 at 02:07| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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