2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その36)

 僕は本当に七瀬さんと能を見に行くことになった。待ち合わせ場所の千駄ケ谷駅に行くと、七瀬さんは着物姿で待っていた。
「すみません! この格好じゃ能楽堂入れませんか?」
 普段着のTシャツとパーカーで来てしまったので、焦った。
「能楽堂にドレスコードはない。俺が和装なのは単なる趣味だ」
「烏帽子をかぶっていくべきかな、ってちょっと考えたんですけど」
「後ろの席の人に迷惑だろう」
 七瀬さんは真面目に答えた後で、ふふ、と笑った。着物姿なのもあって死ぬほど格好良い。頭がクラクラした。
 アキラほどではないけれど背が高く、品の良い青色の着物も目立って、すれ違う人たちもみな七瀬さんを見る。日没直後の夜空のような幻想的な青。宇宙が歩いているみたいだ。
「お前が熊本出身だというから九州の織物にした。熊本ではなく博多だが」
「僕の母方の祖母が福岡に住んでます。あと前の彼氏も」
「前の彼氏、前の彼氏って今の彼氏は大丈夫なのか」
「今の彼氏?」
 ととぼけつつ、司のことだろうなと察しは付いた。
「最初に会った夜に後ろにいた奴だ。お前があんまり俺にしっぽを振るから、物凄い目でにらまれたぞ。刺されるかと思った」
「大丈夫です。僕たちは物語に守られています」
 小さなビルが立ち並ぶ東京の風景が途切れ、唐突に和風の庭と建物が現れた。
「わぁ〜 能楽堂に入るの初めてです。劇場で劇を見ること自体、久々だなぁ」
 七瀬さんが僕の分のチケットを渡してくれる。
「物語に守られる?」
「司……その、今の彼氏に見えた人は、物語が怖いんです。劇場なんて近寄れませんよ」
 能楽堂の中は、ほのかにお香の匂いがした。
「物語が怖い」
「物語って、次に何が起こるか分からないじゃないですか。それが怖いみたいです」
「人生だってそうだろう」
「人生だけで充分なんじゃないですか」
「確かに」
 七瀬さんは司の病気を興味深く感じたようで、腕を組んでしばらく考え込んでいた。僕は座席表を見て自分の席を探した。前から三列目。舞台のすぐそばだ。
「屋内にある能舞台って、何だか窮屈ですね」
 天井の下に立派な屋根があるのが変だ。緑に囲まれた熊本の能舞台を懐かしく思い出す。
「まあ東京ドームみたいなものだ。許してやってくれ」
 そう言いながら七瀬さんは、ホチキスで留めたプリントをくれた。
「これからやる話のセリフと現代語訳だ」
「デートだと思って来たんですけど、授業ですね……」
「試験はしない。何を言っているのか分からなかったらつまらんだろう」
 僕たちが観たのは「菊慈童」という能だ。主人公は、山奥で七百年も生きている少年。舞台の真ん中に菊の花をお刺身のように飾り、歌声はお経の響きに似ていて、カツミさんのお葬式はどんなだったのかなと、ふと思った。
 少年は王様からもらった枕を、大切そうに抱える。司が帰った後の自分みたいで恥ずかしかった。主人公は不老不死で、そのことを寿ぎながら舞を舞う。山奥で永遠に少年のまま暮らすのは、幸せなことだろうか。七百年も生きていれば悟りを開いて「これはこれで楽しい」と思えるようになるのだろうか……
「すみません、途中少し寝ちゃいました」
「退屈だったか?」
「そんなことないです。ハッピーエンドなのに、寂しいお話ですね」
 七瀬さんは僕の顔をじっと見た。七瀬さんの瞳は本当に綺麗だ。タンパク質でこんな宝石めいたものを作り出すなんて、七瀬さんのDNAすごい。
「昔、克巳と歌舞伎を観たことがあった」
「デートですか?」
「いや、克巳と、克巳の恋人と俺の三人で、建て替える前の歌舞伎座に行った」
 七瀬さんは席を立ち、そのまま能楽堂を出た。
「入り口で写真を撮りませんか?」
「ネットに上げるのか」
「いえ、司をいじめるためにしか使わないのでご安心ください」
「どうしようもないな」
 穏便に済ましてくれよ、と笑いながら、七瀬さんは僕の肩をそっと抱き、携帯を持った腕を伸ばした。
「自撮り棒があれば……!」
「そんなものいらん。まあ背景を入れるのは難しいが」
 写真を見て僕は叫んだ。
「七瀬さんが僕のほっぺにチュウしてるー!」
「上手いだろう」
「チュウくらい本当にしてくれたって良いのに」
「刺されたくないからな」
「自撮り、慣れてますね」
「長く生きていると、思いも寄らない技術が身につく」
 七瀬さんは来た道を戻らず、千駄ヶ谷駅とは反対の方向に歩いていった。
「今日は悪かったな、付き合わせて」
「そんな、悪くなんてないですよ」
「克巳が死んでから少しおかしくてな。さすがにこたえたらしい」
 七瀬さんの横顔はバッハの旋律のように完璧で、何がどう「おかしい」のか読み取るのは不可能だった。
「俺にも一応、奥さんがいるんだ」
「家庭を壊す気はないので……」
「壊そうにも、家庭がない」
「えっ?」
 七瀬さんは表情を変えず、坦々と歩き続ける。
「籍は入れているが、一緒に住んではいない。時々彼女の家に行って、運が良ければ会える」
「運が悪いと会えない」
「そう」
「運が悪い時って、どんな時なんですか」
「赤ん坊が産まれている。産科医なんだ。大きな病院の産科部長で、難しい妊婦ばかり担当している」
「それは大変ですね……」
 立ち止まり、七瀬さんはこちらを向いて微笑んだ。
「彼女自身は誇りを持って働いているし、家のことは信頼出来る人に任せて、生活は滞りなく回っている。ただその中で俺は、おまけでしかないんだ。摂取する必要など全くない、チョコとか葉巻みたいなものだ」
「そういうのって、辛くないですか」
「まあ俺の人生は全体的に嗜好品なんだ。主食にはなれない。金は意外とふところに入ってくる。パンよりケーキの方が高いだろ?」
 子供の頃に旅先で食べたザッハトルテの味を思い出していた。あの時に僕は、苦いコーヒーがこの世に存在しなければいけない理由を知った。
「彼女との関係に、満足しているつもりだった。それなのに、克巳が死んだすぐ後、彼女にひどいことを言ってしまった。心の奥底でこんな風に思っていたのかと、口から言葉が出ていくのを、他人のように見ているほかなかった」
「僕はアキラに『殺してやる』と言ったことがあります」
 七瀬さんは体を小刻みに揺らして笑った。
「何をやったか知らんが、怨まれてるんだな」
「でもアキラは全然死ななくて、言葉は無力なんだと改めて思いました。きっと『死なないでくれ』と言っても、人は勝手に死ぬんですよ」
 あっ、とカツミさんがつぶやく。僕の勝ちだ、カツミさん。
「お前は言霊を信じてないんだな」
「言葉には、言葉としての力しかないと思います。文系の人は言葉の力を過信しているから、カツミさんみたいな人に呪いをかけられちゃうんです」
 七瀬くんに、ボクのこと考えてもらいたくて、命がけだったのに。カツミさんの声は子供のように甲高く、舌足らずで、僕の心の声と区別がつかない。
 七瀬さんはしばらくぼんやりと立ちすくみ、それから急に羽織を脱いで僕に着せた。絹だろうか。経験したことのない、しっとりした布の感触に驚く。
「克巳は若い頃、今のお前と同じくらい、可愛かったんだ」
「僕もカツミさんと同じように、醜くなるんでしょうか」
「克巳をボロボロにしたのは、失恋と、病気と過労と不摂生だ。せいぜいあの目つきの悪い男を大事にして、美味い飯でも食うんだな」
「やってます!」
 七瀬さんは目を細めて、僕に携帯を向けた。撮れた写真を見せてもらう。
「スーツを着ても、着物を着ても、七五三ですね」
「お前のことは何て呼べば良いんだ」
「呼び捨てで構いません。翼で」
「翼交わして濡るる夜は いつしか更けて水の音 思い思うて深見草」
「へっ?」
「そういう歌詞の唄があるんだ」
「僕の名前、オペラの歌詞から付けられたんです。『行け我が思いよ、黄金の翼に乗って』」
「有名な曲じゃないか」
「知ってますか?」
「ヴェルディの『ナブッコ』だ。オペラに詳しい訳じゃないが、基本は教わってる」
 僕は嬉しくなり、七瀬さんと手をつないだ。七瀬さんもいやがらなかった。
「夕飯は俺の馴染みの店で構わないか」
「良いですよ」
「村上春樹の作品に出てくる和食フェアとかで、すき焼きが食えるらしい」
「それってもしかして、メグさんの店ですか?」
「そうだ。俺はメグが角刈りだった頃から知ってる」
「角刈りぃ?」
「昔は男だったからな…… 今でも男なんだろうが」
 僕は七瀬さんのてのひらをぎゅっと強く握った。
「おそろいの着物を着て新宿三丁目を歩いたら、僕たち100%恋人どうしに見えますね」
「能フレンドなのに」
「彼とは能だけの関係」
 七瀬さんは笑って、でも七瀬さんが本当に手をつなぎたいのはカツミさんで、カツミさんの体はもう、二酸化炭素とカルシウムだ。
 僕の体が作り出すあたたかさは、カツミさんの皮膚の冷たさに勝てるだろうか。


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「翼交わして濡るる夜は いつしか更けて水の音 思い思うて深見草」は長唄「都鳥」からの引用です。


posted by 柳屋文芸堂 at 01:06| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
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